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小路
1657〜1658年頃
サイズ:53.5×43.5cm |
フェルメールが描いた風景画は、この絵とデルフト眺望の2点だけです。 |
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牛乳を注ぐ女
1658〜1660年頃
サイズ:45.4×40.6cm |
窓から注ぐ柔らかな光が素朴な顔を照らしだしています。陶器や、パンを入れた籠、また、ごつごつしたパンの質感、その手触りまでも伝わってくるようです。青いターバンの少女、デルフト眺望とこの絵の3枚が、もっとも好まれているそうです。 |
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手紙を読む青衣の女
1663〜1664年頃
サイズ:46.6×39.1cm |
画面の左から光が差す点は他の作品と共通していますが、この絵には窓が描かれていません。女性は妊娠しているようにも見えますが、当時の女性は、このような姿が好まれていたという説もあるそうです。 |
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恋文
1669〜1670年頃
サイズ:44×38cm |
手紙を受け取り当惑そうな女主人と、差出人を知っている女中の姿が描かれています。 |
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ヌエネンの教会 |
1885 |
初期のゴッホは、教会や聖書をたくさん描きました。一般に暗い色調で描かれています。
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馬鈴薯を食べる人々 |
1885 |
貧しそうな人たちが馬鈴薯を分け合って食べています。このころの作品には懸命に生きる人たちに光を与えています。 |
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日本趣味 雨の大橋 |
1887 |
ヨーロッパでは日本の浮世絵がブームで、ヨーロッパの絵画に大きな影響を与えました。ゴッホは日本から300点も買ったそうです。その影響を受け、ゴッホの絵は明るい色彩へと変化してゆきます。
ゴッホは日本の絵画をはじめ、ミレーの農民の絵など、たくさんの模写を精力的に行っています。天才と言われる人は、いずれも大変な勉強家であったようです。
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日本趣味 梅の花 |
1887 |
ゴッホは33歳のときにティオを頼ってパリに住むようになります。左の2枚は広重の絵を模写したものです。
色のコントラストや色彩を強調して描いています。 |
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ひまわり |
1888 |
ゴッホは明るい色彩を求め、34歳の時、光り輝く南フランス、プロバンスの地方都市アルルに移り住みます。
そこで大好きなひまわりを何枚も描きました。大好きな黄色をふんだんに使って描いています。 |
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黄色い家 |
1888 |
アルル地方の青い空、赤い屋根、あふれる光。
感情の赴くままに、光り輝くアルルの風景をキャンバスに描いてきました。この絵は弟からの送金で家を買ったものです。 |
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ゴッホの寝室 |
1888 |
シンプルな家具と自作の絵だけを飾った寝室です。単純な構図と明るい色彩が安らぎと眠りを誘っています。 |
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ゴーギャンの
肘掛け椅子 |
1888 |
アルルに来て半年、ポール・ゴーギャンに共同生活を申し出ました。しかし、それはゴッホにとって苦悩の始まりでした。ゴッホとゴーギャンは絵に対する考え方が全く違っていました。議論はやがて諍いになります。ゴーギャンはゴッホの黄色を理解できなかったようです。
ゴッホは自分の耳をナイフで切り取り、その後、アルル近郊の町、サンレミにある精神病院に入院します。 |
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花咲くアーモンドの枝 |
1890 |
ゴッホが亡くなる半年前に描いた作品です。抜けるような青空のもと、春の訪れとともに花が咲いた枝とともに描かれています。
この絵はゴッホ家の子供部屋に飾られており、ゴッホの家族が最も大切にしてきた作品です。
この絵はゴッホ美術館の中央に飾られています。
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カラスの群れ飛ぶ麦畑 |
1890 |
ゴッホの遺作と言われる作品です。嵐を予感させる空、死を予感させるカラス、風に揺れる麦畑、独特のうねるような曲線で描いた晩年の代表作です。
この作品を描いてからまもなく、ゴッホは自らに銃口を向け、37歳の短い生涯を閉じました。 |
5日目 観光バスでゲントとブルージュ (Ghent & Bruges)観光
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ベルギーの西にあるフランドル地方は中世時代、毛織物を中心に商業、産業が発達し、現在もその面影を残してあり、幾つもの地域や建物が世界遺産に登録されています。なお、フランドル地方とは、旧フランドル伯爵領を中心とするオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部を言います。
今日はそれらの町にある二つの町、ゲントとブルージュを訪ねる観光バスに乗ってみました。
バスはグラン・プラスの近くにあるバス会社を9時に出発し、帰りは午後6時半ごろでした。
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ブルッセル中央駅付近
ホテルのあるブルッセル南駅から地下鉄で中央駅まで行き、観光バスの集合場所まで歩いてゆきました。歩いて10分程度の場所にあります。まだ、町はひっそりとしており、時間があるので適当に歩いてみました。アーケード内の新聞スタンドでは日本の新聞が売られていました。日本人にとって、オランダは比較的身近に感じられますが、ベルギーについてはほとんど報道されていませんが、日本のビジネスマンもたくさんいるのでしょうか。
ただし、オランダは英語教育が徹底していますが、ベルギーでは、あまりされていないようです。 |
観光バスの出発時間までまだ少し時間があったので、昨日訪れたグランプラスを覗いてみました。まだ、人はほとんどおらず、花屋さんがお店の準備をしていました。とにかく美しい広場で、世界遺産にして保存しようとしたのも納得します。 |
ゲント(ヘント)
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ゲントはブルッセル、アントワープに続くベルギー第三の都市であり、神聖ローマ皇帝5世が誕生した土地として有名です。カール5世統治の16世紀は織物産業を中心に黄金期を迎え、運河沿いには年代によって異なる建物が残り、美しい風景を作り出しています。
現在は臨海を工業地帯として発展しており、1809年から歴史ある花の祭典ゲント・フロラリアを5年に1度開催し、「花の都」とも言われています。
バスは中心街の外に停まり、そこから歩いて行きます。遠くからでも町を代表するベルフォート(鐘楼)が見えます。この塔はゲントの自治権の象徴として14世紀にギルトによって建てられました。6階建てで、高さは90mもあり、エレベーターで昇れるそうです。
町に入ると、驚いたことにたくさんの教会があります。京都を散策すると、至る所にお寺があるのに似ています。教会の名前はとても覚えられません。 |
広場を挟んで、鐘楼の反対側に聖ハーブ大聖堂があります。カール5世が洗礼を受けたゲント最古の教会で、名画や宝物館があります。 |
町全体が大きな工事中でした。ロシア風の教会もあります。
運河沿いにいろいろな建物が建っています。ゲントを代表する美しい建物群です。ガイドさんから英語で説明がありましたが、いろいろな名前が出てきて理解できませんでしたが、美しさだけは理解できました。 |
市街は下の1枚目の写真にあるように運河でぐるっと囲まれ、運河は市の中心部にもたくさん走っていて水の都とも呼ばれています。バスは運河の外側に停まり、全員、市街に歩いて入ります。
ブルージュは「橋」という意味で、市内には50もの橋があるそうです。
北海と水路で結ばれていたブルージュは13~14世紀にハンザ同盟の主要都市として、その後、ヨーロッパ第一の貿易港として栄えました。しかし、15世紀に北海との間の水路が砂でうずまり、貿易都市としての機能が止まってしまいました。そのお陰で中世の風景がそのまま残り、ひっそりと佇む美しい街として現代に引き継がれています。 |
ボートに乗り、市内観光
約30分間ほど、ボートに乗り市内観光をしました。確かに水の都です。聖母教会の尖塔が遠くからも良く見えます。 |
聖母教会
13世紀から15世紀にかけて建設され、高さ122mの尖塔は市内のどこからでも見ることが出来ます。塔は現在修理中でした。
この教会はミケランジェロの「聖母子像」 が有名です。下の写真の5枚目にあります。また、パイプオルガンやファン・アイクの「十字架上のキリスト」も有名です。 |
聖血礼拝堂
十字軍遠征に参加したフランドル伯がコンスタンチノーブルから持ち帰ったキリストの血が奉納されていることからこの名前が付けられています。1150年ごろの建築です。
毎年キリスト昇天祭に行われる「聖血の行列」はブルージュ最大の行事で中世期の装束で「聖血」と共に街中を練り歩くそうです。 |
中世の大都市には、一般に鐘楼が建てられ、権力の象徴を示すよう、出来るだけ高く作られていますが、この鐘楼は13世紀から建設され、頂上は8角形の形をしており、366段の石のらせん階段を登ると塔の最上部に出ます。高さは83mあります。内部には自動演奏装置があり、15分おきに美しい音色を響かせます。
この鐘楼は世界遺産に登録されています。 |
マルクト広場
市の中心となる広場(グラン・プラス)で、鐘楼や州庁舎が面しています。広場の中心の銅像は14世紀のフランスの圧制下で市民蜂起を指揮した英雄ヤン・ブレーデルとピーテル・デ・コーニングの像です。 |
広場に可愛いポストを見つけました。現在もつかわれているようです。
6日目 ブルッセル市内を歩いて観光
今日は一日、ブルッセル市内を歩いて見学です。残念ながら、また雨模様です。
まず、ホテル近くの最高裁判所付近からスタートです。最高裁判所はホテルから2km程度の所にあります。 |
最高裁判所
ホテルから中央駅方向に行く途中にあるので立ち寄ってみました。中には入れませんので、外から見るだけですが、高さは100mもあり、19世紀当時、世界最大級だったそうです。小高い丘の上にあり、案内書には市内全体を見降ろすことが出来ると書いてありましたが、見晴らしはあまりよくありませんでした。 |
プチ・サロン公園とノートルダム・ジュ・サブロン教会
次の目的地は王立美術館と王宮ですが、そこへ行く途中に小さな公園と15世紀に作られたゴシック様式のしっぱな教会があり、ちょっと覗いてみました。まだ、誰もいませんでした。 |
聖ジャック教会
王宮に隣接してあるので、王宮の一部かと思ったのですが、入ってみると教会でした。
王立美術館
開館時間は10時からですが、10分ぐらい前に行くと、20人ぐらいが開館を待っていました。
この美術館はベルギーを代表する美術館で、1803年に設立され、200年以上の歴史を誇り、2万点以上の作品を所蔵しています。
王立美術館は近代美術館と古典美術館の2つからなり、建物は独立しているものの、入口は同じで、中は繋がっています。ただし、両方に入ると倍の入場料を取られます。私たちは両方に入ってみました。
入ると大きな広間があり、近代美術館を見てから古典美術館に行くように案内がありました。 |
近代美術館
19世紀から現在までの作品を収めており、ヨーロッパの印象派の作品なども展示されています。 |
ルネ・マグリット Rene Magritte 1898-1967 ベルギーの画家超現実主義の代表画家
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Natural Encounters
自然の出会い
1945年
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Les Graces Naturelles |
古典美術館
15世紀から18世紀までの絵画が展示されており、ブリューゲルやルーベンスの作品がたくさん展示されていました。 |
ピーテル・ブリューゲル 1525-1569年 フランドル(現ベルギー)の画家
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ベツレヘムの人口調査
1566年 |
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ベツレヘムの戸籍調査 |
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反逆した天使達の失墜
1562
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ピーテル・パウル・ルーベンス Peter Paul Rubens 1577-1640
バロックのフランドルの画家。外交官でもあった。
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聖母被昇天
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Pietà avec saint François
聖フランシスとピエタ |
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聖母マリアと聖フランチェスコ |
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聖母マリアの戴冠 |
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レンブラント・ファン・レイン
1606-1669
オランダの画家。バロック期を代表する画家の1人。
大画面と、光と影の明暗を明確にする技法を得意とした。
ニコラス・ファン・バンベーグの肖像 |
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ヨース・ドゥ・モンペル2世
バベルの塔 |
ロワイヤル広場とモン・デ・ザール
王宮と王立美術館の間にかなり広いロワイヤル広場があり、そこから坂を少し下ると「芸術の丘」と言われるモン・デ・ザール庭園を見降ろすことが出来ます。 |
王宮
ベルギー国王の執務室がある宮殿で、その前にはかなり広いブリュッセル公園があります。王室が公開されるのは夏季のみで、現在は入れませんでした。
この宮殿は1904年、レオポルド2世が再建したものです。 |
王宮からグラン・プラスの方向に歩いてゆくと、いろいろな教会があり、覗いてみました。
この教会は15世紀末に完成したゴシック様式の大きな教会です。
聖カトリーヌ教会
1850年頃、ロマネスク、ゴシック、ルネサンス様式を混ぜ合わせて作られています。
王立モネ劇場
ヨーロッパでも一、二を争うオペラ座で、ネオクラシック様式で作られています。
聖ニコラス教会
何度も破壊と修復を繰り返してきた小さな教会で、現在の姿は1955年に再建されたものです。 |
再び、グラン・プラスから小便小僧へ
相変わらず、小雨で、かなり寒いのですが、再びグラン・プラスから小便小僧の所まで歩いてみて、地下鉄を利用し、ホテルまで帰りました。 |
7日目 ブルッセルからルクセンブルグへ移動、その後、歩いて市内観光
今日はいよいよ今回の最終目的地、ルクセンブルグに向かいます。
ブルッセルは、アムステルダム-ブルッセル-パリ間の高速特急タリスで結ばれていますが、ルクセンブルグとの間は、一般の鉄道で結ばれ、特急や各駅停車などいろいろ走っています。どれに乗っても料金は同じようです。私たちは、ブルッセル-ルクセンブルグ間の切符をブルッセルの切符売り場で買ったのですが、なぜか、二人で行くと言ったら、一人分は無料になるサービスがあると言われました。ヨーロッパの鉄道料金はうまく買うとかなり安く上げる方法があるのかも知れません。
ブルッセル-ルクセンブルグ間には1時間おきに特急列車が走っており、朝の7時33分発の列車に乗ることにしました。ルクセンブルグまでの乗車時間はほぼ3時間でした。もっとも、座席指定のない2等車なので、自分の好きな時間に行くことが出来ます。
駅はホテルのすぐ前なので、荷物を手で引いて行き、プラットホームを調べ、列車に乗り込みました。日本の寝台車の様な作りで、3人が向いあって座り、入口にはドアもあります。私たちは荷物も部屋に持ち込みましたが、それもあってか、誰も部屋には入って来ませんでした。幸い列車は非常にすいていて、誰もいない部屋が他にもたくさんありました。
ルクセンブルグ市は標高400mと比較的高地にあり、列車は平地からなだらかな丘を上ってゆく感じでした。初めての土地なので、景色を眺めていると、3時間はすぐにたってしまいました。
ルクセンブルグのホテルは駅のすぐそばにあり、歩いて1分もかかりませんでした |
ルクセンブルグ大公国
国土の面積が神奈川県と同じぐらいに小さく、人口はわずか46万人と非常に少なく、その上、一人当たりの国民所得が世界一であるという不思議な国です。なぜ、このような小国が存在するのか、興味が尽きません。
ルクセンブルグはドイツ、フランス、ベルギーに接しており、言葉はどの国の言葉なのか、普段の生活はどうなのか、など、分からないことがたくさんあります。とにかく、行ってみないことには分からない、ということで一泊です。ちなみに、ルクセンブルグでは義務教育で、ルクセンブルグ語、フランス語、ドイツ語、英語を話せるように教育されるそうです。
なお、上の地図を見るとわかるように、ルクセンブルグの南の地域は、ドイツとフランスが接しています。この地域はアルザス地方と言われ、製鉄産業に欠かせない良質の石炭と鉄鉱石が産出されるため、両国間に争いがおこると真っ先に戦闘が開始される紛争地帯ででした。
両国に接するルクセンブルグは1867年、ロンドン条約により、ドイツプロイセン王国とフランスの緩衝国となるよう、永世中立国となりました。
第二次世界大戦中はドイツの支配下に置かれましたが、終戦後はNATOに加盟し、永世中立国を放棄しました。その後は積極的にヨーロッパ統合に向けて努力し、1957年には欧州経済共同体、1967年に欧州連合に、1999年にはユーロ圏の発足に向け最初の加盟国として参加しています。
ルクセンブルグには昔の貴族の様なお金持ちが大変多いそうです。また、現在は鉄鋼業よりも金融業として栄えており、毎日近隣国から通勤してくる人が10万人もいるそうです。消費税は近隣諸国が約20%であるのに対し、15%と少ないので、買い物客も多いそうです。とにかく、人口が少ないので、一人当たりの国民所得が世界一と計算上はなるようです。 |
ルクセンブルグ駅
ルクセンブルグで一番大きな駅ですが、日本と比較すると、北海道のどこか、小さな町の駅の様な感じです。外から見るとバロック様式の時計台が目立ちます。駅舎内で目立つのが天井画で、1995年、ルクセンブルグがヨーロッパの文化都市に指定されたのを記念して、ルクセンブルグの画家ストレンシャンによって描かれたそうです。
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市内の交通機関はバスのみ
小さな都市のためなのでしょうか、市内の交通機関はバスのみで、地下鉄もトラムもありません。その代り、ひっきりなしにバスが列を作って走っています。ただし、地理に不案内な旅行者には不便で、利用するには誰かに聞くしかありません。
ただし、どこの国でもそうですが、聞けば親切に教えてくれます。 |
歩いて市内観光 新市街から旧市街へ
ルクセンブルグには駅周辺の新市街と、そこから1km程度ほどの所にある旧市街と、さらにそこから1km程度離れた新開地があります。新開地にはショッピングセンターなど新しいビルが建てられています。小さい町なので、その気になれば、どこへも歩いてゆくことが出来ます。
下の写真は新市街の大通りですが、駅周辺のホテルから、旧市街まで歩いてゆきました。 |
新市街と旧市街の間に架けられたアドルフ橋のふもとにあります。大通りを挟んで建てられた2つのビルが欧州投資銀行です。この銀行は1958年発効されたローマ条約によって設立され、欧州連合の産業や中小企業の国際力向上、環境保全、エネルギーの安定供給事業などバランスのとれた発展に寄与し、域内の経済・社会の結合を強化させることを目的としています。
この銀行は法人格を有しており、EU加盟国は共同で出資していますが、財政上はEUから独立しています。 |
アルセロール・ミタル社
新市街を歩いていたら、アルセロール・ミタル社の本社の看板を見つけました。ルクセンブルグを代表する世界一の鉄鋼会社です。
インドの実業家ミタルはオランダに世界第二の規模を誇るミタル・スチールを持っていましたが、2006年、世界第一位のルクセンブルグにあるアルセロール・スチールに敵対的買収を仕掛け成功しました。その結果、アルセロール・ミタル社はダントツの世界一となり、新日鉄の3倍の規模になりました。
それをさかのぼる4年前の2002年、世界的不況により、フランスのユジノール社、ルクセンブルグのアルベッド社、スペインのアセラリア社が合併し、世界最大の鉄鋼会社アルセロールが誕生し、その本社はルクセンブルグの置かれました。
一方、インドの実業者ミタルは、不況に陥った鉄鋼会社を次々と買収し、経営統合などにより、ミタル・スチールを世界第二位の鉄鋼会社に成長させました。その本社はオランダにあります。
同じ2002年頃、日本では川崎製鉄とNKK(日本鋼管)が経営統合してJFEスチールが発足、新日鉄も住友金属工業と神戸製鋼と包括提携して2大グループに分けられました。
ミタルスチール社がアルセロール・スチールに敵対的買収をかけた時、アルセロール・スチールの経営陣を始め、フランス、スペイン、また、ルクセンブルグの政府もその買収に反対し、防衛に努力しましたが、ミタル・スチールは、アセロール・スチールの個人株主の切り崩しに成功し、合併を成功させました。合併により、資産価値が上がると判断し、合併に賛成した人が多かったようです。
ミタル・スチールは不況に陥った鉄鋼会社を買収して大きくなったこともあり、鉄鋼生産技術はだいぶ低いと言われています。ミタル・スチールにとって、技術の優れる鉄鋼会社の買収は至上命題でした。
買収の矛先は日本の新日鉄などにも向けられましたが、この数年、世界的不況により沈静化しています。しかし、数年前、日本の鉄鋼会社は、個人株主に対し、敵対的買収を仕掛けられても株を売らないようにと、懸命に訴えていたのは記憶に残っています。景気が回復すれば、再びこのような事態になるかも知れません。 |
新市街と旧市街はアドルフ橋で結ばれ、橋を渡り新市街の方を振り返ると、お城の様な欧州投資銀行が見えます。
旧市街は城壁に囲まれ教会や博物館などがあり、この地域は世界遺産に指定されています。
川には水が流れていますが、小川よりも少ない水量でした。 |
遠くから見ると三つの尖塔がこの教会の独特な姿をかもしだしています。1613年、イエズス会修道士によって建てられ、後期ゴシック様式をしてましたが、その後、ルネサンス様式が加わりました。国の儀式はこの教会で行われ、大公家の結婚式もこの教会で行われています。 |
大公宮殿
現在の大公、ナッソウ家の居城であり、公的な行事が行われます。門の前の近衛兵の交代は2時間おきだそうです。さすが小さい国だけあった、近衛兵の数は一人だけでした。 |
ギョウーム広場
大公宮殿から歩いて1分程度の所にあり、オランダ王でかつルクセンブルグ大公であったギョーム2世の像が建てられています。
1884年、ギョーム2世がルクセンブルグの自治権を認めたことに感謝してルクセンブルグが彼の騎馬像を建てています。 |
アルム広場
ギョーム広場のすぐそばにあり、ルクセンブルグ第一の広場でいろいろな催し物が行わるそうです。 |
聖ミッシェル教会
アルル広場の近くにある小さな教会です。
ヴェンツェルの城壁
14世紀から15世紀にかけて大公ヴェンツェルが旧市街を囲んで環状城壁を作りましたが、1867年、永世中立国になってから、ほとんどの城壁を取り壊しました。現在もその一部が残っています。
私たちは階段を下り、川の麓まで行き、そこから急な坂を上って3つのドングリのある丘を登りました。 |
1733年、オーストリアが作った要塞だそうです。このすぐそばには新開地が広がっています。 |
新開地
近代的なビル群が立ち並ぶ新開地で、工事中の建物が多く、だいぶ景気が良さそうです。ここには欧州司法裁判所もあります。 |
新開地からホテルまで戻る
新開地から旧市街までバスで戻り、その後、ホテルまで歩いて帰って来ました。ホテルで少し休んだ後、ルクセンブルグ料理を食べようと、レストランを探しに出かけました。物価はけっこう高く、ビールや料理などはオランダの2倍ぐらいする感じでした。 |
8日目 ルクセンブルグからアムステルダムへ移動
今日はルクセンブルグをお昼ごろ立ち、再びアムステルダムに戻ります。
午前中は昨日見学できなかった城壁の下まで歩いてみました。大きな渓谷にほんのわずかの水が流れていました。 |
トロッコの様な連結されて観光バスにも乗ってみました。このバスも谷底まで下りてゆきました。 |
旧市街の憲法広場ではなにかの催しがなされていました。
ルクセンブルグからブルッセルまで、再び普通の特急列車で戻りました。今回は2席ずつの並びの座席で、荷物は手元に置きました。 |
再び、国際特急列車タリスの1等車です。無線ランが使用でき、ワインの無料サービスもありました。
荷物は私たちの後ろが空いていたので置かせて頂きました。 |
アムステルダムへ到着
再びアムステルダムへ戻って来ました。相変わらずゴミの山です。
9日目 午前、観光バスで風車観光、午後はアムステルダム市内観光
オランダに来たら風車を見たいと思っていましたが、世界遺産に指定されているキンデルダイクの風車群はロッテルダムのさらに先にあり、日帰りの観光バスは出ていないと言われ、アムステルダムの近くにある風車を見学することにしました。
この観光バスは、4時間半程度の半日観光ですが、まず、オランダの典型的な酪農地帯エダムを訪ね、その後、ザーンセ・スカンスにある、風車群を見学します。
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観光ルート
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今日、観光バスの行くところです。アムステルダムから北15km程度の所にあります。地図を見ると分かりますが、アムステルダムの北にある陸地は、アムステルダム市と川で完全に仕切られ、埋め立て地であることが良く分かります。 |
エダム (Volendam)
この街もダムという名前が付いていますが、昔、造船やチーズの輸出拠点として栄えました。
この街にもオランダの典型的な跳ね橋や教会を見ることが出来ます。夏になるとチーズ市が開かれ、競り市も開催されるそうです。 |
オランダの典型的な農牧地帯です。牧場の仕切りはフェンスでなく、溝を切り、水路になっています。
この地域で生産されるチーズはリンゴのような形をしており、エダマーと呼ばれているそうです。 |
まだ、チューリップ畑にはお花が咲いていました。
ザーンセ・スカンスの風車
アムステルダムの北、15kmにあるザーンセ・スカンスには4つの風車があり、また、オランダ名物木靴製造の建物などが保存されています。
ここの風車は水をくみ上げるとともに、木材を切るためにも使用されており、デモンストレーションが行われていました。このパルトロックと呼ばれる製材用の風車は、16世紀末に開発され、造船の盛んであったこの地方にたくさん建てられたそうです。
歩いてみると、ここでは一見して海面の方が周囲の陸地より高いことが分かります。
下の写真の初めの2枚はグーグルマップの航空写真です。この地域の典型的な地形ですが、水車は水路に中に作られています。 |
上空から見たグーグルマップです。
オランダは木の靴で有名ですが、昔の工場が保存され、倣い旋盤による靴作りが実演されていました。 |
アムステルダム市内 自転車道路
至る所に自転車道路があり、猛スピードで走っています。私たちは慣れていないのでつい、自転車道路に入ってしまいます。 |
運河めぐり
日本で買ったオランダ美術館入場券にボートの券も付いていました。残しても無駄になるので、もう一度乗ってみました。 |
フォンデル公園
私たちのホテルのすぐそばにあり、南西2kmに延びる細長い公園ですが、約1時間ほど散策してみました。
ジョギングを楽しむ人たちや、自転車に乗って、公園の雰囲気を楽しんでいる人たちがたくさんおりました。
雨が降ってきたのでホテルに戻りました。 |
10日目 観光バスにて世界最大の花市場を見学し、
ロッテルダム、デルフト、ハーグなどを観光
ツアーバスは9時半にアムステルダムをスタートし、まず、午前中に世界最大の生花市場を見学します。その後、ロッテルダム、デルフト、ハーグなどオランダの主な都市を回り、午後、6時ごろ、アムステルダムに戻って来ます。
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Aalsmeer 世界最大の生花のオークッション
スキポール空港の近くにあり、世界最大の生花市場で、その空港から世界中に出荷されます。この市場はサッカーグランドの125倍もあるそうです。切り花がカートに乗って自動的に動き、オークッション室に運ばれ、係員が花を手に持ち、入札が行われます。下の写真のような入札会場が幾つもあり、たくさんの人がパソコンに向かって入札している姿には驚きました。入札された切り花はその日のうちに、ロンドンやパリの、また、世界の都市の店頭に飾られるそうです。
生花はオークッション会場の周辺の農家からも持ち込まれますが、アフリカや日本など世界中から持ち込まれ、また、世界中に運ばれてゆきます。
今回のバスツアーはこの市場を見ただけでも十分な価値があったと思います。 |
ロッテルダム
次にバスはオランダ第二の都市、ロッテルダムを観光です。バスは市内をうねうねと走り、停車したのはロッテルダム湾が見える小さな公園の一角でのみでした。市内には変わった形のビルがたくさん建てられており、また、巨大な吊り橋や、昔使用されていた電車用の開閉橋などがあります。また、展望台は国内最高で185mあるそうです。 |
デルフト焼き工場(Delft Blue Pottery)
17世紀、オランダは中国や日本などから陶器を輸入していましたが、ヨーロッパの陶器に比べ薄く透明感があり、王侯貴族たちは「東洋の宝石」として珍重してきました。陶器の生産地であったデルフトはそれを模倣し、生産に成功し、ヨーロッパ各地から人気を集め、デルフト焼きと呼ばれるようになりました。
ヨーロッパではドイツのマイセン焼きも有名です。 |
デルフト市内
デルフトは、デルフト焼きやフェルメールの名画、「デルフトの眺望」などで知られています。なお、フェルメールはここで生まれ育ち、一生をこの街で暮らしています。
バスは昼食を兼ね、デルフトのマルク広場で1時間ほど自由解散でした。自由時間中、広場で昼食をとり、その後、旧教会、新教会に入って見学しました。 |
マルクト広場
広場に面して赤いよろいどがひときわ目を引く市庁舎が建って居ます。ルネサンスとバロックの混合様式です。その反対側には新教会の高い鐘楼が目立ちます。私たちはここでサンドイッチを買い、昼食でした。サンドイッチはものすごく大きく、一人分を買って二人で食べました。十分な量でした。 |
旧教会
広場から徒歩で6分ぐらいの所にある教会で、13世紀から2世紀をかけて作られました。フェルメールの墓標があるそうです。 |
新教会
昼食をとったマルクト広場に面しています。1381年の創建ですが、増築を重ね15世紀に完成しています。鐘楼の高は109mもあり、屋上にも登れるそうです。フェルメールはここで洗礼を受けています。 |
フェルメール(Johannes Vermeer) 1632~1675
17世紀のオランダ美術を代表とする画家で、その生涯をほとんどこのデルフトで過ごしています。25歳の時、デルフトの絵画組合に入会し、画家としての活動を開始しています。
17世紀になるとオランダは共和国として独立し、市民は王や貴族から独立し、貿易により巨万の富を得ていました。生活に余裕をもった市民はフェルメールの絵をこのんで買い求めたそうです。43歳で亡くなりますが、画家として活躍したのは22年間で、現存する作品数は、30点強と言われています。実際に描いたのはあと10点以上あることが記録で分かっているそうです。 |
ハーグ
ハーグ市内には国会議事堂や、政府の諸機関があり、オランダの政治の中心地です。日本大使館もこの街にあります。バスはガイドさんが車内で説明しながら、市内のいろいろなところを通り、最後に平和宮で停車しました。 |
平和宮(国際司法裁判所)
この建物は1913年、アメリカの富豪カーネギーの寄付により完成しています。現在は国連の管轄下にあり、国際司法裁判所で、国連の機関として使用されています。建設に際し、オランダは土地を提供し、関内を飾る装飾品などは、世界各国が提供しているそうです。
ハーグ国際司法裁判所は、日本とロシア、中国など、かって戦争を行った後の調停の場として、日本に関する世界史にもよく登場しています。 |
地中海やアドリア海などの海水浴場は有名ですが、ハーグにも海水浴場があり、バスはわざわざ案内してくれましたが停車はしませんでした。 |
Madurodam マドローダム(ミニチュア・タウン)
約2万へーべの敷地にオランダ各地の名所を実物の25分の1の大きさで再現しています。アムステルダムの王宮やアンネ・フランクの家、スキポール空港、ロッテルダム港などもありました。国際特急列車タリムも実際に走っていました。 |
今日はオランダでの最後の夕食です。昨日行ったホテル近くのフォンデル公園に面したレストランにしました。けっこう寒くても、皆さん、外で食べていました。 |
11日目 ハーグとライデン観光。 夜 JALで成田へ
いよいよ今日は最終日です。成田行きの飛行機は夜の9時発なので、1日、たっぷりと時間があります。
オランダに行ったらぜひ見たいと思っていたのはフェルメールの名画、「青いターバンの少女」でした。この名画はハーグのマウリッツハイス美術館にあり、とりあえず、今日はその絵を見て、その後、時間を見ながら、ライデンの観光をする予定にしました。 |
列車でハーグへ
ホテルからタクシーでそのまま空港へ行ってもよいのですが、すでにアムステルダムから空港までの列車のチケットを買ってあったので、ホテルからアムステルダム駅にタクシーで行き、そこから空港まで列車で行きました。約15分でした。空港で荷物を自動ロッカーに入れて、いよいよ、出発です。
ところが空港で列車の切符を買おうとしたら、長蛇の列です。びっくりしました。アムステルダムで買っておけばよかったと反省でした。ただ、列は長かったものの、約10分程度で切符を買う事が出来ました。
列車はかなり頻繁に出ています。オランダでは、列車に自転車を持ち込むことが出来て、そのためのスペースが確保されています。空港からハーグまでは列車で約30分でした。 |
マウリッツハイス美術館
ハーグには観光バスで昨日も来ているのですが、バスに乗って観光しているのと、自分で地図を見ながら道を探して歩くのでは記憶の印象が全く違います。
美術館は駅から歩いて10分ぐらいの所にあります。美術館の前には大きく拡大された青いターバンの少女の絵が飾られていました。
この美術館はオランダ総督ウィレム5世とその子、オランダ初代国王ウィレム1世の収集したものが中核となっており、特に、オランダ・フランドル絵画の作品群に優れています。その中には、レンブラント数多くの名画とフェルメールの名作3点などがあります。
写真は禁止ですが、日本語のエアフォンガイドが無料で貸し出されており、それに従って見学しました。それを聞いているだけでも2時間ぐらいはかかりました。
エアフォンガイドを借りると、日本語で説明をしている作品の番号が書かれており、これを参考に見て回りました。 |
写真は不可だったので、上の資料を参考に、インターネットで集めてみました。
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フェルメール
ディアナとニンフたち
1655〜1656年頃
サイズ:97.8×104.6cm |
フェルメールとしては、神話の登場人物を題材にした唯一の作品です。
左下には犬も描かれていますが、犬の登場もこの作品のみです。 |
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フェルメール
デルフト眺望
1660〜1661年頃
サイズ:96.5×115.7cm |
フェルメールの作品の中での代表的な作品であり、もっとも大きなサイズで描かれています。
金色に輝く教会の塔、河に浮かぶボートの無数の輝き、レンガの白い線など、フェルメール独自の光の表現が随所に見られます。
この絵はデルフトが大きな火災に見舞われた後、以前の美しいデルフトの町を残したいという市民の願いによって描かれたと言われています。 |
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フェルメール
青いターバンを巻いた少女
1665〜1666年頃
サイズ:44.5×39cm |
フェルメールの作品の中で最も有名な作品の一つです。想像上の女性を描いたと言われています。
真珠の耳飾りを付けた少女が、鏡に映る自分を見て、真珠が自分に似合うかどうかを確かめています。 |
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レンブラント
自画像 |
レンブラントは非常にたくさんの自画像を残しています。 |
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レンブラント
テュルプ博士の解剖学講座
1632年
169×216cm
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レンブラントの名声を確立した集団肖像画の最初の傑作です。 |
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レンブラント
キリストの神殿奉献
(シメオンの讃歌)
1631年
61x48cm |
シメオンの讃歌ともいわれるテーマを描いています。死ぬ前に救世主を見ることを預言されていたシメオンが,布にくるまれたイエスを抱きながら祭壇を仰ぎ見ています。ヨゼフとマリアは跪いて祈っています。 |
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レンブラント
二人の黒人
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レンブラント
自画像
1669年
63.5×57.8cm |
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国会議事堂
美術館のすぐ横にあり、池の周りを一周してみました。
聖ヤコブ教会
公園前での昼食時
こちらの風習でしょうか、昼食はこのように取るのでしょう。警備員らしき人がビールを飲んでいました。 |
ライデン
ハーグとスキポール空港のちょうど中間にあり、まだ、十分に時間があったので、途中下車し、市内を見学しました。
オランダ最古の大学やシーボルトの家など日本と関係の深い街です。 |
市立風車博物館
駅前にあります。1743年に作られた風車で7層構造で出来ています。粉挽きを目的に作られており、内部の見学ができます。まさにビルの様な建物です。風車の製造コストを考えると、これほど高い風車が必要だったのでしょうか。風車の直径は27mもあります。
電波を出すアンテナは、効率を高めるため出来るだけ高く作られますが、風もある程度の高さは必要なのでしょう。 |
ライデン市内見学
オランダの多くの都市と同じように、ライデンもライン川支流岸にある水の都で、古い町並みを保っており、静かな雰囲気をかもし出しています。また、中心街には小さなカフェやレストランがたくさんあり、観光客で賑わっていました。 |
ライデン大学
運河沿いに歩いていると、天皇皇后両陛下がオランダを訪ねた時の写真がビルの壁に飾られていました。さらに歩いてゆくと、大学の門らしいところに来たので入ってみました。この大学はオランダ最古の大学で、シーボルトが持ち帰った資料が基になり、日本学科があるそうです。大学内には植物園があり、この植物園は1587年に作られ、薬草学の研究としては西ヨーロッパで最も古い施設だそうです。
この植物園は諸外国から園芸植物を持ち帰り、トルコからもたらされたチューリップが異常な投機騒動を起こしたものの、現在の球根輸出国の基盤を作りました。シーボルトが日本から持ち帰った植物もあり、日本庭園もあります。驚いたことに、日本語で書かれた菅原道真の歌が校舎の壁に飾られていました。 |
シーボルト・ハウス
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日本が鎖国を行っていた江戸時代、長崎の出島は唯一の外国との窓口でしたが、オランダから派遣されたドイツ人シーボルトはそこで外科医として勤務し、多くの日本人に医学を教えました。後に日本中を旅する許可を幕府から得て、日本に関するいろいろな資料を集めました。
1828年、帰国の際、船が難破し、持ち帰る荷物の中から幕府禁制の日本地図が見つかり、取り調べの後、国外追放処分をうけます。
取り調べの際、資料収集に協力した人の名前は絶対に明かさなかったそうですが、協力した日本人には重い罪が課せられました。
日本滞在中に、日本女性、楠本滝と結婚し、一女をもうけています。
帰国後、シーボルトは、オランダを初め、多くの国に日本を紹介し、日本の開国を促すよう努力します。1845年、48歳の時、ドイツ女性と結婚し、3男2女をもうけています。
1854年に日本は開国し、1858年には日蘭通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除され、1859年、再来日し、1861年には幕府の顧問となりました。1862年に帰国し、70歳の時、ドイツ、ミュンヘンで死去しています。
シーボルトハウス内にはシーボルトが持ち帰った資料などや、当時の日本の様子が紹介されていました。 |
レンブラントの家
オランダを代表する画家、レンブラントは、1606年、このライデンで生まれ、ライデン大学に入学すべく登録を行っていますが、画家を志し、アムステルダムへ移っています。 |
スキポール空港
今日に飛行機は夜の9時発ですが、5時半ごろ、空港に戻って来ました。まだ、JALの搭乗手続きは始まっていませんでした。出発の3時間前から開始だそうです。それまで、コーヒーショップで休憩です。 |
JALラウンジ
無事、今回の旅も終わりました。出発までの2時間強を、また、ラウンジでワインを飲みながら過ごします。
今回は期間が長かったので、ベネルックス3国を十分に堪能することが出来ました。比較的小さい国がその特徴を生かし、世界のリーダー国として生きてゆく姿を実際に見ることが出来て、今回も旅の醍醐味を味わう事が出来ました。 |
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