旧ユーゴの解体と6カ国の誕生


 世界の火薬庫と言われるこのバルカン地方は、幾つもの民族が入り混じり、異民族が仲良く暮らしていた時代や、民族間で戦争を繰り返していた時代など、非常に複雑な経緯を得て現在に至っています。
 中でも、サラエボは第一次世界大戦の引き金となった都市としても有名です。当時、ハプスブルグ家は、オーストリア=ハンガリー帝国を統治しており、スロベニア、クロアチア、ボスニアなども支配下においていました。
 1914年、ハプスブルグ家の次期皇位継承者フランツフェルディナント大公夫婦がサラエボを訪問中、セルビア人の青年によって狙撃、暗殺されます。その結果、ハプスブルグ家はセルビア政府に対し、宣戦布告を行い、第一次世界大戦が勃発します。
 この大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が滅亡すると、スロベニア、クロアチア、セルビアなどは新しい国家を目指し、ユーゴスラビア王国が誕生します。しかし、その後、台頭してきたドイツナチスに侵攻されるとともに、領土の一部は分割され、イタリア、ハンガリー、ブルガリアなどにも引き渡されてしまいます。
 その時、あくまでもドイツに抵抗していたのは、パルチザン(ユーゴスラビア共産党)を率いる後の大統領、チトーでした。

 第二次世界大戦が終結し、ドイツから解放されると、チトーは逃亡していた国王の帰国も拒否し、ユーゴスラビア連邦人民共和国の成立を宣言しました。以来、チトーは1980年に死ぬまで、ユーゴスラビアの大統領として、この複雑な国を束ね統治してゆきました。
 ユーゴスラビアは共産圏国家ではありましたが、ソ連とは一線を画し、独自の社会主義路線を進めるとともに、ソ連からの圧力を跳ね付けるため、ヨーロッパでは第5番目に位置するほど強大な軍事力を持つ国ともなりました。
 いずれにせよ、共産主義国家であり、一党独裁、強権政治、言論弾圧などが、40年間もこの国を支配してゆきました。

 旧ユーゴスラビアは下の地図に示すように、スロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツゴビナ、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国からなり、コソボ自治州、ヴォイヴォディナ社会主義自治州の2つの自治州を含んでいます。
 全体の面積は日本の67%であり、各共和国は日本の関東地方や中部地方などの地方程度となります。
 ユーゴスラビアには5つの民族、すなわち、スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人、モンテネグロ人が住み、その人たちの言語は、スロベニア語、セルビア語、クロアチア語、マケドニア語の4つがあり、宗教はカトリック、東方正教、イスラム教の3つがあり、文字はラテン文字(良く知られたアルファベットなど)やキリル文字(ロシア語で代表される33文字)などがあります。
 日本よりも小さな国になかに、これだけの異なる民族、宗教、言語が共存するのですから、一般の日本人には想像するのが困難です。

 チトー大統領の死後、各共和国は、各国が持ついろいろな理由で隣の共和国に不満を募らせ行きます。
 1989年のベルリンの壁の崩壊に代表されるがごとく、この地でも共産主義勢力の力が弱まると、共産主義による一党独裁を放棄し、自由選挙により大統領が決められるようになりした。その結果、セルビアではミロシェビッチ、クロアチアではトゥジマンなど、強烈な民族主義政党が誕生しました。
 そのような情勢の中、1991年、オーストリアやイタリアに隣接し、比較的経済力もあり、カトリックを主とするスロベニアがユーゴスラビアから独立すると宣言しました。それに対し、ユーゴスラビア連邦軍は軍事的攻撃を行いましたが、わずか10日の戦闘後、スロベニアは独立を達成しました。
 その後、次々といろいろな国が独立を宣言してゆきますが、その過程で、戦闘、略奪、虐殺、強姦などが日常的に繰り返され、想像を絶する悲惨な戦いが行われました。
 2006年5月、最後まで残ったセルビア・モンテネグロ共和国も平和裏に分裂し、旧ユーゴは完全に解体しました。






























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