イタリア 5大都市めぐりの旅

2006年11月
                           
 イタリアのミラノ、ベニス、フィレンツェ、ローマ、ナポリを巡る超格安のツアーを利用してみました。
 イタリアへは過去、かなりの回数出かけていますが、今回もそれなりに楽しむことが出来ました。
 ただし、バチカンの見学が含まれていなかったのはがっかりでした。
 訪問地の地図です。全てバスで移動しました。


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 内容とリンク先を下に示します。

1日目 イタリアへ
2日目 コモ湖とミラノ観光
3日目 ベネチア観光(世界遺産)
4日目 フィレンツェ歴史地区観光(世界遺産)
5日目 シエーナ地区とローマ市内見学(両方とも世界遺産)
6日目 ポンペイの遺跡とナポリ海岸の見学(両方とも世界遺産)
7日目 帰国
8日目 帰国



      
1日目 イタリアへ

 今日はスカンディナビア航空でコペンハーゲンを経由し、ミラノの北47qにあるコモ湖近くのホテルへ向かいます。
 成田からミラノへの直行便はないので、どこの航空会社を使っても飛行時間はそれほど変わりは無いかも知れません。実際の飛行時間は成田からコペンハーゲンまで11時間35分、乗り継ぎ時間はわずか50分で、コペンハーゲンからミラノまでは2時間でした。したがって、合計時間は約14時間半程度になりました。
 空港からコモ湖までバスで約40分で、コモ湖のホテル到着は午後9時少し過ぎになりました。


       
2日目 コモ湖とミラノ観光
 
 格安ということで、ある程度は覚悟していたのですが、朝食はなんとパンとジャムとコーヒーとジュースだけでした。
 普通ならあるハムやチーズは付いていません。
 別なツアーの人たちにはちゃんとハムやチーズが付いているのですから、何とも、びっくりでした。
 もっとも、イタリア人の一般的な朝食はこのようなものだと聞いたことがあります。



コモ湖畔
 朝食後、午前中はコモ湖の見学でした。コモ湖はイタリア湖水地方の入り口にあり、紅葉の名所で、また、避暑地として有名ですが、この時期はもうガラガラでした。湖畔を散策し、ガヴール広場に出て、そこで自由散策でした。



ミラノ

 午後からはミラノの観光です。人口は約130万人ほどで、北部イタリアでは最大の都市で、商業、工業、金融の中心であり、観光地としてもゆうめいで、レオナルド・ダ・ヴィンチェが描いた最後の晩餐や、ミラノ大聖堂、オペラの殿堂スカラ座、ガッレリアなどが有名です。



ミラノ城(スフォルツェスコ城)

 ミラノ旧市街の北西部の広大なセンピオーネ公園の入り口に立つスフォルツェスコ城です。ミラノ最大のルネッサンス建造物です。4隅の櫓(やぐら)を1辺200mの城壁がつないでいます。
 14世紀に建てられていますが、歴代の君主たちは改築を加え、17世紀にはヨーロッパでも1,2を誇る堅固な要塞となりました。
 ミラノはイタリアへの玄関口でもあり、昔から北イタリアは勢力争いの絶えない地域だったのです。



ミラノの広場

 ミラノには大聖堂前のヴィットリオ・エマヌエーレ2世騎馬像ある広場やレオナルド・ダ・ヴィンチの像のあるスカラ座広場など、たくさんの広場があります。



ガッレリア 

 1877年に建築されイタリアの初代国王である、ビットリオ・エマヌエーレ2世の名がつけられています。
 ミラノはファッション、デザインなど、さまざまの先端を走る街です。このアーケードはルネサンス風の豪華な装飾で飾られ、天井近くにはミラノから見たアジアやアフリカなどの異国の風景が描かれています。



ドゥオモ

 この大聖堂は世界最大のゴシック建築でもあり、5世紀もの歳月をかけて1813年に完成しています。まさに、ミラノの街のシンボルです。天
 このドゥオモは高さ158m、幅93mと、その規模はローマのサン・ピエトロ聖堂の次に当たります。
 外装は2245体の聖者像と135本の小尖塔で飾られています。まるで、おとぎの国の建物のようです。
 中央の最も高い尖塔は高さが108.5mで、その天にも伸びる鋭い尖塔をたどって行くと、美しいマリア像が飾られています。あまりにも高いので良くは見えません。


 ホテルはベニス近郊の町でした。


      

3日目 ベネチア観光(世界遺産)

 ベネチアの町は、海に浮かぶ人口の都です。ベネチアと本土とは3kmのまっすぐな橋で結ばれ、鉄道や高速道路が走っています。
 ベネチアの町に入ると、広い駐車場があり、その先は歩くか水上バスなどの船で移動するかになります。
 乗ってきたバスは大きな停留所に停まり、海上バスによりベネチアの中心地に向かいます。
 ベネチアには過去2度ほど訪れていますが、下の1枚目の地図のバドヴァは、初めてベネチアに来たとき、予約したホテルに泊まれず、やむを得ずレンタカーを借りそこまで行って宿を取った思い出の地です。海外運転免許証をたまたま持参していたので助かりました。イタリアはいい加減な所だとつくづく思った経験があります。
 2度目は光通信関係の学会でした。その時は約1週間滞在し、毎日、島の中心から船でサン・ジョルジョ・マッジョーレ島まで通いました。船の通勤は如何に不便か、とても私はここでは暮らせないというのが実感でした。



ベネチア

 5世紀ないし、6世紀のころ、イタリア北東部には新たな土地を求め、次々といろいろな民族が押し寄せてきました。西からはランゴバルド族、東ゴート族、北からはフン族、西ゴート族などが侵入してきたのです。追われた人たちが逃げ込んだのはラグーナと呼ばれる湿地帯でした。
 ベネチアの周りには、陸地から流れ込んだ土砂がアドリア海の潮流とぶつかり、海の奥深くまで流れ込み、広大な干潟を作っていました。潮が引くと干潟は陸地となります。しかし、そこは泥だらけで、家を建てることは出来ませんでした。そこで、干潟に唐松などで出来た丸太を打ち込み、その上に石を積み、レンガの家を建てました。泥の下は頑丈な岩盤で出来ており、また、丸太は空気にさらされないため腐らず、家をしっかりと支えました。
 当初、島の数は少なかったものの、次第に増えて行き、現在は140にもなっています。当初、島と島の間は船が唯一の交通手段でした。その後、それらの島は橋で結ばれるようになりました。なお、橋はその下を船が通行できるよう、十分な高さが必要でした。
 9世紀ごろまで、島の住民は、漁民として魚を取り、生活を支えていました。今も、ブラーノと呼ばれる島は漁民の集まりで出来ています。
 漁民たちは9世紀以降、地中海貿易に乗り出しました。そして、造船技術を習得し、その技術は世界一と言われるまでになりました。最盛期には流れ作業により、1日1隻の大型船を作ったそうです。使用される木材などは規格が統一されていて、製造効率は非常に高かったようです。特に人の動力で動かすガレー船の建造が得意でした。
 アドリア海の東には当時、世界で最も栄えていたビザンツ帝国の都、コンスタンティノープル(今のイスタンブール)があります。ビザンツ帝国は当時世界の富の3分の1を持っていたと言われています。ビザンツ帝国はベネチアの優れた造船技術と海運力を認め、お互いに関税の免除を取り決め、また、ベネチアにアドリア海の警護を任せました。それにより、ベネチアには多くの富が集まってきました。
 また、ベネチアは敵からの防御にも優れた場所でした。彼らは、ラグーナの中に標識を埋め込み、船が浅瀬に迷い込まないようにしていました。しかし、敵が押し寄せたときはその標識を取り去ってしまい、敵は浅瀬に乗り上げ、船は身動きが取れず、人は泥の動くことが出来無くなりました。その結果、ベネチアは水の城壁に守られて来たのです。
 当時、「水は城壁である。許可なくラグーナに手を加えたものは祖国の敵とみなす。その罪は永遠に消えない」、と言われていたそうです。
 各々の島には教会が作られ、鐘楼が建てられており、現在、80以上もあるそうです。
 かくして、ベネチアはナポレオンによって征服されるまでの9世紀から18世紀まで、独自の自治を持つ海洋都市国家として栄えてきました。
 ベネチアの中央にはカナル・グランデと呼ぶ逆S字型の大運河が貫いています。その他、無数の運河があり、運河には信号が取り付けられています。運河の角にはカーブブラーもあり、一方通行や進入禁止など陸上の道路と同じようです。パトカーもサイレンを鳴らして運河を走っています。なお、ベネチアはシェイクスピアに戯曲、ベニスの商人でも有名ですが、13世紀、東方見聞録を書き、黄金の国ジパングを紹介したマルコポーロはベネチア商人の一人でした。
 ベネチアに生まれ育った人は一生、海の上でその生涯を過ごします。ただ、彼らにとって、親から譲り受けた家屋は、大昔から使われており、特に出費はかからず、優雅でのんびりした一生を送れるそうです。日本とは大違いです。
 ただ、幸運にも大金を手にした人たちは、休日になると、自分の船で本土に作られて別荘に行くそうです。そこには植物が生い茂る大自然があるからです。だれしも狭い海の上の家よりは、緑が茂る大自然の中の家の方が良いと思うでしょう。
 最近は、ベネチアに災害が押し寄せて来ています。地下水の汲み上げによる地盤沈下と、強い風による高潮です。年に数回は、町全体が海水に覆われてしまいます。その時はアクア・アルタと呼ばれる高潮警戒サイレンがなり、高いところに避難するよう勧告が出されるそうです。家の中も水で浸されてしまうそうです。
 現在、モーゼ計画と言われる、町の周りを水防堤で囲み、浸水から守る取り組みがなされており、計画では2014年に稼働するそうです。
 でも、いずれは水没してしまうベニスをその前に見ておこうという観光客が、年間 1800万人も訪れています。



海上バスからの眺め

 海上バスは逆S字型に作られた大運河の中を進んでゆきます。
 



 ベネチアの中心で船を下り、早速観光開始です。


溜め息橋

 左はドゥカーレ宮で、その取調室に入れられた囚人が、右の監獄に入るための大理石で作られた橋を渡って行きます。囚人が海に飛び込まないよう、石で出来た格子が付けられています。この格子窓を通してみるベネチアの景色は衆人にとって最後の橋であり、溜め息橋と名付けられたそうです。
 なお、左のドゥカーレ宮は歴代のベネチア共和国歴代の総督の公邸で、15世紀に完成しています。ここには評議の間があり、評議員2000名が一堂に会し、重要な法律を作って行きました。ここには裁判所や武器庫もあり、囚人は隣の牢屋へ送られました。



サンマルコ広場

 共和国時代はお祭りや公共行事の広場でした。ベネチアの表玄関でもあり、この広場に面し、サンマルコ聖堂やドゥカーレ宮があり、たかさ96mの大鐘楼が立っています。
 イタリアを征服したナポレオンはここを世界一美しい広場と讃えたそうです。



サンマルコ大聖堂

 9世紀初め、エジプトから持ち帰った聖マルコの聖遺骸を祭るために作られました。その当時は木造建築でしたが、現在の建物は11世紀に作られはじめ、東方貿易で得た巨万の富をつぎ込み、完成までに400年の歳月を要しています。外部はレンガと石のビザンツ様式の華麗な模様が施されています。内部は床も壁もまばゆいばかりの金のモザイクで埋め尽くされています。



ガラス細工工場

 観光用に広場の近くにガラス細工工場が作られ、お土産が売られていました。昔からベネチアガラス細工の技術を持ち、素晴らしいシャンデリアなども有名でした。
 ただし、それらの技術が外部に漏れないよう、ガラス職人と工場はベネチアから少し離れたムラーノの島に移動させられました。現在、ムラーノはガラス工芸の町として有名です。
 日産のSUV車ムラーノの名はここから来たのでしょうか。覚えやすくて良い名前です。



ゴンドラクルーズ

 ベネチアのゴンドラは狭い水路を通りやすくするため、かなり細く作られています。水路は複雑でどこを通ったのか分かりませんが、約20分ぐらいのクルーズでした。



アカデミア橋、リアルト橋

 クルーズの後、自由行動で、私たちはアカデミア美術館へ行き、中をざっと見学してみました。時間がないので、時計を見ながらの見学です。美術館に行くとき、アカデミア橋を渡ります。その橋の上で、両側の景色を写真に収めました。その後、ベネチアの最も栄えた中心地に作られているリアルト橋に行ってみました。そこから狭い路地を通り、サンマルコ広場まで戻ってきました。



大鐘楼

 大鐘楼の上までエレベーターで行くことが出来ます。有料ですが、とにかく登ってみました。サン・マルコ広場をはじめ、360度、眺めることが出来ました。以前、光通信の国際学会で4日間過ごしたサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会も見えました。ここで論文を発表した思い出があります。

 見学終了後、バスにてフィレンツェへ(約250km、4時間)向かいました。今夜と明日は連泊です。


           

4日目 フィレンツェ歴史地区観光(世界遺産)

  

 フィレンツェには1976年6月、電気通信の世界規格を決める会議に出席するため、2週間も滞在したことのある思い出の地です。ただし、仕事なので、観光はあまり出来ませんでした。もっとも、今回訪問したところは、休日を利用し、だいたい行った記憶があります。大聖堂のドームのも登った思い出があります。



フィレンツェ

 フィレンツェには町全体が美術館と言われるほどのおびただしい数のルネサンス芸術品が集まっています。
 ここにはミケランジェロ、ラファエロ、レオナルド・ダ・ヴィンチなど、世界的に有名な芸術家たちが集まってきて、お互いに競争し、数々の名作を生み出しました。
 ルネサンスとは、復興、再生を意味するそうですが、過去、教会に飾られる絵画はモザイク画が多く、平面的で、キリストの威厳を示すように描かれていました。
 フィレンツェに集まった芸術家たちは、ギリシャ彫刻やローマ彫刻を目にし、その躍動感に驚き、古代の芸術品に学ぼうという運動が起こり、モナリザに象徴されるように、遠近法を用い、立体的、写実的に描かれ、風景も描かれるようになりました。彼らの絵には、人間の嘆き悲しむ姿や喜びが本物のように描かれました。
 13世紀のころ、イタリアの都市国家はお互いに争いを繰り返していました。
 そのような中、フィレンツェでは高級な毛織物の生産に成功し、商人がそれを手広く、上手に売ることにより、富が蓄えられてゆきました。
 その後、その富を利用し、金融業に乗り出し、ますます繁栄します。いわゆる銀行業を始めたのです。フィレンツェは世界で初めて銀行が出来た都市だそうです。
 当時、キリスト教は、お金を貸して金利を取るのを禁止していました。これはイスラム教の教えと同じでした。しかし、金利を払ってもお金を借りて事業をすることが町の繁栄に拍車をかけ、その結果、教会も黙認するようになりました。もっとも、金融業で富を得た人たちは、死後の幸福を考え、多額の寄進を教会に行ったそうです。
 16世紀中ごろ、メディチ家のコジモ一世はシエナ、ピサを配下に収め、トスカーナ公国を築きましたが、その後、メディチ家も没落し、ルネサンスも華やかさを失い、文化の中心は少し南のローマへと移って行きました。 
  朝食です。すでに食卓にはパンとジュース、ハムが置かれていました。朝食はこれだけです。
 普通なら、朝食はバイキングですが、今回のツアーでは、きわめて節約しているようです。食事の写真を撮ることはめったにないのですが、面白いので記念に撮りました。昼食や夕食は、まあまあ、普通でした。
 ただし、少し離れた席の別のグループは立派な朝食でした。これには、ちょっと寂しくなりました。
 

  

 今日は終日、フィレンツェ観光です。午前中はガイドさん付きの観光で、午後は自由散策でした。



ドゥオモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)

 町のどこからでも見えるフィレンツェの象徴です。花の聖母マリアという名が付けられており、緑と白とピンクの大理石が組み合わされ、花の教会とも言われています。
 直径40m以上の大きなドームを持った地上90m以上の大聖堂で、当時、世界最大でした。1436年に完成しています。
 これほど大きなドームをもつ聖堂を作るのは技術的に不可能と思われていましたが、15世紀の建築家が、見事完成させました。それが市民の誇りになり、努力すれば、何でもやり遂げることが出来るという気質を市民に植え付け、市の発展に大いに貢献したそうです。
 ギベルティはケランジェロが天国の門と絶賛した門を作り上げています。



シニョリーア広場とヴェッキオ宮殿

 シニョリーア広場は共和国時代からの政治の中心であり、都市国家フィレンツェはこの広場とともに繁栄して来ました。広場にはジャンボローニャ作の「コモジ一世の騎馬像をはじめ、多くの像が立ち並んでいます。宮殿の前に立つのはダヴィデ像(レプリカ)です。
 14世紀、広場の横にゴシック様式のヴェッキオ宮殿が建てられました。 この宮殿にはフィレンツェが治めていた周辺都市国家の旗が飾られています。宮殿の鐘楼は94mもの高さを持っています。
 16世紀にはコモジ一世の居城となり、内部はルネサンス様式に改装されました。
 宮殿の中には巨匠によるフレスコ画で描かれた数々の名画や彫刻像が飾られています。



ウフィツィ美術館

 ルネサンス期にフィレンツェで成功したメディチ家所蔵の美術品が所蔵されており、イタリアを代表するルネサンス絵画がたくさん展示されています。フィレンツェを訪れた人は、必ず入る美術館です。
 内部を見て歩きましたが、写真は禁止でしたので、インターネットからの転載です。下3枚の写真はいずれもサンドロ・ボッティチェッリの作品で、左から、「東方三博士の礼拝」、「プリマヴェーラ」、「ヴィーナスの誕生」です。



午後は自由散策

 午後は自由解散で、オプショナルツアーはピサの斜塔でした。フィレンツェにはまだまだ見たいところがたくさんあるので、私たちは、フィレンツェの観光を続けることにしました。約半数の人はピサの斜塔見学に行ったようです。



ヴェッキオ橋
 今なお、中世の姿を残すフィレンツェ最古の橋です。橋の両側には中世から続いてきた貴金属店などが軒を連ねています。
 昔、この橋の2階にはメディチ家のための隠れ通路が作られており、メディチ家の党首、コジモ1世はヴェッキオ宮殿から自宅にしていたピッティ宮殿まで姿を見られずに歩いて行きました。商人から一代で最高権力者に上り詰めたコジモは陰謀と暗殺のうわさが渦巻いていた中、極度に人目を恐れていたと言われています。
 現在、この回廊には芸術家の肖像などがたくさん飾られています。



ピッティ宮殿

 町の中心から見ると、丘の上に見える宮殿です。何があるのだろうと興味に駆られ、行ってみました。
 この宮殿はメディチ家のライバルであったピッティ家が1458年に着工しましたが、1549年、メディチ家のコモジ1世が病身の妻エレオノーラのために買い取り、改修したものです。現在は、パラティーナ美術館をはじめ、銀器博物館、近代博物館など、5つの美術館や博物館が入っています。
 丘を登ると噴水がありました。あまりに広い公園なので、引き返しました。



サンタ・マリア・デル・カルミネ教会

 ピッティ宮の近くにあるので寄ってみました。教会の中の壁画で有名な教会です。特に、マザッチョの「楽園追放」が良く知られています。



サンタ・トリニタ橋から

 今日の集合場所は、フィレンツェ中央駅前のバス停です。集合時間は午後6時半です。そこまで歩いて行きました。
 カルミネ教会からの帰りはヴェッキオ橋の一本隣の橋を通ってみました。遠くにヴェッキオ橋が見えます。夕焼けに輝く美しいフィレンツェの街の風景でした。

       

5日目 シエーナ地区とローマ市内見学(両方とも世界遺産)
 
 朝、7時半にフィレンツェをたち、途中、世界遺産シエーナを観光します。午後は、ローマ市内の観光でした。
 シエーナはフィレンツェの南50qのところにあります。
 何かとフィレンツェと競争関係にあり、何度か戦争もしましたが、スケールはフィレンツェに比べだいぶ小さいようです。現在の人口は約5万人です。 
 市の中心にあるカンポ広場です。世界で最も美しい広場と言われています。
 もっとも、そう呼ばれる広場はたくさんあるようです。
 扇型をしており、9本の三角形をした床が、市庁舎の中央から広がっています。


 バスは市内の中心部には入れず、だいぶ離れたところに駐車し、市の中央まで歩いてゆきました。途中、中世を思わせる建物がたくさんありました。
 シエーナは金融業で豊かになった都市国家でした。フィレンツェとともに、世界で最初の銀行が作られたと都市と言われています。
 町はコントラーダと言われる17の地区に細かく分けられ、それぞれが教会や集会所を持っています。
 中世に作られ、現在も続くこのコントラーダは、今も続いており、コントラーダの内部の人たち、およびコントラーダの間には強いきずなで結ばれており、また、お互いに強い対抗意識を抱いているそうです。毎年、夏には、カンポ広場で、裸馬を使った競馬大会が行われ、コントラーダの人たちが競争するそうです。
 1342年に疫病が蔓延し、その後飢餓がおそい、シエーナは経済的に疲弊し、歴史から忘れ去れてしまいました。



カンポ広場とプブリコ宮殿

 もし、シエーナにカンポ広場が無かったら、世界遺産には登録されなかったでしょう。確かに、世界中の広場の中でも、極めて、独特な形を持っています。広場は四角でなく、扇型とも、貝殻型とも言わる形です。その上、平らではなく、あたかも劇場のように、現在の市庁舎であるプブリコ宮殿に向かって、下がっています。雨が降れば、広場一面の雨水は、プブリコ宮殿の中央に流れ込むことになります。その地点から、そこを頂点とする9個の細長い3角形の床が敷かれています。シエナには9つの自治区があり、9名の代表者がプブリコ宮殿に集まり、この地の政治を決めて行きました。
 このプブリコ宮殿は、1288年から20年かけて作られたゴシック様式の建物で、その横には赤レンガの102mのマンジャの塔が立っています。頂上付近は白い色の独特の美しい姿をしています



ドゥオモ

 13世紀初めの頃から作り始められたイタリアのゴシック建築を代表とするドゥオモで、私が見る限り、フィレンツェの大聖堂と大理石の色や配置はよく似ていますが、ここの人たちは、イタリアで一番美しい大聖堂だと言っています。



ローマ市内観光

 ローマに到着したのは午後2時ごろでした。それから日没まで、観光でした。 


コンスタンティヌスの凱旋門

 フォロ・ロマーノを通り、コロッセオに向かう途中にこの凱旋門があります。
 この凱旋門は、コンスタンティヌス帝がマクセンティウス帝に勝利したことを記念して315年に作られました。幸い、壊されずに残っています。
 ローマの政治の中心であったフォロ・ロマーノの建築物はローマの衰退とともにほとんどが取り壊され、建造物の石はことごとく別の建造物に使用され、その後は何もなくなり、ただの牧草地として埋もれてしまったそうです。19世紀になってその事実が判明し現在も発掘が続けられています。



コロッセオ

 西暦80年ごろに完成した古代ローマを代表する競技場です。当時は完全な円形でしたが、外壁の大理石やその中のたくさんの石は、他の建築物に使われ、このコロッセオも石切り場と化してしまいました。



トレビの泉

 ローマにはたくさんの泉がありますが、最も有名な泉です。
 ガイドさんの説明によると、お金を1個投げ入れるとふたたびローマを訪れることが出来るそうです。2個投げ入れると結婚することが出きて、3個投げ入れると、離婚することが出来るそうです。
 なお、コインは財布を狙うスリが多いの今すぐ用意してください、と言われました。
 ここに来るガイドさんはいつも同じ話をするようです。



スペイン広場

 オードリー・ヘップバーンが演じる映画「ローマの休日」でも有名になった広場です。
 もう、すっかり暗くなっていました。



夕食

 18:30 夕食のピサ食べ放題です(約90分)でした。確かに、次々とピザが出てきました。
 ただ、ピザのバイキングは若者向きのようです。体重を気にしている人はあまり食べられません。


        

6日目 ポンペイの遺跡とナポリ海岸の見学(両方とも世界遺産)

 本来のスケジュールは、カプリ島にわたり、青の洞窟を見学する予定でしたが、波が荒く青の洞窟は見学不可能とのこと、その代わりにポンペイの遺跡とナポリ海岸の見学になりました。
 後で、洞窟の入場代金が返金になりました。 



カメオ工房

 ポンペイ遺跡の入り口にあるカメオ工房は、かなり有名なようです。たくさんの観光客が案内され入って来ました。トイレ休憩の意味も兼ねているようです。



ポンペイの遺跡

 西暦79年8月24日、ヴェスヴィオ山が大噴火を起こし、その近くのポンペイの町は一瞬にして灰に埋もれ、また、火砕流は町を飲み込みました。
 この地はローマ帝国の支配のもと、商業地、別荘地として大いに栄えていました。
 18世紀の半ば、この遺跡が発見され、以来、発掘が続けられています。
 一瞬にしては灰に閉じ込められたため、当時の生活の姿がそのままタイムカプセルのように保存されています。これからたくさんの歴史的事実が分かってきています。今となっては貴重な遺跡です。


 灰に埋もれた人が長い年月により消え失せ、中空になり、その鋳型に注ぎ込まれ固まった石灰が掘り起こされて展示されていました。



 当時の芸術品なども発見されています。
 


 町には、かなりの段差もあったようです。遺跡の入り口付近ですが、出口専用となっています。



ナポリ湾の卵城
 
 遺跡観光後、ナポリの観光でした。丁度このときは、ナポリの清掃組合がストライキをしているとのこと、もう1ヶ月もたちますが、また、解決しないそうです。そのため、町はゴミで一杯でした。
 下の写真の1枚目はナポリ湾の船乗り場の近くのヌオーヴォ(新しい城)城です。13世紀から15世紀にかけて作られたので新しい城と呼ばれるようになったそうです。
 バスは少し走り、卵城の前で5分間ほど写真ストップしました。下の写真の2枚目と3枚目です。
 卵城は、ナポリ港の突きだった埠頭に作られています。頑丈な角張った石で作られ、とても卵のようには見えません。名前の由来は、この城を作ったノルマン王が基礎に卵を埋め「この卵が割れる時は、城はおろかナポリの街まで危機が迫る」と呪文をかけたことによるそうです。この城は11世紀に作られています。

 ナポリを見学した後、昨日と同じ、ローマ近郊のホテルに戻りました。


         

7日目と8日目 帰国

 スカンジナビア航空で、ローマからコペンハーゲンに向かいます。ローマを12時05分に出発しコペンハーゲン到着は14時45分で、飛行時間は2時間40分でした。約1時間の乗り継ぎ待ちの後、15時40分にコペンハーゲンをたち、成田に向かいました。飛行時間は約11時間で、成田到着は12月4日(月曜日)の午前10時40分でした。特に問題はありませんでした。



格安ツアーの感想

 往復の時間を含めると8日間のイタリアの旅でしたが、毎日3食込みの旅行代金はひとり15万円と格安でした。ホテルのグレードアップ費用と、航空燃料アップに伴う特別料金を含め20万円弱でしたが、夏に行ったスイスツアーの3分の1の費用でした。なお、結果的には、ホテルのグレードアップは不要でした。
 ツアーガイドは女性の方で、成田から随行しましたが、超ベテランで、その旨さにはほとほと感心しました。まさにプロの芸を感じさせられた1週間でした。
 ツアーの人数は36名とかなり多いほうでしたが、そのため最後までお互いの名前を覚えたり相手の方を名前で呼ぶことはありませんでした。なお、大半は中年の女性たちでした。一般にイタリアは女性に好かれているようです。
 旅行内容を詳細に読んでいなかったためか、最後までバチカンの見学が含まれていなのには気が付きませんでした。何かだまされた感じもします。
 イタリアツアーでバチカンが含めれていないのなら、それを明記すべきでしょう。多くの人はローマに行ったらバチカンも見ると思っていましたし、ガイドさんも変わったツアーですね、と言っていました。
 毎日の貴重な観光時間の中で、毎回、お土産屋へ連れて行かれ、40分ぐらい時間を取られたのには参りました。バックマージンにより利益を得たいと思っているのは良く分かりますが、とにかくやりすぎの感じでした。




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