バルト3国とポーランド 世界遺産探訪12日間

クラブツーリズム

2012年9月7日(金)〜9月18日(火)

 

 ポーランドはショパンの生まれた国ということと、第二次世界大戦中、ドイツと旧ソビエトに挟まれた悲劇の国というイメージを持っていました。また、バルト3国も小さな国として大国の狭間で厳しい歴史を経てきたことも学んでいましたが、どちらかというと、これらの国々は、ヨーロッパの中では日本との関係が薄く、ニュースで取り上げられることもめったにありませんでした。そういうこともあって、それらの国々の知識は殆んどありませんでした。
 これら4国は現在EUに加盟しており、これら国々の旧市街は、いずれも第二次世界大戦以前の姿に復元され、たくさんの観光客を集めていました。
 70年前、すでにこれらの国々は、こんなにも美しかったのかを知り、驚きました。
 本来はあと数週間遅いツアーを申し込んでいたのですが、人数が集まらず、中止となり、予定より早い出発となりました。そのため、黄金の紅葉と言われるバルト三国の紅葉を見ることが出来ませんでした。
 ただし、これらの国の寒さには驚きました。冬に来たら大変でしょう。
 観光に力を入れているこれらの国々では、現地のガイドさんが案内するシステムになっていますが、過去の歴史を見ても、これらの国々は現在が最も平和の時だと、どこの国のガイドさんも言っておりました。
 旅行の間、インターネットで日本のニュースを見ていると、竹島や尖閣諸島の問題など、隣国との緊張状態がトップニュースになっていましたが、これらの国を旅していると、平和の大切さを感ぜざるを得ませんでした。
 アウシュヴィッツを訪れると、反省してもしきれない人類の愚かさを学びます。そして、我々は過去の歴史からたくさんのことを学んで来ています。
 一時の感情で将来を見誤るような行動を避けるのが、お互いの人間の知恵のようです。 

 主な観光内容を下に示します。
 今回の参加者は催行ぎりぎりの15名で、夫婦参加が3組、男性計6名、女性計9名でした。

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 再生速度は右下の三つの星を押すと早くしたり遅くしたりすることが出来ます。


月 日 観光内容 宿泊地
1日目 9月7日 成田よりミュンヘン経由、エストニアの首都、タリンへ タリン
2日目 9月8日 世界遺産タリン観光 タリン
3日目 9月9日 タリンよりラトビアの首都リガへ。午後世界遺産リガ半日観光 リガ
4日目 9月10日 ルンダーレ宮殿、十字架の丘観光後リトアニアの首都ヴェリニュスへ ヴェリニュス
5日目 9月11日 世界遺産ヴェリニュス観光後、リトアニアの第2の都市カウナスへ カウナス
6日目 9月12日 カウナス半日観光後、ポーランドの首都ワルシャワへ ワルシャワ
7日目 9月13日 ワルシャワ半日観光後、ポーランドの古都クラクフへ クラクフ
8日目 9月14日 世界遺産アウシュヴィッツ強制収容所見学後、世界遺産クラクフ観光 クラクフ
9日目 9月15日 世界遺産岩塩鉱見学後、列車でワルシャワへ ワルシャワ
10日目 9月16日 世界遺産ワルシャワ観光。ショパンコンサート鑑賞 ワルシャワ
11日目 9月17日 フランクフルト経由成田へ
12日目 9月18日 成田到着


               

1日目 成田からミュンヘン経由、エストニアの首都タリンへ

 バルト三国やポーランドへの成田からの直行便はないので、今回はドイツ、ミュンヘン経由で行くことになりました。航空会社は往復ともすべてルフトハンザでした。


 成田出発はほぼお昼の12:40で、飛行時間は約12時間弱、ミュンヘン到着は 17:45でした。
 今回の訪問地はすべてEUに加盟しているので、最初の到着地、ミュンヘンで入国審査があります。
 ミュンヘンを定刻、19:45に出発し、約2時間半後、エストニアの首都、タリンに到着しました。
 タリン国際空港はタリン中心部からわずか5kmの所にあり、ホテルまでは約20分程度でした。深夜の到着でした。


 ここで少し、バルト三国とエストニアについてまとめてみます。

バルト三国

 バルト三国は昔から強い絆で結ばれており、東は、ロシア連邦やベラルーシなど、旧ソ連と接し、南はロシア連邦とポーランドに接しています。
 西はバルト海に面しています。
 バルト三国は、冬には全土が雪に覆われる厳しい環境の国々です。


  ロシア革命以前、バルト三国は帝政ロシアに支配されていましたが、1917年のロシア革命後、間もなく独立し、ソ連もそれを承認しました。
 しかし、第二次世界大戦が勃発すると、ドイツとソ連の間で結ばれていた秘密議定書によって、ドイツ軍はポーランドに侵攻し、ソ連はポーランドに軍を進め、バルト三国にも軍を進駐させ、その圧力のもとで、バルト三国に選挙を実行させ、親ソ連政権を樹立させます。親ソ政権はソ連との合併を決議し、それを受けてソ連はバルト三国を併合してしまいます。
 1989年のソ連崩壊とともに、バルト三国は独立に動き出し、1991年9月に独立しました。ソ連に併合され、つらく苦しい時期は約50年にも及びました。
 独立後は三国が共同歩調を取って親米・親西欧の経済・外交政策を展開し、2004年3月にNATOに加盟し、同年5月にEUに加盟しています。



エストニア

 バルト三国の中では最も北に位置し、北はフィンランド湾、西はバルト海とリガ湾に面し、東はロシア、南はラトビアと国境を接しています。沿岸には1,520もの島があります。
 面積は4万5000平方qと、九州よりも広いのですが、人口はわずか134万人と、岩手県とほぼ同じです。
 国土は平坦で平均標高は50m、最高地点でも318mです。国土の54%は森林で覆われています。
 人口密度は世界的にみても低く、アメリカ合衆国とほぼ同じですが、低い国は一般にロシアなど寒い国か、オーストラリアのように砂漠の多い国にあります。エストニアはかなり寒い国に属しています。


 第2次世界大戦の初期の1940年にソビエト連邦に占領され、1941年から1944年まではナチス・ドイツに占領されましたが、第2次世界大戦末期の1944年にはソ連軍に再占領され、ソ連に併合されてしまいました。
 第2次世界大戦でドイツ軍と戦ったソ連のレニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)はエストニアの国境からわずか150qの所にあることからわかるように、エストニアも戦場になり、多くの被害を受けています。
 現在、住民の68%はエストニア人で26%がロシア人とロシア人の比率が比較的多くなっています。1940年にソビエトに併合されるまでのロシア人の比率は9%程度でしたが、併合後、ロシア人が流入し、大規模な工業化が進み、ロシア人の大部分は工業に従事しています。
 1992年、エストニアが独立するとともに、エストニアに残った旧ソ連圏の人の市民権をどうするかが大きな問題になりました。彼らはすでにロシアの市民権を放棄してしまっていました。結果的にはロシア人の人権を大幅に制限する法律案が可決されています。それによると、1940年以降にエストニアに流入した人は、エストニア語の能力試験に合格することがエストニア国籍を得る条件になっています。それにより、多くの無国籍の人が誕生しました。彼らは主に老人で、家族に養われている人たちです。1940年頃入ってきたロシア人はすでに老人になっているわけです。
 エストニアでは都市化が進み、全人口70%は市街地に住居しており、全人口の3分の1が首都タリンに住んでいます。
 エストニアの経済は主に工業により成り立っています。電力はほとんどが火力発電で、その天然ガスはロシアから供給を受けていましたが、1990年初頭、ロシアが化石燃料に輸出に国際価格を適用するとしたため、エストニアの経済は大打撃を受けるとともに、ロシアとの関係が悪化しています。
 2004年、EUに正式加盟し、以来、高い経済成長率を維持していましたが、2009年以降、リーマンショックの影響を受け、急激に経済が減速しています。
 そのような中、昨年の2011年、ユーロ圏に加盟し、ユーロ圏参加は17国目になります。ギリシャやアイルランでへの金融支援、ポルトガル、スペインの財政危機の只中での参加でした。
 エストニアはIT産業に積極的で、インターネット普及率は非常に高くなっています。


        

2日目 エストニア タリン(世界遺産)観光

 今日は連泊で、一日かけて世界遺産タリンの観光です。
 タリン旧市街は「最も優れた状態で保たれた北ヨーロッパを代表する中世の商業都市」として1997年、世界遺産に登録されています。
 13世紀前半にデンマーク人が築いた町タリンは、ハンザ同盟の商人の町であり、城壁をもつ城塞都市でもありました。
 タリンはかなり北に位置し、その緯度にはストックホルムやアラスカの州都、ジュノーがあります。
 タリンとフィンランドのヘルシンキまでの距離はわずか85qで、ソ連に併合されていた時も、西側のテレビを見ることが出来たそうです。
 現在のタリンの人口は40万人で、エストニアの総人口のおよそ30%になります。私の住む佐倉市の約2倍に相当します。
今日の観光は
歌の原
旧市街
 トームペア城
 聖ニコライ教会(死のダンス)
 アレクサンドル・ネフスキー教会
屋外博物館
などで、夕食時には現地民謡踊りを鑑賞しながらのフォルクロアディナーです。
 



ホテルの風景

 今回のツアーのホテルは総じて快適でした。特にインターネット環境は素晴らしく、どこのホテルでも無料でした。
 エストニアはIT産業に強く、世界的に有名なIP通信システムである Skype を開発したことでも知られています。
 また、タリンでは無料でワイヤレスインターネットに接続できる環境が整備され、その場所の多さは世界のトップ10に入っています。
 朝食はすべてのホテルでバイキングでしたが、北国名物なのでしょうか、薄味の塩漬けされた生の魚は最高でした。



街の風景

 とても清潔な街並みです。ゴミは全く落ちていません。西欧の街並みの特徴の路面電車が走っています。
 観光は大型バスですが、何分、わずか15名ですから、40もある席をかなり自由に使用できます。
 通常、最前列に座りたい人が多いのですが、今回は誰も座っていないことも多い状態でした。ガイドさんも、席については全く制限するようなことはありませんでした。




歌の原

 5年に1回、エストニア民族によるエストニア歌とダンスの祭典がここで行われます。参加資格はエストニア民族であり、また、民族衣装を着て出席することだそうです。約3万人のエストニア民族がここで歌を披露します。3万人が同時に歌を歌うのは世界一です。それを見る観客は30万にも達するそうです。
 ステージを見下ろす高台には、エストニアの有名な指揮者、グスタクエグレンサツの銅像が建てられていました。
 土産屋にはマトリョーシカと言われるロシアや東欧でよく見る人形が置いてありました。



モスクワオリンピック宿舎

 1980年7月、モスクワオリンピックが開催されましたが、このオリンピックは、前年にソ連がアフガニスタンに侵攻したことに抗議し、アメリカを中心に50ヶ国以上が集団でボイコットしたことでも有名です。日本も参加しませんでした。ただし、イギリスやフランス、イタリア、オーストラリア、オランダ、ベルギー、ポルトガルなどは参加しています。
 オリンピックのヨット競技がタリンで開催され、そのため、選手たちの宿舎が作られました。エストニアがソ連に併合されていた一つの表れでした。


タリン港と旧市街を望む
 
 タリンからヘルシンキまでの距離はわずか85qです。この2つの都市はフェリーで結ばれ、航行時間は約2時間程度だそうです。タリンの物価は安いために多くの人が買いもにやってきて、たくさんのお酒を買って帰るそうです。
 湾の向こうに世界遺産旧市街が見えます。



城壁

 旧市街を囲う城壁です。おとぎの国のようです。城壁は旧市街を1.9kmに渡って囲み、当時の姿を残したまま残っています。城壁には20の塔と2つの門があります。
 この写真では4つの塔が見えます。
 中世では城壁の門は夜9時に閉ざされ、それ以降は外出禁止でした。禁を破ると投獄されたそうです。



アレクサンドル・ネフスキー教会

 1901年に帝政ロシアによって建てられたロシア正教教会です。
 アレクサンドル・ネフスキーは13世紀半ばにモンゴルと組み、ドイツ騎兵団から領土を守ったロシアの英雄です。
 この教会はタリンに住むロシア系住民の拠り所になっているようです。
 中に入ってみましたが、写真は撮りませんでした。
 教会の入り口近くに数名の物もらいが立っていました。ガイドさんによるとルーマニアからやってきた人たちだそうです。



トームペア城

 13世紀前半にドイツ騎士団が進出し、ここに城を建設しました。その後、代々の支配者の城となっています。この塔の高さは50.2mであり、国のシンボルで、エストニアの国旗が掲げられています。



 城の中に入るとお城とは言えない新しい建物がありました。
 この建物は18世紀後半に当時の支配者であったエカテリーナ女帝によって建てられています。どちらかというと、宮殿のようにも見えます。
 現在はエストニア国会議事堂や役所として使用されています。



大聖堂トームキンク

13世紀初めにデンマーク人が建設したエストニアでは最古の教会です。入場はしませんでした。 



トーンペアの丘から旧市街を望む

 お城の丘から旧市街を一望数ることが出来ます。いろいろな特色のある塔が立っています。
 旧市街の向こうには、新市街のビルも見えます。海の前に聖オレフ教会が見えます。聖オレフ教会は高さ124mの塔を持ち、町でもひときわ目立つ教会です。
 右端の尖塔は聖ニコライ教会です。




針の道

 旧市街にある最も狭い道で、第2次世界大戦から2008年に掘り起こされ修復されるまで、実に60年もの間、埋められていました。大戦中、旧市街を空襲から守るために埋められたそうです。



聖ニコライ教会

 死のダンス(死の舞踏)で有名な教会です。
 人間が骸骨と踊る死のダンスは、ドイツの芸術家、バートン・ノトケにより15世紀に描かれています。このような絵は、当時、ドイツをはじめ、いろいろなところで描かれていたそうですが、最もよく保存されているのがこの教会だそうです。
 当時、ヨーロッパではペストが大流行し、人々は死の恐怖に襲われていました。
 この絵の中には、王族、貴族、僧侶、農奴など、いろいろな身分の人が骸骨と踊る様子が描かれ、誰しも死によって、身分や貧富の差がなく、無に統合されるという死生観が示されています。



ラエコヤ広場と旧市庁舎

 この旧市庁舎は1402年〜1404年に建てられ、北ヨーロッパにおいては最も良い状態で保たれているそうです。
 旧市庁舎のシンボルは塔の頂上に立つのは護衛の「トーマスじいさん」の風向計です。オリジナルは1530年に作られています。



屋外博物館

 タリンの西側、バスで20分ほどの所に作られた野外博物館で、17世紀ごろからのエストニアの古い住居を移築しています。農家や教会、貧しい家、裕福な家などが展示されています。
 エストニアの冬は厳しく、如何にそれを耐えてきたかも分かる様になっています。
 熱が逃げないよう、窓は極力小さくしてあり、そのため、部屋の中は煙で一杯の家もありました。

  


 ところどころに看板が建てられていました。社会主義であったころの名残でしょうか、豊かになり生活に必要なものを買えるようになるため、一生懸命働くことは恥ずかしいことではないのだよ。と書いてあります。
 中国のケ小平の白い猫も黒い猫もネズミを捕るのが良い猫だ、豊かになれるものから豊かになれ、と言った言葉が思い出されます。
 その看板のそばの家にはグランドピアノも置いてありました。



 当時から、手押しの消防車もあったようです。



再び市街地を通りホテルへ

 清潔で美しい街並みが続いています。小さな町なので、ホテルと旧市街の通りを覚えることが出来ました。
 夕食まで、ホテルで一休みです。



夕食 フォロクロアディナー

 フォロクロアディナーと言われる夕食で、民族舞踏が披露され、最後は私たちも輪に入って踊りました。なかなか良い運動になりました。


 食後、現地で解散になり、家内とホテルまで歩いて帰りました。昼間、何度も歩いた場所なので、どうやら迷わずに帰ることが出来ました。
 遅くまでたくさんの花屋さんが開いていました。誰が買うのでしょうか。お客はほとんどいませんでした。


          

3日目 タリンからラトヴィアの首都リガへバスで移動 

 朝食後、一路、ラトビアの首都リガへ向かいます。途中、エストニアとラトビアの国境を越えます。
 タリン〜リガ間 309q、所要約6時間
 着後、世界遺産リガ半日市内観光です。



 まずは、ラトビアについて書いておきます。

 ラトビアはバルト三国の中間に位置し、北にエストニア、南にリトアニア、東はロシア、東南にベラルーシと国境を接しています。 また、西はバルト海とリガ湾に面しています。
 国土面積は6万3700平方qで、九州と四国を合わせた面積を少し上回っています。人口は226万人と長野県の人口とほぼ同じです。
 日本で一番人口密度の小さい都道府県は北海道ですが、ラトビアはその半分程度となっています。


 首都はリガで、ラトビア最大の都市であり、有名な貿易港でもあります。
 国土の大部分は平坦で最高地点はわずか312mであり、47%が森林となっています。

 全人口の55%がラトビア人で、ロシア人が32%を占めています。ロシア人の多くは1940年の併合以降に移住してきており、ラトビアの経済を担う工業化に貢献しましたが、環境問題を置き去りにしたため、リガ湾の汚染はかなり進行したと言われています。
 1991年、旧ソ連の崩壊に伴い独立しましたが、エネルギーの大部分を外国に頼っており、1992年、ロシアが化石燃料を国際価格で購入するよう要求してから経済は大混乱しました。それに対し、ラトビアはバルト海に達する石油パイプラインを管理下に置き、輸送費を2倍以上に値上げしました。それに対しロシア政府はラトビア向けの石油を大幅に削減し、また、天然ガスの輸送を中止してしまいました。その結果、全国で電力不足に陥り、倒産する企業が増えるなど経済は大打撃を受けました。
 1990年の最初の議会選挙ではすべての住民に選挙権が与えられましたが1993年以降はラトビア語の能力試験が加えられました。そのため、人口の20%以上が無国籍のままになっています。なお、首都、リガの人口の半分ほどがロシア人だそうです。
 2004年3月にNATOに、2004年5月にEUへの正式に加盟しています。



タリンからラトビアとの国境へ

 タリンからリガまでほぼ一直線に300qほど南下します。道路は、殆んどが森林か牧草地帯の中を走っています。
 途中、国境を越えますが、昔の入国手続きのゲートが、エストニア側とラトビア側に数百m隔てて、まだ置かれていました。


 国境の旧入国検査場です。



首都リガに入る
 
 バスで走ること、6時間後にリガに到着です。何やら西新宿という大きな看板が出ていました。ガイドさんも何なのか分らないそうです。
 リガは中世時代、バルト海交易の中心地として大いに栄え、装飾豊かな建築群が並び、バルトのパリとも呼ばれています。



世界遺産 リガ市内観光

世界遺産リガ半日市内観光
旧市街
 大聖堂
 聖ペテロ教会
 リガ城
 三人兄弟
 スウェーデン門



リガ城

 最初の城は1330年に作られ、1515年に再建が完了しています。
 16世紀、ハンザ同盟の力が衰えると、リガは常に外国に支配されて来ました。
 この白亜の城には、スウェーデン、ポーランド、ロシアとそれぞれの時代の支配者が住んでいました。現在は、その一部が大統領官邸として使用されています。
 支配者は変わりましたが、リガの繁栄は変わりませんでした。
 この建物の中にはラトビア歴史博物館と海外美術館などがあります。



聖母受難教会 

 白を基調とした教会で、塔の水色も美しい姿をしています。



三人兄弟の家

 一枚の写真に納まりませんでしたが、奥の水色の家、中央の薄茶色の家、右側の白い家が並んでいます。
 当時、リガはハンザ同盟に加入し、大いに栄えていました。三人兄弟とはギルド組合のことです。ギルドは町の自治権をもち、政治の実権を持っていました。
 3つの家はそれぞれ別の時代に作られており、右端の白い家は15世紀に建てられ、長男の家と言われています。リガでは一番古い家だそうです。当時は窓の大きさによって税金が掛けられていたため、小さな窓になっています。その頃、ガラスは非常に高価だったのです。ただし、裏庭は贅沢なつくりだそうです。
 中央の薄茶色の建物は17世紀に作られた次男の家と呼ばれるものです。この時代になると窓の税がなくなったため広い窓になっています。現在は建築博物館になっています。
 左端の家(三男の家)も17世紀に作られたものですが、横幅が狭いものの煙突が作られています。この時代は入り口(間口)の広さによって税が取られたため、間口の狭い窮屈な作りになっています。



美しい建築群

 18世紀になり、帝政ロシアの支配下にはいると、リガはサンクトペテルブルグ、モスクワに次ぐ第三の都市として栄えて行きました。
 20世紀の初頭、新市街には新しい様式の建物が次々に現れました。それらはアール・ヌーボー様式と呼ばれ、草花や人の顔をモチーフにして華麗な装飾を施しています。ここにはこの様式を持つ建物が300軒以上もあり、ヨーロッパでも珍しいことのようです。
 リガは中世の街並みと近代のアール・ヌーボーが調和する街で、リガの人々はバルトのパリと呼んできました。 


  市庁舎広場(ドムスキー広場)の方へ歩いて行きました。美しい家並みです。
  120mの高い塔を持ち、どこからでもそれと分る聖ペテロ教会が見えてきました。



市庁舎広場

 ブラックヘッド会館や聖ペテロ教会、市庁舎などがあるリガ最大の広場です。 
 ラトビアの象徴、クリスマスツリーが広場の中央に飾られていました。
 聖ペテロ教会の前庭には、美しい草花が植えられ、あまりの美しさに、その前で私たちの写真を撮って頂きました。

 聖ペテロ教会の塔の高さは120mもあります。



ブラックヘッド(黒い頭)、ギルドの家)

 13世紀、それまでのドイツの支配から独立した町はハンザ同盟の一員となり、大いに栄えました。ハンザ同盟はバルト海沿岸の貿易を独占し た都市同盟です。ここはハンザ同盟の黒い頭 と呼ばれる商人組合があったのです。組合はギルドと言われ、商人や手工業者などで職業別に組織されていました。ギルドの家はその繁栄ぶり をうかがわせます。
 ハンザ同盟の施設であったブラックヘッド(黒い頭)会館は1334年に建設され、1941年に空襲爆撃で破壊されてしまいましたが、1999年に復元されています。その年代が下の写真の時計の上に刻まれています。




市庁舎

 広場に面し、市庁舎も昔通りに再現されていました。



聖ヨハネ教会

 13世紀に創立し、16世紀に再建されています。この教会の壁には二人の修道士が壁に塗りこまれていると言われています。中世には、生きた人間を壁に塗りこむと、その建物を災いから守ることが出来ると信じられていたそうです。



ブレーメンの音楽隊

 この音楽隊は同じハンザ同盟の町で、リマの姉妹都市となっているドイツのブレーメン市から送られました。
 一番下のロバの鼻に触ると幸せが訪れると言われ、鼻先がピカピカ光っています。



聖ペテロ教会

 13世紀に建てられたのが最初ですが、第2次世界大戦で崩壊しています。尖塔の高さは120mもあり、町のシンボルになっています。高さ72mの展望台にはエレベーターで行くことが出来ます。教会の正面の壁には戦災の生々しい跡が残っています。
 復元されたこの教会を見て、3年前に見たドレスデンの聖母教会を思い出しました。
 中に入ると、背の高く広々としています。
 戦災の写真も飾られていました。



第二次世界大戦による消失
 
 空襲により、ほとんどが破壊されてします。



教会の展望塔より

 エレベータに乗り、72mの展望台に登りました。
 リガの大聖堂もダウガワ川の近くに見えます。修理中であることも分かります。
 スターリン様式のラトヴィア科学アカデミーも遠くに見えます。



リガ大聖堂

 大聖堂の脇を通った時は、大聖堂の修理中で、布に覆われ、よく見ることが出来ませんでしたが、ここらからは全体を見ることが出来ました。確かに修理中のようです。
 この大聖堂は13世紀、ロマネスク様式でドイツ人により作られ、聖母マリアに捧げられています。現存するバルト三国最古の建築のひとつです。。



黒猫の家

 この家は塔の上に黒猫の像があることから、 黒猫の館と呼ばれています。この黒猫は最初はギルドにお尻を向けていました。館の主がギルドに入れて貰えなかったからです。しかし、加入を許されると主はその向きを180度変えたそうです。家の両端に計2匹の黒猫が据えつけられています。
 美しい街並みが続きます。



地下の商店街

 冬は雪で覆われる寒い街であることが分かります。
 サンクトペテルブルグにも同じようなお店がありました。




 いかにも旧市街という雰囲気を持った路地です。



スウェーデン門

 リガに唯一、中世から残る城門です。
 当時、スウェーデンがこの町を支配し、向かい側の弊社に住んでいたスウェーデン兵がたびたびこの門を利用していたことから、このように呼ばれるようになりました。また、この城壁界隈は騒音通りとも呼ばれています。外国の兵隊たちがよく酔って騒いでいたことから、そう呼ばれるようになりました。
 昔、リガの住民は外国人と会うのを禁止されていました。しかしリガの少女がスウェーデン兵と恋に落ち、この門でひそかに会うようになりました。やがて娘は捕えられ、門の中に塗り込められてしまったという言い伝えがあります。
 下の2枚の写真は門を通った後の向こう側から撮ったものです。
 城壁が必要とされなくなると、かなりの城壁は壊され町が広げられました。
 



 その先も美しい街並みが続きます。



夜の市庁舎広場を散策

 夕食は市庁舎広場の近くのレストランでした。食後、少し散策してみました。




寒い部屋
 
 ホテルの部屋に入ると、あまりの寒さに驚きました。部屋の暖房を入れようとしましたが、まだ暖房装置は動かないとのこと、フロントに行って電気コンロを貸してもらいました。
 まだ9月なのにこの寒さですから、冬は大変でしょう。


         

4日目 リガからリトアニアの首都ヴィリニュスへ移動

 朝食後、一路リトアニアの首都、ヴィリニュスへ向かいます。
 途中、ラトヴィアのベルサイユ宮殿と称えられるルンダーレ宮殿と、無数の十字架で埋め尽くされた十字架の丘を訪れます。
 途中、ラトヴィアとリトアニアの国境を越えます。
 リガ〜ヴィリニュス間、約380q、所要、約6時間半。

 

 ここでリトアニアについて書いておきます。

 バルト三国では一番南に位置し、北はラトビア、東はベラルーシ、南はポーランドとロシアの飛地のカリーニングラード州に接しています。西はバルト海に面しています。首都はヴィリニュスです。
 国土面積は6万5300平方qとほぼラトビアと同じになっています。人口は358万人と、バルト三国中一番大きく、南の国に下るに従い、人口が多くなっています。


 1991年独立を果たすと、旧ソビエト時代に逃げ出した多くのリトアニア人が戻ってきて、ロシア人などは大量に流出して行きました。その結果、リトアニア人が全人口の80%を占めており、ロシア人の比率は8%と低く、そのため、領内の全住民に民族の差別なく国籍が与えられています。
 リトアニアは1940年、ロシアに併合されるまでは農業国でしたが、現在では経済の中心が工業に移り、それとともに都市化が顕著になり人口の67%が都市部に居住しています。
 リトアニアも他のバルト三国と同様、2004年にNATOとUEに正式加盟しています。
 リトアニアはドイツに近いこともあって、第二次世界大戦中はドイツ軍により約19万人のユダヤ人を含め25万人が殺され、ついでソ連軍がドイツを破った後は20万人以上のリトアニア人がシベリアの強制収容所に送られ、戦後はソ連によりほとんどの教会が閉鎖され、多くの聖職者も収容所に送られています。
 1939年〜40年にリトアニアのカウナス領事代理をつとめた杉原千畝が多くのユダヤ人難民に対し、日本通過ビザを発行して助けたことを記念して、カウナスの日本領事館跡に日本学センターが開設されています。
 リトアニアは、以前、旧ソ連時代に作った原子力発電所を使っていましたが、チェルノブエリの事故を受け、EUに加盟する条件として、ソ連時代の原子力発電所を使用しない事を受け入れています。その為、現在のエネルギーの80%をロシアに依存しています。



ホテル

 リガのホテルは一流でしたが、部屋のコンセントはこのような状態です。日本の一流ホテルならあり得ないことです。お国柄なのでしょうか。
 誰もが使える無料無線ラン装置がエレベーターホールに付けられていました。
 ホテルの前はとても清潔です。


 どこまでも平らな土地が続き、おもに牧草地になっています。
 リガからヴィリニュスまで、380q、約6時間半かかります。高速道路はありませんが、道路は一般に空いています。まだ、渋滞の経験はありません。



ルンダーレ宮殿

 ラトビアのベルサイユと称えられています。
 ロシアの女帝アンナに愛されたビロン公の夏の宮殿として1768年に完成しています。建設には延べ1500人の職人が参加しています。2階建ての宮殿で138の部屋があり、ココロ調の装飾が目を奪います。
 現在は博物館として公開、運営されています。庭園の美しさには驚きましたが、なぜか観光客はほとんどいませんでした。首都から離れており、交通の便が悪いためでしょうか。



 階段を上るとたくさんの部屋が続きます。



黄金の間

 部屋全体が金色で美しく輝いています。素晴らしい天井画も迫力があります。
 宮殿の中でもっとも豪華な部屋です。重要な儀式の時に使用されるのでしょう。



 廊下もまさに美術館です。



白の間

 部屋全体が白で覆われています。ここで舞踏会が行われたそうです。
この部屋に隣接して楕円形の磁器の間があります。磁器は日本製と中国製と書かれていました。



 赤い間も作られていました。



 広い部屋、狭い部屋など、美しい部屋がたくさん続きます。



 裏の庭園の美しさには、感嘆するばかりでした。本当に美しい庭園です。



国境を越える
 
 ラトビアやリトアニアはまだユーロ圏に加盟しておりません。そのため、国境には両替所が設けられて居ました。
 ここにも、昔のパスポート検査場がそのままになっていました。



十字架の丘(世界無形文化遺産)

 遠くに小さな丘が見えます。近づいてみると、おびただしい数の十字架が丘全体を覆い尽くしています。その数は100万本を越えると言われています。大きな十字架は無数の小さな十字架で覆われています。
 この地方の人は、結婚式や、洗礼を受けたときなど、人生の記念日には十字架を立てるのが習わしになっています。
 リトアニアがキリスト教化されたのは14世紀の終わりからです。それまでは自然崇拝の多神教の国でした。ここに建てられる十字架には、十字架が交差する部分に太陽を意味する飾りを付けて、自然崇拝の気持ちも入れ込んであります。
 この丘に十字架が立つようになったのは19世紀の事で、最初はロシア帝国に抵抗し犠牲になった人たちの慰霊のためでした。ロシア軍がブルドーザーを使って3度もこの丘を破壊していますが、いくら十字架を取り去っても、すぐにまた新しい十字架が建てられたそうです。
 400年以上も隣国により支配され続けてきたリトアニアの人たちは、独特の信仰感を持っていると言われています。
 現在、リトアニアの80%はキリスト教だそうです。
 この十字架の丘は「リトアニアの十字架の手工芸とその象徴」として無形文化遺産に指定されています。



ヴィリニュスへ

 再びヴィリニュスへ向けてバスは走り続けます。やはり牧草地と森林の中を走って行きます。
 ヴィリニュスに近づくと、立派なショッピングセンターなどが現れました。



ヴィリニュスに到着

 夕方、リトアニアの首都、ヴィリニュスに到着しました。ここも美しい建物が並んでいます。


         

5日目 リトアニアのヴィリニュス観光後、リトアニアの第二の都市、カウナスへ

 朝食後、ヴィリニュス半日観光(世界遺産)
 その後、トラカイに向かう
 ヴィリニュス〜トラカイ 約27q、所要、約1時間
 トラカイでトラカイ城観光

 その後、リトアニア第二の都市、カウナスへ。 トラカイ〜カウナス 約95q。所要1時間50分。
ヴィリニュス旧市街観光

 聖ペテロ・パウロ教会
 聖アンナ教会
 大聖堂
など



ヴィリニュス
 
 リトアニア共和国の首都で、人口は約56万人と全人口の15%を占め、同国最大の都市です。エストニアやラトビアの首都と異なり、海岸までは312qも離れています。
 旧市街は1994年、世界遺産に登録されています。
 第一次世界大戦中、リトアニアはドイツの占領下におかれますが、ドイツが降伏するとポーランドに支配されます。
 第2次世界大戦が勃発するとソ連に併合され、ソ連併合に反対した市民4万人以上が逮捕、殺害され、ヴィリニュスに住んでいたユダヤ人はヴェリニュスに作られたユダヤ人収容所(ゲットー)に隔離され、多くの人が殺されています。
 その後も、インテリ階級が逮捕・強制連行され、また、共産党に反対する一般市民数十万人がシベリア送りになっています。
 1990年、ソ連崩壊の兆しを受けて独立し、リトアニアが独立し、ヴィリニュスはその首都と定められました。
 ヴィリニュスには非常に多くのポーランド人が住んでいましたが、ポーランドへと追放されリトアニア人が外国から戻ってきて約6割の人がリトアニア人になっています。
 旧ソ連に支配され苦しんだ両国ですが、隣接する国の間にはいろいろな問題を抱えているようです。
 



聖ペテロ・パウロ教会

 17世紀後半に作られたバロック様式の建物です。リトアニアバロックの真珠とも呼ばれています。建物が出来た後、内装のために30年の歳月を費やしたとされます。


 内部には2000体以上の天使、聖人、動物、植物などの漆喰彫刻が飾られています。
 これらの漆喰彫刻はイタリアから招かれた彫刻職人や地元リトアニアの数100人に及ぶ彫刻職人によって作られています。
 なんという、精緻な彫刻なのでしょう。驚きの装飾です。



ケディミナス塔

 ヴィリニュス市中央の小高いケディミナスの丘の上に建てられています。
 かっては城壁の一部だったそうです。




ヴェリニュスのパノラマ鑑賞

 塔の上からヴェリニュスを眺めると、タリンやリガの旧市街に比べ、広い内陸にあるためか、運河もなく、城壁は取り壊され、ほとんどありません。また、たくさんの教会がありますが、その尖塔はそれほど高くはありません。


 塔の中には人間の鎖の写真が飾られていました。
 このデモンストレーションは1989年8月23日にバルト三国を結び行われたソ連からの独立運動の一環で、バルトの道とも呼ばれます。
 このデモにおよそ200万人が参加して手をつなぎ、3ヶ国を結び、600q以上の人間の鎖が作られました。
 すでにソ連崩壊の兆しが見えており、3国の共産党もこの運動を認め、混乱なく行われました。




大聖堂

 ヴィリニュスを代表する建築物です。ヴィリニュスは自然崇拝の信仰を持っていましたが、キリスト教化するとともに、1387年、ヨガイラ公により、この地に教会が建てられました。現在の建物は18世紀の大改修によるものです。
 この広場にはどうどうたる53mの登楼があります。
 大聖堂正面の屋根の上には3聖人の像が建てられていますが、ソ連時代には撤去されていたそうです。
 広場にはヴィリニュスを築いたゲディミナス大公の像があります。
 残念ながら、内部見学はありませんでした。




聖アンナ教会



 16世紀後半に建てられたゴシック建築の教会です。当時、リトアニアでは加工しやすい石材が取れなかったため、建築にはレンガが使用され、この教会もレンガで造られています。正面には形の異なる33種類ものレンガが使用されているそうです。
 1812年、ロシアを攻めるためにここを通ったナポレオンは、この美しい教会を手にして持ち帰りたいと言った有名な話があるそうです。
 当初、この教会はヴィタウタス大公の最初の妻であるアンナのために作られたので聖アンナ教会と呼ばれています。その後焼失しましたが、現在の瓦造りの教会は利とアリア・アレクサンダー大公の主導により1500年に建設されています。教会の外観はほとんど当時のまま残っているそうです。
 もっとも最近の修復は2009年で、屋根瓦の葺き替え、外壁の補強などです。



旧市街散策
 
 建物の壁にお茶のビンが取り付けられていました。何のためなのでしょうか。
 しばらく行くと聖ヨハネ教会が見えてきました。この教会はヴィリニュスでは最も高い鐘楼をもっています。14世紀、リトアニアがカトリックを受け入れた後に建設され、16世紀にはイエズス教会に提供されています。バロック様式の装飾は傑作として知られています。
 ソ連統治時代はキリスト教が禁止されましたから、物置として使用されていたそうです。



聖カジミエル広場

 1604年に建設されています。聖カジミエルはリトアニアの守護聖人です。
 ガイドさんは日本語で説明をしてくれましたが、かなり聞き取りにくい日本語でした。



トラカイ城
 
 14世紀後半にドイツ騎士団からの攻撃に対して、トラカイを防御するよう作られました。一度は、ドイツ騎士団の攻撃により、大きな被害を受けていますが、その後、補強され拡張されています。
 この城はガルヴェ湖上に浮かぶ島に建てられ、城は森と湖に囲まれています。城内には橋を渡って入ります。
 攻撃からの恐怖がなくなると城は荒廃してしまいましたが、大きな再建計画が1946年に開始され、完成したのは1961年で、城は15世紀の建築様式で建設されています。
 現在、内部は博物館になっています。



リトアニアの第2の都市、カウナスへ

 相変わらず、平地で牧草地帯が続きます。



          

6日目 カウナス観光後、ポーランドの首都ワルシャワへ移動

朝食後、カウナス半日観光
 
観光後、一路ポーランドの首都、ワルシャワへ。

途中、リトアニアとポーランドの国境を越えます。

カウナス〜ワルシャワ 384q、約6時間半



カウナス観光

 カウナスはリトアニア第2の都市で人口は約36万人です。
 第2次世界大戦が起こると、最初はソ連に占領されましたが、その後、ドイツ軍が侵攻し、町のほとんどは破壊されてしまいました。
 戦後はソ連の一部となり、工業化の道を歩みました。
 1991年、ソ連が崩壊する前にリトアニアが独立すると、カウナスもその一部となり、現在に至っています。
 
朝食後、カウナス半日観光
 杉原千畝旧日本領事館
 カウナス城
 旧市庁舎広場
 大聖堂



新市街の聖ミカエル教会

 朝起きて、出発までに時間があったので、ホテルの近くを歩いてみました。ライスヴェス通りと言われる驚くほど長い歩行者天国のような通りがありました。車の通行は禁止されているようでしたが、時々公共のための車が入ってきました。
 通りの端に聖ミカエル教会がありました。まだ時間が早かったためか、ドアが閉まっており中には入れませんでした。
 この教会は1893年に建設されたローマ・カトリック教会です。



杉原記念館 

 ドイツ・ナチスはユダヤ人絶滅計画を立て、当時ドイツが占領していたポーランドやチェコスロバキア、ハンガリーなどに住んでいたユダヤ人を捕え、ユダヤ人収容所に送り始めました。
 1940年の夏、ポーランドからリトアニアに逃げてきた多くのユダヤ人が、各国の領事館・大使館からビザを取得し、逃げ出そうとしていました。しかし、リトアニアはすでにソ連に併合され、リトアニアにある領事館・大使館の閉鎖を求めていました。カウナスの日本領事館も閉鎖を求められていました。
 日本領事館はまだ開いていたため、多くのユダヤ人が押し寄せ、日本経由でオランダ領アンティルへ行くための通過ビザを求めていました。
 杉原は日本政府にビザの発行の許可を求めますが、日本はドイツと同盟関係にあり、ドイツ政府からユダヤ人迫害政策への協力を求められていました。そのため、日本政府はビザの発給を許可しませんでした。
 しかし、杉原はユダヤ人を救うため、ほぼ無条件でビザの発給を開始します。それに対し、ソ連政府や日本政府は杉原に退去命令を出し、8月29日に領事館を閉鎖しました。しかし、杉原はカウナスを去る最後の日の1940年9月5日までのおよそ1ヶ月以上もビザを書き続けたそうです。その間に発行されたビザは記録されているだけでも2139枚あり、最後のころは発行スピードを速めるため、記録もやめてしまったので、実際の枚数はかなりの数になったと言われています。
 最後の発給は、杉原と妻の幸子がベルリンに立つ列車の中でも書かれたそです。その結果、6000人以上ものユダヤ人が国外脱出に成功したと言われています。
 この記念館は、当時の領事館を改修したものですが、入館すると、当時の解説ビデオの流してくれました。



カウナス城

 ドイツ騎士団の侵攻に備えて13世紀に建造されています。17世紀から18世紀にかけて戦争により城の大部分は破壊されてしまいました。現在は塔と城壁の一部が残されているだけで、遠くからの見学だけでした。



聖ペテロ&パウロ大聖堂

 15世紀に建てられた赤煉瓦造りの美しい大聖堂です。東欧のカトリックの一大拠点として、枢機卿がこの大聖堂を本拠地としているそうです。



 大聖堂の中に入ると、あまりの美しさにただ唖然とします。




旧市庁舎(左)とイエズス教会(右)
 
 旧市庁舎は18世紀半ばに建てられたバロック様式の建物です。この建物の隣に、広場に面してイエズス教会があります。
 旧市庁舎は18世紀のバロック様式の建造物で、その外観の美しさから「白鳥」とも称されています。塔の高さは58mです。現在は陶器博物館となっています。



ベルナンディン修道院

 高い壁に囲まれた美しい修道院です。



ペルクーナスの家

 15世紀に建てられたゴシック様式の傑作で、屋根の飾りには20種類もの異なる瓦が使われているそうです。
 昔、この場所に雷神ペルクーナスを祀る神殿があったと言われています。


 その近くの川のほとりに砂で造られた顔の像があったので写真に撮りました。策で囲われていたので、単なる製作ではなさそうです。



 昼食のレストラン前です。東欧の美しいレストランです。



 午後は一路、ポーランドのワルシャワへ向かいます。牧草地やトウモロコシ畑が続きます。



 国境を越え、夕方、ワルシャワへ到着しました。かなり強い雨が降っていました。


       

7日目 ワルシャワからポーランドの古都クラクフへ移動

ポーランド

 ここで、ポーランドについて書いておきます。

  ポーランドは中央ヨーロッパに位置し、北はロシアの飛地カリーニングラード州に接し、東はリトアニア、ベラルーシ、ウクライナと接し、南はスロバキア、チェコと接し、東はドイツと接し、計、7か国と接しています。また、北にはバルト海に面しています。
 国土面積は31万3000平方qで、日本の約83%に当たり、人口は3850万人で日本の約30%に当たります。
 首都はワルシャワです。


 国土全体の平均標高はわずか175mと低いのですが、国土全体の3分の2の北部と3分の1の南部に分けられ、南部にはタトラ山地リシ山(2499m)があります。
 第二次世界大戦以降、都市化が進み、現在では65%以上の人が都市部に住んでいます。
 国民の95%がカトリック教徒でローマ教皇ヨハネ・パウロ(在位1978〜2005)はポーランド出身です。ポーロンドの民主化運動に大きな影響を与えています。
 第2次世界大戦後の1949年から1955年にかけては、スターリン主義のため、文化や芸術をはじめ、多くの個人の自由が著しく制限されましたが、56年以降は幾分寛容な政策がとられ、1989年からは共産党による一党支配がおわって議会制民主主義が取られるようになり、西ヨーロッパ並みに言論、出版を含めた検閲が廃止され、政治活動も自由になっています。
 しかし、1989年の民主化後の経済改革で社会主義から資本主義に変わったため、経済的には大きな混乱を経験し、1995年には1万分の1のデノミを行っています。
 また、社会主義時代にはなかった失業が、体制変革後の経済改革により大量に発生し、20%にも達すると言われています。
 歴史的にみると、周りにはロシア、ドイツ、フランスなど強国に囲まれており、かなり複雑な歴史を持っています。
 世界第1次世界大戦まえ、ポーランドは幾つかに分割されていましたが、大戦中にロシア帝国が崩壊し、ドイツは敗北します。その結果、1918年ポーランドは独立を回復しました。
 1930年、ドイツ・ナチスは拡張政策を進め、ドイツ軍はポーランド侵攻を開始しました。ポーランドと同盟を結んでいたイギリス、フランスはドイツに宣戦布告をし、第2次世界大戦が勃発しました。
 ドイツ軍は数週間でポーランドの西半分を占領し、東半分はドイツと秘密協定を結んでいたソ連に占領されてしまいます。ドイツ占領地ではユダヤ人やポーランドの知識階級に厳しい弾圧が加えられ、ソ連占領地では100万人以上がシベリアなどに送られています。
 その後、ドイツはソ連に宣戦布告し、ポーランド全域をドイツ支配下にしてしまいます。
 ドイツ軍はアウシュヴィッツなど、たくさんの強制収容所をポーランドに作り、ポーランドで捕えたソ連軍の捕虜やユダヤ人の虐殺を開始します。
 1944年、堪りかねたワルシャワ市民が蜂起しますが、ドイツ兵はワルシャワを徹底的に破壊した後、ソ連兵に追われ西に逃げて行きましたが、ワルシャワでは死者20万人を出しています。
 第2次世界大戦によるポーランド一般市民の犠牲者は500万人以上、兵員の死者は60万人とされています。これは当時のポーランドの人口の約2割に相当します。なお、第2次世界大戦での日本人兵員の死者は230万人、一般市民の死者は80万人とされています。
 最大の死者を出したのはソ連で2000万人、次いで中国1000万人とされています。
 大戦が終結すると、ポーランドの国土はヤルタ会談で定められ、戦前よりも西に移動し、西に住んでいたドイツ人は追放され、東から追われたポーランド人約400万人が移ってきました。
 戦争が終わってドイツから解放されたポーランドも、その後、自由を取り戻した訳ではありませんでした。大戦後、ポーランドではスターリン主義をとる共産党政権が支配するようになり、ソ連型の経済社会システムの建設を進めて行きます。
 言論や職業の自由が奪われ、キリスト教への迫害も強まり、再び、暗黒の時代になってしまいました。
 ソ連ではスターリンが死にフルシチョフの時代になると、今までの弾圧はだいぶ軽くなります。それにより1968年、表現の自由を求めるデモが起こりましたが失敗し、逆にソ連軍と共にチェコスロバキアに武力介入し「プラハの春」を押しつぶす程に逆行してしまいました。
 ポーランドもソ連同様、非効率な社会主義により、経済は疲弊し、深刻な状態になって行きました。
 1970年後半になって、造船所に勤めていた一人の男がポーランドの運命を大きく変えることになりました。電気技師 レフ・ワレサです。彼が共産主義体制を批判してストライキを起こし、労働組合を結成したのです。
それは、ソビエトの支配下にあった国の中では初めての行いでした。そのきっかけは、ポーランド人のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が誕生したことでした。また、ヨハネ・パウロは疲弊しきったポーランドにとって大きな支えとなりました。これらの功績により、ワレサ氏は1983年にノーベル平和賞を受賞しています。
 1980年代の後半になるとソ連ではゴルバチョフ書記長が政権を握り、自由化への改革が少しずつ可能になって行きました。
 1989年8月、ワレサ氏が率いる連帯系の連立政権が成立し、40年以上も続いた共産主義支配に終止符が打たれました。
 1990年、大統領制が取り入れられ、初代大統領にワレサ氏が選ばれています。
 自由を勝ち取ったポーランドでは、だれもが自由に旅行したり、教会にも行けるようになりました。
 同時に、市場経済が導入されましたが、しみついた共産主義体制からの脱却はなかなか難しく、1995年には高インフレを抑制するため、1万分の1のデノミを実施しています。
 当時、ロシアやポーランドは、非常に貧しく、物を買うための長い行列、これと言った商品の無い陳列棚、品切れが当たり前の食糧店、ものすごいインフレによる通貨の紙屑化など、日本でもよくニュースで伝えられていました。
 時をほぼ同じくして東ドイツも西ドイツと統一されますが、東ドイツの経済がななかなか立ち直らない状況は日本でもたびたび報道されていました。
 1989年以降、ECとの外交を積極的に進め、1999年3月にはチェコ、ハンガリーと共にNATOに加入し、EUには2004年5月、国民投票の結果、正式に加盟しています。
 日本との経済交流は未だ日本全体の1%以下ですが、大手自動車会社の現地工場が相次いで建設され、街を歩いていると、日本車の多さに驚かされます。



ワルシャワ観光

 朝食後、バロック様式の壮麗な宮殿、ヴィラヌフ宮殿観光
 その後ショパンの生家へ
 ワルシャワ〜ジェラゾヴァ・ヴォーラ 約62q、約1時間
 昼食後、ポーランドの古都、クラクフへ
 ジェラゾヴァ・ヴォーラ〜クラクフ
 約350q、約7時間



ワルシャワ市内の風景

 初めて見るワルシャワの市街です。ワルシャワ市内観光は3日後なので、今日は町を少し走っただけでした。
 ポーランドの旅から日本に帰り、ユダヤ人の悲劇や、ワルシャワの徹底的に破壊された様子を描いた映画「戦場のピアニスト」をもう一度見てみました。東京の復興もそうですが、ここまで復興した人間の強さを感ずることが出来ます。



ショパンの像のある公園

 ワルシャワにはたくさんの公園があります。これから行くヴィラヌフ宮殿の開館時間には少し早いので、ちょっと寄り道をして、ワジェンキ公園の中にあるショパンの像の見学です。ただし、今は工事中なので、道路からちょっと見ただけでした。
 このショパンの像は、第二次世界大戦中、ドイツ軍がこの地を占領すると、破壊してしまいました。また、ショパンの作品の演奏を禁止してしまいます。
 ショパンの曲は、ポーランドを愛する民族音楽が基本であり、ポーランド人の心の支えでもあり、ドイツ軍にとっては、好ましくなかったようです。
 当時、ショパンの曲を演奏すれば、直ちに強制収容所に送られるか、死刑にもなったそうです。
 今、その像は復元されています。 



ヴィラヌフ宮殿

 ワルシャワ市の中心部から南へ約10qの所にあるバロック風の宮殿です。ポーランドの王、ヤン3世ソビエスキの夏の宮殿として17世紀に建築されました。その後18世紀に拡大されています。
 宮殿にはヤン3世が集めた家具、時計、陶器、肖像画などの美術品の数々が展示されています。
 建物は戦争により完全に破壊されましたが、昔の写真を元に、復元されています。



裏庭

 小雨が降っていました。宮殿の横に入ると、そこからは宮殿を囲み、庭園になっていました。宮殿をぐるっとまわり、また、戻ってきました。



内部の観光

 内部の写真を撮るには、入り口でお金を払う必要がありました。
 肖像画がたくさん飾られていました。




ショパンの生家
 
 ショパンはワルシャワの西62qのところで1810年に生まれ、その生家が博物館になっています。
 1789年、フランスで革命が勃発し、たくさんの貴族が処刑され始めていました。ショパンの父親ニコラはこの革命から逃れ、ポーランドにやってきて、ワルシャワ近郊のスカルベク伯爵家の家庭教師をしていました。また、母ユスティナはポーランドの没落貴族の出身で、伯爵家の家事手伝いをしていました。
 二人はここで出会い、この地に家庭を持ち、二人の子を授かります。フレデリックと、その姉でした。
 ニコラはクラリネットとヴァイオリンを弾き、ユスティナはピアノを弾きながら歌を歌いました。
 フレデリックが生まれて間もなく、ニコラは高等学校のフランス語教授の職を得てワルシャワへ移ります。
 ショパンの周りは常に母親の影響で音楽にあふれ、ポーランド民謡のポロネーズやマズルカを聞いて育ちました。その後、正式に音楽を学び、天才としての才能を発揮します。また、大学の横にある教会では、バッハや自作の即興曲をオルガンで弾いていました。
 1830年11月2日、ショパンは短期の旅行でウィーンへ旅立ちます。しかし、これが祖国ポーランドとの最後の別れとなりました。
 ウィーンに滞在中、ワルシャワではソ連から独立するための革命が起こったのです。しかし、この蜂起は失敗し、ワルシャワは没落してしまいます。この時、ショパンはエチュード「革命」を作曲します。ショパンが出来る故国への思いでした。
 ショパンはウィーンで活躍しますが、あまり成功せず、パリに活動拠点を移し、そこで大成功をすることになります。
 博物館や庭園は有料ですが、その前に立派な会館があり、ショパンに関する書籍、CD、DVDなどが売られていました。
 広い庭園を通って行くと、ショパンの生家が現れます。この中には、手紙や出征証明書など、ゆかりの品が展示されていました。

 当時の生家は戦争で焼失していますが、その後、再現されています。
 ポーランドはショパンを誇りとし、5年に一度行われるショパン国際ピアノコンクールを開催するとともに、ショパンの名残の地を大切に保存しています。




生家の前の広い公園

 ショパンの生家の前には広大な公園が広がっています。その中にショパンの碑が作られていました。
 ショパンの碑はいろいろなところにあるそうですが、これが最初に作られて碑だそうで、1800年代後半に作られています。その頃から天才ショパンの名前は広く知られていたようです。

 昼食後は、一路、ポーランドの古都、クラクフに向かいました。距離は約350qで7時間のバスの旅でした。


           

8日目 アウシュヴィッツ、およびクラクフ観光

朝食後、オシフィエンチムへ
約64q、約1時間半
着後、アウシュヴィッツ強制収容所跡
および、ビルケナウ収容所跡見学

午後は、クラクフ半日観光
 聖マリア教会
 ヴァヴェル城


 良く知られた「アウシュヴィッツ」はドイツ語であり、ポーランド語はオシフィエンチムです。
 下の写真はクラクフからオシフィエンチムへ行く道の風景ですが、立派な民家が立っています。これらの家は農家ではなく、クラクフで働くサラリーマンの家だそうです。都市で働く人たちは郊外にこのような家を建て、車で通勤するそうです。
 日本には珍しいような立派な家がたくさん建てられていました。



アウシュヴィッツ強制収容所

 歴史上最も残酷な収容所です。そして、ここは大量虐殺、暴力の象徴になりました。 入り口で全員、ヘッドフォンが渡され、日本語を話せるガイドさんが私たちのグループに付いて案内してくれました。
 1939年、ドイツ領となったポーランドには、1933年ごろからドイツにはすでにあった強制収容所と同じような収容所が次々に作られてゆきました。ドイツの強制収容所にはすでにナチスにとって「不必要な人材」とみなされた人々が収容されていました。すなわち、ナチス政権に反対する人々、刑事犯、精神異常者、同性愛者、そしてユダヤ人でした。
 1940年、ドイツの支配下となったオシフィエンチムはドイツ語でアウシュヴィッツと呼ばれるようになりました。
 作られた当初は、非常にたくさん発生したポーランド兵の捕虜を収容するためでした。
 戦前のオシフィエンチムの住人の60%はユダヤ人でしたが、全員がユダヤ人ゲットーに収容され、残ったポーランド人は労働者としてドイツに連れて行かれ、市内とその周辺にあった1200の家屋は破壊されました。また、この地にあった工場はドイツ軍が奪い去り軍事産業工場へと編成し、約12,000名のポーランド人が強制労働者として連行されて来ました。
 オシフィエンチムはナチス占領地のほぼ中央になり、鉄道も整備され、収容者の輸送に優れていたため、1942年ごろになると、徐々にユダヤ人絶滅センターへとなって行きました。そして、収容人数は最大2万人に達しました。なお、ここには所長以下監視役までを含め、約8000人の親衛隊が働いていました。
 この地の最大の収容所は、この近くにあるビルケナウ収容所で、収容者人数は最大9万人に達しました。この収容所は、最大の絶滅施設で、この収容所の見学の後、バスで移動し見学します。
 第3の収容所は今回の見学にはありませんが、ここから6q程離れた工場近くのブナ副収容所で、1万1千人以上の囚人が収容されていました。
 アウシュヴィッツの近くには、47カ所の副収容所と外部労働班が作られ、それらの近くの炭鉱や製鉄工所で、強制労働に従事させられていました。
 これら収容所は有刺鉄線と監視塔で囲まれ、外部とのあらゆる交流が禁止されていました。
 ナチスドイツは、占領したいろいろな国からユダヤ人や囚人を送り続け、また、ソ連軍捕虜も送られて来ました。その数は合計130万人とも言われ、ガス室で殺され、収容所が解放されたときに生き残っていたのは約7000名でした。
 現在、アウシュヴィッツ第一収容所とビルケナウ第二収容所が博物館として残され、保護されています。



ユダヤ人による楽団

 強制収容された人たちは、毎日、労働に駆り出されました。その時、ユダヤ人が演奏する楽団を前に並びながら通って行きます。そうすることによって、労働に出て行った人数と、帰ってきた人数の確認が容易になったそうです。この楽団はその目的のために演奏をさせられていました。



毒ガスによる死の工場

 当初、毒ガスとして一酸化炭素が使用されていましたが、死に至るまでの時間が長かったため、後にチクロンBが使用されるようになりました。チクロンBとは人間にたかるシラミや蚤を殺すために作られた毒薬でした。この粒を投げ入れると、シアンガスが発生し、囚人たちは、最初猛烈なうめき声をたてますが、約20〜30分で全員が息絶えたそうです。
 ガス室は地下に作られたものと地上に作られたものの2種類がありました。



焼却炉

 いうまでもなく、毒ガスで殺された人を焼く焼却炉です。強制収容所の周りには、人体を焼くひどい匂いで覆われたそうです。
 組織的な大量殺人を隠すために作られたとも言われています。



拷問部屋

 囚人に対する拷問の部屋も見学しましたが、写真は禁止でした。
 1辺が1mにも満たない四角の部屋に4名を立ったまま押しこめ放置する立牢や、餓死刑室などもありました。



遺留品

 収容所の中には、ここが解放されたときに見つかった品々が展示されています。義手と義足、眼鏡、靴、カバンなどです。また、死体からはぎ取られ2トンの重さにもなる女性の髪の毛の山も展示されていました。だだし、この髪の毛の山は写真禁止でした。
 カバンには持ち主の名前が書かれています。ここに入れられた人たちは、もう一度、このカバンを持って出られると思っていたのでしょう。トランクの数は3,800個、靴の数は8万足以上だそうです。
 囚人から取り上げたこれらの品々は通常、ドイツに送られていましたが、ここにあるのは、まだ送られずに残っていたものです。



銃殺場

 送られた人数が少ない場合は、ガス室でなく、ここでピストルで殺されました。



建物内の写真

 各部屋にはこのような写真が置かれていました。




人体実験
 
 飲み物、食べ物を与えないとどのくらいで人間は死ぬのかとか、避妊とか、いろいろな人外実験が行われましたが、最も重点的に行われたのは双子の遺伝子的影響の実験だったそうです。
 下の写真は飢餓に耐えてきた子どもたちと女性です。



囚人の写真

 囚人は全員が囚人番号を付け正面と横から写真を取られています。
 囚人が政治犯なのか、犯罪者なのか、ユダヤ人などかも、入れ墨により分かる様にされたそうです。



囚人によって書かれた絵 

 幸運にも生き残った囚人が、救出された後に書いた絵です。



ルドルフ・ヘスの絞首刑場後

 アウシュヴィッツ収容所の所長、ルドルフ・ヘスは、1946年3月11日、イギリス軍により発見、逮捕され、裁判にかけられ、1947年4月16日、アウシュヴィッツの一角に作られた絞首台で処刑されています。



ビルケナウ収容所

 次々と送り込まれる囚人を効率よく殺すために作られた絶滅収容所です。ここに送られた囚人は、直ちに、労働に適する者と、そうでない者に分けられ、働けない者は囚人番号も付けられずに、直ちにがガス室送りになりました。
 収容所の送られたユダヤ人はハンガリーからが43万人、ポーランドから30万人、フランスからは9万など、合計は110万人でした。
 また、ポーランド人は15万人、ジプシーが2万3千人、ソ連軍捕虜が1万5千人、その他、合計で130万人と言われ、そのうち、殺害された人数は110万人と言われています。
 アウシュヴィッツは1945年1月、ソ連軍により解放されました。 



収容所内部

 収容所内の便器と寝床です。
 囚人には一人一つの鉢が与えられ、それを使用して、食事と排便をしたそうです。一つの建屋には1万人近くの囚人が押しこめられ、そのため、便器の穴は常に3名が同時に使用し、かつ、使用は一日に2回だけ許されたそうです。当然、紙などはありません。
 寝るための棚には、寒さを防ぐため藁が敷かれ、一段に9名ずつ入れられていたそうです。必然的に、いたる所に排便がされ、その衛生状態は、まさに最悪の状態でした。



クラクフ市内観光

 午後はクラクフの観光です。 クラクフはポーランドの古都と言われ、11世紀からおよそ600年近く、ポーランド王国の都でした。
 17世紀初頭に首都はワルシャワに移されています。
 第2次世界大戦中、クラクフはドイツナチスに占拠されてしまいました。ポーランド全土が戦火に見舞われる中、クラクフだけは奇跡的に爆撃から免れました。連合軍が歴史的遺産の多い街並みへの爆撃を避けたと言われています。
 市域の人口は約76万人で、標高は219mあります。



ヴァヴェル城

  ポーランドを代表する王宮です。
 ここでは41人の王の戴冠式が行われています。歴代の王たちは競うように宮殿を拡張してゆきました。当初、ゴシック様式で建設されましたが、16世紀初頭、ルネッサンス様式に大改築されています。
 3階建で部屋は全部で71室あります。大きな中庭もあります。
 城の中には王の玉座が置かれる謁見の間があり、その天井にはたくさんの首の彫刻がなされていました。謁見に来た人たちを威嚇しているようです。なお、残念ながら内部の写真は禁止されていました。
 王宮の片隅にこの城の宝物、レオナルドダビンチの「白テンを抱く貴婦人」の絵が厳重な管理のもと、所蔵されていました。別料金ですが、入って鑑賞しました。
 部屋の中にはこのダビンチの絵一枚だけが展示されていました。
 写真禁止なのでインターネット検索により、見つけてみました。 



白貂(テン)を抱く貴婦人
 
 
 レオナルド・ダ・ヴィンチが1489年から1490年ごろにかけて描いています。
 お城の中にあるチャルトリスキ美術館に展示されています。


 クラクフはさすがにヨーロッパの観光都市です。京都や奈良ではこのような白塗りの馬車を見つけることは出来ません。



聖ペテロ・パウロ教会

 ヨハネパウロ2世はこの教会で大司教を務めていたそうです。


 さらに歩いてゆくと、旧市庁舎の塔が見えてきました。この前は大きな広場になっています。



聖マリア教会

 14世紀に建築されたゴシック様式の教会で、広場の隅の方にあります。
 ポーランドを代表する教会で、内部は絢爛豪華でした。


 この広場の広さは4ヘクタールもあり、ヨーロッパ最大の規模を誇っています。広場の中心には大きな織物会館が横たわっています。その中はたくさんのお土産屋が店を開いていました。


 自由時間が1時間ほどあったので、大きな織物会館の裏にある博物館の塔に登ってみました。良い運動になりました。クラクフの旧市街が一望できました。


 塔を降り、集合場所の聖マリア教会に歩いてゆきました。
 教会に着くと、ちょうど定時で教会の上の方からラッパの音が響いてきました。このラッパはある出来事を忘れないようにならされるそうです。
 1241年、敵襲来を知らせるラッパが鳴り響きました。当時、ヨーロッパで最も恐れられていたモンゴル軍、タタール人の襲来でした。しかし、ラッパの音は途中で鳴りやみます。タタール人の放った弓矢が、見張りの喉を射抜いたのです。
 侵略による悲劇を忘れないよう、今もラッパが演奏され、その時と同じように、途中で鳴りやみます。約1分ぐらいの演奏でした。演奏が終わると、ラッパ吹きが手を振って、窓が占めました。それを見終えて、私たちも、この広場を離れました。
 ポーランド王国はタタール人を撃退し、クラクフの町を守りました。
 その後、クラクフは織物の町として栄え、16世紀には王国の全盛期を迎えます。



 旧市街入口のフロリアンスカ門が見えてきました。
 バスでホテルに戻りました。


        

9日目 ヴィエリチカの岩塩鉱(世界遺産)見学後、
              列車にてワルシャワへ戻る

朝食後、ヴィエリチカへ 約15q、約30分
世界遺産 ヴィエリチカ岩塩抗見学

午後、列車にてワルシャワへ 約2時間45分




ホテル周辺

 ホテルは閑静な所にあります。周辺もとても清潔です。



クラクフ大学

 ポーランドの由緒ある大学だそうです。 
 ここに通う大学生の3分の1は車を持っているそうです。
 




ヴィエリチカ岩塩鉱(世界遺産)見学
 
 海を持たないポーランドにとって、塩は貴重品でした。
 この近くには幾つもの岩塩鉱があるそうです。
 この岩塩鉱は13世紀以来稼働していましたが、コストの問題と坑内で洪水が起こる危険性があることから1996年、廃坑になり、現在は観光地となっています。
 深さは地下327mで、坑道は迷路のように掘られ、その全長は300qにも達します。 現在は観光客向けに、3.5qの坑道が整備されています。



エレベーター

 4階建てのエレベーターです。なにか、アウシュヴィッツで見た立ち牢のようで、狭いところに何人も押し込まれます。各階からエレベーターに乗り込み、それらのエレベーターは繋がっているので、同時に降りて行きます。


昔のエレベーター
 
 人を運んだり、掘り出した塩を運び出すのには、昔からエレベータが使用されていました。動力としては、馬などが使用されていました。
 これらの写真は、坑道内に作られた展示物を撮ったものです。



幾重にもなっている扉

 エレベーターを降りると、幾重もの扉があります。気圧の調整だそうです。




各所に展示された当時の様子
 
 坑道は、子供でも楽しめるよう、テーマパークのような展示物が作られていました。
 所どころに、教会もあります。



噴出した塩

 むき出しの岩肌には塩の結晶が作り出されていました。



可燃性ガス探知

 坑道で最も恐ろしいのが、可燃性ガスの爆発です。
 熟練した人が、可燃ガスの濃度を常に調べていたそうです。




今の階段と昔の階段
 
 坑道を下りるのに、今は立派な階段がありますは、昔は非常に危険な階段でした。滑って怪我をしたり死んだりした人は多かったでしょう。



キンガ礼拝堂

 しばらく降りると、非常に広い部屋に出ました。周りはすべて塩です。礼拝堂も作られ、大部屋の壁には「最後の晩餐」の彫刻も刻まれていました。岩塩鉱夫が彫ったそうです。
 シャンデリアも塩の結晶で造られているそうです。


 坑道はアリの巣のようにいろいろな穴が掘られていますが、さらに降りて行くと、池が出現しました。


 まだまだ下に降ります。一番底まで行くと、礼拝堂や食堂までもありました。



エレベーター待ち

 地下には博物館もあります。その入場を待つ人と、私たちのように、博物館を見ないで出る人で、すごい混み合いでした。


 さらに歩いてゆくと、扉があり、その向こうにエレベーターがあります。
 降りてきた時より、はるかに地下深くにあります。
 また、4階建てのエレベーターに乗り、坑道の入り口まで上がって行きました。



売店にある土産用の塩

 岩塩は土産として重宝されるようです。皆さんも買っていました。



昼食

 昼食の時、パンをくり抜いた器に入ったシチューのような食べ物が出てきました。入れ物を含め、すべてを食べることが出来ます。



クラクフ駅からワルシャワ駅へ移動

 ワルシャワへは電車で戻りました。来るときはバスで7時間かかりましたが、列車だと2時間45分でした。
 1等車なので、3人掛けですが、2等車は4人掛けになります。
 食堂車に座った人たちは、ほとんど動こうとはせず、本を読んだり、携帯電話をいじったりしていました。
 時々、社内を弁当売りが回ってきていました。日本と同じです。



途中の風景

 鉄道の旅の楽しみは窓から見る風景です。東欧の風景を楽しみました。




ワルシャワ市内
 
 ワルシャワ駅に到着しました。今日のホテルは空港の近くにあり、そこまでバスで移動です。ワルシャワ名物、スターリン様式の文化科学宮殿がどこからでも見ることが出来ます。
 この文化科学宮殿は1955年にスターリンからポーランド市民への贈り物として建設されました。高さ237m、42階建て、尖塔の高さは49mあり、部屋の総数は3288です。
 現在、内部には、企業のオフィスが多数入居していますが、映画館、劇場、博物館、展望階などがあります。
 このようなスターリン様式はソ連内に当時、たくさん作られたそうです。
 ポーランド人はこの建物をあまり好きではなさそうです。最近は、同じ高さを持つ幾つもの高層建築が作られています。


         

10日目 ワルシャワ市内(世界遺産)観光、夕食後、
              一室を借り切りショパンリサイタル鑑賞

ワルシャワ市内観光

終日、世界遺産 ワルシャワ市内観光です。
キューリー夫人の生家
聖十字架教会(ショパンの心臓)
ワジェンキ公園など。

最後の夜は、個室を借り切りショパンコンサート鑑賞でした。



ホテルからの眺めと玄関前

 ホテルは空港近くのNOVOTEL Airportでした。ここから、市内の文化科学宮殿が見えます。
 ホテルの前の駐車場に停まっていた車の半分以上は日本車でした。トヨタ、日産、ホンダなどでした。これには驚きました。



市内の風景
 
 市内のホテルからバスで旧市街に向かいました。下の写真はバスから撮った市内の風景です。日曜日のためでしょうか、閑散としています。



旧市街

 旧市街に入ると公共バス、タクシーを除いて、通行禁止になっています。私たちもここから歩いて、旧市街に入って行きました。




ポーランド科学アカデミー(スタシツ宮殿)

 右側の写真はポーランド科学アカデミーです。この宮殿は1820年代、スタニスワフ・スタシツ神父財団による王立科学盟友協の本部として建てられました。現在はポーランド科学アカデミーになっています。
 1830年、宮殿の前に地動説で有名なコペルニクス(1473-1543)の像がつくられました。コペルニクスは天文学者であり、この地の領主司祭を務めたこともありました。
 コペルニクスは、イタリアのガリレオ・ガリレイよりも前に地動説を発表しています。


 コペルニクスの台座には第二次世界大戦中で受けた砲弾や鉄砲の穴がそのまま残されていました。
 なお、科学アカデミーを含め、旧市街は当時の小さな壁の傷一本までも忠実に戦前の通りに復元されたそうです。



聖十字架教会

 ショパンの心臓が安置されている教会です。正面には、この教会の名前の通り、十字架を背負ったキリストの像が設置されていました。
 午前中はこの前を通っただけで、内部の見学は午後になりました。



ショパンの住んでいた住宅

 ショパンが昔住んでいた住宅です。



ワルシャワ大学

 ポーランド最大の規模を誇る大学です。かって、この大学には音楽学校もあり、ショパンもここで学んだそうです。
 キューリー夫人もここで講義を行っています。
 また、この大学はワレサ議長らの活動の拠点ともなっていました。
 本日のガイドさんもこの大学の日本学科で日本の考古学を学んだそうです。



ヴィジトキ教会

 ショパンがオルガン奏者を務めていた教会です。


 聖十字架教会を後にして、さらに旧市街広場の方に歩いてゆきました。
 4人の聖人に支えられたチャプスキ宮殿の前を通りました。
 6枚目の写真はホテル・ブリストルで、ヨーロッパホテルの中でも最高峰に位置し、1913年、キューリー夫人のノーベル賞受賞パーティが開催されています。



ショパンのベンチ
 
 ワルシャワ市内にはこのようなベンチが15カ所にも設置されているそうです。
 現在地が分かるとともに、椅子のボタンを押すと、ショパンのピアノ曲が流れてきます。



大統領府

 宮殿のような建物です。その隣にショパン博物館があります。
この建物はポーランドの貴族、ラジヴィウ家の館でした。ショパンが初めてピアノを上演したのはこの館でした。
 1994年から、大統領府として使用されています。
 大統領府の入り口には、ソ連軍が多数のポーランド人を虐殺し埋めた跡や、ドイツやソ連によるポーランドのいろいろな悲劇の写真が解説とともに掲げられていました。



聖母マリア教会

 1783年に建設されたネオゴシック形式の教会です。完全に復元されています。



旧王宮広場
 
 旧王宮広場の中心には石柱が建ち、その上にジグムント3世の像が立っています。
 1596年、ジグムント3世はポーランドの都をクラクフからワルシャワに遷都し、1611年、ワルシャワは正式にポーランドの首都となっています。 
 なお、1795年には第3次ポーランド分割でプロイセン領に組み入れられています。
 1807年、プロイセンを征服したフランスのナポレオンはワルシャワ公国を作りましたが、ナポレオンの失脚により、ロシア皇帝アレクサンドル1世がポーランドの王になっています。


 遠くにサッカー競技場が見えます。ここから歩くと、けっこう時間が掛かるそうです。



結婚写真

 今日は日曜日ですが、こちらの人は土曜日に結婚式を挙げ、日曜日にカメラマンを伴い、市内のいろいろなところで記念写真を撮るのだそうです。



聖ヤン大聖堂と聖母教会
 
 二つの教会が並んでいます。
 手前が聖ヤン大聖堂で、その向こう側が聖母教会です。



聖ヤン大聖堂

 14世紀に建てられたワルシャワ最古の教会の一つです。19世紀に英国式ネオゴシック様式に改築されています。歴代のポーランド王の戴冠式や憲法宣言が行われている由緒ある教会です。



聖母教会

 中に入ろうと思ったら、ミサの最中なので遠慮しました。
 この教会の最初の建設は1454年だそうです。 



旧市街広場
 
 所どころに、大戦中の惨状の写真が展示されていました。
 広場の中心には戦う人魚姫の像が建てられていました。
 ガイドさんは大学で日本の古代史を学んだそうです。非常に正確で美しい日本語を話します。
 ただし、まだ日本には行ったことがなく、ぜひ一度は行きたいと言っていました。



自由散策

 ここでいったん解散し、約1時間、各自自由散策でした。 
 ショーウインドウを覗くと、琥珀の加工品が売られていました。
 どうも、家内は観光よりも琥珀に興味があるようで、家内は買い物、私は一人で観光となりました。そろそろ、娘やお嫁さんへのお土産が心配になりだしたようです。
 広場では、大道芸人たちがパフォーマンスを行っていました。



王宮
 
 再び、先ほど歩いた王宮前広場に出て、王宮の中庭に入ってみました。入場は有料のようでした。
 時間があまりないので内部の見学をやめ、入り口とは別の出口から出て、王宮の周りを回ってみました。
 この王宮の復元は1988年に完成しています。
 ここでも、王宮の窓が開き、ラッパが鳴り出しました。



 ここでも新婚さんが写真を撮っていました。



城壁

 自由時間が終わり、全員が集合し、再びツアー開始です。市場広場から少し歩いてゆくと、城壁が現れました。
 広場の北側の城壁の半円形の砦はバルバカンと呼ばれています。



キューリー夫人博物館

 バルバカンをくぐり歩いてゆくと、キューリー夫人の博物館があります。 夫人は、生まれてから1年間、ここで過ごしていますが、その後、引っ越しています。この生家は現在、博物館になっています。
 ノーベル賞を2回貰ったキュリー夫人はワルシャワで生まれ、23歳でパリに出るまでワルシャワで育ち教育を受けていました。
 パリに渡ったキューリー夫人は、ピエール・キューリーと結婚して夫婦一緒にウランの研究を行い、夫婦でノーベル賞を受賞しています。なお、娘も科学者になりのノーベル賞を受賞しました。
 館内にはキューリー夫人が使用した実験器具なども展示されていました。夫やアインシュタインと撮った写真もありました。
 何度もお札に登場しています。 



 再び旧市街を歩いて行きました。



聖十字架教会

 当時、心臓に魂があると信じられ、死後、心臓を大切に葬る習わしがありました。
 ショパンは、死ぬ前にもう一度ポーランドに戻りたいと思っていましたが、39歳という若さで亡くなったことと、戻るためには、ロシアの許可が必要であるという2つの理由で、結局ポーランドに戻ることがありませんでした。
 ショパンは心臓をポーランドに埋葬するよう遺言で姉に頼み、姉はホルマリンで心臓を保存し持ち帰っています。帰る途中、いろいろな困難がありましたが、無事にそれを持ち帰り、現在はこの教会に安置されています。
 その下には花束が捧げられていました。
 教会の中央に赤いじゅうたんが敷かれ、ちょうど、新郎新婦の行進が始まるところでした。ここでも、写真を撮るのが目的のようです。



ワジェンキ公園

 この公園は、市の中心街より南に徒歩20〜30分ほど離れた閑静な場所にあります。ワルシャワ最大の公園です。
 ショパン像で有名なワジェンキ公園には、広大な敷地内に離宮や池などの様々な景色があり、隅々まできれいに整備されています。
 夏になると、毎日曜日、無料野外ショパン・コンサートが開かれているそうです。



 向うに水上宮殿が見えます。



 ここにも新婚さんが記念写真を撮っていました。



水上宮殿(ワジェンキ宮殿)

 ポーランド王の夏の宮殿として作られました。



 ホテルへ戻るころは、もうかなり暗くなっていました。空に浮かび上がるワルシャワの文化科学宮殿がバスの中からも見ることが出来ました。



ショパンリサイタル

 今夜はツアー最後の夜です。ツアーには、ショパンリサイタル鑑賞が含まれていました。このリサイタルはスズダル宮殿(The Szuster Palace)の一つの部屋を借り切った豪華なものでした。
 スズダル宮殿は結婚式、披露宴、コンサートなどいろいろな目的で使用されているそうです。
 演奏者は Maria Korecka-Soszkowska さんで、ショパンの即興曲、マズルカ、スケルツォ、ノクターン、ポロネーズなど、合計7曲でした。
 彼女の経歴書などを頂きましたが、数々の賞を得ている相当有名なピアニストでした。


        

11日目、および12日目  ワルシャワからフランクフルト経由成田へ

 帰りはフランクフルト経由になりました。そのため、エアバスA380-800となり、座席は3-4-3で、私と家内は中央の中の2席となり、通路側を取れませんでした。今までの数々のツアーで通路側に座れなかったのは、今回で2度目でした。
 いずれにせよ、無事に成田に到着しました。
 
朝食後、ワルシャワ空港へ
ワルシャワ発 09:50 LH1347
フランクフルト着 11:45
フランクフルト発 13:50 LH710
成田到着 翌日の早朝 07:55


 今度の旅は、結果的に平和の大切さを実感する旅になりました。
 丁度、この旅行中、日本は韓国との竹島問題や中国との尖閣諸島の問題などで両国との関係悪化が問題になっていました。インターネットで見ていると、中国では、日本の百貨店が暴徒により壊され、商品が奪われ、また、自動車工場では、機械が破壊されていました。想像を絶する事態でした。
 ただし、このような暴挙は、日本人の心に深く刻まれ、末永く語られるでしょうから、中国にとっては大きなマイナスでしょう。
 ヨーロッパは、現在EU圏が築かれ、国境の問題が解決され、パスポートの検査なしで旅行することが出来ます。
 たしかに、ヨーロッパの統合はEU各国にとっての望みであり、それが達成されたことに、今年、ノーベル平和賞が与えられています。
 今から60年も前に作られた映画「ローマの休日」でも、王女アンがヨーロッパ諸国の協調が大切だと述べていました。その頃からの悲願だったのでしょう。
 バルト三国やポーランドを旅すると、至るところに、第2次世界大戦の悲劇が、すなわち、ドイツとソ連による迫害の悲劇が残されていました。案内されたガイドさんからも、直接ではありませんが、隣国からの侵攻のひどさが語られていました。
 迫害を受けた民族がその悲劇を正確に末永く子孫に伝えるのは、その悲劇を味わった人たちの義務でもありましょう。
 日本は大戦中、朝鮮を併合し、名前を日本名に変えさせたり、また、中国でもいろいろと残酷なことをしたのは間違いのない事実であり、両国にとって、私たち日本人にはなかなか理解できない感情があることを、今回の旅で感じざるを得ませんでした。
 将来、機会が来たら復讐しようと思っている人々、過去は過去として、明るい将来を目指してゆこうとしている人々、いろいろな考えのあるのは確かですが、時の指導者によって大きく変化するのも事実です。
 哲学者サンデル教授の白熱教室で、子供は親が起こした過ちに責任があるかないかを議論していました。
 立場の違いにより、議論はいつまでも続きますが結論は出ず、お互いに相手の立場を理解することが重要だと結論づけています。
 隣国との問題を解決する英知が、今ほど大切なときは無いようです。






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