メキシコシティでの正月 2006年

 

 正月をどこか温かい所で過ごしたいと思い、JALに電話をしたら、南の国の年末年始はどこもいっぱいで、なかなかとれませんでした。でもメキシコシティなら座席を取れると言われ、そこで過ごすことにしました。ただし、行きの便がなかなかとれず、早い出発となり、長滞在になってしまいました。


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12月26日 成田からメキシコシティへ

12月27日 テオテワカン遺跡と寺院の見学

12月28日 ソカロ広場と人類学文化博物館見学

12月29日 美術館など、地下鉄を利用し市内観光

12月30日 観光マイクロバスにてチョルーラの遺跡など見学

12月31日 大晦日 風邪でダウン。熱が38度出た。終日ホテルで休養

 1月 1日 元旦。風邪から回復。午前、人類学博物館見学 午後、闘牛見学

 1月 2日 再度、市内見学に出かけたが全て休み。夜、高級レストランにてマリアッチ見学

 1月 3日 午前メキシコ発、バンクーバー経由成田へ




12月26日 成田からメキシコシティへ

 JALが週2回、月曜日と木曜日に成田からメキシコシティへの直行便を運航しています。
 所要時間は15時間ですが、途中、カナダのバンクーバーで、1時間半ほど駐機し、そこで、パイロットや乗務員が全員交代します。
 成田発は17時20分ですが、日本とメキシコシティ間の時差は15時間なので、成田を出発したと同じ時刻に到着します。
 ホテルはホテル日航にしました。
 



メキシコ

 メキシコの国土面積は日本の5.2倍で、世界では14番目とかなり広い国です。
 人口は1億2千万人と、ほぼ日本と匹敵します。GDPは日本の2割程度ですが、それでも、世界ランキングでは14位ですから、経済規模の大きい国に入ります。
 メキシコシティは5000m級の山々に囲まれた標高2200mの盆地にあり、人口は2200万人と世界有数の大都市です。
 スペインの国旗 
 スペイン人がアステカ王国を滅ぼし、スペインの植民地を建設しましたが、1821年、母国スペインから独立戦争に勝利し国際的に独立しました。
 その時、国旗を設定しましたが、その中央には、アステカ国家の紋章を取り入れました。



        
12月27日 ティオテイワカン遺跡(世界遺産)と
                 グアダルーペ寺院観光
 

ティオテイワカン遺跡観光

 早速、次の日から観光開始です。ただし、出発は午後2時のツアーでした。

 以前、一度、ティオテワカンの遺跡の観光をしていますが、家内は初めてです。
 このツアーは前もって日本で予約しておきました。
 現地の運転手と日本人のガイドさんによるツアーですが、私たち以外にも、日本から来た3名の観光客がおり、合計5名での観光となりました。
 テオティワカンはメキシコ市より北東約50kmの所にあり、マイクロバスにてサボテン畑の中の道路を走っていると、1時間弱で巨大なピラミッド群が現れます。

  

 この遺跡は新大陸最大の規模を誇る遺跡で、1987年、世界遺産に登録されています。
 この遺跡の中央には、「死者の大通り」と言われる幅45m、長さ4kmと飛行機の滑走路並の道路が走っており、その周辺に、高さ65mの太陽のピラミッド、高さ46mの月のピラミッドがそびえています。その他ジャガーの宮殿、ケッアルババロトルの宮殿などがあり、それらは全てお祭りのための神殿として建造されたと言われています。ただし、文字記録がないため、誰が何のために築いたのか、本当のことは分からないそうです。
 この遺跡は紀元前2世紀ごろ建設されたと言われ、西暦350〜650年ごろ、約20万の都市であったらしく、神官を頂点に、軍人、商人とかいう階級もあったそうです。その後、7世紀半ば頃、何故か都市が消滅しまい、彼らがどこに消えてしまったのかは今も解明されていません。
 14世紀に中央高原に進出してきたアステカ人がその廃墟を発見し、この地のピラミッドから太陽や月が生み出されたと考えました。そして、神々が集う場所を意味するテオティワカンと名付けました。以来、この地は再び繁栄して行きました。
 途中、有料の高速道路を走ります。

 

 テオティワカンの町は海抜2400mの高原盆地に建設されました。
 最盛期は200〜550年頃で、5qx5qの区画に約3600の建物と推定20万人以上の人口を抱える大都市となりました。
 しかし、600年ごろになると、干ばつや外敵の侵略、王政国家に対する内乱などにより滅亡し、14世紀、アステカ人がこの遺跡を発見するまで、眠り続けました。



入り口付近の土産屋



ケツァルコアトルの神殿

 この神殿には中央アメリカでもっとも重要とされる神が祀られています。



二つの神の頭の像

 この神殿にはテオティワカンの主神と考えられる2種類の神が飾られいます。一つは羽毛のある蛇を意味するケツァルコアトルで蛇行して流れる川の水のように生命をもたらす神として神格化されました。下の右側の像です。
 もう一つの神は水の神のトラロックです。ぎょろりとした目とジャガーの牙を持ち、地下世界を支配している神です。左側の写真のぎょろめの顔の像です。



月のピラミッド       

 まずは一番奥にある月のピラミッドへ向かいました。
 その高さは46m、底辺は150mです。太陽のピラミッドよりは200年も後の西暦300年ごろに建造されました。
 ピラミッドの前には月の広場があり、重要な儀式は、ここで行われました。すなわち、太陽のピラミッドよりも重要視されていました。
 頂上まで登りましたが、標高が2400mもある高地なので、息が切れます。



月のピラミッド頂上から

 死者の大通りの左側には太陽のピラミッドが見えます。また、幾つもの低い祭壇も見えます。
 これらの祭壇の上では、宗教舞踏が演じられていました。特に満月の夜は盛大だったそうです。 
 ガイドさんが下りるのを手伝ってくれました。

 

 死者の大通りを通り、太陽のピラミッドに向かいます。
 月のピラミッドから太陽のピラミッドまでは、600mもあります。



太陽のピラミッド

 アステカ人は廃墟となった巨大なピラミッドを目にし、神々が太陽と月をここから作り出したと考え、太陽のピラミッドと名付けました。アステカ人にとって、太陽は信仰の中心でした。
 高さは65mで、その高さは世界第3位です。(1位と2位はエジプト)
 階段だけでも248段あります。高さではエジプトのピラミッドに劣るものの、その容積は世界一です。
 このピラミッドは西暦100年ごろに建造されました。当時は頂上に木造の茅葺屋根の神殿がありました。
 完成までに、一日数千名の労働者を使っても50年は必要だったと推定されています。
 1971年、このプラミッドの中心部の下から天然の洞窟と宗教色の強い器物が発見されており、ピラミッドの建設以前から、神域として崇拝されていたようです。
 頂上まで登ってみました。遠くに月のピラミッドが見えます。


グアダルーペ寺院

 帰りに、市内北部にあるグアダルーペ寺院を見学しました。
 カトリック3大奇跡の一つである 「グアダルーペ聖母の奇跡」 の中に現れる褐色の聖母が祀られており、ラテンアメリカのカトリック信者の聖地とされています。
 グアダルーペ聖母の軌跡とは、スペインがアステカ帝国を滅ぼした10年後の1531年、光り輝く褐色の聖母が先住民の前に現れ、この地に教会堂を建てるようにお告げがあり、先住民はそれをスペイン人の司祭に伝え、司祭は新大陸にも守護聖母が現れたとその奇跡を喜び、聖母を祀った寺院を建立したことによります。
 茶色の屋根を持つのが1709年建設の旧聖堂で、地番沈下により傾きが発生し、1976年、薄青色の屋根を持つ新聖堂が隣に作られました。この2万人も収容できる新聖堂はメキシコ・カトリックの象徴的主座になっています。


旧聖堂

 ローマ法王の訪問を記念して、法王の像が作られました。


 熱心な信者が膝を地面につけ教会へと向かっていました。すれ切れて血のにじむ膝の痛みに耐えながら進むのが信仰心の強い表れだそうです。


黒い髪と褐色の肌の聖母

 褐色の聖母の前は、立ち止まらないように、動くベルトに乗って進みます。写真はOKでした。
 メキシコの原住民やペルー人など、何か、祖先は日本人と似ています。
 人類はアフリカで生まれ、アジアを経て、当時陸続きであったアラスカから北米大陸に渡り、その後、南の方へ広がって行ったので、ヨーロッパ人よりはアジア人に似ているのでしょう。


レプリカ

 近くで間近に見ることが出来るように、レプリカが置かれていました。


 夕食は日航ホテルで中華料理でした。



          
12月28日 ソカロ広場と人類学文化博物館見学

 午前中、歩ける範囲の市内観光をしました。多くの交差点には、高く立派な記念塔が立っています。
 下右の写真は、ホテルから見る市内の風景です。昨日よりも空気が澄んできたようです。クリスマス休暇が続いているせいでしょうか。
 ホテルの部屋からの眺めです。
 メキシコシティは世界最大級の人口を持つ都市で、そのためか、空気がかなり淀んでいるのには驚きました。
 ただし、今日はだいぶ良くなりました。


 ホテル日航は市の中心からは少し離れていますが、周りには大型のホテルが幾つもあり、また、隣には公園や人類学博物館などがあります。


 歩ける範囲で市の中心に向かって歩いてみました。下の写真はホテルを出てすぐの公園に沿って走る道路です。


 大通りに出ると、約1kmおきに巨大な交差点があり、その中心には記念の塔が建てられていました。


 午後はガイドを頼んで、ソカロ広場などを見学しました。その後、人類学博物館も訪れました。


ソカロ広場

 まさにメキシコシティの中央にある広場です。この地は、アステカ帝国時代から神殿に囲まれた重要な場所でした。
 16世紀、スペインがアステカ王国を倒したあと、それらの建物を破壊したり埋め立てたりして、代わりにスペイン風の宮殿や大聖堂を建設しました。
 この広場は1辺が約150mの四角の広場で、車は入れません。
 


国立宮殿

 ソカロ広場の東側にある国立宮殿はスペイン軍を率いて征服したエルナンコルデスが1523年に建てた宮殿で17世紀に大改築がなされています。
 その中には、国民的画家ディエゴ・リベラが、アステカ時代から現代メキシコまでを描いた巨大で雄大な壁画があり、リベラの最高傑作と言われています。
 アステカ王国は他の都市に次々と戦争を仕掛け、16世紀初めにはメキシコ湾岸から太平洋側まで広大な都市を支配しました。しかし、1519年、たった500人のスペイン兵がアステカ王国の都に乗り込みました。アステカ九代目の王は彼らを宮殿に向かい入れます。しかし、スペイン人はアステカと敵対する周囲の先住民を味方につけて、1521年、スペインがアステカを征服し、わずか2年でアステカ王国を滅ぼしました。
 スペイン人は神殿を破壊し、あえてその上に西洋式の教会や宮殿を次々と建てて行きます。そして、人々にキリスト教への改宗を勧めました。その結果、アステカ文明は闇に葬られ、未だなぞの部分が多い状態です。


テンプロ・マヨール

 1913年、大聖堂のすぐ近くにアステカ遺跡の一部と思われる地下へ続く階段が発見されていました。
 1979年、電力会社が地下ケーブルの工事を行ったところ、作業員が直径4mで、8トンもある大きな石の円盤を見つけました。その円盤にはアステカの神話に現れる月の女神が彫刻されていました。それをきっかけに遺跡調査が開始され、数々の遺跡が発見されました。
 それにより、ここはアステカ帝国の都テノチティトランの中央神殿であることが解明されました。この神殿は7回も増改築され巨大化して行きました。
 その神殿ピラミッドは一辺が82m、高さおよそ45mで頂上には太陽の神と大地に富をもたらす雨の神が祀られていました。


大聖堂

 ソカロの北側にあるメトロポリタン・カテドラルはメキシコにあるすべての教会を統括する大教会で、ラテンアメリカ最大級の建築物です。100年以上の歳月を掛け、1681年に完成しています。ヨーロッパ建築様式の大聖堂です。


人類学博物館

 まだ、時間があり、ホテルの隣の人類学博物館へ行ってみました。幾ら見ていても飽きない博物館です。
 メキシコの広い地域から集められた、いろいろの時代の遺跡が分類されて飾られています。
 テオティワカンで見た水の神のトラロックです。ぎょろりとした目とジャガーの牙を持ち、地下世界を支配している神です。
 テオティワカンで見た羽毛のある蛇を意味するケツァルコアトルで、蛇行して流れる川の水を意味し、生命をもたらすと言われる神です。
 これらの遺跡にはマヤ文字が刻まれています。
 メキシコ人がマヤ人を征服する前は、当然ながらマヤ人たちはマヤ語を話していました。そして、この複雑な文字を理解し、かつ、書き入れる高度の文化を持った人たちがたくさんいました。
 しかし、メキシコ人は、これらの人にスペイン語を話すよう強要し、かつ、マヤ語の文献をことごとく処分させてしまいました。
 数百年も過ぎると、マヤ文字を理解できる人が完全にいなくなり、謎の文字になってしまいました。
 しかし、現在、考古学者により、ほぼ完全に解明されつつあります。
 密林に住んでいたマヤ人は、高度の文字と数字を持ち、マヤ人の暦は西洋の暦よりもはるかに正確でした。例えば1年の日数を365.242日であることを知っており、西洋人の日数 365.25日よりも正確でした。
 これはパレンケの碑文の神殿から発見されたパカル王のヒスイの仮面です。
 パレンケの神殿は地下に墓を作り、王様のお墓がつくられています。
 博物館の中には、実物大の模型が作られ、数々の遺物が飾られています。
太陽の石 アステカ・カレンダー
 直径3.6mの円盤の中央には太陽神が彫られ、その周りには4つの太陽神が刻まれています。
 現在は5つ目の太陽神によりこの世が作られ、いつかはその太陽神も滅びてしまうので、それが永らえる様、生贄に捕虜の心臓を取り出し、お祈りをしたそうです。
 アステカ人の神秘的な宇宙観を表しているそうです。
 この石はメキシコシティの地下で発見されました。



 ホテルから見たメキシコシティの夜景です。だいぶ空気が澄んできました。


          
12月29日 メキシコ市内名所見学

 今日は1日、地下鉄などを利用し、市内の名所、美術館などを尋ねました。
 地下鉄の乗り方など、周りの人に尋ねると、親切に教えてくれました。

 ホテル日航の後ろ側には幾つもの有名ホテルが続いています。地下鉄乗り場の方に歩いてゆくと、なぜか、道路脇にはたくさんの牛の像がつくられていました。面白そうなので、カメラにおさめました。

 

 タクシーを使わず、地下鉄に乗っての観光です。地下鉄を使うと、地図を見るため町の地形が良く分かります。


三文化広場

 この広場の周りには、アステカ時代のトラテロルコ遺跡、16世紀建造のサンティアゴ教会、それを囲むように現代的な高層団地が建っているので、三文化広場と名付けられました。



美術館など市内散策



         
12月30日 プエブラとチョルーラの遺跡観光 


 今日は、プエブラとチョルーラの遺跡観光ツアーに参加しました。
 プエブラはメキシコ市の東、120kmのところにある歴史地区で、世界遺産にも指定されています。

  

 途中、メキシコで2番目に高い活火山ポポカテペドルが見えます。標高は5426mと、富士山よりははるかに高い山です。



プエブラ(世界遺産)

 プエブラは人口130万人を超える大都市です。その中心にある歴史地区には、植民地時代のたたずまいがそのまま残っています。
 また、幾つもの歴史ある教会が点在しています。



カテドラル

 1575年に建設が開始され、1649年に完成しています。二つの鐘楼を持ち、メキシコの代表的な教会です


サントドミンゴ教会

 1571年に建設が開始され、1647年に完成しています。


 教会内部は、きらびやかな黄金の内装が施され、ありとあらゆる宝石がちりばめられているといわれるロザリアの礼拝堂があります。
 世界8不思議のひとつと言われています。


 ロザリオの礼拝堂です。1690年に完成しています。
 壁面から柱、聖壇まで、すべて精巧な浮彫で装飾されており、それらは金箔で覆われています。また、主聖壇のマリア像が被る黄金の冠には、ありとあらゆる宝石がちりばめられています。荘厳さがかもし出された見事な宗教美術です。
 あまりの豪華さと美しさに身震いを感じたのを覚えています。



プエブラの市内散策

 スペイン風の、昔の面影をしのぶ街で、お土産屋さんも並び、一角では陶器で有名なタラベラ焼の実演もしておりました。
 昼はビールとメキシコ風の食事をしてみました。



チョルーラ(世界遺産)

 チョルーラはプエブラから西へ約10km行ったところにあります。


 
 午後はチョルーラの遺跡の見学です。
 遠くの丘の上に橙色の教会が見えます。この教会はピラミッドの上に建てられているのだそうです。
 単なる丘と思ったのですが、ピラミッドだとは驚きです。このピラミッドは一辺が439m、高さが60mもあるアステカ時代(紀元5〜8世紀)に建設された大神殿です。
 地下道を作りピラミッドの中を調べたそうですが、お墓は見つけられなかったようです。すなわち、メキシコ地方のピラミットはお墓ではなく、お祈りやお祭りのための祭壇として作られたと考えられるそうです。



 頂上に作られた聖母教会へ登ってみました。
 小高いので周りの景色をよく見ることが出来ます。
 遠くにポポカテペドル山が見えます。



        
1月1日 メキシコ市での元旦

 午前中、再度、ホテルから歩いて10分ほどにある人類学博物館に出かけて、じっくりと見学しました。元旦にも拘わらず、開館していました。
 太陽の石「アステカカレンダー」には地球を襲うであろう大きな災いが4つ描かれており、すでにその3つは実際に起こっており、残る1つは超巨大な風水害だと言われています。何か予感が的中するようで不安になります。
 この博物館にの作品は、何度見ても飽きず、その素朴さに惹かれ、また来たくなります。 
 昨日は38度もの熱が出てダウンし部屋で寝ていたのですが、今日は元気になりました。
 でも、食事は部屋で取っていました。
 家内と新年を祝いました。



人類学博物館

 昔来た時と4日前に来た時を入れて、今回が3度目の訪問です。
 マヤ遺跡が再現されています
 いろいろな時代の風俗などが展示されています

 素朴な人形や、捕虜の心臓を取り出し、生贄の儀式に使用した器など、いろいろなものが飾られています。 
メキシコ古代文明の母ともいわれるオルメカ文化の部屋に、巨大人頭像が置かれていました。
 このような人頭像がたくさん発見されているそうです。



マヤの部屋

 パレンケの王の墓が実物大で再現されています。


古代都市エルタヒンの祭

 ホテル近くの公園でサーカスのような催し物がされていました。見物人はあまりいません。
 これはメキシコに残る伝統的催し物だそうです。
 鳥を思わせる晴れ着を着た5人の若者たちが地上で儀式の踊りをした後、ロープを使い、てっぺんまで登ります。
 一人は木の先端に立ち命綱も付けず笛と太鼓で踊りを踊っています。4人の男たちはさかさまになってぶら下がり、回りながらだんだんと降りてきます。


闘牛見物

 午後は闘牛を見物に出かけました。午後4時ごろからの開始です。
 コスチュームを身にまとい、赤い布を持った闘牛士や、馬に乗りや槍を持った闘牛士、音楽とラッパによる大きなファンファーレ、うまく倒したたときの大きな歓声と、失敗したときのブーイング、これらが6回ほど行われ、終わりは7時頃になりました。
 闘牛士は、夏はスペインで働き、冬はメキシコで働くそうです。
 この数週間後に、牛が暴れ、観客席に入って怪我をさせたとの報道がありました。まさにこの闘牛場でしたが、テレビを見ていてこの風景を思い出しました。



       
1月2日 メキシコ市内のレストランでマリアッチ鑑賞

 再度市内見学に出かけましたが、ほとんど全てが閉鎖されていて、公園内にも入れず、仕方が無いので、部屋で休養となりました。


 スモッグがなく、空気はかなり透明です。
 いよいよ、明日は帰国です。家内はトランクの整理を始めました

 
 夜、メキシコでは有名な高級レストランへ出かけ、マリアッチを聞きながらの食事でした。
 私たちを見つけると、「川の流れのように」と「上を向いて歩こう」を演奏してくれました。
 日本人は他に誰も居なかったので、私も大きな声で歌いました。チップをはずみました。
 


 追記 家内が JAL の機内誌 SkyWardに投稿したら 2007年11月号に採録され3000円分の図書券を頂きました。





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