ブルガリア・ルーマニア2か国周遊10日間

トラピクス

2013年8月22日〜8月31日

 

 国の名前は聞いたことのあるものの、東欧のこれらの国々は何か牧歌的なイメージを持っている程度の知識でした。
 たまたま、送られてきたパンフレットを見ていたら面白そうなので行ってみることにしました。
 世界中が異常気象で、日本では猛烈な暑さが続いたりしていましたが、これらの国の気温を調べてみると、それほど暑くはなさそうなので、この時期を選んでみました。結果的に、予想通りの気温で、日本に比べると夏はだいぶ過ごしやすいようでした。
 10日間のツアーではありましたが、日本発が夜であり、実質的には7日間でした。

   

 バルカン半島に位置するルーマニア、ブルガリアは、ウクライナ、モルドバ、ハンガリー、セルビア、マケドニア、ギリシャ、トルコと隣接し、黒海にも接しています。ルーマニアとブルガリアは、ヨーロッパで第二の長さを誇るドナウ川によって分けられています。
 西欧に比べれば比較的南に位置するこれらの国々も、ブルガリアの南端の緯度はほぼ、青森と同じであり、ルーマニアの北端はサハリンの北部に位置していいます。従ってほぼモンゴルと同じ緯度になり、夏でもあまり暑くならないのが理解できます。

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 ただし、2枚目からは軽快に動きます。

 



 成田からこれらの国に行く直行便はありません。今回は、ドーハをハブ空港とするカタール航空を利用しています。
 成田からドーハまで12時間、乗り換えのためのドーハでの待ち時間は5時間、ドーハからブカレストまで5時間、合計、22時間かかりました。成田での待ち時間を入れれば、丸1日以上が必要でした。
 時差は7時間ですが、夏時間制をとっており、そのため、暗くなるのは午後9時頃でした。


月日 観光内容 宿泊地
8月22日 1日目  成田発 夜10時30分.
8月23日 2日目  ドーハ経由ルーマニアのブラショフ到着、観光. ブラショフ ルーマニア
8月24日 3日目  シギショアラ、ビエルタン教会観光. ブラショフ ルーマニア
8月25日 4日目  ブラン城、シナイア市内、ブカレスト観光. ブカレスト ルーマニア
8月26日 5日目  ルセ市内、イワノボ教会、ベリコタルノボ観光. ベリコタルノボ ブルガリア
8月27日 6日目  ガブロヴォ、カザンラク観光. ブロブディフ ブルガリア
8月28日 7日目  ブロブディフ、ソフィア観光. ソフィア ブルガリア
8月29日 8日目  ボヤナ教会、リラの僧院観光. ソフィア ブルガリア
8月30日 9日目  午前中、ソフィア市内自由観光、その後ドーハへ.
8月31日 10日目  ドーハから成田へ.


        

1日目 成田からドーハへ

 今日はカタール航空QR-805便を利用し、ドーハへ向かいます。成田集合は午後8時30分、出発は午後10時30分です。
 機種はB777で座席配置は3-3-3の並びです。
 カタール航空は団体旅行客への座席を記入したチケットを前もって発券し、添乗員に渡すシステムを取っており、早く行っても希望する座席を取れる訳ではありませんが、トラピクスの受付は午後7時半なので、それに間に合うように家を出発しました。
 座席は希望する通路になっていましたが、完全満席でした。
 成田出発は予定より10分早い10時20分でした。
 以前、モロッコへ行った時もカタール航空を利用しましたが、その時のアルコールのサービスはなかったような気がしましたが、今回は一般の航空会社と同じシステムで、ビールやワインのサービスがありました。また、飛行中、客室後部にあるカウンターに行けば、何時でも、ビールやワインを飲めたり、カップラーメンのサービスもあり、一般の航空会社とほぼ同じでした。



ルーマニア

 ここで最初の訪問国、ルーマニアについてまとめておきます。

 この国旗は1989年のルーマニア革命後、新しく作られました。
 青は空、黄は鉱物、穀物、赤は国民の勇気、独立闘争を表しています。
 なお、青と赤がモルダヴァ、黄が小ワラキア、赤が大ワラキアを表すとも言われています。
 革命前の国旗は中央の黄色の中央部に、国章が描かれていました。
 革命軍は、この国章を切り取った旗を立てて戦ったことから、このようになったと言われています
  
 ルーマニアについて知っていることを上げれば、オリンピックの体操競技で活躍し白い妖精と呼ばれたコマネチでしょう。1976年、14歳で参加したモントリオールでは3個の金メダルを獲得し、また、オリンピック競技では初めてと言われる10点満点を獲得しています。
 また、1980年のモスクワオリンピックでは2個の金メダルを獲得しており、世界中で最もよく知られた体操競技選手となりました。
 しかし、1981年、アメリカ遠征中、コーチのカロリー夫妻が亡命してしまいます。帰国したコマネチはそれ以来、その行動が激しく監視されるようになり、海外遠征も厳しく制限されるようになります。
 1989年11月、ルーマニア革命の直前、ハンガリー、オーストリアを経由し、アメリカへ亡命します。チャウスセク大統領の次男から愛人関係を迫られ、拒否すればどうなるかを知っていた彼女は、それに耐えかねず、国を捨て亡命したと言われています。
 1994年、アメリカでオリンピック金メダリストの男性と婚約し、1996年、祖国ブカレストに帰り結婚式を上げます。その時、国を捨て亡命した彼女を国民は暖かく迎え入れました。
 2001年、アメリカの国籍を取得し、ルーマニアの国籍も放棄しなかったため、二重国籍を持っています。
 現在も、アメリカで体操競技選手の指導に当たり、また、オリンピック関連の要職にも付き、国際的にも精力的に活動しています。
 時代に翻弄されながらも立派に生き抜き、世界的に活躍している一人です。
 ついで、有名なのは故チャウセスク大統領でしょう。
 第二次世界大戦中、ソ連がルーマニアに侵攻して来て、領土の一部を奪い取ると、怒った国民は国王カロル2世を退位させドイツとともに枢軸国として参戦し、ソ連と戦います。しかし、ドイツが劣勢になると、親ドイツ派を逮捕し、連合国側に付き、今度はドイツとの戦いを開始しました。
 戦争が終わると、ソ連軍の圧力により、王政が廃止され、ルーマニア王国は崩壊します。そして、1947年にルーマニア人民共和国が成立します。
 1965年、チャウセスクが第10代書記長に就任し、最高指導者として君臨します。この時、国名は共和国から、社会主義共和国と改称されています。
 1974年には大統領制が導入され、初代大統領として就任しますが、処刑される1989年までの約23年間、ルーマニアの独裁者として君臨します。
 チャウセスクは東欧の社会主義圏にありながらも、ソ連から距離を置き、自主的な外交政策を展開します。特に北朝鮮や、当時のベトナム、イラクなどの独裁政権とは強いつながりを築いていました。
 なお、チャウセスクがソ連との距離を置くことによって、西側諸国との交流は比較的スムーズに行われていました。
 1975年には日本を訪れ、昭和天皇や当時の三木首相と会談しています。
 当時、ポーランドは農業国でしたが、比較的豊かで、チャウセスクは民衆から支持されていました。
 また、1984年のロスアンゼルスオリンピックでは社会主義諸国が軒並みボイコットしたのにも拘らず参加し、西側諸国からは賞賛されています。
  しかし、国内では極めて独裁的な政治を行い、人口を増やすため堕胎と離婚を禁止するなど、国民の自由な権利を奪ってゆきました。
 西側諸国との有効な関係を築いた結果、多額の融資金を受け入れ、国内産業を繁栄させようと工場群を建設しますが、共産主義体制下での生産はうまく行かず、経済的に破綻してゆきます。その結果、融資金を返済するため、国民が必要とする食料も輸出しなければならなくなり、多くの国民は飢餓状態に陥り、燃料にも困る状態になってしまいました。
 そういう状態の中でも、チャウセスクは、国民の館と言われる、極めて豪華な宮殿を建てたり、党や国家の要職を自分の家族・親族で固めて行きました。その結果、国民からは次第に見放されてゆきます。
 おりしも、1989年、ベルリンの壁が崩されたりし、東欧諸国に民主化の荒らしが押し寄せます。
 危機を感じたチャウスセクは、民衆を説得しようと大統領官邸前に民衆を集め、演説を開始します。共産党を讃えるのが目的でした。演説してしばらくすると、民衆の大ブーイングがその演説を遮ります。
 困惑した大統領の表情はテレビで世界中に放映され、世界中の人々がそれからの1週間に注目しました。私もその一人で、当時の状況は、今のアラブ諸国の革命よりも鮮明に残っているほどです。大統領はその時まで、民衆にまだ支持されていると誤解していたとも言われています。
 その時、すでに国軍は大統領を見放し、民衆側に付いていました。民衆はこの大統領官邸を攻撃しはじめ、チャウセスクは屋上からヘリコプターで脱出します。
 その後、民衆と大統領親衛隊の間で銃撃戦が発生し、多くの死者を出す惨事になりました。誰が民衆で、誰が護衛隊かも分からないような状態での銃撃戦だったそうです。
 チャウセスク夫妻はトゥルグヴィィシュテへと落ち延びますが、そこで捕えられ、その近郊にあるデアル僧院の兵舎内で、銃殺により処刑されました。
 チャウセスクの処刑が報じられると、大統領親衛隊は銃撃戦を徐々にやめて行き、国民による革命が成功しました。

 以上は、ルーマニアに関する大きな2つの出来事ですが、以下に一般的なルーマニアの現状を書いておきます。
 国土面積は日本の63%で、ほぼ本州と同じですが、人口は約2,100万人と日本の約16%程度です。
 GDPは約17兆円で、日本の3%程度になります。一人あたりのGDPは約80万円で日本の470万円に比べ、約17%となります。どちらかというと、貧しい国に分類されそうですが、街や道路は清潔で、マーケットの商品も豊富です。ただし、いろいろの民族が暮らしており、ロマ民族のように、かなり貧しく、仕事にも付けず、教育もままならない状況もあるようです。
 2007年1月1日、EUに加盟しています。通貨は従来からのルーマニア・レウが使用されています。
 言語はルーマニア語で、約9割弱の人が正教会の一つであるルーマニア正教に属しています。


        

2日目 ブカレストに到着、その後ブラショフ観光


ドーハ

 メチャ暑い東京を出発し、ドーハに到着しましたが、午前3時半なのに、すごい熱波です。しかし、ドーハ空港は、待合室をキンキンに冷やすのが売りのようです。
 この空港は24時間オープンで、真夜中が一番混雑するそうです。
 東京との時差は7時間ですが、到着は午前3時30分で、ここで乗り換えブカレストに向かいます。出発時間は8時35分で、待ち時間は5時間もあります。
 ここで、関空から来た人たちと合流です。
 参加者は36名と、かなりの大人数です。このツアーは一人参加優遇システムで、一人で一部屋を利用しても、追加料金は7泊にもかかわらず、わずか1万円でした。通常なら5万円ぐらいは高くなっています。そのためでしょうか、男性、女性とも一人参加がたくさんおり、ご夫婦での参加は5組、10名でした。残りの26名中、男性が14名、女性が12名と男性が多かったのも特徴でした。



ドーハを出発、ブカレストへ

 QR943便に乗り換えブカレストへ向かいますが座席は3-3のB777で、飛行時間は約5時間です。
 指定された座席は窓側で、通路ではありません。添乗員が希望の席を取れなかった人の航空券をすべて受け取り、ほぼ全員が満足するように変更してくれました。おかげで通路の席に変更してもらいました。窓側を希望する人が何人もいたようです。



ブカレストからブラショフへ 

 ブカレスト到着は午後1時半でした。ここから約165km北のブラショフへバスで向かいます。
 ブラショフ到着は午後4時半と、3時間弱のバスの旅ですが、途中、トイレ休憩がありました。



ブラショフ観光 

 ブラショフはトランスシルヴァニアの古都で、ルーマニアのプラハとも言われ、人口はわずか28万人ですが、ルーマニアでは首都ブルガリアに次いで2番目の観光客を集めています。トランスシルバニア地方とはカルパチア山脈に囲まれたルーマニアに西北地です。
 この町は12世紀にドイツ商人が建設し、この地がオスマン帝国と西側を結ぶ交易路上であったこともあり、大いに栄えました。ドイツ人以外にもルーマニア人、ハンガリー人が住んでいましたが、ルーマニア人には市民権が認められていませんでした。
 ブラショフを含むトランスシルバニアは1918年、ルーマニアに併合されましたが、地の利に恵まれ、中世の貿易センターとして大いに栄えました。
 しかし、第二次世界大戦後、多くのドイツ系市民はソビエト連邦によって追放され、ユダヤ系市民も極端に減少しています。
 1950年から1960年までの一時期、ソビエト連邦の影響でスターリン市と呼ばれていたことがありました。
 その後のチャウセスク政権下での1987年には何千人もの労働者が最低限の食糧供給を要求しデモを行いましたが、チャウセスクは軍隊を動員して弾圧し、3名の死者を出すとともに多くの労働者が収監されています。
 1989年のルーマニア革命では84名の死者をこの町で出しています。

カルパチア山脈

 この山脈が左の地図のようにルーマニア中部を大きく分断しています。
 この山脈はスロバキアからウクライナ、ルーマニアまでに広がっており、全長が約1500q、最高峰はスロバキアのゲルラホフスカ山で2663mで、アルプス・ヒマラヤ造山帯に属していますが、アルプス山脈ほど険しくはありません。
 
 ブラショフはブカレストから北へ約165kmの所(直線で140q)にあり、途中、アパラチア山脈を越えて、再び山を下りたところにあります。
 途中のアパラチア山脈の峠は標高1100mで、ブラショフの標高は600mです。
 市観光地としては有名ですが人口は約28万人とルーマニアでは比較的小さい町です。



旧市庁舎とスファトゥルイ広場

 町の中心は高さ60mの塔を持つ旧市庁舎で、この建物は1420年に創建されています。
 町の裏に立つ小高い山はトゥンパ山で標高は865mですが、ケーブルカーにより数分で登れるそうです。
 かって、この町のザクセン人の商人40名がヴラド・ツェペシュによって串刺しにされ、トゥンパ山の山頂で処刑されています。なお、ヴラド・ツェペシュは串刺し王として有名です。



黒の教会

 後期ゴシック建築としてはルーマニア最大の教会で、現在もドイツ・ルター派教会として使用されています。高さは65mもあります。
 この教会は1383年〜1477年にかけて建てられましたが、1687年、オスマン帝国との戦いでハクスブルグ帝国軍が侵入し、その時の戦いで屋根は焼け落ち、煙が教会全体を囲み、煙で壁が焦げて黒くなったことから黒の教会と呼ばれるようになりました。



聖ニコラエ教会と統一広場

 独特な美しい姿をしたルーマニア正教の教会で、1392年に創設されています。当時は木造でしたが、1495年、この地のワラキア王により石造りになりました。
 残念ながら内部は写真禁止でした。
 この教会は町の中心部から徒歩で15分程度の所にあります。町の中心部に住んでいたルーマニア人達はドイツ人に追われ、この近くに住まわされ、街の中心部に入ることは許されませんでした。
 統一広場と呼ばれる下の写真の建物の前の広場はこじんまりとしておりました。



東方正教会
 ルーマニアの教会の入ると、西欧の教会とはかなり違っています。ここでは、その違いを少しおさらいしてみます。
 キリストの死後、キリスト教は徐々に広まり、380年にはローマ帝国の国教になり、その後、地中海全域に広まって行きました。
 395年、テオドシウス1世は死に際して帝国を東西に分け、長男には東を、次男には西を与えて分治させました。
 その後しばらくして西ローマ帝国は滅亡してしまいます。一方、東ローマ帝国は首都をコンスタンティノポリス(現イスタンブール)に置き、大いに発展し、ビザンティン帝国とも呼ばれています。
 東西に分かれたキリスト教はその後独自の発展を遂げ、ローマの司教は「教皇」と呼ばれ、コンスタンチノーブルの司教は「世界総主教」と呼ばれるようになりました。
 両者は1054年、ついに分裂し、西方教会はカトリック、東方教会は正教会と呼ばれるようになりました。
 正教会は、ルーマニア、ブルガリアのほか、ギリシャ、ロシア、セルビア、マケドニア、ウクライナ、アルメニアなどに多くの信者を持ち、それぞれの国に、独自の正教会が作られています。
 これら正教会の元締めは今でもイスタンブールに置かれた総司教庁がにぎっています。
 カトリックと正教会の主な違いを上げると、
 正教会は、一般に教会の中に椅子を置かず、正教徒は立ったままお祈りします。時には年配者のため、壁面に椅子が置かれることもあります。
 また、主祭壇が「イコノスタシス」と呼ばれる壁のような仕切りで出来ていて、奥の聖域と信者の祈る場所が分けれれています。このイコノスタシスはたくさんの聖画(イコン)で飾られています。教会内の装飾は絵画か平坦な木彫やレリーフのみで、立体的な彫刻はありません。
 正教会では司教の結婚が認められていることなどです。ただし、これらも国によっていろいろ分かれているそうです。
 なお、コンスタンチノーブルは、15世紀にオスマントルコ軍により攻め滅ぼされ、イスラムの世界へと変わって行きました。



ホテル到着

 観光後、午後6時ごろ、ホテルに到着でした。この地では老舗になるホテルキャピトルです。
 インターネットはこのホテルを含め、ルーマニア、ブルガリアすべてのホテルで WiFi 無料でした。


          

3日目 シギショアラとビエルタンの観光

ブラショフ市街散策

 バスの出発時間は9時なので、早朝のブラショフの町を散歩してみました。ホテルから10分弱も歩くと、昨日見た旧市庁舎、黒の教会のあるスファトゥルイ広場に出ます。
 観光客で賑わうこれらの路地はまだひっそりとしておりました。よく見ると、カラオケの看板も掛かっていました。



 旧市街に接してカラオケ店がありました。街中のスーパーはかなり小さめです。



 中世時代、ザクセン人が建てた古い家並みが続いています。ただし、道路は車で一杯です。



 スファトゥルイ広場にはまだひっそりとしていました。



 黒の教会を一周してみました。典型的なゴシック建築です。



ブラショフからバスでシギショアラヘ
 
 約120km、ほぼ平坦ののどかな農村地帯を走ります。
 途中トイレ休憩を入れて、約2時間強でシギショアラに到着しました。
 今回のツアーは人数が多いうえに、ルーマニアではトイレの数が非常に少ないので、一回の休憩に約30分必要でした。



 のどかな農村地帯が続きます。



シギショアラ観光(世界遺産)
 
 シギショアラは、未だ中世の面影が色濃く残る町です。トランスシルバニアの中心に位置しています。
 この町には、12世紀末ハンガリーのクラウス王の命令で、ザクセン人が入居して来ました。それにより、地元のルーマニア人は、その下流の地位に置かれていました。
 15〜16世紀になると、繁栄の絶頂期を迎え15のギルド(職人組合)をもつ城塞都市になっています。
 当時から、この町はたくさんの観光客で賑わっていました。この町の目玉は丘の上に立つ時計台と山の上の教会です。この時計台は14世紀に作られています。
 時計台に到着すると、昼食まで自由散策となりました。まず、市内を見下ろせるところへ行ってみました。
 かってこの町の繁栄を築いたザクセン人ですが、ドイツ系であるため、第二次世界大戦後、その多くが追放され、2011年時点で、シギショアラに住むザクセン人は1.5%と非常に少なくなっています。
 ここで生まれたヘルマン・オベルトは第二次世界大戦中、ドイツでV2型ロケットを開発し、その後アメリカに亡命し、アメリカでのロケット開発のリーダーを務めています。


 この時計塔は14世紀に、シギショアラが商工ギルドによる自治都市となったのを記念して建てられました。その高さは64mもあり、大時計は1648年に取り付けられました。
 時計台の中は、現在、6層の博物館になっています。



 時計塔に登ってみました。そこからは町が一望できます。中世時代の建物がそのまま保存されているようです。



山の上の教会
 
 山の頂上に立つのが山の上の教会です。
 1345年にゴシック様式でたてられたルーテル教会です。この教会からの見晴らしは木に遮られて悪いとのこと、時間もあまりないので、行くのを中止しました。
 この時計台から東京までの距離は8890kmと書かれていました。



 丁度、結婚パレードが行われていました。日本も以前、花嫁は角隠しを被り、金襴緞子の帯を締め、町を歩く習わしになって居ましたが、今はすっかりなくなりました。
 この地方では、昔からの風習なのでしょうか、いまもパレードの風習があるようです。



 着飾った女の子がいたので一緒に写真を撮らせてもらいました。



ドラキュラレストラン前の広場
 
 この地は吸血鬼で有名なドキュキュラが生まれた土地として有名です。そのためでしょうか、この付近にはドラキュラの像や土産がたくさんありました。
 この黄色の建物はドラキュラという名のレストランで、昼食はこのレストランでした。そのため、自由時間中、何時でもトイレを使用出来ました。
 面白い場所で、立ってみていると、いろいろな民族衣装を身にまとった人たちがやってきます。写真を撮ると喜んでくれます。地元の人のボランティアなのかもしれません。
 ドラキュラのモデルとなったのはブラド三世でこの地を治めていました。オスマントルコ軍を破ってこの町と住人を守った英雄です。串刺し公としても有名ですが、当時、串刺しは一般的な処刑方法だったそうで、ブラド三世が特別残酷であったという訳ではなさそうです。



 結婚式を挙げた別のカップルがやってきて、この周辺で記念写真を撮っていました。



 小さな教会があったので入ってみました。有料のためでしょうか、だれも居ませんでした。




ビエルタン

 シギショアラから西へ27km行ったところに要塞教会があります。
 教会は人家を見下ろせる高台に作られていますが、この町の屋根には笑った顔のような小さな窓が作られていたので、何軒か、写真に収めてみました。



ビエルタン教会(世界遺産)

 この教会は三重の壁に囲まれており、この地方の要塞教会の中ではもっとも堅固に作られています。周囲は分厚く高い壁に囲まれ、町全体を望める見晴らし台も作られています。
 隣国などで戦争が起こると、兵士たちはこの町を通って戦いに行きます。その間、村人たちはこの教会に入り、嵐が過ぎるのを待ったそうです。籠城は2か月間耐えるように作られ、村人が過ごせるための部屋もたくさん作られていたそうです。
 


 要塞の中の中央に聖堂が建てられています。
 この要塞聖堂は1490年から1520年にかけ建てられた後期ゴシック様式です。この様式で建てられたトランスシルバニアの聖堂としては最後のものとなっています。 祭壇のキリスト像は石を掘り上げて作られています。イコンだけの教会とは違っています。



 聖堂内には聖具室があり、その扉には1515年、地元の親方たちが作り上げた19個もの鍵からなる非常に複雑な鍵が考案され取り付けられています。
 この鍵は1900年のパリ万博に出品され、賞を受けたそうです。



ブラショフへ戻る

 この地方のアパートの様子です。



 所どころに教会があります。日本の田舎のお寺のようなスケールです。



要塞跡レストランにてデナーショー

 町を見下ろす小高い山に要塞が作られており、今はレストランになって居ます。
 今夜はそこで、イタリア民謡やこの地方の歌などを聴きながらの夕食でした。
 今回のツアーでは2回ほどオプションの夕食会があり、今回は1人6000円でした。日本に比べれば、かなり安い夕食でした。



 食事をしながらの鑑賞です。歌や踊りが絶え間なく続いて行きました。



 終わったのは10時半ごろでした。要塞はライトアップされていました。


          

4日目 ブラン城とシナイア観光 

 今日は、ブラショフから再び、ブカレストに戻ります。途中、ブラン城とシナイア僧院、ペレシュ城、ペルシュール城を見学し、ブカレスト到着後、市内観光です。
 ブランはブラショフから30q、シナイアはそこから50qの所にあります。
 シナイアからブカレストまでは約130qです。
 ブラショフはカルパチア山脈の北側に、ブラン城はその麓のブッチェジ山麓の小高い山の上に建てられています。
 
 シナイアの町は山脈のほぼ中心にありその標高は800m〜920mです。 



ブラショフ市内散策

 今日も出発前にホテル周辺を散策してみました。
 ホテルの窓から遠くに教会が見えます。そこまで行ってみました。




 驚くほど立派な公園でした。周りの家もかなり豪華です。


 ルーマニア正教会のようです。朝早いので、まだ、誰も居ませんでした。
 正面にはイコンが、また、床には絨毯が敷かれ、椅子の無いのが特徴です。



ブラン城
 
 ブラン城は吸血鬼ドラキュラの舞台として有名です。物語の中では、ドラキュラ伯爵が居城として使用していました。ドラキュラ伯爵のモデルはヴラド三世(ヴラド・ツェペシュ)で、1456年〜1462年の6年間、ワラキア公国王として在位しています。彼は若き日、現イスタンブール遊学中にオスマン・トルコ帝国のメフメト2世の捕虜となりますが、やがて許され国へ戻りワラキアの支配者となります。しかし、約束していた貢納金の支払いを拒否してしまいます。スルタンは兵士を派遣しますがその兵士を生身のまま串刺しにしてしまいました。その残酷な行為から串刺し公と言われるようになりました。
 物語の吸血鬼ドラキュラはアイルランド作家、ブラム・ストーカーの小説です。
 実際には、ブラン城とヴラド三世との関係はほとんどないそうです。
 この城は1377年、ドイツ商人がワラキア平原からブラショフに入ってくるオスマン朝軍をいち早く発見するために築いたと言われています。
 その後、1920年代にルーマニア王室のメアリー王妃が改修して現在のようなお城になりました。
 このブラド城はルーマニア第一の観光名所で、海外からも沢山の観光客が訪れています。
 バスを降りると、入場ゲート前までたくさんのお土産屋が続いています。



 入り口から500mほど山道を登ると、お城が現れます。


 マリア王妃の居城となったこのお城には、ルーマニアの伝統的な家具やタペストリーなどの装飾品で飾られています。



 城の中には秘密の通路が作られていました。



 塔の最上階からは遠くまで見渡すことが出来ます。庭の中央には井戸が掘られていました。
 今は空井戸でした。



 牧歌的な風景が続きます。


 カルパチア山脈を登ると、観光地として有名なシナイアに到着します。
 昼食はここのホテルでした。立派なリゾートホテルです。
 シナイアは標高が約900mで、プロホヴァ渓谷の中にあります。ブカレストに近いこともあり、夏は避暑地、冬はスキー場として国内外から多くの観光客を集めています。



シナイア修道院 

 この修道院は17世紀末、ワラキア公ミハイ・カンタクジノにより創建され、その後、19世紀の半ばにカロル一世(1866-1914)により新教会(大教会)が建てられています。
 鐘楼は19世紀から20世紀の初頭にかけて造られました。
 ルーマニア正教会の修道院です。
 修道院の入り口には鐘楼があり、ついで大教会が見えて来ます。中にはフレスコ画が描かれていました。


 古い修道院は奥に入った中庭の中にありました。この修道院の中にもフレスコ画が絵かがれていました。



 シナイアの町は如何にもリゾートの町を醸し出しています。修道院から400m程度離れたところに、次の訪問地、ペレシュ城があります。



ペレシュ城

 お城の入り口です。ここで入場料を支払います。




 先ほどのゲートをくぐると遠くにお城らしきものが見えて来ました。歩いてゆくと驚くほどの美しさ、壮麗さを持った城が目前に現れます。
 お城の美しさでいうと、ドイツのノイシュバンシュタイン城を思い出しますが、このお城もそれと並び称される美しさを持っています。
  このお城を建てたのはルーマニアで最も長く王位についていたカロル一世(1839-1914、在位1866-1881)です。彼の戦闘服姿の銅像が城の前に建てられいます。
 建設は1875年に始まり、400人以上の工芸家、何千人もの労働者により、8年の歳月をかけて完成していますが、最終的に完成したのは1914年でした。完成後、数か月してカロル一世はこの世を去ります。
 このお城はルーマニアで最も壮麗な城とも言われ、部屋数は136もあります。このような贅沢な暮らしの中で国民は困窮し、1907年には農民による大蜂起が起こっています。
 また、チャウセスクが政権を握っていた時、彼は世界各国の著名な政治家に内部の部屋を貸し与え、接待したそうです。
 現在、城内はカロル一世が収集した絵画、彫刻、宝飾品、武具などを展示する博物館となっていますが、今回のツアーでは外観を見るだけでした。
 カロル一世の退位後、その息子カロル二世が政権を握りますが、1940年、時のイオン・アントネスク将軍により国外に追放されてしまいます。いわゆるクーデターです。
 その9か月後、アントネスク将軍は侵攻してきたソ連に宣戦布告し、第二次世界大戦に枢軸国として参戦しています。



ペルシュール城 
  
 このお城はペレシュ城から数百メートル離れたところにあります。カロル一世が甥のフェルディナンドとその妻マリーのために建てています。マリーは、ペレシュ城とカロル一世を毛嫌いしていたそうです。1892年に完成しています。

 

 再び平らなワラキア平原を走り、ブカレストに戻ります。
 ブカレストはカルパチア山脈の山裾とドナウ川にはさまれたワラキア平原の中にあります。
 ブカレストの人口は現在、ルーマニアのほぼ1割、200万人が暮らしています。
 1930年代、ブカレストはリトル・パリとも呼ばれ、たくさんの公園が作られ、大いに栄えていました。
 しかし、第二次世界大戦時における連合国による爆撃、1940年に起きたマグニチュード7.4の大地震により、街の大半は破壊されて、1977年に起きた二度目の大震災により死者1391名を出す大惨事が町を襲いました。


 

 いよいよブカレストです。この町を代表する凱旋門ですが、市の中心部からは2kmほど離れています。
 この凱旋門は第一次世界大戦の勝利を記念して1919年に建てられました。当初は木造の漆喰塗でしたが、1930年、ルーマニアの彫刻家たちにより、現在の姿の石の門に作り替えられています。



ブカレスト大学図書館 

 旧共産党本部の横にあります。その前に立つ銅像はカルロ一世で、共産党時代に破壊されましたが、別の彫刻家による再生されています。



クレツレスク教会
  
 革命広場前にある典型的なルーマニア正教会です。18世紀に建てられましたが、当時は大金持ちがこのような教会を建て寄進したそうです。



革命広場

 比較的狭い広場ですが、高さ25mの大理石でできた犠牲者の慰霊塔が建てられています。赤いのは犠牲者たちの血を表しているそうです。
 2006年に作られています。



旧共産党本部

 この本部前にはチャウセスクが最後の演説をした有名なバルコニーがあります。
 当時の映像を見ていると、非常に広く感じましたが、実際に見て見ると、だいぶ狭く感じます。当時、群集は道路全体をも埋め尽くしていたので、非常に広く感じたのでしょう。
 この建物は、現在、労働省が使用しているそうです。



 この革命で犠牲になった約1000名以上の名が刻まれたプレートが作られています。



野良犬退治 

 ルーマニアにはたくさんの野良犬が目につきます。多くの人が噛みつかれ被害にあっているそうです。野良犬を捕まえという声も強いそうですが、動物愛護協会がそれに反対し、なかなか進まないそうです。
 現在、約200万匹もいるそうです。
 旧共産党本部の前にある美術館には、日本の展示の垂れ幕が飾られていました。



国民の館

 すべての権力を独占していたチャウセスクは国民の館と言われる巨大な建築物を建てました。
 国民はこの建物を憎んでいました。政治的な対立で、この建物に強制的につれて来られ殺された人がたくさんいました。それに、この建物を作るのに立ち退きを命じられ、潰された家は7000を越え、26もの教会も潰されています。
 革命直後、この建物を爆破しようという案も出ました。どのように使うか、広いスペースの使用方法に頭を悩ませたそうです。
 現在は国会議事堂として、また、観光客向けにもその一部が解放されて、多くの収入を得ているそうです。
 この建物の建設が始まったのは1984年、2万人の作業員と、700人の建築家が毎日24時間働きました。
 12のフロアーに5000もの部屋を配し、その中には幅18m、長さ15mの回廊や、高さ18m、総面積2200平方mの大ホールもあり、シャンデリアの数だけでも2800を数え、その最大のものは5トンにも達するそうです。
 また、カーペット一枚の重さが14トン、地下20mには核シェルターが造られています。
 この館はヨーロッパ最大の規模を誇り、世界ではペンタゴンに次ぐ第二の大きさだそうです。 



 正面からみた館です。




 横からみた館です。下の航空写真では下側から見たことになります。



 国民の館の周辺には幾つもの無機質とも思われるビルが立ち並んでいます。



 国民の館の前の大通りです。この通りは、パリのシャンゼリア通りを参考にして作られ、幅や長さもシャンゼリア通りよりも長く作られています。



 グーグルマップで空から見て見ました。右が正面で下側が上の写真の横から見たものです。


          

5日目 ブルガリアに入り、イワノボ教会、ベリコタルノボの観光

 いよいよ、今日はルーマニアを去り、ブルガリアに入ります。
 ブルガリアと言えば、我々日本人になじみのあるのは相撲の琴欧洲と、ブルガリアヨーグルトぐらいかもしれません。
 ルーマニアとブルガリアはドナウ川によって分けられています。
 今日はブカレストから80kmほど南のブルガリアにある国境の町ルセを通り、ベリコタルノボへ向かいます。
 昨夜泊まったブカレストのリン・グランドホテルです。
 ここからワラキア平原を走り、ブルガリアにある国境の町ルセまでは80qです。



バスの交換

 国が変わると、バスや運転手、ガイドさんのすべてが変わります。ブルガリアから新しいバスが国境を越え、ルーマニアまで迎えに来ていました。ここで、荷物を載せ変えます。
 新しいバスは3列になっていましたが、前の椅子との間隔が狭く、かえって窮屈でした。
 このようなバスを利用したのも、一人参加が多かったせいかも知れません。
 以前、台湾で利用した3列のバスは、グリーン車並みにゆったりしていましたが、このバスの座席の大きさはなぜか4列と同じでした。



 国境を流れるドナウ川です。ここには中洲があり、はじめは狭いドナウ川だなと思ったのですが、すぐに広い川が現れました。さすがドナウ川です。



パスポート検査 

 ルーマニアもブルガリアもEUに加盟しており、パスポートの検査はないものと思っていたのですが、ここでは検査がありました。EUに加盟している国のパスポートの場合、荷物検査はありますが、パスポートは見せるだけのようです。私たちのパスポートには入国の印が押されていました。 



ブルガリアの地形

 ブルガリアの中央部にはバルカン山脈が走り、南西部にはリラ山脈が走っています。ドナウ川からバルカン山脈まではドナウ平原が広がっています。
 バルカン山脈の最高峰はブルガリア中央部の中央バルカン国立公園にあるボテフ山で標高は2376mです。
 ブルガリアの最高峰はリラ山脈の中にあり2925mで、バルカン半島の中での最高峰です。



イワノボ岩窟教会(世界遺産)
 
 ルセからわずか20q南に1970年に世界遺産に登録されたイワノボ岩窟教会群があります。
 この教会の中には、13〜14世紀ごろ描かれたとされる色鮮やかなフレスコ画が描かれています。岸壁に作られたそれらの教会に行くには、今は道が作られていますが、当時は縄などを使用して登ったと言われています。


 

 入り口はかなり狭く数名しか入れません。天井には最後の晩餐のフレスコ画が描かれていました。



 再び、ドナウ平原を走り、ベリコタルノボへ向かいます。




ベリコタルノボ

 世界の火薬庫と言われるバルカン半島は、どこかで常に争いが起こっている場所でした。ブルガリアは、キリスト教のビザンチン帝国やイスラム教のトルコなど強国に囲まれ、常にその二つの大国の戦いの場でもありました。
 11世紀初頭に第一ブルガリア帝国が滅び、およそ170年にわたって、ブルガリアはビザンチンの支配下におかれていました。苦しめられていたベリコタルノボの貴族たちは反乱軍を組織し、ビザンチンの支配層を追い出します。ビザンチンは数回にわたって兵を送ったものの鎮圧できず、1187年、ビザンチンとブルガリアの間に平和条約が締結され、第二ブルガリア帝国が誕生しました。
 その結果、13世紀のブルガリアはイヴァン・アセン2世の元で最も安定し繁栄した時代でもありました。イヴァン・アセンは婚姻により近隣諸国と友好関係を結び、自分自身もハンガリー王女と結婚しています。この時代は第二ブルガリア帝国と呼ばれています。
 王の居城はツァレヴェツの丘の上に造られた堅固な城塞に守られていました。このお城はヤントラ川に囲まれ、城の入り口は正門を除き、断崖と川に囲まれています。
 しかし、この繁栄も200年ほどで途絶えることになります。14世紀に入ると、再び戦乱に巻き込まれます。バルカン半島に攻め込んで来たオスマントルコ軍はコソボの戦いでセルビアを破り、1393年にはこのベリコタルノボにも進軍し、町全体を包囲し、ついに第二ブルガリア帝国は滅亡してしまいました。それから500年もの間、トルコの支配下にはいりますが、1879年、ブルガリア人が蜂起し、トルコから解放され、このベリコタルノボで新憲法を発布します。この憲法は当時のヨーロッパでもっとも民主的な内容だったと言われています。



ツァレヴェツの丘

 この丘の上に第二ブルガリア帝国の要塞が築かれています。このお城に入る正門の前には3つもの門があり、はね橋も作られていました。この城砦は1.1kmの城壁で囲まれ、城壁の厚さは3m、高さは10mもあり、各所に監視塔が設けられて居ました。
 今回のツアーでは、内部に入らず、遠くから見るだけでした。もう夕方で、門は閉められていました。
 第二ブルガリア帝国時代、丘全体にわたり立派な建物や教会があり、まさに宮殿のようでしたが、オスマン軍の猛攻により、瓦礫の山と化してしまったそうです。



 今夜のホテルです。崖の上に造られています。


 

 バルコニーからは町全体を見晴らすことが出来ます。家々は川沿いの崖の斜面にへばりつく様に建てられています。素晴らしい景観です。
 イタリアのアマリフィ海岸を思い出します。



旧市街散策

 この町はオスマントルコの支配下にあった500年の間に、工芸美術がもたらされ、磨かれてゆきました。この旧市街には昔ながらの職人街が残っています。旧市街には、それら、昔ながらの工房が軒を連ねていました。



ブルガリア

 今日からブルガリアなのでブルガリアについてまとめてみました。
 1821年、ゲオルギ・ラコフスキがオスマン・トルコ帝国からの解放運動をを展開しました。その結果、1878年、ブルガリアはオスマン帝国の支配から解放されますが、その時、ラコフスキが使用していた旗を国旗として制定しました。
 白が平和と友好、緑が農業と森林、赤が軍隊の勇気と忍耐を表しています。

 正式名称はブルガリア共和国です。
 人口は約750万人で、愛知県とほぼ同じであり、GPPは日本の0.9%で、ほぼ長崎県と同じ規模です。
 公用語はブルガリア語で、首都はソフィアです。
 2007年、EUに加盟しますが、EU加盟国の中では最貧国にランクされています。
 宗教はブルガリア正教会が83%、イスラム教が12%などです。
 ブルガリアは、西のキリスト教、東のイスラム教、それに数多くの民族が出入りし、多くの変遷を経ています。
 歴史的にみると、今はバラの谷とも言われるトラキアで紀元前4000年ごろの物と思われる黄金製品の遺物が遺跡から多数発見され、高い文明を持った人たちが古くからここで暮らしていたと言われています。
 この地には、スラブ人、ブルガール人などいろいろな民族が入り込み現在のブルガリア人が形成されていきました。
 7世紀、第1次ブリガリア帝国が成立しますが、11世紀に東ローマ帝国に滅ぼされます。 12世紀末には再び独立し、第二次ブルガリア帝国が成立します。
 しかし、1393年にオスマン帝国に滅ぼされ、以降、500年もの長い間、オスマン帝国の支配下に置かれました。この時期、ブルガリアの言語や風俗などに大きな影響を与えています。
 1878年、黒海から地中海への航路を必要としていたロシアは、オスマン帝国に宣戦布告し、戦争の結果オスマン帝国はロシアの条件を受け入れます。その結果、オスマン帝国はブルガリアの支配を放棄し、ブルガリアは自治公国となりました。その上、マケドニアなども含む大ブルガリア帝国が誕生しました。
 ロシアの南下政策によりロシアが強国になるのを懸念したイギリス、オーストリアなどがベルリン条約でブルガリアの領土を縮小させています。
 独立した時、問題になったのは、誰を国王にするかでした。オスマントルコによる支配が長かったため、第二ブルガリア帝国の王族の血筋は途絶えってしまっていたのでした。
 その結果、トルコからブリガリアを開放したロシア皇帝アレクサンドル2世の親族である、ドイツ系貴族アレクサンダル・バッテンベルクが初代ブルガリア公として即位しました。
 その後、フェルディナント公が君主となり1908年完全独立を宣言し、1909年、ブルガリアの独立は国際的にも承認され、ロシアからの影響も排除できるようになりました。
 その後、第一次世界大戦では同盟国側として参戦しましたが、第二次世界大戦ではナチス・ドイツと軍事同盟を締結します。しかし、ホロコーストには抵抗しユダヤ人を保護して来ました。
 1944年にはソ連の侵攻を受け、王政が廃止され共和国が成立し、ブルガリア人民共和国となりますが、ソ連の衛星国家の一つでした。
 1989年、他の東欧諸国と同様、共産政権が崩壊し、2001年には元国王のシメオン・サクスコブルクゴツキが首相に就任しました。
 しかし、経済的にみると、共産圏から独立しましたが、ソビエトを中心とした東欧の市場を失い、ブルガリアの経済は劇的に縮小し、以前の約40%にまでも落ち込んでいました。
 しかしその後ゆっくりと経済は回復してゆきます。しかし1996年には金融危機に陥りました。1997年以降、政府はマクロ経済の安定とGDPの毎年4-5%の成長を約束し、2004年には生活水準が1990年のレベルまで回復し、2007年、EUへの加盟が正式承認されています。


          

6日目 エタル野外博物館、およびトラキア人の墓、(世界遺産)見学

今日はバルカン山脈を越え、観光しながら、ブロブディフへ向かいます。
 ベリコタルノボからガブロヴォまでは50q、そこからカザンラクまで50q、さらに最終目的地、プロブデエィフまでは約100qです。


 朝のまだ早いうちにホテル周辺を散策してみました。
 急斜面の石畳など、街の景観とは裏腹に、生活するには不便だろうというのが実感でした。それも観光地に住む人の宿命なのでしょう。



ブルガリアヨーグルト  

 今朝からブルガリアの朝食です。こちらのヨーグルトは大きな器に入っており、大きなスプーンで茶碗に注いで食べます。 
 日本ではヨーグルトと言えばブルガリアというほど、知名度は高いのですが、ブルガリアヨーグルトは株式会社明治が売り出しているもので、国内ヨーグルト市場の3割を占めるそうです。確かに、我が家の冷蔵庫のヨーグルトを見ると明治でした。
 1970年開催の大阪万博のブルガリア館で本場ブルガリアのヨーグルトが展示されており、明治乳業幹部が試食し感銘を受けたのをきっかけに開発が開始されたそうです。現在もヨーグルト菌を定期的にブルガリアから輸入して使用しており、ブルガリアの国名を商品名として使用することをブルガリア政府から正式に許可されているそうです。



エタル屋外博物館 
 
 ガブロヴォ近郊に作られた屋外博物館で、1964年に開設されました。
 ここには19世紀のバルカン山脈地方の典型的な村がそのまま保存、再現されています。7ヘクタールの広い敷地には小川が流れ、平らな石で作られた屋根を持つ家並みが続いています。また、水車小屋、居酒屋、教会なども保存されています。
 これらの家々には包丁、毛織物、金銀細工、刺繍、パン、お菓子などの職人工房が実演しながら商品を売っていました。



バルカン山脈のシプカ峠 

 途中、バルカン山脈のシプカ峠を越えます。この峠は、標高1300mで、バルカン山脈越えのメインルートになっています。北のドナウ平原と南のトラキア平原を結んでいます。
 ここには峠の茶屋があり、休憩です。
 ここの名物は水牛ヨーグルトだそうで、買って食べてみました。ブルガリアではヤギやヒツジからもヨーグルトを作るのだそうです。
 遠くに巨大な石のモニュメントが見えます。この記念碑に行くには約900段の階段を登るのだそうです。この記念碑はブルガリア人がトルコ軍と戦い、この場所を死守したことを記念して建てられました。階段の近くにはトルコ兵に向かって石を投げるブルガリア義勇兵の姿が彫りこまれたリリーフがあるそうです。 



シプカ記念碑 

 山の上に立つ記念碑の案内板が峠の茶屋の近くに建てられていました。
 このシプカ峠は露土戦争(ロシアとトルコの戦争)の激戦地として有名です。
 1393年、第二ブルガリア帝国が滅亡し、以来、ブルガリアはトルコの支配下に置かれましたが、1870年代に入ると、ブルガリア人は独立のための反乱を幾度ともなく起こしますが、ことごとく失敗し、1876年の蜂起では、トルコ軍が容赦なく反撃し、80以上もの村が焼かれ3万人ものブルガリア人が殺されました。女性は侵され、多くの孤児が生まれました。また、南部の村バタークでは教会に集まったキリスト教徒が閉じ込められたまま火が放たれ3千人以上もの人々がトルコ軍に殺されました。犠牲者の多くは子供や女性だったと言われています。
 この残虐行為はヨーロッパ中に広がり、トルストイやドストエフスキー、ビクトル・ユーゴなど当時の多くの知識人が抗議の声を上げました。
 この残虐行為を理由にロシアは1977年4月にトルコに宣戦布告します。ロシアの真の目的は、黒海から地中海に出る海のルートを欲しかったためと言われています。
 7月にはロシア軍がドナウ川を渡り、この峠に達し、そこで待ち構えていたトルコ軍と激しい戦いが始まりまいた。当然、ブルガリア人はロシア軍を歓迎し、義勇兵を募り、ロシア軍を応援しました。一度はロシア軍が勝ったものの、地理的にも有利なトルコ軍が奪い返しにかかりました。それに対し、武器をほとんど持たないブルガリア義勇兵は石を武器として使うなどして、ロシアからの援軍の到着を待ち、それまで峠を死守し、反撃に成功しました。
 ロシア軍は1978年1月、現在の首都ソフィアを開放し、イスタンブールに向けて進軍を開始しました。
 3月にはロシア軍がイスタンブール直前までに達し、トルコ政府は講和条約を申し出て、この条約によりブルガリアは自治権を獲得しました。
 しかし、この条約によりロシアが強力になることを警戒したヨーロッパ列強が猛烈に反発し、ブルガリアが完全に独立するのは1908年のことでした。
 いずれにせよ、この戦いにより、ブルガリアはトルコから解放され、ブルガリア人にとって、ロシアはブルガリアを救った友人であり、その後、現在まで、ブルガリアとロシアの間には友好関係が続いています。



カザンラク

 カザンラクはバラの谷としてよく知られ、5月にはバラの海になるそうです。
 毎年6月初旬に行われるバラ祭りは日本人で賑わうそうです。
 17世紀、トルコ人がこの地を支配していましたが、そのトルコ人にスルタンが宮殿で使うバラの花を栽培するよう命じたそうです。イスラム教の国々では来客を歓迎するとき、バラ水を振りかけて歓迎する習わしがあるためです。
 幸い、この地はバラの栽培に理想的な風土であり、19世紀になると最も重要な産業になりました。
 ブルガリアのローズオイルはブランド品の香水のレシピに不可欠とされ、世界のバラ香水の原料の7割はブルガリア産だそうです。



トラキア人の墓(世界遺産) 

 カザンラクの周辺にはバルカン半島の先住民であるトラキア人の墓がたくさん残されており、町の周辺にはお椀を伏せたような盛り土の丘がたくさん目につくそうです。現在、150個ほど見つけられており、幾つかが公開されています。
 下の写真は本物のお墓で、鍵がかけられており、入ることは出来ませんが、それとそっくり同じように作られたレプリカが少し離れた場所に作られています。
 このお墓は1944年、防空壕建設中に偶然発見されました。 


 

 発見されたお墓のレプリカです。お墓の屋根には当時の様子がフレスコ画で絵かがれています。
 それらは弔いの宴の様子や戦闘場面の様子で、一般に夫が死ぬと妻は殉死しともに葬られ、それが栄誉とされていました。死ねば再び二人そろって生まれ変われると考えられていたそうです。
 この墓は紀元前3,4世紀に作られたもので、着色された原画がこれほど美しく残っているのは、世界的にもほとんどないそうです。



足の捻挫

 家内が、墳墓に向かって歩いている途中、ちょっとしたくぼみで足をくじいてしまいました。歩けないほどひどくはなかったのですが、バスに戻ると、卵の半分ぐらいの内出血が起こっていました。
 バスの運転手が包帯を持っており、それをぐるぐる巻きし、出血で膨らむのを押えてくれました。また、ガイドさんが何処からか患部を冷やすようにと氷を手に入れて来てくれました。
 ホテルに帰ってからパソコンでインターネットを使用し調べたところ、歩けるようなら医者に行く必要はない、とにかく安静にし、出血が治まるようしっかりとテーピングし、数日間は出来るだけ氷などで冷やし、出来るだけ上にあげると良いことを知りました。



 ホテルに戻る途中の風景です。いかにもブルガリアの様子を映し出す風景です。

 

 ホテルに戻り、レストランで氷を貰い、夜は出来るだけ足を上にし、時々冷やすことにしました。
 包帯や粘着テープは持っていなかったので、近くの薬局で手に入れました。英語は通じませんでしたが、店員がいろいろと製品に指を指してくれて、何とか手に入れることが出来ました。ユーロやカードは使用できませんでしたが、全部でも400円程度だったので、手持ちの現地通貨でぎりぎり間に合いました。
 このような事故は初めての経験でした。



           

7日目 ブロブディフ観光後、首都ソフィアの観光

 

 午前中ブロブディフを観光し、その後、ブルガリアの首都ソフィアに向かい、到着後、ソフィアの観光です。
 ブロブディフからソフィアまでは約150qです。



ブロブディフ観光

 昨夜泊まったホテルです。デデマン・トリモンティウム・プリンセスという長い名前でした。
 プロヴディフはトラキア平原の中心に位置し、人口は38万人で首都ソフィアに次ぐ国内第二の都市です。
 丘の上の旧市街と、丘の下の新市街がはっきりと別れています。
 旧市街には古代ローマ遺跡が残っています。



イマレットモスク

 このモスクは15世紀に作られています。朝早かったためか、だれも居ませんでした。


新市街 

 丘の下の新市街は、どこを掘ってもローマの遺跡が出てくるようです。新市街はそれらを保存するように作られています。
 地下には円形競技場が見えます。



ローマ劇場

 小高い丘の斜面にローマ劇場が作られています。観客席は白い大理石で作られており創建された2世紀には28段ありましたが、5世紀には異民族により破壊され、現在は20段ほどが残されています。現在も使用されているそうです。



聖コンスタンティンエレナ教会

 その外壁にはたくさんのフレスコ画が描かれていました。教会内部は撮影禁止で、外部から覗いて写真を撮りました。祭壇奥にイコンが飾られていました。


 

 いたる所に当時の遺跡が残されています。下の石畳の道は、ヒサル・カピア要塞門です。
 車止めが作られていました。



地域民族博物館

 トイレ休憩に立ち寄った程度ですが、内部をのぞいてみました。


 この近くで昼食をとり、いよいよ最後の訪問地であるブルガリアの首都、ソフィアに向かいます。



ソフィア観光

 ソフィア到着後、約2時間、市内観光です。
 ソフィアはヴィトシャ山のゆるやかな裾野に広がる人口135万人、標高550mの高原都市です。
 町の中心からは旧共産党本部やモスクが見えます。
 500年近く、オスマントルコの支配下にあった面影をそのまま残していますが、この町には先住民族のトラキア人以来、ギリシャ、ローマ、ビザンチン、オスマントルコ、ロシアなど、さまざまな民族がその足跡を残して来ました。 それが今のブルガリア文化を育んで来ました。



聖ペトカ地下教会 

 町の中央の交差点の地下に小さな教会が作られています。十字架があるので教会であることが分かりますが、なんとも不思議な教会です。え、これが教会と誰しも思うでしょう。
 この協会が建てられたのは14世紀末、オスマントルコの支配下にあった時です。
 オスマントルコはモスクよりも高い建物は許しませんでした。この教会は入り口も高さも低くし、モスクを気にして、かなり小さく建てられています。中には入りませんでしたが、今も使用されているそうです。



女神ソフィアの像

 社会主義時代にはレーニン広場と呼ばれたこの場所に女神ソフィアの像が作られています。右手に勝利を意味する月桂樹の輪を持ち、左手には知恵のシンボルであるふくろうが留まっています。



聖ゲオルギ聖堂

 バルカン半島では最古のキリスト教聖堂で4世紀に作られた円形の教会ですが、創建は聖ソフィア教会の方が古いそうです。
 この遺跡全体は当時、一つの建物だったと考えられています。現在、この周りには、シェラトンホテル、大統領府などの近代的建物が建てられ、それらに囲まれています。
 内部の見学もすることが出来ますが、今回はスキップしました。興味があれば、明後日の自由時間の時にということでした。



大統領府

 いつも2人の衛兵が立っています。記念写真を撮りました。


 建物を結ぶ地下通路は古代遺跡がそのままむき出しになっています。ここのコーヒーショップでは、昔をしのびながら、お茶などを楽しむことが出来ます。



考古学博物館と国立美術館 

 上の列の考古学博物館には、トラキア、ギリシャ、ローマ時代の発掘品や彫像、また、中世教会のフレスコ画などが収められています。 下の列は国立美術館で、かっては王室として使用されていました。ここには主にブルガリアの画家の絵や彫刻が飾られています。西洋の絵はほとんどないようです。



聖ソフィア教会

 ソフィアという町の名前は、この教会から名づけられており、街で最も歴史ある教会です。
 この場所は、ローマ時代、城壁外の墓地でしたが、4世紀に小さな礼拝堂が建てられました。現在の聖ソフィア教会はこの礼拝堂の上に建立されています。
 この教会は当時としては斬新な形であった十字架の形をしており、6世紀に作られた教会としては極めて意欲的なものでした。
 正教会の建築様式は縦長の十字架ではなく、正方形の十字架を基本とし、その上にドームを幾つも載せるビザンチン様式へと発展してゆきました。
 1382年、ソフィアの町はオスマントルコの支配下に入り、その後、五百年に渡って支配されてゆきましたが、その間、教会の壁に描かれていた壁画は剥がされ、祭壇は塞がれ、南西にはミナレットが建てられました。
 1858年の地震で、ミナレットが崩れ落ち、子供二人が死ぬ事故が発生して以来、イスラム教徒はこの教会を放置してしまいました。それから20年後、ソフィアはロシアによりオスマントルコから解放され、この教会はキリスト教徒に戻されました。
 1900年代、この教会は6世紀の創建当時の様式に沿って忠実に再現されました。教会の床の一部はガラス張りになっていて、床下にはローマ時代の墓やビザンチン時代の床モザイクを覗けるようになっています。


 

 キリストや聖人が描かれたイコンが、幾つもの柱に飾られていました。お参りに来た人たちは、これらイコンにも祈りを捧げます。



アレクサンダル・ネフスキー寺院 

 ソフィアを代表する大寺院です。
 1877年、ロシアはブルガリアをトルコの支配から解放するという名目でトルコに宣戦布告し、翌1878年、トルコに勝利し、ブルガリアを解放しました。その戦いで、8万人のブルガリア人と20万人ものロシア人が戦死しています。
 恩義を感じたブルガリアはその戦いで戦死した人たちの慰霊のための壮大なモニュメントの建設を計画します。
 ロシアもそれを支援し、資金的にも援助し、1882年に着工が始まり、1912年に完成しています。建設にはブルガリア全土から、またロシアからも壁画を描く人、イコンを作る人、モザイクを作る職人などが集められ、バルカン半島では最大規模の大寺院が完成しました。この教会には、アレクサンダル・ネフスキイーというロシアの聖人の名前が付けられました。
 中央のドームの大きさは直径が16mと巨大な大きさです。教会には大小12の鐘があり、それらはモスクワで作られました。最大の鐘は直径3m、重さは12トンだそうです。
 堂内には大理石のイコノスタシス(正教会の祭壇)が3つ置かれています。
 正教会では立ってお祈りをするため椅子は置かれていません。主教も主教座に立ちお祈りを捧げます。
 中ではちょうどミサが行われており、4,5名の男性が美しい声で歌を歌っていました。いわゆるよく聞く聖歌とは少し異なり、男性合唱団によるコーラスのような歌声でした。残念ながら内部は写真禁止でした。
 声があまりにも美しいので、かなりの時間、この教会の中でその雰囲気を味わいました。


 いよいよ、旅も終わりに近づいてきました。食事時、皆さんがお互いの写真を撮り合っていました。私たちも自分たちの食事風景を撮ってもらいました。



ホテル近くのスーパーマーケット

 ホテルは郊外にあり、近くに地下鉄駅とスーパーマーケットがありました。
 見学も兼ね、夜に行ってみました。家内が孫のためにおもちゃを数点買い求めました。
 ワインのコーナーには自動の無料試飲機が置かれていました。ボタンを押すと、けっこうな量のワインが出てきて、無料で飲むことが出来ます。何種類も試せば、かなり酔ってしまいそうです。私も試みましたが、地元の人はあまり利用しないようです。
 このような機械が日本にもあったらどのような反応があるのかな、と考えてしまいます。


         

8日目 ボヤナ教会(世界遺産)とリラ僧院(世界遺産)の観光

 今日はソフィア郊外のボヤナ教会(世界遺産)を訪ね、次にリラの僧院(世界遺産)を訪ねます。リラはソフィアから120qほど南に行ったところにあります。



ひまわり
 ホテルの朝食会場やロビーにはひまわりが飾られていました。ちょっと珍しかったので写真に収めました。



 ブルガリアヨーグルトです。




 ソフィアはヴィトシャ山の山麓に広がっています。




ボヤナ教会(世界遺産)
 
 ホテルから見えたヴィトシャ山を登って行くと、狭い道路脇に駐車場があり、そこから少し歩くと、小さな家が見えて来ました。ひっそりとしていて、人は誰も居ません。十字架が見えたのでこれが教会であることが分かります。私たちが行くと、係りの人が鍵を使ってドアを開けまてくれました。
 このボヤナ村はもともと王や貴族の別荘地でした。11世紀ごろ、王家はここに小さな礼拝堂を建てました。その後、1259年に貴族カロヤンが新しい礼拝堂を増築し壁画を描かせました。19世紀になり、さらにその西側に増築を行いました。従って、教会に入ると19世紀、13世紀、11世紀と時間をさかのぼることになります。
 入り口は下の写真のように、非常に小さくなっていて、狭いため10数名しか入れません。
 従って2組に分かれて順番に見学することになりました。
 下の写真では、下に行くに従って古くなっています。


 下の写真は、教会の入り口から入った初めての部屋で19世紀の部分です。ここは、この教会の歴史や古い壁画を模した部屋となっていました。
 肝心の13世紀と11世紀の部屋の写真は撮りませんでしたが、聖ニコライが生涯行ったいろいろな場面が色鮮やかに描かれています。
 この小さな教会の壁画に登場する人物の数は全部で240名にものぼるそうです。13世紀に描かれたのにも拘らず、人物の表情が非常に巧みに描かれているのが、世界的にも評価されているそうです。
 ルネサンスの発祥はイタリアとされていますが、その半世紀も前にこのブルガリアの山中でも起こっていたことになり、美術史上極めて重要なこの教会は1979年に世界遺産に登録されました。



リラ修道院(世界遺産)

 リラ山脈の奥地、標高1147mの所につくられたブルガリア正教の最も重要な修道院です。山門は頑強な高い石垣で作られています。


 中に入ると石畳の中央にドームを被った縞模様の聖母教会が建てられ、周囲には廊下を張り巡らした4階建ての宿坊が建てられています。後ろにはリラ山脈が見えます。
 この宿坊の一部が1階と地下からなる2階建ての歴史博物館となっています。
 この博物館の目玉は僧ラファエロの十字架で、19世紀初頭に製作されています。わずか50cmほどの木製の十字架には140もの聖書の場面が刻み込まれ、登場する人物はなんと1500名もいます。12年の歳月をかけて造られ、完成した時、僧ラファエロの視力はすっかり失われていたそうです。



聖母教会

 この修道院の中核であり、たくさんのフレスコ画が描かれています。この聖母教会のドームには写真のように1870と刻まれています。
 この僧院の歴史は10世紀にさかのぼります。イヴァン・リルスキという僧が、隠遁の地としてこの地を選び、小さな寺院を建立しました。その僧に共感した地元の人たちも協力し、修道団が形成され、修道士たちは共同生活し、徐々にその規模を拡大してゆきました。
 13世紀に入り、アスト山やエルサレムへの巡礼道に位置していたこの場所に宿泊地が建てられ、第二ブルガリア帝国の時代になると皇帝や貴族の寄進により、その規模はますます拡大してゆきました。
 オスマントルコの時代、数々の修道院がモスクに変えられて行きましたが、山奥に立つこの修道院に対しては、潰す代わりに、税金を取ることによりその存続を認めました。
 しかし、1833年、大火が発生し、教会や修道院、貴重な古文書などほとんどが焼けてしまいました。
 おりしもこの時期は、オスマントルコからの独立の機運の高まっていた時でもあり、1834年から1862年の間にブルガリア全土からボランティアが集まり、また寄進を受けて、建築家アレクシ・リレツの指導の下に修復が行われました。1870年にはほぼ現在の姿に修復されています。
 この修道院は1983年、世界遺産に登録されました。



デナーショー

 いよいよ今夜が最後の晩となりました。オプションのデナーショーが企画されていたので参加してみました。
 ブルガリア郷土料理とフロアーショーで、一人当たり8,500円でした。
 最後は私たちも輪になって踊りました。いつもは喜んで輪に加わる家内も、今日は足をくじいたこともあって、見ているだけでした。
 自国の旗を手にして踊る様子を見ていると、戦いの絶えなかったこのバルカン地方で生きてきた人たちの、祖国を思う気持ちが伝わってきました。


       

9日目 午前中、ソフィア市内自由観光、午後は帰国のため空港へ

 

 ホテルを出発したバスは、ソフィアで有名なブルガリアホテルに到着しました。
 ここが昼食会場です。それまでの2時間、自由解散で、各々、市内散策です。
 トイレが必要になったら、このホテルを使用するようにと、まずは、トイレの場所に案内してくれました。
 解散後、多くの人はガイドさんの案内で、ショッピングセンターに向かいました。

 

  家内は、俳句、お茶、お花などいろいろなサークルに入っているので、お土産を買いたいということもあり、私たちも市内最大と言われるショッピングセンターに出かけました。お蔭で良さそうなものを手に入れたようです。
 一昨日観光した所をもう一度歩いて行きます。小さな町なので、迷うことはありません。
 遠くに見えるモスクの前にショッピングセンターがあります。



バーニャ・バシ・モスク

 オスマントルコ時代、たくさんのトルコ人が流入し、ブルガリアの人口の三分の一はトルコ人だったそうです。そのため、ソフィアは「ミナレットの森」と呼ばれるほどたくさんのモスクが建てられました。
 しかし、トルコがロシアとの戦争に敗れると、多くのトルコ人はブルガリアを去って行きました。そのため、多くのモスクは壊されてしまいましたが、このモスクは今も当時の様子をそのまま伝えています。
 ちょうど工事中で、内部には入れませんでした。

 



セントラル・ハリ 中央市場

 正面は美術館か博物館のような立派な建物ですが、中に入ると駅舎のような天井を持っています。この市場は20世紀の初めに作られ、当時の最先端技術を使用して作られたそうです。
 地下にも売り場があり、3階建になっています。ここで目的のお土産を買うことが出来ました。普通の土産屋よりもだいぶ安そうでした。



シナゴーク

 市場の入り口の反対側から出ると、立派なユダヤ教寺院のシナゴークが立っていました。
 1909年にオーストリアの建築家が設計して建設されました。バルカン半島では最大のシナゴークだそうです。
 ユダヤ人は当時、ソフィアの人口の2割を占めており、この近くはユダヤ人街だったそうです。

 ブルガリアは第二次世界大戦中、ドイツとともに枢軸国として参戦しますが、ユダヤ人を移住させるようにとのドイツの要請には絶対反対でした。そのため、戦争中、ユダヤ人口は増加したそうです。
 枢軸国でユダヤ人が増えたのはブルガリアだけだったそうです。


 大統領府の前ではちょうど衛兵の交代が行われていました。1時間に1度行われるそうです。交代の様子を写真に収めました。


 ブルガリアと日本の友好の記念碑が建てられていました。その後ろにはたくさんの桜の木が植えられていました。



聖ニコライ教会

 1913年にロシア人外交官が建てさせたロシア正教会で聖人ニコライの名前が付けられています。白い壁にグリーンのタイルが貼られ、尖塔にはタマネギ型の黄金のドームが5つ載っています。



道路起点標識

 六角形の柱が立っています。これがブルガリアの道路の起点だそうです。どこどこまで何キロとかいうときはここが起点になるそうです。



ガラクタ市

 公園の一角にガラクタ市があり、毎日開かれているそうです。  

 

 昼食後、ソフィアの玄関口、ソフィア空港に向かいました。空港までは約30分です。
 チャックインは、各自めいめいに行いますが、座席はすでに全部決められているようで、窓口で何を言っても無視されてしまいました。
 驚いたことに、全くランダムに座席が決められており、家内ともだいぶ離れた席になっていました。これは私たちでなくて、全員がそうでした。
 添乗員がすべての航空券を預かり、各自の希望の席を聞き、カウンターに行き、交渉です。
 約1時間かかって戻ってきました。ほぼ全員が希望の席に変更されていたのには驚きました。私たちも、ソフィア、ドーハ間、およびドーハ、成田間とも通路の並びの席に変更されていました。これで心配なくお酒が飲めます。
 16:30発のカタール航空でブカレストに向かい、1時間弱でブカレストに到着です。実質的な飛行時間は約30分程度でした。ブカレストではそのまま機内で待機し、ドーハ行きの乗客が乗ってくるのを待ちました。
 18:25発でドーハに向かいます。ドーハ到着は22:55分でした。
 左はソフィア市内の風景です。バスで空港に向かいます。


         

10日目 ドーハから成田へ
 

 ドーハ空港は真夜中が一番賑わうそうです。確かに混雑していました。乗り換えのため、約3時間ここで時間をつぶし、午前1時50分ドーハを立ち、成田到着は午後5時50分でした。飛行時間は10時間弱でした。
 イスラム国の飛行機の特徴でしょうか、モニターにはメッカの方向が示されていました。


 一人参加の方が多かった為でしょうか、男性、女性とも非常に個性の強い人が多く、何かと添乗員に食って掛ったり、大声で怒鳴る人が居たりして、今までのツアーの中ではちょっと変わった雰囲気でした。もっとも不愉快な思いをすることはほとんどありませんでしたが、次回からは一人参加優遇のツアーは避けた方が良いというのが感想でした。
 今回は幸いベテランの添乗員で助かりましたが、カタール航空の席の決め方は完全に乗客無視ですのでこれも出来たら避けた方が良さそうです。




後日談

 家内は帰国後、早速、足の治療のため、整形外科に行き見てもらいました。
 クレジットカードの保険会社に電話をした所、添乗員さんに事故証明を書いてもらっていたので、海外と日本で掛かったすべての費用は補てんされるそうです。
 ただし、医者から3ヶ月はゴルフ禁止と言われてしまいました。






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