台湾大満喫10都市周遊5日間
a         (デラックスホテルプラン)
トラピックス

2015年12月15日~19日

 台湾の東側にはまだ行ったことがないので、機会があったら行ってみてみたいと思っていました。
 真夏の台湾の暑さはかなり厳しい思い出があるので、この時期なら問題がないだろうと思いもありました。
 たまたま、目にしたパンフレットが台湾の10都市をめぐり、デラックスホテルに泊まるプランと書かれていたので、それを選んでみました。

 
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観光内容
1日目 成田から台中へ
2日目 台中から高雄へ
3日目 高雄から花蓮へ
4日目 花蓮から台北へ
5日目 台北から成田へ

 

 ツアーのプランは、台北の国際空港到着後、そこで、現地のガイドさんに会い、その後、直ちに台中のホテルにバスで向かい、次の日は、彰化から日月潭、台南市、高雄市と時計の反対周りで台湾を一周するものでした。
 泊まった場所は、台中市、高雄市、花蓮市、台北市の4都市でした。

 台湾の面積は約3万6千km²で、九州の85%程度になり、人口は2,300万人と日本の2割弱になります。全体の98%は漢民族で、原住民と呼ばれる民族はわずか2%程度です。
 参考までに九州の人口は1300万人と日本の1割となりますから、台湾の人口密度はかなり高そうです。




台湾の歴史

 ここで簡単に台湾の歴史を書いておきます。
 台湾には、17世紀初めごろまで、言語や風俗、習慣などの異なる幾つもの原住民が、狩猟や漁猟、農業を営み暮らしており、台湾全体が統一されることはありませんでした。
 1624年、オランダ人が台湾南部に上陸し、台南に現地を統治する城を築きました。一方、スペインは、1926年、台湾北部に上陸し、基隆や淡水に城を築いています。その後、1942年、オランダ人は北部を占領していたスペイン人を追い出し、台湾全体を統治するようになりました。
 しかし、このころ、中国大陸から大量の漢民族が台湾南部に移住して来ました。彼らは出身地の違いなどから、領地争いのため漢民族同士で激しい戦いを繰り返していました。そして、ほとんどの原住民族は山岳地帯に追いやられました。
 そのような状態の中、中国では明朝と清朝が争っており、明朝の鄭成功は1661年、台湾に攻め入り、台湾からオランダ人を追い払い、その息子は台湾統治に専念しました。その後、中国では清朝が明朝を滅ぼし、負けた明朝が台湾の統治を開始しました。しかし、1683年、ついに鄭成功は、清朝に降伏します。その後、清朝は大陸からの台湾移住禁止などの政策も打ち出しています。
 この頃、台湾に移住してきた漢民族を本省人と呼んでいます。
 移住者は男性が多かったため、現地の女性と結婚し、かなりの原住民は本省人となってゆきました。
 1895年、日本が日清戦争に勝利した結果、台湾は清朝から日本に割譲されました。
 それ以降、1945年、日本が敗戦するまでのちょうど50年間、台湾は日本の支配と文化を受け入れてきました。
 日本の敗戦により台湾は中国に返還されましたが、中国では毛沢東の中国共産党と、蒋介石率いる国民党政府が争っていました。蒋介石は、台湾を最後の砦として戦っていましたが、1949年12月、国民党は中国共産党に敗れ、遷都という名目で、200万人にも上る人々と共に台湾に逃れてきました。その時、紫禁城から数々の秘宝を船に積んで来ています。
 その時やってきた人々やその子孫を外省人(約13%)と呼んでいます。それ以降、外省人と、それ以前から台湾に住んでいた本省人(85%)に間には対立が起こりましたが、外省人は戦闘に優れていたため、台湾の支配者となり、本省人は被支配者という構造が作られました。
 戦いに勝った毛沢東は、台湾に兵を送り、台湾を制圧するのは時間の問題だと思っていましたが、翌年の1950年6月、北朝鮮が韓国に侵攻し、突如、朝鮮戦争が勃発しました。中国共産党が北朝鮮を応援しており、韓国の共産化を恐れたアメリカは直ちに韓国に兵を送りました。
 同時に、台湾も中国により共産党化されることを恐れ、台湾海峡に軍を送り、中国軍が台湾に近づくのを阻止しました。朝鮮戦争が起こらなければ、台湾は中国の一部になっていたかもしれません。
 1949年以降の蒋介石による国民党の政治は過酷で腐敗がひどく、日本の統治を懐かしがる人が多いといわれています。
 1951年以降、アメリカは台湾に対し、巨額の軍事・経済援助を行い、蒋介石率いる台湾は、アメリカとの関連を強めて行き、近代化を進め、農産国から工業生産国と変身し、驚異的な発展を続けています。
 1958年、毛沢東は金門島を攻撃し、対岸からたくさんの大砲を打ち込みました。それに対し、アメリカが軍事介入し、中国の攻撃を中止させます。中国は一方的に攻撃を中止し、休戦を宣言しました。
 台湾は中国の代表として、国連に加入していましたが、情勢が変化し、中華人民共和国(中国)が国連に認められ、1972年、ニクソンが突然中国を訪問し、台湾とは断交することになりました。同年、日本の田中角栄も中国を訪問し、台湾との断交を決定しました。1973年、台湾は国連を脱退し、現在、国として認められておらず、日本とも形式上、断交ということになっています。
 私事ですが、ちょうどそのころ、光ファイバの開発が順調に発展し、台湾の関連会社にも光通信の講義によく出かけていました。日本も台湾も、非常に強い関係を築いていましたから、両国の経済界はそれに対しうまく対処し、台湾へ行くための何ら障害点はありませんでした。
 蒋介石はかって中国で日本と戦っており、日本を敵国としていたため、ラジオやテレビでの日本語の使用禁止などの制度を作り、日本敵視政策を台湾で取り続けてきました。1975年、蒋介石総統が死去すると、その息子、蒋経國がその地位を継承しています(1978年~1988年)
 蒋経國の死により、台湾では初めての民主的な選挙が行われ、台湾独立が持論の李登輝が総統に当選します。それに対し、中国は台湾海峡で軍事演習を行い、大量の爆弾を海峡に投下しました。金門島周辺も中国軍に囲まれました。それに危機感を感じたアメリカは、ベトナム戦争以来の最大級の軍事派遣を行い、中国の行動に待ったをかけました。圧倒的なアメリカ軍の存在を目にした中国は、軍事行動を中止しています。
 以来、2008年の馬英九総統の就任まで、中国と台湾の間には、通商・通航・通信が通じなくなっていました。
 なお、禁止されていた日本語の放送も1993年より開始されています。
 それ以降の歴史は、現在の総統選のところで触れることにします。
 金門島へは台湾からたくさんの飛行機が飛んでいます。
 今は中国からもたくさんの観光客が訪れています。
 金門島には現在13万人の台湾人が住んでおり、5000名の軍人が島を守っています。
 中国の福建省、厦門(アモイ)はわずか2km先にあります。


    

1日目 成田から台中へ
 
 成田での集合時間は午後1時15分です。そこで航空券を頂き、キャセイパシフィックのカウンターで荷物を預け出発です。
 ガイドツアーさんと会うのは、台湾到着後の空港出口です。

今日の予定は

キャセイパシフィック航空0451便 CX0451
出発時刻 15:15
台北着 18:25 所要時間 4時間10分

着後 台中へ 約140㎞ 約2時間 です。


 今日の飛行機はキャセィパシフィックなのですが、ワンワールドグループなので、JALのラウンジを使用できました。
 ラウンジの利用は海外旅行の楽しみの一つです。



  
桃園国際空港から台中のホテルへ  

 台北の空港を出た所に、ガイドさんが待っていて、私たちが付けているバッチを見つけては、集合場所を指示していました。
 今回の参加人数は合計25名でしたが、私たちのグループ以外にもたくさんのグループが同時に到着したため、間違って私たちのバスの乗り込んできたご夫婦がおりました。バスが出発したのち、ガイドさんがそれを発見し、もう一度空港に引き返すハプニングがありました。
 参加者は、7組のご夫婦と、男性1名、女性10名でした。バスの座席数に比べ、人数が少ないこともあって、座席の割り振りの指示は全くありませんでした。
 今回のツアーでは、デラックスホテルプランと一般ホテルプランを選んだ両方の方が一緒のバスで回るようになっていました。
 デラックスホテルプランを選んだのは私たちを含め合計4名のみで、まず私たち4名をバスから降ろし、ガイドさんがフロントに案内し、キーを配り、明日の出発時間を指定し、すぐに残りの人たちと別のホテルに向かいました。
 ほかの人たちのホテルは、ここからさらに20~30分離れたところにあるそうで、往復の時間を考えると、約1時間ほど違うことになります。
 今回のツアーは、出発が朝7時半ごろと非常に早いため、大変助かりました。
 今回のホテルはすべてダブルベットが2つ置いてある比較的広い部屋で、日本のテレビはNHK総合、BS1, BS3を見ることが出来ました。画質はDVD並みですが、衛星通信ですからやむをえないのでしょう。


      

2日目 台中から高雄へ 


大気汚染と総統選

 ホテルを出ると、まず目につくのが、中国から飛んできたPM2.5による大気の汚れと、総統選挙のための大きなポスターです。

 出発前、日本のテレビで中国のPM2.5のひどさの放送を見ていると、台湾も中国の影響を受け、最悪の汚染状態のようでした。
 台湾は大陸からわずか120㎞ぐらいしか離れておらず、大気汚染の影響をもろに受けるようです。

 案の定、汚染はかなりひどく、すぐに喉が痛くなってきました。

 台湾の選挙も中国の影響をもろに受けています。
 台湾の総統選挙は来年の1月16日で、後わずか1か月に迫っています。台湾の総統はアメリカの大統領と同じ、任期は4年で、最長でも8年間に限られています。
 現在の総統は国民党の馬英俊ですが、総統を8年間務めたので、退任となります。
 選挙の争点は、現在の国民党が進める「一つの中国」か、民進党の理念である「独立」かになっています。
 現在の立候補者は3名で、国民党の朱立倫(しゅりつりん、54歳)、民進党の蔡英文(さいえいぶん、59歳)、親民党の宋楚腧 (そうそゆ、73歳) の3名ですが、最近の世論調査では、民進党が45%、国民党が25%、親民党が10%と、民進党の蔡英文が総統に選ばれるのはほぼ確実と言われています。台湾で初めての女性総統が誕生することになります。
 総統選が終わっても実際に政権が交代するのは来春で、まだ、半年ありますが、民進党の躍進に神経をとがらせているのは、中国です。
 そのため、習近平国家主席は11月、シンガポールで馬英九総統と首脳会談を行っており、その会談でお互い、「1つの中国」を確認しています。
 中国と台湾の首脳の会談は、蒋介石が中国の共産党に敗れ台湾に亘って以来、66年間で初めてのことでした。
 バスガイドさんの話によると、現在、中国からの観光客が非常に少なくなっているそうです。なぜですかと聞いたのですが、選挙があるためだということ以外は、教えてくれませんでした。微妙な内容なので、答え難かったのでしょう。
 確かに、中国政府は現在、台湾へ行く観光客を大幅に制限しています。その理由は、中国との関係を悪くすると台湾は経済的に冬の時代を実感するはずだということを、今思い知らせておく必要があるかのようです。
 民進党の蔡英文が総統になっても、政権運営を確実に進めるには、民進党が議会で過半数を獲得できるかにあり、中国も総統選よりも議会選挙に注目しているようです。
 そのため、台湾への観光客を減らし、台湾経済に打撃を与えて、その悲鳴を国民に聞かせて、民進党の勝ち方を少しでも小さくしようといろいろと脅しをかけているようです。
 確かに、この8年間、中台関係は大幅に改善され、両国の経済は大いに発展しました。
 それまで全くなかった中国と台湾間の直行便も、今は週890便も飛ぶほどの関係になっています。しかし、台中関係強化の恩恵は一部の企業や業界のみで、一般の人はその恩恵を受けていないという不満や、国民の経済格差が広がっていることなどがあり、交流拡大のペースが急すぎることへの警戒感が広がっています。
 例えば、今年の7月から、台湾人が中国大陸に訪れるときは、中国人の誰もが持つ身分証と同じカードを持つことが必須になっています。その代り、必要なビザの申請を免除しています。さらにパスポートではなく、中国市民が持つ身分証と同じ形のカード型にしています。そのカードを使用しない限り、台湾人は中国へ行けなくなりましたが、便利だという人、中国の市民として扱われて不愉快だという人、いろいろいるようです。なお、現在は香港やマカオでもカード式の通行証が使われています。
 その他、今まで台湾には台湾独自の漢字がありましたが、その使用を禁止し、中国式の漢字にするなど、今の国民党は1つの中国を推し進めています。
 しかし、それらにより、台湾の人たちの中国への嫌悪感は非常に増していると言われています。
 選挙のカギを握るのは若い世代にも広がる台湾人意識のようです。また、誰しも、中台関係の安定を望んでいるのは確かです。
 
国民党 朱立倫(しゅりつりん、54歳) 
 中国大陸と台湾はともに一つの中国と主張しています。
 馬英九総統のもとで行政院副院長(副首相に相当)を務め、桃園県、県長に2回当選しています。
 去年の統一地方選挙では、各地で国民党が敗北する中、新北市市長に再選されており、国民党のホープと期待されています。
 台湾の平和を維持し、さらに繁栄させるためには「1つの中国」を掲げる国民党政権しかなく、台湾と中国が平和的に発展し協力してウィンウィンの関係になるよう努力しようと訴えています。

民進党 蔡英文(さいえいぶん 59歳) 
 中国は中国、台湾は台湾であり、台湾の独立を理念とする最大野党です。
 8年ぶりに政権を奪還できるか、また、台湾初の女性総統の誕生か注目されています。
 90年代、大学教授をしながら、李登輝政権で経済官庁の顧問を務め、WTO(世界貿易機構)への台湾加盟交渉に携わった実績があります。
 2000年に誕生した民進党の陳水扁政権では対中国政策を担当。行政院副院長などを歴任しています。
 前回4年前の選挙では現職の馬総統に敗れましたが、2回目の今回は馬政権の人気の低下や国民党のもたつきもあって、選挙戦を終始リードしています。
 同時に行われる議会選挙でも安定政権を作るべく、民進党の議席の過半数獲得を訴えています。
 民主的な台湾を作るべきで、次世代の自由を守り抜くことが私たちの責任であり、国民党政権を終わらせ、住民が主役だという原点に戻す必要があると訴えています。。
 以前、民進党時代、台中関係は非常に冷え込んでしまいましたが、そのような冷え込んだ状態を望んではおらず、中国との経済交流は現状維持を掲げています。
 外省人といえども、若い人はほとんどが台湾生まれで、彼らの間には台湾と中国は別という台湾意識が広がっています。
 去年、中国との経済協定に反対した学生たちが3か月にわたり議会を占拠し大騒ぎになりました。それにより、台湾の多くの若者は政治に目覚めたようです。


 ホテルを出ると、台湾名物、オートバイの列です。交差点には、一般車両の前にオートバイ専用の停止場があります。
 オートバイは一般の車より前に停まり、自動車よりも前に出発できるようになっていました。



宝覚寺

 いよいよ観光開始です。最初の観光地は台中の宝覚寺です。
 台湾には無数のお寺があり、台湾人にとって、お寺参りツアーは人気のあるツアーだそうです。しかし、このお寺に来ることはないそうです。そして、このお寺に来るのは日本のツアー客だけだそうです。
 このお寺は日本統治時代の1928年に日本人用のお寺として建立されました。50年間にわたる統治時代、たくさんの日本人がこの地で亡くなりました。
 戦争で亡くなったのではなく、日本からこの地に来て仕事をしていた人が埋葬されているお寺です。
 お正月には、遺族が集まり、儀式が行われるそうで、そのためのテントが用意されていました。
 これらの位牌には何も書かれていませんでした。



彰化市観光
 
 彰化市は台中の南、約20kmのところにあり、台中から約40分でした。
 今回の10都市ツアーのなかの一つがこの彰化市です。彰化市では、このショッピングと昼食だけでした。

 今回のツアーには、毎日、必ず、ショッピングへ連れてゆかれました。
 ショッピング時間は毎回40分と決まっていますが、1日に2回程度のショッピングが計画に組み入れられていました。
 最初のショッピングは寝具屋さんで、枕など、天然ゴムで作られた寝具を売る店でした。北京に行った時にも同じようなお店に連れて行かれた記憶があります。
 宣伝文句は、ここのマットレスや枕は天然ゴムで作られ、反発力が人工的に作られたゴムより優れているということでした。
 もちろん日本でも売られていますが、ここの方が断然安いというのがおすすめのポイントでした。



日月潭 


 日月潭は台湾を代表する観光地です。
 彰化市から一般道路を通り、40km、約1時間10分で日月潭に到着です。
 湖畔には幾つもの有名なお寺や九族文化村など多くの観光ポイントがあります。
 この湖は、日本統治時代、水力発電所を作る目的でダムにより倍程度に拡大されています。
 現在も台湾の水力発電量の半分はここで発電されているそうです。



湖畔散策

 約10分間の湖畔散策が計画されていましたが、ほとんどスモッグでよく見えません。ガイドさんによると、中国からのスモッグだそうです。



文武廟

 1938年に日月潭のダム工事で水没する水社村の竜鳳宮と益化堂を現在の位置に移転し文武廟を作りました。
 戦後の1969年、大幅に拡張、再建され、孔子、武聖関公、開基神明を祀っています。
 1999年の台湾大地震で倒壊しましたが、再建されています。
 
 道路を挟んで、こちら側からは日月潭が見えるようになっていますが、スモッグで全く見えませんでした。
 とにかく、スモッグで喉が痛くなります。

 観光時間はわずか20分とかなり急いで見学でした。



 再び、彰化市に戻り、そこで昼食でした。
 その後、台南まで、約185km、約2時間40分です。
 台南市は昔、政治の中心地でもあり、そこでの観光は赤嵌楼でした。




赤嵌楼(せきかんろう)

 台南市の中央の小高い台地に作られています。
 台湾の歴史を示すような建物です。
 最初、ここに城壁を築いたのはオランダ人でしたが、1661年、大陸から移住してきた漢民族の鄭成功がこの地からオランダ人を追い出し、38年にわたるオランダ統治を終焉させました。
 その後、清朝による統治や、日本による統治など幾多の変遷を経て、今は台南市歴史博物館になっています。
 バスを降り、坂を上ると、大きな大仏が現れます。
 大仏前の広場には一軒だけ、土産屋さんがありました。
 

 館内には羽鳥又男の像が飾られており、横には日本語で次のような文が書かれていました。


 羽鳥又男 日本 1892-1975
 台湾が日本領土であった時代、台南市最後の市長であった。
 在任中、台湾文化を尊重し、歴史古跡、文物および民族風習の保存に尽くした功績は、非常に偉大なるものがあった。
 羽鳥又男は1982年、群馬県勢多郡富士見村に生まれ、1975年に没す。享年83歳。
 24歳の時、海を渡り台湾総督府に勤務し、台湾総督府職員、属管、官房秘書課理事官、人事課秘書などを26年の長期に亘って歴任し、中川健蔵、小林跡造、長谷川溝の三代総督の側近として仕えた。仕事ぶりは抜群であり、各総督の信頼を得ていた。
 1942年4月、台南市長に就任するや全力をもって、台南市にある古跡、文化財の保存に努めた。当時は第二次大戦末期で財政が窮乏しており、軍部の反対などもあったが、台南市民の心を汲んで羽鳥氏はあらゆる困難を克服し、台南市の歴史的建造物を修復した。それにより、台南の歴史古跡が従来の姿そのままを残したのである。孔子廟の記念祭典が今に至るまで絶つことのなく行われ、加えて関元寺の古跡を軍部の供出命令から救い出し、今日もその美しい音色を四方に響かせているのは、一重に市長の努力によるものである。 


 1624年、オランダ人が台湾南部に上陸し拠点を構築し、台湾統治を開始しましたが、大陸から移動してきた漢民族に対し厳しい統治を行ったため、争いが発生しました。
 そのため、オランダ人はここに周囲約141m、高さ10.5mのレンガ建ての城壁を築きました。ここには水源が確保され、食料も備蓄され、有事の際の拠点として使われていました。



ガイドさん

 観光ツアーのガイドさんです。日本の一般的なバスガイドさんとは全く違っていて、愛想は全くありません。集合時間に遅れでもすると、大きな声で叱られそうな気がします。
 日本人とは明らかに違う日本語なので、日本人でないことはすぐに分かります。
 中国からのスモッグで喉が痛いとマスクを着けていました。昨年までは、1,2月になるとひどいスモッグに悩まされてきたが、今年は12月からすでにスモッグがひどいと嘆いていました。
 台北故宮博物館内での観光案内も彼女が行い、展示品の細かい説明もしていました。ガイドさんになるには、かなり勉強が必要なようです。


 赤嵌楼を出たところの風景です。台湾の典型的な風情です。



 その後、高雄へ向かいました。 (約50㎞、約1時間)

 高雄に到着後、蓮池たんと美麗島駅の観光でした。
 高雄市は台湾第二の都市で、市の周辺には重工業地帯が広がり、大気汚染が問題にもなっています。しかし、中国大陸からの汚染物質が風に乗って流れてくるのも大きな問題になっています。
 人口は約280万人と台湾全体の12%になっています。
 台北には外省人が多いのに対し、高雄の多くは本省人で、民進党の基盤地域にもなっています。



蓮池たん

 高雄を代表する人造湖です。到着したときはすでに5時半とかなり暗くなっていました。


 蓮の花が咲いていました。葉も青々としています。先日行った上野公園の不忍池の蓮の葉はすでに枯れ落ちていました。一般に台湾では四季を感じられないと言われますが、北回帰線よりも南にある高雄ではそれが顕著のようです。
 二つの塔は内部で結ばれており、左側の龍の口から入って、右側から出てきます。
 



美麗島駅

 駅出入り口の設計は日本人建築家の高松 伸によるもので、天井画はイタリア人だそうです。ここに案内したのは、建築家が日本人であるためのようです。



 市内で夕食を取り、ホテル到着は午後9時ごろでした。

 ホテルは立派なのですが、今日は少し肌寒く、室温を上げようと、エアコンの上限の28℃に設定したのですが、暖かい空気は出てきません。
 台湾のホテルは、一般に暖房機能がないのだそうです。
 今回泊まったホテルのすべてで試しましたが、暖房機能はありませんでした。ただし、少し寒いかなと思ったのは今夜だけでした。
 2月ごろになるともっと寒い日もあるはずなので、注意が必要かもしれません。幸い、このホテルには立派なぶ厚いガウンが置いてあったので問題はありませんでした。


     

3日目 高雄から花蓮へ

 このホテルの朝食も立派でした。



寿山公園

 7時半にホテルを出発し、高雄市を一望できる寿山公園から観光開始です。

 寿山公園は高雄港を見下ろせるところに作られ、工業都市として発展してきた町全体を見下ろすことが出来ます。
 



 その後、高雄市内の民芸店にてショッピングです。(40分)

 このような観光バスで来るお客を目的としたお店は、一般に、国別に作られているそうです。例えばこのお店は日本人用で、定員は皆さん日本語を話します。
 同じようなお店が、韓国人用、中国人用に別に作られているそうです。
 店員にとっても、その方がだいぶ楽のようです。
 



その後一路台東へ

 バスは高雄から台東市まで、約170km、3時間の乗車です。
 途中、9号線で、山岳道路を走ります。
 東側の海岸沿いの幹線道路は、片側2車線になったり、険しい断崖の道路では1車線になったりします。



台東市

 台東市は人口23万人の東部最大の都市です。もともと原住民の村のあったところに作られた町なので、原住民が約半数と、主要都市中で原住民の比率が最も高くなっています。


 台東市に到着する直前に昼食です。
 ここに停まっているバスはほぼ全て日本人の観光客用です。面白いので、ちょっとバスの前に貼られていた観光内容を写真に撮ってみました。
 レストランに入ると、全員が日本の観光客でした。
 理由は分かりませんが、ここでバスが交換になり、今まで乗ってきたバスは高雄に戻るのだそうです。
 ガイドさんの話によると、ツアーの時間帯は国別に分けているのだそうです。
 一番早く出発するのは日本人のツアーで、その後約1時間たって韓国人、最後に中国人だそうです。中国人は若い人が多く、夜遅くまで遊ぶのが好きなので、朝は遅くてもよいのでそうです。
 一方、日本人の観光客はお年寄りが多いので、朝の早いのは問題がなく、夜も早く休みたいからだそうです。
 たしかに、面白いシステムです。


   



水往上流
 
 台東市から少し北に行ったところにあります。


 

 この水路は灌漑用水路と作られたのですが、水が坂を上がって流れれいるように見えることから、観光用として整備したそうです。
 目の錯覚によるものですが、観光施設としては大変安上がりの施設です。感心しました。
 後ろを振り返ると、水はこちらに流れて来ています。



三仙台 

 昔から景勝地として知られていた大岩礁です。
 以前は陸続きでしたが、海水の浸食により、島になってしまいました。
 今は、太鼓橋が作られ島と陸地を結んでいます。
 
 島の中には二つの大きな岩山があります。



北回帰線

 途中、北回帰線を通ります。この塔は、日本統治時代に作られたそうです。

 



観光後一路花蓮へ(約120km、約2時間)

  花蓮市は人口が約11万人と比較的小さな都市ですが、台湾三大国際港として発展し、付近からは大理石がふんだんに切り出され、大理石の町としても有名です。



オプション アミ族民族舞踏鑑賞

19:00-20:00 一人2,500円

 アミ族は台湾原住民族の中では最大で19万人ぐらいおり、花蓮から台東付近までに分布しているそうです。
 これらの踊りを見ている限り、原住民が踊っているのか、それとも一般の台湾人が踊っているのか、まったく区別はつきませんでした。
 これらの民族も、日本統治時代の文化の影響を受け、盆踊りや運動会などもあるそうです。
 ショーの開始は7時からですが、私たちが入ったときはまだ6時半で、お客は誰もいません。
 ガイドさんが私たちを案内し、記念写真を撮ってくれました。
 ショーの間は写真禁止でした。
 下の写真は終了後で、皆さん、原住民と一緒になって写真を撮っていました。
 参加はオプションでしたが約半数は参加したようです。


     

4日目 花蓮から台北へ


パークビューホテル 

 ホテルはゴルフ場に隣接する立派なホテルでした。



太魯閣(たろこ)渓谷観光

 太魯閣渓谷は台湾を代表する景勝地です。渓谷一帯の山岳地帯が国家公園に指定されています。
 険しい断崖はかって珊瑚礁の海底が隆起してできたもので、その石質は大理石です。
 この渓谷の断崖を東西横貫公路がぬうように走っています。
 入り口は花蓮から北に15㎞ぐらい行ったところにあります。



 公園入口から長春祀まで歩いて行きました。
 
   
   



大理石工場見学とショッピング

 ショッピング店内の写真は禁止でしたが、大理石加工品以外にも、素晴らしい宝石類が非常にたくさん飾られ、販売されていました。
   



その後、特急列車(普通車指定席)にて七堵駅へ(乗車時間約2時間)

 台湾の鉄道はぐるりと一回りするように作られています。
 また、台北から高雄までは日本の技術による新幹線が作られています。
 今回乗ったのは花蓮駅から七堵駅までの特急電車でした。
 座席の間隔が非常に広く、足の前にトランクを置くことが出来ました。
 座席の横のレバーを足で踏むと、座席を回転させることが出来ます。
 日本の列車にもよく採用されている方式と同じでした。



七堵到着後 九ふんへ

 九ふんは台北から東に1時間、七堵から坂を上った山の中腹にあります。
 九分の名前の由来は、昔、この地に、九軒の家族がくらしていたからだそうです。
 九ふんに、20世紀の初頭、金鉱が発見されると、ゴールラッシュが沸き上がりました。しかし、金が掘り尽されると、すっかりさびれていました。
 それが1990年ごろ、映画の撮影地となり、一躍注目されるようになりました。
 懐かしさを感じさせるこの町の風情が台湾の人々の郷愁を誘い、人気の観光地となったのです。
 今では、土産物店が並ぶ通りが復活し、当時の賑わいを取り戻しています。
 七堵駅には、別のバスが待っていました。そのバスに乗り替え九ふんに向かいます。
 九ふんは小高い山の中腹にあります。
 
 台湾一周には合計3台のバスと特急列車に1回乗ったことになります。
   
   



 昔、にぎわった映画館も残されていました。



 九ふんから台北へ

 台湾の典型的な街並みのようです。



台北市

 台北市の人口は約270万人で、東京23区の約半分に相当します。
 今日は、故宮博物館を見学し、夕食後、士林の夜市散策です。
 明日は、台北市から約20㎞西にある桃園国際空港に向かいます。
 バスで約1時間弱かかります。、
 



故宮博物館 

 1949年、蒋介石が北京の故宮博物館の優れた秘宝を持って逃げてきた品々を所有する博物館で、世界四大博物館の一つとも言われています。
 市の中央部から少し離れて山裾に作らています。ガイドさんによると、何かあったときも秘宝を守れるよう、強固な岩山の麓に作られたそうです。
 中国の歴代の皇帝のコレクションを収蔵し、中国の歴史も学ぶことが出来ます。
 ここには68万点もの収蔵品があり、展示品は年に数回、入れ替わるそうです。
 ガイドさんに案内されて、約1時間30分見学をしましたが、少なくとも1日は必要な感じでした。
 博物館の目玉、「翠玉白菜」を見るためにには、時に40分ぐらいの列が出来ており、その時は「翠玉白菜」の見学を中止しますとガイドさんが言っていましたが、幸い、まったく待つことなく見学することが出来ました。そばに、係員が居て、立ち止まって見ている人がいると、注意していました。
 2006年3月に台湾を訪れた時も見学しましたが、今回は時間が少なく残念でした。
 内部は写真禁止でした。
 なお、中国政府は台湾を自分の国だと主張しているので、中国へ返せとは、表だって言えないのだそうです。


 故宮博物館のホームページを開くといろいろな作品の写真を、パソコンのデスクトップにしたり、カレンダーを製作できるようなサービスがありました。
 そのサービス精神には驚きました。
 早速、それらをダウンロードし、また、2016年のカレンダーを作ってみました。
 



夕食後 士林夜市散策

 朝、昼、晩の3食を、主に外食する台湾には、どの町にも夜市があるようです。
 夫婦共働きが一般の台湾では、家族はバラバラに外食します。子供も、学校に行くようになると、親からお金をもらい、自分で外食します。
 この士林の夜市は、そのスケールで台湾で一番です。
 この士林の夜市は、いまや観光地になり、多くの外人が訪れるのようなり、物価は他よりもかなり高いので、一般の台湾人は他の場所で食事をするそうです。
 一般に、このような場所で食べることになれていない日本人は、お腹をこわすことが多く、多くの旅行社は、他の安全な場所で夕食をとってから、ここに案内します。


 ホテルは城市商旅南西館(City Suites, Nanxi) でした。小さなホテルでしたが、部屋はかなり広く作られていました。
 ホテルへの到着は午後9時半ごろでした。


      

5日目 台北から成田へ

 ホテルフロント周辺です。規模は小さいものの格調高い雰囲気でした。



 朝食も、なかなか立派な料理でした。



 このホテルは台北駅から約1km程度のところにあります。ホテル周辺を散策してみました。
 セブンエレブンやファミリーマートのコンビニは日本並みにたくさんありました。
 今日は晴天が戻ってきて、遠くまで見通せるようになりました。大陸からの風がなくなれば、台湾の空気はきれいになるようです。



行天宮

 ここに祀られているのは、三国志の英雄、関羽ですが、信用が厚かったこともあり、信用の神、すなわち、商業の保護神としても信仰されています。
 占いのために訪れる人も多いようで、棒や三日月形の石を投げて、表や裏が出ることから、自分の運勢を占っているとのことでした。
 モンゴルのジンギスハーンの遺跡からも、動物肩甲骨を投げて、占いを行った記録があるそうです。物を投げて占うのはかなり昔からあるようです。
   



 その後、約40分間、免税店に案内されました。私たちは興味がないので、店を抜け差し、近くを散策してみました。
 どの交差点でも、台湾名物、オートバイを目にすることが出来ます。

 ごく一般的な食堂の入り口に飾られていたメニューです。
 台湾の1円は日本の4円に相当しますので、250台湾円は、日本の千円になります。
 物価は日本とあまり変わらないようです。



キャセィパシフィックのラウンジ

 ガイドさんは空港のチェックインカウンターまで我々を案内し、そこでお別れです。
 空港到着は11時で、飛行機の出発時間は12時55分でしたが、空港が混雑しており、出発は予定よりも1時間遅れるとのことでした。
 航空便はCX-0450です。
 出発が1時間遅れることもあって、空港での待ち時間は2時間以上もありました。
 その間、キャセイパシフィックのラウンジを使用し、食事やお酒を楽しみました。
 このラウンジの大きさは、今までに見たラウンジの中でも最高クラスでした。

 

 出発が1時間遅れたため、成田到着は午後6時半ごろになりました。
 今回の旅行で驚いたのは、ショッピングの回数が非常に多かったことでした。最近、日本人の旅行者はお年寄りが多いので、もう、ショッピングの必要のない人が多いようです。旅行社も大変なのでしょうか。
 今年は中国人の爆買いが話題になっていますが、 2014年の訪日外国人の第一位は台湾からで、283万人、次いで、韓国の276万人、中国の241万人、香港の93万人、タイの66万人と続きます。台湾の人口が中国の人口のわずか2%弱であることを考えると、台湾人が如何にたくさん日本に来ているかがわかります。
 一方、日本人の旅行先としては、韓国がピーク時の65%、中国がピーク時の73%まで減少していますが、台湾への旅行者は毎年増加し、昨年は過去最大となっています。
 台湾人の2,014年の出国先は、中国540万人、日本283万人、香港200万人、マカオ95万人、韓国64万人、タイ39万人となっています。
 また、台湾の輸出先は中国27%、香港13%、アメリカ11%、シンガポール6%、日本6%と続き、中国と香港で全体の40%になります。輸入先は日本16%、中国 16%、湾岸諸国14%、アメリカ9%、韓国6%と続き、日本からが第一位となっています。







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