スペイン・ポルトガル13日間

2008年9月4日-9月16日

阪急交通トラピックスにて


                    

スペイン国旗

ポルトガル国旗




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 15世紀から16世紀にかけての大航海時代、世界中にその勢力圏を広げ繁栄した両国も、その後の世界的大変化に追従できず、主役を交代して以来だいぶ経ちますが、最近は両国ともEUに加入し、その存在感を増しつつあります。なお、スペインの2007年の一人あたりの GDP は世界20位で、日本の19位とほとんど変わりがありませんが、多分にユーロ高によるかさ上げの感じはあります。
 今回の旅行では、両国の英雄、コロンブス、バスコダガマ、マゼラン、ドンキホーテの作者セルバンテスなど、昔懐かしい名前を何度も聞くことになりました。
 また、ポルトガル人であるイエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエルは、1549年、長崎を訪れ、以来、徳川幕府が鎖国を実施するまで、日本に大きな影響を与えました。かるた、たばこ、カステラ、パン、シャボンなどの言葉はポルトガル語から来ています。
 過去、スペインには3回、ポルトガルには1回行ったことがありますが、その時見たフラメンコショーの素晴らしさ、闘牛の激しさは今でもよく覚えています。
 スペインはイタリアに次ぎ、世界で最もたくさんの世界遺産を有する国で、その歴史は日本よりもづっと古く、また、レコンキスタに代表されるがごとく、キリスト教徒とイスラム教徒との戦いの場でもありました。
 それらの国に、もう一度、観光という観点で行ってみたいと思い、阪急交通社のトラピックスに申し込んでみました。
 参加者は合計24名で、ご夫婦は9組、18名、その他はすべて男性でした。男性が女性より多かったのは初めてですが、日数が長かったせいかも知れません。
 

 今回の旅は、英国航空を使用し、成田からロンドンに飛び、そこからバルセロナに行き、その後、バスでスペイン、ポルトガルをぐるっと回り、帰りはマドリッドから再びロンドンに行き、成田へ戻るルートでした。
 そのため、バスには毎日、かなりの時間、乗ることになりましたが、幸い人数が少なかったためと、比較的大きなバスのため、ひとりで2人分の座席を使用でき、疲れは少なかったと思います。
 連泊はポルトガルの首都リスボンとスペインの首都マドリッドのみでした。そのため、市内を足で歩く時間がなく、どこを見たかなどの記憶が薄れやすいのは残念でした。
 真夏のスペインの暑さはものすごいと聞いていましたが、幸い、私たちが行った頃はすでに真夏を過ぎ、晴天も続いて、旅行には最適でした。
 下の地図にバスで走ったルートを書き入れました。




  
 

見学内容など 宿泊地 移動距離(km) バス走行時間
1日目 ロンドン経由バルセロナへ バルセロナ 24 45分
2日目 バルセロナ市内見学 バレンシア 403 5時間45分
3日目 バレンシア市内見学と白い風車見学 グラナダ 588 8時間
4日目 午前:世界遺産アルハンブラ宮殿
セビージャ 308 5時間
午後:世界遺産メスキータ
5日目 午前:世界遺産セビリア市内観光 リスボン 455 6時間30分
午後:世界遺産エボォラ歴史地区観光
6日目 リスボン市内見学 リスボン     
7日目 オビドス、ナザレ散策世界遺産バターリャ修道院見学 ポルト 396 5時間45分
8日目  
ポルト歴史地区観光、ポートワイン工場見学
サンティアゴ・デ・コンポステーラ 233 4時間30分
9日目 サンティアゴ・デ・コンポステーラ観光(世界遺産) レオン 290 5時間15分
レオン市内見学
10日目 午前:世界遺産サラマンカ市内見学 マドリッド 465 6時間30分
午後:世界遺産セゴビア観光
夜、情熱のフラメンコショー鑑賞
11日目 マドリッド市内見学 マドリッド 140 2時間30分
世界遺産古都トレド観光
12日目 ロンドン経由、成田へ    合計
3,300km
  
13日目 成田到着         


         

1日目 成田よりロンドン経由バルセロナへ

 午前10時55分発の英国航空にてロンドンへ。所要時間は約12時間でした。
 ヒースロー空港内で別のターミナルに移動しましたが、バスで10分もかかりました。かなり大きな空港です。
 スペインの航空会社イベリア航空に乗り換え19時10分出発、約2時間の飛行で、バルセロナには22時10分の到着でした。英国航空もイベリア航空もワンワールドのメンバーなので、ラウンジを使用できました。ロンドンではイベリア空港のラウンジで時間をつぶしました。
 私と家内の座席が離れていたので、ラウンジのカウンターで通路側の良い座席に直してもらいました。助かりました。



スペインの歴史

 ここでちょっとスペインの歴史を見ておきます。 
 紀元前7世紀ごろ、北アフリカからカルタゴ族が移住して来て、すでにイベリア半島に住んでいたイベロ人や、そこへ流入してきたケルト人、フェニキア人、ギリシャ人らとも交わり、地中海文化が栄え、カルタゴは地中海に発展し貿易大国になりました。
 紀元前3世紀になると、カルタゴは新興国ローマと存亡をかけた戦いを始め、紀元前218年、名将ハンニバルがカルタゴ軍を従いローマに進攻しましたが、長期戦となりカルタゴ軍は敗退してしまいした。以来、イベリア半島は700年に渡り、ローマの植民地となりました。
 ローマの支配下で都市は繁栄し、紀元前1世紀ごろまでには、ローマ帝国へ食物や金銀などの鉱物を運ぶため、たくさんの都市や街道が建設され、道路網が整備されました。
 その間、先住民の言葉はラテン語に置き換えられました。スペインにはローマ時代に関係する世界遺産が6つあります。
 しかし、紀元5世紀ごろになると、繁栄を謳歌したローマ帝国も衰退をはじめ、西ゴート族を中心に北方からゲルマン民族がイベリア半島に侵入し、419年、西ゴート王国が建設され、560年、西ゴート王国はトレドを都と定めました。
 711年、イスラム軍が北アフリカからジブラルタル海峡を渡り、侵入を開始しました。そして、イスラム軍は数年のうちにイベリア半島のほぼ全域を制圧してしまいました。当時のイスラム帝国は中央アジアから北アフリカを支配する大勢力になっていました。イスラム教徒はキリスト教徒に寛大で、キリスト信仰を許してきました。また、高度に発展していたイスラム文明を持ち込み、イベリア半島は大いに栄え、たくさんのモスクが作られました。
 ヨーロッパが貧困と停滞にあえいでいた時代、コルドバ地方は豊かで洗練された国へと成長しました。
 しかし、1031年、 内紛からイベリア半島を支配していたイスラム朝は、20余りのイスラム諸国に分裂してしまいました。
 それを機会に、半島北部のキリスト教の小国が集結し、レコンキスタを開始しました。
 1035年にはキリスト教徒によるカスティーリャ王国とアラゴン王国が誕生しました。
 やがてカスティーリャ王国はレオンを併合し、アラゴン王国はカタルーニャと連合し、キリスト教徒は大勢力を築いていきました。
 怒涛の勢いで領土を拡大してきたキリスト教徒軍は1236年、コルドバに入城、1248年にはセビーリャを制圧しました。そしてついにイスラム勢力はグラナダ王国ひとつを残すのみとなりました。
 1469年、カスティーリャ王国のイサベル王女とアラゴン王国のフェルナンド王子が結婚し、スペイン王国が誕生しました。
 1492年、ついにアルハンブラ宮殿のあるグラナダ王国を滅ぼし、レコンキスタを完成させました。この成功により、ローマ教皇からカトリック両王の称号を与えられました。
 この年、コロンブスがアメリカに到着するなど、大航海時代の幕開けとなり、ユダヤ人追放令を発令し、スペインのカトリック純粋化が進められました。
 1519年、スペイン王国のカルロス1世は、祖父であるハプスブルグ家のマクシミリアン1世の死去により、ローマ帝国皇帝の地位を継承し、それにより、スペイン王国は、オーストリア、オランダ、イタリアなどを領有し、太陽の没することなき大帝国になりました。
 しかし、同時にフランスやトルコとの戦いも引き継ぎ、その戦費は莫大で、自国の産業や社会基盤整備に回れず、ついに経済的に行き詰まり、没落への道を歩み始めました。
 以来、オランダは独立し、英仏との戦争には負け、ポルトガルも独立し、スペイン王位継承戦争が勃発し、内紛が発生します。その結果、領土はスペイン本国と新大陸のみとなってしまいました。
 18世紀には英仏に後れをとり、工業化をあきらめ、農業国として生き残る道を選びました。
 1807年、ナポレオン軍はポルトガル制圧を理由にスペインに進攻し、半島全域を制圧しますが、ポルトガルに駐留していた英国軍がフランス軍を撃退するなど、多くの戦乱に巻き込まれていきます。
 20世紀、第一次世界大戦や第二次世界大戦では中立国を維持しますが、内部では常に政治対立や内紛が続きました。第二次大戦後、フランコ独裁体制が続きますが、1975年、フランコの死去により、独裁体制が終了し、ブルボン家の現国王、ファン・カルロス一世が即位し、新憲法が制定され、民主化が進められました。
 1986年、ECに加盟し、1992年にはバルセロナオリンピックが開催され、社会基盤もおおきに整備され、スペインは再び繁栄の道を歩み始めています。


         

2日目 バルセロナ市内見学 

 バルセロナはスペイン第二の都市で、その人口は160万、近郊を含めると300万人を有しています。地中海貿易の拠点として発展しています。ガウディの建築群が特に有名で、たくさんの世界遺産があります。1992年にオリンピックが開催されています。カタルーニャ地方の首都であり、地方色が強く、カタルーニャ語も公用語になっており、スペイン内の一つの国家のようだとも言われます。



トーレ・アグバール

 バルセロナ空港から市内に向かうと、まず驚かされるのが、トーレ・アグバールと言われる、大砲の砲弾のような超高層ビルです。さすがスペインだ、と思わず叫びたくなります。このビルは水道局が所有し、2005年9月、国王誕生日に落成しています。フランスの建築家、ジャン・ヌーヴェルが設計によるもので、地元の人は、男性のシンボルの男根の名で呼ばれているそうです。高さは144mの38階建てオフィスビルで、さまざまなガラスが使用されているそうです。
 



サグラダ・ファミリア聖堂(世界遺産)

 バルセロナと言えば、スペインが生んだ鬼才ガウディの代表作、サグラダ・ファミリア贖罪聖堂が挙げられます。
 なんとガウディの作品の中で、7つもの建築物が世界遺産にしてされており、そのうち、4つが住宅で、現在も普通どおりに使用されているそうです。
 いろいろな教会を目にしてきた人にも、この教会はまさに奇想天外、どのようにしてこのような建築を発想したのか、不思議に思います。とにかく、どこを見たらよいやら、目の焦点が定まりません。
 礼拝堂は地下にありますが、下の写真は、東側の門で、4本の高い塔があり、その高さは118mもあります。先端には円形の飾りがあり、色ガラスが埋め込まれています。門には様々な彫刻が施され、イエスキリストの誕生の物語が描かれているそうです。また、ヘビやトカゲなど、さまざまな生き物が描かれています。



生誕の門



受難の門

 西側にも東側と対照的に4本の塔が建てられ、受難の門と呼ばれています。この門は、ガウディの死後、作られています。現在は南側に栄光の門が建設中です。


 内部に入ると、現在、まさに工事中でした。この大聖堂は1882年に着工され、1883年、弱冠31歳のガウディがたくさんの建築家の中から選ばれ、その建設を引き継いでいます。まだ完成していませんが、最近、観光収入が順調に増加し、2030年ごろには完成するそうです。
 完成すると、合計18本の塔がたち、一番高い塔は170mで世界最大になるそうです。
 

 内部から天井を見上げると、いくつもの塔と、天井に小さな円形の窓があります。ガウディは内部を森にたとえ、天井の窓からは木漏れ日がさし、人々が安らげるようにイメージして設計したと言われています。聖堂の外側にもたくさんの生き物の彫刻がありますが、それも、森に入ったイメージとのことです。
 ガウディは、田舎で育ち、運動が苦手で、子供のころから、昆虫や生き物が好きだったそうです。


 これらの塔は鐘塔として設計されていますが、内部にらせん階段があり、登れるようになっています、今はエレベーターが取り付けられ、歩いて登るのは禁止されているとのこと、我々もエレベーターで昇り、帰りは歩いて戻りました。



地下の博物館

 地下は博物館になっていて、かなり広く、今までの建築の歴史などが陳列されていました。ガウディはこの聖堂の設計にあたり、設計図を一切使用せず、すべて模型にして残したそうです。しかし、その模型品も、スペイン内戦でかなり破壊されてしまい、今は、修復の専門家が直しているそうです。
 ガウディは構造を設計するにあたり、数字や数式を一切使用せず、紐をたくさん張り巡らせ、そりにたくさんの重りをつけ、最も安定した構造はどのようなものかを追求しました。下の右側がその模型で博物館に飾ってありました。ただ、組み合わせの数が無数にあり、コロニア・グエル教会堂を作るにあたり、10年間もこの模型を使って最適構造を探したそうです。
 ガウディはコロニア・グエル教会堂の建設を途中であきらめ、73歳で亡くなるまで、この大聖堂の建築に没頭しています。



サンパウ病院(世界遺産)

 ガウディと同年代のドメイク・イ・モンタネールの設計による病院で、現在も一部、使われているそうです。
 モンタネールはガウディのライバルで、当時、斬新な考えを持った多くの設計者が居たようです。
 この病院は1902年に着工され、途中、モンタネークは亡くなってしまいましたが、息子がその後を引き継ぎ、1930年に完成しています。
 美しい芸術は人を治す力をあると信条を実現しようとしましたそうです。



グエル公園(世界遺産)

 ガウディの設計による遊園地のような奇抜な構造の公園ですが、ガウディは1900年から14年間この公園の建設を手掛けています。ただ、当初の目的は分譲住宅を造ることで、この敷地の中に60個の住宅を作る計画でした。ガウディのもくろみは、住む人たちの幸せを求め、公園の中に自然の樹木を残し、遊歩道を作り、市場も作ることでした。しかし、実際に売れた分譲地はたったの2つだけでした。その理由は、当時として、発想が進みすぎ、都心からも離れていたためと言われています。



バルセロナカテドラル

 市内見学途中、お土産屋に立ち寄りましたが、私たちはお土産に興味がないので、ガイドさんのお勧めもあり、隣にある大聖堂を見学しました。
 この大聖堂はバルセロナが隆盛を極めた13世紀から15世紀にわたり建設され、完成までに150年もかかっています。その後も、いろいろな改修がなされています。
 中央の祭壇の地下階段を降りるとバルセロナの守護聖女サンタ・エウラリアの棺で、0.5ユーロのお金を入れると電灯がともり、はっきりと見ることができます。(下の2段目の左端の写真)
 その他、たくさんの祭壇がありました。


 市民の憩いの場所で、公園、ヨットハーバー、海水浴場、シーフードレストランなど、日本では想像できないスケールの大きさです。ここで見る限り、スペイン人はかなり豊かである感じを受けます。
 昼食は海辺のレストランでした。



タラゴナの水道橋

 昼食後、スペイン第三の都市、バレンシアへ向かいます。移動距離は約380kmで、5時間かかりました。途中、バスが2,3台停められる小さな駐車場があり、そこからブッシュの中を歩いて数分の所に、ローマ時代に作られた水道橋があります。ただし、駐車場には、すぐ近くに正式の駐車場があるので、ここには短時間のみの駐車を許可すると書いてありました。
 スペイン第二の長さを有するローマ橋だそうですが、見学者は誰もいず、何事も、二番目はあまり注目されないのでしょうか。


 2日目の午後のルート図を下に示します。スペインの首都はマドリッド、第二の都市はバルセロナ、第三の都市はバレンシアです。

               

3日目 バレンシア市内観光、白い風車見学、

               その後、グラナダへ
 バレンシアはスペイン第三の都市で、地中海に面し、人口が80万人の観光都市です。周辺を加えると170万人になります。

 狭い道にバスが入ると、正面に高い鐘堂があらわれます。




カテドラル(世界遺産)
 
 この大聖堂も、他の聖堂と同じく、幾多の宗教上の変遷を獲て、13‐14世紀に建設されました。その後、17~18世紀にも手を加えられています。広場からは8角形の石の鐘楼「ミゲレテの塔(ミカエルのバレンシア語)」が見えます。内部に聖杯礼拝堂があり、キリストが最後の晩餐で使ったとされる聖杯が飾られているそうです。入口にはアベマリアのAとMの模様があります。この門は鉄の門と呼ばれ、18世紀に作れています。
 

 上の写真の門からは団体さんお断りと言われ、ちょっとだけ入口から写真を撮りました。

 

 この大聖堂には3つの入り口と、いくつもの礼拝堂があり、それらを結ぶ橋があります。この門は東扉で「パウラの門」と呼ばれ、アーチ式半円形が特徴で、13世紀に作られ、ロマネスク様式をしています。
 

 
 この礼拝堂の全体を把握するのはなかなか困難です。そのためか、立体模型が道路に飾ってありました。
 lこの門は、「使途の門」と呼ばれ、14世紀に作られたゴシック様式の建物で、たくさんの彫刻がなされています。

 

ラ・ロンハ・デ・ラ・セダ(世界遺産)

 15世紀にたてられたゴシック様式の建物で、絹の商品取引所として使用されました。スペインが世界各国と交易を行い、富を集めた由緒ある建物で、バレンシアの繁栄の象徴となっています。
 まだ、開門前で、中を見ることは出来ませんでした。



中央市場

 教会の後を使用しているのか、中央に丸天井があります。小さなマーケットでこれといった特徴はありません。たぶん、日本の旅行社がトイレ休憩のために利用していると思われます。




風力発電機

 白い風車で知られるこの地方は風が強いのでしょうか、電力発電用の風車がたくさん建てられていました。
 また、太陽電池もかなりの面積で設置されていました。スペインではこれらの製品を作っていないので補助金がどこからか出ているのでしょうか。



どこまでも続くブドウ畑

 スペインを走っていると、ブドウ畑が延々と続きます。今までに見たいろいろ場ブドウ畑とはスケールがまったく違います。何時間走ってもまだブドウ畑が続きます。



白い風車 カンポ・デ・クリプターナ Campo de Criptana

 小麦の粉引き用に16世紀ごろ、ラマンチャ地方にこのような風車がたくさん作られたそうです。風車守は風の方向を見ながら風車の屋根全体を回していました。この風車に向かって戦いを挑んだ「ドンキホーテ」は聖書に次いで世界で最もよく読まれて居るそうです。確かにドンキホーテの名を知らない人は居ないかもしれません。
 この物語は1605年セルバンテスにより発刊され、続編が1615年出版されています。
 今回参加した人たちがこの物語を読んだのはもう数10年も昔のこと、ほとんどの人が、その内容をぼんやりとしか記憶していません。添乗員さんが約30分ぐらいかけて、お母さんが子供に物語りを聞かせるように話してくれました。子供心に戻ることが出来ました。



ドンキホーテの像

 この街のいろいろな所にドンキホーテの像が立っています。レストランに入ると、宝くじ売りが立っていました。
身体障害者が優先的にこの職業に就けるのだそうです。


 今日の宿はグラナダで、そこまで、また、4時間ぐらいバスに乗ります。途中、険しい山肌に沿って登ったりしましたが、総じて平地が続きます。
 トイレ休憩が1時間30分おきぐらいにあり、ガソリンスタンドを利用します。総じて無料トイレが多く、今回のスペイン、ポルトガルの旅行でトイレにお金を払ったことはありませんでした。



オリーブ畑

 ブドウ畑が終わると今度はオリーブ畑が続きます。バスに乗っているとよく眠りますが、目が覚めるとまた同じような風景が続きます。誰が数えたかわかりませんが、スペインには3億本のオリーブがあるそうです。中国の万里の長城も壮大ですが、この風景も、長い間にわたって作り上げられたものでしょう。驚きの感を禁じえません。
 オリーブの実はすべて手作業で摘まれます。この作業者はモロッコから来るそうで、かなり昔から、その慣わしが続いているそうです。非常に長い期間にわたって、このようなシステムが作り上げられて来たのでしょう。

      

4日目午前 アルハンブラ宮殿
 
 アルハンブラには1981年、個人的に一度訪ねていますが、マラガからの電車による日帰りの観光で、時間も少なく、ガイドさんも居なかったのであまり良く覚えておりません。ただ、糸杉の独特な素晴らしさや、柔らかく吹き出る噴水を見たとき、ぼんやりと昔来たことを思い出しました。
 このアンダルシア地方は1年中温暖で、肥沃な大地に恵まれ、アルハンブラ宮殿のあるグラナダは8世紀から15世紀までイスラム勢力に支配されていました。このアルハンブラ宮殿は歴代続いたイスラムの王たちが260年もかけて作り上げたこの世の楽園で、その最盛期には2000名も住んでいたそうです。
 宮殿は中庭やそこにある池を中心に構成され、豊かな水や光を操り、イスラム文明の最高傑作と言われています。

 アルハンブラ宮殿は非常に広く、頑丈な高い塀に囲まれ、外部からみると質素ですが、いったんその内部に入ると、その美しさ、緻密さに驚かされます。外敵からの防衛を考慮して設計されていると思われますが、内部に入ると迷路の様で、今、どこを歩いているのか見当が付かなくなります。歩きながら撮った写真と、Google Map を頼りに、番号を振り、名前を書き入れてみました。
 

 アルハンブラ全景です。都を見下ろす丘の上の宮殿は、1350年ごろ、ようやく完成しました。宮殿の中には、市場、モスク、住宅が整備され、貴族の宮殿は7つ以上もあったそうです。
 見学ルートは入園後、夏の離宮、ヘネラフェ(アセキアの中庭)に進み、それから、坂を登り、ナスル朝宮殿へと進みました。
 アルハンブラ宮殿を征服したキリスト教徒のイザベル女王は、その美しさに驚き、宮殿をそっくり保存するよう命じました。
 女王の死後、だいぶ後になって、あるはアンブラ宮殿の中に、サンタ・マリア教会が建てられています。


 ナスル朝宮殿に入るには、もう一度、チケットが必要になります。宮殿はイスラム芸術の結晶といわれ、幻想的な世界が展開しています。
 キリスト教による攻撃に、1492年、もはや籠城は無理と判断した最後の王、ボアブディルは女王イザベルに城を明け渡し、臣下とともに北アフリカに逃げ帰りました。
 スペインは王位継承争いやナポレオン戦争により、衰退し、アルハンブラも荒れ果ててしまいましたが、19世紀の米国人作家ワシントン・アービングは「アルハンブラ物語を出版し、再び世界の注目を集めるようになりました。現在も再建が続けられていますが、床などはだいぶ傷んでいました。



夏の離宮、ヘネラリフェ(噴水)
 
 入口をはいると、立派な糸杉が続き、日陰を作っています。風の強い日本では見られない柔らかな肌の杉です。
 次いで美しい花壇が現れ、王の夏の離宮といわれるヘレラリフェ宮へと続きます。
 砂漠の民、イスラム人にとって、水は生命の象徴と言われ、広場の噴水からは一般にちょろちょろと流れ出ており、高く吹き上げる西洋式の噴水とはだいぶ異なっていますが、ここでは、しっとりとした雰囲気をかもし出す高さの噴水になっていました。
 
 宮殿の中ではどこでも水音を聞けるように設計されているそうです。砂漠の民であったイスラムに人たちにとって、水はオアシスであり、憩いの場でもありました。その水は、6kmも離れた山の中にある川から引き込まれていて、その水路は傾斜のみを利用し、用水路を流れ、水道橋により、川や谷を越えてきています。下の2枚目は水道橋ですが、ここに到達した水は、宮殿全体に注がれています。
 さらに歩いてゆくと、宮殿の中にホテルがあり、営業中でした。予約を取るのは大変だとのことです。



サンタ・マリア教会とカルロス5世宮殿

 さらに歩いてゆくと宮殿の中にキリスト教会があります。この宮殿では、イスラムの宮殿をあまり壊すことなく、キリスト教の礼拝堂を作ったとのことです。
 スペイン国王カルロセ5世は1526年、新婚旅行でアルハンブラ宮殿に宿泊し、この宮殿の建設を決定しましたが、その後資金難に陥り、建設は中断されました。現在この宮殿の1階はアルハンブラ博物館として、2階は美術館として使用されています。




アルカサバ

 ナスル朝宮殿の入口の近くから、アルカサバが見えます。ここは軍事要塞で、アルハンブラ宮殿の中で最も古く、ローマ時代の砦の跡に、モーロ人が9世紀に築いたもので、当時、キリスト教徒と戦っており、キリスト教徒の攻撃から都を守るため、アラブ世界の軍事技術を結集した難攻不落の要塞だったそうです。



メスアール宮

 チケットを提示し、宮殿に入ると、メスアールの間に入ります。繊細な彫刻が続きます。



メスアールの中庭

 宮殿に招待された客は、まず、この中庭を通って、控室へと進みます。中央に小さな噴水があります。




コマレス宮

 コマレス宮は宮殿の中心部にあり、アラヤネスの中庭があります。池は中庭いっぱいに作られ、青く映る水を豊かに蓄えています。砂漠の民による水の芸術です。



ライオン宮とその周り

 王の私生活の場であった場所だそうです。12頭のライオンがかって口から水を注ぎだしていましたが、今は残念ながら修理中でした。光と影が織りなすモザイク、見る者幻想空間へといざないます。



二姉妹の間とその周辺(鍾乳洞飾り)

 ライオンの中庭周辺では最も古い建物で、天井の鍾乳洞飾りは宮殿随一の精密さだそうです。



リンダハラのバルコニー

 レコンキスタ後、棟が増築され、このバルコニーからアルバイシン地区を見ることが出来なくなってしまったそうです。



アルバイシン地区(世界遺産)

 アルハンブラ宮殿から谷をはさんで、白い家が山なみを覆っています。ここアルバイシン地区も世界遺産に登録されています。
 その上側の岩肌には洞窟が見えます。サクロモンテといわれるこの地区には、かってフラメンコを生んだロマの人たちがたくさん住んでいそうです。洞窟内の貧しい民は、それを紛らわすためか、フラメンコを生みだしたそうです。



貴婦人の塔

この展望台からはアルバイシン地区を見下ろすことが出来ます。
 水と建物の調和したこの風景は、何という美しい眺めでしょう。イスラム文化の素晴らしさに感動せずには居られません。



パルタル庭園

 イスラム時代、この地には貴族の宮殿や住宅、モスクが立ち並んでいたそうです。
 水が水路をちょろちょろと流れ、庭園全体を潤しています。



ヘネラリフェ宮殿

 庭園からは、入園直後に通ったヘネラリフェ宮殿が見えます。昔はたくさんの庭園があったそうです。



城壁

 難攻不落のこの城は、城壁の内側も迷路のようになっており、また、深い溝が掘られています。
 ただ、最後は兵糧攻めにあい、命と引き換えに、戦うことなく、最後の王は臣下を従い、城から出てゆきました。

        

4日目午後 コルドバ大聖堂、メスキータ(世界遺産) 
 

 今日は午前中、グラナダのアルハンブラ宮殿を観光し、その後、コルドバの大聖堂、メスキータを見学し、セビージャまでの移動でした。



どこまでも続くオリーブ畑

 昨日、白い風車を見て、グラナダに行く途中、ずっとオリーブ畑が続きましたが、今日もグラナダからコルドバまで、同じような風景が延々と続きました。
 バスで目が覚めるとオリーブ畑が続き、写真とちょっと撮って、また、居眠りをしてまた目が覚めるとそこもまたオリーブ畑が続いていました。



コルドバ観光

 コルドバに到着し、いよいよメスキータの見学です。コルドバはアンダルシア地方の首都であり、スペイン随一の古都でもあります。アンダルシア地方は闘牛とフラメンコでも有名です。
 メスキータとはスペイン語でモスクというを意味ですが、一般にメスキータというと、コルドバのメスキータを意味するようです。このメスキータを写真で何度か見たことはありますが、実際に目にするのは初めてです。
 イベリア半島をほぼ征服したイスラム教徒はここを首都と定めました。
 今から1000年ぐらい前、コルドバは世界でも屈指の大都市でした。当時、パリの人口は2万人、ロンドンの人口は2万5千人でしたが、コルドバは45万人も居たそうです。学問レベルも最高で、ヨーロッパ中から人が集まったそうです。現在も30万の人が暮らしており、町の区画は1000年前とほとんど変わらないそうです。
 メスキータは高く堅牢な壁に囲まれていますが、中に入ると、広い中庭があり、木陰を作っています。中庭までは、入場券を買わずとも入ることが出来ます。



メスキータ
    
 部屋に入ると、どもまでも続く「円柱の森」と呼ばれる祈りの殿堂が続いています。部屋はかなり暗く、大理石の柱が林立し、その上には朱色と白の二重のアーチが載せられています。天井からは、わずかな木漏れ日のような光が射しこんでいます。
 4万人の信者が入ったと言われるこの内部を歩いていると、あまりの広さに自分がどこにいるのか判らなくなります。大理石の柱は現在、850本もありますが、、メスキータの中心部にキリスト教の礼拝所が作られる以前は1000本以上もあったそうです。これほどたくさんの柱を集めるのが大変だったのでしょう。いろいろな大理石の柱が流用されているそうです。柱の上には2重のアーチが掛けられていますが、2重にすることによって、重い天井を支えています。赤い部分は軽いレンガでできており、白い部分は石灰石で出来ています。この建築技術は、古代ローマの水道橋の技術を巧みに使っているのだそうです。


 円柱の森を進むと、ミフラーブと呼ばれる、聖地メッカの方向を示す円形の部屋があります。この部屋は音がよく響くように設計されており、4万人が入ったこのモスク全体に、祈りの言葉がよく響いたそうです。
 この部屋の壁や天井は、アルハンブラ宮殿と同じような、草花をモチーフにした精巧で美しい彫刻によって飾られています。しかしその彫刻を作ったのは、キリスト教の教会建築で発展したステンドグラスの技術がを持っていた、ビザンツ帝国の職人たちでした。
 イスラムの人たちは、宗教に違いを積極的に融合させ、最高の美と技術を追求して来ています。


 さらに進むと、ひときわ明るい場所に出ます。そこには16世紀になって作られたキリスト教徒が祈る大礼拝堂があります。また、この大礼拝堂以外にも、カソリックの小さな祭壇や墓地などもあちこちに設けられています。
 コーランを子供のころから丸暗記しているイスラムの民には、暗い雰囲気が似合いましたが、キリスト教徒は聖書を読む必要があり、明るくする必要があるのだそうです。
 5世紀、このイベリア半島に、ゲルマン民族が侵入してきて、キリスト教の王国、西ゴート王国を築き、コルドバを首都としました。8世紀になると、アフリカから海を渡ってきたイスラム勢力がコルドバを占領し、後ウマイヤ朝を築き、コルドバを都にしました。そして、この地に壮大なモスク(メスキータ)を建設しました。ただし、この地を占領したイスラム教徒は、キリスト教が持っていたこの教会を略奪ではなく、お金で買い求め、モスクに直しました。
 イスラム教徒は異教徒から信仰の自由を奪うことはなく、モスクも共有して使用したそうです。そしてそれが協力者を増やし、文明や科学を推進しました。
 一方、土地を奪われたキリスト教徒は、それを奪い返そうというレコンキスタ運動をスペイン北部から起こし、ついに13世紀、カスティリャ王国はこの地を征服し取り戻しました。
 通常、キリスト教徒は征服した証として、モスクを取り壊し、イスラム教徒を追放し、そこに、キリスト教会を作りました。しかし、コルドバを征服したフェルナンド3世は、あまりの美しさに、このメスキータをそのまま保つように命じ、小さなキリストの祭壇を設けただけでした。
 このようにして、このメスキータは保たれました。


 しかし、16世紀、コルドバに新しい司教が派遣され、このモスクはキリスト教にふさわしくないとし、取り壊せとの命令を出しました。しかし、このメスキータを、すでに祈りの場として使用していたキリスト教徒たちは、反対運動を開始しました。国王は取り壊しに賛成しましたが、コルドバの建築家たちは、すでに取り壊され始めたアーチなどをうまく使用しながら、モスクの中央に大礼拝堂を作り上げました。
 モスクを残しながらキリストの礼拝堂に作り変えた建造物はたくさんありますが、これほど、モスクの形を残したまま作り変えた建造物は無いそうです。
 

 メスキータの中に宝物館があり、金ぴかの高価な飾りが幾つも置かれていました。

 

 メスキータの見学後、バスの出発まで30分程度、自由時間があり、街中をぶらぶらしてみました。
 街並みは1000年前の姿をそのまま保っていて、手入れの行き届いた白い壁は太陽の光を反射し、家の中を涼しく保っています。窓には、花がたくさん飾られています。
 当時、ユダヤ人たちは商人としてヨーロッパ全体から、このコルドバに富を集めてきていましたが、1942年、追放されたとのことです。
 パティオと呼ばれる中庭が、人を呼び寄せています。誰でも中庭を覗くことが出来るそうです。私もちょっと覗いてみました。よく手入れがされており、このようなパティオがたくさんありました。毎年、5月にはパティオの競技会があり、その美しさを争うそうです。
 歩くのに疲れたので、豚の生ハムを削ってもらい、ビールを楽しみました。

         

5日目午前 セビリア(セビーリャ)市内観光
 

 セビリアは西ゴート王国の首都でしたが、712年、南から来たイスラム勢力により征服され、以降、500年にわたってイスラム文化の繁栄の舞台となりました。グアダルキビル川に面し、海にも近いため11世紀には大発展をしました。
 13世紀、レコンキスタにより、この都市から、イスラム勢力が一掃され、今度はキリスト教徒により、また、大きく発展しました。
 大航海時代、この港からたくさんの船が新世界に出帆し、ヨーロッパ最強国となり、現在もスペイン第四番目の都市として栄えています。

 ジャカランダの花が狂い咲きしていました。普通は桜とおなじ春に咲くのに、秋に咲いています。
 狂い咲きがあるのも桜に似ています。
 ジャカランダの花は、10月、南アのプレトニアで見る予定にしています。



スペイン広場

 スペイン広場というと、イタリアのスペイン広場が有名ですが、ここは本物のスペイン広場で、アーチ状のビルが広い庭を囲んでいます。イベロ・アメリカ博覧会会場として1929年に作られました。


 アーチ状の建物の下に、各地方の特徴や歴史が描かれています。58個もありますが、日本から一緒に来たガイドさんが次々と、熱を入れて説明していったのには驚きました。
 参考までに、ガイドさんにスペイン担当ですかと聞いてら、パリやロンドンでもこのように現地のガイドに頼らず、自分でやるのだそうです。



アルカサルとサンタ・クルス街

 アルカサルはイスラム教徒の城でしたが、キリスト教徒が征服したあと、その美しさに陶酔し、アルハンブラと同じような城を作ろうとして、イスラム職人を呼び寄せ改築したそうです。今回は内部の見学はありませんでした。
 その周りに、サンタ・クルス街と言われるユダヤ人街がありますが、1492年にユダヤ教徒が追い出され、その後にセビージャの貴族が住み着いたそうです。
 狭い路地が迷路のように続いています。



セビリア大聖堂

 スペインでは第一、世界で三番目の巨大さを誇るセビリア大聖堂はキリスト教国、スペインの象徴でもあります。建設を開始してから約1世紀後の1519年に完成しています。
 町一番の高さを誇るヒラルダの塔はイスラム教徒が作った塔に上に、キリスト教徒の釣鐘を取り付けたそうで、その高さは97mもあります
 

 とにかく広いのですが、コロンブスの棺を当時のレオン、カスティーリャ、ナパーラ、アラゴンの王たちが担いでいます。


 大聖堂の展望台は70mもあります。町が一望できました。



 闘牛場でバスを待ちながらトイレ休憩です。昼は闘牛をしていませんが、お土産は開いていました。

       

5日目午後 エヴォラ市内観光(世界遺産)、ポルトガル
    

 午前中、セビリアを出発し、ポルトガルのリスボンに向かいます。途中、国境を越え、小さな町、エヴォラ(世界遺産)を観光します。走行距離は455kmでした。両国ともEUに加盟しているので、入国手続きはまったくありませんでした。
 なお、エヴォラ出血熱で有名なエヴォラは南アフリカにあり、こことは何ら関係はありません。


 今度は延々とコルクの木が続きます。柔らかい皮の部分を5~10cmぐらいの幅ではぎとり、それが主にワインのコルクに使用されます。
 世界の約6割はこの地で生産されるそうです。
 

 街の中央広場は小高い丘の中腹にあり、道路はすべて石畳で出来ています。急な登り道などがあり、滑らないのが利点です。
 たくさんのお土産屋がありましたが、コルクでできた、コップの下敷きや、容器、人形なども売っていました。この地がコルクの名産地であることも分かります。



ローマの神殿

 丘を登るとその頂上に古代ローマの神殿跡が見えます。スペインを越え、はるかポルトガルまで、ローマ帝国の支配下にあったことが分かります。
 公園には変わった彫刻が置いてありました。コンペがあり、この作品は日本人によるものだそうです。



エヴォラ大聖堂

 エヴォラは715年から1165年まで、イスラム教徒によって支配されますが、レコンキスタ以降、再び、復興し、この大聖堂は、1280年から1340年に間に主に建設されました。15世紀後半から16世紀の前半、ポルトガルの国王マヌエル1世や、ジョアン三世はこのエヴォラに滞在することが多かったそうです。中に大きなパイプオルガンがありますが、大正少年使節団が演奏したそうです。
 入口の塔は、シャルトルのノートルダムと同じように、ゴシック様式(右)とロマネスク様式(左)で出来ています。



天正少年使節団

 九州のキリシタン大名、大友、有馬、大村の三侯が、4名の少年使節団をローマ教皇に遣わしました。彼らの名は、東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティーノです。彼らは1582年2月長崎を出帆し、マカオ、マラッカ、セントヘレナ島を経て1584年8月、無事リスボンに到着しました。
 後に彼らはマドリッドからローマへと向かいますが、このエボラにも8日間滞在し、下の写真のパイプオルガンを演奏したそうです。
 使節団は1590年に帰国しています。彼らは当時グーテンベルグによって発明された印刷機を持ち帰りました。これはキリシタンとも呼ばれました。
 秀吉のキリシタン追放令により、彼らは晩年、不遇な人生を送りました。



サンフランシスコ教会

 15世紀の終わりから16世紀の初めにかけて建設されたゴシック様式とマヌエル様式が混合した建築物です。たくさんの祭壇がありました。ガイドさんが、縄をよったような様式がマヌエル様式だと教えてくれました。
 近くにバスコダガマの銅像がありました。



リスボンに到着

 日が沈み始めたころ、リスボンに到着でした。リスボンは東京湾と同じような大きな湾があり、そこにかけられた橋を渡って、リスボンに入ります。

          
 
6日目 リスボン市内見学、ロカ岬、シントラ王宮見学 
 
 今日はリスボンとその近郊の見学です。リスボンはポルトガルの首都であり、近郊の人口も含めると270万人で、ポルトガル全体の1/4に当たります。スペインやポルトガルは日本などに比べると人口の少ないことが分かります。



水道橋

 朝、ホテルを出ると、この水道橋の下を車まくぐります。この橋は1728-48年、ジョアン5世が進めた大規模な土木建築事業の一環で、20年かけて完成しました。現在もリスボン市民の飲料水として使用されています。



ベレンの塔(世界遺産)

 16世紀の大航海時代、ヴァスコ・ダ・ガマの世界一周を記念し、マヌエル1世が作った、船の出入りを監視する要塞です。



発見のモニュメント(世界遺産)

 1940年に開催された万国博覧会の象徴として製作された高さ52mの記念碑です。ポルトガル栄光の時代へを表しています。1960年には耐久性を持たせたコンクリートで再制作されています。エンリケ航海王子の後に、東西両方向を面し、約30名のポルトガルの探検家、芸術家、科学者、宣教師などの像が並んでいます。
 地球儀のような円球は、ポルトガルとスペインが争うことなく、で世界を2分しようと取り決めた記念碑だそうです。



ジェロニモス修道院(世界遺産)

 大航海時代の富をつぎ込んで制作された修道院で、マヌエル様式の最高傑作と言われています。
 1502年、マヌエル1世により着工され、1511年には大部分が完成したものの、最終的に完成したのはその後300年も経っています。建築資金はバスコ・ダ・ガマが持ち帰った香辛料によるもので、ポルトガルは香辛料交易により莫大な利益を上げていました。
 見学に訪れた観光客用のたくさんの大型バスが並んでいました。
 
 
 豪華な修道院です。身廊の高さは25m以上もあるそうです。前方の主祭壇は装飾の少ないルネッサンス様式です。



 内部にはバスコ・ダ・ガマのお墓が安置されています。

  

 回廊とその壁画です。たくさんのマヌエル様式の飾りが施されています。

 

 中庭があり、豪華な回廊が作られています。


 2階に上がると、内部全体を見ることが出来ます。キリストの像が、目前に配置されています。ステンドグラスには聖母まりやマヌエル1世が描かれています。1階に下りると博物館もありました。

  

 市内のコルメシオ広場やショッピング街です。歩行者専用になっている道路もあります。皆さん、ゆっくりと昼食を楽しんでいました。各々、1時間程度、ショッピングや散策を楽しみました。



ロカ岬

 地図を見ると確かに大陸の最南端で、イギリスよりも西にあり、アイルランド最西端とほぼ同じ経度に位置しています。
 何の役に立つのか分かりませんが、旅行会社より、訪問記念証明書を呉れました。
 ポルトガルの詩人ルイスが「ここに陸終わり、海始まる」と詠んでいます。



シントラの王宮(世界遺産)

 シントラの町はリスボンの北西約30kmに位置し、緑豊かな中に広がる閑静で小さな町です。その中にシントラの王宮が作れれています。この王宮は14世紀、ジョアン1世によって建てられた夏に離宮で、歴代の王家が使用してきました。2本の太い煙突がこの王宮のシンボルだそうです。


 この王宮には45以上の部屋があり、25室が公開されているそうです。たくさんのお客様があったのでしょう。白鳥の間やスズメの間などたくあんの応接室もありました。



アフォンソ6世幽閉の間

 アフォンソ6世は弟ペドロ2世に気が狂ったという理由でこの部屋に15年間幽閉され1683年死亡しています。部屋の床は、アフォンソ6世が歩いた跡が刻まれています。
 ペドロ2世は兄アフォンソ6世の死後、ポルトガルの国王となり、このころ、ポルトガル領ブラジルで銀鉱山が発見され、莫大な利益を上げています。


 庭に出ると、民族ダンスのショーが行われていました。



ムーアの城跡

 シントラの王宮の窓から前山を見上げると、立派なお城が見えます。この城は現在、廃墟のようになっており、7~81世紀にかけてムーア人により作られ、ムーアの城跡と呼ばれているそうです。



ファドショー

 日本の歌謡曲と同じような、多くお人によって歌われているのがファドだそうです。夕食後、3名の歌手が歌いました。私たちのグループ以外は誰も居ませんでした。観光客専門のお店のようでした。

         
 
7日目 オビドス、ナザレ、バターリャ修道院見学 
 

 今日はリスボンからポルトまで約400km、6時間ほど走ります。途中、オビドス、ナザレ、バターリャ修道院などの見学がありました。

 

オビドス

 オビドスの町は、なだらかな丘の上にあり、しっかりとした城壁に囲まれ、中世の多影をそのまま伝えています。1228年、この地を訪れた王妃イザベルはこの町を大変気に入り、以来、王妃の直轄地となり、中世の面影が保たれ、中世の箱庭とも言われています。

 古い水道橋が残されていました。


 立派な城壁があり、まさに中世の門もです。


 おとぎの国のような美しい街並みで、お店や教会などもあります。



 教会をちょっと覗いてみました。サンタマリア教会と呼ばれる小さな教会でした。小さくても立派な教会でした。


 城壁には狭い道路が付けられ、歩けるようになっています。相当怖いですが、全員、歩きました。日本だったら、絶対に許されないでしょう。城壁内にホテルもありました。



ナザレ

 イスラエルのナザレは巡礼地として有名ですが、このナザレは、昔、聖職者が聖地ナザレから、聖母マリアの像を持ち帰ったのでナザレと呼ばれるようになったという説があります。
 美しい港町で、海水浴場とその上の小高い丘にある町をケーブルカーが結んでいます。
 昼食は海岸べりのレストランでした。


 海水浴シーズンも終わり、浜辺にはほとんど人がおりませんでした。浜辺の教会を覗いてみました。



バターリャ修道院<修道院)

 このような小さな町に、このような大きな修道院があるのには驚きました。この修道院の建設は、1388年、国王ジョアン1世がカステーリャ王国との戦争に勝ったのを記念して開始され、その後、2世紀をかけ建築が続けれれましたが、その後中止され、未完の礼拝堂もあります。建設期間中、7代の王と、数多くの建築家が設計、建築に携わり、スペイン風ゴシック建築の傑作と言われ、内部には修道院、教会、八角形の礼拝堂などがあります。
 外観は石灰岩で構成され、時とともに変色するそうですが、今は表面がきれいに洗われ、黄土色に輝いていました。
 西側の広場に面した修道院の入口は、アーチ状の飾りがあり、78の聖像が飾られています。
 ここのステンドグラスは、ポルトガルにおいてはじめて使用された最古のもので、1430年ごろもものとされています。
 1810年から1812年の間、ナポレオン戦争において多くの被害を受けましたが、1840年、フェルナンド2世が修復を命じ、1980年、修道院から博物館へなりました。


 王の回廊と呼ばれる回廊はマヌエル様式とゴシック様式が見事に混ざり合っています。
 


 未完の礼拝堂はドゥアルテ1世とその子孫が埋葬される霊廟として1437年に着工されたものの、ドゥアルテ1世とその妻が埋葬され、その後、未完のままになっています。この礼拝堂は、たくさんのマヌエル様式の飾りで囲われています。

        
 
8日目 ポルト歴史地区観光 
 

 今日は午前中、ポルト歴史地区を観光し、世界三大巡礼地のひとつ、サンティアゴ・デ・コンポステーラに向かいます。バスの走行距離は約230km、4時間半でした。
 ポルトはワインで知られ、以前、赤玉ポートワインという名前がポルトワインを連想するという理由で、使用中止になりました。




ポルト市内見学
 
 ポルトはドウロ川沿いにある小高い丘の家並みが美しいポルトガル第二の都市で、旧市街は世界遺産に登録されています。
 町の一番高い所にグレゴリス教会があり、この教会の鐘楼は18世紀に造られポルトガルで最も高く、77mの高さがあるそうです。平地は少なく、上り下りの激しい町でした。



カテドラル

 小高い丘に建つカテドラルです。この建物は12世紀にロマネスク様式で建てられ、17世紀にはバロック様式で増築されました。当時要塞としても使用されたそうです。



ポルト市内を望む

 川を挟んでこちら側はワイン工場やレストランが続き、川の向うは旧市街で、グレゴリス教会やサンフランシスコ教会などがあります。美しい光景です。




ポルトワイン工場見学

 サンデマンというワイン工場の見学です。ブドウの産地は大分離れたところにあるそうです。ワインティスティングもあり、お酒を飲まない人の分までも分けてもらい試飲を楽しみました。



サンフランシスコ教会

 1383年建造のゴシック様式の教会で、聖堂内は18世紀にバロック調に改修されています。
 内部は写真禁止でした。200kgもの金を使用したターリャ・ドゥラーダという木彫祭壇や金箔で覆われたキリスト教の系図、「ジェッセの樹」の立体像があります。天上には聖母マリア、ハープを持つダビデ、金棒を手にするソロモンが飾られています。天井までも金箔で覆われていていました。


 バスはサンティアゴコンポステーラに向かって海岸沿いに進みますが、養殖場が続いていました。


付録

 サンフランシスコ教会内部の写真です。(絵葉書より)


           
 
9日目午前 サンティアゴ・デ・コンポステーラ見学 

 サンティアゴ・デ・コンポステーラはエルサレムやローマと並び、キリスト教三大巡礼地と言われています。
 最初、この地の名前を聞いた時、あまりにも長いので、覚えるまでに時間がかかりました。サンティアゴは聖ヤコブのスペイン語読みで、コンポステーラは星の輝く野原の意味だそうです。名前があまりにも長いためでしょうか、道路標識にはサンティアゴだけが書いてありました。
 9世紀初頭、星に導かれた羊飼いがキリスト教12使徒のひとりのヤコブの墓を見つけたことから聖地となりました。それ以来、この地はキリスト教徒にとって、あこがれの巡礼地になり、ヨーロッパ大陸から多くの巡礼者を迎えて来ており、イスラム教徒もここまでは征服できなかったそうです。
 大聖堂の前にはとても広い広場があり、たまたま、日本の若者の巡礼者にも出会いました。だいぶ長い距離を歩いてきたようです。
 巡礼者のリックには巡礼の目印であるホタテ貝を付けています。このホタテ貝は巡礼道の至る所に付けられていました。

 

 ここに来たことを示す巡礼証明書の発行所もありました。



 さすがに非常に広い大聖堂です。年に一度、天井から吊るされた明かりが大きく振られる祭りをテレビで見たことがあります。
 
  

 キリスト教徒がイスラム教徒を踏んでいる像だそうです

 

 聖ヤコブの骨が納められています。



 たくさんの祭壇が設けられていました。初期の聖堂(カテドラル)は9世紀末に建てられましたが、破壊されてしまい、1071~1152年、スペイン最高のロマネスク様式の教会が完成しました。


       
 
9日目午後 レオン市内観光 

 午後、サンティアゴ・デ・コンポステーラからレオンに向かい、市内観光後、この街で泊まりました。
 移動距離は290kmでした。レオンは10~12世紀にかけて栄えた旧レオン王国の首都でした。


 レオン市内の道路にはサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の道であることを示しています。  
 中世の時代、ここは巡礼路の要所であり、カテドラルやサン・イシドロ教会が作られました。


 市の中心にあるサンドミンゴ広場と、カテドラルです。



カテドラル〈大聖堂)

 13世紀から14世紀にかけて建造されたゴシック様式の傑作です。内部には100枚以上のステンドグラスがあり、床が太陽によって美しく色づけられていました。
 残念ながら、ステンドグラスのある内部の撮影は禁止されていました。




サン・イシドロ教会

 11世紀に着工され、このご増改築され、ゴシックやルネッサンスの様式が混在しています。



カサ・デ・ロス・ボティーネス

 この建物はガウディによるもので、その銅像が作られていました。建物の4隅には尖塔がそびえています。
 記念写真を撮りました。


       
 
10日目午前 サラマンカ旧市内散策(世界遺産) 

 今日はレオンからマドリッドまで465km走ります。走行時間は6時間30分にもなります。途中、昼食を兼ね、サマランカ市内を見学し、その後、ローマ水道橋で有名なセゴビアを見学します。

 

 サマランカはローマ時代、産出された銀をローマまで運ぶ中継基地として栄えました。
 市の中心にあるマヨール広場には、たくさんの人が集まっており、壇上で上演されているサーカスなどを楽しんでいました。
 路上には巡礼路であるホタテ貝の印が埋め込まれていました。



貝の家

 巡礼を意味するホタテ貝の模様が壁一面に作られています。
15世紀後半のゴシック様式です。当時、騎士たちがここで寝泊まりしていたそうです。



サマランカ大学

 スペイン最古の大学で1218年に作られています。
 現在もヨーロッパ有数の大学都市として栄えており、世界中から留学生が集まって来ているそうです。


サマランカ大聖堂
 新旧二つの大聖堂が内部で繋がっている面白いカテドラルです。旧大聖堂は12世紀に作られたロマネスク様式で、 新大聖堂は16世紀から18世紀にかけて作られたゴシック様式の建築です。


 新大聖堂の入り口の門には宇宙飛行士が刻まれています。大修理の時に付け加えられてとも言われています。


        

10日目午後 セゴビア旧市街観光、

          ローマ水道橋見学(世界遺産) 

 カスティーリャ地方にはたくさんの古城や廃墟跡が残っていますが、マドリッドの北西95kmの所にあるセコビアには古代から中世までの建造物が幾つも残っています。


セゴビア城

 童話に出てくるようなセゴビア城で、デズニー映画「白雪姫」のモデルにもなっています。



ローマ水道橋(世界遺産)
 
 この地を征服したローマ人が1世紀の頃に建築しました。セメントなど、接着剤を一切使うことなく、花崗岩の切り石を積み上げ作られています。石は自らの重みでアーチ型の橋を造っています。ここに見える橋の全長は830m、それを構成する柱は128本で石の数は2万個以上もあるそうです。また、高さは最も高いところで29mもあります。水源は18kmも離れた所にあり、現存する水道橋では一番完璧に残っており、19世紀の末まで市内に水を運んでいました。
 街全体に、たくさんの水道橋が約3度の傾斜をもつように設計され、常に一定量に水が供給されていたそうです。



セコビア大聖堂

 町の中心に立つ16世紀の大聖堂、優美な建て住まいから、大聖堂の貴婦人と呼ばれています。
 スペインの大聖堂では最も新しく、1525年に建設が始まり、1768年に完成しています。



フラメンコショー観劇

 靴を激しく床に打ちつけ、手を高く上げて激しく踊るフラメンコ。食事を見ながらの観賞でしたが、私たちは途中の休み時間で観劇を中止しました。夜遅くまで延々と続くそうです。上手な踊り手も遅くなってから来るそうです。
 ただ、もう午後10時近くで、私たちにとってはもう遅く眠いのでやむをえません。


        
 
11日目午前 マドリッド市内観光。プラド美術館見学 

 マドリッドはスペインの首都であり、海抜655mの高原にあります。1年を通して晴天が多く乾燥しています。
 人口は約300万で首都圏の人口は600万人と、EUの都市としてはロンドン、ベルリンに次いで多い欧州を代表する大都市です。

 ホテルの前に大きなビルがあります。どうも住宅用のビルのようです。さすがここはスペインだと思い知らされます。



プラド美術館

 1819年、スペイン王家の美術コレクションを母体とした王立美術館として開館しています。
 フラ・アンジェリコの「受胎告知」、エル・グレコの「牛飼いの礼拝」、「胸に手を置く岸の肖像」、ベラスケスの「ラス・メニーナス」、ゴヤの「着衣のマヤ」、ルーベンスの「三美神」、ボッシュの「快楽の園」などが有名です。



スペイン広場

 1930年、セルバンテスを記念して造られた広場で、中央にはセルバンテスの像が、ドン・キホーテとサンチョ・バンサの像を見下ろすように立っています。



王宮
 
 1764年に作られ、150m四方の建物の中には2700を数える部屋があり、現在も公式行事に使用されています。



付録 プラド美術館の絵画

 美術館内部は写真禁止でした。インターネット検索により、プラド美術館の名画を集めてみました。

 


ベラスケスの作品
 Diego Rodríguez de Silva y Velázquez 1599-1660

ブレダの開城 1634-1635

女官たち(ラス・メニーナス)
マルガリータ王女




ゴヤの作品 Francisco de Goya 1746-1828

裸のマハ

 (La Maja Desude) 1798-1800

着衣のマハ

 (La Maja Vestide) 1798-1803年頃
95×190cm
カルロス4世の家族

1800-1801 280×336cm

1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺

 1814年
266×345cm

自画像

 (Autorretrato) 1815年
51×46cm

1808年5月2日、エジプト人親衛隊との戦闘

 1814年
266×345cm
ボルドーのミルク売りの少女

1825-1827年頃
74×68cm
キリストの磔形

1780年
255×153cm

我が子を喰らうサトゥルヌス(黒い絵)


(Saturno devorando a su hijo) 1820-23年頃
146×83c
m

       
 
11日目 午後 古都、トレド観光
 

 イベリア半島の中央部に位置するトレドは街全体が世界遺産になっています。マトリッドからバスで約1時間で行くことが出来ます。


 三方をタホ川に囲まれ、自然の要塞に囲まれたトレドは、560年、西ゴート王国の首都となりましたが、711年から約400年間、イスラム教徒の支配下に置かれました。1086年、アルフォンソ6世により再びキリスト教徒が支配するようになりますが、当時、イスラムの文化は高く、それを知ったアルフォンソ6世は、イスラムの知識を取り入れ、当時のトレドは天文学、それをもとにした航海術など世界で最も学問が進んでいたと言われています。ユダヤ人も追放されることなく、ヨーロッパ各地と貿易を行い、多くの富をトレドに持ち帰りました。
 しかし、1479年スペイン王国が誕生し、1492年、カトリック両王はイスラム教徒とユダヤ教徒の追放令を出し、残ろうとする者に厳しい迫害を行いました。その結果、町は寂れてゆきました。
 1561年には首都をマドリッドに移し、トレドはそれ以来、長い眠りについたと言われています。

 トレドに入る入口はがっちりとした門に守られています。



 狭い道からカテドラルが見えます。たくさんのお土産屋もあります。
 角に張られた道路地図には日本のカタカナでトレドと書かれていました。


 町の中の道路は狭く急坂で、車も満足に走れません。今の若者は町から出て行ってしまうそうです。


カテドラル

 フェルナンド3世の命により1226年、建設が始められ、1493年完成しています。内部には宝物館があり、総重量200kgにも及ぶ金、銀、宝石などで細工された聖体顕示台があり、エル・グレコの絵が飾られた絵画館も付属しています。内部は撮影禁止でした。



インターネットカフェ 
 
若者たちで賑わっていました。



サント・トメ教会
 

 エル・グレコの傑作「オルガス伯爵の埋葬」が飾られていました。なお、マドリッドには日本のガイドさんがおり、その方が案内してくれました。




 トレドの名物は刀剣類で、昔、イスラム教徒がその技術を持ち込み、発展させたそうです。



マヨール広場

 マドリッドに戻り、夕食のため、街の中心部に出かけ、少し歩きました。
今夜は中心部の道路が歩行者天国となり、大変賑わっていました。




付録 カテドラル内部
 
  

サント・トメ教会 オルガス伯の埋葬

タラベ枢機卿病院 リベーラ 髪のある女

             
 
12日目 帰国

 マドリッドを午前9時55分に出発、ロンドン経由で成田までです。ロンドンでの乗り換え時間は4時間30分もありましたが、来るときと同様、ワンワールドのカードを使用し、ビジネスラウンジを使用することができました。
 最近改築された成田のJALラウンジの豪華さにはびっくりしますが、さすがヒースロー空港のBAのラウンジもお膝元のためでしょうか、JAL並みに立派でした。ロンドン、成田間は11時間25分で、到着は次の日の午前11時10分でした。


 今回の旅は、日にちが13日間と長いこともあって、見応え充分の旅でした。
 アルハンブラ宮殿やメスキータ、トレドのカテドラルなど、レコンキスタとともに、イスラム教徒とキリスト教徒たちが残した宮殿や教会、また貴族が残したトレド美術館など、その素晴らしい遺産を見るとともに、大航海時代のスペイン、ポルトガルの輝きなど、歴史の勉強にもなりました。
 ただ、十年以上も前にマドリードで見たフラメンコショーの素晴らしさを、今回はほんのおさわりしか味わうことが出来ず、残念な思いを残しました。






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