南米三カ国周遊14日間の旅

         (ブラジル、アルゼンチン、ペルー)


2011年6月11日(土)〜6月24日(金)

阪急交通社 トラピクス


 南米は遠いから、元気で歩けるうちに行っておいた方が良いよと、友人などからよく言われます。確かに遠く、小学生の時、地球の反対側の国はアルゼンチンだと教わったことがあります。従って、今回行けば南米はこれが最後だろうと思い、14日間と比較的長い、ブラジルとアルゼンチン、ペルーの三カ国を訪ねるツアーを選んでみました。
 ただ、ブラジルを訪ねても、リオデジャネイロとイグアスを訪ねるだけで、その上、リオデジャネイロでは、海岸を歩いたのと、ケーブルカーに乗って、高台に登っただけで、ブラジルを見ると言う事には程遠いものがありました。アルゼンチンでも、ブエノスアイレス市内を数時間観光しただけでした。
 しかし、イグアスの滝や、ペルーのマチュピチュなど、テレビで何度も見たことのある風景を実際に見ることが出来て、ほぼ、満足する旅になりました。
 今回のツアーでは24名限定となっていましたが、参加枠いっぱいの24名で、内訳は夫婦が5組、母親と息子、娘の3人組、姉妹が1組、一人参加は男性5名、女性4名でした。一人参加が多かったのはおひとり様参加歓迎ツアーと明記されており、一人で参加しても追加料金がそれほど掛らないようになっていたためかもしれません。 
 
下は飛行ルート図です。いずれにせよ、南米に行くにはアメリカ合衆国経由となります。今回は行きにニューヨーク、帰りはロスアンゼルス経由でした。


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 再生速度は右下の3つの点を押して早くしたり遅くしたりすることが出来ます。



月日 観光内容 宿泊場所 歩数
1 6月11日 成田出発。ニューヨーク乗り換え 機中 3,017
2 6月12日 ブラジル、リオデジャネイロ到着。観光 リオデジャネイロ 6,408
3 6月13日 リオデジャネイロ観光ごイグアスへ イグアス(ブラジル側) 6,958
4 6月14日 イグアス観光。終日 イグアス(ブラジル側) 15,490
5 6月15日 イグアスからブエノスアイレスへ。着後市内観光 ブエノスアイレス 7,029
6 6月16日 ブエノスアイレスからペルーのリマへ移動 リマ 4,646
7 6月17日 リマ市内観光 リマ 10,086
8 6月18日 リマよりクスコへ。クスコ観光後ウルバンバへ ウルバンバ 16,904
9 6月19日 マチュピチュ観光。終日 ウルバンバ 12,263
10 6月20日 ウルバンバからプーノへ移動 プーノ 6,875
11 6月21日 チチカカ湖、シルスタン遺跡観光。その後リマへ移動 リマ 9,521
12 6月22日 ナスカとパルパの地上絵観光。深夜便でロスアンゼルスへ リマ(午後出発まで) 6,547
13 6月23日 ロスアンゼルス到着。成田へ 機中
14 6月24日 成田到着



           
1日目 成田を夕刻発ち、ニューヨークへ、
               その後、リオデジャネイロへ

 成田の出発時間は17時50分と夕刻です。AA(アメリカンエアライン)でニューヨークを経由し、最初の目的地、ブラジルのリオデジャネイロに向かいます。
 驚いたことに、AAのエコノミークラスでは、お酒が有料で、飲みたい人はカードを使用して買うのだそうです。確かに、お酒を飲まない人も飲む人も同じ料金なのはおかしいのかも知れません。航空料金を安くし、その分、飲みたい人はお金を払うのが合理的なのでしょう。ヨーロッパでは、すでに国際便でも有料になるのが多くなっています。ただ、何か、だんだん世の中が世知辛くなってきている感じがして、寂しさをを感じます。
 今年もJALからワンワールドのエメラルドクラスの会員証が送られてきているので、ワンワールド加盟の航空会社なら、ビジネスクラスラウンジを2名まで無料で使用できます。成田では、JALもしくはAAのビジネスラウンジを使用できるそうですが、成田のJALのラウンジは素晴らしいので、今回はJALのラウンジを使用しました。ラウンジでたっぷりとお酒を飲み、機内ではセーブです。
 離陸して間もなく、夕食になりましたが、お酒を注文した人はほとんど居ませんでした。わずかな金額ですが、有料にすると、ほとんどの人がお酒を飲まないのには多少、驚きました。
 ニューヨークまでの飛行時間は13時間で、到着は出発時とほぼ同じ17時55分でした。



ニューヨークのAAのラウンジ

 リオデジャネイロに向かう飛行機の出発時間は21時25分と、ニューヨークでは約3時間30分の乗り継ぎ時間がありますが、アメリカでは乗り継ぎでも入出国の必要があり、その為、結構時間をとられてしまいます。
 また、夜行便になるので、ここでお酒をたっぷり飲み、再び、リオデジャネイロに向けて出発です。
 飛行時間は10時間15分です。



      
2日目 ブラジルのリオデジャネイロに到着、その後、市内観光


リオデジャネイロに到着

 リオに朝の8時40分、無事に到着。いよいよ観光開始です。ところがここで荷物のトラブルです。かなり手荒に扱われたようで、トランクに傷が付いています。日本から一緒に来た添乗員さんが、「皆さん、荷物に破損がないかどうか、良くチェックしてください。」と言われ、調べたところ、傷を発見しました。言われなければ気が付かなかったかもしれません。荷物の破損は初めての経験ですが、私たち以外のトランクも、数個、破損が見つかりました。添乗員さんが破損の証明書を現地係員から書いて貰いました。
 後日談ですが、成田に到着後、添乗員さんがAA(アメリカンエアライン)のトラブル相談所に連れて行ってくれて、対処方法を教わりました。
 まず、自宅に到着後、所定の宅急便会社に電話をするとトランクを取りに来てくれて、修理して返してくれるとのこと、さっそく手続きを行ったところ、約10日後、すっかりピカピカになり戻って来ました。もちろん、全て無料でした。知らなければ泣き寝入りでした。
 

 今日はホテルの受け入れ準備が完了するのを待って、午後2時ごろホテルに入る予定です。そこで今迄の疲れを休め、午後7時ごろ、全員が集合し、夕食に行くことになっています。
 早速バスに乗り、市内観光です。バスは40名乗りなので、一人でほぼ二席を使用できます。今回の旅行では、ペルーの山岳道路以外は大型バスのため快適でした。



リオ・デ・ジャネイロ
 
 ブラジルではサンパウロに次ぐ第二の都市で、都市圏人口は1,200万人です。(なお、首都圏人口とはその都市の周辺を含めた人口で、ダントツの世界一は東京になっています。)
 1960年、ブラジルの首都がブラジリアに移動するまではこのリオデジャネイロがブラジルの首都でした。
 世界三大美湾といわれるコパカバーナ海岸やコルコバードのキリストの像は良く知られています。
 2016年のオリンピックはこのリオデジャネイロで行われ、2014年のFIFAサッカーワールドカップの最終戦も世界的に有名なサッカー専用スタジアム、エスタジオ・ド・マラカナンで行われることが決まっています。 



サンボドローモ

 リオと言えばカーニバルですが、2月もしくは3月のカーニバルはここで行われるそうです。現在はダイナマイトを使用した大規模改修中とのこと、内部の見学は出来ませんでした。



カテドラル・メトロポリターナ

 1976年に建設された、円錐形の高さ80mもある教会で、床の直径は100mもあり、収容人数は5000人だそうです。



コパカパーナ海岸

 約4kmに渡って弓なりに続くリゾート海岸で、世界三大美湾の一つとも言われています。
 ビーチバレーやビーチサッカーの世界大会の開催地としても知られています。
 さすがブラジル、南半球はちょうど真冬で冬至日近くに当たりますが、それでも泳いでいる人がいます。夏はさぞかし暑いでしょう。


 ホテルに2時ごろチェックインし、疲れた体を休めるよう、ひと眠りです。元気な人は市内見学に出かけたようでした。
 午後7時、参加者全員が集合し、ブラジル名物、シェラスコを楽しみました。いろいろな種類の焼き肉を次から次へと持って来ます。



付録 ブラジル

 

 ブラジルは南米大陸の約半分を占め、その国土面積は日本の約23倍で、世界第5位にあり、誰もが知るアマゾンの熱帯雨林を有しています。人口は1億9千万人で言語はポルトガル語です。GDPは約2兆900億ドルで世界第7位であり、イタリアやカナダ、オーストラリアより上位にあります。
 人種構成は、白人系55%、混血38%、黒人系6%、黄色人種1%と言われています。
 1500年にポルトガルの軍隊が入り込み、以来、この地をポルトガルの植民地としますが、ナポレオンに追われたポルトガル王室は1815年、ここに逃げて来て、王室を維持しました。ナポレオンが撤退し、ポルトガルが再び独立すると、王室は皇太子を置いてポルトガルに戻ります。その後、皇太子はポルトガルからの支配を嫌い、独立を宣言し、1822年に独立します。
 数年前、よく、BRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国など)という言葉が使われ、ブラジルは新興国として位置付けられていますが、GDPでみると世界7位で、中国が世界第2位、インドは10位、ロシアは11位といずれも世界的に重要な位置を占めています。
 ブラジルの特徴は、他のBRICs諸国と比べ、周辺諸国との紛争が無い事で、中国、インド、ロシアは核兵器を持っていますが、ブラジルは核兵器も所有しておりません。軍事力ではなく、WTOやIMFなど国際機関での発言力を強めようとしています。
 以前、ブラジルはハイパーインフレに見舞われ、1990年初頭には最高年率2400%にも達しました。
 私がサンパウロやリオデジャネイロを仕事で訪ねた30年前も、タクシーに乗ると料金メーター以外に料金換算表が置いてありました。料金は毎月のように上がるのだそうです。
 当時は自動車の燃料にバイオエタノールを使用しており、市内中、臭いがひどかった記憶もあります。今はエンジンの改良により、臭いは無くなったようです。
 当時、日本の多くの会社が、何らかの形でブラジルに進出し、合弁会社を作り、技術指導などもしていましたが、猛烈なインフレの中、どのようにして利益を出すのか、日本人にはまったく理解出来ませんでした。そのような状態の中、合弁会社は損失を出しても、ブラジル人はしっかりと収入を確保し、合弁会社は経営的にメリットが無くなり、結果的には、ブラジルから撤退してしまった会社が多かったようです。
 ブラジルは幾つもの試練を克服し、最近は日本の幾つもの証券会社がブラジルレアル債を勧めています。オリンピックやワールドカップの開催をひかえ、建築ラッシュが起こっており、レアル債の金利も非常に高いようです。ただし、インフレも年6%程度もあるそうで、レアルの価値が今後どうなるか、経済政策に注目が集まります。
 ブラジルは石油や鉄鉱石など豊富な資源を抱え、大豆の輸出は世界第二位で、コーヒーなども有名です。
 将来を見据え、中国や韓国などからの企業進出はかなり活発のようですが、過去の苦い経験を持つ日本の企業は、いまだ、静観しているのが多いようです。

           

3日目 リオデジャネイロ見学後、イグアスへ 

 左の2枚のGoogleの航空写真は、リオデジャネイロ市内です。
 今日は、午前中、登山電車でコルコバードの丘に登り、その後、ケーブルカーを2回乗り継ぎ、ポン・ジ・アスカールを観光します。
 昼食後、飛行機でイグアスに向います。




コルコバードの丘
 
 リオデジャネイロに行けば誰でも訪れたくなる見晴らし抜群の丘で、その頂には横一文字に広げたキリストの像が立っています。
 この像が建設されたのは1931年で、高さが30mもあります。標高は709mで、登山電車に乗り、約20分で到着です。その後、エレベーターとエスカレーターに乗り、頂上に到着します。
 30年前にも来ていますが、現地の商社の駐在員が案内してくれたため、どのようにして登ったのか記憶が定かでありません。


ポン・ジ・アスカール

 標高220mのウルカの丘と、標高396mのポン・ジ・アスカールを二つのケーブルカーが結んでいます。いずれも、鋭く突き出した奇岩で、そこからは先ほど登ったコルコバードのキリストの像も見ることが出来ました。


 昼食後、16時45分発の飛行機でイグアスに向いました。イグアス到着は18:40分でした。

        

4日目 終日、イグアスの滝 観光

 いよいよ、今回の旅のメインイベント、イグアスの滝の観光です。ホテルはブラジル側にあり、2連泊です。
 午前中はアルゼンチン側から、午後はブラジル側から見学します。



アルゼンチン側入園口

 アルゼンチンへの入国は極めて簡単でした。添乗員さんが全員のパスポートを集め、我々はバスの中で待機しているだけで済み、わずかな時間で全員がアルゼンチンに入国しました。
 8時30分発のトロッコ電車に乗り、終着駅の悪魔ののど笛駅に8時55分、到着しました。
 


  イグアスの滝の全貌を理解するのは容易ではありません。ブラジルとアルゼンチンの境界線を作るイグアス川は、ブラジル高原の水を集めて、かなりうねうねと曲がって流れています。イグアスの滝は鋭くUターンした幅の広い所にあります。その横幅はなんと、4kmもあります。滝から流れ落ちたイグアス川は、15km下ったパナラ川へと流れ込んでいます。
 滝の上流はアルゼンチン側から遊歩道が作られいて、滝の下流はブラジル側から遊歩道が作られています。
 滝の最大落差は80m、毎秒6万5000トンもの水量を誇り、世界最大です。滝は大小合わせると300もあり、船に乗らないと見ることが出来ないような滝もあります。
 ビクトリアの滝もナイアガラの滝もそうですが、毎年少しづつ後退しています。現在は鋭くUターンした幅が広いところにありますが、これからも後退し続け、また、狭いとこへ移るのでしょう。その時、人類が生存しているかどうかは定かではありませんが。
 
   悪魔ののど笛まで、約1.3kmの遊歩道が作られています。歩道橋の下の川は、少し下流で別の滝を作っています。
 かなりの水量です。
 



悪魔ののど笛
 
 轟音とともに、水は吸い込まれるように谷底へと落ちて行きます。ものすごい水しぶきです。たくさんのアマツバメが飛んでいます。



 再び遊歩道をもどり、トロッコ電車に乗り出発地に戻りますが、その途中で下車します。歩道橋の下を流れてきた川が、滝を作っています。



 アルゼンチン側の観光を終え、再びブラジル側へ戻ります。
 ブラジル側で昼食をとり、観光開始です。滝の下流から上を見上げる様に歩いて行き、最後はエレベーターに乗り、滝の上流に出ます。



 アルゼンチン側とは全く違った風景です。見る場所が全く違っています。川幅が4kmもあるのですから、一度に全部を見ることは出来ません。



 しばらく歩いて行くと、川の中にまで作られて遊歩道に出ます。ここからは、悪魔ののど笛を見上げることが出来ます。



 エレベータに乗り滝の上に出ます。遠くに悪魔ののど笛が見えます。 

 観光後、ホテルの戻りました。


       

5日目 イグアスからアルゼンチン、ブエノスアイレスへ

 今日はイグアスを離れ、アルゼンチンのブエノスアイレス観光です。


三国国境地点

 三国国境地点とは、ブラジル、パラグァイ、アルゼンチンの3つの国が接する場所で、イグアスの滝から15qほど下流にあります。


 場所を理解するために、同じような地図を下に記入してみました。
 イグアスの滝を作るイグアス川は、南米大陸を南に流れる大河パナラ川に比べると、地図ではわからないぐらい小さな川です。南米大陸がいかに大きいかが実感できます。



 朝の10時頃、バスで三国国境地点を訪ね、短時間ですが見学です。写真はアルゼンチン側から見た風景で、左がパラグアイ、右上がブラジルです。左上から左下にパナラ川が流れ、右側から左側に向かってイグアス川が流れています。
 人類が誕生する遥か前の大昔、イグアスの滝はこの場所にありました。パナラ川は大陸を鋭く削り取り、深い溝を作っていました。そこへイグアス川が流れ込んでいたため、滝が作られました。その滝は、毎年3mm程度後退し続け、15kmほど遡った今の場所まで移動して行きました。
 なお、ここからパナラ側上流14kmの所の巨大なイタイプーダムが作られており、その発電量は、中国の三峡ダムが作られた今でも、世界一の発電量を誇っています。この発電所は、ブラジルとパラグアイの共同運行されています。



ブエノス・アイレスへ到着
 
 イグアス発の飛行機は12:35発の予定でしたが、チリ火山の影響で出発が13:50に遅れ、ブエノスアイレス到着は15:30になってしまいました。でも、飛べただけでも幸運です。かなりのキャンセル便が出ていたそうです。
 飛行機からはブエノスアイレス名物のサッカー場を見ることが出来ました。
 

 到着が遅れたので、市内観光の時間が少なくなってしまいましたがやむをえません。
 100m道路を通り、コロン劇場のある広場で少し散策しました。コロン劇場はイタリア・ミラノのスカラ座に次ぐ世界第二の大きさで、パリのオペラ座を含め、世界三大劇場とも言われています。
 ブエノスアイレスが南米のパリと言われるのも、昔、移民たちが、ヨーロッパ風の街並みを作りたいという思いが実ったからでしょう。
 地球の反対側に、このような繁栄した町があるのには感激しました。
 アルゼンチンと言うと、フォールランド戦争や、アルゼンチン債のデフォルト、債務不履行と言う汚名があり、最近はどうなのか興味がありましたが、現在は大変繁栄しているようです。



レコレータ墓地

 150m四方の墓地には全部で6400の納骨堂があり、見事な装飾が施されており、芸術的な墓地として、世界的に知られているそうです。
 歴代大統領13名の墓をはじめ、ミュージカル「エピータ」で良く知られたペロン大統領夫人、エピータの墓もありました。



ポカ地区のカミニート

 アルゼンチンタンゴの発祥の地として知られています。カミニート(小路)に入ると、カラルフな家並みが続きます。この街づくりのアイディアは、ポカ生まれの世界的画家 キンケラ・マルティンのアイデアによるものです。昔、この辺りには男たちを相手にする安酒場やバーが密集しており、官能的なタンゴのステップはそのような中で作られたそうです。



付録 アルゼンチン



 
 アルゼンチンは日本から遠いものの、アルゼンチンタンゴとか、フォークランド戦争、アルゼンチン債のデフォルトなどは良く知られています。
 言語がスペイン語であることから分かるように、19世紀後半、ヨーロッパの人口過剰と移民政策が相まって、スペイン、イタリアを中心とするヨーロッパ各国から1200万人とも言われる移民が流れ込み、現在のアルゼンチンの形を作り上げました。その結果、人種構成は、スペイン系、イタリア系の白人が97%を占め、残り3%が白人とインディオの混血です。
 20世紀前半、2度にわたる世界大戦では物資の輸出拡大で利益を上げ、豊かな国へと変身しました。
 しかし、その後、軍政と民政が繰り返される不安定な政治情勢が続き、1982年、当時の軍事政権は解決の糸口を掴もうと、フォークランド戦争を起こしてしまいます。しかし、わずか2カ月あまりで降伏します。イギリスとアルゼンチンでは、経済力に圧倒的な差があり、いわば無謀な戦争でした。まさか、イギリスがまじめに攻めてくるとは思っていなかったそうです。
 その後、ブラジルと同じ、年率3000%を超えるインフレを経験したりし、経済は悪化して行き、2001年、とうとう債務不履行という最悪のデフォルトを起してしまいます。このデフォルトは、アルゼンチンペソ1ドル=アメリカドル1ドルという固定相場制を維持していたために起こったと言われ、仮に変動相場制にしていれば、ペソの価値が下落し、デフォルトは起さなかったであろうと言われています。2002年、変動相場制へと移行し、経済は何とか持ち直しつつあります。現在の1ドルは4ペソ程度ですから、変動相場制をとっていたら、借金の返済が1/4で済んだ訳です。
 現在、アルゼンチンは当時の借金を返済したと言っていますが、ペソの価値が25%となってしまっており、アルゼンチン債を持っていた人は大損したことに変わりはありません。
 現在のギリシャも、仮に自国通貨を持ち、変動相場制を取れれば、経済問題の解決は、今よりは容易だったと思われます。
 2007年10月には選挙により初の女性大統領が誕生しています。
 現在の人口は約4000万人で、GDPは日本の6%程度ですが、世界の20位ぐらいに位置しています。


      

6日目 ブエノスアイレスからペルーのリマへ移動

 今日の予定は、ブエノスアイレスからペルーのリマへ移動し、その後、バスでナスカまで行く予定でした。リマからナスカまではバスで8時間もかかる大移動です。
 そのため、ホテル出発は5時15分です。私たちは3時半ごろ起き、4時半から朝食をとり、荷物を出し、バスに乗車しました。ブエノスアイレス空港出発は8時45分で、リマ到着は11時45分の予定でした。時差が2時間あるため、飛行時間は5時間もあります。
 空港に到着し、出国手続きを済まし、出発ゲートで搭乗を待っていましたが、チリの火山灰の影響で出発が12時頃に変更されてしまいました。
 その間、私たちは、ビジネスラウンジで休んでいましたが、今度は機材不良により、さらに延期され、結局のところ、出発は16:05になってしまいました。なお、出国手続きをしてしまうと、もう、現地の添乗員はおりません。アナウンスはスペイン語で、さすがに日本から来た添乗員さんもどうしたものかいろいろと聞きまわっており、大奮闘でした。
 結局、無事にリマには到着しましたが、今日はわずか3枚の写真を撮っただけでした。参考までに掲載しました。



  
 リマに到着したのは19:10で、入国手続きなどしていると、午後の8時半を過ぎ、すっかり暗くなってしまいました。
 ここからナスカまでバスで8時間かかります。長距離なので運転手さんは2名いました。ここの空港で、すでに、だいぶ長い時間待っていたのかもしれません。
 今、ナスカに向けて出発すると、到着は朝の4時を過ぎてしまい、ほとんど睡眠をとらずに、ナスカの地上絵の観光になります。ナスカ観光の飛行機はすでに出発時間が決まっており、変更は出来ないそうです。
 我々は、今朝早かったこともあり、もう、結構疲れています。
 添乗員さんが、もし、疲れていてナスカに行きたくない方は、リマのホテルを手配しますから、無理をしないようにしてください、と言われ、希望者をとりましたが、誰も手を上げません。折角、ここまで来たのなら、もう一生来ないので、無理をしても予定通り地上絵を見ようと思ったのでしょう。私たちも、無理を承知で行くつもりでした。
 新しく乗車した現地の添乗員さんが、リマの事務所といろいろやりとりをし、結論が出るまで20分ぐらい掛りましたが、結局、スケジュールを大幅に変更し、今日は全員、リマのホテルに宿泊し、明日はリマ市内の観光とし、ナスカの地上絵の観光は、リマ市内の観光を予定していた最終日となりました。本当に助かりました。
 なお、飛行機の機材不良により出発が遅れたため、全員に、US80$が現金で配られました。遅れによりお金を頂いたのは初めての経験でした。


付録 ペルー



 
 ペルーは、面積が日本の3.4倍、人口は2,800万人、言語はスペイン語が主体で、人種は先住民が45%、先住民とスペイン人の混血が37%、ヨーロッパ系が15%、その他は3%となっています。比較的先住民の比率が多いのが特徴です。
 15世紀、ペルーのクスコを中心にインカ帝国が大いに栄えたが、16世紀、北から入ってきたスペイン人に滅ぼされてしまします。以来、19世紀の初頭までスペインの植民地としてその圧政に苦しめられます。そのため、南米各地に独立の機運が高まり、1821年、サン・マルティン将軍の元、独立派はスペイン王党派を破り、ペルー共和国が成立しました。
 その後、軍事政権や民政などが繰り返され、テロリストなどにより、国の発展は阻害されてしまいます。そのような中、1990年6月、アルベルト・フジモリ氏が日系人として初めて大統領に就任、テロ対策を徹底し、内政を安定させます。しかし、2000年、フジモリ第3次政権が発足して間もなく、フジモリ政権の独裁的強権体質への批判が高まり、フジモリ大統領は罷免されてしまいます。
 2011年6月、ケイコ・フジモリが大統領に出馬しますが、微差で負けてしまいました。しかし、依然として高い支持を得ています。
 GDPは世界の51位で日本の3%程度となっています。元フジモリ大統領の影響もあり、日本からいろいろな支援を得ています。
 1人当たりのGDPは世界84位と、日本の12%程度であり、貧しい国にランクされています。


       

7日目 リマ市内観光  

 急きょ、スケジュールが変更になり、今日はリマ市内の観光です。
 リマの人口は90万人とそれほど大きくはありません。ぺルーの海岸側に位置し、年間、ほとんど雨の降らない砂漠地帯にあります。ただし、東にアンデス山脈をひかえており、だいたい、何時も曇っていて、それが強い乾燥を防いでいるようです。

 下の3枚の写真はいずれもバスの中から撮ったものです。2重の鉄条網の様な塀に囲まれているのが日本大使館です。普通のHBSC銀行の前には警備員が警戒しています。
 1996年12月17日、天皇誕生日祝賀レセプションが日本大使館で行われていましたが、突然、テロリストにより占拠され、青木盛久駐ペルー大使をはじめ、大使館員やペルー政府の要人、各国の駐ペルー大使や日本企業のペルー駐在員など約600名が人質に取られました。
 その時のフジモリ大統領はただちに武力突入を検討しましたが、日本の橋本首相は平和的解決を願い、現地ではテロリストとの交渉に入りました。
 犯人たちは人質を少しずつ解放し、膠着状態に陥りましたが、フジモリ大統領の指示で、公邸の下までトンネルを掘り、4ヶ月後、ペルー特殊部隊が突入しました。突入は成功し、その時の人質72名中、71名を無事に救出し、ペルー側の死者は2名で、テロリスト14名は全員が射殺されています。
 その後、二度とこのような惨事が起こらないよう、日本大使館は現在の所に移され、写真の様な2重の塀を持つ、極めて厳重な大使館となりました。
 なお、2011年、6月5日、ペルー大統領選挙がおこなわれ、元フジモリ大統領の娘、ケイコ・フジモリとオジャンタ・ウマラが戦いましたが、わずか3%の差で、ケイコ・フジモリが負けてしまいました。町の中には今だケイコ・フジモリの顔写真が貼られていました。
 


マリア・ライヘ公園(ミラフローレス地区)
 
 ミラフローレス地区は、リマの中心からバスで30分程度の所にある新市街で、海岸沿いには高級住宅や公園などが作られています。旧市街地区の治安の悪さを嫌い、この地に移住してくる人が多いそうです。
 その一角に、大平原の母と言われるナスカの地上絵を発見したマリア・ライヘを記念した公園が作られています。
 ドイツ人の数学者マリア・ライへは1940年、初めてナスカにやって来ます。その後、何度か訪れているうちに、幅20cm程度の溝が動物を表していることに気付いたのです。地上絵のとりこになったライへは、私財をなげうち、粗末な部屋を借り、一人暮らしをはじめ、研究に没頭します。しかし、ある問題が浮上します。多くの地上絵が長年堆積した砂に埋もれかかっていたのです。そこでライへは箒で砂をはき出し、地上絵を守ろうとしました。それを見た現地人は、恐れをなして魔女だと言いふらし始めました。そのような中傷の中、ライへは新たな地上絵を発見します。それはサルの絵でした。そしてその絵が星座と一致していることを発見します。すなわち、地上絵は天体を観測する為に作られたと確信したのです。この発見により、地上絵は考古学的価値を見い出しました。
 しかし、1955年、危機が訪れます。ペルー政府がこの付近を農地にする計画を発表したのです。ライへは必死に地上絵の重要性を訴えました。彼女の熱意により、計画は中止されます。そして1994年、世界遺産に登録されました。
 それを見届けて、ライへはまもなく世を去ります。95歳でした。
 ライへは今、地上絵を望む大平原に眠っています。(NHK世界遺産100より)



恋人たちの公園(ミラフローレス地区)
 
 同じ一角にスペインの男女が抱き合った像のある恋人たちの公園があります。なにか、スペイン、バルセロナのグエル公園に似ています。
 ペルーの海岸地帯には雨が降らないので、緑を保つためには、水やりが欠かせないそうです。



天野博物館
 
 実業家・天野芳太郎がペルーの首都リマ市に私財を投じて1964年に設立した本格的なアンデス文化に関する考古学博物館です。
 入場料は無料で、日本から来ている女性が1時間ほど、内部を案内してくれました。ボランティアだそうです。
 内部は写真禁止でしたが、博物館のホームページに展示品の写真が掲載されています。
 インカ文明を生み出す元になったアンデス文化のたくさんの遺跡が保存されています。ペルーにこの様な日本人が居たことに驚きとその努力に頭が下がります。
 案内者によると、アンデス人のDNAは日本人のDNAと良く似ているそうです。氷河期が終わりシベリアと北米が陸続きであった頃、モンゴロイド人がペーリングを渡り北米に上陸し、されに南下し、ここにたどり着いたようです。
 相撲で分かるように、モンゴル人と日本人は同じ型のDNAを持っています。



サン・フランシスコ教会・修道院

 1546年から100年以上かけて建てられています。正面の装飾は見ごたえがあります。




サン・クリストバルの丘
 
 リマを一望できる丘で、頂上には高さ20m、幅7mの十字架が作られています。1928年の大地震により、以前の十字架は崩壊してしまいましたが、後に再建され、1997年にはクリストバル博物館が完成し、開館式には当時のフジモリ大統領が出席しています。山の中腹まで貧民街が続いていますが、少しでもペルーの印象を良くするよう、家にはペンキを塗るようにとの指令が出されてそうです。



昼食
 
 昼食は遺跡の上に作られたレストランでした。ここは幾らでも遺跡が出てくるのでしょうか。
 女学生が弁当を広げていました。皆さん、栄養状態は非常に良いようです。ペルー人はこの様な顔立ちなのでしょうか。言われてみると、日本人に似ているようにも感じます。


ベランダ

 ヨーロッパから移住してきた人の名残なのでしょうか。どの家にもベランダがあります。

 カラフルな建物が続きます。




アルマス(マヨール)広場
 
 ペルー政庁、リマ市役所、中央郵便局、カテドラルなどが広場に面してたっています。
 1535年、首都をクスコからリマへ移動すると決めたフランシスコ・ピサロはスペインのイベリア様式ののっとり、このアルマス広場を中心に築いて行きました。ちょうど、大統領らしい要人がたくさんのパトカーに囲まれて入ってきて、入口では歓迎式が行われていました。



カテドラル

 マヨール広場に面して建っています。この建物は南米きっての征服者、フランシスと・ピサロが自らの手で礎石を置いた、ペルーで最も古いカテドラルです。その日は1535年1月18日、リマ建都の日になっています。



国立人類学考古学歴史学博物館

 ペルーの文化、生活、食べ物などの博物館があり、ちょっと立ち寄りました。
 ペルーはアンデス山脈の影響で、気候、食べ物などが場所により、非常に異なっているそうです。
 全体を見るとかなりの時間がかかりそうなので見学したのはほんの一部分でした。



ラルコ・マル(ミラフローレス地区)

 海岸沿えに作られたレストランや数々のショッピングが楽しめる地区で映画館などもあります。
 夕食はこの一角のレストランで、民族舞踊も楽しむことが出来ました。


        

8日目 リマからクスコへ。クスコ観光後、ウルバンバへ 

 今日は、リマからクスコに飛び、インカ帝国の首都、クスコを観光し、その後、マチュピチュ観光のため、ウルバンバまで移動します。


インカ帝国とインカ文明

 今日訪ねるクスコは、今から500年ほど前に大いに栄えたインカ帝国の首都です。
 インカ文明は文字を持たず、クスコを征服したスペイン人は、街をことごとく破壊し、その上に教会などを作ったため、今だ良く分からない、謎の文明とも言われています。
 アンデス山岳に暮らす民族達は、5000年も前から広く分布し、異なる言葉を使い、独自のアンデス文化を作り上げて来ました。その中には、精巧な石組技術をもつ民族もいました。
 インカ帝国はアンデスに暮らす山岳民族の一つ、インカ族が15世紀の初めに台頭し、わずか50年の間に急速に拡大して誕生しました。北はコロンビア南部まで、南はチリの中部まで南北4000km以上におよび、東はアルゼンチンの北西部までに達し、最盛期には80の民族と、1,600万人もの人口を抱えていました。
 インカ帝国は道路網を拡充し、精巧な石組技術を教え、農地を増やし、農産物の効率的な生産方法を普及させ、民族たちを豊かにし、味方を増やして来ました。インカ帝国はわずか50年、3代でこの様にして繁栄させることに成功しました。
 この様に急速に拡大したもう一つの理由に、ミイラ文化があったと言われています。王が死んでも、それをミイラにし、以前の部下はそのミイラと共に暮らしました。インカ帝国の王たちは領土を拡大するためには、新たに自分で拡大する必要があったのです。インカ帝国はそれらたくさんの民族が比較的弱い繋がりを持つ連邦国家でした。しかし、その繁栄も100年余りで終わりました。
 フランシスコ・ピサロが率いるスペインの征服者たちがインカ帝国にやって来た時は、わずか168名の兵士と1基の大砲、27頭の馬という兵力でした。しかし、鉄砲を持ち、馬を駆使して戦うスペイン人は、戦いに洗練し、戦略的、技術的にも優れていました。インカ帝国は組織的な軍隊を持たず、鉄器が無いため、槍や刀もお粗末なものであったと思われ、士気もほとんどなかったそうです。その上、インカ帝国内部では、内部抗争が起きており、スペイン人たちはそれをうまく利用し、インカの統治から脱したい多くの民族の買収に成功していました。いわば、インカ帝国は異なる文化と出会った時の戦い方を知らなかったのです。
 ついにスペイン軍は皇帝アタワルパを捕え、釈放してほしければ、大部屋1杯分の金と2杯分の銀を提供するよう要求し、インカ帝国は国中から金銀を集め提供します。しかし、スパイン軍はその約束を破り、1533年、第13代皇帝アタワルパを処刑してしまいます。インカ帝国はついに、滅亡したのでした。その後、インカ帝国の残党により反乱、抵抗が起こりましすが、1572年、最後の皇帝トゥバック・アマルが捕えられ、クスコで処刑されて、インカ帝国は完全に滅亡してしまいました。
 征服後、スペイン人は街を破壊するとともに、インカ人に厳しい労役をかし、金銀山で働かせるなどし、インカ人の滅亡を図ります。キリスト教を信ずるスペイン人にとって、ミイラを信仰するインカ人は脅威でした。しかし、ヨーロッパからもたらされた天然痘が壊滅的な打撃を与えました。天然痘はわずか数年間でインカ帝国人口の80%以上を死に至らしめたと言われています。
 その後、ヨーロッパから、チフス、ジフテリアなどももたらされ、インカ人やその子孫は激減して行きました。
 異文化を持つ民族との戦争や病気による滅亡は、オーストラリア南部のタスマニア島での原住民の滅亡でもよく知られています。
 人類学者の説によると、純粋な人間は、いろいろな雑菌を持ち、悪いことも知っている人に比べ弱いようです。



アンデス上空を飛ぶ
 
 リマからクスコまで飛行機で約1時間です。飛行時間が短いので窓側の席を取ってアンデスの山々を眺めていました。飛行機の出発は 9:10 で、到着は 10:35 でした。
  アンデス山脈には高い山々が続くと、かってに想像していましたが、インカ文明はこの山の中のクスコで繁栄したのでした。高地は彼らにとって、住むのに適した地なのでしょう。驚くほどたくさんの道路が、山の隅々まで作られていました。左の写真はGoogle Map です。



リマからクスコへ

 アンデス山中には驚くほどたくさんの道が作られています。現代のインカ道と言うのかも知れません。なお、500年前のインカ帝国黄金時代のインカ道の総延長は4万kmと、地球一周するほどのたくさん作られていたそうです。



クスコに到着

 アンデスの山々に囲まれたクスコの標高は3,360mと、富士山の8合目当りに相当します。酸素濃度は平地の65%程度になり、沸点は91℃になります。バスに乗ると早速、酸素ボンベが一人当たり一本ずつ配られました。ただし、使用してしまうと、折角高山に慣れようとしているのに、また、元に戻ってしまいそうな気がして、結果的には使用しませんでした。

 クスコの人口は現在、約30万です。



サント・ドミンゴ教会

 スペインから来た征服者は、ここにあったインカ時代の太陽の神殿を見て大変驚嘆しました。壁には金の帯が付けられ、広場には金の泉があり、等身大の金の人間像もありました。スペイン人たちは、黄金で満ちたこの神殿から、それらをすべて取り崩し、本国に持ち去った後、神殿を壊し、その上にこの教会を建てました。土台の石組はどうしても壊せなかったそうです。
 その後、クスコに大地震があった際、このサント・ドミンゴ教会は無残に崩れ落ちてしまいましたが、土台の石組はひずみ一つなかったそうです。
 なお、当時、スペインには、あまりにもたくさんの金が持ち込まれたため、インフレが起こった言われ、セビリア大聖堂の内部を飾る黄金もここから持って行ったと言われています。
 1960年以降、教会の裏手から復元作業が開始されており、見事な曲線美を持つ太陽の神殿の石組が見られるようになりました。



見事な石組

 インカ文明の特徴として、文字を持たない文明、鉄器を持たなかった文明、車輪が無かった文明と言われています。文字が無い上、スペイン人がほとんどすべての遺跡を破壊してしまったため、分からない点が多いのですが、鉄器を使用せず、如何にこの様に素晴らしい石組を完成させたのか、驚くしかありません。これらの石を削るのには、さらに固い石を使用したと言われています。
 石を平らにするには、研磨するような感じで削ったのでしょう。
 ここからマチュピチュまで、日本のガイドさんが加わりました。このガイドさんはクスコに住んでいるそうですが、日本に来ていたペルー人と恋に陥り、結婚し、御主人と一緒にこの地に戻り暮らしているそうです。もう、6年にまりますが、高地にはすぐ慣れたそうです。私がいろいろと尋ねたところ、ポケットから御主人と子供の写真を取り出し見せてくれました。こちらに来た時、盛大な結婚式を挙げてくれたそうです。



教会の後ろの広場

 教会の後ろに回ると、インカの石組の上に教会が建てられていることが分かります。太陽の神殿の跡です。
 この裏庭では来週の冬至の日の太陽の祭りの練習が行われていました。
 クスコは雨が少ないのでしょう。山の上まで家屋が建てられていますが、水道など、まだまだ整備が不十分だそうです。



太陽の祭り、練習風景

 クスコでは毎年6月24日、冬至の日に、一年の収穫を太陽に感謝する太陽の祭り、「インティ・ライミ」が行われます。祭りの行列は、この太陽の神殿から出発し、インカ時代の石組のある狭い道路を通り、マルコス広場へと向かいます。現地の人が来週の本番に向けて練習していました。



12角の石

 クスコには、インカ時代の石組がそのまま残されている通りが幾つかあります。あまりに精巧に作られていて、壊せなかったそうです。
 通常、それらの石は精巧な菱形を含む四角形で出来ていますが、アトゥンルミヨク通りと言われる所には12角の石が組み込まれています。別な所には14角の石もあるそうです。偶然にそうなったのではなく、ある意味を秘めて故意に、それも美しい形を持って作られたと思われます。
 どのようにしてこのような複雑な石組を作ったのか、インカ人の心意気に愉快さを感じます。



路上の売り子さんたち

 こちらのひとも商売熱心です。驚くほど大きなパンが売られていました。チップを上げて記念写真を撮りました。



マルコス広場

 町の中心がこのマルコス広場です。インカ時代、ここには神殿や宮殿があり、やはり町の中心でした。スペイン人がここを征服すると、それらをすべて取り壊し、現在の様なスペイン風の広場に作り替え、教会を作りました。これらの教会の中の黄金の飾りも、インカの神殿などから取り去られたものでした。
 来週の祭りのための練習がここでも行われていました。いろいろな組のパレードがありました。以前行った東北のお祭りを思い出しました。
 このパレードは、午後、我々が行くサクサイワマンへと移動し、そこで祭りのクライマックスを向います。



昼食

 クスコの空港に降りた時も楽団の出迎えがありましたが、昼食のレストランでも、古代インカ人が使用していた笛による演奏が披露されていました。



マルコス広場

 食事の後、自由散策の時間にもう一度広場に行ってみました。お祭りの練習は終わり、もう、ひっそりとしていました。
 広場の周りには、カテドラル、ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会、土産屋さんなどがあります。孫のために、人形を少女から買いました。



サクサイワマン

 クスコの町からだいぶ登った丘の頂上に、インカ帝国のお城(城塞)の跡があります。この要塞の目的は、今だ分かっていないそうですが、スペイン人が攻めてきたとき、インカ軍はこの要塞に立て篭もりました。しかし、夜間、スペイン人に攻められ、奪い取られてしまいました。
 スペイン人は城塞の上部や塔などを破壊し、教会の建築に使用してしまったために、現在は石積みの跡を見るだけになっています。
 ここで、毎年冬至の6月24日、インディオによって荘厳な儀式「太陽の祭典」が行われます。その祭りは、太陽の神殿のあったサント・ドミンゴ教会の裏から出発し、マルコス広場を通り、ここまで進んで来て祭りのクライマックスを向います。
 祭りの人々はトウモロコシで作られたお酒を酌み交わし、祭りの歌や踊りで幕を閉じます。
 そのための準備が現在進められており、すでに座席が作られていました。20年前ごろは現地の人のための祭りでしたが、今はそれを見るための座席の料金が7,000円ぐらいもし、ほとんどは観光客が占領してしまい、現地の人は、今、ヤギが居る丘の上から見るのだそうです。



立派な石積み

 城塞はジグザグに配置された石によって囲まれています。ここの石積みも、驚くばかりの精巧なもので、カミソリ1枚入りません。車輪を使用しなかったインカ人はどのようにしてこれらの石をここまで運び、削り、それを積み上げたのでしょうか。
 古代文明とは、本当に謎に包まれているのが多いようです。



クスコの展望台

 クスコを一望できる展望台です。先ほど祭りのリハーサルが行われていたアルマス広場が見えます。ここでもアルパカと一緒に記念写真を撮りました。




ウルバンバへ向かう
 
 クスコからマチュピチュに向かうルート図です。
 クスコからウルバンバまでは、約80km、バスで約1時間30分です。
 クスコに連泊し、マチュピチュを見学するツアーもあるそうですが、それに比べ、ウルバンバは標高が低く助かります。



 クスコからウルバンバに向かうバスは、さらに高度を上げ、標高4000メートル高地を通り、今夜の宿、ウルバンバに向かいます。ウルバンバの標高は2,870mとクスコよりはだいぶ低く、過ごしやすくなります。
 途中、遠くにアンデスの雪をかぶった山が見えます。
 道路が狭く、バスは30名乗りの比較的小さいため、揺れもひどかったためでしょうか、気分が悪くなり、体調を壊す人も出て来ました。高山病になったのかも知れません。



観光織物土産屋さん

 道路脇にセーターなどを売っている小屋があり、アルパカの毛で織ったものだとのこと、かなり安いこともあって、皆さん、記念にいろいろと買っていました。思い出になります。
 アンデスの少女のほっぺや小春かな (ひとみ)
 



夕焼け 

 この様な標高 4,000mクラスの高地もしっかりと耕されていました。ジャガイモなどがおもな産物だそうです。



夕食

 昼食の時もそうですが、夕食時にも現地の楽器を使用した演奏がありました。


        

9日目 マチュピチュ 終日観光 

 いよいよ今日はマチュピチュ観光です。マチュピチュは、日本人がもっとも行きたい世界遺産の第一位にランクされています。


オリャンタイタンボ
 
 ウルバンバからオリャンタイタンボまではバスで行き、そこから列車に乗ります。出発駅はここから近くにありますが、駅周辺にはたくさんの土産屋さんがありました。



オリャンタイタンボからマチュピチュ村駅(アグアス・カリエンテス)へ

 ここからはたくさんの列車が出ています。ここでは同じ線路を使用し、4つの会社が鉄道を運営しているのだそうです。私たちが乗ったのは車両の上部がガラス張りになったビスタドームと言われる列車でした。簡単な駄菓子と飲み物が配られました。なかなかのサービスです。
 出発は8:53で到着は10:26でした。
 昨年の2月、大雨により線路が破壊され、2ヶ月間、不通だったそうです。現在は乾期ですがこの辺りから熱帯雨林の領域に入り、雨季にはかなりの大雨が降るようです。
 列車はウルバンバ川に沿って下って行きます。列車で登るのかとばかり思っていましたが、反対でした。
 オリャンタイタンボの標高は2800mですが、マチュピチュ村駅の標高は2000mなので列車で 800mも下ります。


マチュピチュ村

 列車はクスコからも来ており、クスコからだと4時間かかるそうです。
 ここには ホテルやたくさんの土産屋さんが集っていました。
 たまたま、そこの教会では、ひょっとこの様な仮面をかぶった人たちが座っていました。なにか、お祭りのようなのがあるのでしょうか。
   



バスでマチュピチュへ

 ここで小型のシャトルバスに乗り換え、山を登ります。マチュピチュの標高は2,400mなので、約400m 登ることになります。未舗装の狭い道ですが、シャトルバスだけが通れるようになっているようです。
 約30分で到着しました。登山道を歩いてくると2時間かかるそうです。到着したところに大きなバイキングレストランがあり、私たちはそこで昼食でした。
 ここにはホテルもありますが、予約を取るのは大変だそうです。
ここの標高は2,400mと富士山の6合目あたりに相当し、高山病を心配せずに、誰でも来られる高さです。
 ここからゲートを入ってマチュピチュへ登ります。入山料はツアー料金に含まれていますが、一人 4,500 円だそうです。



マチュピチュ

 山道を約15分ぐらい登ると、建て屋が見えて来ます。屋根は草葺で作れていますが、当時を再現しています。この建物はここの段々畑で作られたトウモロコシやジャガイモを保存する為のものだそうです。
 さらに登ると、写真では何度も見たことのあるマチュピチュが見えて来ました。
 とうとうやって来ました。何という素晴らしい眺めでしょう。感激で涙がにじんで来ました。
 ここには藁ぶき屋根の小屋があります。見張り小屋だったそうです。
 このマチュピチュが発見されたのはちょうど100年前、アメリカの歴史探検家によるものでした。当時、大変な驚きを与えましたが、その後、第一次大戦、第二次大戦などが起こり、詳しくは調べられていませんでした。このマチュピチュが詳しく調べられるようになったのは最近のことだそうです。
 遠くには4000m〜6000m級の高峰がそびえています。ここからは周りの全ての山々を見ることが出来ます。






 遺跡の向こうに見える尖った山は、ワイナピチュ(若い峰)と呼ばれ、後ろにある峰がマチュピチュ(老いた峰)です。遺跡はその二つの峰の中間にあり、遺跡の東西は500mの断崖絶壁です。
 建物のほとんどは平屋建てで、建て屋には窓もあります。これらの窓から、この素晴らしい景色を眺めていたのでしょう。最盛期の人口は500人以上と考えられています。
 マチュピチュの美しさは、遺跡の向こうのワイナピチュ山を抜きにしては考えられません。もし、ここからワイナピチュ山を取り去ってしまうとどうなるか、インカ人がここに神殿を作ったのには、すばらし美的想像力を持っていたのでしょう。神殿や住居、穀物倉庫などの配置も、美しさを前提に考えられているような気がします。
 マチュピチュの住居跡には上の方に神殿が、その下には、住民のための建て屋があります。また、暮らすに必要なたくさんの段々畑が作られています。石段は1段1段、精巧な石組で作られています。
 カメラの望遠で確かめると、段々畑はワイナピチュの頂上まで達しています。また、500mも下の麓にも畑があります。それらの土地の花粉を分析すると、気温の違いにより、最適な耕作物を選び、20種類以上もの作物が作られていたそうです。低地にはトウモロコシが、高地にはジャガイモが植えられていたことが分かっています。
 



遺跡内部の観光

 遺跡内部の道路はかなり狭いので、観光客の歩く道順は定められており、一方通行になっています。添乗員さんから、身につけるものは最小限にしてくださいと言われましたが、納得です。急に振り向いたりしてリックが人に当たると、大事故になりかねません。
 

 ここには幾つものお祈りの場所、神殿があります。クスコを出たインカ皇帝は、箒で掃き清められたインカ道を神輿に担がれ、冬にここにやって来ます。ここには太陽に神殿と言われる湾曲した石組があり、太陽の光線のさす先から、冬至の日がきたかどうかを確認し、お祭りを行い、春に種をまく日を決めていたそうです。
 幾つもの神殿は一枚岩から削られています。それらはもともとここにあった石を利用し削ったものです。この様に、マチュピチュの遺跡の岩は、もともとあった自然の岩をそのまま利用するか、すぐ近くから持ってきたもので、近くに削り取った跡があります。鉄器を持たぬ民族がどのようにして岩を削ったのか分かりませんが、遺跡にあったいろいろな道具を調べると、鉄分を含む堅い石で削ったことが分かっています。なお、銅鏡や金の装飾品、毛抜きなども見つかっているそうです。
 遺跡の一番高い場所には、インティワタナ(太陽をつなぎ止める石)があります。中央の柱で朝日の方向を観測し、暦を作る儀式を行ったと考えられています。
 アンデネスと言われる段々畑は200段以上もあるそうです。
 ここはマチュピュチュの最高地点で、大石を削って造られた高さは1.8mの石塔が造られています。日時計としても使用されたといわれています。
 太陽の神殿といわれ、マチュピュチュで唯一、曲線を描く美しい建物で、東向きにある窓に当たった太陽の光を反射させていたと言われています。入り口下方には毒蛇の通路と呼ばれる鋭角に曲がった不思議な穴があります。


 羊は高山を好むようです。必死になって草をはぐくんでいました。


 ここはコンドルの神殿と言われています。中央の石を神の使いのコンドルに見立て、豊作を祈願したと考えられています。
 その奥の半地下の部分は牢獄で、罪人を投獄したり、刑罰を与える場所でした。
 太陽の神殿の下側です。
 ここはミイラの安置所であったとされています。
 マチュピチュ山からそそぎ出ているのでしょうか。水路も作られていました。

 
 下には先ほど下りた鉄道の駅が見えます。つづら折りに曲がったバスの通る道も見えます。かなりの急坂です。



 再び山をバスで下り、鉄道とバスに乗り継ぎ、ホテルに戻ります。
 鉄道を下りてバスに乗った時はもうすっかり暗くなり、周囲は真っ暗でした。
 添乗員さんが、「南十字星が見えます」と説明していました。
 満足の一日でした。

          

10日目 ウルバンバからプーノへ移動 

 今日はここからプーノ(標高3,800)まで、バスで移動する予定でした。途中、4,335mのアンデス山中の最高地点を通ります。ただし、小さいバスで、狭い道を揺られながら、約9時間もかかります。
 ところが、アンデスの山中のルートで、農民たちが反乱をおこし、道路を封鎖してしまっており、通行不可能だそうです。観光収入の分け前を払うよう要求しているようです。日本では考えられない封鎖です。
 結局、我々は、バスでの移動を中止、クスコからプーノまでは飛行機で行くことに決定しました。そのため、今朝は10時出発とゆっくりでした。



 ホテルの中庭

 朝食に出かけると、朝早くから中庭で現地の女性たちが編み物を売っていました。なかなかの働きものです。



ウルバンバ、朝の風景

 朝、出発まで時間があったので、ホテルの近くを散歩してみました。のどかな田舎の風景です。レストランにはドアがありませんでした。そういえば、私が子どもだったころの田舎の風景に似ています。



ウルバンバの風景

 ウルバンバを出て、クスコの空港まで、3日前に通って来た道を帰ります。約1時間半のドライブです。
 出発して約10分も走ると、ウルバンバを見晴らせる小高い丘に出ます。そこにバスを停め、2泊した街を眺めてみました。この様に小さな町にも闘牛場があります。ウルバンバ川が山裾に沿って流れていました。



クスコ空港へ

 再び、4000メートルクラスのアンデス山脈の中を走ります。この様な高地もしっかりと耕されていました。
 クスコ市内を通り、空港へ到着しました。
 今日の昼食はおにぎりで、空港で配られました。各々ベンチでほおばりました。今までの昼食の中で一番おいしい昼食でした。
 おにぎりやおかずなど、かなりの量でしたが、現地の日本人のガイドさんが、もし、食べ残すようなら、地球を汚さないよう、頂いて行きますと言って、食べ残しを集めていました。事務所に帰ったら、皆さんで頂くのだそうです。かなりの量だったので、御近所にも配るのだそうです。なにか、暖かい感じを抱きました。



プーノ空港からホテルへ

 プーノの空港でも楽団による出迎えがありました。
 プーノの標高は3,800mと富士山頂よりも高いのですが、明日はさらに高い遺跡の観光になります。クスコから同行してきているお医者さんにより、全員、血圧測定でした。指による簡単なものでしたが、高いと指摘された人も居たようです。
 体調の悪い人には、酸素吸入や薬の支給がありました。


          

11日目 チチカカ湖とシルスタニ遺跡観光
 
 今日はチチカカ湖の観光後、さらに高地にあるシルスタニ遺跡を観光し、その後、飛行機でリマに戻ります。


ホテルからの眺望

 湖畔に建つホテルは、デラックスで近代的で、かなり大型でした。インターネットも部屋で無料で使用できました。 朝起きると、素晴らしい日の出でした。ホテルの周りを少し歩いてみました。かなり呼吸をしっかりしないと苦しくなります。ここの酸素濃度は平地のわずか60%です。
 湖畔を見ていると、ジョギングをしている人がいました。



船乗り場
 
 ホテルの目の前に船乗り場があります。湖の廻りは密集した家々が続きます。これほどの高地にたくさんの人が住んでいるのには驚きです。
 チチカカ湖は琵琶湖の12倍もあり、ペルーとボリビアでほぼ二分されています。
 汽船が走れる湖としては世界で一番高いところにある湖です。
 



ウロス島へ
 

 ホテルの前から、葦で出来た浮島、ウロス島へ向かいます。約20分も走ると、葦で出来た小さな浮島に到着しました。
 完全に観光目的の浮島ですが、昔、スペイン人がここにも来て、原住民はこの様な浮島に逃げて暮らしていたそうです。なお、ホテルはウロス島のすぐそばに作られています。
 

 
 生活するのに便利だとは思いませんが、女性たちが観光のために働いている時、男性たちは漁に出ているそうです。
 合計約700人が生活しているそうで、大きな島には教会や学校もあるそうです。



プーノを望む 

 次の観光地、シユスタニ遺跡に向かいます。バスは高度を上げ、プーノが眼下に見えます。



高原を走る

 標高4000メートルのアンデスは草原のように平らでした。ここも、農地になっていました。たくさんの馬が集っており、馬の市が開かれているとのことです。物々交換もあるそうです。



シユスタニ遺跡

 プーノから32kmの所に、インカ時代に作られたこの地の有力者たちのお墓が丘の上に建てられています。雨が多いところのため、どの墓もだいぶ破損がすすんでいます。いろいろな形をしたお墓がありますが、インカ時代の石組の技術が使われているそうです。
 4,000mの高地から、さらに丘の上のお墓まで、ゆっくり、ゆっくりと登って行きました。同行してきた女医さんも、頂上まで付いてきました。



プーノ市内

 帰り、バスから高原の中に学校らしい建物がありました。市内はかなり混雑していました。 



       

12日目 ナスカとパルパの地上絵を観光後、ホテルで休憩。
                  その後、帰国のため空港へ
  いよいよ、今日は最後の観光日です。本来なら7日目にナスカの観光をする予定でしたが、今日に変更になりました。ただし、リマからナスカまでは、バスで行くと片道8時間もかかってしまい、往復を考えると観光不可能になってしまいます。そのため、ナスカヘ行く途中の町、ピスコから飛ぶセスナ機でナスカの観光をすることになりました。ピスコはナスカから250kmの所にありますが、そこまでは立派な高速道路が走っており、3時間程度で到着します。ピスコの飛行場は非常に小さく、セスナ機専用のようです。ナスカ観光専用かも知れません。



 旅行社が努力して、始発機の予約に成功しましたが、出発時間は8時頃だそうです。その為、ホテルを4時半に出発しました。
 ガイドさんから、曇っていてナスカ絵が見えない場合は飛び立たないとか、いろいろな不安材料の説明がありましたが、こればかりは行ってみないと分かりません。
 ピスコからナスカまでの飛行時間は30分、ナスカ観光は30分、帰りも30分と合計1時間半かかります。セスナ機なので重量制限があり、全員体重計に乗り、合計重量を計算しましたが、日本人は太っていないので何時も大丈夫だそうです。
 セスナ機は全員窓側に座れる6列12名乗りのため、2組に分かれ、私たちは8:05分発、別の組は10:05分発になりました。
 いよいよ、無事に出発です。


 セスナ機に乗るのは久しぶりです。以前、4名乗りのセスナ機でグランドキャニオンを飛んだことがありますが、それ以来でした。
 今から10年ほど前、コンピュータによるフライトシミュレーターに夢中になったことがあります。セスナ機の操縦は一番簡単な部類で、初心者用です。当時、夢中になった頃を思い出しました。その時、飛行機についてもいろいろ勉強しましたが、もう、かなり忘れています。
 飛行機に乗る時、地上絵を描いた地図を貰いました。



ナスカへ飛ぶ

 飛び立ちましたが、ピスコの近くは一面の雲です。でも、ナスカは晴れているのでしょう。




いよいよ、ナスカの地上絵見学開始

 パイロットがカタコトの日本語で、ナスカ絵の上空に来ると、右、クジラ、とか、左、サンカクとか説明しますが、全然分かりません。たくさんのスジが砂漠の上に書かれ、どれが絵なのか、まるでパズルです。私には才能が無いのでしょう。皆さんがあった、あったと声を上げていますが、私には、皆目、分かりませんでした。
 このナスカは地球上でもっとも乾燥した砂漠地帯です。今は誰も住んでいません。一体誰が何のために書いたのでしょうか。様々な分野の専門家たちが独自の見解を発表してきましたが、誰もが納得する説明はいまだ存在しないようです。
 この砂漠には、謎めいた渦巻き模様、サッカー場よりも大きな動物、不思議な人物像、何キロも続く直線などが描かれています。全部で700以上もあるそうです。
 これらの膨大な数の地上絵は2千数百年前から、何百年にも渡って描き続けられ、時には書き加えられています。そして、時代と共に描かれる模様が変わって来て、描かれる目的も変わってきています。
 ここを発見したライへは、ナスカ人が天体観測のために作ったと述べていますが、その後の数々の調査によると、当初は民族をまとめるために行う儀式の場であったと思われています。そして、この地に砂漠化が進むと、描かれる図は巨大な直線となり、水を求める儀式に変って行ったそうです。



クジラ

 撮った写真を家に帰った後で見てみると、右上の方に何やら絵らしいものを発見しました。拡大してみると、クジラの絵であることが分かります。大きさは63mで、それほど大きくはありません。なお、クジラはこの近くには生息していないそうです。
 それ以外にも幾つもの直線が描かれています。これら直線は別の目的で、後に書き加えられたと考えられています。



三角形

 これら巨大な三角形は、ナスカに砂漠化が迫ってきた頃、雨乞いをする行事のために作られたそうです。水源を指している三角形もあるそうです。



ハチドリ

 このハチドリは綺麗な一筆書きで書かれています。ほかのいろいろな絵も、一筆書きで書かれています。
 当時、一族がこの絵の近くに集まり、神官を先頭に、豊作を願い、列を作って歩いたと考えられています。こういった儀式は、一族の結束力を高め、帰属意識を高めるために重要だったとも考えられています。このハチドリの全長は96mあります。これらのナスカ絵は一般にそれほど大きくはありません。人々が集まるのにちょうどよい広さに作られています。
 数ある地上絵の中では保存状態が最も良いそうです。。



サル?
 
 奇妙な曲線をもっています。もしサルなら全長110mです。 



コンドル

 コンドルは水を呼ぶ鳥とも言われています。全長136mあります。




鳥らしい絵

 とにかく700もある地上絵では、これが何を意味するのか、頂いたパンフレットからは分かりません。



木と手

 道路のすぐ近くにあります。ナスカに降りれば、地上からもナスカ絵を見られるよう、高い矢倉も作られています。
 木は97m、手は45mです。



クモ

 クモらしい図です。もしクモなら全長46mです。 




パルパの地上絵

 ナスカから帰る途中にパルパの上空を通ります。地上絵はナスカ以外にもたくさんあり、パスパの地上絵はナスカの絵よりも昔に描かれたそうです。

ハチドリ

 この一筆書きに沿って、神官を先頭に多くの人たちが祭りに加わり行進した大昔の人たちを思うと、祭りと言うのはいろいろあるものだと思います。日本にもたくさんのお祭りがあり、土地によって全く異なりますから、パルパの祭りとナスカの祭りは違っていたのかも知れません。


パルパの星
 
 この地に芽生えたパラスカ文化特有の絵がらだそうです。



見学終了。

 約40分程度の観光を終えて、また、元の空港に戻ります。地上絵は思ったよりも小さく、テレビなどで見る映像は、それらが大きく見えるよう、いろいろと工夫して流しているようです。
 いずれにせよ、「とにかく見たよ」、と言うのが感想でした。ただし、もう一度、わざわざ行くかと聞かれたら考えてしまいます。
 



昼食レストラン

 後半の人たちが飛び立った後、空港で待つよりは、昼食のレストランで待とうと、一足先にレストランに入りました。
 ピスコは海岸に面した港町です。リマと同じで、年間の雨量はほぼゼロ地帯の港町です。



 昼食後、再びリマのホテルに戻り、ゆっくりと休憩した後、全員でレストランに向かいました。久しぶりの日本レストランでした。
 その後、空港に向かい、今夜、00:05分発の飛行機でロスアンゼルスに向かいます。


         

13日目 リマ発、ロスアンゼルス経由日本へ 

 予定通り、リマを00:05に出発した飛行機はロスアンゼルスに 06:60 に到着しました。飛行時間は8時間45分でした。
 日本に向けての出発は 11:50 です。ここでも、入出国の手続きをして、ラウンジで一休みです。


       

14日目 成田に到着

 ロスアンゼルスを 昨日の11:50 に出発した飛行機は、日付変更線を越え、無事、 15:15 に成田に到着しました。飛行時間は11時間25分でした。
 今回の添乗員さん、鈴木さんは30歳ぐらいの女性で、名物添乗員だそうです。ただし、添乗員を派遣する会社はたくさんあり、鈴木さんの所属する会社では8割の人が名物添乗員だそうです。旅行が好きでこれからも添乗員を続けるとのことです。
 今までお会いしたたくさんの添乗員の方の中でも、確かにトップクラスの素晴らしい方でした。添乗員さんの細かな気配りで楽しい旅が出来て、思い出に残る旅になりました。






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