孫たちと沖縄で9日間ゆっくり
今年の5月の連休は例年になく大型なので、子供夫婦と孫たちと一緒に、沖縄でゆっくりと過ごしました。
残念ながら、沖縄はいつもより1週間も早く梅雨に入ってしまいました。9日間、毎日、雨に降られました。 |
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1日目 沖縄に到着、ホテルへ
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那覇に到着後、予約しておいたレンタカーでホテルに向かいました。人数が多いので7名乗りの小型車です。
ホテルは空港と那覇中心街の中間にあり、電車までは500mぐらい離れています。 |
ホテルは、子供たちが畳の部屋で、私たちはベットルームで、その間はふすまで遮るようになっています。
部屋に入ると、宿の人が子供のためにたくさんのおもちゃを用意しておいてくれました。
LANケーブルが用意されており、インターネットを無料で使う事が出来ました。 |
2日目 首里城など観光
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沖縄に来たら誰でも行く首里城の見学に全員で出かけました。私はこれで4度目の首里城見学でした。
首里城が作られたのは14世紀ごろといわれています。その後、1406年、尚巴志が琉球王国支配のための居城としています。
1879年、最後の国王、尚泰が明治政府にこの城を明け渡すまで、約500年間、琉球王国の政治・外交・文化の中心として栄華を誇って来ました。
1945年の沖縄戦で灰燼に帰した首里城は、1992年、沖縄の本土復帰20周年を記念して復元されました。現在は沖縄のシンボルとなっています。
2000年に日本として11番目に世界遺産に登録されています。 |
首里城
沖縄県平和祈念資料館
資料館は沖縄のほぼ最南端に作らています。この辺りは、最も激しい戦闘が行われたところで、復帰後昭和47年から都市公園として本格的に整備が開始され、昭和50年に祈念資料館が開館し、昭和53年に平和祈念堂が開堂されています。
沖縄戦では軍民合わせ24万人余の人名を失いましたが、この資料館は、この悲惨な実相および教訓を後世に正しく継承するよう作られました。 |
ひめゆりの塔
沖縄戦の末期、この地に沖縄陸軍病院第三外科が置かれ、ここに学徒隊として従軍していた「ひめゆり学徒隊」にちなんでいます。爆弾の降る中、病院の壕に隠れた先生や生徒
96名のうち、87名は手榴弾などの攻撃を受け亡くなり、逃げ出した3名も死亡し、生き残ったのはわずかに生徒5名だけでした。
後に、小説に書かれ、戯曲や映画が制作され、良く知られるようになりました。
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3日目 守礼カントリークラブでゴルフ、その後、
斎場御嶽(せーふぁうたき)観光 |
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沖縄でもゴルフをしようと計画し、インターネットで申し込んでおきました。今日は家内と2人での行動です。 |
守礼カントリークラブ
那覇から30分程度の所にあるゴルフ場で、山を削って作られた極めてトリッキーなコースです。その分、大変すいていました。18ホールを続けてプレーしますが、8時半にスタートし、午後1時ごろに上がることが出来ました。 |
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守礼カントリーの近くに、世界遺産に指定された斎場御嶽があるのでゴルフの後に行ってみました。
斎場(せーふぁ)とは最高を意味し、御嶽(うたき)は沖縄の信仰における祭祀などを行う施設を意味するそうです。15世紀から16世紀にかけて、琉球王国の最高の御嶽として使用されたとしています。
当時、琉球王国は聖地をたくさん作り、祭祀を行っていました。いわば、神話に基づく幾つもの聖地でした。
駐車場が一杯なので、遠くに車を停め歩いて帰る時、タクシーが寄ってきて、乗りませんかと勧められました。その時、運転手さんが、「何もなかったでしょう」、と言っていました。確かにそうかもしれません。
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4日目 世界遺産に指定された遺跡などを見学
孫たちは遺産観光よりは、すべり台やブランコの方が楽しいので、今日は家内と二人での世界遺産観光です。残念ながら、一日、雨のようです。 |
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2000年に首里城をはじめ、幾つもの遺跡が世界遺産に指定されました。
左の図は沖縄の世界遺産や高速道路などの地図です。
沖縄の高速道路は無料化社会実験中で、全て無料でした。3月終了予定が6月まで伸びたそうです。助かりました。 |
中城(なかグスク)城跡
沖縄には300余のグスクがあるそうです。それらの中でも、この中城城跡は遺構が一番良く残っていることで知られています。
このグスクは1440年、読谷の座喜味グスクから移ってきた護佐丸によって完成しています。
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13世紀-14世紀に茂知附按司により築城されたといわれています。この城の最後の城主が阿麻和利で、阿麻和利はクーデターを起こしてこの地方の按司となり、琉球の統一を目論んだが1458年に琉球王府によって滅ぼさています。
標高約100mの丘陵に作られています。入口近くはまだ復元の途中でした。 |
海中道路を通り、伊計島へ
約5kmある海中道路は沖縄の東にある平安座島、宮城島、伊計島、浜比嘉島を結んでいます。橋ではなく、海の中に作られて道路で、通行量は無料でした。平安座島は島全体が石油基地になっており、そのスケールの大きさには驚きます。伊計島にはビーチや遺跡などがありました。 |
このグスクの規模は首里城と匹敵するそうです。近くに歴史文化センターや、沖縄のグスクなどを紹介しています。ボランティアさんがたくさんいて、頼むと私たち2人のため約30分かかって案内してくれました。残念ながら、雨がかなり強くなってしまいました。
城の中にはたくさんの拝所があります。
この城は13世紀ごろから造りはじめられたといわれています。
中国の史書によると、14世紀ごろ、沖縄は三山時代で、北部地域の北山、中部地域の中山、南部地域を南山とに分かれており、この今帰仁城は北山に属し、主に中国と交流していましたが、1416年、中山の尚巴志(しょうはし)によって滅ぼされ、北山地域の監守の居城となりました。しかし、1609年、薩摩軍による琉球侵攻により城は炎上してしまいました。それ以来、この城は御嶽としての役割を果たすことになりました。 |
現在の水族館は沖縄復帰30周年に遇わせ、2002年に開館し、世界最大級の水族館です。毎年の入場者はこのところ、260万人を越えており、首里城への入場者よりも多く、沖縄を代表とする観光施設になっています。
この水族館は、沖縄海洋博公園の中にあり、駐車場も無料で、このイルカショーも無料で見ることが出来ます。
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水族館は当然ながら有料です。
大水槽のアクリル板はギネスブックにも載った世界一のサイズでしたが、2008年、ドバイの水族館に抜かれています。
朝早かったのにかかわらず、館内は歩けないほど、人でいっぱいでした。ただ、帰りにもう一度覗いてみると、それほど混んでは居ませんでした。皆さん、朝、早く来るようです。 |
この公園の中には、海水浴が出来るよう、脱衣場、ロッカー、監視台などが整備されていました。 |
6日目 識名園見学
琉球王最大の別邸で、国王一家の保養や外国使臣の接待の場として利用されました。18世紀の終わりごろに作られています。首里城の近くにあります。
識名園は、池の周りを歩きながら景色を楽しむ「回遊式庭園」になっています。同じような回遊式庭園は日本の諸大名が競うように造っていますが、識名園は中国風を取り入れるなど、琉球独特の工夫が見られます。
この識名園は大戦によって壊滅的に破壊されましたが、1975年から約8億円と約20年の歳月をかけて再建されています。2000年に世界遺産に指定されています。 |
座喜味(ざきみ)城跡
築城家として名高い武将・護佐丸(ごさまる)によって、15世紀初頭に築かれた城跡です。屏風にも例えられる曲線的な城壁が特徴で、その美しさは数ある城跡のなかでも秀逸です。入場は珍しく無料でした。 |
辺戸(へど)岬
沖縄北端の岬です。雨が強く残念でした。名護市あたりから約2時間のドライブでした。
沖縄の東側の道路で戻る
名護市からの北はほとんどが原始林で、米軍基地もたくさんあり、ダムもたくさん作られています。住んでいる人は非常に少なく、現在は過疎地になっているそうです。働き場所がなく、農地もないので、若者は那覇市や名護市などに行くか、本土へ出て行ってしまうそうです。
最近よく話題になる辺野古も寄って来ましたが、閑散としていました。 |
家内が一句作りました。「青田風村墓結ぶ畔の道」
8日目 アメリカ村 国際通り 観光
美浜アメリカンビレッジ
遊園地とショッピングセンターを兼ねた大きな敷地で、展望台に乗ったりし、数時間遊びました。
国際通り
夕食を食べに、モノレールを使って国際通りに出かけました。食事は中央市場に二階でした。
あっというまの9日間でした。
沖縄と言えば泡盛です。ホテルに帰ると、入口に無料の試飲用泡盛が置いてあり、JALのラウンジにも泡盛が置いてありました。 |
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