マレーシア大周遊8日間

2011年3月9日〜16日

阪急交通社

  

 マレーシアは、日本人が老後に暮らしたい国の第一番目に上げるほど、対日感情もよく、物価も安く、暮らしやすい国と言われています。
 マレーシアへは、20年前と10年前に、仕事でクアラルンプールとペナン島へ行った事がありますが、ほとんど覚えていません。最近のアジアは10年も行かないと、全く変わってしまうので、もう一度行って、いろいろな所を見てみたいとも思っていました。行くならば、日本の冬に、暖かい所で過ごすのも良かろうと思い、この時期を選んでみました。
 今回の旅はホーチミン経由、ベトナム航空で行く、阪急交通社主催の1人10万円を切る格安ツアーでした。
 このツアーは、各自が成田空港で往復の航空券を受け取り、その後、案内なしでクアラルンプールまで行き、ツアーガイドさんは、そこで我々の到着を待っている、というものでした。
 参加者は18名で、男性が8名、女性が10名で、御夫婦は4組でした。男性が比較的多かったのは、4人で参加した男性グループいたためでした。
 現地の添乗員は、日本の大学に4年間留学していたとこのと、日本語もうまく、日本の現状に詳しく、マレーシア人と日本人の違いなど、分かりやすく説明してくれて、非常に勉強になり、面白い旅になりました。
 

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 国旗の月と星はイスラム教を意味し、赤と白の合計14本の線は、マレーシア設立時の14の州を意味しています。
 
 マレーシアは、上の地図に示すように、マレー半島と、ボルネオ島の北に位置する東マレーシアからなり、マレー半島では、北はタイに、南端ではシンガポールと接しています。東マレーシアでは、インドネシアと長区間に渡って接しており、特に柵があるわけではないので、人口が10倍もあるインドネシアからの不法移民は悩みの種だそうです。不法移民を見つけると、インドネシアに送り返しますが、その費用は馬鹿にならないようです。そういう理由かどうかは分かりませんが、マレーシア国民であっても、マレー半島と東マレーシアの移動にはパスポートが必要とされています。東マレーシアの北の一部はブルネイと接しています。ブルネイはイスラム教の王国で、石油が取れるために、国は豊かです。
 マレーシアの国土は日本の88%と、ひとまわり小さいものの、人口は2,700万人と日本の約20%で、国土の多くは熱帯林になっています。


 マレーシアは、地震や津波、台風などがなく、常夏の国であり、パンツとシャツがあれば、一年中過ごすことが出来てるためか、全体にのんびりとした生活を送っている感じがします。私たちのガイドさんは、華人系ではありましたが、サンダルを履き、のんびりと歩くのが特徴でした。
 マレーシアはマレー系65%、華人系25%、インド系7%などの多民族から成り立ち、法律の一部は人種によって異なっています。例えば、イスラム教を支持するマレー系住民は、4名までの女性と結婚できますが、マレー系以外の人たちは禁止されていますし、イスラム教徒はお酒を飲むと、鞭打ちの刑を受けることが法律で定められているなどです。なお、マレー系、華人系、インド系などの比率は、各都市で異なっており、北部のペナンなどは華人系が多く、南部や農村部はインド系が多いようです。
 マレーシアは1957年、この地を統治していたイギリスから独立しました。イギリス統治の影響もあり、政治形態は、当時の制度をそのまま引き継ぎ、立憲君主制を取っています。
 約30年前、第4代首相に就任したマハテール首相は、ルックイースト政策を掲げ、日本人や韓国人の勤勉さに学べと提言し、多くの学生は日本語を勉強し、親日感情を育てて来ましたが、現在は、日本語を学ぶ学生はほとんどおらず、中国に興味を抱く学生が多くなっているそうです。
 なお、華人系と言えども、各方面から移住しているため、言語は地方語が多く、北京語を理解出来ない人が多いようです。
 マレーシアでは学校に入ると、マレーシア語、英語が必須で、其の他、華人系は中国語、インド系はタミル語など、3ヶ国語を話せるように教育されます。
 マレーシアのGDPは日本の4%程度であり、一人当たりのGDPは日本の2割弱ですが、人種によって大きな差があるのが特徴です。例えば、マレー系を1とすると、インド系は、1.3倍、華人系は1.6倍になっています。各都市のスラム街に住む住人も多く、貧富の差はアジアの中ではトップクラスと言われています。
 これらの格差を少なくしようと、マレーシア政府は、プミプトラ政策を導入し、会社の設立、公務員の採用、大学への入学などで、マレー人を優遇する政策を取っていますが、その逆影響も強く、マレー系住民の学力低下、勤勉さの不足、上級公務員の怠慢などが問題視されています。
 一方、マレーシア経済の中枢を占める華人系はマレーシア政府とつながりを保つよりも、シンガポールや香港、中国との繋がりを強めています。
 マレー系住民はイスラム教徒であることが定められ、国教はイスラム教と定められています。華人系は仏教徒が多く、インド系はヒンズー教徒が多いようです。なお、以前イギリスが統治していた影響もあり、キリスト教徒も少なくないそうです。マレー系以外の人がマレー系の人と結婚すると、イスラム教に改宗することが法律で定められているため、華人系とマレー系の婚姻は少なくなっています。
 マレーシアは14の州から成り立っていますが、そのうち、9つの州には王様がおり、マレーシアの国王は任期が5年の輪番制になっています。国王になればたくさんの恩典があるため、国王になるのを熱望している王様が多いそうです。国王の権限は、日本とほぼ同等で、政治的権限はほとんどないそうです。ただし、各州とも王様の生活は税金で補われるため、不平も大きいそうです。


観光内容 宿泊地 歩数
1日目 朝成田を出発、夜遅くクアラルンプールに到着 クアラルンプール 9,043
2日目 クアラルンプール市内見学後、キャメロンハイランドへ キャメロンハイランド 6,522
3日目 キャメロンハイランド観光後、ペナン島へ ペナン島 7,457
4日目 ペナン島観光 ペナン島 15,614
5日目 オランウータン、ウミガメ村などを観光後、パンコールへ パンコール 12,196
6日目 パンコール観光後、クアラルンプールへ。途中、ホタル観賞 クアラルンプール 10,563
7日目 マラッカ観光後、クアラルンプール空港へ 夜行便 9,039
8日目 夜行便にてホーチミン経由成田へ 成田到着 1,616



         
1日目 成田からホーチミン経由クアラルンプールへ 
 
 マレーシアのクアラルンプールと成田空港はマレーシア航空の直行便でも結ばれていますが、今回選んだツアーは、ベトナム航空のホーチミン経由でした。
 出発は朝の9時30分ですが、成田からの添乗員は居ない格安ツアーです。成田空港に7時ごろ到着し、チケットを阪急交通社の窓口で受取り、各自、チックインです。幸い窓と通路の並びの2席を取ることが出来ました。手続き後、午前8時に出席者全員が集合し、ツアー会社の係員が、成田での出国手続き、ホーチミンシでの乗り換え方法、クアラルンプールでの入国方法、現地の添乗員との待ち合わせ場所などの説明がありました。参加者は18名でした。
 成田からホーチミンまでは6時間45分で、14時15分に到着しました。出発は16時30分で、乗り継ぎ時間は2時間15分あります。案内板に従い、クアラルンプールに行く搭乗口に進み、そこで出発を待っていましたが、何時まで経っても案内がありません。モニターを確認しても時刻通りの出発とあります。17時ごろになってようやく、出発が2時間ほど遅れるとの表示が出て来ました。さすがと言うか、ここはベトナムです。日本とはだいぶ違うようです。
 皆さん、旅慣れたような方ばかりでしたが、途中、一人でも迷って到着できないと、これからの旅に障害が出てしまいます。ツアー参加者の顔は成田であったばかりなので、お互い、まだよく顔が分かりませんが、確認し合うような感じで情報を交換し合いました。


 成田―ホーチミン間は、行きが6時間45分、帰りが5時間15分、ホーチミン〜クアラルンプール間は、行き、帰りともが1時間50分です。
 行きは成田を朝にたち、夕方、クアラルンプール到着と約1日掛りますが、帰りは、クアラルンプールを夕刻にたち、成田到着は朝の7時30分と時間を有効に使う事が出来ます。


 ホーチミン空港での搭乗口です。何時まで経っても出発案内がありません。
 出発時間を過ぎても、案内モニターは予定通りと表示されています。別の便が幾つも出て行きました。


 結局のところ、2時間遅れてクアラルンプールに到着し、そこでツアーガイドさんが全員を確認し、バスでクアラルンプールのホテルに向かいました。ホテル到着は11時半ごろでした。
 マレーシアはイスラムの国なので、お酒はどうなのか、興味がありました。ホテルに到着後、お酒を飲もうと部屋を出てみましたが、ホテル内のラウンジは、音楽がガンガンなっていてうるさいので、隣の大衆食堂の様なところへ行ってみました。
 食堂は、歩道にまで椅子を出し、道路と部屋の間にはドアもありません。さすがに南国です。たくさんの人が、歩道におかれたテーブルでビールを飲んで居ました。半分以上の人が飲んでいるのには驚きました。
 マレーシアでは、お酒類の生産は禁止されており、全て輸入品です。ビール大瓶が13リンギッド、約500円でした。こちらの物価と比較すると高いのかもしれませんが、良く売れているようでした。



       
2日目 クアラルンプール市内観光後、キャメロンハイランドへ

 今日から観光の始まりです。午前中はクアラルンプール市内の見学です。



クアラルンプール
 
 クアラルンプールは、マレーシアの首都で、人口は約180万人と、比較的少ないのですが、東南アジアでは、シンガポール、バンコックについで、第三番目にランクされています。
 東南アジアの各首都を見てきて、この町を歩くと、まず驚くのが清潔さです。ゴミがほとんど落ちて居ません。なお、この清潔さは、クアラルンプールに限らず、今回訪問したペナンやマラッカなど、総じて、どこも清潔でした。



観光バス
 
  これから帰るまでの丸6日間、このバスでマレーシア国内を移動します。運転手はインド系の人で、ツアーガイドさんは華人系です。
 バスの内装の派手さには驚きましたが、フィリッピンのバスを思い出しました。ただし、フィリッピンの方が上手です。
 参加者は18名なので、1人で2人分の席を使用できました。




王宮
 
 まずは王宮の見学です。門の前には衛兵が立っていて観光の名所にもなっています。内部には入れませんでしたが、かなり広そうです。この王宮は錫で成功した中国人が建てた邸宅でしたが、日本軍による占領時には社交クラブとして使われたこともあるそうです。
 イスラムの王はスルタンと呼ばれ、マレーシアの国王は9つの州のスルタンから5年ごとに選ばれる制度となっています。
 国王の政治的権限はほとんどありませんが、学校や会社の玄関に肖像が飾られたり、とにかくマレーシア国を象徴する立場ですので、どのスルタンも国王になるのが望みだそうです。国王はスルタン間の選挙で選ばれますが、順番が決まっているそうです。
 マレーシアの人口は2,700万人ですから、300万人で1人の王様を支えていることになります。国民から、不満の出ないような行動も必要だそうです。



国立モスク

 マレーシアの国教はイスラム教と法律で定められており、それがゆえに国立モスクが幾つもあるそうです。クアラルンプールの国立モスクは1965年に建てられ、ミナレットの高さは73mもあります。
 モスクはかなり近代的で、ヨーロッパで見た歴史あるモスクに比べ、なかなかやるなという驚きを感じます。
 総工費は1000万ドルだそうです。日本の建物に比べると、その建築費は非常に安いと思いますが、地震や台風がないためでしょうか。
  信徒でない女性は、黒いスカーフか、紫色のマントを入口で借りて入ります。



独立広場
 1957年、イギリスの統治から独立し、その宣言をこの広場で行いました。
 ここはイギリス人の憩いの広場だったそうで、サッカー場の様な広い芝生と、イギリス風の建物があります。道路を挟んで由緒ありそうな綺麗な建物があります。博物館と書いてありました。時間があればゆっくりと中を見学したいものです。
 なお、マレーシアはいろいろな国から支配された歴史を持っています。
 1400年頃、マラッカ王国が設立されますが、その後、ポルトガルやオランダに占領され、1795年頃からは主にイギリスに支配されています。第二次世界大戦の1941年から1944年までは日本が支配していますが、その後再びイギリスが統治し、1957年、独立しています。1965年にはシンガポールがマレーシアから別れ、独立しています。



高層建築群
 
 マレーシアには地震も台風も津波もなく、そのため、高層建築が容易に作れるそうです。ルックイースト政策の影響もあって、これら多くの高層建築は日本や韓国の建築会社により作られています。
 クアラルンプールの高層建築を代表するペトロナス・ツイン・タワーは452mの高さを誇り、1998年の完成から2003年までの5年間、世界最高の高さを誇っていました。このビルは日本と韓国の建築会社によって作られています。
 ガイドさんの話によると、高いからと言ってオフィスとしての効率が良い訳ではなく、あまり人気は無く、空室が多いそうです。ドバイの世界一のタワーでも、空室が多いのは同じ理由かもしれません。



光通信
 
 マレーシア市内の幹線道路に、光ファイバ通信の宣伝看板が建てられて居ました。どこかの電話会社の宣伝のようです。
 この国にも、光通信の時代がやってきたようです。
 なお、日本の大学を出たガイドさんの話によると、日本ではいったん就職すると、あまり会社を変えませが、マレーシアでは、少しでも待遇の良い会社を見つけると、簡単に移ってしまうそうです。その為、会社に技術が残らず、技術力を高められないのが欠点だそうです。従業員も同じで、昔、関連会社を訪問した時、作業者の技術力の維持が大変だと嘆いていたのを思い出します。
 



キャメロンハイランドへ
 
  キャメロンハイランドはマレー半島のほぼ中央の、海抜1800mのところに作られた避暑地で、紅茶をはじめ、高原野菜の栽培、花の栽培などとして知られています。この地は1885年、統治していたイギリスの国土調査官キャメロンにより見出され、地名はその名に因んで付けられました。現在は、高級別荘地としても知られ、たくさんのホテルやゴルフ場など作られています。
 この地はクアラルンプールから220kmのところにあり、高速道路の両側には延々とパームヤシの林が続きます。



 世界で生産される植物油の約3割は、このパームヤシの実を絞って作られており、インドネシアが 2,000万トン、マレーシアが1,800万トンと、この2国で全体の85%を占めているそうです。ヤシの油は、食用や燃料、変圧器用油などに利用されています。
 高速道路を出ると、バスは熱帯ジャングルの中のくねくねとした道を登って行きます。途中、原住民の部落が点在しています。電気もなければ、水道もないそうです。



お茶畑
 
 イギリスの影響で、20世紀初頭、この地に広大なお茶畑が作られました。静岡県のお茶畑も広いですが、この広さも相当なものです。アッサム種の高級紅茶だそうです。
 



食事
 ホテル近くのレストランで夕食です。朝食はバイキングですが、昼食と夕食は毎回、このような料理でした。中華料理店での食事もありましたが、中身はだいたい同じです。マレー系人の経営する食堂ではアルコールを置いていないので、お酒抜きの食事となります。夜もお酒のない時が数回ありました。
 マレー系の人は、豚肉を食べませんので、中華系の食堂には入らないそうですが、現地の人は子供のころからそういう習慣に慣れているので、特に問題はないようです。
 




        
3日目 キャメロンアイランド観光後、ペナン島へ


サボテン・バレー

 雨の多い熱帯にサボテンがあるのには驚きましたが、南国特有のたくさんの花が栽培されています。イチゴ、トマトなども作られていました。



朝市

 いろいろな野菜が売られています。観光地らしく、お客のほとんどは観光客でした。 



バタフライ・ガーデン

 約45種類の蝶、100種類の昆虫、その他、蛇などを見ることが出来ます。 




イポー市で昼食
 
 キャメロンアイランドを下ると、イポー市に出ます。そこで昼食でした。石灰岩でできた山には洞窟がたくさんあり、その周辺には、幾つものお寺が作られていました。



クアラ・カンサーのウブディア・モスク
 
 クアラ・カンサーはペラ州都で、伝統的なマレー文化が残る町として知られています。この町にあるウブディア・国立モスクは金色のドームとその両側には高くそびえるミナレットを持っています。1917年に作られています。
 信者以外は中に入ることが出来ません。



王宮

 
 モスクの近くにこの地のスルタン(王様)の屋敷があります。バスはその周りを一周し、その後、ペナン島へ向かいました。



東日本大震災
 
 ペナン島のホテルに到着すると、NHKのテレビを見ることが出来ました。東日本大震災の様子が映されていました。
 この時は、まだ、津波による死者が90名以上に達するという内容でした。クアラルンプールやペナン島でのホテルでは、NHKを見ることが出来ました。ただし、日本のチャンネルはNHKのみでした。




         
4日目 ペナン島観光

 今日は連泊で、1日かけてペナン島を観光します。
 ペナン島は南北約24km、東西約15kmのマラッカ海峡に浮かぶ大きな島です。本土とは14kmの有料道路で結ばれています。人口は約60万人とマレーシア第2の都市ですが、そのうち、70%は華人系で、マレーシアの中では最も華人が多い都市です。
 ペナン島の発展は、イギリスの東インド会社が1786年、この地を東南アジア進出の拠点として選んだことから始まりました。その後、この島全体が東インド会社に譲渡され、貿易の自由港として発展して来ました。従って、現在はたくさんの人が住んでいますが、わずか200年前は、ジャングルでした。
 以来、この島は、西洋、中国、インド、イスラム文化などが融合する町となりました。
 島の一角、ジョージタウンは、40万人が暮らす島の密集地帯であり、他民族が暮らしてきた歴史ある町として、2008年、世界遺産に指定されています。なお、ジョージと言う名はイギリス国王ジョージ3世にちなんでつけられました。イギリス風の建物もたくさんありまあす。
 ペナン島が2008年、世界遺産に指定されたマラッカと決定的に異なるのは、この街が外国の人たちによって築かれてきた点にあります。
  

 連泊したホテルは、島の北東部にあり、周りには幾つもの高層建築のホテルや住宅が建っています。
 このホテルに連泊でしたが、日本の地震が気になり、夜はテレビをずっと見ていたので、多少寝不足でした。
 各室に有線ランがありインターネットを無料で使用できました。結構高速で、日本とも繋がります。
 当初、子供たちは無事かなどメールのやり取りをしていましがた、パソコンでのNifty経由のメールがすぐに不通になってしまい、携帯電話のiモードによる連絡しか通信手段が無くなってしまいました。


 
極楽寺
 
 1890年から20年かけて作られたマレーシア最大の仏教寺院で、広大な敷地内にはたくさんの建物が作られています。
 この寺院の特徴は、中国、タイ、ビルマの3様式が混在する高さ30mのパゴダ(萬佛賓塔)で、下部が中国、中央部がタイ、上部がビルマ様式になっており、異文化が共存するペナン島独特の造りになっています。



ペナン・ヒル
 
 標高が692mのペナン島の真ん中に位置する小高い山で、山麓駅からはケーブルカーも出ています。ただ、現在は修理中で動いておらず、再開は、計画よりもすでに4カ月も遅れているそうです。マレーシアでは、納期厳守の概念がなく、遅れるのが当たり前で、日本とは大差だそうです。
 この山はハイキングコースとしても人気があり、歩くと2時間以上かかります。我々は、4輪駆動車で細い道を分乗して登りましたが、運転の荒いのには驚きました。
 頂上は涼しく、レストランもあり、眺望も素晴らしく、14kmもあるペナン大橋がはっきりと見えました。先ほど訪れた極楽寺がすぐ下に見えます。
 


トライショー
 
 午後は、世界遺産に指定されているジョージタウンを中心に観光します。まずはトライショーと呼ばれる人力三輪車にも乗りましたが、一般の人も、買い物、通勤、通学などに使うそう、立派な交通機関になています。従って、運転するには、許可が必要だそうです。混雑した道路で自動車に交じっての走りは、少しスリルがありました。
 



カピタン・クリン・モスク
 
 1801年、裕福なインド人のイスラム教徒により建てられました。建物はインドの伝統的なムガール様式だそうです。確かに、普段見るモスクに比べ、ミナレットも含め、独特な姿をしています。



クー・コンシー(邸公司)
 
 中国の福建省からやってきた、丘氏一族が設立した中国寺院で、地下は博物館になっており、丘一族の歴史が飾られていました。
 入口の階段を登ると、笑みを含めた像や苦しんでいる像が置かれ、人生、楽あれば苦ありを現していました。中に入ると、いろいろな人生訓が飾られており、子供には釣った魚を与えず、釣竿を与えよと言う絵も飾られていました。
 子供を持つ両親に手当としてお金を与えてはいけない、その代わり、子供に勉強する場を与えよ、と述べています。日本の様な子供手当はするな、と、ここでは述べています。



マハ・マリアマン寺院
 
 1883年に建てられたヒンドゥー寺院で、かなり鮮やかな色をしています。この近くにはインド人街が続いています。


 街を歩いていると、新聞は日本の津波を大きく報じていました。子供が我々が日本人だとわかると、SENDAI, SENDAI と呼んでいました。この時はまだ原発の被害は報じられて居ませんでした。



観音寺
 
 ペナン島に入植した広東人と福建人によって1800年代に建てられた、ペナン島最古の中国寺院で、現地の華人が熱心にお祈りをしていました。



セント・ジョージ教会
 
 1818年に建てられた、東南アジア最古のイギリス式教会です。鍵が閉まっていて、中には入れませんでした。
 道路を隔てて、白亜の高等裁判所があります。



コーンウォリス要塞
 
 1876年、イギリスの東インド会社はこの島を東南アジア進出の拠点として選び、ここには、事務所や礼拝堂が作られていたそうです。コーンウォリスは東インド会社の総督で、この要塞には、その名が付けられています。



        
5日目 ペナン島からパンコール島へ
  
  再び、ペナン大橋を渡り、今日はリゾートアイランドとして名高いパンコール島に向かいます。パンコール島はペナン島とクアラルンプールのちょうど中間近くにあります。相変わらず、パームヤシ林が続きます。



オランウータン保護施設観光
 
 オランウータンしか住んでいない島に船で行きます。そのため、人間が檻の中を歩くようになっています。オランウータンは類人猿で、サルの仲間ではありません。すなわち、尻尾がありません。類人猿と人間のDNAの差は非常にわずかだそうです。
 ここではオランウータンの赤ちゃんにオムツを付けて育てていました。
 なお、類人猿には、チンパンジー、ボノボ、ゴリラなどもいます。人間に一番近いのはチンパンジーで人とのDNAの差は2%だそうです。
 チンパンジーは群れをつくり、木の上と地上の両方に住みます。序列もはっきりしています。喜怒哀楽を顔で表現します。
 ゴリラは霊長類最大の動物で主に地上で生活します。一夫多妻制で10頭前後で群れを作っています。
 オランウータンは群れを作らず、声を出しません。一生のほとんどを木の上で暮らし、ボルネオとスマトラ島など熱帯雨林に生息しています。ゴリラやチンパンジーの毛は短いのに比べ、茶色で長めです。雨林に住むのに適しておりカッパの役目をするそうです。
 オランウータンは木の上に暮らすため、手の指は長めで、地上に暮らすゴリラの指の長さは人間に似ています。
 オランウータンは争いを全くしません。食べ物を与えると、分け合って食べます。ただし、メスと交尾できるのは頬にフランジというでっぱりがある雄だけで、メスはそのフランジに惹かれるのだそうです。このフランジは雄の力の強さを示し、フランジの無い雄は弱いとみなされるようです。
 



ウミガメ保護センター

 海の近くにウミガメ保護センターがあり、その生態などの観察しています。 


 
パンコール島へ
 
 パンコール島は沖合11kmの所にある小さな島で、政府指導によって作られたリゾートの島です。自転車を借りれば、簡単に一周出来そうです。島の周囲にビーチが整備されています。



ホテルに到着
 
 ホテルはフェリーの船着き場の近くにあり、ホテルの専用バスが迎えに来ていました。南国を思わせる素晴らしいリゾートホテルです。



 このホテルでは、残念ながら、日本のNHKは入らず、もっぱらBBCで災害状況を見て居ました。CNNも入りませんでした。
 BBCでは、時々リビアの状況を流していましたが、それ以外は、ほとんど日本の災害情報でした。
 NHKとBBCの違いは、BBCが、地震はどのようにして発生するか、高層建築はどうなるか、津波の発生のメカニズムなど、初歩的な話と、日本の被害状況を映像で何度も何度も流していました。一方、昨日見たNHKでは、地方の死者の数など、細かい放送が多く、どちらかと言うと、津波の怖さなど、全体像はBBCの方が良く分かりました。



      
6日目 バンコール島からクアラルンプールへ

 午前中はゆっくりとパンコールホテルで、リゾート気分を満喫しました。
 朝食後、海辺を歩いていると、何人かが集って、網を引いていました。運動のため、その中に加わりました。

 

 ホテルに併設して、ゴルフ場があります。今朝は誰もプレーしていないので、ゴルフ場の中を歩いてみました。3ホールしかないリゾートコースですが、はかなり荒れていました。
 南国特有の花が咲き乱れ、グアムで過ごした10日間を思い出しました。



ホタル鑑賞
 
 南国では、太陽が沈むとすぐに真っ暗になります。4名ずつ船に乗り、船頭さんが櫓をこぎ、船はゆっくりと川辺りを進んで行き、船からホタルを鑑賞します。
 一本の木に数百匹ぐらいのホタルが居るようです。最初、ホタルを見た時に、同じ船に乗っていた人が、これは人工のイルミネーションで、きっと先に行くと本物が居るのよ、とか言っていました。私も、そうかもしれないな、と思ったほどでした。
 面白いことに、ホタルは、お互いに同期しながら、一斉に光るので、クリスマス用のイルミネーションかと思ってしまいます。
 この様にたくさんのホタルが光るのは、初めての経験でした。まさに感動的でした。このたくさんのホタルが光る様子を見ながら、船は約15分も進むと、Uターンして反対側の川辺に行き、ゆっくりと船着き場に戻りました。
 まさに、驚きのほたる観賞でした。



      
7日目 マラッカ観光後、夜行便にて成田へ


マラッカ
  
 マラッカ(ムラカ)がどこにあるかを知らなくとも、マラッカ海峡と言う言葉は、何度か聞いたことがあります。 
 マラッカはマラッカ海峡のほぼ真ん中の海に面した港町です。
 14世紀、対岸のスマトラ島から内戦で追われた王子パラメスワラがここに王国を建設しました。
 マラッカに住む人の3割以上は、中国系にルーツを持つと言われ、多彩な民族の住む街として知られています。
  

 15世紀、この地にはマラッカ海峡に吹く季節風を利用し、たくさんの貿易船が訪れ、海上のシルクロードになっていました。そして、中東からもたらされたイスラム教がマラッカ王国に強い影響を与え、王国はイスラムを信仰するスルタンとなりました。マレーシアのイスラム教はここから広がったと言われています。
 アジア侵略をめざす西欧諸国は、このマラッカに注目し、16世紀の初め、ポルトガルがこの地を支配したのをはじめ、17世紀にはオランダが、18世紀後半からはイギリスが150年以上にわたって支配して来ました。海外からやってきた男性と現地の女性の間に生まれた子供やその子孫はプラナカンと呼ばれ、様々な民族が寄せ集まって暮らす町です。
 ゴム農園で財を築いたタン・チェン・ロックは40代で中国系を束ねる政治集団のリーダーになりました。そして、一つの国、一つの民族、一つの政府を訴え続け、民族の懸け橋として奔走しました。常に強調したのが、それぞれの民族が、文化の独自性を守ること、そちて、お互いを思いやることでした。
 この努力が、1957年、マラヤ連邦の独立で実を結びました。その功績を讃え、亡くなった時は国葬で送られました。異なるものを排除しない、他人との間に壁を作らず、誰とでも友達になる。そういう生き方が重要だと述べています。(NHK世界遺産より)
 このマラッカには、東西貿易の要として栄えて来ましたが、外国支配の歴史を示す史跡もたくさん残されており、2008年、世界遺産に指定されています。



マレー鉄道
 
 最初のマレー鉄道は1885年、スズを運ぶために作られ、その後、天然ゴムを運ぶために作られ、現在は北のタイ国から南のシンガポールまでをつないでいます。ただし、今だ単線のため、運行の遅れは日常化しており、時間の信頼性はあまりないそうです。
  今回の旅でも、バスが私たちの荷物をクアラルンプールからマラッカで運び、そこで、列車での到着を待っていましたが、高速道路を使用するバスの方が、時間も正確で早いようです。
 今まで使用していたバスに乗らず、わざわざ鉄道でマラッカまで行ったのは、旅行社がマレー鉄道に乗るのを売りにしているのかも知れません。乗ったのは2等車でしたが、特急電車らしく、座席は日本の列車とほぼ同じでした。
 なお、クアラルンプール鉄道駅は、まるで空港の様な雰囲気です。案内板には日本語表示もされています。



マラッカ市内の人力車
 
 マラッカ市内に入ると、何台もの人力車が、いろいろな国から来た人たちを載せ走っていました。マラッカが世界遺産に指定され、観光地としても、発展しているようです。



チャイナタウン
 
 狭い道路に面して、幾つものお寺が作られています。この地域には、ほんの数十mの所に、中国のお寺のほか、イスラム教のモスクやヒンドゥー寺院もあり、多くの民族が隣り合わせながら暮らしています。日本人がお寺や神社にお参りするように、ここでは、いろいろな寺院にお参りするそうです。異教徒が隣同士に暮らしていると、いろいろな寺院でも手を合わせるのが、仲良く暮らす原点なのです。
 宗教は微妙な問題で、お互いがその問題を避ける知恵を持っているそうです。竹島問題も、尖閣諸島問題も、いわば、どうしようもない微妙な問題で、お互いに知恵を出し合い、深入りしないのが仲良く暮らす最善の策であるのと同じです。
 なお、イスラム教徒は豚を食べないため、中国系の食堂へは入らないそうです。
 

オランダ広場
 
 オランダが支配していた頃の名残を残すオランダ広場はマラッカ観光の拠点となっています。中央のムラカキリスト教会は1735年、オランダ統治時代に作られています。なお、その近くの噴水は18世紀後半からここを支配するようになったイギリス人によって作られました。
 


マラッカタワー
 
 回転しながら、80人乗りの冷房キャビンが110mのタワーに昇って行きます。約15分で頂上に到達するそうです。
 2008年に作られ、マラッカの新名所になっています。



セント・ポール教会
 
 小高いセント・ポールの丘の上に壊れたままの教会が残っています。この教会は16世紀、ポルトガルが支配していた頃の宣教師たちの活動の拠点でした。日本人にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの遺骨は、ここに9ヶ月間安置され、後にインドに移されています。
 



サンチャゴ砦
 
 1511年、オランダ軍との戦いに備えるため、ポルトガル軍によって作られました。当時のヨーロッパにおける東洋進出競争が偲ばれます。



 遊覧船に約30分ほどのり、船から、マラッカ観光です。さすが南国です。




クアラルンプール空港へ

 
 全ての観光を終わり、マラッカからバスでクアラルンプールの空港へ向かいす。パームヤシ林が高速道路の両側から見えます。
 この新しいクアラルンプール空港は、黒川記章が「森の中の空港、空港の中の森」というコンセプトで全体像を設計し、メインターミナルを大成建設が、サテライトを竹中工務店が施工しています。
 帰りもベトナム航空で、予定通り午後8時20分に出発し、ホーチミン到着は9時10分でした。飛行時間は1時間50分でしたが、ビールやワイン、夕食が出ました。



       
8日目 成田到着

 予定通り、成田空港には、朝7時半に到着しました。
 飛行時間はわずか5時間15分で、寝る前のお酒や、朝食も出だので、あまり寝なかったかもしれませんが、年を取ると睡眠時間は短くなるので、特に問題はありませんでした。
 成田に到着し、駐車場に預けておいた車で自宅に向かいましたが、どのガソリンスタンドも閉まっていました。帰る途中、1軒だけ開いているスタンドがありましたが、長蛇の列でした。普段なら、がらがらの道です。幸い、私たちは、まだ充分のガソリンが入っていたので問題はありませんでした。
 自宅に到着後、家の中の状態を見てみましたが、ワインの瓶や、花瓶が落ちていた程度で、被害は特にありませんでした。
 帰ってからは、毎日、テレビに釘付けになっていますが、日本人がかって経験した事のない最悪の事態です。
 天災と人災の二つが同時発生したこの経験は、これから数千年、子孫に末永く語りつながれることになるでしょう。






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