4つの世界遺産を巡るキューバ6都市周遊8日間

トラピクス 2012年1月20日〜27日

 キューバといえば、アメリカの喉に刺さった骨とも言われ、冷戦時代は大きな話題にもなっていましたが、今は、50年間、時間の止まった国とも言われています。50年も前にアメリカから持ち込まれた古いおんぼろ車が大切に使用されています。電気製品もほとんどが古いままです。とにかく、貧しい国というのが第一印象です。
 元、元首のカストロも今は86歳になり、政権を弟のラウル・カストロに譲っています。ただし、ラウルも今や81歳になっています。
 国内の治安は良好で、国家の収入の多くは観光事業で成り立っており、たくさんの観光客が訪れていますが、アメリカとの関係は、未だあまり改善されず、アメリカ人の観光には何かと制限が多いようです。
 今回は、とにかく、一度行ってみないと良く分からないし、気候も良い時なので、遠いのが難点ですが、ツアーに参加してみました。
 参加人数は36名と比較的多かったのですが、ご夫婦での参加は5組のみでした。残りの26名はほとんどが一人参加でしたが、一人で参加しても追加料金が1万円というのが評価されたようです。男性の参加が多かったのも、そうゆう理由かもしれません。

 

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 ただし、2枚目からは軽快に動きます。


 アメリカの飛行機はキューバに入れないので、今回はカナダ航空でトロントに行き、再び、カナダ航空でキューバのハバナに入りました。

月 日 観光内容 宿泊場所
1 1月20日  成田からトロント経由キューバ、ハバナに到着 ハバナ
2 1月21日  終日、ハバナ市内観光。夜、キャバレートロピカーナーショー ハバナ
3 1月22日  世界文化遺産、ビニャーレス渓谷観光 ハバナ
4 1月23日  シエン・フエゴスで世界遺産観光後、世界遺産トリニダー観光 トリニダー
5 1月24日  サンタクララ観光後、バラデロへ バラデロ
6 1月25日  コヒマルでヘミングウェイ博物館見学、キューバ人お宅訪問 ハバナ
7 1月26日  早朝、ホテルを出発し、トロント経由、成田へ 機内
8 1月27日  成田到着


         

1日目 成田からトロント経由、キューバのハバナへ

 トロント〜ハバナ間の飛行機は座席が2列+2列の比較的小型でした。それほどお客が居ないのでしょう。
 飛行時間は約3時間30分で到着は19:30で、ホテルへ到着したのは21:00でした。
 ホテルのロビーに隣接した食堂では、楽団がまだ開演中でダンスをしている人も居りました。
 そう、ここはキューバです。情熱のリズム、マンボやルンバ、サルサはこの町から生まれました。
日本の童謡、おもちゃのチャチャチャもここで生まれたそうです。キューバに来たら、とにかく、音楽に酔い、激しく体を動かすのが良さそうです。
 部屋に入ると、大きなサンドイッチが置いてあり、それが今日の夕食になりました。
 キューバはアメリカからの飛行機を受け入れていないので、今回の旅行はカナダ航空を利用し、トロント経由となりました。
 成田発は17:00で、トロントまでの飛行時間は12時間です。トロント到着は15:00でした。



付録
 
  キューバは、カリブ海、メキシコ湾、大西洋に囲まれ、コロンブスは、世界で一番美しい島と言ったそうです。
 メキシコ湾の北西にはアメリカやメキシコが位置し、東には英連邦のバハマ諸島があります。東には海を隔ててハイチがあり、南にはイギリス領ケイマン諸島や英連邦のジャマイカが位置しています。なお、ケイマン諸島は税金対策として利用する国としても有名です。
 とにかく、カリブ海の周囲には非常にたくさんの国があり、理解するのも大変です。
 アメリカから陸続きでメキシコに入ると、住居や道路など、経済の差にびっくりしますが、メキシコよりさらに南に行くと貧しさがひどくなるようです。


  キューバの国土面積は日本の約30%ですが、人口は1,100万人と平地が多い割には比較的少ない方です。 常夏の国ですが、緯度はほぼ台湾と同じ位置にあります。
 経済的には世界的に貧しい国に位置付けられています。
 


 1500年代の初め、スペイン人が侵攻し、キューバで暮らしていた現地人は虐殺、虐待、強制労働、疫病などによりほとんどが絶滅したといわれています。
 その後、スペインの植民地となったキューバは、アフリカからの奴隷貿易の地として大いに栄え、大都市には海賊やイギリス軍から守る要塞も作られました。
 19世紀半ば、奴隷制により砂糖産業が成功し世界一になるとともに、葉巻産業でも成功し、大いに栄えて行きました。
 そのキューバも、1886年には奴隷制度が完全に廃止され、スペイン本国からの独立を望む人たちにより、キューバ独立戦争が起こります。
 しかし、その隙をついて、アメリカ軍がキューバ人を味方にしスペイン人を追い出してしまいます。1902年、キューバはついに独立しますが、アメリカにより完全に支配されてしまいます。
 今では9.11事件で有名になったグアンタナモアメリカ海軍基地が作られたのもこのころで、この軍事基地は、アメリカが永久租借権を得ています。キューバは、今、アメリカに対し返せと言っていますが、アメリカは応じていません。
 キューバ独立後、アメリカ資本が数多く進出し、キューバの支配権を強くして行きます。それに不満を持った人たちが反政府運動を起こすなど、政治不安が長く続きますが、1940年、バティスタ大統領が就任し、政治的緊張は緩和されました。 しかし、第二次世界大戦の影響でインフレ問題などが起こり、再び政治不安が起こります。それに対し、バティスタ大統領は、クーデターにより、憲法を停止し、独裁政治を開始し、アメリカ企業との結び付きを強めてゆきます。その結果、富が一部に集中し、貧富の差が非常に拡大してゆきました。それに不満を持ったカストロらは1953年、革命を起こしますが失敗し投獄され、その後釈放されます。
 1959年、カストロは革命に成功し、バティスタは亡命します。
 カストロはアメリカ企業の排除に努め、アメリカ資本の石油精製会社、製糖会社、電話、銀行、などを国有化し、共産党による社会主義国家を作り上げてゆきました。
 これを契機に、キューバの人たちの暮らしは一変しました。 アメリカは経済封鎖を行いますが、カストロはソ連との関係を強めて、ソ連から経済援助を受けるようになります。
 1991年、ソビエト連邦が崩壊すると、経済は大打撃を受け、壊滅状態になります。
 ソビエト連邦が崩壊した理由は、社会主義の欠点に気づき、自由を求める機運が高まったからですが、時を同じくして、東西ドイツの統合や、ルーマニア、ポーランド、チェコをはじめ多くの国々が雪崩を打って社会主義から民主主義国家へと移って行きました。
 当時、キューバでも、多くの人が社会主義に絶望し、筏(イカダ)などに乗りアメリカのフロリダへと脱出しています。
 ヨーロッパでも死を覚悟で西側に脱出した人が多かったのですが、ここも同じでした。
 それに対し、カストロは、民衆に自由化を少し認め、政権を維持して行きます。2008年、フィデル・カストロは体調不良により弟のウラル・カストロに政権を譲りました。
 ウラル・カストロは、一般国民の携帯電話所持、電気製品の購入などを認めましたが、多くの制限が未だあり、また、民衆は貧しく、買う力も無いようです。
 アメリカは未だ経済封鎖を続けていますが、国際連合は経済封鎖を解除するよう、もう、20年も決議を続けています。
 キューバの貿易相手国の二番目は中国であり、キューバで走っているバスはすべて中国製です。今や、中国はアメリカの政策に大手を振って反対するほど、力を得てえます。なお、第一の貿易先は近くのドミニカ共和国です。
 中国は、未だ民主化を完全には手にしていませんが、今後、どのような方向に進むのか、注目が集まっています。
 なお、左の地図の赤丸は今回訪れた場所です。
 
 今回の旅は、ハバナ旧市街、ビニャーレス渓谷、シエン・フエゴス、トリニダーと4か所の世界遺産を訪ね、その他、チェ・ゲバラのサンタクララとヘミングウェーのコヒマルを訪ねます。


       

2日目 終日、ハバナ市内観光。夜、キャバレートロピカーナーショー鑑賞
 
 今日は、終日、ハバナ市内の観光です。ハバナはキューバの首都で、旧市街は世界遺産に登録されています。
 ハバナには、19世紀の後半の黄金時代に建てられた見事な建築物がたくさん残されています。


 ハバナは16世紀の半ば、スペインの新大陸における植民地経営の中心地として、また、貿易の主要な中継地として発展して来ました。また、新大陸で得た利益をスペイン本国へ送るための港でした。
 
当時、スペイン、ポルトガルが世界に乗りだし、たくさんの植民地を作っていましたが、当時の新興国であるオランダやイギリスが植民地獲得に乗り出し、イギリスの後ろ盾を得た海賊がたびたびハバナを攻撃し、それを守るため、ハバナにはたくさんの要塞が作られました。そして、18世紀の半ばにはハバナに大学が作られるほど発展してゆきました。
 しかし、1762年、イギリス軍によりハバナは征服され、イギリス人商人により多数のアフリカ人奴隷が連行されてきました。しかし翌年、スペインとイギリスの協定により、ハバナは再びスペイン領になります。
 かくして、ハバナはアメリカ大陸への玄関口の貿易都市として、400年にわたり、栄え、その繁栄はアメリカ大陸随一のものでした。
 奴隷貿易の自由化により労働力が増え、砂糖産業の中心地となり大いに栄えます。当時、ヨーロッパは産業革命に成功し、余裕を得た国民には、紅茶やコーヒーに砂糖を入れる習慣が根付き、砂糖の需要が大いに増えたことによります。



ホテルの風景(オキシデンタル ミラマール)

 新市街ミラマールには豪華なホテルがたくさん林立しています。このホテルに3連泊です。
 砂糖産業や葉巻産業が落ち込み、外貨獲得に困難になったキューバ政府は、観光に力を入れ、豪華なホテルをたくさん作り、海外からの観光客を呼び込んでいます。なお、キューバ以外にもカリブ海周辺諸国は観光に力を入れているようです。



革命広場とホセ・マルティ記念博物館
 
 新市街の中心にあり、毎年1月1日と5月1日にカストロ議長の演説があり、多い時には数十万もの人がこの広場を埋め尽くすそうです。広場の後ろに立つ5角形の星形をした塔はホセ・マルティ博物館で、その前には18mのホセ・マルティの像が立っています。この博物館は1996年、ホセ・マルティの没後101年を記念して建てられました。
 ホセ・マルティは1853年、ハバナに生まれ、16歳でキューバ独立戦争に参戦し、第二次独立戦争を指導したキューバの英雄です。
 広場の反対側にはカストロ議長のオフィス、共産党本部があり、この地域には内務省、軍のオフィス、郵政省などが集まり、国家の中心地になっています。
 なお、下の3枚目の人物像はカミーロ・シエンフエゴスで、4枚目の内務省はよく知られたチェ・ゲバラです。夜になるとネオンで浮き上がるそうです。



市街地の道路
 
 バスはハバナの中心街を通って、次の観光地に向かいますが、何かひっそりとしています。
 人力車も走っていますが、観光用というよりは、現地の人も利用しているようです。50年間、時間が止まった町とも言われていますが、何か不思議な風景です。
 かってスペインの上流家庭が住んでいたこれらの邸宅には一般の市民が住んでいるそうです。しかし、1家族が住んでいた場所に20家族が住み、1家族の面積はかなり狭いそうです。



モロ要塞
 
 1588年、無敵を誇ったスペインの艦隊がドーバー海峡でイギリスの艦隊に破れました。ヨーロッパの新興国、イギリスがスペインに勝ったのです。
 ヨーロッパにおける力関係が徐々に変化し始めました。その関係がこのカリブ海にも及び始めました。
 新大陸の発見後、スパインが握っていたカリブ海の利権が、イギリスやオランダなどの新興国の脅威にさらされ始めたのです。新大陸で富を得ているスペインに対して、ヨーロッパの国々は海賊を雇ってその富を奪い取ろうとしたのです。
 1662年にはイギリスの艦隊が要塞を破壊しますが、すぐに再建され、さらに拡大されます。その後もイギリスや海賊によってたびたび攻撃されますが、その都度、撃退しました。
 スペインは莫大なお金をかけて難攻不落の要塞をキューバにたくさん築く必要がありました。
 ハバナにはこのような要塞が4つも作られています。
 1762年、産業革命により力を付け軍事力を強めたイギリス軍はこの要塞を再び攻め、要塞の占領に成功し、ハバナを実質的に支配するようになります。その1年後、スペインとイギリスは交渉により、当時のスペイン領のフロリダと交換し、再び、スペインの支配下にします。以来、イギリスに占領されないよう要塞をますます強化し続け来ました。
 要塞が不要になると、牢獄として使用したそうです。現在は博物館になっています。
 なお、現在、キューバの周辺国の多くは、英連邦に属しています。
 



カテドラル
 
 1704年に作られたハバナのシンボルの一つ、カトリック大聖堂です。
 音楽が石に帰ったと言われる繊細な装飾が施されたバロック建築で、当時の富を反映した贅を尽くした建物です。



ハバナ・クラブ蒸留博物館
 
 2000年にオープンしています。キューバを代表するラム酒、ハバナ・クラブの製造過程を展示した博物館で、昔の奴隷を使っていた頃の様子も再現されています。



街の風景
 
 現地人は陽気なようです。 



お土産マーケット
 
 海岸べりに大きなマーケットがあります。売っているのはすべて観光客用の土産品です。
 なお、キューバでは、現地人用ペソと外人専用のペソがあり、かなりの差があります。この土産屋もそうですが、すべて外人用ペソで表示されています。ガイドさんは現地ペソと3倍の価値の差があると言っていましたが、旅行書には20倍ぐらいあると書いてあります。だんだんと差が小さくなるのでしょうか。
 今回の旅行では、スーパーマーケットを含め、すべて外人専用のペソで表示されていました。
 今は廃止されましたが、昔、中国へ行った時も、外人は兌換券で、現地の元とは大きな差がありました。



旧国会議事堂(カピトリオ)
 
 旧市街の中央部にあります。1929年、アメリカの支配が強かった時代に作られており、ワシントンの国会議事堂そっくりに作られています。いかにアメリカの影響が強かったかがわかりますが、当時の繁栄を物語る立派な建物です。
 その前の広場には、タクシーでしょうか、たくさんのクラシックカーが走っています。オープンカーのタクシーは乗車料金が少し高いそうです。
 人力車も走っています。外国人を乗せ、現地人が車を引いていますが、昔の上海の姿を見ているような気がします。



ココタクシー

 キューバには公共交通機関が殆んどありません。市内を走っているバスは殆んど見ることがありませんし、電車や地下鉄もありません。人タクを利用するかタクシーを利用するか、ヒッチハイクに頼るか、もしくはココナツに似た3輪車のタクシーを利用することになります。なお、ヒッチハイクは日常的に行われており、政府がそのための車を用意しており、朝夕の通勤にも使用されているようです。無料で使えるそうです。
 今回のツアーにはココタクシー試乗が組まれており、私たちのために旅行社が用意しておいたのでしょうか、約20台のココタクシーが私たちを乗せるよう集まっていました。二人ずつ乗って、スタートです。運転手はヘルメットをかぶっていますが、私たちはしっかりと手で手すりに掴まっているだけです。19台のココタクシーがまるでレース並みに先を競って走って行きます。人タクをあっという間に追い越してゆきます。確かに、人タクよりははるかに早そうです。上り坂になるとさすがにスピードが落ちてきます。子供のころに乗ったミニバイクを思い出しました。
 それにしても、ひやひやの乗り物で、決して快適ではありません。



ラ・ボデギータ・デル・メディオにてモルヒート試飲
 
 モルヒートとはキューバ独特の飲み物のようです。これも旅行社のサービスなのでしょうか。私はラム酒を入れて貰いました。



レストラン ラ・フロリディータにて夕食
  
 カウンター席と食堂からなるレストランで、カウンター席の奥にはヘミングウェーの像が作られています。
 かって、ヘミングウェーはここに座り、砂糖抜きのダイキリを飲んでいたそうです。



キャバレー トロピカーナショー
   
 ハバナにはたくさんのキャバレーがあり、そのぞれの好みによって、その夜を楽しめるそうです。
 ここは天井のないかなり広い観客席を持つキャバレー場です。夜の10時に始まり、約2時間続きます。観光客で満席でしたが、幸い、見晴らしの良い一段上がった最前列に座ることができました。4名に1本の割合でラム酒ハバナクラブが配られ、飲み残しても持って帰えれるシステムになっています。コーラで割って飲むよう、コーラも配られました。高級ウイスキーなみの味があり、美女のダンスやお酒に堪能した2時間でした。


        

3日目 世界文化遺産、ビニャーレス渓谷観光
  
 文化遺産として登録されたビニャーレス渓谷は、ハバナの西、190qの所にあります。バスで約3時間かかります。
 渓谷の自然景観とこの地域の住民が築いた建築様式やたばこの栽培技術などが評価され、文化遺産として登録されています。



途中のトイレ休憩 たばこ乾燥建屋
 
 先日はバスの最前列に座りましたが、今日は最後列です。毎日、座る場所がガイドさんによって決められていて、それにしたがって座ります。一人参加が多いので、ガイドさんも苦労するようです。
 バスに乗り驚いたのは、ものすごい揺れです。中国製のバスですが、とにかくスプリングが悪く、舗装道路を走っているにもかかわらず、まるで、馬に乗っているようです。手で、前の座席の手すりにしっかりとつかまっていないとならないような時もあります。中国旅行を経験した人は、まさに中国へ行ったようだと言っていました。中国製のバスは相当悪いようです。
 びっくりしたのは万歩計で、簡単な振動では動かないようになっている電子式ですが、なんと、一日の歩数が、ほぼ毎日4万歩を超えていました。初めての経験です。
 キューバのトイレを利用するときは、レストランでもお土産屋でも、どこでもお金が必要です。日本円で約20円とわずかな額ですが、1日100円を使用するとすれば、こちらのお医者さんやタクシードライバーの日給に相当します。我々38名(ガイド、ドライバーを含む)が利用するとすれば、一回の停車で800円ぐらい入りますから、医者、8名分の日当に当たります。
 なお、キューバでは、生まれてから大学を卒業するまで、学費はすべて無料です。優秀な人は大学まで進め、医者に成ることができるそうです。ただし月給は国で定められ、ほぼすべての公務員は同じ給料だそうです。なぜ、お医者に成るかとうと、国民の健康の促進が目的で、医者の給料は目的でないのだそうです。病気になっても医療費はすべて無料になっています。
 国家の繁栄のために働くのが目的で、個人の自由と権限が著しく制限されている社会主義国家ならではの制度です。国を逃げ出す人が多いのも納得です。
 トイレ休憩所の近くにたばこの乾燥する小屋があり入ってみました。キューバで有名な葉巻用葉タバコの乾燥場のようです。
 別件ですが、私の生まれは、栃木県で、主な農作物はたばこでした。我が家でもたばこを作っていました。タバコ栽培は国による激しい監視があり、植えた本数が、申し出て許可された本数を超えていると、検査官に植えたたばこを抜かれてしまいます。毎年、検査官が訪れ、本数を数えて行きます。何時だったか、母親が、5本ほど多かったので抜かれてしまったと嘆いていたのを憶えています。
 祖父はたばこを吸いますが、自作のたばこはあまりおいしくないそうです。なお、自作した煙草を吸うのは違法だそうです。だいたいはタバコ屋さんから安い煙草を買って吸っていたようです。
 タバコ栽培は非常に大変です。父は小学校の教師でしたが、学校の休みの日曜日はいつも野良仕事をしていました。母はひ弱なほうでしたが、農作業を手伝っていました。タバコの背丈はみるみる高くなり、葉はどんどんと大きくなり、下の方の葉から黄色くなって来ます。その葉を一枚一枚もぎって集めてきますが、ちょうど夏の一番暑い時期で、体中が汗でびっしょりになります。その上、たばこの葉のやにで、手はべとべとになります。汗をぬぐうのもままなりません。それらの葉を持ち帰り、長い縄に挟み、庭につるして乾します。栃木県は雷が多く、毎日のように夕立が来ます。仮にたばこを濡らすようなことがあると、品質が落ち、葉の色が悪くなり、売値が急落します。急いで家の中に入れて吊るします。夜は夜露にぬれないよう、家の中に入れて吊るします。
 この時期は忙しいので、私もたばこかきや、たばこの移動、たばこのしを手伝いました。当時は、農繁期休みという制度があり、小、中学校生は農業を手伝うよう、2週間ほど学校が休みになりました。
 この時期は、家の中がタバコの葉でいっぱいになり、立っては歩けないようになります。葉が完全に乾燥すると、葉を一枚一枚平たく伸ばしてゆきます。いわゆるタバコノシです。通常は夜なべ仕事で、寝るまで行います。数十枚集まると丁寧に重ね、葉の根の所をくくり、保管します。力のいらない仕事なので、よく、夜なべ仕事を手伝ったのを憶えています。納品日時が決まっているので、間に合わせるしかありません。
 納品すると、品質評価管が葉の質を調べ等級を決めてゆきます。特級から6級ぐらいあり、最高と最低では1桁ぐらいの差があるので、葉タバコを作る方も必死で頑張るのです。でも、等級の決め方が、検査官の感で行うため、日によってかなりの差が出るようです。買い付け総額も決まっているので、初めのころ、高めの等級を付けてしまうと、そのあとから納品されるタバコ葉の品質が良いくても予算オーバーにならないよう、品質の評価を落としてゆくそうです。父は良く、今年はうまくいったとか、運が悪かったとか言っていたのを憶えています。



ビニャーレス渓谷
  
 高台に数件のホテルがあり、そこから渓谷を見渡せるようになっています。渓谷というより盆地のような平野です。ここで以前タバコの栽培がされていたとのこと、現在は、その景観を守るよう、保存協会が育てているのだそうです。盆地の中央に石灰岩から出来た丸まった岩山がありますが、この付近は石灰岩で出来ているようです。




鍾乳洞探索
  
 入口から少し入ると裸電燈がつらさがっており、それに沿って歩いて行きます。約100mぐらい進むと、池に出ます。そこから船に乗りますが、船の進むところはぼぼ真っ暗です。約250m進むと外に出ました。
 今まで数多く見た洞窟の中では、かなり小さなスケールでした。 
 この洞窟は植民地時代は奴隷の隠れ家で、独立戦争時代は革命家の隠れ家だったそうです。



昼食レストラン
  
 洞窟を出ると、土産屋があり、再びバスに乗り、昼食レストランへ向かいました。レストラン脇の山の岩肌に絵が描かれていました。完成するまで数年かかったそうです。
 なお、キューバを走っている観光バスはすべて中国製で同じ姿をしています。キューバは中国からしか買わないのか、それとも、アメリカからの報復が怖くてほかの国は売らないのか分かりませんが、納品してもお金を受け取れないリスクもあるようです。



至る所に洞窟があり、隠れるのには便利なようです。 



ホテル

 今日は3連泊の最終日です。部屋に入ると、シーツが何やら鳥のようにしかれて居ました。面白いので写真に収めました。
 テレビのチャンネル数は普通の国と同じぐらいたくさんあり、CNNも見ることができます。ただし、これは観光用のホテルに限られており、ガイドさんによると一般の家庭では5チャンネルしか見られないそうです。それらはすべて国営で、内容は教育的なものが多いようです。国営の上に、内容はかなり制限され、放送の自由は無いそうです。
 インターネット用の部屋もありますが、1時間800円でそれもスピードが非常に遅いそうです。今回の旅行では一度もインターネットを使用しませんでした。


        

4日目 シエン・フエゴスで世界遺産観光後、世界遺産トリニダー観光

 朝8時にホテルを出発。シエン・フエゴスまで約250q、約3時間30分、途中、アグアダ・デ・パサヘロにてトイレ休憩。シエン・フエゴスからトリニダーまでは約80q、約1時間30分。ホテル到着は午後5時を予定。



途中の風景

 キューバの7割は平地だそうです。日本とは大違いです。しかし、人口が少ないため、放置された農地がたくさんあります。現在は砂糖農園も政府の政策で撤退しています。ただし、ところどころ、サトウキビ畑を見ることがあります。たばこ畑もあります。稲作もされているようです。



シエン・フエゴス市内観光(世界遺産)

 シエン・フエゴスとはスペイン語で「百の炎」という意味だそうです。
 この町は19世紀の初めごろから、サトウキビやコーヒー、タバコの交易の場として大いに栄えました。
 主にフランスからの移民が多かったために、コロニアル調の華やかな建物が並んでいます。2005年、町全体が世界遺産に登録されています。
 公衆電話があったので、写真に収めました。キューバでのはまだ携帯電話が普及しておらず、携帯で電話をしている人は一度も見たことはありませんでした。



トリニダー(世界遺産)
 
 キューバに残る古い町で世界遺産に登録されています。トリニダーの近くにはたくさんのサトウキビ畑が作られ、砂糖産業の中心地になりました。また、奴隷貿易の中心地として繁栄して来ました。砂糖で財産を築いた農園主は争って立派な家を作り、また、畑の中には50qも先まで見通せるといわれる、高さ44m、15階建てのビルに匹敵する高い塔も建てました。この塔は奴隷を監視するために作られました。しかし、19世紀の中ごろ、奴隷制度が廃止されると、徐々に衰退して行きましたが、当時の美しい町並みは残ったままです。
 当時、自由を手にした多くの人たちはハバナへ移住し、また、時を同じくしてスペインからの独立も達成しました。



市立歴史博物館

 当時の奴隷の悲惨さなどが忍ばれる博物館で、屋上に登ると市街地を一望できます。遠くに革命博物館が見えます。



サンテシマ広場散策
 
 何とも美しい町並みです。昔の石畳がそのまま保存されています。教会は残念ながら閉まっていました。
 街の奥の方にお土産屋があり、約30分ぐらい各自自由散策でした。なぜか、民家に窓にはどの家にも鉄格子が付いていました。治安は非常に良いと聞いていましたが、昔の治安の悪かった時代の名残なのでしょうか。
 ここに居ると、時はゆっくりと過ぎてゆくような感じになります。



ラ・カンチャンチャラ
    
 ラムにハチミツとレモンとミネラルを混ぜたレモネードのようなもので、お酒が苦手な人はラム酒を入れないで飲みます。キューバ音楽が奏でられていました。



ホテル クラブ アンコン
   
 キューバの観光地のホテルはオールインクルーシブのシステムが多いようです。チェックインすると腕に紙のリストバンドを付けられます。これがあると、ホテル内の食事、飲み物など、すべてが無料で楽しめます。日本にも、食べ放題、飲み放題のホテルがたくさんありますが、このホテルは24時間、飲み放題で、屋外ではショーも開催されており、バーでお酒を飲みながら、ダンスを楽しむことも出来ます。



野外ショー
   
 屋外のショーに行ってみました。動きの激しいダンスが続いていましたが、飛び込むとプロのダンサーが一緒に踊ってくれるようです。まだ幼い女の子が舞台の前で一生懸命踊っていました。ダンサーの子供さんなのでしょうか。観客席の後ろにはバーがあり、すべての飲み物が無料でした。


         

5日目 サンタクララ観光後、バラデロへ
    
 今日は7時半に出発です。ロスインフェニオス渓谷で砂糖畑の谷を観光後、サンタクララに向かいます。約88qで2時間です。サンタクララ観光後、今夜の宿泊地、バラデロへ向かいます。約190q、約3時間です。ホテル到着は午後4時半の予定です。



ホテルの海水浴場 

 朝早く、海岸を散歩してみました。ここはカリブ海です。24時間オープンのバーでキュー特産のコーヒーを頂きました。何を飲んでもここでは無料です。



ロス・インフェニオス渓谷
   
 トリニダーから約12qの所にある盆地で、かってはサトウキビ畑が広がり、18世紀末から19世紀末まで、砂糖生産の中心地でした。当時、この渓谷には50以上の製糖工場が稼働し、3万人もの黒人奴隷が働かされていました。トリニダーとともに、ここも世界遺産に登録されています。当時は、砂糖を海岸まで運ぶために専用鉄道も作られました。
 



奴隷監視塔

 奴隷を監視する目的で作られた塔でその高さは45mもあるそうです。50qも先まで監視することが出来たそうです。



車窓から
  
 バスから眺めていると、何やら、線路補修をしている人たちがいます。
 仕事をしているのか、さぼっているのか、とにかくだらだらとした動きです。
 白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫であると言ったケ小平の言葉が思い出されます。努力した人と、そうでなかった人との差をつける方が、より平等であると考える方が人類の発展には大切なようです。
 ただし、適度の規制は必要で、それがないと貧富の差が跳び抜けて広がってしまいます。



配給手帳
    
 これはガイドさんの配給手帳ですが、今も配給制度があり、主な主食、副食品は配給所で購入するそうです。
 なお、この写真の配給手帳は数年前のもので、毎年、新しいのが配られるそうです。
 配給といっても有料で、それでも足りなければだいたい3倍の値段になりますが市場で買うのだそうです。
 日本も戦後配給制度がありました。我が家は農家のため、食品を買うことはなく、配給の実感はありませんが、私が大学時代、寮に入っていましたが、そこで食券が配られ、町の一般の食堂で食事をするとき、その券を持ってゆくと少し安くなったことを憶えています。ただし、卒業するころには廃止され、食券の価値はなくなりました。戦後だいぶ長い間、日本にもそのような制度があったようです。
 配給制度は物不足が慢性化している時に必要な制度で、政府の管理で支給されます。江戸時代にも飢饉のときにはそのような制度が設けられました。
 絶対政権で社会主義国家のキューバでは、国家への忠誠が絶対で、反政府的の行動をとると、牢獄に入れられてしまいます。今もたくさんの政治犯が牢獄に入れられており、時々、国際的話題になります。
 ガイドさんは、非常に慎重な言葉を使いながら、キューバの現状を説明してくれました。ただし、厳しい質問には答えませんでした。



サンタクララ
   
 キューバのほぼ中央部にある人口20万人の町ですが、周辺地にはサトウキビ産業やタバコ産業が発達し、大いに栄えました。
 この町はキューバ革命のとき、ゲバラによって解放されています。そのため、サンタ・クララに、チェ・ゲバラの霊廟が作られています。霊廟内部は写真禁止でした。
 チェ・ゲバラは、1928年、アルゼンチンで生まれています。かなりの秀才で、医学大学を卒業し、博士号もとっています。
 カストロとはメキシコで出会い、その革命思想に共感し、革命軍に加わります。カストロはゲバラの2歳年上でした。
 チェ・ゲバラの働きにより革命は成功します。しかし革命成功後、ソ連に対する対応でカストロと意見が分かれ、キューバを去り、アルジェリア、コンゴなどで革命を続けてゆきます。キューバをはじめ、いずれも外国での革命であり、真に革命運動が好きだったようです。
 最後はボリビアで革命を起こしますが失敗し、銃殺されます。39歳でした。



カピーロの丘

 町全体を見下ろせる小高い丘で、登るのに10分ぐらいかかりました。 




列車襲撃跡
   
 チェ・ゲバラが列車を襲撃し、革命を成功させました。今、それらが博物館として残されています。写真を撮ると有料ですが、見学だけなら無料です。
 しばらく、道路脇に立って町の様子を眺めていると、かなり古いですがバスも走っています。鉄道もありますが、不定期のようです。しっかりした時刻表は無いそうです。スクールバスも見かけました。馬車や人力車はインフラとして必需品のようです。



 途中の風景です。



ホテルの風景

 かなり広いホテルで、食堂に行くにも5分ぐらい歩きます。ここも、昨日と全く同じシステムで、すべての飲み物が宿泊代に含まれています。
 カードキーがうまく動作せず、ロビーと部屋を3度ほど往復しました。他にも何人かカードキーが動かなかったようです。
 これだけ広いホテルなのに、ロビーのフロントには女性が2名しかおらず、対応も非常に悪く、添乗員がどなっていましたが、ほとんど効き目はありませんでした。


        

6日目 コヒマルでヘミングウェイ博物館見学、キューバ人お宅訪問
  
 このホテルは大西洋に面していますが、海水浴を楽しみたい人のための、今日の出発は10時とゆっくりです。その後、ヘミングウエー博物館のあるコヒマルまで140q、約2時間のバスの旅です。 コヒマルは、ハバナのすぐそばですが、その近くで、キューバ人のお宅を訪問します。



海岸散歩
   
 何か、昨日の海岸と非常によく似ています。朝早く、海岸へ行ってみました。私たちのグループの中に、ぜひキューバへ行ったら泳ぎたいと思っていた人たちが居たようで、もう泳いでいました。


 途中、トイレ休憩のとき、ボンネットを開き修理している人が居ました。ちょっと覗いてみました。年代物で、エアーフィルタは取り外されています。
 以前、タイ王国に行った時、タクシーが故障し、エンジンルームを見る機会がありましたが、その車にもエアーフィルターがありませんでした。日本車のかなりの中古車でしたが、我々は、エアーフィルターを丁寧に定期的に掃除しなければならにと教えられていましたから、大変驚きました。
 車体が重いためでしょうか、パワーブレーキが付いていました。重い車には必須なのでしょう。
 まだ、私が若かった頃、よく、アメリカで車を借りては運転しました。当時、技術的にはアメリカの車の方が日本の車に比べ、はるかに進んでいました。
 驚いたことに、レンタカー会社には日本車もありましたが、日本車は一般にスモールカーと呼ばれていました。小さい車に限れば、日本の方が進んでいたのかも知れません。
 せっかくアメリカに来たのですから、少しは借り賃が高くてもアメリカの車に乗りたいので、コンパクトカーと言う比較的小さい車をよく借りましたが、それらには、オートマチックギアー、パワーハンドル、パワーブレーキ付きが一般的で、その素晴らしさにほれぼれした記憶があります。
 日本でも、クラウン、セドリッククラスには、パワーハンドルが導入され、会社の運転手が自慢していたのを覚えています。我々が買える一般大衆車に初めてパワーハンドル、パワーブレーキを導入したのはホンダのシビックでした。そのため、早速それを購入したのを覚えています。それ以前はハンドルが重く、遠乗りすると、大変疲れましたが、パワーハンドルになってからは疲れなくなったのも覚えています。
 なお、余談ですが、私の趣味の一つは、車を分解しては再び組み立てることでした。一度、軽自動車でしたが、エンジンを分解したまま放置して置いたところ、会社へ行っている間に子供たちがそれをおもちゃにして、エンジンの中に土をいっぱい入れ、花を活けられてしまったことがあります。でも、ていねいに掃除をし、再び組み立てたとき、無事に動かすことが出来ました。びっくりした出来事でした。今考えるっと、良く動いたものだと思います。
 当時の軽自動車の技術は、オートバイ並みに単純だったのです。



コヒマルで昼食
  
 コヒマルはハバナから車で約30分の地にあります。
 ヘミングウェーがよく来たといわれる食堂で昼食でした。食堂の角にヘミングウエーの像が飾られていました。何やら、魚を縄を使って捕っている人が居ました。



ヘミングウェー 映画「老人と海」の舞台
   
 1958年に公開された老人と海はこの舞台で撮影されました。ただし、ロスアンゼルスにも大きな舞台を作り、そこで大半は撮影されたそうです。
 孤独な老人と、巨大カジキとの格闘の物語です。
 日本に帰ってきてから、レンタルビデオで久しぶりに見てみましたが、主役、スペンサー・トレーシーの素晴らしい演技に感動しました。
 なお、その映画には、下の写真の3枚目にあるヘミングウェーの銅像はありませんでした。かなり後になって作られたのでしょう。
 



ヘミングウェイー博物館

 ヘミングウェーは、アメリカのシカゴで生まれ、その生涯をいろいろなところで過ごしたため、それら各地にヘミングウェー博物館が作られています。結婚、離婚を4回も繰り返したそうです。ここでは約20年間暮らしています。
 彼はここからコヒマールの港に向かい、愛艇ピラール号に乗ってカジキ釣りを楽しみました。
 ヘミングウェイの死後、博物館として公開されています。蔵書は9000冊以上を超えるそうです。



キューバ人お宅拝見
   
 ツアーにはキューバ人のお宅拝見というプログラムが組みいられていました。現地人の男性と結婚した日本人女性のお宅です。実家は東京で時々帰るそうです。旅行社に務めている関係で、自宅を観光客に開放しているとのことです。
 キューバではなんでも大切に使用するので、東京の日本人の暮らしにはビックるするといっていました。
 台所にも案内していただきましたが、非常に古いトースターにはガムテープを貼られ、大切に使用されていました。ネズミも多いようで、手製のネズミ取りが置いてありました。
 家の増設、改築は政府の許可が必要ですが(日本でも建ぺい率などが定められており、確認申請が必要で、また、それに基づき資産税が課せられます) 観光客を迎え入れる下の一枚目の写真の小屋は、政府から許可されず、やむを得ず、茅葺屋根にし、建屋ではないスタイルにしているそうです。
 屋根がないと、夏になれば土地は焼け付くように熱くなり、卵焼きが作れるそうです。
 キューバは貧しいものの、社会主義の良い点なども説明していただきました。 


         

7日目 早朝、ホテルを出発し、トロント経由、成田へ

 いよいよ、旅も終わりに近づき、朝5時にホテルを出発し成田に向かいます。
 ハバナ空港の時刻表を見ると、発着便はかなり少ないようです。
 ハバナからトロントへは来る時と同じ、2席+2席の小さな飛行機で、朝7:35に出発し約3時間半の飛行でした。
 トロントをちょうどお昼の12:00に出発し、13時間の飛行後、成田に到着しました。到着時間は8日目の15:10でした。 
 今回の旅は、民主化からとり残され、50年間、時間の止まった町と言われるキューバを実際に見ることができて、よい社会勉強にもなりました。カストロ兄弟も老齢化し、若い人たちとの考えもだいぶ違ってきているはずです。
 世界の過去の歴史を見ると、人類の発展は、個人の自由と権利を大切にした民主的で、かつ博愛の精神を持った社会を作くって行くかのようです。20年前の東欧の民主化や最近のアラブ諸国における民主化の動きが、中南米の国々にどのように影響を与えるか、人類の幸せと発展に関しても注目すべき問題です。
 なお、旧ソ連や中国が経済の自由化を果たし、今や中国は世界第二の経済大国になっていますが、両国ともに、役人の汚職や貧富の拡大は我々の想像を絶する状態になっているようです。独裁的国家であった体質がまだまだ残っているようです。 
 





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