大震災後の三陸海岸を走る
学生時代の友人が退職した後、岩手県の釜石市の近くに住んでいますが、幸い津波や放射能の直接的影響はありませんでした。ただ、震災時は、ガソリンも電気もなく、スーパーでの買い物も出来ず、飲み水にも困ったそうです。
今回は、お見舞いを兼ねながら友人を訪ね、また、友人から、ぜひ、自分の目で被災地を見て置くべきだとのアドバイスを受けたこともあって、三陸海岸を南下し、震災後5カ月たった現状を見て来ました。
海岸を走ってみると、毎日、テレビで放映される状況と何ら変わりはありませんが、実際に自分の目で見ると、その悲惨さに心が暗くなります。
誰も居なくなり、家の土台だけを残し廃墟になった町や漁村を見ると、頑張ってくださいとはとても言えません。個人の力には限界があります。 一刻も早く国全体の力を結集し、被害者の苦しみを和らげるような方策を進める必要があります。 |
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1日目 自宅から遠野市に入る。
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以前から遠野に行ってみたいと思っていましがた、その近くを通ったので、立ち寄ってみました。
道の駅に市内の観光案内所があり、遠野ふるさと村と、民俗学者柳田國男の遠野物語に出てくるカッパ淵を見て来ました。 |
遠野ふるさと村
遠野の昔の姿を再現した施設で、幾つものL字型の建物が展示されています。いずれも、比較的裕福な農家や大工の家だそうです。 |
以前、ビール工場を見学したとき、ビールにはホップが必要だと学びましたが、実際のホップの栽培を見たのは初めてでした。 |
今から115年前の1896年(明治29年)6月15日午後7時32分に釜石市の東方沖200qでマグニチュード8.5の大地震が発生し、地震の被害は少なかったものの、大津波により、三陸海岸では甚大な被害を受けました。
大津波の後、柳田國男は多くの被災地を訪ね、物語にまとめています。その時の被害を肝に銘じ、住宅を高台に移し、以来、海岸には家を建てなかった地域、その時の被害が後世によく伝えられず、再び、家を海岸べりに作った地域など、いろいろですが、大きな被害は数世代を越えて起こるために、後世にしっかりと伝えて行くことが大切なようです。 |
カッパ淵
昔話を集めた遠野物語に出てくるカッパ淵へも行ってみました。小さな川で、さわやかな田舎の風景でした。
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2日目 釜石市から、大船渡、陸前高田、気仙沼、
南三陸、松島を通り、塩釜市に宿泊 |
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遠野から釜石市に入り、出来るだけ海岸近くを通り、今夜の宿、塩釜市に向いました。 |
釜石に入ると信号機が壊れたままなのには驚きました。皆さん、慣れているようで、一時停止をしながら、慎重に運転しています。
町の中は閑散としており、家の片づけをしている人たちもおりました。
しばらく走ると、仮設住宅が造られていました。 |
三陸海岸を南下すると、震災の大きさには驚くばかりでした。こんな高いところもやられていました。
気仙沼もほぼ壊滅状態でした。フェリー乗り場には数台のタクシーが客待ちをしていました。
鉄道もずたずたに壊され、復旧の様子は全くありませんでした。
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公立志津川病院
震災当時は「志津川病院」という南三陸町で唯一の総合病院でした。しかし、震災の津波で5階建ての建物の4階まで水に浸かり、患者と看護師合わせて74人が犠牲になっています。
震災後、病院の建物は解体。仮設の診療所などで診療を続けてきたが、11月に町の高台に新しい病院「南三陸病院・総合ケアセンター南三陸」が完成しました。
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3日目 松島、瑞巌寺、多賀城跡見学
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宿泊した塩釜市の近辺の観光地を訪ね、その後、仙台の温泉の名所、秋保温泉に向かいました。 |
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訪問した志波彦神社、瑞巌寺、五大堂、多賀城址などです。
宿泊した塩釜市やその近くの松島などは、たくさんの小さい島に覆われており、それゆえに被害は少なかったようです。 |
志波彦神社と陸奧國一之宮 鹽竈神社
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朝、宿の近くの志波彦神社と陸奧國一之宮 鹽竈神社に参拝しました。
志波彦神社と陸奧國一之宮 鹽竈神社とが接近しており、初めて訪れるた人には区別がつかなくなります。
取り合えず、写真を撮った順に並べてみました。 |
瑞巌寺と瑞巌寺五大堂
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瑞巌寺は松島に来た時は必ず訪れお寺で、もう何度も見学しています。瑞巌寺五大堂も訪れてみました。 |
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ただし、残念ながら平成の大修理中で、本堂をはじめ多くの施設が非公開で、見学で来たのは庫裡(国宝)、大書院、宝物館などでした。
大修理の完成は平成28年3月の予定だそうです。
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松島
雨にもかかわらず、観光客で結構にぎわっていました。瑞巌寺五大堂へ行ってみました。
多賀城跡
多賀城の跡にも行ってみました。この地は、むかし、行政の中心地だったそうです。
今日の宿は仙台に奥座敷秋保温泉ですが、少し早目に到着し、そこでゆっくりしました。
4日目 名取市、岩沼市、相馬市、南相馬市、
飯館村を走り、野地温泉に宿泊。 |
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再び三陸海岸に戻り、仙台空港の海側を走り南下しました。仙台市の被災地にはたくさんのダンプカーが走っており、復興しつつあることが実感できます。行政によってこんなにも違いがあるのかを実感できます。
南相馬市の南、30kmには福島第一原子力発電所があります。もうすでに飯館村を通ることができるようになっていました。ただし住むことは許されていません。 |
JR常磐線の浜吉田駅です。駅は放置されたままでした。
田んぼは昨年の稲がそのまま伸びたのでしょうか、一面、穂のない稲で覆われていました。
まさに悲惨です。家の土台だけが残り、町全体が無くなっています。
なぜか、通行止めの道路がありました。
立派な堤防ですが全く役に立たなかったようです。町全体がなくなっています。
すぐ近くにある南相馬市の原町火力発電所もかなりやられていました。
今日の宿は土湯温泉のなかにある野地温泉ですが、途中、放射能で汚染された飯館村を通りました。
非難した住民が多く、ほとんどの家は閉じられていましたが、道路にはたくさんの車が走っていました。
なお、野路温泉は被害者たちの当面の避難地として使用されているそうです。 |
5日目 福島第一原発の近くを通り、自宅へ
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出来るだけ第一原子力発電所の近くを通ってみようと行ったのですが、途中、原発から20qのところで立ち入り禁止となっていました。
いわき市のすこし北側の道の駅よつくら港に寄ってみました。建物は壊れたままでしたが営業はしておりました。 |
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野地温泉やその隣の鷲倉温泉は、昔から何度ともなく行っていますが、硫黄の臭いの強い本格的な温泉です。
一般客が朝食を取る前に、たくさんの人がもう食事をしていました。避難してきた人で、一時期は100名ほどいたそうです。
被災者に3食を提供するのが宿の役割だそうです。 |
福島第一原発に向けて走って行くと、立ち入り禁止になっていました。
ここが20km地点のようです。 その周辺の農地は、放置され、荒れ果てたままでした。 |
いわき市に入り海岸まで行ってみると、ここもかなりの被害でしたが、海岸から離れたところの被害は三陸海岸に比べ小さい方でした。
道の駅が仮営業していたので立ち寄って見ました。桃などが驚くような安い値段で売られたいたので、たくさん買って帰りました。 |
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