モロッコ7大世界遺産紀行10日間


2008年2月16日(土)〜2月25日(月)

クラブツーリズム

 

 昔、名画、カサブランカを見たときの感動は今でも忘れられません。異国情緒の満ち溢れた街です。
 北アフリカに位置するチュニジア、アルジェリア、モロッコの3国を総称し、日の没する西の大地「マグレブ」と呼ばれ、モロッコはもっとも西に位置しています。
 「ここは地の果てアルジェリア」と歌われた所よりも、もっと遠いところにあります。いろいろな民族が交じり合ったエキゾチックな大地とも言われています。
 今回のツアーは、モロッコにある8つの世界遺産の中の7つを見て周り、また、らくだに乗ってサハラ砂漠の砂丘を登り、日の出を鑑賞するツアーでもありました。
 参加者は27名で、男性が10名、女性が17名、そのうちご夫婦は3組でした。最高齢の女性は今回も、82,3歳で、大変お元気な方でした。 



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 モロッコの国土は日本の1.2倍で、人口は 3,300万人、首都はラバトですが、一番大きな都市はカサブランカで350万人の人が住んでいます。
 元首は国王モハメッド6世で立憲君主制をとっています。国教はイスラム経(スンニ派)で言語はアラビア語とフランス語の2つになっています。
 国土は北南にアトラス山脈で分断され、北側には肥沃な大地が続き、人口も多く、アラブ系の人が住み、南側はサハラ砂漠に隣接し、乾燥し索漠とした大地が続きます。ベルベル系人民が多く、馬やロバが走る別な世界になります。
 フランスから独立した後も、フランスと強い関係にあり、持ちつ持たれつという関係のようです。
 モロッコの経済力は世界でも下のほうで、一人当りのGDPはほぼ中国と同じにランクされており、タイよりも低く、エジプトとほぼ同じのようです。モロッコ人の夢は憧れの国、フランスのビザを取得し、一攫千金を夢見ることだと言う話をガイドさんから聞きました。
 今回の旅は、7つの世界遺産を訪ねる旅ではありましたが、モロッコ最大の都市カサブランカ、第二に大きい首都ラバト、第三の都市、マラケシュも訪ねることが出来ました。
 10日間の旅ではありますが、往復に時間がかかり、ホテルには7泊でした。


1日目 羽田から関空、そしてドーハへ
2日目 ドーハからカサブランカに到着、その後、ラバト、メクネスを訪ね、フェズで宿泊
3日目 フェズ市内見学、フェズで宿泊(連泊)
4日目 アトラス山脈を越え、エルフード宿泊
5日目 ラクダに乗りサハラ砂漠の日の出鑑賞、その後、
     カスバ街道を通り、街道最大の町、ワルサザードへ
6日目 再びアトラス山脈を越え、マラケシュ宿泊
7日目 マラケシュ市内見学 マラケシュ連泊
8日目 マラケシュからエッサウィラ、アルジャデーダ経由、カサブランカ宿泊
9日目 朝、カサブランカ空港出発
10日目 15:10関空到着。 20:40羽田に到着。 自宅到着22;30分でした。

         

1日目 関空からドーハへ

カタール (Qatar)の国旗


1日目のルート

 飛行ルートは、羽田から関空に行き、そこからカタール航空でドーハに行き、そこで飛行機を乗り換え、トリポリ経由でカサブランカへ行くものでした。下の図にそのルートを示しますが、2日目の午前中の図もその下に示します。





2日目のルート

 サッカー試合のロスタイムで逆転され、ドーハの悲劇として有名になったカタールのドーハが、今回の旅の中継基地で、カタール空港のターミナルであり、世界各国を安い運賃で結んでおり、最近人気が出ているようです。
 関空を午後5時に出発し、時差の関係でちょうど真夜中にドーハに到着しましたが、きれいな空港で、大変混雑していました。真夜中でも運行しているのが理由に一つだと思います。
 ドーハで下車し、もう一度手荷物検査をした後、飛行機を乗り換え、再び、カサブランカに向かいました。
  


 カサブランカへは、ヨーロッパ経由で行くことも出来ますし、そのほうが短時間で行けるのですが、カタール航空はかなり安い運賃で座席を提供しており、最近人気が出てきているそうです。
 現職を離れ、仕事に追われる事がなくなると、何処で時間を過ごしても同じなので、最近は飛行機の中で時間を過ごすことや、空港で待ち時間を過ごすのにあまり苦で無くなりました。パソコンをいじったり、本を読んでいると、すぐに過ぎてしまいます。特に飛行機では、アルコールが無料で、何時でも気軽に飲めるのが好きです。
 今回、自宅からカサブランカに着くまでに掛かった時間を計算してみました。
 自宅−羽田空港(京成電車) 2時間。
 羽田空港、受付から出発までの待ち時間。 3時間30分。
 羽田−関空 1時間15分
 関空での待ち時間 3時間55分
 関空−ドーハ 12時間25分
 ドーハでの乗り換え時間 1時間40分
 ドーハ−トリポリ 6時間05分
 トリポリでの待ち時間 1時間。
 トリポリ−カサブランカ 3時間20分
 以上を合計すると 35時間10分となりました。たぶん、今までの海外旅行では一番時間がかかったと思います。
 面白いことに、これだけ長く飛行機に乗ると、その間に時差が取れてしまい、行きも帰りも、時差解消の苦労はありませんでした。
 ただし、羽田と関空での待ち時間が多かったのが大きく影響しているので、関西の人とはだいぶ違います。


     
2日目 カサブランカに到着、ラバト、メクネス、ヴォルビリス見学

 さすがアラブの飛行機です。テレビ画面には、時々メッカの方向が表示されます。毎日5回、メッカに向かい、お祈りをする人たちにとって、どちらがメッカかは重要なのでしょう。ただし、飛行機の中でお祈りをしている人を見ることは出来ませんでした。
 サウジアラビアの中央に位置するメッカはモロッコから見ると、ちょうど日の出る方向に当るそうなので、日の出る方向に向かってお祈りをするそうです。
 カサブランカに朝の8時半到着でしたが、残念ながら雨が降っていました。そこから乗り込んだ現地のガイドさんによると、今年に入って3回目の雨だそうです。どうも雨にはついて居ないようです。



首都ラバト

 バスはカサブランカによらず、直接首都ラバトに向かい、現在の王様のムハンマド6世の王宮の見学から始まりました。1864年に建設され、家族もここに住んでいるとのことです。
 入り口の門まで見学可能でした。
 近くにモスクがあり、毎週金曜日には祈祷のため王様が訪れ、パレードが行われるそうです。また、王様の入る門は決まっているそうです。


 
 同じ市内にある、ムハンマド5世の霊廟とその敷地内にあるハッサンの塔の見学です。
 ムハンマド5世はフランスからモロッコの独立を勝ち取り、1961年に没しましたが、この霊廟は1973年に設立されました。
 入り口には衛兵が立っており、一緒に写真です。霊内はとてもきらびやかで、周りのタイルも美しい。
 霊廟の前には未完のミナレット(尖塔)があります。
 1195年、建設に着手されましたが、その後中断されたそうです。計画では88mの高さになるはずでしたが、現在の未完状態でも44mあり、世界最大級の高さを誇っています。
 交通標識はアラビア文字で書かれています。たぶん、一時停止だと思います。



メクネス

 メクネスは17世紀の一時期、首都として栄え、市のメディナ内にあるムーレイ・イスマイール廟はモロッコでも1,2を争う美しさと言われています。
 城壁にはコウノトリが数羽、とまっていましたが、モロッコではいろいろな所で、コウノトリを見かけました。コウノトリはこの時期モロッコで過ごし、夏になるとヨーロッパに行ってしまうとのことです。今見られたのは幸いです。
 有名なマンスール門は1732年に完成し、下の写真の10枚目になります。
 ムーレイ・イスマイール廟には本人のお墓があり、その美しさは、イスラム文化の最高傑作と言われています。



聖者の町 「ムーレイ・イドリス」

 ここは789年、モロッコ最初のイスラム王朝イドリス朝が開かれた場所です。
 今回は遠くから眺めるのみでした。狭い急坂が多く、車が通れないなど、現在の生活では不便なことが多く、人口は減少し続けているとのことでした。
 



世界遺産 ボルビリス遺跡

 モロッコに現存する最大規模のローマ遺跡で、1997年、世界遺産に登録されています。遺跡に入ると、まず、議事堂の後が見えてきます。裁判所にも使われたそうです。通りの入口には凱旋門が作られ、その両側には貴族の住居があったそうです。そこの床にはギリシャ神話に基づく様々なモザイク画が描かれています。街中には神殿などが建てられ、また、オリーブ油を搾る場所が65も発見されているそうです。西暦2世紀の頃には約2万人の人が住んでいたようです。18世紀の地震で壊滅し、1887年、フランス人により発見され、現在も発掘作業が続けられています。遠くにムーレイ・イドリスの町が見えます。


 見学中、日が暮れてしまい、その後、バスで約1時間半かかり、最初の宿泊地、フェズに向かいました。小雨が降っていました。


      

3日目 フェズのメディナ観光(世界遺産)

 フェズの旧市街は世界一複雑な迷路の町として有名です。
 フェズで連泊ですが、朝、4時ごろ目を覚まし、ちょっと廊下に出てみましたら、本当に真っ暗なのには驚きました。誘導灯が全く無く、暗くて何も見えず、一歩たりとも歩けません。ここでも節電は徹底しているようです。
 ホテルは旧市街の中に位置し、様式はイスラムらしく、中庭は吹き抜けに作られていました。
 まだ暗いうちから、コーランが聞こえてきます。ここはイスラムの国であることを思い出させます。
 今朝はゆっくとした出発なので朝食後、ホテルの近くを散歩してみました。小さな路地に入ると、確かに複雑なので、あまり深入りせずに戻って来ました。ホテルの前には小さな広場があり、タクシー乗り場やバス乗り場がありました。タクシーはすべて赤い色で、比較的小さな車でした。経験的に、タクシーの大きさでその国の経済力が分かります。乗り合いバスも赤い色で塗られていました。どうもタクシーの色は町によって違うようです。スクールバスも走っていました。



 フェズの町は新市街と、フェズ・エル・バリと言われる旧市街と、フェズ・エル・ジェディドといわれる旧市街の合計3つの市街があります。この旧市街は世界遺産に登録されています。
 フェズ・エル・バリはモロッコ第一の古都で、西暦9世紀の頃、フェズ川の西側の町をチュニジアのカイルアン出身者たちが、東側をイベリア半島出身者たち作り上げており、マラケシュと並んで世界的にも有名な観光名所となっています。
 もう一つの旧市街 フェズ・エル・ジェディドは13世紀になって作られ、下の写真の王宮や、知事の公邸などもこの地区にあります。
 この王宮は、国王がフェズに来た時に使用するもので、一般の人たちは、門内に入ることは出来なませんが門前には、非常に広い広場とその周りにモロッコを象徴する椰子の木やみかんの木が並んでいました。王宮の扉は手彫り彫刻のきらびやかで美しい模様で飾られています。


 旧市街にはどの町にもユダヤ人街があるようです。写真の右側はユダヤ人街で、2階には美しいベランダと鉄格子が付けられた窓があります。宗教上の問題もあり、現在、ユダヤ人はほとんど住んでいないそうです。道路の左側には、干した柑橘類のお店など、商店街になっていました。



 荷物の運搬は馬やロバが使用され、エキゾチックな雰囲気をかもしだしています。




 イスラムの町の旧市街を「メディナ」と呼びますが、一般に城壁で囲まれています。数10kmにも達する非常に長い城壁なので、美しく飾られた門の一つををくぐり、中に入ります。我々も門をくぐって、いよいよメディナ探索です。
 なお、メディアの語源ですが、メッカの北300kmの所にメディナという町があり、メッカに次ぐ第二の聖地で、「預言者の町」としても知られています。イスラム教の開祖ムハンマドがメッカを追われ、この地でイスラム教を広げました。後に、イスラム教徒が住む旧市街をメディナと呼ぶようになりました。
 知能テストやパソコンゲームに迷路メーズがありますが、一歩中に入ると、入り組んだ狭い道が交差し、入る道を一歩間違えると、何処にいるのか分からなくなります。広い道路は勿論、狭い道路にもお客を捕まえようと商品を飾っています。
 何か妖しい魅力が漂っています。女と宝の街と言われるのも分かるような気がします。カスバの女という言葉はこのあたりから、出てきたのでしょうか。



 狭い路地に面した小さな門をくぐると、ごく普通の民家の中に入り込みました。そこで、ミントティを頂きましたが、旅行社がトイレ休憩を兼ねこの様な民家を探したのかもしれません。ロケット弾のような大きな砂糖の塊が置いてあり、それを削って入れるのだそうです。
 ご夫婦で応対してくれましたが、イスラムでは男性がお客を応対し、女性は常に台所の中に居るそうです。奥さんの写真を撮らせて頂きました。


 
 フェズは職人の町でもあります。金や銅、真鍮、ブロンズなどを昔ながらの手法を受け継ぎ、お皿など、いろいろと美しい製品を作り出しています。


 狭い道路は商店や商品の飾り棚になったり、衣類や革製品の染色場にもなっていて、狭い道路をますます狭くしています。運搬手段はロバですが、そのロバでさえも、進入禁止の場所があります。


 フェズは革製品の町としても有名です。メディナの中に革製品を作っている工場があり、見学することが出来ました。皮をなめし、染色し、乾燥し、靴やカバンに加工して売っています。労働環境は劣悪で、臭いも強烈です。売り場の中も、頭が痛くなるほどの臭いでした。
 明治時代の日本の職場を想像させられます。現在の日本では考えられない労働環境です。
 それとは対照的に、屋上には大きなパラボラアンテナが一面に置いてありました。どうやら CATV は無さそうです。電話線ならともかく、高速インターネットは無理なようです。見渡すところ、クーラーも無さそうです。


 昼食のレストランは坂を上った頂上近くにあるらしく、ガイドさんに連れられて、右に左にと曲がりながら、息を切らして登って行きました。途中、イスラム寺院の飾り用の木材加工場の中を通りましたが、道路なのか工場なのか区別が付きませんでした。
 レストランは、以前皇族が住んでいたとか、立派な内装でした。


 メディナの中にはたくさんの人が住んでいるので、その人たちを対象に商売をしているのでしょう。とにかく何でも売っています。百貨店の中で生活しているような感じです。


 メディナから門をくぐり外に出ると広々とした広場に出ます。馬やロバがゆっくりと歩いています。それを避けて車が走っています。広場では、誰でも開けるのでしょうか、青空市場がありました。


 フェズの街並みを見下ろせる小高い丘に登ると、町全体を一望できます。滑らかな山肌に沿って、家並みが続き、遠くに黒い煙が見えます。この煙は陶器工場の煙だそうです。


 フェズは陶器の町としても有名です。粘土を砕き、粉にして乾燥し、再びそれを練り上げ、陶器を作ってゆきます。昨日ヴォルビリスで地面に埋め込まれた絵画タイルを見たと同じような、模様を持ったタイルの製作もしていました。
 工場から上がるものすごく黒い煙は、釜をたくためにオリーブの絞り粕を燃した時出るそうです。幾つもの工場から黙々と出るこの煙には言葉もありませんでした。


 ホテルに戻る前に、町のスーパーマーケットを覗いて見ました。品揃えは日本とさほど違いません。お酒コーナーにはワイン、ビール、ウイスキーなど、何でも置いてありました。イスラムの国は禁酒と聞いていましたが、モロッコはそうでもなさそうです。


 ホテルに戻り、窓から外を見ていると、男性たちが椅子に座ってお茶をのんでは、話し込んでいました。皆さん、話好きなようです。ただし、女性は居りませんでした。飲んでもかまわないそうですが、その手の女性と思われるそうです。


    
4日目 中アトラス山脈を越えエルフードへ

  昨日、強烈な印象を受けた旧市街「メディナ」とまるで違ったこの新市外を通り、今日は一日バスに揺られ、中アトラス山脈を越え、サハラ砂漠の入り口の町、エルフードへと向かいます。
 新市街は、オフィスやホテルのある、ごく普通の近代的な町でした。


 バスはどんどんと高度を上げ、アトラス山脈を上って行き、標高が1,650mに達したところに、今までのモロッコとは全く違った街並みのイフレンがあります。周りにはアトラス杉が茂り、ぼほすべての家の屋根にコウノトリのツガイが巣を作っていました。この地はフランスの植民地であった頃、避暑地として作られ、現在はお金持ちの別荘地としてなっています。


 峠の頂上に近づくに従い、雪が見えます。まだ2月なので、これからも積もるそうです。峠の頂上でバスを降り、記念写真を撮りました。標高2,198mでした。この様な高地にも、羊飼いが餌を求め、飼い羊を誘導しておりました。何にも繋がれていないロバが一匹、じっと立っていました。


 途中、ズィズ渓谷を通りました。渓谷といっても、それほど際立った渓谷ではありませんが、片側には非常に高い絶壁がそびえていました。ここで、ZAABAL というトンネルを通りましたが、モロッコではこれが唯一無二のトンネルだそうです。
 下流にはこの川を堰き止め、発電所要の人造湖がありました。砂漠の水はいろいろな用途に使用されているようです。


 バスは時々、トイレ休憩を兼ね、ガソリンスタンドに停まります。こちらのトイレは、だいたい10ディルハム(14円)取られます。レストランなどは無料になります。
 ミデルトとエルランディアの町を通り、時々オアシスの町も通ります。オアシスにはナツメヤシが生い茂り、その中に土で出来たカスバの家並みが現われます。
 カスバは明日と明後日にかけて、たくさん見ることになりました。


 エルフードは化石の町としても有名だそうで、化石工場を見学しました。大きな石を掘ってきて、フライス盤で平らに削り、いろいろな製品を作り出していました。販売もしておりました。


 明日はサハラ砂漠を登り、日出を見る予定です。情報によると、今朝の砂漠は雨模様だったとのこと、砂漠でも雨が降るようです。でも、満月の空を見上げると、ずっと雨模様であったモロッコも明日は天気が良さそうです。
 明日の朝は月の砂漠でしょうか。楽しみです。


         

5日目 サハラ砂漠日の出鑑賞とカスバ街道を走る

 今日の午前中は、サハラ砂漠の砂丘をラクダで登り、日の出を鑑賞するツアーです。
 朝5時ちょうどに、ホテルの前に待機していた四輪駆動車に5名ずつ乗り込み出発です。約20分は舗装道路を走りましたが、その後は、はっきりとした道路が無くなり、比較的硬い砂地を走ってゆきます。前の車の砂埃を被らない様、並列に走ってゆきます。まだ、真っ暗ですが、左右にヘッドライトを照らした車が並走しているのは壮観でした。約40分も走ると、ラクダの基地に到着し、そこでラクダに乗り換えました。
 ラクダに乗るのは全く初めての経験でしたが、全員問題なく乗れたようです。ラクダの鞍の高さは人の背丈より少し高く、落ちると怪我をするそうです。しっかりと取っ手を掴んでいないと振り落とされます。特に、ラクダが起きる時や座る時は急激に動きます。
 昨日の月がまだ残っていました。満月でした。まさに月の砂漠でした。自然に歌を口走りました。
 約30分も砂丘を登ると到着です。もう、いろいろなグループの先発隊が、より高いところに陣取っていました。あまりにも広いので何処へ行っても良いのですが、めいめい、適当なところで日の出を待っています。
 幸い今日は晴天でした。昨日は天気が悪く日のでは見えなかったそうです。
 ゆっくりと日が昇り、砂漠を赤く照らし始めました。家内が手を広げ、お祈りの真似をすると、ラクダ引きのガイドさんも一緒にお祈りをしてくれました。
 しばらく鑑賞後、今度は砂丘を下りますが、上りよりも手に体重が掛かり、歩いたほうが楽のような気もしました。
 ホテルに帰る途中、化石探しを行いました。毎日いろいろな人が来るので、無くなってしまわないのか不思議ですが、幾つもの化石を見つけることが出来ました。 


 泊まったホテルにはプールもあり、無線LANも無料で使用できました。砂漠の田舎なのに驚きです。ただし、モロッコで無料インターネットを使用できたのはこのホテルのみでした。
 朝食後、出発まで時間があったので、外に出て道路を眺めていると、馬やロバが走っていました。かなり高速で走ります。
 真っ黒な衣装をまとい、眼だけを出した女性たちが歩いていました。仕事に行くときはこの様な服装をまとうそうです。


 今日はカスバ街道を西に進みますが、エルランディアを少し過ぎた所に、古井戸の残骸がなんと数百個も見かけました。水脈をこの地に発見し、その後、どれかの井戸が枯れても大丈夫なようにたくさんの井戸を掘ったということでした。エルランディアの人たちは毎日ここまで歩いて水を汲みに来たとのこと、昔の人の苦労が偲ばれます。


 昔、このカスバ街道は、アトラス山脈を越えマラケシュへと向かうラクダ隊で賑わったということですが、何処まで行っても砂漠地帯が続き、わずかに生えた草を追い、カスバの住民や遊牧民がラクダを追っていました。
 川に近く少し水がある所にはナツメヤシが生えていました。一こぶラクダの一団も見ることが出来ました。繋がれても居ませんでした。子供のラクダも居ます。この様にして飼育するのでしょうか。所どころに携帯電話用にアンテナも見えます。
 ガソリンスタンドの近くに自転車を持った少年を見つけました。子供専用の自転車を持っています。
 子供の時、我が家もかなり貧しかったのですが、父親が子供用の自転車を買ってくれて、嬉しくなって乗り回したのを思い出しました。


 今日の出発地エルフードと宿泊地ワルザザードとのちょうど中間付近にカスバの町、ティネリールがあリます。町に近づくと、川べりで洗濯をしている女性たちを見かけました。カスバからこの川までかなり下ってきて洗濯をしているそうです。いまだ電気や水道も無い家も少なくないそうです。
 カスバとは数家族が集まり、その外側を厚い土塀で囲んだ区画を云うそうです。下の2枚目の写真に幾つものカスバを見ることが出来ます。カスバの中は迷路のようになっていて、外敵が攻めてきても、反撃が容易に出来るようになっているそうです。ベルベル族が東からのアラブ民族の侵攻に耐えるように作られており、現在もベルベル人が住んでいます。
 このティネリールは人口1万5千人のオアシスの町でトドラ川沿いにあり、ナツメヤシの木が茂り、静かな町を形成しています。
 カスバの生活は、現在では全く不便なつくりで、そのまま廃墟になっているのをくさん見ることが出来ます。作り変えるより、別な場所に新しく作ったほうが簡単なのでしょう。


 ティネリールから少し入ったところにドドラ渓谷があります。両側に際立つ岩山が立ちはだかり、間に小川が流れています。
 岸壁はほぼ垂直に伸び、ロッククライマーたちにとっても練習するのに憧れの場所だそうです。


 また、しばらく西に進むと、別のカスバが現われました。ここもオアシスに町で、ナツメヤシが生い茂り、幾つものカスバで構成されています。カスバの壁はかなり厚く作られています。

              

6日目 ワルザザードから大アトラス山脈を越え、
ああああああ
            世界遺産の町マラケシュへ

 昨夜の宿も、プールがある立派な作りでした。さすがモロッコです。部屋のドアもイスラム様式で作られていました。


 ワルザザードは1920年時代に、フランス軍によってサハラ砂漠への最前線基地として作られ、現在もモロッコ軍最大の軍用地にもなっています。
 映画「アラビアのロレンス」を撮影した場所としても有名で、数々の映画が作られており、撮影所が2つもあるそうです。
 なぜか今日も雨でした。


 町から出て1時間半ほど、トイレ休憩を兼ね、典型的なカスバの内部の見学でした。確かに上の階へは細く曲がった階段を登って行きましたが、夏場は涼しくするため、家の中央に吹き抜けの大きな広場があり天上まで通じていました。天上はテントで覆われ、夏場は取り払われるそうです。3階近くに中央の空洞を囲み4つのきれいな部屋がありました。イスラム教では4人まで妻にすることが出来るそうで、ここの住人には4名の妻が居たそうです。屋上から下を見ると、典型的なカスバを幾つか見ることが出来ました。車庫のような建物がありましたが、その中には馬がいました。車に代わりに馬を使っているのが分かります。
 ここでも、紅茶を頂きました。


 モロッコで最も美しく 1987年、世界遺産に登録されている「アイト・ベン・ハッドゥ」です。見るからに要塞化され、壮観な姿を見せています。数日来の雨で小川が増水し、普通なら石を渡り歩いて通れるこの川も、今日はロバに乗らないと渡れないようです。
 計画では頂上まで登ることになっていましたが、ここのロバ使いは荒っぽく、以前観光客が川の中に滑り落ち、大怪我をしたことがあるそうです。
 ガイドさんが行くたいか、中止したいかアンケートをとったところ、圧倒多数で中止になりました。川を渡ることよりも、山を登ることのほうがきつそうでした。
 現在、ここには5,6家族だけが住んでいるそうです。確かに不便で、どのような職業についているのでしょうか。


 カスバ街道を走っていると、満開に咲いたアーモンドの木を良く見かけます。
 モロッコでは2月にアーモンド祭りが行われるそうです。日本の桜によく似ています。アーモンドチョコレートで有名なあのアーモンドです。山は新緑で、ちょうど日本の桜の季節と同じような陽気でした。


 昼食はモロッコ名物タジン鍋料理でした。米の代わりにアワやヒエが使用されています。美味でした。




 今日は一日中、降ったりやんだりの天気でしたが、大アトラス越えの時も雨が強く振っていました。雪になると通行止めになることがあり、進むことも戻ることも出来なくなり、2年前に日本のツアーバスが閉じ込められ、水や夕食はヘリコプターで運んでもらいましたが、雪の中で暖房も無い一夜を過ごしたそうです。
 山の中腹にカスバがあり、その下に棚田が広がっていました。崩れた山は鉄分でしょうか、赤い肌を見せていました。




 夕方、マラケシュの町に到着しました。赤い町として有名ですが、ホテルの廊下まで赤く染められていました。
 この町に来て初めて、窓にクーラーを見ることが出来ました。


 夕食後、ファンタジアショーの見学でした。一旦、レストランの中に入り、飲み物を飲みながら、民族ショーを見学し、その後、屋外の広場に出て、馬に乗って銃をうち放つバロウドショーやアクロバットショーを見学しました。また、小雨が降っており、終わったのは夜の11時半近く、ビールを飲んでこともあり、眠くて目が開きませんでした。



             
7日目 マラケシュ市内観光

 モロッコ第三の都市マラケシュは赤い町としても知られフェズについで2番目に古い街でもあります。
 1070年ベルベル人がこの地にイスラム国家を設立し、商工業、文化の地として栄えてきました。
 15世紀の中ごろ、サアード朝が都と定め、幾つもの美しい建物が建てられている。
 街は、新市街と旧市街、史跡地区と大きく3つに分けられ、新市街には下の写真のように緑豊かでオペラ座などもある近代的な都市です。旧市街は大きな城壁に囲まれており世界遺産にk指定されています。


 城壁の中に入ると、まず目に付く、高くそびえる塔「クトゥビア」は、77mの高さを持つミナレット(塔)で、4面、それぞれ異なる装飾を持っています。1192年に完成し、世界で最も美しいミナレットの一つと云われています。
 伝統の水売りが居て、写真を撮るにはお金が必要でした。ここにもコウノトリが巣を作っていました。



バイア宮殿

 輝く宮殿とも云われ、周りには大きな庭園があり、種類が多くまるで植物園のようです。中央には美しいムーワ式の庭があるり、また大広間には大理石が敷かれ、噴水のある水盤が中央に置かれています。
 愛妾用に美しい幾つもの部屋が用意され、天上は精密に描かれています。4名の后と24名の愛妾が居て、子供は100名以上も居たとのこと。とにかく美しい宮殿でした。
 アルハンブラ宮殿よりも美しいといわれています。


 宮殿を出てレストランまで、メディナを歩きましたが、人力車、狭い道、商店街など、観光地の風情を示していました。



メナラ庭園

 12世紀のムワッヒド時代に作られた広大な庭園ですが、中央に大きな貯水池があり、その周りにオリーブ畑があります。庭園といってもただそれだけで、何が庭園かと不思議になります。



スーク(市場)
 ジャマ・エル・フナ広場に隣接するスークは世界最大とも言われ、デパート級の絨毯売り場や総則品売り場などもありました。フェズのスークと比べこちらのほうが清潔で広いが、狭い路地も広がっています。



ジャマ・エル・フナ広場

 夕方になると何処からとも人が集まり、毎日深夜まで人で賑わう大道芸や商店が並ぶ非常に広い広場。
 ここでお土産のナツメヤシとアーモンドを買いました。一応値切りましたが、なかなか負けてくれませんでした。4時から5時ごろまで、自由解散でしたが、だんだんと人が増えてきました。有名な水売りも居ましたが、写真を撮るとお金を請求されるようです。
 蛇使いも、芸を見せてお金を貰うのが商売ですから、遠くから写真を撮らないと面倒です。



        
8日目 マラケシュからカサブランカへ

 今日は観光の最終日、マラケシュをたちカサブランカまで、世界遺産の2ヵ所を訪ねます。
 途中、仔羊がアロガンの木に登り、その実を食べて居ました。なんと美しい光景でしょう。
 ただし、これはやらせで、バスが止まり観光客が写真を撮ると、チップをねだられました。近くの住民がわざとしていとのことでした。
 昔、このような風景は良く見られたそうですが、アロガンの実が美容に良いことが知れ渡ると、貴重品になり、今はその実から油を絞り生計を立てており、羊には食べさせないそうです。アロガンの実はオリーブの実と同じような形をしていました。 


 しばらくして、海岸の町、エッサウィラに到着です。モロッコ人が一度は行ってみたいと憧れる町で、18世紀以来、モロッコ各地から文人や芸術家が集まってきたそうです。
 小さなメディナがあり、海に面した城塞があります。そこには、海に向かって大砲を配置し、それが200m以上も続きます。1769年に作られましたが、遠くに見える島には牢獄があったそうです。このメディナは世界遺産に指定されています。
 たくさんの漁船と、それを取り巻くカゴメの群れ。まさに美しい漁村の風景です。カゴメを見ながら昼食をとりました。


 エッサウィラからアルジャディーダまでは、海岸に面した道路を通りますが、あまり豊な大地では無さそうです。羊の群れをいたるところで見かけました。


 アル・ジャディーダはカサブランカの南西約90kmの地点にあり、旧市街メディナは2004年、世界遺産に登録されました。
 1502年〜1769年、この地をポルトガルが支配し、メディナはポルトガル人が作りました。
 メディナの中には、ポルトガルの貯水槽(入り口だけを見学)や協会(入り口だけを見学)、海に面した城塞などがあります。ここにも、数は少ないものの大砲が設置されていました。
 カサブランカに近いためか、白い家が続きます。


 今夜の宿泊地、カサブランカに到着した時は、すっかり暗くなっていました。
 今回のツアーでは、カサブランカ市内の観光はありませんでしたが、ライトアップされたハッサン2世のモスクを外から眺めることが出来ました。このモスクは1986年から8年がかりで作られ、モロッコ最大のモスクで、20世紀最高の芸術作品とも云われています。
 高くそびえるミナレットの高さは200mもあります。
 前国王のモスクとはいえ、貧しい国が大金を投じてこの様なモスクを作れるのも、王国であるが故だと思います。


 いよいよ今夜で、観光は終わりました。明日は朝7時にホテルを出発、空港へ向かいます。 
 今回の旅は、思い出の多い旅でもありました。遠い異国というイメージがなにか身近に感ずることが出来るようにもなりました。
 大アトラスの雄大な風景、サハラ砂漠と砂丘、カスバの町、人混みの中で生きるメディナの生活、どれをとっても、私には驚きの連続でした。
 今後、観光の国としてもより脚光を浴びるであろうと思います。



      
9日目 カサブランカから羽田へ

 昨夜はホテルに到着後、すぐにレストランで夕食をとり、そのまま寝てしまったので、ホテル内部を見る余裕はありませんでしたが、朝、フロントに出てみると、いかにもアラブ風の立派なホテルでした。
 出来たらこの様なホテルに連泊し、カサブランカの雰囲気を味わいたいものです。
 


 いよいよ、またカサブランカから長い時間をかけて羽田に向かいます。
 なぜか今日は晴れでした。
 カサブランカの空港は近代的で立派でした。
 カサブランカからトリポリまでは空いていて、座席を3つも占有しゆっくりと昼食をとれました。ビデオでは飛行機がメッカの方向に進んでいることを示していました。



家内が俳句を作りました。


コーランに目覚めて暗し春の朝

赤壁の朽ちたるカスバ春疾風

迷路行くフェズの女や春埃

アーモンド咲きモロッコに春が来る

それらの句を日経新聞に投句したら、2008年4月6日の新聞に掲載されました。








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