シチリア島・アマルフィ海岸・カプリ島
南イタリア大周遊10日間
2012年6月12日(火)〜6月21日(木)
トラピクス |
イタリアの北半分は何度か尋ねていますが、南の方へは行ったことがなく、時々見る世界遺産の映像を見ていると、何か、遠い世界のような気がしていました。
今回はちょうど良さそうなツアーがあったので行ってみることにしました。
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今回の訪問場所は、左の地図のローマ、 ガゼルタ、ナポリ、カプリ島、ポンペイ、パレルモ、モンレアーレ、アグリジェント、シラクーサ、タオルミーナ、アルベロッベロ、マテーラ、アマルフィ海岸などでした。 |
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再生速度は右下の三つの星を押すと早くしたり遅くしたりすることが出来ます。 |
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ローマまでの往復便は、タイ航空を使用しているため、バンコック経由となりました。直行便なら12時間半で成田からローマに到着しますが、バンコック経由ですと、成田からバンコックまで6時間、そこで乗り換えのため約4時間30分費やし、バンコックからローマまでは約10時間30分かかるので、合計、21時間かかることになります。大変な違いですが、旅行代金を安くするための対策ですから、我慢が肝要です。
ヨーロッパに行く場合、一般に日本を午前中に出発し、ヨーロッパには午後に到着し、ホテルで一泊することになりますが、今回は成田を午後5時に出発し、ローマ到着は朝の7時頃となり、飛行機の中での一泊となります。したがって、観光開始時間はどちらも同じですが、ホテル代が助かることになります。 |
主な観光日程を下の表に示します。
今回の参加者は合計38名と非常に多く、ご夫婦が5組、男性の2人組が1組で、その他は単独ないし友人と来ていた女性たちでした。その結果、男性7名、女性31名と女性が圧倒的に多く、女性に囲まれての食事が何度もありました。どうも、女性はイタリアが好きなようです。
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1日目 成田からバンコックまで
成田からローマまでの座席を記入した搭乗券はすでにガイドさんが用意しており、希望した席に座れました。人数が38名と多いこともあって、ガイドさんが前もって席を決め、不満の出ないように席を決めたようです。 |
ここでは、イタリアについて書いてみました。
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左はイタリアの地図と国旗です。 |
イタリアはフランス、スイス、オーストリア、スロベニアと国境を接し、アドリア海を挟んでクロアチア、モンテネグロ、アルバニア、ギリシャと面しています。また、南側にはチュニジアが地中海を挟み、わずか
150qの位置にあります。また、マルタ共和国はシチリア島の南、90qのところにあります。
緯度でみると、日本に良く似ていて、北のミラノは北海道、南のシチリア島は四国あたりに相当します。
イタリアは地中海のほぼ中心に位置し、多くの文化の中心でもあり、古くから文明が発達し、シルクロードはローマに通じていました。
現在の人口は6000万人で日本のほぼ半分ですが、面積は日本の約80%です。
2011年のGDPは日本の約4割ですが、人口は半分ですから、一人あたりに直すと日本よりは少し少なくなります。ただ、ユーロの価値がこのところ下がっているので、もっと少なくなっていると思われます。
現在、ギリシャ問題を中心に財政赤字が大きな問題になっていますが、かなり昔からイタリアの財政赤字はGDP比で130%ぐらと大きく、よく話題にされていますが、年々増加し、200%を超えてしまった日本よりはだいぶ良いようです。
しかし、日本は国際経常収支(黒字)が世界のトップランクに位置しており、一方、イタリアは世界トップクラスの経常赤字国で、時々話題にもなります。なお、経常収支がダントツに赤字なのはアメリカです。
歴史的にみると、その歴史は良く知られたローマ帝国の話から始まります。
王政、共和制を経て、紀元前27年、ローマ帝国が誕生します。
ローマ帝国は巨大な軍事力と経済力によりローマを中心に領土を広げ、地中海沿岸全域と北はイギリスに及ぶヨーロッパのほぼ全域や北アフリカを征服し、繁栄した帝国の国境線は15,000kmに及びました。そして領土の拡大により軍事費も拡大してゆきました。それでも、ローマ皇帝の放漫財政と民衆を喜ばせるためのばらまき政策を止めようとしませんでした。
やがて、財政は破綻し給料が減った兵士たちは互いに争うようになりました。そして内乱状態に陥った帝国に異民族が侵入してくるようになったのです。
そのため、3世紀後半、ローマの周囲に城壁が作られました。異民族の侵入に防備を固めなければならないほどの状態に陥っていたのです。栄華を誇ったフォロ・ロマーノなどの建物が次々に壊され、城壁に作り替えられて行きました。
西暦395年、ついに、400年にわたって繁栄してきたローマ帝国は、東ローマ帝国と西ローマ帝国に分裂してしまいます。ローマの属する西ローマ帝国はゲルマン人の侵入により476年滅亡し、滅ぼしたオドアケルがイタリア王になりました。しかし、553年には全土を東ローマ帝国に組み入れられます。その後、イタリアはいろいろな民族に侵入され分裂状態になってしまいます。
962年からは神聖ローマ帝国に属するようになります。その後、ヴェネツィア、ジェノバ、ミラノ、シエナ、フィレンツェなどの商業都市が発達し、各々,自治権を獲得し、都市国家へと発展してゆきました。一方、南イタリアにはいろいろな民族が侵入し、シチリア王国が作られたりしました。しかし、15世紀末から2世紀以上にわたって、フランス、スペインに翻弄され、また、オーストリアの支配下にもなったりします。
18世紀末、イタリアに侵攻したナポレオンは全イタリアを征服しますが、1815年、ナポレオンが失脚すると、再び、分裂状態になります。
その後、1861年にエマヌエーレ2世により統一され、イタリア王国が成立し、ローマが首都となりました。
第二次世界大戦では、ドイツ、日本とともに枢軸国として戦いますが、1945年、ムッソリーニ政権が崩壊します。
戦後、国民投票により、王政が廃止され、イタリア共和国が誕生しました。
第一次世界大戦、第二次世界大戦でのきわめて大きな悲惨を味わったヨーロッパの国々は、再び戦争を起こすことの無いよう、1957年、過去に戦った国々の6か国(ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ)がローマに集まり、ローマ条約が結ばれます。参加各国がなぜローマを選んだのか、たぶんに昔、ヨーロッパを統合したローマ帝国の姿を思い浮かべたのかもしれません。
ヨーロッパ各国は、第一次世界大戦、第二次世界大戦により、軍事力による統合は不可能であることを学びました。また、ヨーロッパの統合はヨーロッパ各国の望みでもありました。
1953年に作られた映画ローマの休日をイタリアから自宅に戻った後、再び見てみました。だいぶ古い映画ですが、オードリー・ヘップバーンの演じる某国の王女アンと、グレゴリー・ペックの演じるアメリカの新聞記者が、ローマの主な観光地、スペイン広場、コロッセオ、パンテオン、トレビの泉、真実の口などを回り歩くストーリーですが、王女が自由を味わったのはわずかの1日だけでした。王室に戻った王女アンは、報道関係者と会見しアンは再び、グレゴリー・ペックが演じる新聞記者と出会います。
その時の会見の様子は以下のようでした。面白そうなので映画の字幕を参考に書いてみます。
Her Royal Highness will now answer your questions.
只今より、王女は皆さんの質問にお答えになります。
I believe at the outset, Your Highness, that I should express the pleasure
of all of us, at your recovery from the recent illness.
まず、初めに一同を代表いたしまして、突然のご病気から快癒されたことに対し、心からのお慶びを申し上げたいと思います。
Thank you.
ありがとう。
Does Your Highness believe that federation could be a solution to Europe's
economic problems?
王女となさいましては、連盟構想がヨーロッパ諸国の経済問題の解決に役立つとお思いになりますか。
I am in favor of any measure which would lead to closer cooperation in
Europe.
ヨーロッパ諸国の協調体制を促すための計画や手段にはすべて賛成です。
And what, in the opinion of Your Highness, is the outlook for friendship
among nations?
重要なのは諸国間の友情ですが、その将来についてはどのようにお考えになりますか。
I have every faith in it.... as I have faith in relations between people.
私は国家間の友情を信じます。人と人の間の友情を疑わないように。
May I say, speaking for my own press service,...we believe that Your Highness's
faith will not be unjustified.
私の務める新聞社を代表して申し上げますが、王女の信念は裏切られないと堅く信じております。
I am so glad to hear you say it.
それを伺ってうれしく思います。
ローマ条約は6か国で締結されていましたが、6国内での経済の向上に非常に役立つことを目にしたイギリスは、連盟に入りたいと申し出ますが、当時のフランス大統領シャルル・ド・ゴールは強硬に反対します。
イギリスが連盟入りを果たしたのは ド・ゴールが政権を退いた後の1973年でした。
その後、EU加盟国は増え続け、2007年には27か国まで拡大し、現在に至っています。なお、ノルウェーやスイスはEUに加盟しておりません。
この5年間、EU加盟国の増加はありませんが、拡大し続けると必ず破綻に至るという歴史をも学んだのかもしれません。
それらの国々が統一通貨ユーロを2002年に導入します。
EU加盟国でも、イギリスや、スウェーデン、デンマークなどユーロを導入していない国もあり、また、導入資格に達せず、ユーロを使用していない国などがあります。
ユーロ導入国の拡大にも、やはりいろいろな問題と破綻を含んでいるようです。
イタリアは観光大国でもあり、世界遺産は47カ所と世界一になっています。
良く知られた言葉に「永遠の都市、ローマ」や「ナポリを見てから死ね」などもあります。
なお、海外からの観光客が最も多いのはフランスでスペイン、アメリカ、中国と続き、イタリアは第5位にランクしています。
残念ながら日本は30位ぐらいに位置し、東日本大震災の影響もあり、国の観光収支はかなりの赤字になっています。 |
2日目 午前、ローマ歴史地区(世界遺産)、
午後カゼルタ王宮観光(世界遺産)
ローマのレオナルド・ダ・ヴィンチに到着したのは午前7時の少し前で、午前中はローマ歴史地区の観光です。
今回の旅行は主に南イタリアであり、ローマ地区の観光は、ほんの付け足しです。
今回のツアーに参加したほとんどの人は、すでにローマに来たことがあるようですが、ローマをもう一度、さっとでも良いから観光したいというのは誰しもの願いであるようです。
ローマは意外と小さく、20年ほど前に数日間滞在し、ほとんどの名所を歩いて回ったのを覚えています。ローマには、さまざまの時代の建造物が残っており、たくさんの広場や噴水があり、歴史的建造物の宝庫でもあり、まさに、永遠の都市なのです。
ヴァチカン市国やその中の美術館も見たことがありますが、ヴァチカン市国の見学には1日以上が必要でした。
今回のヴァチカン見学は、旅行社の案内によると1時間と書かれており、どうするのだろうと思っていたところ、案の定、空港からバチカンまでは大渋滞で見学開始がかなり遅れた上に、入場のために長い列が出来ており、外観だけの観光になってしまいました。まあ、内部見学中止はやむを得ないでしょう。
午後はナポリに向かい、途中、カゼルタ王宮(世界遺産)の観光です。 |
ヴァチカン市国 サン・ピエトロ大聖堂
イタリアの首都、ローマの中心にあり、半径500mの円にすっぽりと収まる世界で最も小さな国です。周囲をぐるっと歩いても40分ほどです。その中心に世界最大のサン・ピエトロ大聖堂が建てられています。
サン・ピエトロとは聖ペトロのことで、ペトロはイエスから天国への鍵を与えられ教会を指導せよとの命を受けていました。この大聖堂は4世紀、聖ペテロの殉教の地に建てられ、聖ペテロが初代のローマ教皇となっています。
11億人の信者の頂点に立つローマカトリックの総本山で、カトリック教徒にとって最大の巡礼地となっています。
現在の教皇はベネディクト16世で、2005年、教皇についた時は、大分話題になりました。もうそれから7年もたちます。
軍隊を持たないこの国を警備しているのはスイスの衛兵たちです。16世紀の初めから、教皇を守り続けています。しかし、実質的に警備をしているのはイタリア警察であることは言うまでもありません。
ヴァチカン市民は1000名に満たず、主に聖職者で、約3000名が毎日、通勤し、内部で働いています。 |
ヴァチカン市国・サンピエトロ広場
大聖堂の前にあるサン・ピエトロ広場は17世紀に活躍したベルニーニが設計し、ヨーロッパで一番美しい広場と言われています。中央にオベリスクが据えられ、左右から広場を囲んだ列柱回廊の柱の総数は284本で、1666年に建設されています。列柱は見る場所によって1本から4本までに見えます。回廊の上には140もの聖人像が並んでいます。 |
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂
ヴェネツィア広場にある記念堂です。
イタリア統一を記念して、19世紀から20世紀に移るころに造られています。近代イタリアを代表する、全体が白い大理石で作られた建造物です。 |
コロッセオ
西暦70年に作られた古代ローマを象徴する巨大な円形闘技場で、高さ57mの4階建てになっています。現在の15階建てのビルに匹敵するそうです。このコロッセオの骨格は鉄筋を使用しないコンクリートで作られていて、表面は大理石で飾られていました。コンクリートはコロッセオ全体の80%に相当します。残りの20%は全体を支える石で出来ています。地下や観客席はすべてコンクリートで作られていました。
当時のコンクリート技術は極めて優れていて、直径40mを超えるドームを持つパンテオンもコンクリートで作られましたし、ローマ最大の公共施設である地下に掘られた大きな下水道は厚さ30pのコンクリートで出来ています。これは現在も使用されているそうです。
このコンクリートは堆積して固まった火山灰を砕いて作られました。火山国イタリアには火山灰がたくさん堆積していました。その細かく砕かれた火山灰に石灰と水を加えると、数時間で固まります。強固なコンクリートを作るためには、その中に、砂や砂利、小石などが入れられました。その配合比率もきわめてよく研究されていました。
石積みで建造物を作るには高度の石積み職人が必要でした。しかし、コンクリートなら、木やレンガに枠組みを作り、それに流し込むだけですから、作業に携わった奴隷たちでも容易に作ることが出来ました。
コロッセオの建設には膨大な量の石材も必要でした。その石は奴隷たちにより切り出され、運ばれて来ました。それは極めて過酷な労働で、地獄さながらの状態でした。
この奴隷から逃れるため剣闘士になり成功し、自由の身となった物語が、映画グラディエーターに描かれています。
この闘技場には約5万人の観客席があり6世紀の前半まで使われていました。そこで行われたのは、人間と人間、もしくは人間と猛獣の決闘でした。
そして、地下には人々をより熱狂させる装置が作られていました。地上に持ち上げるための人力によるエレベーターです。このエレベーターで猛獣たちが地下から持ち上げられます。
最前列の中央に席取っていたのはローマ皇帝でした。皇帝は決闘ショーを主宰し、無料で市民を招待していました。ローマ帝国の方針は、市民にインフラと十分な娯楽を与えることで、民心を掌握し、皇帝に対する反抗心を摘み取る、それがローマ帝国の統治方針でした。ローマ帝国はこのような都市を各地に建設することで領土を拡大し支配を固めて行きました。
建設当時、外壁は白い大理石で覆われ、数々の彫像が飾られていましたが、ローマ帝国の衰退の後、中世時代には建築資材としてほとんどが運び出されてしまい、現在見学できるのは骨組みだけになっています。
バチカンのサン・ピエトロ大聖堂の大理石もここから持って行ったそうです。現在の形状が完全な円形でないのはそのためです。ただし、1750年ごろから、この闘技場はキリスト教徒の神聖な場所として保存されるようになり、その後は壊されることがなくなりました。しかし、一時、死刑場として使用された時代もありました。
写真3枚目のコンクリートに開けられた穴には、その外側の大理石を支える金具が挿入されていました。この金具もすべて持ち去られて居ます。
なお、今回はこのコロッセオの左側にあるフォロ・ロマーノの見学はありませんでした。
右端の写真は、参考までに、GoogleEeathから、コロッセオの全体を眺めて見たものです。今はパソコンで空からもはっきりと見えるので本当に便利になったものです。 |
大変な人だかりでした。トレビは三叉路を意味しています。この泉はバロック芸術の最高傑作とも言われています。紀元前19年に作られた古代ローマの放水口を使用し、18世紀に作られています。
今回もそうですが、ガイドさんが常に言う、有名な言葉があります。
「この泉を訪れたら観光客は硬貨を投げ入れるのが習慣になっていますが、投げ入れる硬貨は必ず前もって用意しておいてください。お財布を出して硬貨を取り出そうとすると、お財布ごとなくなります。」
そして、1個投げ入れるともう一度ローマに戻って来られます。2個投げ入れると今の恋人と結婚することができます。3個投げ入れると離婚ができるそうです。そして、4枚投げ入れると、新しい恋人が出来るそうです。
前回来た時も、ガイドさんがそのようなことを言ったのを覚えています。
だれが言い出したのか、人々の切ない願いをうまく言い表しているのかも知れません。 |
カゼルタ王宮(世界遺産)
ローマから200qほど南にあり、ナポリより北28qのところにあります。ここには19世紀までナポリ王国が栄えていました。
その王宮として建てられたのがカゼルタ王宮です。
1997年に世界遺産に登録されています。 |
王宮のgoogle Map です。左は前庭、王宮、庭園で、右は、水が流れ出る滝や噴水を含めた全体図です。あまりにも広く、観光客は内部をバスで巡るそうです。今回は王宮のみの観光でした。 |
この王宮を造ったのは18歳で即位したブルボン家出身の若きナポリ王国の国王カルロ7世とその息子フェルデナンド4世でした。国王はスペイン王フェリペ5世の息子であり、ベルサイユ宮殿を造った太陽王ルイ14世のひ孫でした。当時、ナポリはブルボン家に支配されており、ブルボン王家はフランスとスペインを支配していました。
1735年、オーストリアとの戦争に勝利し、実績をあげてナポリ王となったカルロ7世は直ちに王宮の建設に掛かりました。
国王は、ベルサイユ宮殿を超える宮殿を造るように命じ、贅の限りを尽くしました。宮殿は王の権力を示す舞台だったからでした。
王宮は、ものすごく大きく、周りには壁や策が施され、合わせて20q以上も続いています。
このような宮殿は、ウィーンのシエーンブルン宮殿やサンクトペテルブルグの冬の宮殿(現在のエミルタージュ美術館)などがあります。
カゼルタ王宮には長さ3qもの庭園が造られ、その奥には78mの滝や、泉や噴水が造られました。また、そこに豊富な水を引くため、40qも先から水道橋が造られました。
東には広大な英国式庭園も造られました。王は、ポンペイの遺跡の発掘を命じ、そこから古代のローマ像を掘り出し、その庭園に飾りました。
まさに、18世紀にヨーロッパで建てられたもっとも大きな宮殿でした。
この王宮は1752年から半世紀をかけて完成しています。海からの攻撃に備えるため、内陸部に作られました。なお、カルロ7世は宮殿が完成する前の1759年、スペインの国王になっています。
宮殿は長方形で247mx184mの巨大な長方形で、漢字の田のような形に作られ、4つの中庭を持つ5階建てで、1200もの部屋があります。
王宮に入る階段には継ぎ目のない大理石で作られた117段もの巨大な階段を上ります。その上には大広間があり、すべて、大理石で作られています。
会見に臨む者は、大広間のいちばん奥の王座の間へと進んでゆきます。途中には王の権力を示す、たくさんの絵が飾られています。
王は小さな人形を愛し、人形職人を招き1200体もの人形を作らせました。人形にはナポリ庶民の生活の姿が映し出さされています。
庭園の芝の面積はサッカー場700個分に相当するそうです。もっとも、ゴルフ場と比べれば、幅が狭く、小さいかも知れません。 |
ホテルはローマよりさらに南にあるトーレエルグレコでした。午後7時ごろに到着しました。長い一日でした。夕食はそのホテルでした。
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3日目 カプリ島とポンペイ遺跡の観光
カプリ島
カプリ島は地中海の宝石とも呼ばれる島です。
ナポリ湾から30q程南にあるカプリ島に高速艇で向かいます。約45分で到着でした。島の面積は千代田区程度で島の外周は17q程度です。
下の2枚のお城の写真はナポリのヌォヴォ城です。港の近くにあります。 |
荒々しい景観のカプリ島は島全体が石灰岩からなり、海岸には60を超える洞窟があります。エメラルドグリーンに輝く緑の洞窟や有名な青の洞窟などがあります。
残念ながら、波が少し高く、青の洞窟の観光は中でした。中止の確率はかなり高いそうです。入るための料金、1000円が全員に戻されました。
以前来たときは、バスに乗り、陸上から来て、洞窟に入った記憶があります。 |
その後、島の観光です。ケーブルカーで島の上まで登り、各自、自由散策でした。朝早いのにかなりの人出でした。教会も覗いてみました。
帰りは、小さなバスに分乗して狭いクネクネ道を通り降りてきました。
もう、海水浴客で賑わっていました。 |
ポンペイ
午後はポンペイ遺跡の観光です。
下は、Google Map でナポリ近くのべスビオ山麓にあるポンペイ遺跡です。
西暦79年8月24日、その日は晴天で、普通通りの生活が営まれていました。そして、午後1時、大噴火が発生します。人口1万人のポンペイの町を襲った大噴火は当時の人々の暮らしを一瞬のう
ちに閉じ込めました。噴火の直後から18時間続いた火山灰、その後に生じた火砕流がポンペイの町を閉じ込めたのです。ポンペイの町は逃げ遅れた2000名の人と一緒に厚さ5mの地下に埋もれてしまいました。
この地が発見されたのは18世紀でした。栄華を誇った2000年前のローマ帝国の地方都市が、2000年を経てタイムカプセルになった現れたのです。
これまでの発掘で遺跡全体の4分の3が掘り出され、古代ローマの全貌が次第に明らかになってきました。その発掘は今も続けられています。
ここには建物だけでなく、逃げ遅れた人々の姿が生々しく残されています。特に、至る所に書かれた当時の落書きは貴重な証拠でした。
当時、この町の都市計画は隅々のところまで行き届き、石畳の通りには大邸宅も建てられています。 市民には無料でパンが配られ、24時間の飲み屋もあり、公衆浴場も完備されていました。
町の中心には公共広場、神殿、市場、裁判所などが作られていました。
通りは車道と歩道に区別されていました。そして、ここに1万人の人が暮らしていました。ローマ帝国時代のごくありふれた一都市でした。
初代皇帝アウグステスがローマ帝国を建設してから80年、ポンペイが栄えていた時はローマ帝国が絶頂期を迎えていた時でした。
帝国を支えていたのは強大な軍事力と経済力でした。ローマ軍は連戦連勝を続け領土を拡大してゆき、世界一の帝国に君臨していました。
ローマ帝国は占領した地方都市に、6つの施設を作ることを基本としていました。それは、共同浴場、劇場、円形闘技場、政治のための公会堂、市民が議論する公共広場、そして、神殿でした。
ローマ帝国にはきわめて厳重な階級制度がありました。上に上るためには、実績を上げる必要があり、まずは、市長になることでした。市長は選挙で選ばれていましたから、民衆が喜ぶ政策を打ち出す必要がありました。それがパンとサーカスでした。すなわち、食糧と娯楽を民衆に与えることでした。その結果、どんなに貧しい人にもパンが無料で与えられました。
地方の出身の役人でも、さらに実績を上げれば元老院まで上り詰めることも出来ました。各地方にもローマ劇場が次々と作られていったのも、こういった理由でした。
このような生活を支えるためには、帝国の拡大と、食糧を運ぶ道路網が重要でした。そして、ローマ帝国は200年にわたって戦争の無い時代を迎えます。それは人類が最も幸せであった時代とも言われました。なを、その陰には、いろいろな施設を作るための奴隷や殺し合いをする剣闘士も必要でした。
当時、快楽は最高の宝でした。ポンペイの遺跡の絵からは、鳥の羽で喉を刺激し、吐いては食べ、吐いては食べている様子が描かれています。
次第に快楽に溺れ、享楽に走る人が現れる一方、自由な時間を利用して富を増やそうと努力した人も居りました。かくして、平等の市民生活から格差が発生し、貧富の差が生まれて行きました。その結果、治安も悪くなってきました。裕福な家では猛犬を飼い、自衛する必要が生じてきました。
これらの様子がポンペイの遺跡から読み取れるそうです。
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遺跡の入り口と遺跡の公共広場
遺跡の入ると、公共広場がありました。また頑丈な石造りの大邸宅も立ち並んでいます。遠くにベスビオ山が見えます。 |
整然としたポンペイの街並みと遺体
火山灰には強力な毒ガスも混ざっており、ガスにより亡くなった人も多いようです。その人たちの上に灰が降り積もり、灰は人を閉じ込め固まりました。
長年の間に、人体が骨を残して無くなった後も、火山灰はその形を保ちました。後に発掘で見つかったこの空洞はまさに精巧な鋳型でした。
中に石膏などを流し込み、灰を砕くと、人々の死の瞬間が蘇えりました。これによって噴火当日の様子が、手に取るように分かってきました。このような遺体は、ポンペイの至るころから発見されました。
ある家族は噴火が収まるまで家の中に留まろうと決断したのでしょうか。小さなくぼみの中に4人が寄り添っていました。母親は最後の時まで、子供を抱いて守っていました。
降り注ぐ灰で真っ暗になった道の中で、皆、大切なものを携えていました。医者はメスやピンセットを抱え、ある女性は金の首飾りや銀の食器を持ち出して逃げようとしていました。 |
下の写真は順に車のわだちの後、車通行禁止。夜でも馬が迷わないような反射板。横断歩道などです。
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町の生活を支えたのは公共の水道でした。この水道からは24時間水が出ており、どの家からも一分以内に水を汲みに行けました。誰もが等しく快適に暮らせる工夫が至る所に凝らされていました。 |
売春宿も作られ、外には看板も掲げられていました。
浴室です。時間をかけてゆっくりと風呂に入るのが楽しみだったと言われています。
長い時間を過ごす浴室には美しい絵やモザイクで飾られていました。 |
当時の穀物を砕く設備で、食糧店やレストラン、立ち飲みの居酒屋もありました。 |
秘儀装
遺跡の集落から少し離れたところに孤立して頑丈な石で造られた大邸宅があります。邸宅の中には立派な中庭が作られていました。
秘儀とは秘密で行われる儀式の事で、ギリシャ神話に現れるお酒の神様、ディオニソスの秘儀を描いた絵が発見されて、この名が付けられました。
当時、毎日のパンが保障された安定した暮らしは人々にゆとりをもたらし、それが豊かな芸術をはぐくむことにつながりました。下の絵の赤はポンペイの赤と呼ばれています。
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今夜はナポリからシチリア島パレルモへフェリーで行きます。
出発は20時15分ですが、乗船開始はそのだいぶ前の19時頃でした。各自のトランクはバズの中で、客室へは必要な手荷物だけを持って入ります。窓はないものの、なかなか快適です。 |
レストランは出発前の午後8時ごろからオープンし、全員、そこで夕食でした。
食後、甲板にあがってみました。ナポリのべスビオ山が見えます。美しい夕焼けでした。
船内には、レストランのほか、バーやソファー、椅子などがあり、客室を予約しなくても寝ることは可能のようでした。ただし、ほとんどの人は客室に泊まっていました。運動部屋もありました。
パレルモ到着は朝の7時15分ですから、11時間の乗船になりました。ゆっくりと寝ることが出来ました。 |
4日目 午前、パレルモとモンレアーレを観光。午後はアグリジェントの観光
シチリア島
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シチリア島は九州の7割ほどの大きさで、緯度は日本の四国あたりに相当します。
地中海のほぼ真ん中にあり、ヨーロッパにもアフリカにも近く、交通の要所であり、文明の十字路でもありました。 |
シチリアは文明の十字路とも言われ、昔から数多くの民族が行き交わっていました。
紀元前8世紀のころ、ギリシャ人が船を使い渡って来て、島の各地に都市を築きました。中でも、最も繁栄したのはシラクーサでした。
シチリアの支配者は目まぐるしく入れ替わり、紀元前3世紀にはローマ帝国が征服しています。ローマ人にとって肥沃なシチリアは搾取の対象でした。奴隷を使って大規模に小麦を栽培し、シチリアをローマの穀倉とも呼んでいました。その後もシチリアは様々な民族に支配されています。
6世紀にはビザンツ帝国、9世紀にはアラブ人、11世紀には北欧出身の民族ノルマン人に支配されています。 |
1194年、シチリアで一人の王子が誕生しました。父親は神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ六世で、母親はノルマン朝シチリア王国王女コンスタンツァでした。
王子はやがて神聖ローマ帝国皇帝と地シリア王国の国王になる運命にありました。王子の名はフェデリコ2世でした。しかし、内乱により、王子が4歳の時、両親はなくなり、孤児となってしまいます。フェデリコ2世は7歳の時王宮を逃げ出しパレルモに逃れます。パレルモの人たちはフェデリコを暖かく保護し、その町でアラビア語、ヘブライ語なども学びました。当時、パレルモは多民族、多文化の町で、モスクやシナゴークも立ち並び、多くの民族が共存していました。フェデリコ2世は多くの教養を身に着けて行きました。
ところがフェデリコ2世が20歳の時、突然、ローマ教皇から神聖ローマ帝国の皇帝になることを命ぜられ、ドイツのアーヘンに赴き即位します。
即位後、わずか8年でわが子をドイツにおきシチリアに戻ります。シチリアではイスラム教徒が反乱を起こしていたのです。フェデリコ2世は、イスラム教徒を武力で制圧するのではなく、共存共栄の道を探します。そして、シチリア王国の北部であり、イタリアの南部に位置するルチェーラに新たな都市を造り、1万数千名のイスラム教徒をシチリア島から移住させ、彼ら自身に新都市の管理を任せイスラム教の信仰も認めました。
以来、フェデリコ2世はイスラム教徒と親交を結び、イスラム教徒と戦うことなく、キリスト教の聖地、エルサレムの奪還に成功します。
しかし、ローマ教皇はイスラム教徒と親交のあるフェデリコ2世を恨み破門してしまいます。
その後、ローマ教皇とフェデリコ2世の間で戦いが起こりますが、その戦いのさなか、フェデリコ2世は55歳で病死してしまいました。
中世において、戦いではなく、話し合いで物事を解決した数少ない指導者でした。
13世紀以降はフランスやスペインなどが、入れ替わりここを支配下に置いています。
我々にとって、シチリアというと何かマフィアを想像しますが、マフィアは 19世紀、シチリアの農村部で生まれています。当時、シチリアはスペインの支配下にあり、一握りの貴族が広大な農地を所有し、都会でぜいたくな暮らしをしていました。そして、貴族は自分の農地を農場管理人に任せていました。 やがて、武装した彼らは、地主、農民の双方から利益を搾り取り、農村の実質的な支配者になって行きました。これがマフィアの原型です。マフィアの資金源の一つは、工場主や商店、飲食店から受け取る上納金、いわゆるショバ代です。事実、上納金を断り殺される事件がたびたびありました。報復を恐れ多くはマフィアに沈黙していましたが、今はだいぶ変わろうとしているようです。
映画 「ゴットファーザー」ではイタリアの寒村に生まれ、アメリカに移住した子どもと、その子イタリア系アメリカ人一族の栄光と悲劇の物語です。 |
パレルモ
パレルモは人口90万人を超えるシチリア最大の都市で、南イタリアではナポリに次ぐ大都会です。
今が季節なのでしょうか、ところどころにジャカランタの花が咲いていました。
19世紀に建てられたオペラ座で屈指の大きさを誇っています。(下の写真の2枚目)。
その後、プレトーリア広場を一周しました。神々をはじめとする神話に登場するいろいろな人の大理石が並んでいます。 |
クアットロ・カンティとは4つの角を意味しています。
1608年から12年かけて作られ、それぞれの一番下の段には四季を表した噴水が、2段目、3段目には歴代スペイン総督と守護聖人が彫られています。 |
先に述べたフェデリコ2世が眠っている大聖堂です。
1184年に建設されて以来、様々な増改築が行われています。
なお、フェデリコ2世はフリードリヒ2世と呼ばれることもあります。
今回は外観だけの観光でした。
ノルマン宮殿の脇に作られています。1583年にシチリア・ノルマン様式とルネッサンス様式を融合させて作られています。 |
モンレアーレ
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モンレアーレの町はパレルモの町の南西方向8qのところにあります。標高が310mと高く、パレルモを見渡すことが出来る山の上の町です。その町に 立派な大聖堂が建てられており、多くの観光客が訪れています。 |
モンレアーレ大聖堂
大聖堂はかなりの高台に建てられ、坂を登って行きますが、その道路の両側にはたくさんのお土産屋が並んでいます。
この大聖堂はパレルモのもっとも繁栄した1176年に完成しています。作らせたのはノルマン王グリエルモ2世です。
2つの鐘楼の高さがかなり異なっています。内部に入ると、モザイク画でできた名高いイエスの像が描かれています。
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モンアーレからアグリジェントへ
アグリジェントはシチリア島の南側の海岸に位置し、モンレアーレから約125q、約3時間ぐらいのバスの旅です。 |
アグレジェント(世界遺産)
神殿の谷
紀元前6世紀、アグリジェントはギリシャの支配下になり、ここに町が建設されました。
ここには古代ギリシャの遺跡が20ほど残されており、神殿の谷とも言われています。神殿の谷と言われるのは、市街地が神殿よりも高いところにあるからだそうです。神殿の道は端から端まで約1kmほど続いています。
紀元前5世紀、ギリシャ抒情詩人ピンダロスは、人間が作った最も美しい街と称えました。
やがて地中海におけるギリシャの力は衰え、壮大な神殿だけが残されました。今も神殿は地中海を見守るように立っています。
まずは、神殿の谷に入り、ジュノーネ神殿からの見学です。 |
ジュノーネ神殿からまっすぐな道を歩いてゆくと、コンコルディア神殿が現れます。この神殿は、現存する古代ギリシャ建築の中で、ほぼ完全な形で残されてる最も保存状態の良い神殿の一つです。 |
ヘラクレス神殿
さらに歩いてゆくと神殿の谷で最も古い建造物、ヘラクレス神殿が現れます。 |
考古学広場
巨大な神殿の基礎だけが残され、全長7.75mの人体柱が残っています。
土産屋で数百円の飾りを買い、売り子と一緒に写真を撮りました。ここで黒人と会うのは珍しいことです。 |
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今日は、朝、アグリジェントを出発し、シチリアの内部をドライブし、シラクーサを観光し、今夜のホテル、タオルミーナへ向かいます。
午前中は215q、午後は120qとかなりバスに乗ります。 |
アグリジェントのホテル
朝起きて、ホテルの周りを歩いてみました。かなり田舎風の素敵なホテルでした。 |
アグリジェントからシラクーサへ
総じて、なだらかな丘陵で、牧草や、オリーブ、ブドウ、レモン畑などが続きます。
毎日そうですが、約1時間半から2時間走ると、ガソリンスタンドなどに停まり、トイレ休憩となります。トイレを使用すると一般に50セント(約50円)必要です。
ガソリンの価格はセルフで入れると1リットル 1.755ユーロと書かれていました。日本での価格は現在、130円〜140円ぐらいですから、約1.3倍するようです。仮に1ユーロが130円なら日本と同じになります。 |
昼食レストラン
シラクーサ近くのレストランで昼食です。
キョウチクトウがあまりにも素晴らしかったので写真に収めました。 |
シラクーザ
紀元前8世紀のころ、ギリシャ人がこの地を発見し、ギリシャの植民地として建設され、紀元前5〜4世紀には人口30万を超え、シチリア最大の都市になりました。その繁栄は移住元のギリシャのアテネを超える程になりました。
数学者、物理学者のアルキメデスもここで生まれ、生涯を過ごしています。
紀元前212年、シラクーザは進出してきたローマ軍により滅ぼされます。アルキメデスもシラクーザと運命を共にしローマ人に殺されています。
シラクーサは太古から自然の恐怖にも耐えてきました。
1693年に大地震が発生し、シラクーサ周辺でも一瞬して35の町が崩壊しました。その地震の後、エトナ山が大噴火をおこし、また、大きな被害を与えました。エトナ山は今もヨーロッパ最大の活火山で、噴煙を見ることが出来ます。
現在は人口13万人を超える都市になっています。 |
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海に突き出した周囲3kmの島に旧市街が築かれています。防御に容易なことから、紀元前8世紀、ギリシャの人々が移住して来ました。小さな町に2700年の歴史が積み重なっています。島には現在、5000人の住人が暮らしています。
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見学は、旧市街に入る前に、ギリシャ劇場、ネアポリ考古学公園、ローマ劇場を見学し、その後、旧市街の入り口までバスで移動し、歩いて旧市街に入りました。 |
ギリシャ劇場
かって、古代ギリシャで建造された劇場としては最大の規模を誇っています。8つの階段により9つの区間に分かれ、67列で1万5千の座席がありました。
この劇場は、ローマ時代に円形闘技場のような見世物興業用に変更されています。
現在でも使用されていて、毎年、大きな催しが行われるそうで、その準備がされておりました。小高い丘の頂上からは、水が滝のように流れ落ちています。
遠くに、高さ90mの角錐形をした超近代的なマドンニーナ聖堂が見えます。この聖堂は町のどこからでも見ることが出来、現在の居場所が分かります。 |
ネアポリ考古学公園
ギリシャ劇場を造るための石灰岩を掘り出した場所で、岸壁墓地遺跡とも言われています。中に入ると、音が反響して、わずかな音も大きく聞こえます。
紀元前5世紀にフェニキアを武力で圧倒し、シチリアの大部分をギリシャ圏に取り戻したディオニュシオスは、政敵や罪人、捕虜をここに閉じ込めて、そこでの話を盗み聞きし、悦に入っていたと言われています。
それから2千年以上もたった18世紀、画家カラヴァッジョはこの穴を「ディオニュシオスの耳」と呼んでいます。 |
紀元3〜4世紀に作られた円形の闘技場で幅140m、奥行き119mあります。
剣闘士や猛獣が出入りしたと思われる通路も残されています。
なお、そこへ行く道路のわきには幾つもの石棺が置かれていました。近くから出土したと思われますがここに持ってきて置いてあるそうです。いわゆる展示場です。 |
旧市街
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短い橋を渡ると旧市街です。この橋で島と陸地が結ばれています。あまりに短い橋なので、島に入ったという実感はありません。
昔、島の周囲は、高く立派な城壁が築かれ、それをくぐって市街地に入りました。
今は、それら城壁のほとんどは崩壊し、わずかな跡が見えるだけした。 |
アポロン神殿
今はその原型をほとんど留めていませんが、この神殿は今から2500年前に造られています。ギリシャ神話の英雄、アポロンに捧げられています。石造りでは、世界で最も古い神殿の後です。
神殿には、クニディエイダスの息子、クレオメネスがこの神殿を造った。素晴らしい作品である。と書かれています。 |
シラクーサ旧市街の街並みです。
シラクーサ大聖堂
この大聖堂は旧市街の中心に作られています。重厚なバロック建築です。
正面に施された華麗な民族像はスペイン支配下の18世紀中ごろに作られています。
しかし、中に入ってみると、古代ギリシャ神殿の柱がそのまま利用されています。もともと、紀元前5世紀に作られた神殿をキリスト教徒が改装して使用しています。
ここの人たちは古代ギリシャを愛し、守ってきたのです。
アラブ人が支配した時にはモスクとしても使われていた言われています。まるで絵具を塗り重ねたような大聖堂でもあります。 |
アレトゥーザの泉
突き出た半島のほぼ中央部分の海のそばに真水が噴出しています。この真水が島の人たちの命を支えています。なぜ、このような小さな島の真ん中から真水が出てきているのでしょうか。まさに、奇跡です。
名前はギリシャ神話に基づきつけられています。神話によると、妖精アレクーザは泉に姿を変えてこの場所にあらわれたと言われています。 |
タオルミーナ
今日の宿泊地です。ホテルは急斜面に建てられています。食事前に少しホテル周辺を歩いてみました。とにかく、坂だらけの町です。
海水が透き通っています。周辺が石灰岩のため透明度は高く、不純物は少ないようです。そのため、地中海での漁獲量は日本周辺に比べだいぶ少ないそうです。
日本は森林が多いため、日本周辺は世界有数の魚の繁殖地になっているのです。 |
6日目 タオルミーナ観光後、シチリア島を離れアルベロベッロへ
タオルミーナ
イオニア海に面し、シチリア最高峰のエトナ山が仰げる、地中海有数のリゾートとして知られています。シチリアの他の都市と同様、古代ギリシャ遺跡やローマ遺跡が残っており、また、映画「グラン・ブルー」によって一躍世界的にも有名になりました。 |
ドゥオモ
小さく狭い街で、バスは入れません。幾つもの教会があります。
教会の中を覗いてみました。12世紀に作られたこのドゥオモには、10世紀以前のギリシャ正教の影響を強く残したマリアの像が飾られており、また、マリア様とイエスを生んだ父親の絵も描かれていました。父親が登場するのは珍しいことです。 |
遠くに高くそびえる山は標高3350m、ヨーロッパ最大の活火山エトナ山です。現在でも活発に火山活動をしています。 |
狭い路地
一人がようやく通りれるような狭い道がたくさんあります。
ギリシャ劇場
ドゥオモから歩いて行けるところにギリシャ劇場があります。朝9時に門を開けるとのこと、少し待たされました。
この劇場は紀元前3世紀に作られ、ローマ時代に改修されています。ローマ時代の劇場としては世界で3番目の大きさだそうです。 |
タオルミーナからアルベロベッロへ
今日は約400qのバスの旅です。途中、フェリーでシチリア島から本島へ渡ります。海峡の幅は狭いところでわずか3q程度です。船の所要時間はわずか25分でした。バスに乗ったままでもOKですが、ほとんどの人は甲板にあがり、見学していました。 |
ヴィラ・サン・ジョヴァンニ
フェリーが到着した海岸です。ここで昼食でした。
アルベロベッロへ向かう車窓からです。かなり山の上まで開墾されていました。特産のオリーブの畑などがどこまでも続いています。 |
7日目 午前、アルベロベッロ観光、午後はマテーラの洞窟住居を観光し、
夕方はナポリ歴史地区の観光
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アルベロベッロからマテーラまで80q、また、そこからローマまで250qです。マテーラの観光後昼食で、その後4時間かけてローマに向かいます。 |
アルベロベッロ (世界遺産)
アルベロベッロとは美しい木という意味だそうです。
この町が出来たのは17世紀の中ごろでした。当時はナポリ王国が南イタリア全土を支配しており、次々と新しい街が作られてゆきました。この地は石だらけの農地で、作物を作るには適していませんでした。そこでここを所有していた伯爵は、きわめて安い賃料で土地を貸し付け開墾させました。また、住むための集落を造らせました。
農民たちは、この地方ならどこでも手に入る石灰岩を積み重ね、壁や屋根を造り、石だらけの建物を造りました。屋根は厚さ数センチの平らな石を整然と積み重ねており、セメントや釘など石を固定するものは一切使われていません。家の内部にも柱や梁などは一切ありません。石だけが建物を支えています。これは収穫の少ないやせた土地で、農民たちが作り上げた最も安上りの建築方法でした。
また、石灰岩は耕作や牧畜に邪魔になるので、それを集めて家にするのは一石二鳥でした。
雨が少ないアルベロベッロでは屋根を三角に作り、そこに溜まった雨水を家の外に溜めて行く仕組みになっています。
屋根からの水は、飲料水やお風呂の水にも使用されました。岩盤が厚く、井戸を掘れなかったのです。しかし、貯水槽は簡単に作ることが出来ました。これらの水は、水道が作られた20世紀まで使われていました。
アルベロベッロの伯爵は暴君でした。当時、ローマ王国は、家の数で税金を決めていたので、ローマの役人が訪れるときは、住民に家を壊させ、単なる石の山にしたのでした。
住民が伯爵から解放され、自由の身になったのは1797年のことでした
現在、わずか450m四方の町に1500もの円錐形の屋根が埋め尽くしています。
アルベロベッロは、岐阜県の白川村と姉妹都市になっています。ともに、人々の暮らす民家が世界遺産に指定されているためです。
この地に生まれた若者は、次々と北イタリアの工業地帯に移住していってしまい、お年寄りだけが残っています。 このように人が都会に集まるようになったのは世界的傾向で、やむを得ないのかも知れません。 |
屋根には色々な印が描かれています。太陽や月、十字架など、宗教や占いに関するもので、家内安全や魔除けのためだそうです。 |
マテーラの洞窟住居 1993年 世界遺産登録
8世紀のころ、南イタリアはイスラム帝国の脅威に侵されていました。イスラム帝国は中近東から北アフリカに及ぶ広域な地域を支配し、南イタリアにも侵入してきていました。そのため、南イタリアの修道僧が逃げて来てこの地の渓谷の洞窟に移り住みました。
もともと、ヨーロッパでは古代から自然の浸食であいた穴を住居として暮らす文化がありました。修道僧は新たに岸壁を堀り、修道院を築き、宗教活動を続けました。
やがて、修道院の周りに、農民や羊飼いなどが集まり、町が誕生しました。農民らが堀った130以上の洞窟住居と石造りの建造物が一体となって、他に類を見ない都市が生み出されたのです。
農民たちは洞窟の中で家畜を飼い、鶏などと一緒に暮らしていました。しかし、それは極めて不衛生で、伝染病が蔓延し、非常に危険な状態でした。
それを理由にイタリア政府は別な土地に住居を用意し、人々に移住を促しました。その後マテーラには誰もいなくなり、廃墟のようになりました。
ところが1993年、世界遺産に登録されると新石器時代から残る貴重な建造物を保存する試みが始まります。
政府は人がここで暮らすのが保存のための最良の方法だと考え、居住する人を広く募りました。人々は壁を塗り替え、電気や水道を整えて行きました。
その方針のもと、世界各地から移住者が殺到し、現在、裕福な人が生活を営んでいます。
昔は貧乏な人が住み、今はお金持ちが住む面白い洞窟住居です。 |
石灰岩で出来たこの地は、川が深く浸食し谷を作っています。
渓谷の向こう側は完全に廃墟になっています。
小さな博物館があり一人3ユーロ払って内部の見学をしました。今は空調があり快適ですが、当時の暮らしは確かにひどかったようです。
この地区はイタリアの貧乏の象徴として語られ、対策が必要とされていました。 |
マテーラからローマへ
ここも昨日と同じような風景が続きます。
トラック荷物の火災
途中の休憩時、トラックに乗った電線ドラムがなぜか燃えていました。電線がこんなに燃えるとは驚きです。
日本では、昔、NTTのケーブルが地下トンネル内で燃え、通信に大きな被害を与えました。それ以来、難燃ケーブルが開発されています。 |
ナポリ歴地区
南イタリアの経済や文化の中心地であったナポリには様々な異民族の支配を受けた歴史が刻み込まれています。
この地の歴史は古代ローマまでにさかのぼり、石畳の路地が今も使われています。
12世紀、南イタリアを支配したのはノルマン王国、その手で立てられたのが卵城です。城の基礎に埋め られた卵が割れると災いが訪れるという言い伝いがあります。
13世紀、変わって支配したのはフランスのア ンジューキでした。当時、街にはゴシック様式の建築が溢れました。
15世紀になるとナポリの支配はスペインの王家に移ります。スペインが支配した200年間、ナポリは黄金神話の時代と言われ、全ヨーロッパの賞賛の的となりました。
ナポリを見てから死ね。ゲーテをはじめ、様々な人がここを賞賛しました。
ピッザが誕生したのはナポリと言われています。今夜の夕食はピッツァマルゲリータでした。
下の写真は1枚目がヌオーヴォ(新しい城)城で、1279年にアンジュー家が起工し、15世紀にアラゴン家のアルフォンソ1世が再建した王家の住居で、現在は市立博物館になっています。2枚目〜4枚目は卵城です。最近はバスで近くへ行くのが禁止されてしまっているとのこと、今回は遠くからの見学になりました。
ローマ市内はいつも混雑し、2重駐車も平気で行われています。ローマのごみも有名で、前回来たときは清掃員がストライキを1ヶ月も続けており、市内はごみの山であったことを思い出しました。
どうもナポリを見てから死ねと言われたのは、非常に昔のことのようです。 |
アマルフィ海岸は、イタリア人はもとより、ヨーロッパの多くの人たちが憧れる夏のリゾート地です。年間30万人もの観光客でにぎわいます。
60qに渡って、切り立った崖と、その崖にへばりつく様に街が作られています。 |
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今日は終日、アマルフィ海岸の観光です。海岸の景観をじっくりと眺められるよう、比較的小型のバス2台で、全員が窓際に座れるようにして出発です。右側がずっと海岸側を通るので途中で、席が交代になりました。なかなか配慮の行き届いたサービスです。 |
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海岸の道は狭く、その上、曲がりくねっており、できれば酔い止めの薬を飲んだ方が良いとのアドバイスがありました。
アマルフィ海岸には、かなりの大型バスも停まっていたので、特別サービスなのでしょう。 |
ポジタージ展望台
アマルフィ海岸にある展望台ですが、アマルフィからは約20qも離れています。
ここからアマルフィまで、同じような景観がずっと続いてゆきます。 |
展望台からエメラルド洞窟へ行く海岸風景です。驚くべき景観です |
エメラルドの洞窟
昼食はここにあるホテルのレストランでした。洞窟へはエレベーターを使って上り下りします。 |
洞窟の入り口です。入るとすぐに船乗り場があります。 |
船頭さんが竿を漕ぎ、途中、竿で海面をたたき、美しく輝く水しぶきを作ってくれました。 |
アマルフィ
アマリフィ海岸の中心地です。人口が6000名ほどのそれほど大きな町ではありませんが、すでに観光客でいっぱいでした。
イタリアには、四大海洋都市国家と呼ばれる、アマルフィ、ピサ、ジェノバ、ヴェネチアがありますが、その中でも最も早く繁栄したのがアマルフィでした。
広大な土地に恵まれていないイタリアは、進んで海洋に出て行きました。その海洋都市を支えたのがガレー船でした。たくさんの人の手漕ぎにより進む大型船です。また、世界で最も早く羅針盤を使用して航行したという資料が残されています。アマルフィはアラブやオリエントと交流を持ち、富を蓄積して行きました。
崖の間の、なんでこんな不便な所に家を作ったかという理由は、中世時代、北からの異民族の攻撃によりここに逃れて来て人たちが、まさに隠れ家のようにし、身を守るため、安全な高いところから家を作って行って、だんだん町全体が作られていったからだそうです。
アラブ文化を持ったここの人たちは、斜面に家を作るのがお得意中のお得意だったそうです。そういう理由で中世の面影を持つ断崖絶壁で、また、坂だらけの町が作られたのです。
ここに住む人たちは、細かく枝分かれした階段を使用して、買い物、ゴミ出しなど日常の生活を行っています。
階段を上り下りできなくなったお年寄りは、買い物を他人に頼まねばなりませんが、そのようなシステムも作られているそうです。
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ドゥオモ広場
この町も立派な城壁で囲まれており、それをくぐって町に入ります。中に入るとたくさんのお土産屋が軒をつらねていますが、このようなお土産屋は中世の時代からあったそうです。
大聖堂の前には立派な階段がありますが、階段は大聖堂をより立派に見せる効果があるそうです。 |
アマルフィ大聖堂
10世紀に作られその後いろいろと改良されてきました。一般的なヨーロッパの教会とはひと肌違っています。
どちらかというと、オリエント風です。当時、アラブ文化やイスラム文化がこの地に入ってきて、ロマネスク風でもありアラブ風でもある大聖堂です。
アラブの文化は入口の網目のようなアーチに取り入れられています。白と黒の石の組み合わせもアラブ風です。
教会の上の金箔で飾られた部分は19世紀に改築されたときにイスラム風に作り替えられています。ただし、中央にはキリストが描かれています。
鐘楼もアラブ、イスラム様式です。この地には19世紀になってもたくさんのアラブの人たちがやって来ていました。どちらかというと、ローマより、イスタンブールの人たちとのつながりが多かったのです。 |
地下には博物館が作られています。地下から階段を上がって行くと、広く立派な大聖堂に入って行きつきます。
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かって、アマリフィへは陸よりも海からこの町にやってきました。陸上の道路はあまり発達していませんでした。
その体験を味わうため、我々も海からこの海岸を見て見ました。
建物の間には段々畑のレモン畑が続いています。アマリフィ海岸での60qの間で年間8000トンの収穫があるそうです。日本全国でも4000トンですから、大変なものです。
リキュール酒はレモンの皮から作られています。レモンの栽培がこの地に活気がもたらしています。また、このお酒は世界中に輸出されています。
この断崖に丁寧に石を積んで段々畑を作る技術はアラブの文化からもたらされました。そういう文化の交流により、この町は栄えてきました。
船から見ると、この町は新鮮な空気も太陽も豊富で、家々は輝いて見えます。 |
アマリフィから再びホテルに戻ります。狭いつづら折りの道路を何回も何回も曲がりながら坂を上って行きます。日本のいろは坂などくらべものにもならないほどのすごさです。 |
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