夢とロマンのトルコ感動スペシャル8日間
2007年10月9日-10月16日


 ときどき、写真で,イスタンブールやそこにあるモスクの風景を見たことがありますが、 トルコ共和国へはまだ行ったことがなく、ぜひ、一度訪ねてみたいと思っておりました。イスタンブールが東西文明の十字路であり、ローマへと続くシルクロードのアジア側の終点ということや、オリエント急行の終着駅があること、また、トルコ共和国がアジアとヨーロッパにまたがる国であることなどにも興味がありました。今回はクラブツーリズム社のトルコツアーに参加して、8日間、トルコの西部地区を回ってきました。
 トルコとその周辺の地図を下に示しますが、トルコの面積は日本のほぼ2倍で、人口は7,000万人、97%がイスラム教徒の国であり、陸続きの隣国は、ギリシャ、ブルガリア、グルジア、アルメニア、イラン、イラク、シリアと8カ国もあり、海を隔てては、キプロス、ルーマニア、ウクライナ、ロシア連邦などがあります。
 エーゲ海にある島々はほとんどがギリシャ領に所属し、トルコに隣接する島々もギリシャ領であるため、何かとトラブルが発生し、1番嫌いな国はギリシャで、1番好きな国は日本だそうです。(今もそうかどうかは分かは知りませんが、たんにお世辞ではなく、それを報じた新聞を見せてくれました。)



大画面スライドショー(文章なし) はここをクリック
  再生速度は右下の三つの点を押すと早くしたり遅くしたりできます。



 トルコはイスラム教の国ではありますが、憲法で宗教の自由が保障され、イスラム教寺院とキリスト教の教会が同じ敷地内にあるのも珍しくないそうです。
 訪問した時はちょうど断食の月に当り、また、ラマダン明けの祭りの日にも当りましたが、観光で回っている限り、多くの人が断食をしているとは気が付きませんでした。もっとも、断食をするかしないかは、各自の自由であり、どの程度の人がしているかは分からないそうです。 ただし、イスラムの世界では、男女の差別が何かとあるようです。
 下の図の赤丸は泊まった場所を示します。成田からイスタンブール空港に到着すると、現地のガイドさんが待っており、そのガイドさんも、7日目の帰国の時まで、ずっと、面倒を見てくれました。すなわち、日本からの添乗員を含め、常時、添乗員が2名居たことになります。
 2日目の朝早く、イスタンブールを出発し、飛行機でカイセリに飛び、そこからは、バスとその運転手さんも加わり、帰りの飛行場まで、ずっと一緒でした。
 バスの座席は添乗員さんが指定し、長距離移動の4日間は毎日変わりましたが、私の場合、後ろの2列目から、毎日、3列ぐらい前に移動し、最終日は1番前になりました。なかなか合理的なシステムで感心しました。


1日目 イスタンブールに到着

2日目 カッパドキア観光

3日目 カッパドキアからパムッカレへ移動

4日目 パムッカレとエフェソス観光

5日目 ベルガマ遺跡とトロイ遺跡観光

6日目 イスタンブールへ移動後市内観光

7日目 バザール、ブルーモスク見学、そして帰国


    

1日目 成田よりイスタンブールに到着

 何時ものように自宅から自家用車で成田の民間パーキングまで行き、成田空港には午前10時少し前に到着しました。
 飛行機は12:50発のトルコ航空直行便で、成田-イスタンブール間の飛行時間は約 12時間30分でした。エアバス340のため、座席が2+4+2で、飛行中のトイレも楽に行くことが出来ました。
 ツアーの人数は38名と許容最大人数に近く、夫婦連れが8組、父(80歳)とその子(男性)が1組で、男性の合計は10名でした。人数が多かったにも拘わらず、それによる問題は何一つありませんでした。
 空港には現地の男性ガイドさんが待っており、帰りの日までずっと一緒でした。学生の時、日本に半年ほど留学した経験があるそうで、日本語はかなり達者でした。
 ホテル到着は午後6時ごろでしたが、飛行機内で夕食が出たため、ホテルでは、ガイドさんから、明日のスケジュールの連絡があり、各自、比較的早く休むことが出来ました。

 今回のツアーの特徴は、かなりの強行軍で、まとめると次のようになりました。
      朝食  出発
2日目  5:30  6:45
3日目  5:30  6:50
4日目  6:00  7:15
5日目  5:45  6:45
6日目  5:15  6:25
7日目  7:00  8:45


 到着時間は忘れましたが、6日目はベリーダンスを楽しみ、ホテル到着は午後11時ごろでした。
 皆さん、しっかりと時間を守り、疲れたとか言う人は居りませんでした。強行軍にもかかわらず、私たちも、特に、疲れは感じませんでした。

     

2日目 カッパドキア  

 イスタンブールを朝8:35発に空路国内線でトルコの中央部に位置するカイセリに飛び、10時に到着、そこから70km、約1時間で、、世界遺産カッパドキアに到着し、昼食をはさみ、終日、観光、ハイキングなどを楽しみました。ホテルは地下都市カイマクルのすぐ近くでした。

 
 バズがカッパドキア地区に近づくと、突然、変わった地形が出現しました。その広さは東京23区とほぼ同じそうです。最初にバスが停まったのは、いわゆる三姉妹と言われる奇岩で、小高い道路に脇にあり、そこから見た村の景色もまた独特でした。この三姉妹は50リラ(100リラが最高紙幣)の裏面に描かれています。




洞窟教会

 奇岩の中に洞窟がたくさん掘られ、教会や食堂、寝室などが作られています。教会は普通の教会と同じように丸天井に掘られ、壁画は12〜13世紀にかけて作られたとのこと。
 岸壁に作られた小さな穴は鳩を住まわせ、その糞を肥料に使用したらしい。
 この地方は、夏は非常に暑く、冬は極めて寒く、土地も痩せていて、昔も今も経済的には非常に貧しいところで、現在でも洞窟に人が住んでいるところもあるようです。この教会にはイエス・キリストが描かれていますが、イスラム教では、人物を描くのは大罪とされ、どの寺院にも、人物像はありませんでした。勉強になりました。




昼食
 昼食は洞窟内に作られた食堂でした。観光者用に作られており、現地の楽器の演奏やダンスなどもしておりました。



きのこ岩とウオーキングツアー

 きのこ岩の先端は黒い硬い岩で出来ており、その下の岩は幾層もの薄い岩の重なりから出来ています。きのこ岩を見た後、夕日に当ると桃色に輝くローズバレー(バラの谷)を40分ぐらい散策しました。土地は、粘土のような感じで、雨が降るとどろどろになり、乾くと細かい粒子状になり、雨が降ると歩くのは困難になりそうです。少し痩せたブドウがところどころに植えてありました。洞窟もたくさんありましたが、ここにある洞窟に住むことは禁止されているようです。ただし、ほかの場所の洞窟には、現在もたくさん人が住んでいるそうです。馬に乗って散策している人もたくさん居りました。



カイマルクの地下都市

 地下に作られたアリの巣のような8階建ての大都市で紀元前に作られ、その後、最盛期には1万5千人ぐらい住んでいたようで、イスラム教の迫害から逃れたキリスト教徒が住んでいたそうです。
 内部には通気孔があり、食堂、礼拝堂、教室、寝室など、生活に必要なものは何でもあります。アリの巣というよりも、蜂の巣のような感じもします。
 排泄をどのようにしたのかなど、謎も多いようですが、この地方には、木が無く、家を作るのが難しかったようで、夏も冬も快適な温度ですごせる地下は、便利だったのかもしれません。ただし、灯りはほとんど無く、ほぼ、真っ暗でしたが、生まれた時から住んでいると、迷子にならなかったのでしょう。
 生活のための食物を得るためには外に出る必要があったでしょうから、1万5千人がどのような営みをしていたかを考えてみると楽しくなります。

    

3日目 カッパドキアからパムッカレへ移動 


 今日はカッパドキアから650kmも離れたパムッカレへの移動で、途中、休憩と昼食を兼ね、ほぼ中間にあるコンヤ市内の観光とそこにあるメプラーナ博物館を見学しました。
 朝6時50分の出発でしたが、7時半ごろ、絨毯の展示場に寄り、合計1時間半ほど、説明や販売がありました。移動時間は午前中が3時間、午後は5時間半でした。

 朝、カッパドキアにあるホテルを出ると、まもなく、数多くの気球が上がっているのを目にしました。
 20人から大きいのだと40名も乗れるそうで、気球に乗りカッパドキアを見下ろすツアーが人気だそうです。
 1時間強のツアーで1人2万円ぐらいするそうです。日が出て気温が上がると、気球が下りてきてしまうそうで、朝早い出発のみだそうです。人気があり、予約するのが大変だそうです。

 
 昨日来、バスの中で、現地のガイドさんが、トルコの名産は何か、トルコに来たら何を買って帰ると記念になるかなどの説明がありました。その話によると、トルコ絨毯、トルコ石、仔羊のジャケットなどだそうで、その他、香辛料、甘味菓子などもあるそうです。
 その話を聞いていると自然に何か買って帰ろうという気になってきます。
 朝、早くバスで出発し、7時半ごろ、絨毯の展示販売場に案内されました。もともと、予定表にも書かれていて、トルコへ行ったらぜひ絨毯を買って帰りたいと思っている人もたくさん居るようです。
 そんなに朝早くから、展示場が開いているというのは我々の常識にはありませんが、バスが到着すると、展示場の人の出迎えがあり、丁寧な挨拶がありました。また、トルコ茶などのサービスもありました。また、現地の女性による織物の実演もありました。
 主に説明をしてくれたのは、だいぶ以前、奥さんとともに大学教授として来日し、その時、男性用のトルコ風呂という名称をソープランドという名前に変えたその人でした。その時の新聞記事なども飾ってありました。非常に流暢な日本語で、トルコの絨毯がなぜ素晴らしいかの説明がありました。
 トルコでは歳をとっても年金が無く、また、田舎での暮らしは一般的に貧しく、女性は、顔立ちよりも、如何に素晴らしい絨毯を織れるかどうかで、お嫁の行き先が決まるそうです。この展示販売場は、そういった人たちを助けるために作られたそうです。説明してくださる先生もそういう人を助けたいので、朝早くから頑張っているそうです。
 毎月のように旅行をしている私たちにとって、お土産には全く興味がありませんが、その先生の説明が終わると、日本語を流暢になすセールスマンが、たくさん出てきて、一対一の対応になりました。朝早くから店を開けて、私たちを迎えてくれたのは、他にはお客がありませんでしたら、私たち38名のためだと思います。
 その人たち全てが流暢な日本語を話すのには驚きましたが、先生が日本語の教育をトルコ人一般に行っているとのことでしたが納得でした。
 たくさんの方が、カードを使用し、別送便で日本に送るよう、絨毯の買い物をしておりました。絨毯を買った経験の無い私にとって、その価値は分かりませんが、100万円以上のものもありました。
 現金が無くとも、またカードが無くても、支払は日本に帰ってからでもOKだそうです。多くの人が、カードで買い物をし、相談が成立すると、大きな拍手が起こっておりましたが、私にはかなりの違和感を感じました。
 試みに、A4サイズよりも少し大きめの玄関に飾るための絨毯の値段を聞いたところ、26万円と言われました。高すぎるというと、数万円のものをいろいろと取り揃えてくれました。結局の所、買い物は何もしませんでした。
 ガイドさんの説明によると、これらの展示販売場は半官半民の設備で、クラブツーリズムも資本を出しているとのことでした。 


 絨毯の展示販売上を出てから、コンヤ市まで、大草原というか、穀物が育たないような貧弱な平地が続きます。そういうこともあって、この辺りは、トルコの中でも貧しいところだそうです。
 この道路は昔のシルクロードで、ところどころ、昔の宿の廃墟を見ることが出来ました。



コンヤ市にあるメブラーナ博物館
 

 緑色をした円錐状の屋根が特徴の霊廟で、13世紀末に作られました。メブラーナという名前はイスラム神秘主義の教団のメプラーナ教の創始者の名前だそうです。
 メプラーナ教とはぐるぐると旋回しながら踊ることによって神と一体になれるという教えを持つ修行方法ですが、この修行所は1925年、閉鎖され、その後、博物館として一般に公開されてるそうです。内部は写真禁止で撮れませんでした。
 典型的なトルコの人の素顔を記念に撮らせてもらいました。



 コンヤ市からパムッカレまで、同じような大草原ですが、パムッカレに近づくにつれ、穀物畑が増えてきました。ただ、ここでも連作は無理で、小麦を作るには1年の休養が必要とのことでした。
 途中、大理石の露天掘りの現場を通りました。この地方の山は大理石で出来ており、建物にはふんだんに大理石が使われておりました。

    

4日目 パムッカレからクシャダスへ
 
 午前中、ホテルのすぐそばの世界遺産・パムッカレを観光し、その後、215km離れたエーゲ海最大の遺跡群エフェソスへ移動し、観光しました。
 途中、仔羊の皮製ジャケット店に寄りました。
 観光後、15km離れたエーゲ海では有数の保養地であるクシャダスのホテルへ向かいました。ホテルにはエーゲ海に面しプール、テニス場などがありました。
 


 昨夜泊まったホテルには普通のプールに隣接し温泉プールがあり、食堂も豪華で、また、昨夜はステージでベリーダンスショーが行われておりました。
 今回のツアーの特徴は、泊まったホテルのランクが全て素晴らしく、お風呂、朝食などもデラックスで、昨年行ったイタリアツアーとは段違いでした。



ヒエラポリスとパムッカレ 

 ヒエラポリスの遺跡は、温泉保養地パムッカレのすぐ後ろにあり、紀元前190年に始まったらしく、その後、ローマ、ビザンツ時代まで繁栄し、大浴場、円形劇場などが残っています。
 石灰棚は、温泉として流れ出る石灰成分を含む湯が、長期間の間に山の壁を覆ったもので、段々畑のように広がり、美しい光景を作り出しています。棚は、流れ出した湯の中に含まれている小さな草木が積もって出来ていそうです。一部の棚には、靴を脱いではだしで入ることが出来ます。最近は水量が減り、枯れている棚もありますが、時々温泉水を流すルートを変えて、棚の景観を保っているとのことでした。


 ガイドさんが、このような石灰棚は世界でここだけですとか言っていましたが、3週間前に行ったアメリカのイエローストーン国立公園も同じような原理で作られ、同じような景観をしておりました。このパムッカレは、歴史が古く遺跡があること、温泉棚の中に入れること、活火山でないことなどでしょうか。


 エフェソスへ向かう途中、トイレ休憩も入れ、仔羊の皮で作ったジャケット店に立ち寄りました。そこで、まず、美男、美女によるファッションショーがあり、その後、我々の中から数人が選ばれ、その人たちもファッションショーを行いました。
 その後、隣の販売所で、日本語のうまい男性、女性の売り子が現れ、私も何回か試着をさせられました。もともと買うつもりは無いのですが、売り子が綺麗な女の子で、日本語もうまいので、試しにいろいろ羽織ってみました。
 1着の値段は、だいたい15万円ぐらいでした。何人もの人が購入していたようです。



エフェソス観光 

 ギリシャ時代には小アジア最大の都市として君臨していたトルコでも屈指の古代遺跡群で、20リラの裏面にも描かれています。
 遺跡にはローマ時代の体育館、共同便所、コレスス門、図書館、売春宿などが比較的綺麗に復元されています。
 ここにある大劇場には2万4000人が収容できたそうで、ライオンと剣闘士による戦いが行われたとのこと。
 音響効果が非常に素晴らしく、手叩きをすると、綺麗な反響音を聞くことが出来ました。
 韓国人と思われるツアーの一団が、中央で賛美歌を歌っていましたが、素晴らしい歌声でした。
 一般に一曲歌ったら、他の人に代わるらしいのですが、何曲も歌ったので、我々のガイドさんが、めずらしいグループだと皮肉っていました。
 その後、我々のガイドさんが、中央に立ち、庄野真代さんが歌ってヒットした「飛んでイスタンブール」という歌を歌いましたが、歌といえ、場面といえ、最高の出来ばいでした。


エフェソスはお金にも採用されています。
 


     

5日目 ベルガマ遺跡と
       世界遺産トロイの遺跡観光
 

 ホテルを出発し、185km離れたベルガマへ向かう。途中、トルコ石のお店に立ち寄る。移動時間は約3時間。
 ベルガマで昼食後、220km離れたトロイに移動。移動時間は3時間半。
 その後、チャナッカレのホテルへ向かう。
 終日、雨模様で、ベルガマの遺跡観光では、霧が強くなり、ほとんど何も見えなくなってしまいました。


 ベルガマへ到着する少し前に、トルコ石のお店に立ち寄りました。そのお店は看板も無く、一般の人が見たら、どのような建屋なのか見当も付かないと思います。要するに、観光バスに乗ってくる人を対象にしているのは一目でわかります。
 中に入ると、超美人と言って良いような売り子が10名程度おり、全員が流暢な日本語を話しました。
 私にとって、トルコ石を見るのは初めてなので、勉強のため、いろいろと見てみました。一般のペンダントで、横1.5cm、縦3cm程度で周りが金の場合、約20万円ぐらいでした。安いのか高いのか、全く見当が付きませんが、トルコへ行ったらトルコ石を買おうと決めてきた人にとっては、グランドバザールで買うよりは品質が保証されている点、安心であることは理解できました。
 何人もの女性が買い物をしておりましたが、男性群は、ただただ、遠くから眺めているのみでした。



ベルガマ遺跡
 

 紀元前3世紀に、この地にベルガモン王国が築かれ、小高い山の頂上から裾野に沿って都市が形成されており、その遺跡が残っています。急斜面に作られた大劇場があり、急斜面という点では世界一だそうです。その遺跡を昼食をとったベルガマ市から直接見ることが出来ました。残念ながら、雨と霧に見舞われ、ゆっくりと見ることは出来ませんでした。 




世界遺産・トロイの遺跡
 

 紀元前3000年から紀元400年までの間、繁栄、衰退を繰り返し、9層にもなった遺跡が、その経緯を今に伝えています。さすが、紀元前でもあり、石積みの技術は未熟であったようです。
 ホメロスの描いた「トロイ戦争」には大きな木馬が登場し、その中に兵士が隠れて、城内に侵入し、ギリシャ軍が勝利したそうです。
 写真の中に現れる数字は遺跡の経緯で、Tが1番古く、地層の一番下になります。


     

6日目 チャナッカレからイスタンブールに移動。その後市内観光
  

 朝、6時30分、ホテルを出発。チャナッカレからフェリーでダーダネルス海峡を渡り、イスタンブールまで320km、約6時間の移動でした。
 イスタンブールではトプカプ宮殿、アヤ・ソフィア博物館観光。また、貸切船にてポスポラス海峡をクルーズ。夜はベリーダンスディナーショーなど盛りだくさんでした。


 イスタンブールは幅800mのポスポラス海峡に守られ、4世紀にはコンスタンチノポリスと名付けられ、キリスト教のビザンツ帝国の首都として古くから栄えてきました。その栄光はアヤソフィアに示されています。アヤソフィアはビザンチン建築の最高傑作と言われ、ギリシャ正教の総本山でした。内部はキリスト教会を示す多くのモザイク画で飾られています。
 西側を3重の壁で囲まれたコンスタンチノポリスは、難攻不落の要塞都市と思われていましたが、イスラム教のオスマン帝国のメフメット2世は1453年、大軍を率いて攻め入り、ついに陥落させました。
 それから25年後、時の権力者スルタンは市内の高台にトプカプ宮殿を構え、町の名前をイスタンブールと変えました。
 スルタンは、征服した民族からも人材を起用し、国の経営を担う官僚を育てたと言われています。それがトルコ人の発展の源とも言われています。
 現在、イスタンブールはポスポラス海峡を挟んでヨーロッパ側とアジア側とに別れ、2本の橋で結ばれて居ます。北側の橋は日本のIHIがつくったそうです。
 旧市街にはバザールやモスクがあり、いわゆる下町で、新市街には我々が泊まったホテルやビジネス街、役所などがあります。

 

 朝7時発のフェリーでダーダネルス海峡を渡りましたが、まだ真っ暗で、現地の人の通勤も始まってはおりませんでした。
船内には、どちらかと言うと貧しそうな人が、通勤のためかどうか分かりませんが、数十人、乗っておりました。
 絨毯売りの人が我々のグループに来て、盛んに売り込んでいました。最初、一枚2千円と言っていましたが、まけろとみんなが言ったら、一枚千円にしました。
 品質は当然違いますが、3日目の絨毯販売場なら数万円はしそうでした。かなりの枚数が売れたようです。
 現地の人の様子をカメラに収めました。


 
 今回のツアーではバスでの移動が2000km以上にもなりました。運転手は一人なので大変だったと思います。添乗員はときどき二人とも居眠りをしていましたが、運転手はそうも行きません。
 バスはトイレ休憩のため、約1時間半おきにガソリンスタンドに寄りました。トイレは一般に有料で、日本円に換算して50円から75円かかります。どのスタンドも、バスがたくさん停まっていて、自家用車はあまり見かけませんでした。現地の添乗員となじみのスタンドでは、トイレが無料になる場合がありました。 
 ときどき、バスは手での洗車をしてもらっていました。運転手がチップを上げていました。
 スタンドでは日本のコンビニを兼ねていて、0.5リットルの水が50円で、1.5リットルの水が100円で売っておりました。
 円とリラの換算レートは1リラがちょうど100円と、簡単でした。すなわち、1万円出すと、100リラ札を呉れました。
 

 最初にこの看板を見た時、ガロン当りの価格と思いましたが、1リットルの価格だそうです。ビックリしました。1リットル280円程度もします。日本のちょうど2倍に当たります。
 トルコでは、原油の80%は輸入で、ガソリン税は70%以上もするそうです。もし、日本でガソリンが今の2倍になり、給料が半分ぐらいになったら、大混乱が起きるかもしれません。




トプカプ宮殿
 

 残念ながら雨が強く、ゆっくりと庭園を鑑賞する余裕はありませんでしたが、ポスポラス海峡を挟んでの眺望はすばらしいものでした。ポラポラス海峡は時に、真っ黒に染まります。上流の黒海はもっと黒く染まって見えるそうです。
 この地は以前、コンスタンチノポリスと呼ばれ、難攻不落のキリスト教徒の城でしたが、イスラム教徒、メフメット2世が1451年、ここを征服し、その25年後の1476年に建築を完成したもので、以来、約400年間、オスマン帝国の居城として使用されていました。建設に当たっては、さまざまな文化を取り入れ、柱はギリシャ様式が使用されています。
 この城の王たちはスルハンと呼ばれ、絶対的な権威を持っていました。王たちは家系を閉ざさないよう江戸城の大奥と同じような、ハレムとよばれる女性たちばかりの部屋を持っていました。女性たちは自分の意思とは無関係に子供のころ、強制的に連れてこられ、改宗させられ、また名前も変えられて、厳しい教育を受けたとの事です。最盛期には1000名を超える女性が居たそうです。
 トプカプ宮殿は現在、博物館となっています。宝物館には86カラットのダイヤモンドが飾ってありました。 
 トプカブ宮殿の名前の由来は、ここにポスポラス海峡をにらみ大砲が設置されていたためだそうで、トプ(大砲)、カプ(門)から来ているそうです。
 タイル装飾では随一といわれる部屋も見学しました。

 今日の昼食はこの宮殿の奥にあるレストランでした。貴重な経験です。
 

 



アヤソフィア博物館
 
 ギリシャ正教の大本山として君臨するものの、後にイスラム寺院に姿を変えたイスタンブールを象徴する寺院で、いまだギリシャ正教の壁画が残っています。ビザンツ建築の最高傑作ともいわれています。 
 聖母マリアの手形といわれる穴があり、柱から離すことなく、ぐるりと円を描けたら、願いがかなうというもの。家内がトライしたら成功し、周りの人が拍手をしてくれました。




ポスポラス海峡、貸しきりクルーズ 

 この時もまだ雨で、みぞれみたいに冷たく、風も強く残念でしたが、イスタンブールの美しい眺めを楽しみました。ポスポラス海峡には二本の端がかかっていますが、北側の二本目の橋は、日本のIHIの建設によるものだそうです。



ベリーダンス・ディナーショー 

 ディナーが8時ごろから始まり、8時半からショーが始まりました。お腹とお尻とおっぱいを激しく振る踊りで、一人づつ、4名のダンサーがおどりましたが、3番目のダンサーは、この分野では超有名な Ms. Asena で、その踊りの素晴らしさには本当に驚き、堪能しました。
 ショーの最後は、各国から来ている観客の歌合戦で、1番たくさん居たのは日本人、次いで韓国人で、その他10カ国ぐらいありました。
 韓国グループの歌はアリランで、日本は上を向いて歩こうでした。日本の歌の後、韓国人グループなど、たくさんの方が、拍手をしてくれました。
 最後に、わらわれのグループの中から一人が選ばれ壇上に上がり、相撲と、指揮者のまねをさせられ、拍手喝采でした。終わったのは10時45分頃でした。



 ここをクリックしてAsena嬢の華麗なるダンスをお楽しみください。




     

7日目 イスタンブール市内観光。(エジプトバザール、グランドバザール、ブルーモスク)

 イスタンブールはポスポラス海峡を挟んでヨーロッパ側とアジア側とに別れ、2本の橋で結ばれて居ます。北側の橋は日本のIHIがつくったそうです。
 旧市街にはバザールやモスクがあり、いわゆる下町で、新市街には我々が泊まったホテルやビジネス街、役所などがあります。
 朝、運動のため散歩していると、通勤途中の典型的なトルコ人が話を掛けて来て、お前の名前はなんと言うのかとか英語で聞いてきたので、家内が「ひとみ」と答えると、おお、ヒロシマとか言って笑っていました。
 一緒に写真を撮りました。トルコには陽気な人が多いようです。



エジプト・バザール
 

 ダイヤモンドのような高級品はありませんが、生活に密着したものなら、何でもあるようです。値段も比較的リーゾナブルでした。イヌやネコ、小鳥も売っていたのにはビックリでした。




グランド・バザール
 
 エジプト・バザールよりもスケールが大きく、4,500もの店があり、全部見るとかなりの日数が必要だそうです。
 家内が、応接間のテープルに敷くクロスが欲しいとか言い出し、それらしい店に入り、気に入ったのを探して、幾らと聞いたら、日本円で7千円と言われました。高いと言ったら、6千円、5千円と負けて来て、それでも高いと言ったら、2千円と言われました。そのまま、店を出たら、追いかけてきて、千円と言ったので、記念に一枚買いました。
 ここでは、値段など有る様な無い様な感じでした。



スルタン・アフメット・ジャミィ 通称 ブルーモスク
 
 17世紀の始めに建てられたオスマン・トルコ建築の極みと言われるモスクで、巨大ドームの周りにトルコでは最も数の多い6本のミナレット(尖塔)を持っています。今日は3日ぶりに晴れ、その素晴らしい姿を見ることが出来ました。内部のブルーのタイルの美しさにはうっとりでした。
 このブルーモスクに対応し、アヤソフィア宮殿が見えます。今日は天気が良かったので、もう一枚、写真を撮りました。


 昼食を新市街の日本料理屋でとったあと、時間があったので、ちょっと散歩をしました。家内がなんと言ったのかわかりませんが、学生たちをつかまえて来て、写真を撮らせて貰いました。
 この町の中心街は歩行者天国で、車は全く走らないのですが、人たちをぬって市電が走っていました。
  トルコの最大のスポーツはサッカーで、大きなボールが新市街の中央に飾られていました。


 これでいよいよ、今回の旅が終わりに近づきました。これから空港です。
 旅は本当に楽しい。今回もいろいろなことを得る事も出来ました。そして、いろいろな人と話をしながら、楽しいたびを味わいました。出来たら、もう一度イスタンブールに来て、ゆっくりとそのたたずまいを味わいたいと思います。




次の旅日記に移る(海外編)


旅日記の表紙に戻る

















































    .