ハワイ4島巡り8日間(個人旅行)
2016年2月22日~2月29日

 

 太平洋に浮かぶ小さな島で、毎年日本からは100万人以上もの観光客が訪れる南国の島です。
 ハワイのオアフ島には過去2回ほど行ったことがありますが、ただ立ち寄った程度で、ほとんどよく覚えていません。
 もうかなり前になりますが、空港でレンタカーを借り、オアフ島一周に挑戦したのですが、オアフ島の北端に到達したときは、日が落ち始め、その後、急に真っ暗になったのを覚えています。赤道近くでは、日が暮れるとすぐに真っ暗になることを知ったのはこの時でした。運転してホノルルに戻り、宿を探しましたが、オアフ島には道路標識がほとんどなく、また、当時はカーナビもなかったので運転に苦労をしたのを覚えています。小さい島なので、道路標識は不要なのでしょう。
 今回はハワイの島々を巡ろうと思い、ツアー会社を探したのですが、4島を巡るツアーを見つけることが出来ず、結局、全部、自分で飛行機や宿や、現地でのツアーの予約をすることになりました。
 家内が私の要望を取り入れ、インターネットでホテルや現地ツアーを予約したのですが、宿の選定は、空港からの送迎があること、リーズナブルな宿泊料であること、インターネットが無料であること、ウオッシュレットトイレのある事、日本のテレビを見ることが出来ることなどを条件に探したようです。
 日程は8日間ですが、実質は6日間で、目的のオアフ島、ハワイ島、マウイ島、カウアイ島の観光と、ハワイアンダンス、サンセットクルーズなど、目いっぱいの観光を楽しむことが出来ましたl。ただ、オアフ島以外の3島めぐりにはホテルを4時半ごろ出る必要があり、島めぐりに毎日、朝早くホテルを出て、帰りは8時を過ぎていましたから、結構強硬な観光旅行にもなってしまいました。



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 全画面にしてご覧ください。1枚目から2枚目に移る際、時間のかかることがあります。
 ただし、2枚目からは軽快に動きます。


 ハワイ諸島の位置は北緯約21度で、台湾の高雄市と大体同じです。ハワイ島はアメリカ合衆国の最南端となります。
 なお、アメリカの管轄地グアムは、さらに南になります。
 常夏の島ハワイ、南国のパラダイスと言われるハワイには、常に北東からの貿易風が吹いており、水分をたっぷり含んだ風は島の東側の山裾で雨を降らせ、その反対側では乾燥した空気が流れ込んでいます。
 オアフ島のホノルルやハワイ島のナアレフなど、リゾート地は雨の少ない南の地に作れれています。
 ハワイ諸島は火山の噴火によって作られ、カウアイ島は500~600万年前に、オアフ島は400万年前に、マウイ島は130年前に作られています。
 地下にたまったマグマが噴き出してしまうと、噴火が終わり死火山となります。しかし、少しずつですが、地下にはまたマグマが溜まって行き、ついに火山となって噴き出します。地表はゆっくりとではあるものの常に北西に動いているので次に噴き出すマグマは別の場所になります。それが繰り返され、ハワイ列島が作られました。これらの島を見ると、地表がどのように動いているかがわかります。
 現在、ハワイ島からマグマが噴き出しており、溶岩の流れが観測できます。ただし、今は危険のため直接見ることは出来ません。
 ハワイは民族的、地理的にもポリネシアに属し、先祖はニュージーランドからイカダに乗ってやってきたと言われています。
 ポリネシアはハワイ諸島、ニュージーランド、イースター島をむすぶ3角形からなる地域です。
 相撲の小錦がハワイ出身であることは有名ですが、一般にハワイ人の肥満比率は6割にも達し、それが悩みの種だそうです。
 ハワイと言えばアロハシャツですが、日本人の着物がルーツだそうです。
 今回の旅行のため、家内がアロハシャツを買ったのですが、何時もジャンバーかセーターを着ている気温で、アロハシャツを着る機会はありませんでした。
 6世紀のころ、ニュージーランドからこのようにしてイカダ船にのり、ハワイにたどり着いたようです。ハワイ島のビジターセンターでみた絵です。海水の中から蒸気が噴き出しています。



 昔、歴史の授業でも学びましたが、イギリスの海洋探検家、ジェームクックが、1778年この島にたどり着きました。クックはすでに、タヒチやニュージーランド、オーストラリアを訪れ、かなり正確な海図を作っています。クックはハワイ諸島を訪れた最初のヨーロッパ人となりました。
 ハワイ島にたどり着いた時、クック一同は神の使いだと思われ、大歓迎を受けまています。その後、周辺の島々を探検している最中、船の帆が折れれしまい、1989年、修理のため、ハワイ島に戻りました。しかし、原住民は西洋人が持つ免疫力を持っておらず、すでに島の住民の大半は、原因不明の病気に襲われ死に至っていました。その原因をクックたちのせいだと判断した原住民はクックを捕え、足を切断し、殺してしまったそうです。(これはハワイ島観光中にガイドさんが話していた内容です。)
 このころ、ハワイはカメハメハ王国が誕生していました。
 1850年ごろ、カメハメハ王国が滅び、カラカウア王国が誕生します。
 1881年、カラカウア王が日本を訪問しており、明治政府最初の国賓となりました。カラカウア王は日本の皇室との婚姻関係を作りたく明治政府に要請しましたが、断っています。
 1893年、アメリカがフィリッピンとの戦争のため軍を送りその前線基地となりますが、同時に、アメリカ合衆国の領土(準州)としました。
 1941年、旧日本軍がハワイ島を攻撃し、太平洋大戦が始まりました。
 1959年、アメリカ合衆国第50番目の州となっています。

 

観光内容 歩数
1 夜、成田発、早朝ホノルル到着、ホノルル市内散策 8,778
2 パールハーバーなどオアフ島観光。夜、フラダンスショー観賞 14,437
3 ハワイ島観光 13,024
4 ワイキキ海岸散策、夕方、ディナー付きサンセットクルーズ 11,142
5 マウイ島観光 9,978
6 カウアイ島観光 9,507
7 早朝、ホノルル発成田へ 3,366
8 午後、成田到着 2,365


     

1日目 成田からハワイへ
 

 成田をJAL782便で夜の10時に出発し、ホノルル到着は朝の10時頃で、飛行時間は7時間弱でした。
 日本とハワイの間の時差は19時間で、19時間前に戻ることになります。飛行時間は約7時間ですから19-7=12となり、午前と午後がひっくり返ります。すなわち、午後10時に出発すると同じ日の午前10時に到着となります。
 到着し荷物引き取り場を出ると、近くにホテルとの提携会社のデスクがあり、係員が私たちをバス乗り場に案内してくれました。
 ホテル到着は11時でしたが、チャックインは12時からとのこと、約1時間、町をぶらつくことにしました。
 ホテルはワイキキ海岸から歩いて15分程度の所にあります。
 空港からホテルまでは車で約30分ぐらいでした。



ホテル周辺の散策

 12時まで、ホテル周辺を散策してみました。昼食はサンドイッチを買い、公園で食べました。
 近くに King's Village Musiem があり覗いてみました。
 カラフルな町並みの一角にラーメン屋があり、数日後ですが、そこでラーメンを食べてみました。
 


 12時になり、ホテルに戻りチャックイン後、少し休憩を取り、また、町を散策してみました。
 さすが、南国です。ヤシの木がたくさん育っていますが、ヤシの実が落ちてくると危険なので、大きくなる前に落としておく必要があるのだそうです。
 まだ予定の決まっていない明日と26日のツアーをホテルのデスクで予約しました。
 明日は、パールハーバーとオアフ島一周の観光にしました。ただ、明日の夕方からはハワイアンダンスショーを日本で予約していたので、ホテルには午後3時半ごろ帰れるツアーにしました。
 なお、観光ツアーガイドデスクの係員は日本語をあまり話せず、英語での会話の方がスムーズでした。


 泊まったホテルの部屋は10階にあり、結構よい眺めです。
 人工的に作られた川の向こうはゴルフ場です。
 このホテルで6泊することになるので、近くの ABC Store から、ワインやビールを仕入れ、今夜はここからハワイの風景を眺めながら、ビールとサンドイッチにしました。
 遠くにダイヤモンドヘッドが見えます。ただし、肝心の先端部部は見えませんでした。
 昨夜の飛行機は、飛行時間がわずか7時間弱で、実際の睡眠時間はかなり短かったため、今日はかなり疲れが残っており、早めに寝ることにしました。
 部屋の温度はちょうど25度で、冷房も暖房も不要でした。


      

2日目 パールハーバーなどオアフ島観光。夜、フラダンスショー観賞

 今日はパールアーバーを含むオアフ島一周の観光をしてみよう思い、昨日、ホテル内のツアーデスクで、今日のツアーを申し込みました。
 バスは6時20分にホテル前に来て、我々二人を乗せましたが、すでに20名弱ぐらいが乗車しており、私たちが最後でした。私たちを乗せると、バスはそのまま真珠湾へと向かいました。
 今回の観光ルートは図のようにオアフ島をほぼ一周するもので時計周りに周ります。
 オアフ島の面積は東京23区の2倍強、千葉県の3割程度で、人口は約95万人、そのうち、ホノルルの人口は37万人です。



パールハーバー見学

 パールハーバーは確かに真珠のような形をした入り組んだ湾になっています。
 ホノルル空港の近くに位置しています。


 今回のバスツアーの参加者の合計は約18名程度でした。私たち以外はすべて米国本土から来た人たちで、案内は英語でした。
 博物館への入場は多少厳重で、小さな手荷物も禁止されており、有料の手荷物預り所に預ることになりました。
 また、入場制限をしているようで、ゲートを通る時間が書かれた入場券を入手する必要がありました。今回はガイドさんが前もって入手しており、私たちの入場時間は8時15分でした。
 入場者を見ていると、ほとんどがアメリカ本土から来た人のようで、日本人はほとんどいませんでした。なぜ日本人がいないのか分かりませんが、もし、アメリカ人が広島の原爆記念館に来ているのを見れば、よく来てくれたなと、アメリカ人を歓迎すると思います。私たちも、ここに来れば、よく見学に来てくれたと思われてるような気がします。
 旧日本軍による真珠湾攻撃は、私が生まれた年の1941年で今から75年前でした。
 私にとって、生まれる前の日清戦争は1895年ですから、生まれる46年前で、日露戦争は1904年ですからわずか37年前になります。しかし、ものすごく昔のことのように感じていました。
 今の若い人や中年の人にとって、第二次世界大戦は、私が日露戦争について理解していると同じことなのでしょう。とにかく、大昔の出来事だと感じても不思議ではありません。


 適当に湾内を散策後、全員でビジターセンターを見学しました。当時の様子の説明図が各所に置かれていたので、写真に収めました。
 第一波

 1941年12月7日午前7時47分(日本時間12月8日未明)、日曜日の朝、静かだったオアフ島が、日本海軍の航空爆撃機(97式艦上攻撃機)により大爆撃を受けました。
 日本の航空爆撃機が最初に狙ったのは、駐機している飛行機もろとも、飛行場を破壊することでした。
 その後、爆撃機はパールハーバーに集合し、フォード島の西端にある空母艦隊基地に対し、推進機能を備えた魚雷を発射し大きな被害を与えました。その島の反対側に駐留していた航空母艦ユタに対しても魚雷が襲いました。そして、戦艦隊列に幾度ともなく攻撃を行いました。
 高性能の爆撃機は魚雷を使用できない位置に居た戦艦群に襲い掛かり、一発の爆弾がアリゾナ号の艦首部に落ち大爆破を起こしました。そして、アリゾナは大きな火の玉となって爆発しました。
 第1陣の攻撃は183機でした。
第二波

 下と同じものです。

 日本海軍機動部隊がハワイ攻撃のためが択捉島を出港したのは11月26日。アメリカ軍の警戒を避けながら北方ルートを通り、ハワイに向かいました。「ニイタカヤマノボレ1208」。海戦日を伝える暗号を受信したのは12月2日。ここから真珠湾に向けて南方に進路を変え、現地時間12月7日早朝、(日本時間12月8日)ハワイ北方400㎞の地点で空母から爆撃機がハワイに向かって出撃してゆきました。
 この成功は空母による攻撃の有効性を初めて示したものでした。
 
第二波

 日本軍のパイロットは今や激しい抵抗に直面しました。
 対空高射砲が空一面に火を噴いて、アメリか軍は20機を撃ち落としました。8時44分前には、アメリカ軍は真珠湾に入り込んだ日本の小型潜水艦を撃沈しました。
 日本の高性能爆撃機は飛行場を砲撃し、その間、日本の急降下爆撃機はたくさんの艦船を攻撃し、日本の戦闘機はアメリカの防衛隊に機銃掃射を行いました。
 二時間後、攻撃は最終的に終了しました。日本軍は21隻の戦艦と300機の飛行機に破壊ないしは致命的な損害を与え、3,500名が死傷しました。
 第2陣の攻撃は171機でした。

船の引揚と精神力の高揚

 直ちに修復作業が開始されました。軍と市民チームは絶大なる努力により、かってなかったほどのスケールで、沈んだ船を引き上げ修復し運用できるようにしました。
 救難作業員は多くの困難に直面しました。すなわち、ギザギザになった金属、爆発、有毒ガスなどです。燃料により船舶内は汚され、死体から漏れ出る気体にも直面しました。
 ダイバーは汚れきった水に潜り、爆発で生じた穴を見つける作業をしました。
 造船所の作業員は船体全体を覆うことが出来る巨大な修復設備を考えだしました。
 サルベージ隊はいろいろな手段を用いて船を引き上げましたが、沈められ破壊された21隻のうち、ウタ号、オクラハマ号、アリゾナ号?の三隻だけが艦隊に復帰しました。
 中央左に戦艦ミズーリ記念館、 中央にアリゾナ記念館が見えます。
 後でボートに乗り、アリゾナ記念館を見学しました。
 アリゾナ記念館です。

生き続ける遺産

 ここでは、今日の海軍力のシンボルである最新式空母を見ることが出来ます。
 パールハーバーが攻撃された時、戦艦が戦いの中心でした。この攻撃の後、その経験に基づき、次のようなルールを引き継ぎました。すなわち、アメリカ海軍はもはや戦艦を持たないことです。そして、今は世界最大の空母力を持っています。
 日本はこの攻撃によってアメリカの士気をくじくのを期待していました。しかしそれがアメリカ国民の心を結び付け、第二次世界大戦に必ず勝つという決心をさせました。
 アメリカはその工業力をフルに発揮し軍事力を再構築しました。そして、4年の間に、日本を敗北させ、世界最大の軍事力を持つようになりました。
 戦時中のスローガン 「リメンバー パールハーバー」 は、戦争の教訓として生き続けています。
 現在の海軍基地です。
 この下と同じ画面です。
歴史の重ね

 上段には戦争で焼ける真珠湾を、下段には現在の真珠湾が描かれています。
 ハワイの原住民はこれらの海、緑の丘、ギザギザした峰々を崇拝していました。
 第二次世界大戦中の兵士は、飛行機が突然どこから現れ、戦艦を燃やして行ったかを良く知っています。

 いま、ここ、歴史的戦場は、海軍と空軍基地の記念碑となっています。
太平洋の砦

 パールハーバーは太平洋におけるアメリカ海軍の最も重要な基地であり続けています。ここは太平洋艦隊の本部であり、他の海軍基地に対する世界的サポート基地でもあります。
 ここでは、いろいろな種類の戦艦を見ることが出来ます。例えば、駆逐艦や巡洋艦から潜水艦や空母などです。

 2010年の国家の基本再編計画の一つとして、パールハーバーの海軍基地と隣接するヒッカム空軍基地が統合され、パールハーバーーヒッカム統合基地となりました。
 アメリカはこの神聖な水と大地の名誉ある遺産を引き継ぎながら、より経済的で効率的な軍事力を作り上げています。
 マーク14 蒸気駆動魚雷

 魚雷は一般の戦艦を攻撃するために潜水艦が有する武器です。他の水面下武器(主に、機雷や水中爆雷)とは異なり、魚雷は目標物に対して進行するための推進力を持っています。魚雷のヘッドは水中で爆発するために、空中からの爆弾よりも効果的です。空からの爆弾は、時に、その力が周囲に散乱してしまうからです。魚雷が爆発すると、周辺の水はその力を船全体に伝えダメージを与えます。
 これは第二次世界大戦中に活躍した魚雷です。発射されると圧縮空気とアルコールと水が混合され、燃焼室内で燃えその蒸気がタービンを回し魚雷を推進させます。
 重さ 3,200ポンド、長さ20.5フィート、直径 21インチ、
 速度/距離 31.5ノット/9,000ヤード または 46ノット/4,500ヤード
マーク45 核魚雷

 マーク45は1958年に導入されました。それはアメリカ海軍の最初の潜水艦から発射できる核弾頭魚雷でした。しかしそれはいささか厄介な武器でもありました。なぜなら、相手を攻撃した場合の影響が自分にも及ぶ可能性があったからでした。それゆえ、出来るだけ遠く離れて発射せねばなりませんでした。この魚雷は1976年まで使用されていました。
 重さ 4,000ポンド、長さ 18.5フィート、直径 21インチ
 射程距離 8,000~20,000ヤード



ビジターセンター

攻撃戦略

 日本はアメリカ太平洋艦隊が動き出す前に、必要とする天然資源を東南アジアやオランダ植民地の東インドから確保しようとと計画しました。
 「もし、我々がアメリカと戦争しなければならなくなったら」と山本五十六大将は述べています。「アメリカのハワイ艦隊を撃滅できなければ勝ち目はないだろう」。
 日本軍がハワイ攻撃に成功すればアメリカの士気を挫き、ルーズベルト大統領は平和を目指だろうと、日本軍は望んでいました。
 日本のアメリカ大使館は、その攻撃を知らずにいて、二国間の争いを平和的に解決しようとし、交渉に期待をしていました。
暗号解読器と、解読作業

 日本軍の暗号信号のほとんどをアメリカ軍は解読していたと言われています。
日本の拡大

 日本はひそかに大規模な軍事力を展開して、ハワイからマレーシア間までの広大な前線を構築する計画を立てていました。
 西側の軍事専門家は、パールハーバーへの攻撃を予測していませんでしたが、日本にとっては基本戦略の一端にしか過ぎませんでした。
 マレーシア、フィリッピン、オランダ領東インドなどへの日本の南方作戦に対し、最大の脅威はアメリカ太平洋艦隊であると日本は考えていました。
 また、パールハーバーの空母や戦艦を壊滅すれば、反撃を遅らせることが出来るだろうと思っていました。

 東条英機首相は「国民を守り保護するよう、行く手に立ちはだかる障害物を取り除けと、軍に対し強固に懇願をした」と後で述べています。

 上の図の右側です。

 攻撃はよく計画され、巧みに実行されました。

 日本軍は市販されていた普通の地図を使用し、計画を書き入れ、攻撃を実行しました。ここに示す地図は小型潜水艦の乗組員が使用したものです。日本語で書き入れられていることに注目してください。
山本連合艦隊司令長官
 対米戦争に反対していた山本五十六は開戦2か月前、島田海軍大臣にあてた書簡の中で「態勢に押されて立ち上がらざるを得ずるとすれば、桶狭間とひよどり越えと川中島とを合わせて行うのやむを得ざる羽目に追い込まるる次第に御座候。」
 つまり、日米戦争が避けられないのであればイチかバチかの先制攻撃しかないと考えました。それは真珠湾に停泊中のアメリカ海軍の空母を全滅させ、戦争の主導権を奪い、早期の講和に持ち込む以外にないと主張しました。しかし海軍の軍令部は大反対します。ハワイは日本から遠すぎること、空母からの攻撃機で艦隊を大破壊させるのは不可能と考えていたのです。しかし山本長官は辞任をちらつかせ軍司令部を説得しました。

 サムライ一家に生まれた山本五十六司令長官は、海軍の航空力の戦略的重要性を十分に把握していました。彼はアメリカ太平洋艦隊の力を潰すためには、航空艦隊の導入が必要だと考えており、もしそれがだめなら私は辞任すると明言し、パールハーバーの攻撃にはこの計画を受け入れるのが必須だと海軍司令部を説得しました。
 
 山本はかってアメリカで学び働いてもいました。アメリカとの戦争を反対しながら、彼は ”私の個人的意見とは正反対の方向ではあるけれども”仕方がないと感じていました。 山本はかなりのギャンブラーでしたが、アメリカに対する戦争での勝ち目はないと思っていました。彼は、長期戦になれば勝てないと信じていましたが、彼は戦争になれば、出来るだけ速やかに激しく戦かおう決心していました。
1941-1942 日本の攻撃

 各々の場所での戦いの日付が書き込まれています。
 なお、開戦の前、アメリカはハルノートで、
 日本軍の中国・仏印からの全面撤退、日独伊3国同盟の破棄、中国国民党政府以外を認めない
 の3点を求められていました。日本政府はこれを最後通告と判断し太平洋戦争を決定します。
 当時、日本の石油輸入先は米国76%、蘭領東インド15%、その他9%とそのほとんどを米国に依存しており、また鉄鋼もアメリカに依存しており、それらが禁輸になりました。
 そのような状態での開戦はあまりにも無謀でしたが、他に方法がない状態に陥っていたのでしょう。
下からの破壊

 日本軍の攻撃には、浅瀬に停留している戦艦を沈めたり破壊させるための武器が必要でした。日本の航空艦隊長、源田実は”魚雷攻撃技術に革新的技術が開発されなければ、まったく不可能だ”と述べていました。
 パールハーバーの13mほどの水深は、深海用に開発された空中魚雷への最大の防御になっていました。日本の技術者は1941年9月、この問題を克服し、パイロットに、海面上10mを低速で飛行し、空中魚雷を発射出来るような訓練を行いました。彼らは魚雷に木製のフィンを取り付け、浅瀬の中で深く沈まないようにしました。
空中魚雷攻撃図

 成功するためには、飛行機は海面上約30フィート(9メートル)に降下しなければなりませんでした。魚雷は水面下33フィート(10メートル)を推進し、その後、10~20フィート(3~6メートル)まで浮き上がりました。

 日々の訓練の目的は人と飛行機をなじませ、各々の戦闘飛行士が自分の飛行機を知り理解し、競馬場の騎士が馬を操ると同じ感覚で操縦出来るように訓練しました。
1941年12月7日時点での太平洋での軍事力比較

 この図によると、太平洋に限れば、日本の軍事力の方が優れていたようです。
戦艦の時代
 
 国の軍事力と海軍の支配力のシンボルは戦艦であり、それが最強の戦争兵器と思われていました。
 ウイリアム・プラット将軍は、”もはや戦艦の時代は終わったと多くの人は信じている”。”私の意見だが、このような観点を持っている人は、自分が何を話しているかわかっていない。”と述べていました。
 アメリカや日本、また、多くの国はプラットの見解を支持していました。これら国々は、当時、戦艦の保有数を制限するための条約を作ろうとしていました。 
 戦艦は強力な砲撃力と鉄による防御力を持っているにも拘らず、魚雷や水雷に弱点を持っていました。そして、また、爆撃機に対してもでした。
破壊活動への恐怖

 オアフ島住民の40%は日系人でした。ハワイとワシントンの司令部は、日系人の行動に疑いを持っていました。
 そのため、日系人による飛行機の破壊活動を防止するように命じました。
 その様な破壊活動に関する記録はありませんでした。

 なお、ここには書かれていませんでしたが、日系人のリーダー格の人、約800名が米国本土の収容所に連行され、ハワイでは日系2世部隊(第100大隊、第442部隊)などが結成され、アメリカに忠誠を誓い、その大活躍は後で大きく評価され、人種差別撤廃への大きな原動力となりました。
 旧日本軍による攻撃の様子がビデオで流されていました。
 約23分の上映でした。



ボートに乗りアリゾナ記念館へ 


 

 ハワイオアフ島は日曜日の朝、平穏な空気に包まれていました。
 午前7時49分、そこに第一次攻撃隊が押し寄せてきました。その3分後、トラ・トラ・トラ ワレ奇襲ニ成功ナリが打電されています。
 現地にいたスパイからの情報によって日曜日には多くの戦艦が戻ってきていることが日本軍に伝えられていました。真珠湾に停泊中の多くの戦艦に魚雷が命中し、戦艦アリゾナには800kgの魚雷が命中し真っ二つに割れ沈没しました。
 1,100人を超える乗員を抱いたまま、旧日本軍の攻撃により海中に没した戦艦アリゾナ号の上に白亜の記念館が作られています。
 そのアリゾナからは今も重油が流れ出し、その事実を伝えています。



戦艦ミズーリ記念館

 ミズーリ号は1945年9月2日、マッカーサー元帥率いる連行国軍側と重光全権が率いる日本政府代表との間で降伏文書の調印式が行われた戦艦であり、日本人にはよく知られていますが、1944年1月進水式を行い、1944年6月戦艦として就役しました。従って、日本の真珠湾攻撃の時にはまだ作られていませんでした。
 その後、硫黄島攻撃や沖縄攻撃に参加し、海上から砲撃を行っています。
 1950年には朝鮮戦争に出動し、1986年には計32発のトマホークミサイルを搭載し、湾岸戦争にも参加しています。
 1992年、戦艦としての役割と終わり、パールハーバーに係留されており、1999年から一般公開されるようになりました。全長は270.4メートルもある巨大な戦艦です。
 内部の見学は可能ですが、今回のツアーには入っていませんでした。



パイナップル農園

 島のほぼ中央にあるパイナップル農園です。
 以前、島の経済はこのような果実や農作物でしたが、現在は、主に観光客と軍事関連に依存しているそうです。



Tropical Farms Macadamia Nut Outlet

 海は荒海で、後ろの山はアコーデオンのような険しい姿のカアラ山です。 オアフ島の中央の少し東側にはワイアナエ山脈が連なり、その最高峰はカアラ山で標高は1,220mです。
 ココナッツが売られていました。



Nu'Uanu Pali Outlook 
 標高約300メートルの展望台です。
 下の写真は展望台から東側の湾を見たものです。
 バスツアーはここで2組に分かれ、ここから直接ホテルに戻る組と、島の東端まで行き、島をぐるっと回る組に分かれました。
 私たちはフラダンスショーを見るため、ここから直接、ホテルに向かいました。
 ほとんどの人たちは東端まで行ったようです。



 ホテル到着は予定通り、午後3時半でした。テラスの椅子で一休みです。ゴルフをしている人たちが見えました。
 山肌に沿って驚くほと高いところまで、住宅が作られていました。

 航空地図で見ると、住宅が如何に山肌まで広がっているかがわかります。



ディナー付きハワイアンショー

 ディナーの開始は5時半からで、ハワイアンショーの開始は7時からでした。
 ディナーの前にレストランのそばでは無料のダンスショーが行われていました。

 約200名ぐらいのバイキングディナーでした。狭い場所でこれだけの人がどのようにしてバイキング料理を取に行くのか不思議に思っていたのですが、係員によってテーブルの端から順々に誘導され、驚くほどスムーズに全員が自分の好きな料理を取ることが出来ました。
 係員が全員に髪につける花を配っていました。残念ながら髪の無い私には、耳の上に付けてくれました。



フラダンスショー(そっくりさんショー)

 エルビスプレスリー、マイケルジャクソン、セリーヌ・ディオンなど、もうすでに亡くなった人たちのそっくりさんが演技をしていました。さすが、上手なものです。


     

3日目 ハワイ島観光

 出発は HA332便で、ホノルル出発が6時38分、ハワイ島のヒロ空港到着は7時31分と約1時間弱掛かりました。

  空港行きのバスはハイアットホテル前から4時55分に出発します。
 4時45分が集合時間ですから、ホテルを4時35分に出る必要があります。
 ハイアットまで歩いて10分弱でしす。
 ホノルルとハワイ周辺の諸島とはかなりの便で結ばれています。
 ハワイアン航空は大韓航空とコードシェア便となっています。
 画面では HA332 ではなく、KE7793便と表示されていました。
 数分おきに HA332 と KE7793 が交換して表示されます。
 出発は6時38分です。
 ハワイ諸島をハワイアン航空が結んでいます。
 競争相手がいないため、最近の値上げが厳しいとガイドさんが嘆いていました。
 機内には日本語の機内誌が置いてありました。日本人が多いのでしょう。
 ホノルル空港からハワイ島のヒロ空港まで、約50分でした。
 ハワイ島の面積は、四国の半分程度、もしくは岐阜県とほぼ同じです。
 従って、島の周囲を観光するには、日帰りツアーでは無理だそうです。
 人口は約15万人で人口密度は非常に低くなっています。ハワイ島最大の都市、ヒロは日系移民によって開発された都市でもありますが、津波で何度も大被害を受けています。
 島にはマウナ・ケア(海抜4,205m)とマウナ・ロア(海抜4,169)の2つの大きな山があり、マウナ・ケア山頂付近は天候が安定し、空気が澄んでいることもあって、世界各国が天文台を設置し、日本もすばる望遠鏡を持っています。
 マウナ・ロアとキラウエアは活火山であり、火山の研究の地ともなっています。
 ガイドさんによると、天文観測活動を妨げないよう、島には街灯がなく、夜になると本当に暗くなるそうです。また、人口密度が低いため、都市部から少し離れると水道がなく、各家は雨水をためる装置を持っているそうです。しかし、硫化物を多量に含んでいるので、飲料用には、水道のある所まで出かけて汲んでくる必要があるそうです。なお、毎晩のようにスコールがあり、雨水が枯れる心配は全くないそうです。
 ガイドさんの家にも水道はないとのことでした。
 私の田舎の茂木町も、町内には水道がありますが、一歩離れるともはや水道ではなく、地下に穴を掘った普通の井戸を使用しています。
 しかし、ここ、溶岩で出来たハワイ島では穴を掘っても水は出ないようです。 



ハワイ島に到着

 空港に7時半ごろ到着すると、係員が待っていて、バスに誘導してくれました。胸などに張ったワッペンが目印です。
 このツアーに参加した人は約20名で、全員日本人です。大きなバスに乗り、観光開始です。
 ガイドさんはハワイ島に住んでいる日本人です。全く正確な日本語を話します。



黒砂海岸

 ハワイ島の黒砂海岸は有名ですが、いろいろな所にありるのでしょうか、黒砂海岸としては一番有名なプナルフ黒砂海岸ではないと案内書には書かれていました。なお、プナルフ黒砂の場所は、午後に訪れるキラウエア火山の近くにあります。
 ここの黒砂海岸は、空港からすぐ近くでした



クイーン・リリウオカラニ・ガーデン 

 空港の近くにある日本人ゆかりの公園です。鳥居も作られていました。日立のコマーシャルで有名なモンキーポットが植えられていました。この木は、ハワイ諸島でたくさん見ることが出来ました。
中国ゆかりのゴールデン・バンブー(黄金の竹)も植えられていました。



 キャンディやチョコレートを製造直販しているお店に立ち寄りました。トイレ休憩のためにも必要なのでしょう。



カメハメハ大王公園


カメハメハ大王の像

 カメハメハ1世はハワイ諸島を初めて統一して1810年にハワイ王国を建国し、初代国王となりました。

 ハワイ島には3か所、作られているそうです。



レインボーフォール

 レインボー・フォールズも空港の近くにあり、ハワイ島観光では定番のようです。
 この滝は、ハワイ島最長の川であるワイルク川にかかっていて、落差は24m、滝の下のプールは直径が約30mほどあります。水量は雨季と乾季で大きな差があり、最大水量のときは川幅いっぱいに白濁した水が流れ落ち、下のプールも激流となるほどです。
 滝の上側を歩いている人が数人おりました。



 昼食のレストランです。



キラウエア国立公園

ハワイ島観光の目玉、活火山のキラウエア国立公園の観光です。

 ハワイ島は私たちにとって、キラウエア火山よりも、標高4505メートルのマウナ・ケア山に作られた日本のすばる望遠鏡で良く知られていると思います。
 そこを見学するツアーもあるそうですが、星空を見るには夜である必要があり、最低1泊は必要なようです。そのうえ、標高も高いので、時間をかけずに行くのは危険なようです。
 一方、キラウエア火山の標高は1,243mと比較的低く、車で簡単に行くことが出来ます。
 今回のツアーの目玉はこのキラウエア火山です。

ハワイ火山国立公園

 この公園は非常に広く、図からも分かるように、二つの活火山を持ち、海岸線近くにまで広がっています。
 1987年にプナへ続く海岸沿いの道路(137号線)が、1988年に南海岸にあったワハウラ・ビジターセンターが、1990年にはカラパナの町が、1994年にはカモアモア・ビーチとワハウラ・ヘイアウがそれぞれ熔岩によって飲み込まれています。
 この図の右側の茶色の所が東地溝帯(East Rift Zone) で、西側の細い茶色の所が南西地溝帯(Southwest Rift Zone) です。
 中央の火口から南の港までの黄色い道路が Chain of Crator Road と呼ばれています。
 右端の白く煙を噴出している山は、Pu'u O'o 山です。
 私たちを乗せたバスは、溶岩の上に作られた Chain of Crator Road を通ってかなり南の展望台まで来てから、再び、火口の向かって戻りました。

 火山活動の中心部は公園北東部に位置するプウ・オオ火口で、流れ出る熔岩を見ることがで来ましたが、今は噴出ガスが危険なため、今は立ち入り禁止になっています。
 ガイドさんによると、夜になり、周りが暗くなると、真っ赤になって噴き出す水蒸気の様子を見ることが出来るそうです。
 


 現在は噴火ガスで危険なため、立ち入り禁止のため溶岩が流れ出すのを直接見ることは出来なくなっています。噴出している水蒸気には高濃度の亜硫酸ガスが含まれているためだそうです。
 なお、ハワイの火山は柔らかい溶岩の流れが主で、溶岩が上空に噴出することはほとんどないので、近くに行っても安全なのだそうです。



Jaggar Musium

 ビジターセンターよりも火口に近いところにある博物館です。
東地溝帯

 火口や円錐形の肌によって、キラウエア山の東側の傾斜を形成しています。
 周期的に、地下深くのマグマ溜まりから熱く溶けた岩やマグマがこのキラウエア山頂から垂直に噴き出していますが、マグマはまた、地下で横側にも動き、地震や噴火を起こしました。これらは Rift Zone (地溝帯)と呼ばれています。
 キラウエアの東地溝帯は、ここカルデラの頂上から東側の海岸までの35マイルに広がっており、さらにその先の海底50マイルまで広がっています。
 地表には、崩壊したクレーターや火口や亀裂や溶岩の流れた痕跡が見られます。
 地下は複雑で常に変化している穴道によって、マグマが岩石を砕き、噴き出すのを抑えています。マグマが地表を割り割いたとき火山爆発が発生します。
 マウナ・ウル(Mauna Ulu)は、東地溝帯の端にあり、遠く水平に広がっています。
 この地溝帯は 1969年から1974年の間の火山爆発によって作られました。  マウナ・ウルの噴火は近くに行って見ることが出来ます。また、他の地溝帯の最近の様子を Cahinof Craters Road にそって作られた展望台から見ることが出来ます。
 この高い噴水(水蒸気)は、プウ・オオ(Pu'u O'o) 山の東側の切れ目の中央部分で1984年6月30日に発生しました。前の方に、噴水が起こった地点から溶岩が流れ出しました。また、黒い噴石が降り注ぎ、火口も大きくなりました。
 現在、ハワイ島の東の海底には Loihi Volcano が噴火しており、それがいずれ島を形成すると言われています。
 この絵は大昔、ニュージーランドから現地人がハワイにたどり着いたころの様子のようです。



火山の村(Vocano Village)

 何か所ものところで水蒸気が噴き出しています。噴出し口の近くに手をかざすと、突然、真っ白な蒸気が噴き出してきます。実は、過飽和水蒸気が噴き出しており、何かの刺激により、それが突然、目に見える水蒸気になるようです。



ケアラコモ展望台

 我々を乗せたバスは Chain of Craters Road を南下し、Kealakomo 展望台(標高610m)まで来てから、再びUターンして戻りました。
 遠くに見える岬が、アメリカ合衆国最南端の地だそうです。
 遠くがかすんでよく見えませんが、火山の影響だそうです。



 戻る途中、溶岩大地の見学でした。



プヒマウクレーター

 道路わきにあるクレーターです。



 ジェラシックパークのような森林地帯も走りました。溶岩の上にこのようにジャングルが広がっているのには驚きです。



 溶岩洞窟です。長さはわずか100m強だそうです。



 雨が多いのでしょうか。この辺りはシダで覆われていました。かって、この辺りは溶岩で覆われていました。



 空港へ行く途中、お花屋さんにたちより、トイレ休憩です。
 ガイドさんから、お花は買わないでください。日本へは持って帰れませんと言われました。
 外の庭も立派でした。もう、桜が咲いていました。今年の初桜です。



ヒロ空港

 非常に豪華な待合室でした。まるでラウンジのようです。

 飛行機は HA141便で、出発は午後6時3分、飛行時間は約50分でした。
 ホテルに到着したのは8時半ごろでした。


     

4日目 ワイキキビーチ散策と、ディナー付きサンセットクルーズ


 今まで、毎朝早かったので、今日はゆっくりです。午前中、ワイキキ海岸に出かけ砂浜を歩いてみました。

 ビーチはホテルの前のホテル専用ビーチと、誰でも泳げるビーチがあります。
 下の写真は、ダイヤモンドヘッドに近い海水浴場で、誰でも自由に泳げるようになっています。
 ダイヤモンドヘッドはワイキキ海岸に一度くでも来れば、一生忘れられない美しい形をしています。今まではオアフ島で一番高く、細長い山だと思っていたら、円形の火口の後でした。
デューク・カハナモクの像

 身体能力に優れたカハナモクは水泳でその能力を発揮し、1912年よりオリンピック3大会で合計3つの金メダルと2つの銀メダル、水球でもメダルを獲得しました。引退した後は俳優として活躍し、後になって、ホノルルの保安官に就任しました。その後、ハワイ親善大使として活躍しました。
 特に仕切りの無い海水浴場です。ここからはダイヤモンドヘッドが見えないのが残念です。
 いろいろな形のバスがたくさん走っています。JTBなど日本の旅行社の看板を付けた日本人向けのバスもたくさん走っています。
 道路ぎわにワイキキ海岸の大きな地図が描かれ、そのそばに、制服を着た観光案内嬢がおり、質問するといろいろなことを教えてくれました。観光協会などの係員なのでしょうか。さすが観光都市です。 
 バスに乗ってみようと思ったのですが、チケット売り場まで行き、1日乗車券などを買う必要があるとのことでした。市バスも走っていますが、30分ぐらい待たないと来ないとのことでした。
 ダイヤモンドヘッドの麓まで、バスで簡単に行けるそうです。観光案内嬢が、バスの停留所や行き方を教えてくれたのですが、登るのはきつそうなので、結局、行くのを諦めました。
 頂上の高さは232mで、登るのに1時間半ぐらいかかるそうです。


 ホテル前の海水浴場です。誰でも立ち入ることが出来ますが、ホテルに泊まって、目の前の浜辺で泳いでいる人が多そうです。ここからは、ダイヤモンドヘッドがよく見えます。



サンセットディナークルーズ 

 ホテルまでバスが向かいに来てくれて、帰りも送ってくれました。ホテルを5時ごろ出発でした。
 さすがに観光都市です。かなりのバスと人数にも拘らず、極めてスムーズに我々を船内に案内し、ディナーが開始されました。
 太平洋に沈む太陽も見ることが出来ました。


    

5日目 マウイ島観光

 宿泊したホテル、ワイキキサンドビラホテルの入り口です。ホテルを出る前に写真に収めましたが、道路とフロントの間にはドアなどがありません。
 大雨や強風の時は、何か対策がなされるのでしょう。
 今日も、ホテルを朝の4時35分に出発です。
 



ホノルル空港

 私たちの便は HA156便で 出発が7時15分、マウイ島のカフルイ空港到着は7時47分です。飛行時間は約30分でした。
 
 ハワイアン航空のルート図です
 ダイヤモンドヘッドが下に見えます。



 マウイ島にはたくさんの風力発電機が作られていました。


 マウイ島はハワイ諸島の中でハワイ島に次ぐ2番目に大きな島で、その面積は日本で一番狭い香川県と同じです。人口は12万人弱ですが、その9割は空港のあるカフルイ市に住んでいます。 
 左の赤丸は今日の主な観光場所です。
 午前中はハレアカラ国立公園とイワオ州立国立公園で、昼食後はマウイ水族館とラハイナ歴史地区観光でした。



観光バス

 到着すると約10名乗り位の比較的小さなバスが待っており、なんと今日の観光客は私たち二人だけでした。
 従って、運転手さんが運転兼ガイド役を務めました。
 最近は日本人の観光客が本当に減ってしまい、韓国からや中国からの観光客が多くなったと嘆いていました。
 運転手さんはこの島に住む日系人で、ごく普通の日本語を話します。
 サトウキビ畑が一面に広がっていますが、ガイドさんによると、現在は砂糖の価格が下がり、採算が合わないので、今年限りでサトウキビ畑は終わるのだそうです。
 まだ、時差が良くとれていません。車に乗るとすぐに眠くなります。運転手さんはガイド役を務め、終始観光案内話をしてくれていますが、二人とも眠ってしまうと申し訳ないので、家内が、前の方に座り、聞き役を務めていました。私は一番後ろに座り、居眠りです。
 でも、運転手さんに、旦那さんはよく眠っていますねとか言われてしまいました。
 ツアーの人数が少ないのも良し悪しです。



ハレアカラ国立公園

 ハレアカラ国立公園のパンフレットです。
 
 マウイ島は西の小さな島と東の大きな島が火山の噴火によって徐々に繫がって来て、そこがマウイ島の唯一の平地となり、農耕地帯となっています。東マウイの西側は乾燥地帯で植物も生えない瓦礫となっていますが、東側は雨が多く熱帯雨林を形作っています。
 なお、昔、勉強しましたが、北緯30度から北緯60度の間では偏西風が吹いており、その位置にいる日本では、通常、風は西から東に流れますが、赤道を挟んで南北30度までは東からの貿易風が吹いており、ハワイ周辺では一般に東風が吹いています。
 現在の最高峰の標高は3055mですが、その右側の大きなへこみは火口ではなく、山崩れの後で、崩れる前の高さはさらに2000mも高かったと推定されています。
 ハレアカラ国立公園の頂上まで、くねくね曲がった道路が作られ車で登ることが出来ます。


公園本部ビジターセンター

 このビジターセンターは公園の入り口で上の写真の白丸の所にあり、その標高は 2,134mです。
 頂上までは車で30分かかると書かれていました。
 この公園内には沢山の登山用道路が作られています。

 左の車は私たち二人用に用意されたものです。

ハレアカラ国立公園

 ハレアカラ国立公園の地域は、海岸線の滝などのある緑豊かな渓谷から、噴石の岩で出来た赤い荒地まで広がっています。
 火山の傾斜に降り注いだ雨はその谷を削り、農耕の多様性を作り上げています。
 今、あなた方は、長くは滞在出来ない雲の上の kua mauna にいます。昔の Ka po'e kaiko といわれる人たちが、この荒涼とした場所登ってきたのは訓練と観測のためにでした。
 山の麓には、海岸の村、カフカイ(kahukai)が横たわっており、何世紀もの間、生活を営み、文化を育ててきました。
 ハレアカラ国立公園は kua mauna と kahakai 両方の文化的豊かさを保護し、そしてお互いの間の多様な特徴が永続することに貢献して行きます。

Kipahulu 沿岸地区
 小路からは、ドラマチックな海岸線を見ることが出来ます。水のたまりで出来た小川が、密集した森林の中の谷の頂上にあるワイモク滝まで流れています。
 キパフル(Kipafulu)では、昔のハワイ人がどのように暮らしていたかを感じることが出来ます。古い村地帯にある湖や文化的な実演、里芋農場の運営が、国立公園により保存され維持されています。




 頂上に到着しました。標高は3055mです。日本の御嶽山とほぼ同じ高さです。ここまで車で来ることが出来るのですから助かります。
 この少し下にビジターセンターがあります。
 この下の植物は、銀剣草です。この地でのみ、見ることが出来るそうです。



 この島の目玉です。マウイ島に来たのはこの風景を見るためでした。荒涼とした地帯で、まるで月面のようです。



 雲の上にまるで海でもあるかのような青い色を帯びた空気の層があります。
 この青い帯は、山の上にからは至る所で見ることが出来ます。
 ガイドさんは地球のゴミだと言っていましたが、ハワイ島のキラウエア火山から噴出した蒸気の中に、微量な粉塵が混じっており、そのごみのようです。
 たまたまいた別のガイドさんに聞いたところ、やはりキラウエア火山からの微粒子で、風向きによっては無くなることもあると言っていました。
 雨が降るとこの微粒子が雨に交じって落ちてくる訳ですから、雨水をそのまま飲めないことが理解できます。
 
 車は雲海の中に入りました。



イワオ州立国立公園

 午後は西マウイにあるイワオ州立公園の観光です。
 針のようにとがった山は Iao Needle と呼ばれているそうです。
 作家、マーク・トゥェインはこの地を太平洋のヨセミテと呼んだそうです。
 ここでも桜の花を見ることが出来ました。



マウイ・オーシャン・センター Maui Ocean Center

 午後1時ごろ、ここで昼食をとり、その後、水族館の見学です。
 ガイドさんがしきりに、がっかりしないでくださいよ、日本の水族館と比較してみないでくださいね。とか言っていましたが、サンゴが見事な水族館でした。
 



イルカの展示

 ここではイルカを保護する目的で、イルカの人形が展示されていました。
 かなり昔、カルフォルニア州のサン・ディエゴにある水族館を見学したことがありますが、そこでは日本の水族館と同じで、イルカショーが大変人気でした。時代は変わっているようです。



ラハイナ歴史地区観光

 ラハイナはその昔、ハワイ王国首都として君臨していた町です。捕鯨で栄えた街でもあります。
 今は島有数の観光地として栄えています。
 公園にある大きな木には驚かされます。木と木が横に伸びて、1つに繫がっています。
 昔の城壁が再現されていました。
 町の中にはたくさんの立派な樽がゴミ捨て樽として置かれていました。



今日の観光も終了し、空港へ向かいます。この島独特の山肌が見えます。



 帰りの便は HA265 で、出発は18時28分、ホノルル空港到着は19時6分でした。
 出発便の時刻を見ると、夜遅くにもかかわらず、たくさんの飛行機がアメリカ本土へ飛んでいることが分かります。
 観光客のほとんどはアメリカからだそうです。


 到着し、手荷物受取ゲートを出ると、係員が待っていて、ホテルに行くバスまで案内してくれました。驚いたことに、待っていたバスは50人乗りの大型バスですが、乗り込んだのは私たち二人だけでした。
 私たち二人を運ぶのになぜこのような大型バスを使用するのかわかりませんが、少し驚きました。
 帰りに、日本人が経営するラーメン店に入ってみました。私たちはジャンバーを着ていますが、従業員は全員が半袖です。
 驚いたことに、黒人らしい人が入って来て、お酒とラーメンを注文しましたが、彼らに対しては、前金を要求していました。
 日本でも、人件費を省くため、自動販売機でラーメンなどの券を買うことがありますが、現金払いで前金とは驚きました。
 次に白人の二人連れが入って来て注文をしていましたが、この人たちに対しては私たちと同じで後払いでした。なお、このお店はカード使用不可と書かれていました。


     

6日目 カウアイ島観光 (Island of Kauai)

 発音はカワイアイランドで、カウアイアイランドではないようです。
 

 カウアイ島観光は、ハワイに到着後、私たちの宿泊ホテルの観光案内デスクで頼んだので、待ち合わせ場所は、ホテルのロビーになりました。そのため、前日よりは少し遅く、朝の5時35分でした。
 ハワイアン航空の飛行ルート図です。

 私たちの飛行機は HA123便で 出発は7時25分、到着は8時4分です。
 国際便の案内板を見ると、如何にたくさんの飛行機が日本に飛んできているかがわかります。
 オアフ島上空からです。住居が山にへばりつく様に建てられています。


 カウアイ島の面積は神奈川県の約半分程度、人口は6万5千人程度です。直径は約50㎞で、主な経済は、アメリカ合衆国最大のコーヒー産業と観光です。
 ただし、1992年のきわめて大きなハリケーンによってホテルなどが破壊され、観光客は減少しています。
 観光客のほとんどはアメリカ本土から来ています。
 図の中の赤丸が本日の観光地です。



 約30分の飛行後、リフエ空港に8時30分ごろ、到着しました。
 今日は、日本人ばかり、6名ほどのツアーになりました。
 今日は運転手さんと女性のガイドさんが付いていました。
 



潮吹き岩

 島の南端にあります。風が全くなく、波の静かでしたが、穴の中から十数秒おきに潮が噴き出していました。
 カメが数匹泳いでいます。荒波にもかかわらず、岩に頭をぶつけないそうです。



 ハワイがいろいろな人種によって成り立っているのを示している像だそうです。



ハナペペ渓谷展望台

 島の南端にあります
 確かに、渓谷と言われれば渓谷のようです。
 どこにでもある風景のようでもあります。



ワイメア渓谷展望台

 ワイメアキャニオンはカウアイ島の目玉の一つです。
 州立公園に指定されています。
 
 アメリカのグランドキャニオンに似ています。
 長さ22㎞、幅2㎞、深さ1,097m以上だそうです。

 

  

 



カウアイコーヒー (Kauai Coffee)

 バスは再び来た道を引き返し、カウアイコーヒー店に立ち寄りました。
 ハワイの名物の一つはコーヒーで、ハワイ島のコナコーヒーが有名ですが、ここ、カウアイ島はアメリカ合衆国最大のコーヒー生産地です。

 いろいろな種類のコーヒーの試飲が出来ます。
 コーヒーによってこれほど味が違うのかと驚きました。
 試飲した後、周りを歩いてみました。
 いろいろな花が咲いていました。やはり南国です。



ハリケーン・イニキの被害跡

 1992年9月11日、記録的なハリケーンがカウアイ島を襲い、かってない大被害を与えました。この台風により、カウアイ島の9割は破壊され、そのまま放棄されてしまったホテルもあるそうです。
 以前、この島は日本人で賑っていましたが、台風以降はめっきり減ってしまったそうです。



昼食

 昼食後、周りを散歩してみました。
 教会を見つけたので入ってみようと思ったのですが、閉じられていました。



オパエカア滝展望台

 島の東端にある滝です。滝の水はワイルア川に流れています。
 道路わきに小さな駐車場があり、そこから眺めるようになっています。
 今は立ち入り禁止だそうです。



ワイルア川展望台

 長さ32kmのこの川は、島の内陸部にそびえる標高1,569mのワイアレアレ山から流れています。
 上の写真の右側に民家が見えます。拡大してみました。農家なのでしょうか。



ワイルア川遊覧
 
 遊覧船がここから出ています。片道30分、洞窟見学20分、合計1時間20分のツアーです。
 何人もがカヌーなどを自分で漕いで下っていました。

 ハイカラなワンピースを着たバスガイドさんです。この島の親類の人が、お見合い写真を日本に送って来て、数十年前、それを見てOKし、この島に渡って来たそうです。すでに夫は亡くなり今の仕事を始めたそうです。
 終始、マイクを離さず、何時も話をしていました。しかし、かなりの比率で、個人的な話、例えば、お孫さんの話などをしていました。
 ただし、聞いていて決して嫌味は感じませんでした。田舎のおばさんを思い出しました。


 船を下りて熱帯樹の茂みの中を5分ほど歩くと、シダで覆われた洞窟が現れます。
 ここにも中国産、黄金の竹が植えられていました。
 ここにある木の枝は、まっすぐ上に伸びています。今まで見たタコノキなどは上から下に根を伸ばしているのですが、細いのにもかかわらず、よく倒れないものです。



シダの洞窟 (Ferrn Grotto)

 今は洞窟の中には入れないようになっています。
 ここで恋人と固く手を結ぶと永遠の愛が約束されるそうです。


 再び、船で戻ります。これに乗り遅れると、もう便はないので、歩いて帰るしかありませんが、半日はかかるそうです。洞窟の前でフラダンスを踊ってくれた人たちも、全員がこの船で帰ります。
 到着まじかになると、全員が立ちあがり、ガイドさんによるフラダンスの講習がありました。



 帰りの便は HA240便で出発が5時59分、ホノルル到着は6時33分です。
 カウアイ島からホノルルまではわずか30分の非常時間です。途中、オアフ島のダイヤモンドヘッドが良く見えました。
 民家が山裾まで驚くほどいっぱい広がっています。



 ホテル到着は午後8時ごろでした。部屋に戻り、シャワーを浴びてから、1階の食堂で、夕食を取りました。



    

7日目、8日目 帰国

 帰りの便は JAL785便で、27日午前9時25分発、成田到着は28日の13時24分です。飛行時間は9時間25分もかかります。
 バンクーバーから成田へ行く時間とあまり変わりがありません。

 空港への無料送迎バスは、なんと朝の5時半です。
 バスの運転手が、ホテルで待っていた私たちを見つけ、カメラのシャッターを押してくれました。
 このホテルは玄関がなく、外の通りと、ロビーとの間に何もありません。
 
 朝、まだ、6時ごろと、早いにもかかわらず、空港ではフラダンスで私たちを歓迎してくれました。
 観光で生きている町ですから、さすが、サービス満点です。
 ハワイから海外に行く飛行機の行き先を見ると、成田が如何に多いかがわかります。日本へはその他、名古屋、福岡、関西などと結んでいます。
 その他、韓国インチョン空港や、中国上海とも直行便が結んでいます。



 一度、火山の島、ハワイ4島を巡ってみたいと思っていましたが、その念願がかないました。
 ハワイを旅して驚いたのは、旅行社のきわめて正確でスムーズな対応でした。
 また、オアフ島に限れば、若い日本人女性の多いのにも驚きました。年寄りは台湾に行き、若者はハワイに行くのでしょうか。
 なお、ハワイへの観光客はアメリカ本土からが6割、日本から2割弱、カナダから1割弱ですが、アメリカ本土の人の滞在日数は日本人の約2倍で、一人当たりの消費するお金は日本人がアメリカ人の2倍だそうです。






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