ゆったり中欧5カ国周遊10日間

トラピクス

2009年6月30日~7月9日


 音楽と芸術の都ウィーン、世界で最も美しい都と言われるプラハ、第二次大戦で廃墟化したドレスデンとベルリンなど、目まぐるしいほど多くの歴史の変遷を持つこれら幾つもの古都や、ドナウ川、モルダウ川などが作り出す悠久の大自然などを回ってみたいと思っていました。個人旅行は難しいので、今回も、トラピクス20周年記念、20万円のツアー旅行に申し込んで見ました。ホテルは市内から少し外れてはいたものの、食事や部屋は十分で、費用が安いというイメージは全くありませんでした。
 なお、ベルリンへは過去に2度、ウィーンへは1度行っていますが、それ以外は初めてでした。
 参加者は65名と非常に多いのですが、33名と32名の二組に分かれ、飛行機の都合だと思いますが、目的地ブタペストへはパリ経由組とフランクフルト経由組になりました。私たちはパリ経由でした。到着後は、二組のバスは多少の時間差を設け、同じルートを回り、昼食のレストランも同じであったりしましたが、時々、別なホテルに泊まったりもしました。私たち33名の内訳は男性8名、女性25名、そのうち御夫婦は7組でした。


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 ただし、2枚目からは軽快に動きます。




 

 これらの国々を結んでいるのがドナウ川、モルダウ川、エルベ川です。それらを下の2枚の図に示します。
ドナウ川

 ヨーロッパ第二の大河で、全長は2,850 km。ドイツ南部の森林地帯に端を発し、ウィーン、ブダペスト、ベオグラードと、3国の首都を貫流し、ルーマニアとブルガリアの境を東進して黒海に注いでいます。

 

モルダウ川、エルベ川

 エルベ川はポーランド、チェコ国境地帯の山地から起こり、その後チェコ北部、ドイツ東部を経て、ハンブルク付近で北海へと注いでいます。全長は約1,091kmです。
 モルダウ川はチェコ南部や、ドイツ側のバイエルンの森に発する複数の川を源流とし、チェスキー・ブジェヨヴィツェ、プラハを経てエルベ川と合流しています。


 第一次世界大戦により、ハプスブルグ帝国、ロシア帝国、ドイツ帝国などが崩壊しましたが、その後、中欧は、第二次世界大戦後ソ連の支配を受けるなど、何度かの変遷を得て、比較的小さな国へと分裂してゆきました。たしかにそれらの国々は日本と比べ小さいようです。今回の旅でのバスの移動距離は 1,010km でしたが、日本でいえば東京から下関までの距離と全く同じでした。
 下の2枚の図は地図上の面積を比較できるように縮尺を同じになるようにして比較したものです。子供のころから日本は小国の島国だと教わってきましたが、世界には日本より小さな国が非常にたくさんあることがわかります。



曜日 観光地 宿泊地
1日目 成田からパリ経由、ハンガリー・ブタペストへ ハンガリー・ブタペスト
2日目 ハンガリー・ブタペスト(世界遺産) ハンガリー・ブタペスト
3日目 スロバキア・プラチスラバ オーストリア・ウィーン
4日目 オーストリア・ウィーン(世界遺産) オーストリア・ウィーン
5日目 チェコ・チェスキー・クルムロフ(世界遺産) チェコ・プラハ
6日目 チェコ・プラハ(世界遺産) チェコ・プラハ
7日目 ドイツ・ドレスデン(世界遺産) ドイツ・ベルリン
8日目 ドイツ・ベルリン ドイツ・ベルリン
9日目 早朝、ベルリン発
10日目 早朝、成田到着
 

 今回訪問するハンガリー、チェコ、スロヴァキアは2004年にEUへの加盟を果たしています。ちなみに、この2004年というのはEUにとっても拡大の節目の年で、以上の3国以外にも、ポーランド、バルト三国などかつての東側諸国を中心に10ヵ国が加盟しています。この年に、EUはそれまでの15ヵ国体制から25ヵ国体制に拡大しました。
 その後、2007年にはブルガリアとルーマニアが加盟し、現在の EU 加盟国は27カ国になっています。


        

1日目 パリ経由ハンガリー・ブタペストへ

ハンガリーの国旗

 成田での集合時間は午前8時30分で、出発は10時30分でした。
 飛行機はエアーフランス、機材は AB340で、座席は2-4-2の並びでした。パリまで12時間30分かかりましたが、比較的空いており、私も家内も2つずつ座席を使用できました。4つの座席を一人で占有し、横になって寝ていた人もいました。最近では珍しいことです。
 西行きの飛行機は比較的楽で助かります。出発後は、テレビを見たり、本を読んだり、お酒を飲んだり、食事をしたり、居眠りをしたりしていると到着してしまいます。
 パリでの乗り継ぎ時間は3時間30分で、パリからブタペストまでは2時間10分でした。
 ホテルはブタペストの郊外にあり、到着は真夜中の午前0時40分ごろでした。
 明日の朝食は7時からで、一寝入りすれば、時差は取れそうです。



 ここで、少し、ハンガリーについて書いておきます。

 ヨーロッパの中央に位 置するハンガリーは、東洋的な文化と、西洋的な文化が交差する独特な雰囲気を持っています。
 国土の大部分はなだらかな丘陵で、ドナウ川に潤される平野部には肥沃な農地が広がる牧畜と農業の国で、人口は約1千万と世界80位であり、面積は北海道より少し広く、世界108位と小さな国にランクされます。一人あたりのGDPも約50位にランクされています。
 通貨はフォリントが使用され、1円は約2フォリントでした。
 言語はハンガリー語ですが、ハンガリー語はハンガリー以外にもかなり広く使用されて、世界で11番目に広く使用されている言語だそうです。
 周辺の国は、スロバキア、ウクライナ、ルーマニア、セルビア、クロアチア、スロヴェニア、オーストリアと7つの国に囲まれています。
 この地を旅していると、小さな国々が、民族と言う名のもとに、戦争をしたり、独立、分裂を繰り返していますが、一体、民族とは何かを考えらせます。
 民族を一言でいえば、言語、そして宗教なのでしょうが、それ以外にもいろいろな見方が必要なようです。


 1867年、ハプスブルグ家は、オーストリア帝国とハンガリー王国の二つの国を支配し、両国の君主として君臨しますが、両国は別々の政府をもち、いわゆる連合の形を取っていました。なお、当時のハンガリー王国は現在のハンガリーより数倍も広い領土を持っていました。
 第一次世界大戦でドイツとともに敗戦国となったオーストリア=ハンガリー帝国は、ハプスブルグ家の滅亡とともに、二つの国に分離し、ハンガリー民主共和国が成立しました。その後、ルーマニアとの戦争が勃発し、その結果、国土は面積で28%に、人口も36%に減少してしまいました。
 第二次世界大戦では、ドイツ側に組みしますが、戦局は不利になり、1945年、ハンガリー全土がソビエト連邦に占領され、1946年、それまで名目上ではあったものの王制が廃止され、ハンガリー王国は滅亡しました。
 1949年、ハンガリー人民共和国が成立し、共産主義国家としてソ連の衛星国となりました。しかし、ソ連支配に対する反発も強く、1956年、ハンガリー動乱が起こりますが、ソ連に鎮圧されてしまいます。
 1989年、ソ連からの圧力が弱まるとともに、ハンガリーは共産党の一党独裁を放棄し、民主化が進められ、ハンガリー共和国が成立しました。
 1990年代、ハンガリーはヨーロッパ社会への復帰を目指して改革開放を進め、1999年に北大西洋条約機構(NATO)に、2004年に欧州連合(EU)に加盟しました。



        
2日目 ブタペスト(世界遺産)観光 

 ブタペストはブタ地区とペスト地区からなり、二つの地区はドナウ川によって区切られています。
 朝起きて、初めて見るブタペストは、清潔で美しく、家々は比較的大きく、何か裕福な風景です。
 今回訪ねるヨーロッパの首都はいずれも路面電車が走っていて、ここでは、ホテルの前にも通っています。これを使えは簡単に市の中心部にも行けそうです。
 いずれのホテルもそうですが、朝食はバイキングで、十分な品数がありました。このホテルのお客はほとんどが団体客の感じでした。
 なお、ブダペストは「ドナウ河岸・ブダ地区とアントラーシュ通りを含むブダペスト」として2002年に世界遺産に登録されています。





中央市場見学

 なぜか、貴重な時間を使って、朝から中央市場の見学です。
 この市場の規模は比較的小さく、特に目立ったものはありませんでした。ただ、モスクワでの土産店で見たと同じような、だるまの人形が売られていました。どちらが本家なのでしょうか。
 地下には通常のスーパーマーケットがありました。



ゲレルトの丘

 標高235mのゲレルトの丘からの眺望です。ゲレルトとは、ハンガリーをキリスト教化するために、国王に招かれたイタリア人伝道師の名前だそうです。町の中央にドナウ川がながれ、左側には、王宮が、右側には国会議事堂が見えます。それらをくさり橋が結んでいます。ブタペストは「ドナウの真珠」とか「ドナウのバラ」などとも呼ばれています。
 川の左側のブタ地区の遠くに我々の泊まっているホテルが見えますが、王宮のある丘の麓には閑静な住宅街が広がっています。
 一方ドナウ川の東岸、ペスト地区は、ブタとは対照的に平坦な地形になっており、商店やオフイス、官庁、劇場が並ぶにぎやかな商業地区となっています。
 1849年にはくさり橋が完成し、ドナウ川によって隔てられていたブタとペストの町が繋がりました。
 午前中見学するマーチャーシュ教会や漁夫の砦も、この丘の近くにあります。



マーチャーシュ教会

 歴代の王の戴冠式が行われた歴史ある教会です。ハプスブルク家のフランツ・ヨーゼフ1世とエルジュベート皇妃の戴冠式もここで行われています。
 この教会は、13世紀半ばにロマネスク様式で建築されましたが、15世紀のマーチャーシュ1世のときにゴシック様式に造り変えられました。さらに、16世紀にトルコによってモスクに改装されたましが、17世紀にふたたびカトリック教会に戻りました。ハンガリーの歴史を垣間見るような建物です。
 この教会の名前はマーチャーシュ王が88mの尖塔を作らせたので、その名で呼ばれています。
 我々のツアーグループが近くの土産屋で買い物中、そこを抜けだし、教会の内部を見学しました。比較的小さな教会です。
 教会の屋根がわらは時々修復されているそうです。



漁夫の砦

 教会の前庭には、ハンガリー建国の父と呼ばれる、聖イシュトヴァーンの騎馬像が建てられています。
 そのすぐ近くに尖った屋根を持つ漁夫の砦があります。この白亜の砦は1896年、建国1000年を記念するモニュメントとして建設され、1902年に完成しています。
 見晴らしの良い所に造られ、美しい国会議事堂を眼下に見下ろすことが出来ます。


 今回のブタペストの観光はこれで終わりで、午後はオプションでドナウベントの美しい街の観光が一人1万円で用意されていました。約半数の人がそのオプションに行ったようですが、まだブタぷストのほんの一部しか見学していません。そういう訳で、我々は自分の足で市内の見学をすることにしました。
 なお、現地のガイドさんの話によると、王宮は外から見ると素晴らしいが、内部は特に見る物がないと言っていたので、時間的制約もあり、見学はしませんでした。



午後、自由散策

 昼食後、短い時間ではありますが、ブタペストを自分の足で歩いてみました。地図と案内書を手元にいざ、スタートです。夕方6時までには自分の力でホテルまで帰る必要があります。ホテルで夕食を取り、その後、ドナウ川遊覧に出かけます。



聖イシュトヴァーン大聖堂

 レストランから歩いてすぐ近くに大聖堂があるので、行って見ました。この大聖堂はハンガリー建国1000年を記念して、約50年の歳月をかけて造られたネオルネサンス様式の教会です。聖堂内には、「聖なる右手」と呼ばれる聖イシュトヴァーンの右手のミイラが安置され、見学できるようになっているそうですが、見逃してしまいました。
 ドームに登り、ブタペストを見晴らしてみました。



オペラハウス

 大聖堂のすぐ近くにオペラハウスがあるの覗いてみました。館内のツアーもあると書いてありましたが、時間が合わず、中止し、ハウス内をちょっと覗いて写真を撮りました。さすが豪華です。



地下鉄で美術館まで

 美術館はかなり離れており、歩いては行けないので地下鉄を利用することにしました。ヨーロッパの電車には通常、改札がなく、切符を買い、自分でパンチを入れます。まだ一度も会ったことはありませんが、時々、検札があるそうです。切符を持っていないとかなりの罰金を支払う必要があります。地下には切符売り場がなく、路上の新聞売り場で切符を売っていました。
 電車に乗っていると、隣のおばさんが話しかけて来て、この地下鉄は世界で一番早く開設され、世界で最も古い路線だと言っていました。以前、ロンドンの地下鉄が世界で一番古いと聞いたことがありますが。もっとも、電気で走ったのは、この地下鉄が最初なのは間違いありません。
 ブタペストは、それほど人口密度が高いとは思いませんが、歴史の国を感じます。
 ハンガリーの通貨はフォリントですが、地下鉄に乗ったり美術館に入ったり、ビールを飲んだりするには、現地の通貨にする必要があります。しかし、交換しすぎると無駄になるので、現地通貨の残りを気にしながら行動する必要がありました。



英雄広場

 美術館の近くの駅で降りると、英雄広場に出ました。この広場もハンガリー1000年を記念して1896年に造られました。



ハンガリー国立美術館

 数々の名画を有するハンガリー国立美術館を訪ねてみました。
 格式のある素晴らしい美術館でした。約300円追加料金を支払うとカメラ使用許可証を胸にはり、自由に写真を撮ることが出来ました。美術館内はもったいないぐらい空いていました。
 詳しくは英語表記の下のホームページで見ることが出来ます。また、所蔵する画像をダウンロードすることもできます。試しにルノアールの絵をダウンロードして見ました。
http://www.szepmuveszeti.hu/



名画オンパレード
 空いていたので、ゆっくりと写真を撮ることが出来ました。エル・グレコとその一派や、ベラスケスなどの絵を始め、名画がたくあんありました。
 


エル・グレコ 1541-1614 ギリシャ出身。

 エル・グレコの名は、スペイン来訪前にイタリアにいたためイタリア語で「ギリシャ人」を意味するグレコにスペイン語の男性定冠詞エルがついた通称である。
聖家族

1590-1595年頃
聖衣剥奪

1580-1600
悔悛するマグダラのマリア

1580年

 元娼婦が、頭蓋骨を前に、
長くのばしている髪の姿で
後悔する伝説を描いています
ゲッセマネの園

1610-1612年



ディエゴ・ベラスケス
 1599-1660 

バロック期のスペインの画家。
17世紀を代表する巨匠と言われる


マルガリータ王女の肖像(8歳)

1659年
Juan Bautista Martínez del Mazo

1612-1667

チャールズ皇太子バルタザールの肖像

1661
クラウディオ・コエーリョ
Claudio Coello
1642-1693

スペイン・バロック絵画を代表する画家の一人


Paul De Vos

静物

Naturaleza muerta
Pieter Balten
1527-1584

お祭り

1579年

ローマの慈愛
1628年

「ローマの慈愛」は著名な画家の作品も多い
刑務所内の囚人が自分の娘から乳を貰っている。

ヤン・ファン・ホーイェン
Jan van Goyen

1596-1656

Outskirt of a village with travellers

1630 年

メルヒオール・ドンデクーテル

水鳥


1680年代
アルベルト・カイプ
Aelbert Cuyp
 1620-1691

オランダの画家

Portrait of the Sam family
ジェラール・ド・レレス
Gérard de LAIRESSE

虚栄心のアレゴリー
1685年
Jacob de WIT

A woman at a sacrificial altar

1724年

ベルナルド・ストロッツィ
Bernardo Strozzi

貢の銭
The Tribute Money
1630年



印象派の絵

 ルノアールを始め、何度か見たことのある絵がたくさんありました。



クロード・モネ Claude Monet, 1840-1926 印象派を代表するフランスの画家 たくさんの睡蓮の絵を描いています

三艘のボート

花咲くリンゴの木
Plum Trees in Blossom

1879年

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ピエール=オーギュスト・ルノワール
 1841-1919
 
少女

1890

フランスの印象派の画家ですが、
人物画を得意とし、
晩年は豊富な裸婦像などの
人物画に独自の境地を拓きました。



ポール・ゴーギャン 1848-1903 フランスのポスト印象派の画家

冬の景色

1879年
黒豚
Black pigs

1891年


 

カミーユ・ピサロ
Jacob Camille Pissarro
 1830-1903
 フランスの印象派画家

ポン=ヌフ
Le Pont-Neuf

1902年


シャルル=フランソワ・ドービニー
Charles-François Daubigny
1817-1878

フランス人の画家
バルビゾン派の一人に数えられ、
印象派につながる重要な先駆けを果たしたと言われる。


 下の写真は国立美術館のホームページからダウンロードしたものです。時間があったらいろいろ集めて楽しめそうです。

 

Auguste Renoir
Limoges 1841 – 1919 Cagnes
Portrait of a Girl
1890s
oil on canvas, 56.5×47 cm
Collection of Modern Art, inv. no. 435.B



国会議事堂

 世界で最も美しいと言われる国会議事堂です。ドナウ川の川沿いに建っています。この議事堂は17年の歳月を費やし、1902年に完成しています。中央ドームはルネサンス様式、その両側はネオ・ゴシック様式と、いろいろな様式を取り混ぜて作られています。
 見学しようと思ったのですが、かなり前からの予約が必要だそうです。観光施設ではないので当然かもしれません。議事堂を見ていたら要人と思われる人たちが議事堂から出て来ました。
 



地下鉄でホテルまで帰る

 ドナウ川を潜る地下鉄はかなり深く掘り下げて作られているようです。エスカレータのスピードは日本よりだいぶ早く、慣れないと戸惑いそうです。
 地下鉄からモスクワ広場駅まで行き、そこからホテルまで歩いて15分程度でした。無事、時間内に帰れました。



ドナウ川貸切クルーズ

 1週間前に降った大雨で、ドナウ川の水嵩はだいぶ増えています。8年ぶりぐらいの水量だそうです。
 まだ、日が暮れないうちに遊覧船は出発しました。
 川べりに美しい国会議事堂が見えます。また、その反対側には王宮が見えます。
 船はかなりのスピードで鎖橋の下をくぐってゆきます。この鎖橋は10年の歳月をかけ1849年、完成しています。ドナウ川にかかる幾つもの橋の中で、最も美しいとも言われています。
 鎖橋と言う由来は、ライトアップされた橋の電球が鎖のように見えることから、そう言われ出したそうです。
 船はしばらく進み、日が沈み暗くなった頃、Uターンして戻ってきました。鎖橋の電球がくっきりと浮かび上がってきました。
 ライトアップされた王宮や国会議事堂は、先ほどとはまた違った美しさを示していました。

 鎖橋の上には弦月が明るく輝いておりました。



      
3日目 プラチスラヴァ観光 (スロバキア)  

スロバキアの国旗

 中央の山の模様は、カルパチア山脈の一部であるタトラ山脈を意味しているそうです。タトラ山脈はポーランドとスロバキアの国境に位置し、ウインタースポーツで有名です。

 朝9時にブタペストのホテルを出発し、約200km走ってスロバキアの首都プラチスラヴァに到着です。
 観光後、約70km走ってウィーンに到着です。
 1993年1月1日をもって、チェコとスロバキアは平和裏のもとに分裂し、独立しました。スロバキアの言語はスロバキア語で首都はプラチスラバです。人口は540万人で、面積は九州より少し大きいく、世界順位は126位と、かなり小さい国に属しています。
 通貨はユーロで、一人あたりのGDPは世界58位にランクしています。
 ポーランド、ウクライナ、ハンガリー、オーストリア、チェコの5つの国と隣接しています。
 

 スロバキアは、約1000年間もハンガリー王国の一部であって、ハンガリーの首都がプラチスラヴァに置かれたこともあり、時代とともにいろいろと変遷しています。
 中世ヨーロッパの時代、ハンガリー王国は東のモンゴル帝国から度重なる襲撃を受け、それを防止するため、スロバキアの東部には、幾つものお城が築かれています。

 この図は中世ヨーロッパの帝国、王国を示すものですが、モンゴル帝国がたびたびハンガリー王国へ侵入しています。


 第一次世界大戦で、ハプスブルグ家が崩壊し、オーストリア=ハンガリー帝国が解体され、1918年、チョコと共に独立し、1920年、チェコスロバキア共和国が成立しました。
 その後、ハンガリーと戦争をするなど、いろいろな変化がありましたが、1930年代、ドイツナチスの台頭により、チェコスロバキアは悲劇に襲われます。
 当時、ナチスはスロバキアを含む中央ヨーロッパに進出し、1939年、ヒットラーのかいらい政権がスロバキアに誕生しました。皮肉にも、それがスロバキアにとって初めての独立国家でした。
 その結果、今まで、多文化、多民族の中で、お互い仲良く暮らしていたユダヤ人は迫害を受け、強制収容所送りとなり、家や家財など、財産はすべてナチスに奪われてしまいました。
 その悲劇も第二次世界大戦の終戦をもって終結しますが、1948年、チェコスロバキア共産党によるクーデターが起こり、チェコスロバキアは共産主義国家となります。
 1968年、プラハの春と呼ばれる改革運動が起こりましたが、ソ連軍の介入により挫折してしまいました。それ以降、チェコスロバキア自国民による政権がソ連の後押しの元に作られ、保守的・抑圧的政権が続きましたが、1989年、ビロード革命が起き、共産党政権が崩壊し、ハヴェルが大統領となりました。
 1990年にはチェコおよびスロバキア連邦共和国と改めています。
 しかし、その後まもなく、スロバキアはチェコの後にスロバキアが続くという言葉上の問題から、チェコからの独立を主張し、双方、うまい知恵もないまま、1993年、平和裏のものとに、チェコとスロバキアは分裂しました。
 政治がうまくいっていない時、多文化、多民族の中で仲良く暮らしていた民族に、民族独立の感情に火を付け、煽動し、そちらに人民の気をそらすのは政治家のよくやらかす手段です。その典型に、ドイツナチスや、セルビアのミロシェビッチなどが上げられます。
 国民を扇動し、チェコから独立したその時の大統領は、その後、専制的な政治を行い、国民から反感を買い、失脚しています。
 今は二つの国ともEUに加盟したので、その垣根は以前よりは減って来たと思われます。

 今日はハンガリーからスロバキアへ、そしてオーストリアへと2つの国境を越えますが、今は、ノンストップで通過できます。ただし、私たちを乗せたバスは、通行税を支払う必要があるらしく、運転手が降りて、何か手続きをしていました。一般の車はノンストップでした。
 2004年にハンガリーとスロバキアが EU に加盟する前は、国境を通過するのに長い列を作ったそうです。
 下の写真は、ハンガリーからスロバキアへ入る時のものです。



旧市街散策

 いよいよ、プラチスラヴァの観光です。
 現地のガイドさんが案内してくれましたが、最初の挨拶は、「私たちの国はとても小さいのですが」と言っていました。
 下の写真は旧市街の風景です。オペラハウスの前も通りました。



旧市街広場

 広場には日本大使館の旗が立っていました。たくさんの国の大使館がこの近くにあるようです。



聖マルティン大聖堂

 1563年から1830年まで、ハンガリー王国歴代の国王や王妃たちの戴冠式が行なわれました。 
 女帝マリア・テレジアはハンガリー国王として、ここで戴冠式を行っています。 なお、女帝はいろいろな国の元首を兼ねていましたから、チェコプラハ城でも戴冠式を行っています。



ブラチスラヴァ城

 小高い丘の上にあり、かって、マリア・テレジアの住んでいた古城で、ドナウ川やプラチスラヴァの市街が一望できます。
 女帝マリア・テレジアが若干23歳で皇帝を引き継いだ時、女性には継承権がないと難癖を付けられ、プロイセン帝国から攻撃を受け、ハプスブルグ家は危機的状態になりました。
 その時、女帝はハンガリーの協力を得るため、馬に乗ってこの城の階段を登り、議事堂へ行ったそうです。その馬術と勇気に感動したハンガリーの貴族たちは女帝に協力することを約束し、ハプスブルグ家は危機を脱しました。
 現在は国立歴史博物館になっています。ドナウ川には新橋が作られ、つり橋の柱の上のはレストランが作られていました。城はちょうど修理中でした。
 川の向うにはたくさんの高層住宅が見えます。



 バスは再び国境を越え、オーストリアへ入りました。たくさんの風力発電機が見えて来ました。



 明日はいよいよウィーン観光です。



        
4日目 ウイーン観光(世界遺産)   7月3日(金)

 ウィーンは東西を結ぶ交易都市として栄えて来た歴史の街です。ウィーンの旧市街地区8平方kmが世界遺産に登録されています。
 現在の観光都市ウィーンには、年間300万人もの観光客が押し寄せるそうです。

 

オーストリアの国旗

 第3回十字軍に参加したオーストリア公、レオポルド5世が敵の返り血を浴びて全身赤く染まってしまいましたが、ベルトのため腰の部分だけ白く残ったという故事にちなで作られたそうです。


 オーストリアの人口は840万人。
 面積は北海道とほぼ同じで、一人あたりのGDPは世界で35位にランクされています。
 公用語はドイツ語で、首都はウィーンです。
 1995年、EUに加入し、通貨はユーロが使用されています。
 周辺国はチェコ、スロバキア、ハンガリー、スロベニア、イタリア、スイス、ドイツで7つの国に接しています。
 ドナウ川がウィーンの町中を流れています。
 

 中世時代、オーストリアは神聖ローマ帝国の一部でしたが、13世紀になると、神聖ローマ帝国はオーストリアを主体としたハプスブルグ帝国とドイツを主体とするプロイセン王国の弱い連合体のようになって行き、皇帝不在の時期も長い間続きました。
 ハプスブルグ家は13世紀から650年もの間、オーストリアの帝国として君臨し、ヨーロッパにおいては第一次世界大戦まで、イギリス、ドイツ、フランス、ロシアとともに、ヨーロッパの5大列強の一つでした。なお、オーストリアはハンガリーとオーストリア=ハンガリー帝国を作っていました。また、1882年、ドイツ帝国とイタリア王国との三国同盟を結んでいました。
 第1次大戦では、ドイツとともに戦いましたが、敗戦と内部革命によりハプスブルグ家が滅亡し、1918年、オーストリア共和国が誕生しました。その後、1938年、ドイツナチスの台頭により、ドイツ第三帝国として併合されます。
 第二次世界大戦で再び敗戦となり、1945年、ウィーンの一部はベルリンと同様ソ連に占領されますが、1955年、東西の緩衝地帯とし、永世中立国を宣言し、独立しています。
 その後、1995年に EU に加入しています。



シエーンブルン宮殿(世界遺産)

 いよいよ、何度も耳にしたハプスブルグ家の居城、シェーンブルン宮殿の観光です。この宮殿は、波乱に満ちた長い歴史を秘め、1996年、世界遺産に指定されています。シェーンブルンとはドイツ語で美しい泉を意味します。
 この宮殿の歴史は1569年、マクシミリアン2世がウィーン市長から買い取った時から始まります。その後、長い間、広大な敷地での狩猟の場として使用されていました。その後、オスマントルコ軍により破壊されるなど、大きな被害を受けますが、この宮殿はマリア・テレジアのもとに、大きな飛躍を遂げます。それはまた、贅の限りを尽くされた宮殿でもあります。マリア・テレジアは月の半分をここで過ごしたそうです。
 しかし、女帝マリア・テレジアの死後、この宮殿は住む人も居ないほど放置されます。19世紀初頭、最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世はこの宮殿を整備し夏の居城として使用しました。
 この宮殿は、1805年と1809年の2度、ナポレオンによって占領されていましたが、ナポレオンが退却した後、再び改修されています。金色に輝く壁面の色はシェーンブルン・イエローとか、マリア・テレジア・イエローと呼ばれています。

 第一次世界大戦で敗戦し、ハプスブルグ帝国は崩壊し、この宮殿は市民の手にわたりました。当時、多くの部屋が住宅難に苦しむ市民の手にわたり、今も200世帯がこの宮殿に住んでいるそうです。
 この宮殿は第二次世界大戦で大きな被害を受けますが、その後、修復され、現在の姿になっています。
  この宮殿はウィーン市の中心から4kmほど離れた郊外に位置しています。



ハプスブルグ家の歴史

 ここで、ハプスブルグ家について書いておきます。これはまた、オーストリアの歴史でもあります。
 10世紀のころ、ライン川を中心に幾つもの領主たちの集まりである、神聖ローマ帝国が誕生しました。その皇帝は、有力領主と聖職者たち7名によって選ばれることになっていました。
 13世紀、ライン川源流の近くにあるスイスの一領主であったハプスブルグ家のルドルフ1世が神聖ローマ帝国の帝王に選ばれました。有力領主たちは弱小領主を皇帝に選んでおけば、自分の意のままに動かせると考えていました。しかし、予想に反し、ルドルフ1世は有能でした。ルドルフ1世は当時最強と言われていたボヘミア軍を倒したのです。  それによりルドルフ1世の名声は上がり、ヨーロッパでの名門の仲間入りをし、絶大な権力を手にします。
 その後、ルドルフ1世は領域を広げ、奪い取ったドナウ川流域のウィーンに拠点を移し、繁栄の基礎を築きました。
 1508年、ハプスブルグ家のマクシミリアン1世が神聖ローマ帝国の帝王に選ばれました。彼は、当時、ヨーロッパ一の経済力を誇る北海沿岸のブルゴーニュ家の一人娘に目を付け、結婚することにより、戦わずして莫大な領土と経済力を手にしました。
 「戦争は他国に任せ、婚姻により繁栄する」という家訓はここから始まりました。息子と娘にはスペイン王家と、孫たちにはハンガリー王家と縁組をさせ、ヨーロッパ大半を支配下に治めます
 こうして、ハプスブルグ家は他国と戦争することなく、日の没することなき帝国を築いて行きました。
 1740年、マリア・テレジアがわずか23歳でハプスブルグ家を相続、即位しました。一族に相続権利のある男性が居なかったためでした。しかし周辺諸国は女帝による世襲を認めず、ハプスブルグ帝国はプロイセン帝国とフランス帝国に狙われ、危機的状態にありました。この難局に対し、女帝はそのたぐいまれなる知性によりハンガリー貴族の協力を得ることに成功し、また、フランスとの同盟に成功し、プロイセンの侵略からハプスブルグ家のを守りました。
 「戦争は他国に任せよ」という家訓は、マリア・テレジアにも受け継がれました。彼女は16人もの子供を産み、末娘、マリー・アントワネットをフランスのブルボン王家に嫁がせて、フランスとの関係を改善しています。なお、悲劇の王妃、マリー・アントワネットは、1798年、フランス革命により、断頭台の露と消えて行きす。
 後年、マリア・テレジアは情熱を持ってシェーンブルン宮殿の改築を行い、各国の名品を集めると共に、音楽や絵画などの芸術を高めました。
 1793年、フランス革命で国王ルイ16世が処刑されるなど、ヨーロッパでは王国から市民階級の時代へと大きなうねりが押し寄せてきていました。そして、フランス革命後、ナポレオンが登場してきます。
 1804年、ナポレオンは革命の意欲に燃える市民軍を率いてウィーンに入場し、ハプスブルグ家の王女を妻にしてしまいます。また、シェーンブルン宮殿の中に自分の部屋を作らせました。これにより、今まで続いてきたハプスブルグ家の秩序は解体されてしまいます。
 その後、ナポレオンが失脚し、ウィーン会議(1814年)がウィーンで開催されますが、ヨーロッパは大きな変動の波に呑み込まれてゆきます。なお、このウィーン会議は「会議は踊る、されど進まず」で有名です。
 そういった中で、帝国打倒と民族独立を求める民衆の力はますます強まってゆきます。各国の国王や貴族はその動きに慄き、ハプスブルグ家もウィーンで貴族達と対策を練って行きます。その時のハプスブルグ帝国の皇帝は、最後の皇帝と言われるフランツ・ヨーゼフでした。(フランツヨーゼフ;1830~1916)
 彼はヨーロッパ一の絶世の美女と言われるエリザベートと結婚し、4年後には待望の長男、ルドルフが誕生します。しかし、姑、ゾフィーは、ルドルフに帝王学を学ばせるという理由で、エリザベートから長男を取り上げてしまいます。
 失望したエリザベートは宮廷生活を嫌い、各地を転々と旅するようになります。しかし、フランツ・ヨーゼフは、母、ゾフィーに頭が上がらず、愛する妻の息子と暮らしたいという願いを聞き入れませんでした。
 当時、ウィーンは人種のるつぼと言われ、さまざまな民族が集まっていました。皇帝は大変勤勉実直でした。王冠をかぶった役人とも言われたそうです。ヨーゼフはたびたび民衆と謁見し、出来るだけ民意を組み入れる政治を行いました。しかし、そういう熱意もむなしく、フランツ・ヨーゼフ暗殺未遂事件が起こります。犯人は帝国の支配を憎むハンガリー人でした。皇帝は重傷ながら一命を取りとめます。(エリザベート;1837~1898)
 こういう情勢の中、帝国の支配から自由と民族の独立を勝ち取ろうという動きが、周辺国のボヘミア、ポーランド、ハンガリー、イタリアなどで、暴動となって発生し、ウィーンにも押し寄せてきていました。
 こういう状況の中、暗殺事件から5年後、皇帝フランツ・ヨーゼフはウィーン大改革を実行します。

 皇帝フランツ・ヨーゼフは市民からの要請を重く受け止めようと、国会議事堂を作り、民主主義発祥の地であるギリシャ様式を取り入れました。また、限定的ではあるものの、選挙制度も取り入れました。新しく作られたオペラ座は、上下の差がなく、誰もが同じように観劇できるような椅子の配置にも気をくばりました。皇帝の居城である王宮の側面には、さまざまな民族衣装をまとった人たちの彫像が置かれました。多民族の共存こそが、ハプスブルグ帝国の変わらぬ理想であることを示そうとしたのでした。
 当時、ユダヤ人は国を持たない民族としてヨーロッパ各地で迫害を受け、差別や貧困に苦しんでいました。一方、ウィーンでは新しい憲法により民族の差別を禁じました。その結果、たくさんのユダヤ人がウィーンに住むようになりました。
 国を持たないユダヤ人は様々な国に住んでいました。そのため、多くの言語に堪能でなければなりませんでした。しかし、その語学力が知識と教養を高め、その結果ウィーンではユダヤ人の富豪がたくさん誕生しました。そして、その富がウィーンを豊かにしてゆき、19世紀の終わりごろの世紀末芸術の誕生へと結びついて行きます。
 そうした中、1889年、皇太子ルドルフが帝国の維持にこだわる父に反抗し、自殺してしまいます。
 そしてさらに不幸が襲います。最愛の妻、エリザベートが61歳の時、スイスを旅行中、帝国の特権を憎む暴漢に襲われ、命を落としてしまいます。
 後継ぎ、ルドルフを亡くしたハプスブルグ家はその後継者にフランツ・フェルディナント大公を選びますが、1914年、その大公も民族主義者に暗殺されてしまいます。
 これが機会となりオーストリアはセルビアに宣戦布告し、それが第一次世界大戦の引き金となりました。大戦の途中、1916年、フランツヨーゼフはこの世を去ります。
 この戦いに敗れ、ハプスブルグ帝国は滅亡し、その支配下にあった民族はぞくぞくと独立して行きます。
 1918年、ハプスブルグ家を継承した最後の皇帝は、シェーンブルン宮殿で、オーストリア帝国を放棄する旨、正式に署名し、ドナウ川流域に650年間にわたって君臨したハプスブルグ帝国は消滅しました。



正面

 ハプスブルグ家に招かれた客は、この正面の階段を登り、2階から入ると、きらびやかに飾られた大ギャラリーに出るそうです。


 

 宮殿内では、世界各国から持ち帰った宝物が飾られています。
 宮殿の中には宮殿の中には1441個の部屋があります。マリア・テレジアは20年間で16人もの子供を産んでおり、そのためにも、たくさんの部屋が必要だったようです。召使も多かったのでしょう。子供達には徹底した教育を行ったそうです。良家と縁組するためには高い教養が必要でした。
 当時、モーツアルトは6歳の時、マリア・テレジアの前で演奏し、ベートーベンもハプスブルグ家がパトロンでした。また、ヨハンシュトラウスは皇帝のために数々の行進曲やワルツを書いています。今も、宮殿広場で、毎年コンサートが開催され、また、花火も上げられ、多くに人で賑わうそうです。
 なお、ハイドンは子どもの頃シュテファン大聖堂の少年聖歌隊に属し、シューベルトはウィーンに生まれ、ウィーンで没しています。


 宮殿内部は写真禁止でした。下の写真はパンフレットから転記したものです。

  大ギャラリー

長さ43m、幅10mで、宮廷での大きな催しに使われました。
巨大な天上のフレスコ画もすばらしい。
1901年には電化工事が行われ、ローソクの代わりに1104個の電球が取り付けられました。
小ギャラリー

家族的な催しに使用されました。
ローザの間(大きな間)

画家ローザの名にちなんで名づけられました。
駿馬の間

馬を使用し、狩猟をしている風景画が飾られています。
胡桃の間

フランツ・ヨーゼフ皇帝の謁見の間
漆の間

高価な黒漆のプレートが飾られています。
ゲスト・アパートメント

たくさんの部屋が続いています。



中庭
 
 中庭に出ると広大な庭園が現れます。そこには幾何学的刺繍模様の花壇に、色とりどりの花が植えられていました。ガイドさんの話によると、冬にここを訪れると花が全くなく、寂しいそうです。
 遠くの小高い丘の上の建物からは、宮殿全体を見下ろせるそうです。今回は時間がなくて行けませんでした。 この宮殿の中には、当時から、動物園や温室の植物園があり、マリア・テレジアは動物たちを見ながら朝食をとるのが好きだったそうです。これらは当時から市民に開放され、今も観客で賑わっているそうです。



シュテファン大聖堂

 町の中心に建てられ、まさにウィーンのシンボルともいわれる大聖堂です。1359年から65年もの歳月をかけて作られており、137mもの塔は世界でも寺院の塔としては3番目の高さだそうです。全体の外観はゴシック様式で、内部の祭壇はバロック様式で作られています。第二次世界大戦で直接の爆撃は免れたものの、鐘が焼け落ちるなど、大きな被害を受けましたが、多くの人の寄付などにより、現在は修復されています。見学の時間はあまりありませんでしたが、中は比較的空いていました。地下には、ハプスブルグ家のお墓があるそうです。



ナッシュマルクト市場

 今日の午後は自分の足でウィーン市内を見学するか、もしくはオプションで一人当たり8,000円のウィーンの森観光ツアーがあります。私たちは、まだまだ、ウィーン市内を見て歩きたいので、オプションには申し込みませんでした。
 自由行動をする人のために、最終的な集合場所として、一般に旅行業者と契約している、トイレを使用できるお土産屋を利用しますが、約40分ぐらい、そのお土産屋で、免税品の紹介などがあります。
 その免税店へ行くため、ウィーンでは有名なナッシュマルクトと言う市場の中を通ってゆきました。さすが、人種のるつぼと言われるウィーンです。世界中の食品が売られていました。



午後、自由散策

 昼食後、いよいよ各自、計画を立て市内見学です。あまり時間がないので、私たちは、王宮と美術史博物館を中心に見学しました。



オペラ座

 昔、ウィーンに来た時、このオペラ座で、プッチーニのオペラ「蝶々夫人」を見たことがあります。当日券の立ち見席でしたが、500円ぐらいで見ることが出来た記憶があります。主役の蝶々夫人は島田祐子さんでした。
 余談ですが、日本人のオペラ歌手は、この様な、日本人が主役なオペラで活躍しているそうです。確かに、西洋人が蝶々夫人を演じても、何かしっくりしないかも知れません。
 今回、このオペラ座を約30年ぶりで見たのですが、記憶は全くありませんでした。



美術史博物館、自然史博物館の中庭

 二つの博物館はお互いに向かい合って建てられており、その中間にマリア・テレジアの像が建てられています。その像のなかに、子どもの頃のモーツアルトも居ました。



美術史博物館

 オーストリアにはパリと同じようにたくさんの美術館がありますが、時間的制約で、美術史博物館を見学しました。この美術館は、ルーブル、プラドとともに世界3大美術館と言われています。
 確かに2階の絵画部門は、ブリューゲルのコレクションを始め、フェルメール、ラファエロ、クラーナハ、ルーベンスを始め、傑作が目白押しで、その上、非常に空いていました。

 なお、美術館のホームページは、http://www.khm.at/en/khm-home/ です。名画をプリントサイズ画面でダウンロードできます。



1階 エジプト、ギリシャ、ローマ部門など

 時間がないのでちょっと覗いただけでした。



2階 絵画部門

 撮った写真のなかなか、いつくかの名画を選んでみました。

アルブレヒト・デューラー 
Albrecht Dürer

 1471-1528年
 ドイツのルネサンス期の画家


ヴェネチアの若い婦人
Junge Venezianerin
1505年



ピーテル・ブリューゲル 1525-1569年 フランドル(現ベルギー)の画家

雪中の狩人
Jager in Schnee

1565年
子どもの遊び
Kinder spiele

1560年
バベルの塔
Turmbau von Babel

1563年
謝肉祭と四旬節の喧嘩

1559年
十字架を担うキリスト
サウロの改心

1567年
牛群の帰り
ベツレヘムの嬰児虐殺
農民の踊り

1568年


  

ディエゴ・ベラスケス 1599-1660 バロック期のスペインの画家。17世紀を代表する巨匠と言われる

青いドレスのマルガリータ王女
Infantin Margarita Teresa in blauem Kleid

1659年
フェリペ・プロスペロ王子
1659年

王子は4歳で病気で亡くなっています。
薔薇色の衣装のマルガリータ王女
白衣の王女マルガリータ・テレサ

1656年


 

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ
 1477-1576 
盛期ルネサンスのイタリア人画家


ヴィオランテ
Violante
1515年頃
ラファエロ・サンティ
 1483-1520
盛期ルネサンスを代表する
イタリアの画家、建築家


草原の聖母
Madonna im Grunen
1505年頃
ヨハネス・フェルメール
 1632-1675
 オランダの画家。
バロック期を代表する画家の1人

絵画芸術
Die Malkunst
1665年頃
ダフィット・テニールス
 1610-1690 
フランドルの画家


 ブリュッセルにおけるレオポルト・
ウィルヘルム大公のギャラリー

 Erzherzog Leopold Wilhelm i.s. Galerie in Brussel
1651年頃


 

ヤン・ダヴィス・デ・ヘーム
1606-1684

オランダで活躍した画家



ジュゼッペ・アルチンボルド 1527-1593 イタリア・ミラノ出身の画家。マニエリスムを代表する画家の1人




その他の作品

ペルジーノ
Pietro Perugino

Madonna and Child with St. Catherine and St. Rosa



王宮

 ハプスブルグ家が13世紀後半から1918年までの約600年以上にも渡って住居としてきた王宮であり、まさに、ハプスブルグ帝国の歴史を示す王宮です。現在は幾つもの博物館としても使用されています。ただし、かなり複雑で、時間に追われた見学では、どこに入ってよいのか迷ってしまいます。実際、内部を見学しようと歩きまわったのですが、いろいろな入口があり、入場料もばかにならず、かつ、集合時間が迫ってきたので、外観だけの見学であきらめました。中庭にはいると、フランス2世の像があり、ハプスブルグ家の紋章も飾られていました。
 内部には、銀器コレクション、エリザベートの部屋、フランツヨーゼフの部屋、王宮礼拝堂、王宮宝物館などがあり、それらを見学できるそうです。半日ぐらいは必要なようです。集合まで、残り20分ではあきらめるほかありませんでした。



再び、市内の風景

 バスの集合場所まで、それほどないので歩いて帰りました。下の写真の路面電車の走る道路には、17世紀まで、ウィーンを外敵から守るためのレンガで出来た高い城壁がありました。
 この広い通りはリング通りと呼ばれており、旧市街を囲んで輪になっています。
 時の皇帝ヨーゼフは民衆の意を反映させる政治をしようと、1854年、その城壁を取り除き、広い通りにし、その周辺に、国会議事堂、市庁舎、大学など、いろいろな施設を7年間にわたり建設しました。
 その大改革により、ウィーンは人と物にあふれる大都市になりました。現在、路面電車が走るこの道路の広さは、58mあるそうです。
 下の5枚目の写真は世紀末芸術をリードしたクリムトを始めとする作品が飾られている分離派会館です。今回は時間がなく、見学は出来ませんでした。


        
5日目 チェスキー・クルムロフ観光(世界遺産)
 
チェコの国旗

チェコスロバキアの国旗をそのまま引き継いでいます。
白と赤はボヘミアを表し、それにスロバキアを表す青が加えられています。

 チェコは北海道とほぼ同じ大きさで、人口は約1,000万人。首都はプラハ、公用語はチェコ語、一人あたりのGDPは36位で、通貨は自国通貨、コルナが使用されています。周辺国はルーマニア、スロバキア、オーストリア、ドイツの4カ国で、スロバキアとは1993年1月1日を持って平和的に分裂しました。
 2004年、EUに加盟しています。
 今日は400kmの長距離ドライブで、オーストリアからチェコに入ります。
 ホテルを8時に出発し、ウィーンから220km、約4時間30分後、チェコのチェスキー・クルムロフに到着です。
 観光後、180km、約3時間30分走り、プラハに到着です。
 ドイツ語で我々になじみの深いモルダウ川はチェコ語ではヴルタヴァ川となります。


 バスは豊かで広い平原を西に向かってオーストリアのザルツブルグ方向に走ってゆきます。途中、高速道路を降り、今度は北上し、国境を越えると、チェスキー・クルムロフに到着です。
 この町の周りの道路は、田舎道と言うか、比較的狭い道路が続いています。



チェスキー・クルムロフの歴史

 この地には、ヴルタヴァ川が極端に曲がって流れ、防衛上、優れた地形をしており、13世紀後半、お城と街が、当時流行していたバロック様式で作られ始められました。
 16世紀になると、王はお城をルネッサンス様式で増築し、街にも多くの建物が建築され、色彩鮮やかなルネッサンス様式に変わりました。
 18世紀になると、華麗なるバロック様式のオペラハウスがお城の中に造られ、仮面舞踏会が大広間で開催されるなど、王宮文化が花開きました。
 19世紀の産業革命時代に、この町は鉄道の基幹網から外れていたため、工業化から取り残されてしまい、緩やかな衰退へと向かって行きました。
 20世紀に入ると、この町は大きな悲劇に見舞われます。
 この地には、ドイツ語を話すドイツ人と、チェコ語を話すボヘミア人が仲良く暮らしていましたが、オーストリア=ハンガリー帝国内で、次第に民族主義が強くなり、学校教育などにおいて、ドイツ系人とチェコ系人が二つに分離されてゆきました。
 1910年時点で、この町にはドイツ系人が約7,400名、チェコ系人が約1,300名住んでいました。
 1918年、第一次世界大戦でハプスブルグ帝国が崩壊し、この地はチェコスロバキアとなります。
 その後、ドイツではナチスが勢力を伸ばし、民族主義を掲げ、ドイツ語圏でもあるこの地を占領し、チェコ系住民を全て追い出してしまいました。しかし、ドイツは第二次世界大戦で敗戦し、この地は、再び、チェコスロバキアに戻りますが、今度はドイツ人がこの地から全て追放されてしまいます。その結果、この町は、ほとんど無人状態になってしまいました。その上、ソ連の占領下に置かれ、共産主義のもと、お城など歴史的建造物が封建時代の遺物とみなされ、ますます廃墟状態が進んでゆきます。いわゆる、人の誰も居ない「眠れる森の美女」となってゆきました。
 そのような無人状態を改善するため、チェコスロバキア政府の指導により、この地に多くのロマ人が移住して来ました。
 この地の歴史的建造物が見直され、補修されるようになったのは、共産主義の独裁政権から解放された1989年以降でした。それ以降、町の景観の歴史的価値が再認識され、建造物の修復が急速に進められ、町はかつての美しさを取り戻した。
 1992
年にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。



市内の地形

 町の中に、地図が掲げられていました。モルダウ川が急激に湾曲し、逆S字型に流れており、丘の上に城が建てられ、中州が町の中心となり、そこにはたくさんのレストラン、商店、教会があります。
 ヴルタヴァ川は、まだ、上流に近く、それほど水量はありませんが、2002年大洪水に見舞われ、その時の水位を示した標識もありました。この川は、プラハへと流れています。


 チェスキーとはチェコ(ボヘミア)を意味し、クルムロフは川の湾曲部の湿地帯を意味するそうです。

 

 このお城はチェコではプラハ城に続いて2番目の大きさだそうです。城の壁面にはだまし絵が書かれていますが、15世紀頃作られ、これはフランスやイタリアではやったルネサンス様式です。


 

 だまし絵は街のあちこちに見られます。坂を下りると、ヴルタヴァ川を渡る橋に出ます。まさに数百年の昔の世界が出現しました。 お城の塔がひときわ目でっています。自由時間中、お城の塔に登った人も居たようです。
 


 食事中、時ならぬヒョウが降ってきました。かなり大粒です。日本ではこの様な大粒のヒョウを見たことはありません。たまたま、室外での食事でしたから、大騒ぎでした。天井にはガラスの屋根があるものの、簡易の造りで、隙間からヒョウや雨が侵入し、食事どころではありませんでした。
 私たちのレストランは小高い教会のそばにあり、問題はありませんでしたが、この雨が道路を流れ、激流となり、坂の下近くのレストランは水浸しになっていました。これでは完全に営業ストップでしょう。約20分で土砂降りはぴたりと止みました。2002年、プラハのヴルタヴァ川が大氾濫し、街の地下鉄が数カ月にもわたりストップした大被害もこの様な天候を産む地形のせいだったのかも知れません。



 食事後、30分ぐらい、街中の散策でした。教会にも入ってみました。


 

 日本人がたくたくさん訪れるのでしょうか。ここでも、日本円を交換することが出来ました。なお、チェコでは、まだユーロが使用されておらず、 通貨はコルナでした。


            

6日目 プラハ観光 

 いよいよ今日は世界で最も美しい都と言われるプラハの観光です。
 朝、ホテルから外を覗くと遠くにプラハ城が見えます。
 プラハには時代時代の様式の異なるたくさんの塔が建てられており、百塔の都とも、また、黄金の都とも呼ばれています。



ここで、少し、チェコとプラハの歴史を記しておきます。

 1346年、ボヘミア王カレル1世(ドイツ名カール1世)が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、プラハ城の拡張や、大学の創設、カレル橋の建設、都市の整備などが急速に進められ、ローマやコンスタンティノープルと並ぶヨーロッパ最大の都市にまで発展しました。
 16世紀の後半、芸術や科学を愛する王のもと、プラハはヨーロッパの文化の中心都市として大いに栄えました。
 17世紀の初め、プラハはスウェーデン軍に包囲され、その後戦争は終結するものの、人口は激減し、チェコ語の使用禁止、宗教弾圧、文化弾圧など、チョコ民族は暗黒の時代を迎えます。
 18世紀末、チェコはオーストリア=ハンガリー帝国の支配下に置かれていましたが、フランス革命など、民族独立の影響により、チェコ民族は民族独立を求めて蜂起しましたが、鎮圧されてしまいました。
 1874年から1879年にかけ、祖国を離れていたスメタナは故国ボヘミア民族の独立を願い、交響詩「わが祖国」を作曲します。その中の「モルダウ」は私たちにもよく知られています。
 1918年、第一次世界大戦の終結後、オーストリア=ハンガリー帝国が解体され、チェコスロバキア共和国が成立し、独立します。しかし、1938年、ナチス・ドイツにより占領され、チェコスロバキアは解体させられてしまいます。第二次世界大戦中、ドイツ・ナチスにより迫害を受けますが、特にユダヤ人は集団で強制移住され、殺されています。幸い、プラハ市街の被害は少なく、ドイツ軍からの空爆があった程度で街は守られました。
 このころ、政治の中枢はドイツ語を話すドイツ人に占められ、チェコ語しか話せないチェコ人は重用されませんでした。そのため、チョコ人はドイツ語を勉強せねばなりませんでした。
 第二次世界大戦でドイツが敗戦し、チェコスロバキアは再び独立します。その時、チェコに住んでいたドイツ人やハンガリー人はすべての財産を没収され、チェコスロバキアから追放されます。
 1946年、ソ連の後押しにより、共産党が第一党になり、共産主義国家になりましたが、スターリンの抑圧的政権に嫌気をした人民は、1968年自由化、民主化をすすめ、「プラハの春」が達成されようとしていました。それに危機感を持ったソ連は、たくさんの戦車でプラハとチェコスロバキア全体に侵攻し、厳しい警察国家による抑圧政治が始まりました。その時の政権は、共産主義に従順なチェコ人がソ連政府により選ばれたものでいした。このチェコスロバキア政府は民主化活動に対し極めて厳しい弾圧を行い、共産圏国家の中でも、東ドイツと共に、最悪の状態でした。
 1989年、ドイツライプチヒでの民主化運動と同様、プラハやプラチスラバでも民主化の運動が激しくなり、プラハではヴァーツラフ広場を始め、数十万人の規模でデモ行進が行われました。これに対し、国防大臣は、「陸軍は決してチェコスロバキア国民に対し武力行動は起こさない」と表明し、大臣を辞任しました。このデモは1週間以上も続きましたが、結果的に、流血状態は避けられたため、柔らかな革命「ビロード革命」と言われています。
 その後、なにかと優位にあるチェコに対し、スロバキアでは民族感情が高まり、対等な関係を求め、チェコの後にスロバキアという名前が続くチェコ・スロバキアとういう国名でいろいろともめるなど、どうしようもない対立が生じ、1993年1月1日をもって、両国は平和的に分裂しています。分裂を避けようとする政治家と、国民に民族独立感情を掻き立て煽る政治家が居た場合、国民に歴史観などの深い教育がないと、どうしても、右翼的政治家に煽動されてしまいます。マスコミも煽動に利用されやすいのでその責任は重大です。

 日韓の竹島問題も、支持率の低下した時、両方の時の政権によく利用される場合がありまが、今それを持ちだすと、二流の政治だと言われるほど、現在の教育は良くなされています。ただし、マスコミの影響にはきわめて大きなものがあり、注意が必要です。



プラハ城 

 プラハ城はかってボヘミア国王の居城として作られ、現在は大統領府が置かれています。この城は世界で最も広く、最も古いと言われています。城の中には高くそびえる聖ヴィート大聖堂や現在の大統領府、いろいろな博物館、美術館などがあります。
 18世紀後半、女帝マリア・テレジアによって、大きな修復がなされています。



聖ヴィート大聖堂

 現在のゴシック様式の大聖堂はカレル4世時代の14世紀の中ごろに造られています。城の中には高くそびえる聖ヴィート大聖堂がそびえ、中庭からは1枚の写真に収めることが困難でした。朝の9時からミサが始まるとのこと、幸い、私たちは、その前の8時40分から10分ほど見学できました。
 



大統領府前

 この広場で、今年の4月、オバマ大統領は、核兵器廃絶運動の決意の表明を行いました。歴史に残る演説でした。城からプラハの市内が見渡せます。



 小高いところにあるプラハ城からカレル橋へと降りて行きました。




カレル橋

 ヴルタヴァ川に架けられた石の橋で、幅10m、長さ516mもあります。この橋はカレル4世の時代に建設され、1400年に完成しています。橋の欄干には左右それぞれ15体、合計30体の彫刻が飾られています。中央近くにあるカトリックの聖人ヤン・ネポムツキー像は、そのレリーフに触れると幸運が訪れるといわれ、多くの人が手で触っていました。
 



午後 市内自由散策
 午前中はプラハ城を主に見学しましたが、午後は一人8,000円のボヘミアの古城を巡るツアーが用意されていました。しかし、私たちはまだプラハのほんの一部を見ただけなので、自分たちで市内の見学をすることにしました。
 観光スポットが集中する旧市街はそれほど広くなく、歩いて回れそうです。
 旧市庁舎の天文時計は、上の時計が1年間の太陽の状態を表し、下の時計は1年間の暦を示しています。毎正時、からくり時計が動き出し、たくさんの観光客が集まっています。
 見ていると、右側の骸骨がひもを引いて鐘を鳴らし、上の二つの窓が開き、12人のキリストの使途が顔を出し、それが一回りすると鶏が鳴いて鐘が鳴って終わります。約40秒で終わりました。
 広場に面し、聖ミクラーシュ教会、ティーン教会などがあります。市庁舎の近くに幾つもの土産屋があり、そこが散策後の集合場所でした。


 まずは「プラハの春」や「ビロード革命」でよく登場するヴァーツラフ広場に歩いてゆきました。プラハの春ではチェコスロバキアの動きを封じるため、ソ連軍のおびただしい数の戦車が配置され、ビロード革命では、80万人もの市民が静かにデモを行いました。
 この広場は国民博物館を正面に700mも続いており、草花が植えられていました。博物館からこの広場を見下ろすことが出来ました。
 



国立博物館

 とにかく中に入ってみると、インドネシアから来た合唱団が歌を歌っていました。インドネシア古来の歌のようでしたが、日本の子守唄や童謡とにており、ぜひ、今度はインドネシアに行ってみたくなりました。
 


 博物館の中は、確かにたくさんの品が飾られていましたが、時間的制約もあり、少し見学して博物館を後にしました。
 


 街を歩いているとたくさんの塔に出会います。形もその時代の特徴を示しているようです。再びヴルタヴァ川に出ました。遊覧船の発着場があり、また、プラハ城が遠くに見えました。
 



ユダヤ人墓地

 ヴルタヴァ川の近くにユダヤ人墓地があり、行って見ました。
 ユダヤ人はヨーロッパ各地でいろいろな迫害を受けていましたが、1781年、ハプスブルグ家のルドルフ2世は、ユダヤ人を差別する法律を禁ずる命令を発し、プラハでのユダヤ人は大幅に増加して行きました。
 その後、1848年、ハプスブルグ家のマリア・テレジアの息子、ヨーゼフ2世は、ユダヤ人への差別をウィーンと同様、完全になくす法律を施行し、プラハにおけるユダヤ人の人口はさらに増え、5万5千人と、プラハ人口の20%にも達しました。
 しかし、第1次大戦後、ナチス・ドイツが台頭し、プラハを占領した後、ユダヤ人虐殺を開始し、ホロコースへ送るなどして7割の人は殺されたと言われています。
 写真の墓地は、ナチスによる虐殺が行われる以前のユダヤ人の墓地で、人口密集地帯であったがゆえに、たくさんの墓石が密集して置かれています。



旧市庁舎見晴らし台

 エレベータを使用し、旧市庁舎の見晴らし台に上ることが出来ます。広場にヤン・フス像が、また、聖ミクラーシュ教会が見えます。遠くにプラハ城が、また、たくさんの形をした塔が見えました。


 再び、広場に戻り、集合時間まで喉の渇きを押さえるためビールでした。明日はドイツへ行き、通貨コルナも不要になるので、残りを全部ビールやつまみに変えてしまいました。


 世界で最も美しい都市と言われるプラハは、まさにその名の通りでした。
 パリやロンドンに比べれば、物価はだいぶ安く暮らしやすそうです。ただし、チェコの面積は北海道と同じであり、プラハの人口も120万人程度と少なく、今では比較的小さな観光都市としての性格を持っているようでした。
 まだまだ見たい所が沢山あり、プラハを堪能するためには4,5日は必要な感じを受けました。

         

7日目 ドレスデン観光 

ドイツの国旗

 ナポレオン戦争時の義勇軍の軍服に由来するとも言われており、黒は勤勉、赤は情熱、金色は名誉を表すとも言われています。
 今日は今回の最終訪問地、ドイツのベルリンまで走ります。途中、古都ドレスデンを観光します。
 プラハからドレスデンまでは約150km、約3時間30分で、ドレスデンからベルリンまでは約190km、3時間でした。
 ドレスデン「エルベ川流域」が「ドレスデン・エルベ渓谷」として世界遺産に登録されていましたが、2009年6月、景観を損ねる橋の建設を理由に、世界遺産リストから削除されました。この決定にあたって、住民投票が行われました。住民は世界遺産リストから削除されることを承知の上で、建設費の少ない橋の建設と生活の便利さを選んだそうです。現地のガイドさんによると、世界遺産登録の条件の中に橋の建設は認められており、条件を変更したユネスコに対し、住民の怒りが勝ったのだそうです。
 わずか20年前まで、ドイツの地図は東と西に分かれていました。1989年、ベルリンの壁の崩壊により、東西のドイツは統一され、現在に至っています。
 国土面積は日本よりほんの少し少ない程度で、ほとんど同じです。人口は8,200万人と、終戦後の日本とほぼ同じで、日本の3分の2程度になります。
 首都はベルリンにあり、一人あたりのGDPも先進諸国の優等生です。



ドレスデンの繁栄


 ドレスデンが最も栄えたのは18世紀でした。当時、フランスではルイ14世が絶対王制を確立し、イギリスでは議会制民主主義が始まっていました。一方、ドイツでは300もの貴族が争う戦国時代が続いていました。ドレスデンは東部の小国、ザクセン公国の都でした。なお、これらの国々は後に統一されプロイセン王国となっています。
 この都に富を引きよせ、芸術都市としたのはその時の王、アウグスト1世(1670~1733)でした。王には300人もの子供がいたそうです。
 王は産業の育成に励み、100か所もの銀山を掘り当て、ヨーロッパで珍重されていた宝物のコレクションを始めました。その中の一つに東洋の磁器がありました。当時、ヨーロッパでは磁器を作る技術がありませんでした。
 王は城の中に磁器開発のための部屋を作り、その中に錬金術師を幽閉し、磁器の開発を命じました。約3年後、磁器の製造に成功し、その表面に美しく透き通った白磁を塗る技術にも成功しました。いわゆるマイセン磁器を発明したのでした。
 この美しい磁器はヨーロッパの貴族達にもてはやされ、ドレスデンは大いなる繁栄の時代を迎えました。
 この富により、ドレスデンのエルベ川のほとりには、壮麗なバロック様式の建物が建ち並び、ドレスデン城には、世界で最も大きなダイヤモンドや世界中から集められた宝物、巨匠の描いた数々の名画が飾られ、世界最古のオペラハウスでは、モーツアルト、ベートーベン、ワーグナーなどが活躍する芸術の都となりました。



空爆の悲劇

 2005年ドイツのテレビ会社により制作され、国際エミー賞を受賞したBS世界のドキュメンタリー 「ドレスデン大空襲」で第二次世界大戦による空襲の状態が良く描かれています。この作品は、空襲で生き残った人の証言をもとに作成されています。
 1945年の初めごろ、ドイツ軍はポーランドなど、東部戦線でソ連と戦っていましたが、苦戦により撤退を余儀なくされていました。そのため、今だ空爆されていなかったドレスデンに負傷兵がたくさん退却して来ており、その数は50万人にも達したと言われています。
 ドレスデンには、これと言った軍事施設は無く、いわゆる芸術の都であり、今まで空襲はありませんでした。しかし、イギリス、フランス、アメリカ、ソ連などの連合軍はドレスデンにも空爆の開始を決定しました。
 1945年2月13日、英空軍の爆撃機がイギリスを午後5時に出発、午後10時にドレスデンに到着、焼夷弾や、通常の爆弾、時限発火爆弾など1000トンもの爆弾を投下し、その攻撃は25分間続きました。街は真っ赤に染まり、人々は地下室に逃げ込みました。
 当時、ドレスデンには老人や女性、子供しかおらず、組織だった消防隊は居ませんでした。街の至る所から火の手が上がり、人々は逃げまどいました。
 最初の爆撃から3時間たった午前1時ごろ、約500機と前の2倍の数の爆撃機が再び飛来し、2000トン弱の爆弾を落としました。
 街は火災旋風によりハリケーンのような嵐が襲い、炎と風で、建物は壊され、地下に避難していた人は酸素不足に死ぬか、外へ出れば焼け死ぬよりありませんでした。投下された焼夷弾にはたくさんの燃料が含まれており、建屋の鉄まで燃えたそうです。
 街は朝になっても燃え続けていました。一番ひどかった場所は聖母教会近くでした。道路は瓦礫で埋まり、街はほとんど破壊されてしまいました。しかし、そこに今度はアメリカ軍の爆撃機が襲い、1000トン弱の爆弾をいたる所に落として行きました。一つの都市を3度も続けて攻撃するということは、非常にまれな事でした。連合軍の目的は、軍事施設の攻撃ではなく、街全体を破壊しつくしてしまうという意図は明白でした。午前11時ごろには、街は壊滅状態になりました。
 この空爆によりドレスデンは歴史上、空爆の悲劇さを伝える町となりました。
 空爆による死者は当初30万人と発表されましたが、その後、発表の都度、死者の数は減り、最終的な発表では3万5千人とされています。しかし、負傷兵などが数10万人も居たことを考えると、死者はそれよりはるかに多いはずだと考えられています。
 なお、東京大空襲では約10万人が殺され、広島の原爆では14万人が、長崎の原爆では7万人以上が殺されたと言われています。



劇場広場

 ツヴィンガー宮殿、ゼンパー歌劇場、ドレスデン城に囲まれた広大な広場で、中心にはヨーハン王の騎馬像が建っています。



ツヴィンガー宮殿 

 18世紀、ドレスデンを治めた王の宮殿です。石造りの大きな宮殿で、ヨーロッパを代表するバロック建築の宮殿です。城に入る門の上には黄金の王冠が飾られています。城の中には広い芝生が作られています。宮殿の屋上は回廊のようになっていて、ぐるりと歩いて回ることが出来ました。
 この宮殿は王の居城としてではなく、名画や宝物を飾るために造られました。
 マイセン磁器の成功から得られた莫大な富により、この城には、15世紀から18世紀までの名画が集められています。
 残念ながら、時間の都合で見学は出来ませんでしたが、フェルメールの「手紙を読む少女」もここに飾られています。また、ラファエロの代表作「システィーナの聖母」もあります。この絵をイタリアから購入するために教会が一つ建つほどのお金がかかったそうです。
 41カラットの世界一大きなダイヤモンドも飾られているそうです。



エルベ川周辺

 川の向うは新市街で、住宅や市庁舎があります。何と美しい風景でしょうか。
 こちら側のゴシック建築の屋上にはいろいろな天使の像が復元されていました。



聖母教会

 ドレスデンを象徴する教会です。高さは93mもあり、プロテスタントの教会としてはヨーロッパ最大の教会だそうです。
 壁にはところどころ、黒い石が交じっています。天上のドームは直径28mもあり、正面の祭壇の上には大きなパイプオルガンが置かれています。
 当時、バッハはこの素晴らしいオルガンにほれ込み、作曲や演奏をするため、何度もこの教会を訪れたそうです。
 この塔は空襲の翌日、大勢の人の見ている前で崩れ落ち瓦礫と化しました。その後、ドレスデンはソ連の管理下に置かれ、暗黒の時代を迎え、教会は崩れたままで放置されて来ました。
 1989年、ベルリンの壁が崩壊した直後から、牧師カール・ルードヒヒ・ホーホの呼び掛けにより、再建が始まりました。牧師は世界中に呼びかけ、加害者も被害者もともに協力し、再建しようと訴えました。
 瓦礫のままで放置された石の数はおよそ10万個もありました。出来るだけそれを使用し、復元する計画が開始されました。その復元は世界最大のパズルともいわれました。
 瓦礫から掘り出した石は黒、新しく作られた石は白で出来ています。
 ドレスデンの人たちは、たとえそれがモザイク模様になっても、戦争の傷跡がわかるような教会にすることを選びました。
 教会の最上部にある黄金の十字架はかって爆撃を行ったイギリスの市民からの寄付で造られました。その贈呈式にはイギリスを代表してエリザベス夫妻が訪ねています。ドームの周りを飾る彫刻は、かってドイツが大きな被害を与えたポーランド市民から贈られました。
 かくして、この聖母教会は新しいヨーロッパのシンボルとして生まれ変わりました。
 修復には、世界中から182億円の資金が集められ、2005年10月30日、修復が完成しました。式典には10万の人々が集まりました。
 バッハが愛したオルガンも、天井画も昔の状態で再現されています。



君子の行列

 ドレスデン城の壁画に描かれた君子の行列です。約2万5000枚ものマイセン磁器のタイルを使って、歴代の王たちが描かれています。その高さは8m、長さは102mにも達します。
 奇跡的に第二次大戦での被害を免れたそうです。マイセンの陶器は丈夫なのでしょう。



 すばらしく美しい聖堂です。まだ未完成で、天井画は描かれていませんでした。


         

8日目 ベルリン市内観光 

 いよいよ今日が最後の観光です。
 過去、2度ほどベルリンへ行っていますが、一度目はまだ壁があった時の1980年に、2度目は壁が取り外された3年後の1992年でした。
 1980年の時は、西ドイツのシュトゥットガルトがら飛行機でベルリンへ飛んだのですが、東ドイツの上空を飛べる飛行機は、イギリス、フランス、アメリカ、ソ連の4カ国に限定されていました。西ドイツの飛行機は東ドイツの上空を飛べず、エアーフランスで行った記憶があります。 



ブランデンブルク門

 18世紀、プロイセン王国のベルリンは城壁で囲まれ、幾つもの門で囲まれていましたが、この門は当時18個あった門の一つで、1791年、古代ギリシャ風に造られています。後に城壁は取り去られ、現在残っているのはこの門一つだけだそうです。
 この門は、1989年のベルリンの壁崩壊で非常に有名ですが、数々の歴史を見て来た門でもあります。 門の上には4頭立ての馬にひかれた美神ヴィクトリアが飾られていますが、ナポレオンがこの地を征服したとき、征服の証としてその像をパリに持ち帰ってしまいました。その後、プロイセン軍がパリを征服すると、再びその像を持ちかえり、戻されました。その後、この門は勝利の象徴となったそうです。
 左の写真は1980年訪問時のもので、車の中から撮影しました。
 西ベルリンからは低い壁で遮られ、門の近くにはだれも居ません。
 壁を越えて中に入れば、銃で撃たれてしまいます。



ベルリンの壁

 1961年、西ベルリンは東ドイツによって周囲をすべて壁で囲まれてしまいました。当時、共産圏の東ドイツから逃れるため、西ベルリンに移住する人が多くなり、人口流出に困った東ドイツはがそれを遮断するため、壁を築きました。壁は西ドイツとの摩擦を避けるため、境界線から少し離れ、全て東ドイツ領内に造られました。壁の長さは155kmに達したそうです。東ドイツ領内に造られた壁は2重で出来ており、壁と壁は数十m離れていて見通しが良いように作られました。壁を越えるためにはそれら2枚の壁を越えなけらばならず、その間に捕えられるか、銃で撃たれてしまうのだそうです。
 現在、壁はほとんどが解体され、取り除かれましたが、一部だけ記念碑として残されています。なお、記念碑としてベルリンの壁博物館が作られています。午後の自由時間の時に訪問した人も居たようですが、私たちは時間がなく行きませんでした。
 壁の崩壊後、西ドイツと東ドイツは住民投票など民主的手段を経て統一されますが、長年、共産主義に慣れていた人たちのとって、統一はまさに激動でした。通貨は西ドイツマルクに統一されましたが、非効率で古い設備を持った製造業は生きて行かれず、失業が慢性化します。共産圏では全員が公務員で、失業という概念は無かったそうです。
 先進国で優等生のドイツも、これら格差問題に現在も直面しているようです。



カイザー・ヴィルヘルム教会

 この塔を見ると、広島の原爆ドームを思い出させます。ベルリンは戦争の初めから、連合軍の攻撃目標であり、街はドレスデンと同様、空爆によって徹底的に破壊しつくされました。今は空爆の悲劇を伝える記念碑となっていて、教会の一階の壁には当時の壁画が再現され、また幾つかのお土産屋さんがありました。



午後、自由観光

 午後は一人9,000円のオプションでポツダム観光が用意されていましたが、ベルリンにはまだ見るべきところがたくさんあるので、オプションは利用せず、自分の足で市内観光をすることにしました。ベルリンはさほど広い都市ではありませんが、歩くにしては広すぎるので、もっぱら地下鉄を使用しました。
 まず、絵画ギャラリーを見学しようとカイザー・ヴィルヘルム教会近くの駅から地下鉄でポツダム広場まで行き、そこから絵画ギャラリーまで歩いてゆきました。ポツダム広場にはソニー・センターがあり、大きなビルなので目印にも便利でした。
 



美術ギャラリー Picture Galleri

 ポツダム広場から歩いて15分ぐらいの所にある美術館で、13~18世紀のイタリア、オランダ、フランスなどの名画が数多く展示されています。レンブラント、ルーベンス、ラファエロ、フェルメールなどの名画がたくさん展示されていました。
 一般に、絵画館では、絵にあまり近づけないよう、ロープか何か置いてあるのですが、ここでは、足元に線が引かれているだけでした。気を付けないと、絵に顔をぶつけそうになります。
 非常に空いている絵画館でしたが、ゆっくりと鑑賞する時間がなく残念でした。
 これほどの名画が数多く飾られていて、その上、空いているのには驚きました。
 





ラファエロ・サンティ 1483-1520 盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家、建築家
Solly マドンナ

1500-1504年
聖母子と聖人たち

 1500-1504
マドンナテラノバ
erranuova Madonna

1504-1505年
マダムと子供たち
子供を抱くマリー

1508年



ヨハネス・フェルメール 1632-1675 オランダの画家 バロック期を代表する画家の1人

真珠の首飾り

1662年~65年
紳士とワインを飲む女

1658年~59年



レンブラント・ファン・レイン 1606-1669 オランダの画家。
 バロック期を代表する画家の1人。大画面と、光と影の明暗を明確にする技法を得意とした。

自画像(28歳)

1634年
レンブラントの婦人
The Mennonite Preacher Anslo and his Wife

1641
モーセの十戒
1659
ヘンドリッキェ・ストッフェルスの肖像
Portrait of Hendrickje Stoffels
1656年
舅を脅かすサムソン

1635年



ピーテル・デ・ホーホ Pieter de Hooch 1629-1684
The Mother

1661-3年
Die Goldwagerin

1664年



フランス・ファン・ミーリス
 Frans vanMieris
オランダの17世紀の著名な画家の1人

鏡の前の若い女性

1662年
Gerbrand van den Eeckhout
1621-1674

Der Feldarbeiter von Gibea bietet dem Levit und seinem Kebsweib Unterkunft
ギブアの農場労働者がレビ人と彼の妻に宿を提供する

1645年
Nicolaes Maes
1634 - 1693

林檎をむく老婦人
Vecchia che sbuccia una mela

ゴンザレス
1614/18-1684

公園内の夫婦の肖像

コルネリス・ファン・ハールレム
Cornelis Van Haarlem
1562-1638

トイレ中のバテシバ
Bathsheba at her toilet
1617



町の風景

 1枚目の写真は絵画ギャラリーを出た所の写真です。絵に描いたような風景ですが本物です。



旧ナショナル・ギャラリー

 世界遺産に指定されている旧東ドイツの博物館島にある5つの美術館のひとつです。時間的制約から、この絵画館しか見学できませんでした。この島を見学するには、少なくとも3日はかかると言われています。
 この美術館は 1876年に完成しています。1997年からの大規模な改修後、2001年にオープンしていますが、入口前の広場は工事中でした。
 フランス印象派の名画がたくさんありました。ここも大変空いていました。
 いつも混雑している日本の美術館とは雲泥の差があります。



 ルノワール、セザンヌ、ピサロ、マネ、モネなどのほか、たくさんのドイツ絵画もありました。



ピエール=オーギュスト・ルノワール 1841-1919 

 フランスの印象派画家 人物画を得意とした。フランスの印象派の画家ですが、人物画を得意とし、晩年は豊富な裸婦像などの人物画に独自の境地を拓きました。
ヴァルジュモンの子どもたちの午後
Childrens Afternoon at Wargemont
1884
クリの木
Chestnut in Blossom

1881年

Summer

1868



ポール・セザンヌ 1839-1906 フランスの画家。
 元は印象派画家であったが、独自の絵画様式を探求し、彼独特の絵を生み出した。

花と果物

1888-90

ポントワーズのクールベの工場
Mill on the Couleuvre at Pontoise

1881

ジャーとボトル

1869/71



エドゥアール・マネ 1832-1883 フランスの画家。印象派に属するが独自の境地を開拓した。

白いライラック

1882年
温室にて

1879年
リュエイユでの家

1832-1883



クロード・モネ Claude Monet, 1840-1926 印象派を代表するフランスの画家

ヴェトイユ・シュル・セーヌの眺め

1880年
草原の夏

1874年
アルジャントゥイユの家々

1873年
サンジェルマン・ロクセロワ教会

1867年


カミーユ・ピサロ Jacob Camille Pissarro
 1830-1903
 フランスの印象派画家

モン・ヴァレリアンを後ろにしたルーヴシエンヌ

1870年

マックス・リーバーマン
Flachsscheuer in Laren

ライデンの麻紡ぎ納屋

1887年
フリッツ・フォン・ウーデ
Fritz von Uhde

1848-1911

ヒースのなかの小さなプリンセス
1889年
フランツ・フォン・デフレッガー
Franz von Defregger

サロンチロリアン
'Der Salontiroler' von Franz von Defregger
Philipp Veit
1793–1877

宗教
Die Religion

1819
アンゼルム・フォイエルバッハ
Anselm Feuerbach

プラトンの酒宴
1871 - 1874
Friedrich Wilhelm Herbig
1788-1861

芸術家の家族
Die Familie des Künstlers
1824年

ジュリアス・ヒューブナー
Julius Hübner

1806-1882

ドイツの画家

portret Pauliny Bendemann
カスパル・ダーヴィト・フリードリヒ
1774-1840
ドイツ ロマン派

ヴァッツマン山
1824 - 1825 
Julius Schnorr von Carolsfeld
1794-1872

受胎告知
Annunciation

1820年

カルル・フリードリッヒ・シンケル
Karl Friedrich Schinkel
1781-1841

Blick in Griechenlands
1825
Gottlieb Schick
1776-1812

Heinrike Dannecker
1802
フィリップ・オットー・ルンゲ
Philipp Otto Runge
1777-1810
ドイツロマン主義を代表する画家

妻と息子



ベルリン大聖堂

 宮殿広場前に立つルネサンス様式の荘厳な教会です。ただ、中に入ってみると、以外に狭いのにも驚きました。
 



フンボルト大学 (ベルリン大学)

 地下鉄の駅まで歩いてゆきましたが、途中、道路に面しフンボルト大学の門が現れました。
 1887年、森鴎外は帝国陸軍の軍医として、数か月ではありますがここで衛生学を学んだそうです。


 ふたたび、地下鉄に乗り、カイザー・ウィルヘルム教会近くのデパートまで戻りました。デパートの入口が自由行動後の集合場所です。ちょっと時間があったのでデパートを覗いてみました。日本橋の三越を思わせる由緒あるデパートでしたが、人の多さには驚きました。ドイツの景気はなかなか良さそうです。



 今回はいろいろな国を廻れて、大変勉強にもなった旅でした。また、短い時間ではありましたが、いろいろな国の美術館も楽しむことが出来ました。
 明日の早朝、ベルリンを出発し、成田に向かいます。






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