オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ

         3カ国周遊 12日間

                                               個人旅行

                          2010年5月8日~19日



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 ただし、2枚目からは軽快に動きます。


ベネルックス3国
 この5年間、精力的にいろいろな所へ行き見聞を広めてきましたが、ヨーロッパの地図を見ているとまだ訪問していない国としてベネルックス3国があり、ちょうどチューリップが満開になるこの時期を選んで行ってみました。
 ベネルックス3国、すなわち、ベルギー、ネーザーランド(オランダ)、ルクセンブルグは全部合わせても北海道の9割程度の面積で、周辺はフランス、ドイツ、英国などの大国に囲まれています。
 これら3国は19世紀、ハプスブルグ家の支配を受けていたころから密接な関係にあり、当時はネーデルランド連立王国を結んでいました。第二次世界大戦後、1948年には関税同盟を調印し、1960年には関税に加え、労働と資本を自由化したベネルックス経済連合を発足しています。3カ国を合わせた人口は2,700万人と日本の2割程度になります。
 これらの国の中でルクセンブルグは一人当たりが国民所得が世界一であることもあり、ときどき、GDPの国際比較を見ていると、なぜそのように裕福なのであろうか、興味がわいてきます。一度ぜひ行ってみたいとも思っていました。  
 
 今回は思い切ってゆっくり歩いてみたいと思い、個人旅行にしました。個人旅行の問題はトランクなど荷物の運搬ですが、基本的にはアムステルダムやブルッセルでは3連泊とし、荷物を持っての移動を極力抑えました。ツアーに比べ、費用は格段に高く付きますが、自分で計画を立て、行ってみるのも冒険旅行のような感じもあり、それなりに楽しめます。
 今年の2月に南米マチュピュチュの旅行を計画し、すでに旅行代金も支払っていたのでしたが、マチュピュチュが豪雨に見舞われ鉄道網が寸断され、そのため、旅行がキャンセルとなり、支払った旅行代金が戻って来ました。なにか嫌な予感です。
 この5月の旅行はかなり以前から計画し、家内がホテルや鉄道などインターネットですでに予約済みでしたが、4月16日、アイスランドの火山が大噴火し、その灰がヨーロッパ全体を覆い航空網はほとんどマヒし、それが1週間近くも続き、旅行客を含め経済活動にも大きな打撃を与えました。仮に行くことが出来ても帰れなくなると大変です。キャンセルするかどうか迷いましたが、飛行機や鉄道便は早割で予約してあり、こちらの都合でキャンセルするとほとんど無駄になってしまいます。結果的には無事、旅行を出来ましたが、安く上げようとするのも、覚悟はしていたもののリスクがあるのを知らされました。
 
 アムステルダムには過去に何度も行ったことがあります。その時、ブルッセルにも足を伸ばし、小便小僧を見たことがあります。ただ、小便小僧を見たことがあるという記憶だけで、どのようにしていったのか全く思い出せません。多分、アムステルダムから電車で行き日帰りで帰ってきたのかも知れません。
 今回は十分に時間を取り、最初の3泊をアムステルダムで、次の3泊をブルッセルで、次の日はルクセンブルグは1泊のみですが、次は再びアムステルダムで3泊というようにゆったりとした計画でした。
 左の地図の赤線は国境を、茶色の線は列車での移動を、青色の線はバスでの移動を示します。

 


観光内容 宿泊地 歩数
1日目 成田からアムステルダムへ アムステルダム 7,604
2日目 アムステルダム市内観光 アムステルダム 20,045
3日目 ハーレム市とキューケンホフ公園観光 アムステルダム 16,963
4日目 アムステルダムから電車でベルギー・ブルッセルへ移動 ブルッセル 13,394
5日目 観光バスでゲントとブルージュ (Ghent & Bruges)観光  
ブルッセル 21,373
6日目 ブルッセル市内を歩いて観光 ブルッセル 21,370
7日目 ブルッセルからルクセンブルグへ。その後市内観光 ルクセンブルグ 20,948
8日目 ルクセンブルグからアムステルダムへ アムステルダム 13,559
9日目 風車観光とアムステルダム市内観光 アムステルダム 21,192
10日目 生花取引市場、ロッテルダム、デルフト、ハーグ観光 アムステルダム 13,990
11日目 ハーグとライデン観光。 夜 JALで成田へ 機中 23,308
12日目 成田着


          
1日目 成田からアムステルダムへ 

 今日の飛行機はJAL411便で、成田を11時25分に出発しアムステルダム到着は12時間後の午後4時25分です。アムステルダムはすでに夏時間ですので、日本との時差は7時間です。
 十分に余裕を見て、家を7時半ごろ出発し、成田の駐車場に車を預け、8時半ごろにはJALのカウンターに到着し、チェックインし、JALのラウンジで朝食です。多分に、成田のJALラウンジ内の食事の質は世界でも有数でしょう。好きなラウンジの一つです。ラウンジ内でインターネットに接続し、ビールやワインを飲みながら、出発を待ちます。
 最近、ギリシャの財政危機問題により、ユーロがだいぶ安くなっており、成田でユーロを買いましたが1ユーロは120.6円でした。昨年は160円ぐらいしていましたから、だいぶ助かります。
 今回はビジネスクラスにしてみました。しかし、機内はガラガラで、ビジネスクラスの乗車率は2割程度、エコノミークラスでも半分ぐらいでした。多分に4月16日に発生したアイスランドの火山の噴火の影響で、キャンセルした人が多かったのかも知れません。結果的には、エコノミークラスを予約し、一人で2席利用できればそれほど疲れないので、ビジネスクラスにする必要はなかったかも知れません。
 飛行機は良く知られた習志野カントリークラブ、我孫子ゴフルクラブ、黒部の上を飛び、その後、何時ものように日本海からシベリア上空を飛び、アムステルダムに到着です。
 個人旅行の問題は、重い荷物を持って移動せねばならないので、タクシー移動が多くなりますが、アムステルダム空港からは小型の乗り合いタクシーを利用し、ホテルへ直行しました。ホテルはコンセルトヘボーコンサートホールのすぐ近くにあります。コンセルトヘボーと言えば、数十年も前のころ、交響曲のLPを買い求めていましたが、コンセルトヘボー交響楽団演奏のも何枚か買った記憶があります。
 ホテルにチェックイン後、まだまだ明るいので、周りを散歩し、スーパーでワインを購入し、眠りに付きました。少し疲れていたのでよく眠れました。明日の予定は何も決まっていないので、その気になれば何時まででも寝て居られますが、飛行機の中でかなり眠ったので、どうしても朝早く起きてしまいました。
 なお、オランダの物価は非常に高いと聞いていましたが、スーパーでの買い物では、日本とほとんど同じでした。ただし、ヨーロッパはどこでもそうですが、ワインは非常に安く美味しいのには助かります。
 消費税が非常に高いのにもかかわらず、物価が日本と変わらないのは、ユーロ安の為で、我々外国人にとっては、ユーロ安の変化は消費税分をはるかに超えています。



アイスランド火山大噴火

 先月、アイスランドの火山が大噴火し、ヨーロッパの空が大混乱しましたが、現在もまだ、一部の地域での飛行中止が続いています。無事、アムステルダムに着いたものの、帰りがどうなのか心配です。毎日、テレビでのチェックが必要でした。
 現在は火山灰がスペイン上空を流れており、スペインでは飛行中止になっています。幸い、アムステルダム上空は問題ないようです。



オランダ

 ここで少しオランダについてまとめておきます。
   オランダの正式名称はネーデルランドで低い大地を意味しています。憲法上の首都はアムステルダムですが、国会議事堂など、国の行政機関や国王の住居はハーグにあります。
 ときどき、Holand という名前も使用されますが、これは北ホランド州と南ホランダ州の名前です。オランダという名前はここから来ていますが、このオランダという呼び名は日本だけで使用されているようです。
 立憲君主制をとり、国王は儀礼的な行事を行います。

 オランダの面積はほぼ九州と同じですが、国土の60%は海面下で、アムステルダムは-0.5m、スキポール空港は-5mで、この空港は世界一低い所にあるそうです。ただし、国土の多くは海面すれすれにあるためか、時に、海面下の土地は20%とか、50%とかとも言われています。人口も九州とほぼ同じで、1,660万人と世界で58位になっています。オランダは東にドイツと接し、南はベルギーと接し、海は北海に面しています。
 オランダは17世紀に黄金期を迎え、世界の富を集め、その富で沢山の風車を作り、国内にあるたくさんの池、沼地の水をくみ上げ堤防に守られた水路に流し込み、土地を広げて来ました。なお、それらの水車は、現在は全て電気モーターに変えられ、観光用の水車以外は動かされていません。
 オランダはほとんどが平地で、一番高い所は南部にあるわずか323mの山です。
 江戸時代、日本は鎖国を厳密に実行しましたが、オランダは長崎の出島を通し幕府に許された唯一の国であり、日本とは深い関係にありました。日本はオランダを通じ、西洋の技術や医学を学んできました。
 そのオランダは、18世紀、英国と三度にわたる戦争により疲弊してしまい、19世紀に入ると、ナポレオンの侵略により、フランスの管理下に置かれました。
 第二次世界大戦中はドイツに占領され、14歳であったユダヤ人のアンネ・フランクが屋根裏部屋に2年間隠れ住んでいたのは有名です。アンネ・フランクはついに発見され強制収容所に送られてしまいましたが、その2年間に書いた日記が公表され、住んでいた部屋は現在、博物館になっています。
 オランダからは天然ガスが産出され輸出もしている資源国で、石油のダッチ・シェルが有名であり、電気業界のフィリップスも有名です。フィリップス社は光ファイバの研究開発当初、積極的に研究開発を進め、ファイバ母材を作る方法としてプラズマ法を発明しています。そういうこともあって、私自身、だいぶ以前になりますが、5、6回ほど、技術交流のため、オランダ、アイントホーへンにあるフィリップス社を訪問しています。
 なお、オランダは、かって、天然ガスの輸出により、自国通貨ギルダーが高騰し、天然ガスはどんどん輸出できるものの、それ以外の製品の輸出は困難になるという、いわゆるオランダ病にかかり、国全体の経済が困難になった時がありました。今はユーロ圏に入っていますので、そのような問題はなくなりましたが、それはと逆の現象に見舞われている国々が幾つも出てきて、問題になっています。
 オランダは国全体が平地なため、農産物の生産に優れ、酪農製品や生花、球根など、農産物の輸出額では、アメリカに次いで2番目であり、貿易への取り組みを非常に積極的に行っています。
 オランダは、その歴史において、何度も大きな水害にあい、それを防ぐため、国全体に堤防を作り、国土を守って来ました。そして、その費用は、国民全員が、応分の負担をするという制度を長年取り入れて来ました。
 軍事的な問題では、国全体が団結し、外敵に対して戦うというのは、どの国でも取られている一般的な概念ですが、それを経済的な問題に対しても団結して行うという意識が、昔から強くあったと言われています。
 アメリカで発した住宅バブルによるリーマンショックが世界全体に広がり、多くの国々が貧困と経済格差の拡大に直面していますが、オランダでは、経済格差が大きくならないよう、国民全体で対応しており、この問題では世界の最先端であると言われています。



ライン川

 オランダを旅していると、沢山の水路が縦横に走っており、地図をみているとオランダはライン川の下流のデルタ地帯に発達した国であることが分かります。
 ライン川はスイス東部に源を発し、リヒテンシュタイン、オーストリア、フランス、ドイツ、オランダなどの国内や国境をながれる大河で全長は1320km に達します。途中、ドイツでは両側にブドウ畑が続く渓谷のライン川下りでも有名です。
 ライン川はオランダ国境で川幅が650mにもなり、その後、幾つもの川に分かれ、オランダデルタ地帯を形成しています。
 過去、ライン川はたびたび氾濫し、大きな被害をもたらしていましたが、オランダは頑丈な堤防を持つ幾つもの運河を作り、大型船の通路としても使用しています。これら水路は、オランダ中に枝分かれして縦横に作られ、当然ながら海面よりも高く、昔は水車を使用し、沼地などの水をくみ上げて、この水路に放流し、国土を広げて来ました。
 このようにオランダ内には海面よりも高い水路と低い水路の二つがあり、これらの水路は網の目のように作られています。



       
2日目 アムステルダム市内観光

 今日は一日、アムステルダム市内見学で、自分の足で歩きまわります。午前中は市内を見学し、午後はホテルの近くにある国立美術館とゴッホ美術館の見学しました。



アムステルダム
 
 オランダにはアムステルダムとかロッテルダムなどダムの付く名前が幾つもあります。我々のイメージするダムは河川に水を貯めるダムを想像しがちですが、沼地に大河が流れる場所のダムは、河川の両側に多数の杭を打ち堤防を作ることを意味しており、アムステルダムでは、このダムにより河川の外側に家屋を建築できるようにしています。
 左の地図にあるように、アムステルダムは多数の運河が走り、陸地は沢山の橋で結ばれています。
 私たちのホテルは中央駅から3km弱で歩いても40分ぐらいなので、数回、ルートを変えて歩いてみました。



トラムで移動
 
 アムステルダムにも地下鉄がありますが、市内は通らないので、もっぱら路面電車トラムかバスでの移動になります。かなり頻繁に走っているので便利ですが、スピードが遅い分、時間はかかります。切符は運転手から購入できますが、通常利用している人は回数券の様なものを持っているようです。一回乗る運賃は2.6ユーロでした。ホテルから中央駅まで約20分でした。



 下の写真は電車の切符の表面と裏面です。この切符を車内の機械に近付けると、切符内部の磁性体に乗った時間が記入されます。1時間以内なら、何度でも使用できます。ただし、検札は全くないようです。周囲の目が検札なのでしょうか。



アムステルダム中央駅

 3階建ての駅舎で、国立美術館を設計した建築家により作られています。東京駅は、アムステルダム駅を参考にして作られたと聞いたこともありますが、2006年、東京駅とアムステルダム中央駅は姉妹駅関係を結んでいます。
 この駅は小さな島の上に作られ、8,500本以上もの基礎杭の上に作られているそうです。
 ヨーロッパの駅には一般に改札がないのですが、アムステルダムの駅には改札の様なものがありますが、ほとんどの人は何もせずに通過しています。この改札は地下鉄を利用する人が、切符を使用済みにする為に使用するようです。トラムを使用した時、乗車時に、切符を機械に近付けて、使用済みにするのと同じ働きをするようです。



聖ニコラス教会

 1887年に創建されたローマ・カトリック教会で、中央駅のすぐ近くにあり、遠くからも良く見え、荘重なたたずまいを示しています。シント・ニコラース(聖ニコラウス)は船乗りの守護聖人であり、海運国であるオランダでは熱心に信仰されています。



市内はどこもゴミの山

 トラムを降りて歩き始めると、市内の至る所でゴミが散乱しており、異様な感じです。後で聞いた話ですが、清掃局員が低賃金をめぐってストライキをしており、もう、1カ月近くも清掃していないそうです。家庭内にもゴミがたまり始め、それを道路に放置する人も増えてきて大変だそうです。
 アムステルダムはヒッピーを受け入れたり、マリファナを吸うカフェが沢山ありったりし、また、飾窓で有名ですが、水着姿の女性が昼間から窓際に座りお客を待っていたりします。そういう自由な雰囲気が、清掃局員のストライキを許しているのでしょうか。市長はかなり悠長で、まだ誰も死んだりしては居ないと言っているそうです。



運河クルーズ

 中央駅のすぐ近くにクルーズ船乗り場があり、いろいろな会社の船が出ています。私たちはアムステルダムの運河を一周し、約1時間で戻って来るクルーズ船を選び、切符を買って乗ってみました。
 船は進むにつれ、周りの建物の説明や、アムステルダムの歴史などの説明もあります。それによると、アムステルダムは海面より低く、マイナス0.5メートルだそうです。しかし、運河は海と直接つながっており、どう見ても陸地の方が高そうな気がします。ただ、潮の満ち干で状況はかなり変わるのかも知れません。
 船は跳ね橋の近くを通りましたが、オランダを旅していると、至る所に跳ね橋があり、ちょっとした大きなヨットも運河を通れるようになっています。さすが運河の国です。



ダム広場

 中央駅から大きな通りを南に500メートルほど進むとダム広場に出ます。アムステルダムの地図を見ると分かりますが、いわゆる杭を打って作られた土地の中央にあり、王宮や新教会、戦没者慰霊塔などが建てられており、たくさんの人の集まるところになっています。王宮は修理中のためか入れませんでした。



シンゲルの花市

 運河の片側にたくさんの店舗が作られ、鉢物や球根、種などを売っており、盆栽もありました。マリファナの栽培キットも売っているそうでさすが、さすがオランダです。しかし買って帰ると監獄行きです。



レンブラント広場

 オランダを代表する画家レンブラントの像が建てらている広場で、周りにはたくさんの飲食店があります。
 



マヘレの跳ね橋

 クルーズ船からも見ましたが、中央駅からホテルに帰る途中、歩いて行ってみました。この橋は1772年に複葉式で作られ、現存する唯一の木造で作られた橋だそうです。下の写真の2枚目と3枚目がマヘレの跳ね橋で、1枚目の写真はマヘレの跳ね橋のすぐ近くにある跳ね橋です。アムステルダムにはこのような跳ね橋がいたる所に作られています。



アムステルダム市内の水路

 水の都と言えばベニスですが、アムステルダムもまさに海の中に作られた水の都です。情緒あふれる風情です。



国立美術館

 1885年に開設された美術館で、世界的によく知られた芸術品を多数所蔵しています。現在は下の写真にあるように大規模な改装中で、入館は不可能ですが、工事が終わるまで、オランダ17世紀の選りすぐりの400点が別館で展示されています。
 それらの中での目玉は、「夜警」を含むレンブラントの20作品、「牛乳を注ぐ女」などフェルメールの4作品、そのほか、フランス・ハルス、ヤン・ステーンなど著名オランダ人画家の作品があります。
 工事は2004年から開始され、2008年には完成する予定でしたが、地元の反対により二転三転し、現在は工事がストップしています。2012年末か2013年には完成の予定だそうです。


 カメラは使用禁止でしたので、インターネットから幾つかの作品を探してみました。

レンブラントの作品
トビトとアンナ 1626年
  夜警   1642年
   ヨアン・デイマン博士の
解剖学講義
 1656年
アムステルダムの織物商組合の
見本調査官たち
1661年
聖パウロに扮した自画像 1661年
ユダヤの花嫁(イサクとリベカ) 1660年代

 

フェルメールの作品

 4枚の絵が並べて掛けられていました。

小路

1657〜1658年頃

サイズ:53.5×43.5cm
 フェルメールが描いた風景画は、この絵とデルフト眺望の2点だけです。
  牛乳を注ぐ女 

1658〜1660年頃

サイズ:45.4×40.6cm
 窓から注ぐ柔らかな光が素朴な顔を照らしだしています。陶器や、パンを入れた籠、また、ごつごつしたパンの質感、その手触りまでも伝わってくるようです。青いターバンの少女、デルフト眺望とこの絵の3枚が、もっとも好まれているそうです。
手紙を読む青衣の女

1663〜1664年頃

サイズ:46.6×39.1cm
 画面の左から光が差す点は他の作品と共通していますが、この絵には窓が描かれていません。女性は妊娠しているようにも見えますが、当時の女性は、このような姿が好まれていたという説もあるそうです。
恋文

1669〜1670年頃

サイズ:44×38cm
手紙を受け取り当惑そうな女主人と、差出人を知っている女中の姿が描かれています。

 

フランス・ハルスの作品

陽気な酒飲み 

 

ヤン・ステーンの作品

聖ニコラスの祝日   1665-68頃 

 

ファン・ゴッホ美術館

 
 ゴッホ(1853~1890)の油絵が初期から晩年まで年代を追って展示されており、ゴッホに関する世界最大の美術館です。
 ゴッホはオランダ北部の町の牧師の子として生まれました。両親は、勝利者を意味するフィンセントという名前を付け、牧師にしようと努力しましたが、気性が荒く、牧師にはなれませんでした。いろいろな職業にかかわり、時には炭鉱夫になったこともありますが、27歳のとき画家の修業を始め、死ぬまでのわずか10年の間に、1,600点もの作品を描きました。しかし、生前売れたのはわずか1枚のみでした。その内の200点がこのゴッホ美術館に所蔵されています。
 この美術館には、ゴッホの描いた絵画200点のほか、ゴッホと弟ティオが収集した浮世絵500点、素描500点、書簡約700点などがあります。
 ゴッホを経済的に支えたのは、画商として成功していた4歳年下の弟ティオでした。ティオはゴッホに送金し、ゴッホは精力的に作品を描き、ティオに絵を送り続けましたが、全く売れませんでした。幸い、ティオの妻、ヨハンナもゴッホの良き理解者でした。
 ヨハンナは夫とゴッホの死後、二人の間に交わされた手紙を整理し、展覧会を開き、ゴッホを世に出す機会を作り出しました。
 ヨハンナの子供、フィンセント(兄のゴッホと同じ名を子供に付けています)はその生涯をかけて、ゴッホを紹介する事業に取り組み、ゴッホ財団を設立するとともに、行政の援助を受けることにも成功し、ついにゴッホ美術館の設立に成功しました。
 美術館内でのカメラは使用禁止でした。下の絵は訪問時に見た絵を忘れてしまわないよう、インターネットにより集めたものです。

 

ゴッホの自画像

 ゴッホはたくさんの自画像を描いていますが、下の絵はいずれもゴッホ美術館所蔵のものです。ゴッホは鏡を見て自分を描いたと言われ、左右が逆に描かれているそうです。当時、これらの絵がなぜ売れなかったのは、何か理解できるような気がします。
 レンブラントもたくさんの自画像を描いていますが、自画像はモデルが自分であり、詳細に観察し、如何に描くかを試すのに一番適しているのかも知れません。絵の注釈はNHK日曜美術館からによるものです。
 

ヌエネンの教会 1885  初期のゴッホは、教会や聖書をたくさん描きました。一般に暗い色調で描かれています。
馬鈴薯を食べる人々  1885  貧しそうな人たちが馬鈴薯を分け合って食べています。このころの作品には懸命に生きる人たちに光を与えています。
日本趣味 雨の大橋 1887  ヨーロッパでは日本の浮世絵がブームで、ヨーロッパの絵画に大きな影響を与えました。ゴッホは日本から300点も買ったそうです。その影響を受け、ゴッホの絵は明るい色彩へと変化してゆきます。
 ゴッホは日本の絵画をはじめ、ミレーの農民の絵など、たくさんの模写を精力的に行っています。天才と言われる人は、いずれも大変な勉強家であったようです。
日本趣味 梅の花  1887  ゴッホは33歳のときにティオを頼ってパリに住むようになります。左の2枚は広重の絵を模写したものです。
 色のコントラストや色彩を強調して描いています。
ひまわり  1888  ゴッホは明るい色彩を求め、34歳の時、光り輝く南フランス、プロバンスの地方都市アルルに移り住みます。
 そこで大好きなひまわりを何枚も描きました。大好きな黄色をふんだんに使って描いています。
黄色い家  1888  アルル地方の青い空、赤い屋根、あふれる光。
感情の赴くままに、光り輝くアルルの風景をキャンバスに描いてきました。この絵は弟からの送金で家を買ったものです。
ゴッホの寝室 1888  シンプルな家具と自作の絵だけを飾った寝室です。単純な構図と明るい色彩が安らぎと眠りを誘っています。
ゴーギャンの
肘掛け椅子
1888  アルルに来て半年、ポール・ゴーギャンに共同生活を申し出ました。しかし、それはゴッホにとって苦悩の始まりでした。ゴッホとゴーギャンは絵に対する考え方が全く違っていました。議論はやがて諍いになります。ゴーギャンはゴッホの黄色を理解できなかったようです。
 ゴッホは自分の耳をナイフで切り取り、その後、アルル近郊の町、サンレミにある精神病院に入院します。
花咲くアーモンドの枝 1890  ゴッホが亡くなる半年前に描いた作品です。抜けるような青空のもと、春の訪れとともに花が咲いた枝とともに描かれています。
 この絵はゴッホ家の子供部屋に飾られており、ゴッホの家族が最も大切にしてきた作品です。
 この絵はゴッホ美術館の中央に飾られています。
カラスの群れ飛ぶ麦畑  1890  ゴッホの遺作と言われる作品です。嵐を予感させる空、死を予感させるカラス、風に揺れる麦畑、独特のうねるような曲線で描いた晩年の代表作です。
 この作品を描いてからまもなく、ゴッホは自らに銃口を向け、37歳の短い生涯を閉じました。



        
3日目 ハーレム市とキューケンホフ公園観光
 
 今日は観光バスに乗り、午前中はハーレム市を観光し、午後はチューリップで有名なキューケンホフ公園を観光しました。


ハーレム市観光(Haarlem)

 アムステルダムの北30kmぐらいの所にあり、北ホランド州の首都で、13世紀ごろから町が形成され、オランダの黄金時代17世紀に栄え、フランス・ハルスらハーレム派と呼ばれるアーティストを育て、現在は印刷や製薬業、球根栽培などの中心地になっています。中心地の旧市街は車を占めで出しており、17世紀の繁栄をしのばせる街並みがそのまま保存されています。
 ニューヨークのハーレムはこの地から出て行った移民たちが故郷の町の名前を付けたと言われています。
 この街にも運河が走っており、我々を乗せた観光バスが到着したとき、ちょうど跳ね橋が開き、その下をヨットの様な船が通ってゆきました。橋には信号があり、その時は赤になっていました。


 さすが、オランダで我々がマイカーを持つように、彼らはボートを持っているようです。水路に停められているボートを見ると、いずれもかなり安そうで、感覚的には、軽自動車の様な使い方をするのでしょうか。
 旧市街に入ると、昔のひっそりとした町並みが続き、当時作られた集合住宅の中庭には八重桜が満開でした。



聖パフォ教会

 1400~1550年に建てられたゴシック建築で、5000本のパイプを持つ1735年制のオルガンがあり、ヘンデルやモーツアルトも引いたと言われています。



チューリップ畑

 オランダは世界中にチューリップの球根を輸出していますが、球根を育てるため、花が咲くと摘んでしまいます。もう、すでにかなりの花は摘まれてしまっていましたが、まだ、赤い花や黄色い花はところどころ残っていました。
    


キューケンホフ公園
 アムステルダムからバスで30分ぐらいの所のリッセの町にあり、今年は3月18日から5月16日まで公開されます。広大な敷地に国内の栽培農家や業者が自慢の球根を持ち寄り、秋に植え付け、その数は4000種、700万株になると言われています。この公園は、チューリップが開花する春の2ヶ月間だけ公開される贅沢なシステムになっています。今年は春になっても寒い日が続き、開園した時は、まだあまり咲いていなかったそうで、今がちょうど満開でした。あと1週間で閉じてしまうのはもったいない感じです。とにかく広く、ゆっくり見れば1日はかかります。春の到来が遅かったため、八重桜やつつじも満開でした。

 日本式庭園も造られており、八重桜やつつじがちょうど満開で、楓までも美しい色をつけていました。



 温室内には生け花教室が開かれていて、たくさんの生け花も飾られていました。
 



       
4日目 アムステルダムから電車でベルギー・ブルッセルへ移動


ホテルから駅へ
 
 今日はアムステルダムからベルギーの首都、ブルッセルへ移動です。今までの個人での海外旅行は、主にレンタカーでしたので、荷物を持っての移動は初めての経験でした。
 とりあえず、ホテルからアムステルダムの駅までタクシーで行きました。あらかじめ、座席指定の1等車を予約してあり、もし、乗り遅れると無効になるので、少し早目にホテルを出ました。約、30分、駅の中のコーヒーショップで時間をつぶし、出発少し前にホームに向かいました。列車は10分以上も遅れ、出発直前にホームの番線が変更になったりしました。



自転車王国
 
 アムステルダムは自転車王国で、駅の近くには大きな自転車置き場が幾つもあります。自転車を駅の中に乗りいれたり、列車の中に運び入れたりすることが出来ます。その場合、車内には広いスペースが用意されていて、自転車持ち込み可能のマークが、列車のドアーに書かれています。
 とにかくどこも平らで坂のほとんどない国なので、自転車が便利なのでしょう。ただし、しっかりと鍵をかけていないと、すぐに盗まれてしまうそうです。



国際特急列車 タリス
 

 アムステルダムはフランス・ベルギー・オランダ・ドイツの4カ国を結ぶ高速特急列車タリスがかなり頻繁に走っています。
 この列車の1等車には荷物置き場が付属しており、幸い、私たちは置く事が出来ましたが、少し遅く来ると置く場所がなくなって苦労するようです。
 この程度の荷物移動は、団体旅行でも時々ありますから、荷物を持っての旅行もさほど問題ではなさそうです。
 車内では高速無線ランによるインターネットが使用でき、かなりの人がパソコンを使っていました。簡単な食事が出ましたが、おやつ程度でした。出発してしばらく経つと検札員が廻って来ました。
 
 ブルッセルには北駅、中央駅、南駅があり、我々のホテルは南駅のすぐそばにあります。特急列車の到着駅はBRUXELLES MIDI と書かれていて、てっきり、中央駅に停まるものと信じていました。タクシー乗り場に行き、我々のホテルを言うと、すぐそこなので歩いて行った方が良いと言われ、驚きました。MIDI とは中央でなく、南駅のようです。ブルッセルではオランダ語かフランス語が使用され、英語は書かれていないので、注意していないと迷います。

 アムステルダムは晴天でしたが、ブルッセルに到着したときは雨が降っていました。



地下鉄 

 ブルッセルは比較的小さな首都ですが、たくさんの地下鉄路線が走っており、非常に便利に移動することが出来ます。運賃は市内なら1.7ユーロで、コインを機械に入れると切符が出て来ます。その切符を自分で改札機に入れると、裏面に乗った日にちと時間が印刷されて出て来ます。改札は無いので切符がなくても乗ることはできますが、無賃乗車のペナルティは大きいそうです。
 とりあえず、ブルッセル市内見学のため、南駅から中央駅まで地下鉄を使用して行ってみました。
 


グラン・プラス(世界遺産) 

 首都ブリュッセルに中心部にあり、その広さは約110m*70mのサッカーグランドほどで、石畳が敷き詰められたとにかく美しい広場です。今までかってこのように美しい広場を見たことはありません。
 14世紀、成功した商人たちが豪華な建物を競って建設しましたが、1695年、フランスのルイ14世によって破壊されてしまいました。その後、18世紀の初めごろ、再建されています。
 市庁舎、王の家(市立博物館)、ギルドハウスなど、歴史的建造物をはじめ、ビール醸造博物館やチョコレート博物館、ブルッセルの英雄セルクラース像などがあり、観光の拠点となっており、広場では毎日、花市が開かれています。
 下の写真の1,2枚目は市庁舎で、96mの塔を持っており、市内のどこからでも、この塔を見ることが出来ます。少し迷っても簡単居場所が分かります。3,4枚目はブラバン侯爵の館で、正面に代々のブラバン侯爵の胸像が飾られていることから、この名で呼ばれています。中には、ホテルやレストランが入っています。
 かっての文豪ヴィクトル・ユゴー、詩人のジャン・コクトーも絶賛したと言われています。
 5枚目はギルドハウスで屋根には豪華な装飾が施されています。6枚目は王の家と言われ、現在は博物館になっています。今日はあまりにも寒いので、とりあえず博物館に入って時間をつぶしました。いろいろな衣装を付けた小便小僧などたくさんの飾り物が展示されていました。
 


小便小僧

 誰もが知っている可愛らしい彫像で、1619年に作られ、以来、小便を流し続けています。ブリュッセルの最年長市民だそうですが、今までに2度盗難に遭っています。 雨が降っていましたが、けっこう、観光客で賑わっていましたが、雨のため、とにかく寒く、今日は早くホテルに帰ってゆっくりすることにしました。
 


ベルギー

 ここで少しベルギーについて書いておきます。

 北はオランダ、東はドイツとルクセンブルグ、南はフランスに囲まれており、オランダ、ルクセンブルグとベネルックス3国を形成しています。
 人口は1,060万人で世界でも77位であり、面積は九州の7割程度と世界136位で世界の中では小国に属しています。
 首都はブルッセルでEUに加盟しており、また、通貨はユーロです。一人当たりのGDPは世界でもトップクラスにあります。
 1830年、オランダから独立しましたが、国民の60%はオランダ語を話し、39%はフランス語を、残りの1%はドイツ語を使用しており、言葉の壁は大きく、連邦制をとっています。
 ベルギーにはEU本部を始め、多くの国際機関があり、歴史や芸術の国であり、また、日本人にはチョコレートなども有名です。



        
5日目 観光バスでゲントとブルージュ  (Ghent & Bruges)観光
 

 ベルギーの西にあるフランドル地方は中世時代、毛織物を中心に商業、産業が発達し、現在もその面影を残してあり、幾つもの地域や建物が世界遺産に登録されています。なお、フランドル地方とは、旧フランドル伯爵領を中心とするオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部を言います。
 今日はそれらの町にある二つの町、ゲントとブルージュを訪ねる観光バスに乗ってみました。
 バスはグラン・プラスの近くにあるバス会社を9時に出発し、帰りは午後6時半ごろでした。 




ブルッセル中央駅付近

 ホテルのあるブルッセル南駅から地下鉄で中央駅まで行き、観光バスの集合場所まで歩いてゆきました。歩いて10分程度の場所にあります。まだ、町はひっそりとしており、時間があるので適当に歩いてみました。アーケード内の新聞スタンドでは日本の新聞が売られていました。日本人にとって、オランダは比較的身近に感じられますが、ベルギーについてはほとんど報道されていませんが、日本のビジネスマンもたくさんいるのでしょうか。
 ただし、オランダは英語教育が徹底していますが、ベルギーでは、あまりされていないようです。
 


グラン・プラス(グランドパレス)

 観光バスの出発時間までまだ少し時間があったので、昨日訪れたグランプラスを覗いてみました。まだ、人はほとんどおらず、花屋さんがお店の準備をしていました。とにかく美しい広場で、世界遺産にして保存しようとしたのも納得します。



ゲント(ヘント)


 ゲントはブルッセル、アントワープに続くベルギー第三の都市であり、神聖ローマ皇帝5世が誕生した土地として有名です。カール5世統治の16世紀は織物産業を中心に黄金期を迎え、運河沿いには年代によって異なる建物が残り、美しい風景を作り出しています。
 現在は臨海を工業地帯として発展しており、1809年から歴史ある花の祭典ゲント・フロラリアを5年に1度開催し、「花の都」とも言われています。
 バスは中心街の外に停まり、そこから歩いて行きます。遠くからでも町を代表するベルフォート(鐘楼)が見えます。この塔はゲントの自治権の象徴として14世紀にギルトによって建てられました。6階建てで、高さは90mもあり、エレベーターで昇れるそうです。
 町に入ると、驚いたことにたくさんの教会があります。京都を散策すると、至る所にお寺があるのに似ています。教会の名前はとても覚えられません。



聖バーフ大聖堂

 広場を挟んで、鐘楼の反対側に聖ハーブ大聖堂があります。カール5世が洗礼を受けたゲント最古の教会で、名画や宝物館があります。



 町全体が大きな工事中でした。ロシア風の教会もあります。 


 運河沿いにいろいろな建物が建っています。ゲントを代表する美しい建物群です。ガイドさんから英語で説明がありましたが、いろいろな名前が出てきて理解できませんでしたが、美しさだけは理解できました。
 


ブルージュ (ブリュッヘ 世界遺産)

 市街は下の1枚目の写真にあるように運河でぐるっと囲まれ、運河は市の中心部にもたくさん走っていて水の都とも呼ばれています。バスは運河の外側に停まり、全員、市街に歩いて入ります。
 ブルージュは「橋」という意味で、市内には50もの橋があるそうです。
 北海と水路で結ばれていたブルージュは13~14世紀にハンザ同盟の主要都市として、その後、ヨーロッパ第一の貿易港として栄えました。しかし、15世紀に北海との間の水路が砂でうずまり、貿易都市としての機能が止まってしまいました。そのお陰で中世の風景がそのまま残り、ひっそりと佇む美しい街として現代に引き継がれています。



ボートに乗り、市内観光
 
 
 約30分間ほど、ボートに乗り市内観光をしました。確かに水の都です。聖母教会の尖塔が遠くからも良く見えます。
 


聖母教会

 13世紀から15世紀にかけて建設され、高さ122mの尖塔は市内のどこからでも見ることが出来ます。塔は現在修理中でした。
 この教会はミケランジェロの「聖母子像」 が有名です。下の写真の5枚目にあります。また、パイプオルガンやファン・アイクの「十字架上のキリスト」も有名です。
 


聖血礼拝堂

 十字軍遠征に参加したフランドル伯がコンスタンチノーブルから持ち帰ったキリストの血が奉納されていることからこの名前が付けられています。1150年ごろの建築です。
 毎年キリスト昇天祭に行われる「聖血の行列」はブルージュ最大の行事で中世期の装束で「聖血」と共に街中を練り歩くそうです。
 


ベルフォード(鐘楼)

 中世の大都市には、一般に鐘楼が建てられ、権力の象徴を示すよう、出来るだけ高く作られていますが、この鐘楼は13世紀から建設され、頂上は8角形の形をしており、366段の石のらせん階段を登ると塔の最上部に出ます。高さは83mあります。内部には自動演奏装置があり、15分おきに美しい音色を響かせます。
 この鐘楼は世界遺産に登録されています。



マルクト広場

  市の中心となる広場(グラン・プラス)で、鐘楼や州庁舎が面しています。広場の中心の銅像は14世紀のフランスの圧制下で市民蜂起を指揮した英雄ヤン・ブレーデルとピーテル・デ・コーニングの像です。
 



 広場に可愛いポストを見つけました。現在もつかわれているようです。



        
6日目 ブルッセル市内を歩いて観光

 今日は一日、ブルッセル市内を歩いて見学です。残念ながら、また雨模様です。
 まず、ホテル近くの最高裁判所付近からスタートです。最高裁判所はホテルから2km程度の所にあります。



最高裁判所

 ホテルから中央駅方向に行く途中にあるので立ち寄ってみました。中には入れませんので、外から見るだけですが、高さは100mもあり、19世紀当時、世界最大級だったそうです。小高い丘の上にあり、案内書には市内全体を見降ろすことが出来ると書いてありましたが、見晴らしはあまりよくありませんでした。



プチ・サロン公園とノートルダム・ジュ・サブロン教会

 次の目的地は王立美術館と王宮ですが、そこへ行く途中に小さな公園と15世紀に作られたゴシック様式のしっぱな教会があり、ちょっと覗いてみました。まだ、誰もいませんでした。


聖ジャック教会

 王宮に隣接してあるので、王宮の一部かと思ったのですが、入ってみると教会でした。 




王立美術館

 開館時間は10時からですが、10分ぐらい前に行くと、20人ぐらいが開館を待っていました。
 この美術館はベルギーを代表する美術館で、1803年に設立され、200年以上の歴史を誇り、2万点以上の作品を所蔵しています。
 王立美術館は近代美術館と古典美術館の2つからなり、建物は独立しているものの、入口は同じで、中は繋がっています。ただし、両方に入ると倍の入場料を取られます。私たちは両方に入ってみました。
 入ると大きな広間があり、近代美術館を見てから古典美術館に行くように案内がありました。

Egide Charles Gustave Wappers


1830年のベルギー革命のエピソード


1834年
コンスタン・モンタルド
Constant Montald
1862-1944
ベルギー象徴主義の美術家

The La Barque de l' Idéal

1907年

 

近代美術館

 19世紀から現在までの作品を収めており、ヨーロッパの印象派の作品なども展示されています。


ルネ・マグリット Rene Magritte 1898-1967 ベルギーの画家超現実主義の代表画家

Natural Encounters
自然の出会い


1945年
Les Graces Naturelles






古典美術館

 15世紀から18世紀までの絵画が展示されており、ブリューゲルやルーベンスの作品がたくさん展示されていました。
ルーカス・クラナッハ
1472-1553
ドイツの画家


ビーナスとキューピッド
ヤン・ホッサールト

1478-1532
ルネサンス期のウランドル人画家

Jan Gossaert dit Mabuse, Vénus et l’amour

1521年

Jacques-Louis David

1748-1825

Mars disarmed



ピーテル・ブリューゲル 1525-1569年 フランドル(現ベルギー)の画家

ベツレヘムの人口調査

1566年
ベツレヘムの戸籍調査

反逆した天使達の失墜

1562



ピーテル・パウル・ルーベンス Peter Paul Rubens 1577-1640 
 バロックのフランドルの画家。外交官でもあった。


聖母被昇天
Pietà avec saint François
聖フランシスとピエタ
聖母マリアと聖フランチェスコ
聖母マリアの戴冠



レンブラント・ファン・レイン

 1606-1669 
オランダの画家。バロック期を代表する画家の1人。
大画面と、光と影の明暗を明確にする技法を得意とした。

ニコラス・ファン・バンベーグの肖像
ヨース・ドゥ・モンペル2世

バベルの塔


ロワイヤル広場とモン・デ・ザール

 王宮と王立美術館の間にかなり広いロワイヤル広場があり、そこから坂を少し下ると「芸術の丘」と言われるモン・デ・ザール庭園を見降ろすことが出来ます。


王宮

 ベルギー国王の執務室がある宮殿で、その前にはかなり広いブリュッセル公園があります。王室が公開されるのは夏季のみで、現在は入れませんでした。
 この宮殿は1904年、レオポルド2世が再建したものです。



聖ミシェル大聖堂

 王宮からグラン・プラスの方向に歩いてゆくと、いろいろな教会があり、覗いてみました。
 この教会は15世紀末に完成したゴシック様式の大きな教会です。



聖カトリーヌ教会

 1850年頃、ロマネスク、ゴシック、ルネサンス様式を混ぜ合わせて作られています。 




王立モネ劇場

 ヨーロッパでも一、二を争うオペラ座で、ネオクラシック様式で作られています。 




聖ニコラス教会

 何度も破壊と修復を繰り返してきた小さな教会で、現在の姿は1955年に再建されたものです。



再び、グラン・プラスから小便小僧へ

 相変わらず、小雨で、かなり寒いのですが、再びグラン・プラスから小便小僧の所まで歩いてみて、地下鉄を利用し、ホテルまで帰りました。



        
7日目 ブルッセルからルクセンブルグへ移動、その後、歩いて市内観光


 今日はいよいよ今回の最終目的地、ルクセンブルグに向かいます。
 ブルッセルは、アムステルダム-ブルッセル-パリ間の高速特急タリスで結ばれていますが、ルクセンブルグとの間は、一般の鉄道で結ばれ、特急や各駅停車などいろいろ走っています。どれに乗っても料金は同じようです。私たちは、ブルッセル-ルクセンブルグ間の切符をブルッセルの切符売り場で買ったのですが、なぜか、二人で行くと言ったら、一人分は無料になるサービスがあると言われました。ヨーロッパの鉄道料金はうまく買うとかなり安く上げる方法があるのかも知れません。
 ブルッセル-ルクセンブルグ間には1時間おきに特急列車が走っており、朝の7時33分発の列車に乗ることにしました。ルクセンブルグまでの乗車時間はほぼ3時間でした。もっとも、座席指定のない2等車なので、自分の好きな時間に行くことが出来ます。
 駅はホテルのすぐ前なので、荷物を手で引いて行き、プラットホームを調べ、列車に乗り込みました。日本の寝台車の様な作りで、3人が向いあって座り、入口にはドアもあります。私たちは荷物も部屋に持ち込みましたが、それもあってか、誰も部屋には入って来ませんでした。幸い列車は非常にすいていて、誰もいない部屋が他にもたくさんありました。
 ルクセンブルグ市は標高400mと比較的高地にあり、列車は平地からなだらかな丘を上ってゆく感じでした。初めての土地なので、景色を眺めていると、3時間はすぐにたってしまいました。
 ルクセンブルグのホテルは駅のすぐそばにあり、歩いて1分もかかりませんでした



ルクセンブルグ大公国
 


 国土の面積が神奈川県と同じぐらいに小さく、人口はわずか46万人と非常に少なく、その上、一人当たりの国民所得が世界一であるという不思議な国です。なぜ、このような小国が存在するのか、興味が尽きません。
 ルクセンブルグはドイツ、フランス、ベルギーに接しており、言葉はどの国の言葉なのか、普段の生活はどうなのか、など、分からないことがたくさんあります。とにかく、行ってみないことには分からない、ということで一泊です。ちなみに、ルクセンブルグでは義務教育で、ルクセンブルグ語、フランス語、ドイツ語、英語を話せるように教育されるそうです。
 なお、上の地図を見るとわかるように、ルクセンブルグの南の地域は、ドイツとフランスが接しています。この地域はアルザス地方と言われ、製鉄産業に欠かせない良質の石炭と鉄鉱石が産出されるため、両国間に争いがおこると真っ先に戦闘が開始される紛争地帯ででした。
 両国に接するルクセンブルグは1867年、ロンドン条約により、ドイツプロイセン王国とフランスの緩衝国となるよう、永世中立国となりました。
 第二次世界大戦中はドイツの支配下に置かれましたが、終戦後はNATOに加盟し、永世中立国を放棄しました。その後は積極的にヨーロッパ統合に向けて努力し、1957年には欧州経済共同体、1967年に欧州連合に、1999年にはユーロ圏の発足に向け最初の加盟国として参加しています。
 ルクセンブルグには昔の貴族の様なお金持ちが大変多いそうです。また、現在は鉄鋼業よりも金融業として栄えており、毎日近隣国から通勤してくる人が10万人もいるそうです。消費税は近隣諸国が約20%であるのに対し、15%と少ないので、買い物客も多いそうです。とにかく、人口が少ないので、一人当たりの国民所得が世界一と計算上はなるようです。



ルクセンブルグ駅

 ルクセンブルグで一番大きな駅ですが、日本と比較すると、北海道のどこか、小さな町の駅の様な感じです。外から見るとバロック様式の時計台が目立ちます。駅舎内で目立つのが天井画で、1995年、ルクセンブルグがヨーロッパの文化都市に指定されたのを記念して、ルクセンブルグの画家ストレンシャンによって描かれたそうです。



市内の交通機関はバスのみ

 小さな都市のためなのでしょうか、市内の交通機関はバスのみで、地下鉄もトラムもありません。その代り、ひっきりなしにバスが列を作って走っています。ただし、地理に不案内な旅行者には不便で、利用するには誰かに聞くしかありません。
 ただし、どこの国でもそうですが、聞けば親切に教えてくれます。


歩いて市内観光 新市街から旧市街へ

 ルクセンブルグには駅周辺の新市街と、そこから1km程度ほどの所にある旧市街と、さらにそこから1km程度離れた新開地があります。新開地にはショッピングセンターなど新しいビルが建てられています。小さい町なので、その気になれば、どこへも歩いてゆくことが出来ます。
 下の写真は新市街の大通りですが、駅周辺のホテルから、旧市街まで歩いてゆきました。



欧州投資銀行

 新市街と旧市街の間に架けられたアドルフ橋のふもとにあります。大通りを挟んで建てられた2つのビルが欧州投資銀行です。この銀行は1958年発効されたローマ条約によって設立され、欧州連合の産業や中小企業の国際力向上、環境保全、エネルギーの安定供給事業などバランスのとれた発展に寄与し、域内の経済・社会の結合を強化させることを目的としています。
 この銀行は法人格を有しており、EU加盟国は共同で出資していますが、財政上はEUから独立しています。


アルセロール・ミタル社

 新市街を歩いていたら、アルセロール・ミタル社の本社の看板を見つけました。ルクセンブルグを代表する世界一の鉄鋼会社です。
 インドの実業家ミタルはオランダに世界第二の規模を誇るミタル・スチールを持っていましたが、2006年、世界第一位のルクセンブルグにあるアルセロール・スチールに敵対的買収を仕掛け成功しました。その結果、アルセロール・ミタル社はダントツの世界一となり、新日鉄の3倍の規模になりました。
 それをさかのぼる4年前の2002年、世界的不況により、フランスのユジノール社、ルクセンブルグのアルベッド社、スペインのアセラリア社が合併し、世界最大の鉄鋼会社アルセロールが誕生し、その本社はルクセンブルグの置かれました。
 一方、インドの実業者ミタルは、不況に陥った鉄鋼会社を次々と買収し、経営統合などにより、ミタル・スチールを世界第二位の鉄鋼会社に成長させました。その本社はオランダにあります。
 同じ2002年頃、日本では川崎製鉄とNKK(日本鋼管)が経営統合してJFEスチールが発足、新日鉄も住友金属工業と神戸製鋼と包括提携して2大グループに分けられました。
 ミタルスチール社がアルセロール・スチールに敵対的買収をかけた時、アルセロール・スチールの経営陣を始め、フランス、スペイン、また、ルクセンブルグの政府もその買収に反対し、防衛に努力しましたが、ミタル・スチールは、アセロール・スチールの個人株主の切り崩しに成功し、合併を成功させました。合併により、資産価値が上がると判断し、合併に賛成した人が多かったようです。
 ミタル・スチールは不況に陥った鉄鋼会社を買収して大きくなったこともあり、鉄鋼生産技術はだいぶ低いと言われています。ミタル・スチールにとって、技術の優れる鉄鋼会社の買収は至上命題でした。
 買収の矛先は日本の新日鉄などにも向けられましたが、この数年、世界的不況により沈静化しています。しかし、数年前、日本の鉄鋼会社は、個人株主に対し、敵対的買収を仕掛けられても株を売らないようにと、懸命に訴えていたのは記憶に残っています。景気が回復すれば、再びこのような事態になるかも知れません。


アドルフ橋を越えて旧市街へ

 新市街と旧市街はアドルフ橋で結ばれ、橋を渡り新市街の方を振り返ると、お城の様な欧州投資銀行が見えます。
 旧市街は城壁に囲まれ教会や博物館などがあり、この地域は世界遺産に指定されています。
 川には水が流れていますが、小川よりも少ない水量でした。



ノーテルダム大聖堂

 遠くから見ると三つの尖塔がこの教会の独特な姿をかもしだしています。1613年、イエズス会修道士によって建てられ、後期ゴシック様式をしてましたが、その後、ルネサンス様式が加わりました。国の儀式はこの教会で行われ、大公家の結婚式もこの教会で行われています。



大公宮殿

 現在の大公、ナッソウ家の居城であり、公的な行事が行われます。門の前の近衛兵の交代は2時間おきだそうです。さすが小さい国だけあった、近衛兵の数は一人だけでした。



ギョウーム広場

 大公宮殿から歩いて1分程度の所にあり、オランダ王でかつルクセンブルグ大公であったギョーム2世の像が建てられています。
 1884年、ギョーム2世がルクセンブルグの自治権を認めたことに感謝してルクセンブルグが彼の騎馬像を建てています。



アルム広場

 ギョーム広場のすぐそばにあり、ルクセンブルグ第一の広場でいろいろな催し物が行わるそうです。



聖ミッシェル教会

 アルル広場の近くにある小さな教会です。



ヴェンツェルの城壁

 14世紀から15世紀にかけて大公ヴェンツェルが旧市街を囲んで環状城壁を作りましたが、1867年、永世中立国になってから、ほとんどの城壁を取り壊しました。現在もその一部が残っています。
 私たちは階段を下り、川の麓まで行き、そこから急な坂を上って3つのドングリのある丘を登りました。



3つのドングリ

 1733年、オーストリアが作った要塞だそうです。このすぐそばには新開地が広がっています。



新開地
 

 近代的なビル群が立ち並ぶ新開地で、工事中の建物が多く、だいぶ景気が良さそうです。ここには欧州司法裁判所もあります。



新開地からホテルまで戻る

 新開地から旧市街までバスで戻り、その後、ホテルまで歩いて帰って来ました。ホテルで少し休んだ後、ルクセンブルグ料理を食べようと、レストランを探しに出かけました。物価はけっこう高く、ビールや料理などはオランダの2倍ぐらいする感じでした。



            
8日目 ルクセンブルグからアムステルダムへ移動 
  
 今日はルクセンブルグをお昼ごろ立ち、再びアムステルダムに戻ります。
 午前中は昨日見学できなかった城壁の下まで歩いてみました。大きな渓谷にほんのわずかの水が流れていました。


 トロッコの様な連結されて観光バスにも乗ってみました。このバスも谷底まで下りてゆきました。

 

 旧市街の憲法広場ではなにかの催しがなされていました。 



 ルクセンブルグからブルッセルまで、再び普通の特急列車で戻りました。今回は2席ずつの並びの座席で、荷物は手元に置きました。



ブルッセルからアムステルダムへ
 
 再び、国際特急列車タリスの1等車です。無線ランが使用でき、ワインの無料サービスもありました。
 荷物は私たちの後ろが空いていたので置かせて頂きました。



アムステルダムへ到着

 再びアムステルダムへ戻って来ました。相変わらずゴミの山です。 




          
9日目 午前、観光バスで風車観光、午後はアムステルダム市内観光 
 
 オランダに来たら風車を見たいと思っていましたが、世界遺産に指定されているキンデルダイクの風車群はロッテルダムのさらに先にあり、日帰りの観光バスは出ていないと言われ、アムステルダムの近くにある風車を見学することにしました。
 この観光バスは、4時間半程度の半日観光ですが、まず、オランダの典型的な酪農地帯エダムを訪ね、その後、ザーンセ・スカンスにある、風車群を見学します。



観光ルート
 今日、観光バスの行くところです。アムステルダムから北15km程度の所にあります。地図を見ると分かりますが、アムステルダムの北にある陸地は、アムステルダム市と川で完全に仕切られ、埋め立て地であることが良く分かります。



エダム (Volendam)

 この街もダムという名前が付いていますが、昔、造船やチーズの輸出拠点として栄えました。
 この街にもオランダの典型的な跳ね橋や教会を見ることが出来ます。夏になるとチーズ市が開かれ、競り市も開催されるそうです。



 オランダの典型的な農牧地帯です。牧場の仕切りはフェンスでなく、溝を切り、水路になっています。
 この地域で生産されるチーズはリンゴのような形をしており、エダマーと呼ばれているそうです。



 まだ、チューリップ畑にはお花が咲いていました。 




ザーンセ・スカンスの風車

 アムステルダムの北、15kmにあるザーンセ・スカンスには4つの風車があり、また、オランダ名物木靴製造の建物などが保存されています。
 ここの風車は水をくみ上げるとともに、木材を切るためにも使用されており、デモンストレーションが行われていました。このパルトロックと呼ばれる製材用の風車は、16世紀末に開発され、造船の盛んであったこの地方にたくさん建てられたそうです。
 歩いてみると、ここでは一見して海面の方が周囲の陸地より高いことが分かります。
 下の写真の初めの2枚はグーグルマップの航空写真です。この地域の典型的な地形ですが、水車は水路に中に作られています。


 上空から見たグーグルマップです。
  





 オランダは木の靴で有名ですが、昔の工場が保存され、倣い旋盤による靴作りが実演されていました。



アムステルダム市内 自転車道路

 至る所に自転車道路があり、猛スピードで走っています。私たちは慣れていないのでつい、自転車道路に入ってしまいます。



運河めぐり
 
 日本で買ったオランダ美術館入場券にボートの券も付いていました。残しても無駄になるので、もう一度乗ってみました。



フォンデル公園

 私たちのホテルのすぐそばにあり、南西2kmに延びる細長い公園ですが、約1時間ほど散策してみました。
 ジョギングを楽しむ人たちや、自転車に乗って、公園の雰囲気を楽しんでいる人たちがたくさんおりました。
 雨が降ってきたのでホテルに戻りました。



        
10日目 観光バスにて世界最大の花市場を見学し、

          ロッテルダム、デルフト、ハーグなどを観光 


 ツアーバスは9時半にアムステルダムをスタートし、まず、午前中に世界最大の生花市場を見学します。その後、ロッテルダム、デルフト、ハーグなどオランダの主な都市を回り、午後、6時ごろ、アムステルダムに戻って来ます。



Aalsmeer 世界最大の生花のオークッション

 スキポール空港の近くにあり、世界最大の生花市場で、その空港から世界中に出荷されます。この市場はサッカーグランドの125倍もあるそうです。切り花がカートに乗って自動的に動き、オークッション室に運ばれ、係員が花を手に持ち、入札が行われます。下の写真のような入札会場が幾つもあり、たくさんの人がパソコンに向かって入札している姿には驚きました。入札された切り花はその日のうちに、ロンドンやパリの、また、世界の都市の店頭に飾られるそうです。
 生花はオークッション会場の周辺の農家からも持ち込まれますが、アフリカや日本など世界中から持ち込まれ、また、世界中に運ばれてゆきます。
 今回のバスツアーはこの市場を見ただけでも十分な価値があったと思います。



ロッテルダム
 
 次にバスはオランダ第二の都市、ロッテルダムを観光です。バスは市内をうねうねと走り、停車したのはロッテルダム湾が見える小さな公園の一角でのみでした。市内には変わった形のビルがたくさん建てられており、また、巨大な吊り橋や、昔使用されていた電車用の開閉橋などがあります。また、展望台は国内最高で185mあるそうです。



デルフト焼き工場(Delft Blue Pottery)

 17世紀、オランダは中国や日本などから陶器を輸入していましたが、ヨーロッパの陶器に比べ薄く透明感があり、王侯貴族たちは「東洋の宝石」として珍重してきました。陶器の生産地であったデルフトはそれを模倣し、生産に成功し、ヨーロッパ各地から人気を集め、デルフト焼きと呼ばれるようになりました。
 ヨーロッパではドイツのマイセン焼きも有名です。



デルフト市内

 デルフトは、デルフト焼きやフェルメールの名画、「デルフトの眺望」などで知られています。なお、フェルメールはここで生まれ育ち、一生をこの街で暮らしています。
 バスは昼食を兼ね、デルフトのマルク広場で1時間ほど自由解散でした。自由時間中、広場で昼食をとり、その後、旧教会、新教会に入って見学しました。



マルクト広場 

 広場に面して赤いよろいどがひときわ目を引く市庁舎が建って居ます。ルネサンスとバロックの混合様式です。その反対側には新教会の高い鐘楼が目立ちます。私たちはここでサンドイッチを買い、昼食でした。サンドイッチはものすごく大きく、一人分を買って二人で食べました。十分な量でした。




旧教会

 広場から徒歩で6分ぐらいの所にある教会で、13世紀から2世紀をかけて作られました。フェルメールの墓標があるそうです。


 


新教会

 昼食をとったマルクト広場に面しています。1381年の創建ですが、増築を重ね15世紀に完成しています。鐘楼の高は109mもあり、屋上にも登れるそうです。フェルメールはここで洗礼を受けています。



フェルメール(Johannes Vermeer) 1632~1675

 17世紀のオランダ美術を代表とする画家で、その生涯をほとんどこのデルフトで過ごしています。25歳の時、デルフトの絵画組合に入会し、画家としての活動を開始しています。
 17世紀になるとオランダは共和国として独立し、市民は王や貴族から独立し、貿易により巨万の富を得ていました。生活に余裕をもった市民はフェルメールの絵をこのんで買い求めたそうです。43歳で亡くなりますが、画家として活躍したのは22年間で、現存する作品数は、30点強と言われています。実際に描いたのはあと10点以上あることが記録で分かっているそうです。


ハーグ

 ハーグ市内には国会議事堂や、政府の諸機関があり、オランダの政治の中心地です。日本大使館もこの街にあります。バスはガイドさんが車内で説明しながら、市内のいろいろなところを通り、最後に平和宮で停車しました。



平和宮(国際司法裁判所)

 この建物は1913年、アメリカの富豪カーネギーの寄付により完成しています。現在は国連の管轄下にあり、国際司法裁判所で、国連の機関として使用されています。建設に際し、オランダは土地を提供し、関内を飾る装飾品などは、世界各国が提供しているそうです。
 ハーグ国際司法裁判所は、日本とロシア、中国など、かって戦争を行った後の調停の場として、日本に関する世界史にもよく登場しています。



Scheveningen 海水浴場

 地中海やアドリア海などの海水浴場は有名ですが、ハーグにも海水浴場があり、バスはわざわざ案内してくれましたが停車はしませんでした。

 

Madurodam マドローダム(ミニチュア・タウン)

 約2万へーべの敷地にオランダ各地の名所を実物の25分の1の大きさで再現しています。アムステルダムの王宮やアンネ・フランクの家、スキポール空港、ロッテルダム港などもありました。国際特急列車タリムも実際に走っていました。
 


夕食

 今日はオランダでの最後の夕食です。昨日行ったホテル近くのフォンデル公園に面したレストランにしました。けっこう寒くても、皆さん、外で食べていました。



        
11日目 ハーグとライデン観光。 夜 JALで成田へ 

 いよいよ今日は最終日です。成田行きの飛行機は夜の9時発なので、1日、たっぷりと時間があります。
 オランダに行ったらぜひ見たいと思っていたのはフェルメールの名画、「青いターバンの少女」でした。この名画はハーグのマウリッツハイス美術館にあり、とりあえず、今日はその絵を見て、その後、時間を見ながら、ライデンの観光をする予定にしました。



列車でハーグへ

 ホテルからタクシーでそのまま空港へ行ってもよいのですが、すでにアムステルダムから空港までの列車のチケットを買ってあったので、ホテルからアムステルダム駅にタクシーで行き、そこから空港まで列車で行きました。約15分でした。空港で荷物を自動ロッカーに入れて、いよいよ、出発です。
 ところが空港で列車の切符を買おうとしたら、長蛇の列です。びっくりしました。アムステルダムで買っておけばよかったと反省でした。ただ、列は長かったものの、約10分程度で切符を買う事が出来ました。
 列車はかなり頻繁に出ています。オランダでは、列車に自転車を持ち込むことが出来て、そのためのスペースが確保されています。空港からハーグまでは列車で約30分でした。
 


マウリッツハイス美術館

 ハーグには観光バスで昨日も来ているのですが、バスに乗って観光しているのと、自分で地図を見ながら道を探して歩くのでは記憶の印象が全く違います。
 美術館は駅から歩いて10分ぐらいの所にあります。美術館の前には大きく拡大された青いターバンの少女の絵が飾られていました。
 この美術館はオランダ総督ウィレム5世とその子、オランダ初代国王ウィレム1世の収集したものが中核となっており、特に、オランダ・フランドル絵画の作品群に優れています。その中には、レンブラント数多くの名画とフェルメールの名作3点などがあります。
 写真は禁止ですが、日本語のエアフォンガイドが無料で貸し出されており、それに従って見学しました。それを聞いているだけでも2時間ぐらいはかかりました。
 エアフォンガイドを借りると、日本語で説明をしている作品の番号が書かれており、これを参考に見て回りました。



 写真は不可だったので、上の資料を参考に、インターネットで集めてみました。
フェルメール

ディアナとニンフたち

1655〜1656年頃

サイズ:97.8×104.6cm
 フェルメールとしては、神話の登場人物を題材にした唯一の作品です。
 左下には犬も描かれていますが、犬の登場もこの作品のみです。
フェルメール

デルフト眺望

1660〜1661年頃

サイズ:96.5×115.7cm
 フェルメールの作品の中での代表的な作品であり、もっとも大きなサイズで描かれています。
 金色に輝く教会の塔、河に浮かぶボートの無数の輝き、レンガの白い線など、フェルメール独自の光の表現が随所に見られます。
 この絵はデルフトが大きな火災に見舞われた後、以前の美しいデルフトの町を残したいという市民の願いによって描かれたと言われています。
フェルメール

青いターバンを巻いた少女

1665〜1666年頃

サイズ:44.5×39cm
 フェルメールの作品の中で最も有名な作品の一つです。想像上の女性を描いたと言われています。
 真珠の耳飾りを付けた少女が、鏡に映る自分を見て、真珠が自分に似合うかどうかを確かめています。
レンブラント

自画像
 レンブラントは非常にたくさんの自画像を残しています。
  レンブラント

テュルプ博士の解剖学講座

1632年
169×216cm
  レンブラントの名声を確立した集団肖像画の最初の傑作です。
  レンブラント
キリストの神殿奉献
 (シメオンの讃歌)
1631年 
61x48cm
 シメオンの讃歌ともいわれるテーマを描いています。死ぬ前に救世主を見ることを預言されていたシメオンが,布にくるまれたイエスを抱きながら祭壇を仰ぎ見ています。ヨゼフとマリアは跪いて祈っています。 
  レンブラント

二人の黒人
 
  レンブラント

自画像 

1669年

63.5×57.8cm
 



国会議事堂

 美術館のすぐ横にあり、池の周りを一周してみました。 




聖ヤコブ教会 
 



公園前での昼食時

 こちらの風習でしょうか、昼食はこのように取るのでしょう。警備員らしき人がビールを飲んでいました。



ライデン

 ハーグとスキポール空港のちょうど中間にあり、まだ、十分に時間があったので、途中下車し、市内を見学しました。
 オランダ最古の大学やシーボルトの家など日本と関係の深い街です。


市立風車博物館

 駅前にあります。1743年に作られた風車で7層構造で出来ています。粉挽きを目的に作られており、内部の見学ができます。まさにビルの様な建物です。風車の製造コストを考えると、これほど高い風車が必要だったのでしょうか。風車の直径は27mもあります。
 電波を出すアンテナは、効率を高めるため出来るだけ高く作られますが、風もある程度の高さは必要なのでしょう。



ライデン市内見学

 オランダの多くの都市と同じように、ライデンもライン川支流岸にある水の都で、古い町並みを保っており、静かな雰囲気をかもし出しています。また、中心街には小さなカフェやレストランがたくさんあり、観光客で賑わっていました。



ライデン大学

 運河沿いに歩いていると、天皇皇后両陛下がオランダを訪ねた時の写真がビルの壁に飾られていました。さらに歩いてゆくと、大学の門らしいところに来たので入ってみました。この大学はオランダ最古の大学で、シーボルトが持ち帰った資料が基になり、日本学科があるそうです。大学内には植物園があり、この植物園は1587年に作られ、薬草学の研究としては西ヨーロッパで最も古い施設だそうです。
 この植物園は諸外国から園芸植物を持ち帰り、トルコからもたらされたチューリップが異常な投機騒動を起こしたものの、現在の球根輸出国の基盤を作りました。シーボルトが日本から持ち帰った植物もあり、日本庭園もあります。驚いたことに、日本語で書かれた菅原道真の歌が校舎の壁に飾られていました。



シーボルト・ハウス


 日本が鎖国を行っていた江戸時代、長崎の出島は唯一の外国との窓口でしたが、オランダから派遣されたドイツ人シーボルトはそこで外科医として勤務し、多くの日本人に医学を教えました。後に日本中を旅する許可を幕府から得て、日本に関するいろいろな資料を集めました。
 1828年、帰国の際、船が難破し、持ち帰る荷物の中から幕府禁制の日本地図が見つかり、取り調べの後、国外追放処分をうけます。
 取り調べの際、資料収集に協力した人の名前は絶対に明かさなかったそうですが、協力した日本人には重い罪が課せられました。
 日本滞在中に、日本女性、楠本滝と結婚し、一女をもうけています。
 帰国後、シーボルトは、オランダを初め、多くの国に日本を紹介し、日本の開国を促すよう努力します。1845年、48歳の時、ドイツ女性と結婚し、3男2女をもうけています。
 1854年に日本は開国し、1858年には日蘭通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除され、1859年、再来日し、1861年には幕府の顧問となりました。1862年に帰国し、70歳の時、ドイツ、ミュンヘンで死去しています。
 シーボルトハウス内にはシーボルトが持ち帰った資料などや、当時の日本の様子が紹介されていました。



レンブラントの家

 オランダを代表する画家、レンブラントは、1606年、このライデンで生まれ、ライデン大学に入学すべく登録を行っていますが、画家を志し、アムステルダムへ移っています。



スキポール空港

 今日に飛行機は夜の9時発ですが、5時半ごろ、空港に戻って来ました。まだ、JALの搭乗手続きは始まっていませんでした。出発の3時間前から開始だそうです。それまで、コーヒーショップで休憩です。



JALラウンジ

 無事、今回の旅も終わりました。出発までの2時間強を、また、ラウンジでワインを飲みながら過ごします。
 今回は期間が長かったので、ベネルックス3国を十分に堪能することが出来ました。比較的小さい国がその特徴を生かし、世界のリーダー国として生きてゆく姿を実際に見ることが出来て、今回も旅の醍醐味を味わう事が出来ました。






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