雪の中尊寺と三陸海岸
2012年3月7日〜3月9日


 毎年、冬になると雪を見たくなり、温泉を探してはドライブをしていますが、1年前の東北大震災以降は、できるだけ東北地方に行くようにしています。
 今年は花巻温泉と福島県の高湯温泉に泊まり、また、被災後ちょうど一年経った三陸海岸にも、もう一度行ってみました。
 花巻温泉の近くには平泉の中尊寺があり、そこには何度か行っていますが、昨年、毛越寺と合わせ世界遺産に登録されたこともあって、再度行ってみました。東北地方では初めての世界遺産登録だそうです。


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 全画面にしてご覧ください。1枚目から2枚目に移る際、時間のかかることがあります。
 ただし、2枚目からは軽快に動きます。



観光内容
1日目 平泉経由花巻温泉へ
2日目 大船渡から気仙沼経由、福島へ
3日目 温泉からまっすぐ自宅に帰る

    

1日目 平泉経由花巻温泉へ

 何度か行ったことのある中尊寺ですが、雪の中尊寺も見てみたくなり、行ってみました。
 宿は有名な花巻温泉にしました。


中尊寺

 中尊寺は奥州の藤原清衡により1105年に設立されています。清衡が50歳の時でした。
 それを遡る約400年前の西暦794年に都は奈良から京都に移り、いわゆる平安時代になりましたが、奥州藤原氏が大いに栄えたのは、平安末期、清衡が奥州を制覇統一した1087年から、源頼朝に滅ぼされるまでの約100年間でした。
 奈良の大仏をはじめ、日本には沢山の大仏が作られていましたが、それらには金箔が貼られ、極楽浄土の姿を現していました。当時から金は極めて貴重品でした。当時の日本では奥州でのみ金が産出され、朝廷は官軍を奥州に送り、地方の豪族を支配し、砂金から取り出した金を京都に持ち帰っていましたが、朝廷軍や地方の豪族間での三つ巴の争いが続き、また、朝廷は関東の源氏をけしかけるなどして、その争いは悲惨を極めていました。そのような中、最後に勝ち残ったのが若干32歳の藤原清衡でした。
 清衡はその戦いで父や妻、子までも殺されながら勝ち残るという極めて数奇な運命を生き抜いてきました。
 清衡は政権を取った後、京都の有力者に奥州で生産された金品を積極的に送り、朝廷からの支配を避けることに成功します。
 当時の日本は京都以西の平氏と関東から近江を支配する源氏が勢力争いを続けており、朝廷も奥州にまで軍を派遣する余裕はありませんでした。このころ、奥州は蝦夷と呼ばれ、どちらかというと、朝廷からも軽く見られていました。
 藤原氏は奥州の政権を確立した後、北上川沿いの平泉に都を定め、金色堂をはじめ、たくさんの寺院や仏塔を作り、独自の文化を作り上げていました。争いのない極楽浄土の世界を実現するのが清衡の夢でした。三代目秀衡のころには、平泉の人口は10万人にも達し、京都に次ぐ大都市にまで発展しました。
 平安末期、都では平清盛がひきいる平家が栄華を誇っていましたが、1180年、源頼朝は平家打倒を掲げ挙兵します。頼朝は鎌倉を拠点に関東各地の勢力を一気に集め急速に拡大しました。それに恐れをなした平清盛は奥州藤原秀衡に頼朝への攻撃を要請しましたが、以前から中立を旨としていた藤原氏はそれに応じませんでした。
 1185年、源氏の軍勢は義経の働きもあり平家を圧倒し、平家は壇ノ浦の戦いに敗れ滅亡します。かくして、源頼朝は関東から西日本全体を束ねる武士の総大将になり、日本のリーダーが朝廷から武士の世界へと変革しました。
 頼朝の次の目標は奥州藤原氏を部下に引き入れることでした。
 ちょうどその頃、頼朝に疎まれた義経は弁慶を引き連れ、奥州藤原氏の元へと逃げてゆきます。頼朝は秀衡に義経を引き渡すように要請しますが、秀衡はそれを断りました。中立を旨とし、他の軍門に下るのを嫌っていた秀衡は、17万人もの武士を有しており、義経や弁慶がいれば、戦争には負けないと思っていました。しかし、1187年、秀衡は病に倒れ亡くなります。
 頭首を失った藤原氏は衰退の道を歩み始めますが、秀衡の死から2年後、源頼朝率いる大軍勢により、平泉は火の海となり、藤原氏は滅亡してしまいました。その時、藤原氏の壮麗な館も失われ、当時の記録のほとんどは無くなってしまいました。
 ただし、頼朝は部下たちに寺を焼くことを禁じており、金色堂を含む幾つものお寺は守られました。
 その後の度重なる火災により多くの堂塔が消失してしまいますが、江戸時代の伊達正宗をはじめ代々の仙台藩主は手厚く東北の文化を保護して来ました。  



金色堂

 写真は禁止なので頂いたパンフレットをコピーしました。
 金色堂は1124年、小高い丘に造られ、3万枚を超える金箔と華麗な装飾で覆われています。推定では、京都から来た職人など100名が2年ほどかけて作ったと言われています。
 当初の金色堂はだれでもが見えるよう、お堂には囲いがなく、雨風に直接さらされていました。覆い堂によって金色堂が保護されるようになったのは建設の約160年も後の1288年、鎌倉時代でした。
 現在はガラスの内側に保存され、誰も近づくことが出来ないようになっています。
 この仏像の下には、100年に渡り栄華を極めた初代清衡と、その左右には息子の基衡、孫の秀衡がミイラとなって眠っています。なお、秀衡の子の泰衡は首級だけが保存されています。
 この金色堂の完成後わずか2年で清衡は亡くなります。享年73歳でした。



表参道月見坂

 参道の月見坂は雪で覆われ、滑りやすいので、わらで作られた簡単な滑り止めが、だれでも靴につけられるよう、道端においてありました。
 入口から金色堂までは約700mもあります。道の両側にはいくつものお堂が建てられています



金色堂

 写真はここまででした。入口の近くに松尾芭蕉の像が建てられていました。
 「五月雨の降り残してや光堂」 と詠んでいます。



 
 境内の奥には能舞台があり、行ってみました。また、かなりの雪が残っていました。



毛越寺浄土庭園

 争いのない浄土の世界を作ろうとした清衡の思いはその息子基衡にも引き継がれ、基衡は平泉の大通りに毛越寺を建てました。当時、大きな南大門を入ると、極楽浄土を荒した本殿が人々を出迎えました。
 この毛越寺には池の周りに40もの堂塔があり、その規模は中尊寺を超えたと言われています。孫の秀衡は、京都平等院にも勝る無量光院を建てています。
 これらすべての建物はその後の戦いや度重なる火災で焼失し、現在残っているのは毛越寺にある池だけだそうです。
 現在、毛越寺に入ると幾つものお堂が建てられていますが、新本堂は平成元年に造られています。


 毛越寺の大きな池は海を表しているそうです。また、池の中には大きな立石があり、一度見たら、目に焼くつく独特の素晴らしい姿をしています。
 ただ、今回は池全体が雪に覆われ、独特な立石も良く見ることが出来ませんでした。やはり毛越寺の庭園は、雪がないほうが良さそうです。


     

2日目 大船渡から気仙沼経由、福島へ

 東北大震災が発生してから、ちょうど1年経ちますが、その後どうなっているのかもう一度訪ねてみようと思い、津波のひどかった陸前高田を中心に走ってみました。
 



 泊まった花巻温泉にはまだ雪がたくさん残っていました。 



大船渡
 
 大船渡に入り南下しました。雪はほとんどありませんでした。
 南リアス線はずたずたになったままでした。将来開通したらもう一度来てみたいものです。
 



碁石海岸
 走っていると碁石海岸の看板が出ていました。囲碁を趣味とするのでとりあえず行ってみました。
 確かに、海岸には碁石のように黒い岩があり、そのため、碁石海岸と呼ばれたようです。実際の囲碁の黒石としては那智の黒石などが有名です。
 
 


 
 脇ノ沢駅の近くのドラゴンレール大船渡線です。なぜこのような高台まで波が来たのか、想像を絶する恐ろしさがあります。



学生たちのボランティア

 ボランティアの学生と思われる人たちが、堤防に登り弁当を食べていました。 



陸前高田

 道の駅やホテルなど、これらの高いビルで助かった人、助からなかった人の話が良くテレビでよく放送されています。



 復興のシンボルとなった陸前高田の一本松です。7万本もあった広い松林の中でただ1本だけが流されずに残りました。
 しかし、今は塩分で根が腐り始め、葉が枯れ始めているそうです。
 復興を記念して、この流された松林の松を京都の大文字焼きで焼いてもらおうとしましたが、京都の人たちは、放射能が危険だとして断ったことでも有名になりました。
 枯れずに無事生き残り、なんとも悲しいこの事実を後世まで伝えて欲しいものです。


 
 気仙沼に入る少し前、大きな船が倒れずにそのまま残っていました。



気仙沼

 フェリー乗り場はかなり賑わっていましたが、一歩奥に入ると、悲惨な状態がそのまま放置されていました。
 道路を走っていると、どうしようもない暗い気持ちになってきます。
 これ以上、災害地を走るのは中止し、三陸高速道路を使用し福島まで行き、今夜の温泉地、高湯温泉に向かいました。
 

 これ以上、災害の様子を見るに忍びづ、今夜の宿へ向かいました。


     

3日目 温泉からまっすぐ自宅に帰る
 
 高湯温泉からは福島の町が望めて、夜には百万ドルの夜景が見えるそうですが、昨夜は曇っていて良く見えませんでした。
 この3日間を通して、道路に雪は全くありませんでした。





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