ペルシャの風イラン8日間
2016年11月11日~18日
阪急トラピックス


 今年の7月、ウズベキスタンを訪れたのですが、ブルーモスクの美しさに圧倒されました。ガイドさんの話によると、そのルーツはイランとの事、行ってみたくなり、イランのツアーを探して申し込みました。
 今回のツアーは成田からガイドさんが同行するシステムで、参加人員は合計11名と催行ぎりぎりの人数でした。内訳はご夫婦が3組、単独の女性が3名、男性が2名でした。
 友人にイランに行くというと、必ず、危険ではないかと言われますが、世界的に見てもかなり安全な国にランクされており、少なくとも、フランス、イタリア、ドイツなどよりは安全です。もちろんブラジルよりもはるかに安全です。
 核開発に関する問題が良く放送され、国際的非難も受けることが多いので、それがイランのイメージを悪くしているようです。
 イランへ何しに行くのかともよく聞かれます。その時、日本の京都や奈良に行くのと同じだよ、というと納得してもらえます。
 女性はヘジャーブの着用が法律で決められ、何かと女性への偏見が多い国と思われがちですが、大学への進学率は女性の方が多くなっています。また、その進学率は日本を上回っています。その上、男性の医師は女性を診ることが出来ないため、医者の7割は女性になっています。教育における男女差は、男性に対する防衛技術教育だけで、それ以外はすべて同等です。教育レベルが高くなった現在、女性の発言が高くなり、ヘジャーブ着用の義務に対する反対意見が議論されるようになっているそうです。
 なお、今の副大統領は女性です。
 第二次世界大戦以前からイギリスはイランの石油の利権を独占しており、戦後もそれが続いていました。それに対し、モハンマド・モサッデクは石油の利権をイランに取り戻そうと運動を開始し、1951年、民主的な選挙により首相に選任されます。モサッデクは宗教色のない民主主義者で、直ちに公約を実行しますが、それに猛反発したイギリスやアメリカは国際石油資本(メジャー)の力により、国際市場から締め出してしまいます。石油を輸出できなくなったイランは財政難に陥り、国民は窮地に陥ります。そして反政府運動が活発化し、イギリスは豊富な資金を反政府運動家に与え、1953年クーデターを起こし、モサッデクを失脚させ、再び王政が復活します。モサッデク政権はわずか2年で終わり、その政権に居た多くの人は捕えられ、死刑や牢獄に入れられました。モサッデクは牢獄から出た後も自宅に軟禁され、そこで死去します。
 新たに王になったパーレビは、アメリカからの援助により贅沢三昧の暮らしをしながら、西洋化を進めるとともにアメリカからの助言により農地を地主から取り上げ農民に渡すなどの農地改革を行います。しかし、王の権力を守るため秘密警察を組織し、拷問と恐怖の政治を作り上げてゆきました。国王の政策に危機感をもった従来からの保守的なイスラーム・シーアの宗教家たちや多くの国民は激怒し、内戦を起こし、1979年、パーレビ国王を追放します。
 フランスに亡命していたホメイニ氏が国民の絶大な歓迎の元、イランに戻ってきますが、国民が目にしたのは国王側にいた人たちへの報復と粛清でした。革命の翌年、イランの疲弊を目にしたイラクは戦争を仕掛けます。この戦争はその後15年も続き、両国はさらに疲弊して行きました。
 イランといえば、たくさんのキーワードが思いつきます。思いつくままに書いてみますと、ペルシャ、絨毯、猫、アラビアンナイト(千一夜物語)、石油大国、イラン・イスラム革命、ヘジャーブ着用、シーア派、禁酒、イラン高原、カナート(地下用水路) イランイラク戦争、アメリカ大使館襲撃事件、最高指導者、ホメイニ師、パーレビ国王、核開発疑惑、経済封鎖、薔薇、などなどです。

イランの国旗

 この国旗はイラン革命の翌年の1980年7月29日に制定されています。
 中央にはイランの国章が描かれ、上の緑はイスラム教を、白は平和を、赤色は勇敢さを象徴しています。白帯の上下には文字が描かれています。イラン・イスラム革命が帝政を打倒したことに関する内容だそうです。

 

 イランの正式国名は、イラン・イスラム共和国ですが、通常はイランと言われています。
 北は海面よりも低く、出口のないカスピ海に面し、南はペルシャ湾に面しています。しかし、国土の多くは標高が1000mを超える高原にあります。
 国土面積は日本の約4.5倍もあり、世界では17位にある大国です。
 ただし、東には紛争の絶えないアフガニスタンやパキスタンと国境を接し、西にはISと戦争中のイラクやクルド人とで紛争しているトルコにも接しています。そのため、国内の治安維持にはそうとう厳しいものがあり、お陰で、泥棒やスリ、強盗などは非常に少ないのも特徴です。女性のヘジャーブ着用を監視している人も居るそうですが、そういう監視員が居ることもスリなどを少なくしているのかも知れません。
  GDPは日本の1割弱で、世界では28位に位置しています。
 経済の柱は原油の生産ですが、世界では第7位で、最大の生産国であるサウジアラビアやアメリカの約3割に当たります。
 日本の原油輸入先の最大はサウジアラビアですが、イランからも全体の5%を輸入しています。国際的経済制裁により、イランからの原油輸入を日本は徐々に減らしています。
 国境があまりにも長いので、無法入国者も多いそうですが、その取り締まりも厳格なようです。とにかく旅行していると、検問所がたくさんあります。ただし、私たち観光バスが検問で停車させられたことはありませんでした。

 核開発に対するイラン制裁解除が今年の1月合意されましたが、あまりうまく行っていないようです。テレビを見ていると、イランでは「アメリカに死を」、「イスラエルに死を」と叫びながらのデモが今でも行われていますし、トランプ次期大統領は経済制裁を続けると表明しています。お互いに相手をほとんど信頼していないのが実態のようです。ただし、ヨーロッパ諸国との取引は増えているようです。なお、アメリカとイランとの核開発に関する制裁解除の様子はNHKが2016年10月20日に放送したBSドキュメンタリー、オバマのホワイトハウス「失敗は許されない」で詳しく述べられています。

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 人口は7,900万人とこれも世界17位にあります。
 公用語はペルシャ語で字は似ていてもアラビア語とは全く異なります。
 歴史的に見ると紀元前550年にアケメネス朝(ペルシャ帝国)が建国され、1501年にサファヴィー朝が統一しています。そしてイラン・イスラム革命により、1979年4月1日、現在の体制が築かれています。
 世界にはいろいろな宗教が存在していますが、宗教を国是とする国はほとんど無く、サウジアラビアとイランの2か国だけだそうです。すなわちイランはイスラム教を国是としておりイスラム教が憲法(法律)となっています。
 首都はテヘランで、最高指導者はアリー・ハーメネイー師、大統領はハサン・ロウハーニー氏です。
 左のイランの地図を見ていると、頭が左上のペルシャ猫によく似ています。
 なお、イランは宗教家が革命を起こし王政を倒し政権を握っていますが、周辺にはサウジアラビアをはじめ国王が政権を握っている国が多いため、それらの国からも敵視されています。
シーア派

 茶色がシーア派、緑色がスンニ派で、世界のイスラム教徒の9割はスンニ派に属しています。
 イランは圧倒的にシーア派であり、宗教の厳格さで比べるとシーア派はイラン、スンニ派はサウジアラビアと言われています。
 シーア派は1日の礼拝を3回にしています。
 イランのほとんどの人はシーア派で、その隣のイラクもシーア派が多数を占めています。その以外の国はスンニ派が主流となっています。
 シーア派はムハンマドの世襲に関係するものが指導者になるべきとし、スンニ派はそれに関係ないとしています。
 今回の旅は、テヘランで1泊し、飛行機でシーラーズに行き、そこからは大型の観光バスをずっと使用してテヘランまで戻るものです。
 シーラーズで1泊、ヤズドで1泊、イスファハーンで2泊します。
 現地のガイドさんによると、イラン北部のタブリーズも観光の名所なので、次回はぜひタブリーズにも行ってくださいと言っていました。
 タブリーズは左上、猫の頭の辺りにあります。
 なお、国土の1/4は砂漠です。
 イランの地図ですが、イラン考古学博物館に飾られていたものです。
 この地図に今回の訪問地を書き入れてみました。
 テヘランの北には4000m級の峰々が連なるアルボルズ山脈が横たわり、イスファハーンやシラーズはイラン西部のザグロス山脈の中にあります。
 ザグロス山脈の最高峰はザルド山でその標高は4,548mもあります。

 

権力の館を考える

 今年度の放送大学の講座の中に、東京大学名誉教授の御厨貴先生による 「権力の館を考える」 がありました。全15回にわたる講義ですが、そのうちの11回は、日本の戦前、戦後の権力者たちを講義に取り上げていますが、第12回日はアジアにおける権力の館について、そして第13回にはイランのペルセポリスを、第14回にはイランのイスファハーンを取り上げています。ここではこれらも参考にしていますが、全世界を対象にした権力の館の講義にも関わらず、イランが2回も取り上げられているのは驚きでした。なお、イランに関する講義は放送大学教授高橋和夫先生でした。その講義ではパーレビ国王の失脚やイランイスラム革命に関しても述べられていました。

  

観光内容 宿泊地 歩数
1日目 成田空港出発 機中泊 3,458
2日目 テヘラン到着。市内観光 テヘラン 9,790
3日目 早朝、飛行機でシラーズへ。着後、市内観光 シラーズ 11,086
4日目 ペルセポリス観光後、ヤズドへ ヤズド 12,769
5日目 ヤズド観光後、イスファハーンへ イスファハーン 12,165
6日目 イスファハーン終日観光 イスファハーン 17,389
7日目 イスファハーンからテヘラン空港へ、その後、ドバイへ 機中泊 13,608
8日目 ドバイから成田空港へ 2,178


    

1日目(金) 成田空港出発

 成田からドバイを経由しテヘランへ向かいます。
 行きも帰りも同じルートで、すべてエミレーツ航空を使用しました。
 成田空港、午後10:00発のエミレーツ航空でドバイ経由、テヘランへ出発です。
 成田からドバイまでの飛行時間は11時間50分で、到着は午前4時50分です。


      

2日目(土) テヘラン到着後、テヘラン市内観光


 ドバイ到着は午前4時50分、テヘラン行きの出発は午前7時50分で、乗り継ぎ時間は約3時間です。
 ドバイ名物の巨大なエレベーターです。もう、何度か使用したので覚えています。

 乗り換え時間は3時間ですが、手荷物検査やターミナルの移動などで結構時間を取られます。
 ドバイからテヘランへはやはりエミレーツ航空です。
 出発は午前7時50分で、テヘランまで約2時間20分です。


イランへ到着

 テヘラン到着は午前9時40分でした。
 女性は皆さん、機内で用意したのでしょうか、ヘジャブ(スカーフ)で髪を覆っていました。
 また、イランに入るとお酒を飲めないので、まだ、朝なのですが、飛行機の中でお酒を飲んでる方もおりました。無料で飲めるのでついつい飲んでしまうのでしょう
 イラン入国時の手荷物差は厳格でお酒の持ち込みなども調べらると聞いていましたが、私たちグループに対しては別のルートで案内され検査は全くありませんでした。ちょっと拍子抜けでした。私たちグループ以外の個人旅行者はトランクを開け調べられていました。
 このところ、お酒の飲み過ぎで自分はアル中ではないかと心配していましたが、イラン滞在中はお酒を飲みたいとは一度も思いませんでした。飲めないと分かっていれば特に飲もうと思わないことを発見しました。ただし、楽しみの一つが減ったことは確かです。



イランの通貨

 イランの通貨は2012年、大幅に下落し、その下落率は50%にも達しましたが、それ以降はほぼ安定しているようです。
 現在のレートは現地ガイドさんとの交換比率ですが1US$が3万レアルでした。20US$を交換すると、50万レアル札1枚と10万レアル札1枚をくれました。丸の多さが、過去、いかにインフレがひどかったかを示していますが、50万レアル札の大きさは10万レアル札より少し小さくなっていました.
 もっとも、イランではお酒を飲めないので、お土産を買わなければ現地通貨の必要は全くありません。飲料水も、ホテルでの無料のペットボトルと、毎日配られるバス内でのペットボトルで十分でした。



テヘラン (イランの首都) 

 首都圏の人口は1,300万人と世界有数の大都市です。今もイラン全土からの流入が続いています。
 テヘランの北には4000m級の峰々が連なるアルボルズ山脈が広がっています。テヘランはその麓にあり標高は1,200mと高原の中にあります。
 テヘランはイラン文化の中心地でもあり、多数の美術館、博物館、宮殿、文化センター、高等教育機関があります。
 住民の大多数はシーア派イスラム教徒でペルシャ人が大多数を占め、住民の98%はペルシャ語を話します。
 イラン革命もこのテヘランで起こり、アメリカ大使館もテヘランにありました。現在、アメリカ大使館の建物は革命防衛隊の訓練施設として利用されており、施設の敷地を囲む壁には「反米プロパガンダ」の絵が描かれています。

 

 大型の観光バスで、乗客はわずか11名ですから、好きな席に座れます。
 
 イランの高速道路料金所です。どうやらATCが普通に使用されているようです。
 まず、市内で驚くのが、至る所に飾られている最高指導者ホメイニ師とハーメネイー師の肖像画です。
 モスクやホテルなどには必ず飾られています。
 1979年、パーレビ国王は亡命し、フランスに逃げていたホメイニ師が、国民の絶大なる歓迎の元、イランに戻って来ました。パーレビ国王は受け入れ国を探しながら転々としますが、親交国のアメリカが国王のがん治療を名目に受けれを許諾します。怒ったイランの青年たちは国王の身柄をイランに引き渡すようアメリカ大使館を襲撃し、その職員たち52名を人質にします。なお、6名はカナダ大使館に逃げ込み後に脱出に成功しています。その後、パーレビ国王はエジプトに受け入れられますが、そこで失意のうちに死亡します。アメリカ大使館の職員たちを人質としている意味を失ったイランは人質を解放します。
 この時の様子は1012年のアメリカ映画アルゴ(アカデミー賞作品賞)に描かれています。名作です。
 以来、アメリはイランを悪の枢軸と罵り、お互いの大使は不在のまま、アメリカとイランの関係悪化は今も続いています。
 最高指導者は国民の直接選挙で選ばれた86名のイスラム聖職者らによる専門家会議により選出され、任期は終身で、国民の選挙によって選ばれる大統領よりも権力があり、司法、立法などを行う人を決める権限や大統領の解任の権利も持っています。



ホメイニ廟

 テヘラン空港から市内に向かう途中に立ち寄ったのがホメイニ廟でした。ただし、道路際に停まっただけなので中の様子は全くわかりません。
 ここからは青いモスクと4本のミナレットが見えます。


 下の写真はインターネット検索によるものです。かなり立派な廟で、現在も建築中であることがわかります。
 この廟の建設はホメイニ師が亡くなった1989年6月3日に開始され、1995年に亡くなった2番目の息子も奉られているそうです。


 バスの窓から見ると、このような旗や黒いハンケチを吊った風景が良く見られます。3本のイランの国旗を挟んで別な旗が立てられています。
 道路には車以外に、自転車、バイク、歩行者、荷物を押して運んでいる人などかなり入り混じっています。信号機もあまりありません。事故は多そうです。



ゴレスターン宮殿(世界遺産)

 2,500年にわたってこの国を治めてきた王たちはシャーと呼ばれていました。このゴレスターン宮殿には、かって歴代の王(シャー)が住んでいました。ここには8つの建築物と大きな庭園があります。

 国王が居なくなった現在、この宮殿全体が1つの博物館となっており、2013年に世界遺産に登録されました。
 このゴレスターン宮殿は、ガージャール朝の王宮として建てられ、パフラヴィー朝の時代(1925-1979)まで少しずつ建て増しされ、戴冠式など王家のレセプションの場として使用されていました。
 幾つかの鏡の間があり、鏡の宮殿とも呼ばれています。ゴレスターンは「花のある場所」を意味しています。とにかく非常に広く、どこを歩いているのか全く分からなくなりました。

 

 



 ここにも鏡の間がありました。このような鏡の模様はインドから来たそうです。

 

 いわゆる唐草模様です。元はギリシャあたりからきたようですが、このような花模様はイランが発祥地です。

 



 庭園がいろいろな所に作られています。



昼食

 今日の朝食はドバイ到着前で、また、テヘラン到着前の飛行機でも朝食が出たので、昼食は午後1時ごろでした。まだ、おなかが空きません
 典型的なイラン料理です。慣れてくるとこのお米もとても美味しく感じるようになりました。



イラン考古学博物館

 紀元前6000年から19世紀にいるまでの、考古学的、歴史的に重要な美術品を集めたイラン最大の博物館です。
 紀元前5000年ごろの陶器で幾何学模様が施されています。
 当時の水路の様子です。カナートの原形でしょうか。

チョガ・ザンビールの牡牛像

 シューシュ近郊にあるエラム王国の神殿、ジェッグラトで発掘されたものが何点か展示されており、この牝牛はジェグラト北東の門から発見されたもので、全身に楔形文字が刻まれています。
ハンムラビ法典


 「目には目を 歯には歯を」で有名な「ハンムラビ法典」のレプリカと言われています。本物はフランスのルーブル美術館にあるそうです。
 当時使われていた荷車です。
 ライオンのブロンズ像
謁見図

 ペルセポリスのアバダーナ(謁見の間)にあったレリーフのひとつです。国の大臣が王に謁見する場面を描いています。
 中央に座るのはダレイオス1世、もしくはクセルクセス1世とされていますが、また特定はされていないそうです。
パルティアの王子像

 アルサケス朝パルティアの王子像です。
 パルティアはアケメネス朝ペルシアがアレクサンドロス大王に滅ぼされた後、ギリシア系のセレウコス朝を駆逐して現在のイランが成立しています。

牝牛の柱頭

 ペルセポリスの百柱の間にあった柱のひとつで、牝牛の頭部が対となっているアケメネス朝時代によくみられる様式です。柱の上部まで現存しているのは少なく、当時の技巧の精密さの高さを示しています。



宝石博物館見学

 バスを降りる前に、現地のガイドさんから、カメラ、ハンドバックなど一切のものはバスの中に置いておくようにとの注意がありました。
 宝石博物館は、イラン・メッリー銀行の巨大な地下金庫にあります。入場券をガイドさんから貰った後でも、入るには極めて厳重です。カメラはもちろん、ハンドバックなども持って入ることは出来ません。それが、3回ぐらい繰り返し行われます。
 入ると、ガラスケースの中にズラッと並んだ大きな宝石と宝飾の数々が現れます。無数の宝石がちりばめられた孔雀の王座、光の海、地球儀など、ものすごい数の宝石が置かれています。 



ホテルへ到着

 ホテルは Tehran Enghelab Hotel です。フロントデスクの後ろには初代最高聖職者ホメイニー師と2代目最高聖職者ハーメネイー師の写真が飾られていました。
 五つの時計があり、左から、ニューヨーク、ロンドン、テヘラン、東京、シドニーでした。


 テーブルに暦が置かれていました。イスラム歴なのでしょうか。面白そうなので写真におさめました。ペルシャ文字の勉強にもなります。


部屋の様子

 部屋の片隅にはメッカの方向を示す矢印が貼られています。  遠い昔から、イスラム教徒は聖地メッカの方向にお祈りしますが、メッカはイランの敵国、サウジアラビアにあります。
 今年1月、テヘランでは大規模なデモがあり、「サウジアラビアに死を」というプラカードを掲げているのがテレビのニュースで流れていました。イランはアメリカ、イギリス、イスラエル、サウジアラビアなど多くの敵国を持っているようです。厳格なスンニ派のサウジアラビアと厳格なシーア派のイランですから、仲が悪くなるようです。

モフル


 イランではお祈りで平伏した時、おでこの位置にこの石を置きます。これはシーア派の特徴です。
 自分専用のモフルを持つ人もいますし、モスクのあちこちに置かれている公共用のモフルを使う人もいるそうです。
 ホテルの引き出しにもモフルが置かれていました。


 バーにはお酒がありません。従って誰も居ませんでした。


     

3日目(日) テヘランからシラーズへ。着後シラーズ観光。

 午前5時半、ホテルを出発しテヘラン空港に向かいました。
 テヘラン発7時25分の飛行機でシラーズに向かいます。
 空港でのトイレです。
 入ると洋服掛と荷物置き場があり、見ていると、現地の人でしょうか、無造作にジャケットを掛け、荷物を置き、トイレに入ります。もちろん見張り員は誰も居ません。なお、イランでは男性用のトイレはいわゆる女性用と同じで必ず扉があり、中には普通のトイレがあります。
 成田空港では、手荷物を必ず手元に置くようにとのアナウンスがあったことを思い出しました。
 治安がいかに良いか、これを見てわかります。
 


テヘランからシーラーズへ

 テヘランからシーラーズへのルート図です。飛行時間は1時間25分程度で、ザグロス山脈の上を飛んでゆきます。
 これは到着した時の男性用トイレです。
 必ず扉があります。中は普通のトイレです。


シラーズに到着

 シラーズは人口が約100万人の都市でザグロス山脈中の標高1,600mの高地に位置しており、四季を通じて気候は穏やかで、街にはたくさんの庭園があり、バラの町としても知られています。また、ワインの産地としても知られています。また、詩人と哲学の町でもあります。
 調べてみると世界のワインの生産量で第10位までには入りませんが、その近くにあります。
 ガイドさんの話によると、イスラム教徒はお酒を飲めませんが、約4割ぐらいの成人男性はお酒を自宅で飲んでいるそうです。
 世界的にも有名なワイン生産国ですから、それなりに飲む人もいるのでしょう。お酒は百薬の長とも言われますから。
 ここからはまた大型バスに乗り、そのバスでテヘランまで観光しながら戻ります。
 下の写真は町の様子をバスから撮ったもので、自動車修理工場などが並んでいました。


ナシールアルモスク (Nasir al- mulk mosque、Rose Mosuque)

 ガージャール朝の統治者 Mirzā Hasan Ali (Nasir ol Molk)の命令によって、1876年から1888年にかけて建てられました。現在も Nasir ol Molk寄付財団による管理下にあります。このモスクの寄進者はバラの生産により巨万の富を得たのだそうです。
 このモスクも一般的なモスクと同じような伝統的なイスラム建築要素を持っていますが、最大の特徴は美しいステンドグラスです。そのため、ピンクモスクとかローズモスクとも呼ばれています。たしかに、壁一面、バラの花が描かれています。


 次の目的地に向かいます。下の写真はバスから見た町の様子です。



サアディー廟

 ハーフェズとともに称賛されている抒情詩人サアディーの廟です。1291年に亡くなるまでの生涯で30年間も中東や北アフリカ、インドなどを放浪しました。
 70歳を過ぎてからシラーズに戻り詩集を発表しています。何ヶ国語にも翻訳されている傑作だそうです。
 現在の廟は、1864年に建てられおり、入り口にはサアディーの棺が置かれ、庭園にはペルシャ様式を表す糸杉が植えられています。
 



 廟の入り口にはサアディーの石棺が置かれ、その上にはサアディーの詩が刻まれていました。
 シーアーズは「詩と薔薇の町」と言われるのもわかります。



エラム庭園(世界遺産)

 ガージャール朝時代(1796~1925)、モハンマド・ゴリーハーンによって造られた庭園です。
 エラムとはペルシャ語で楽園を意味します。門をくぐると広いバラ園が続きます。2011年、世界遺産に登録されています。
 5月になると、園内一面、バラが咲き乱れるそうです。この時期でもわずかですがバラが咲いていました。
 園内には360種ものバラが咲くそうです。そしてイランはバラの生産地として良く知られ、ローズウォーターやローズオイルも世界中に出荷されています。
 縦が約300m、横が約200mとかなり広い庭園で宮殿はその中央にあります。


エラム宮殿

 バラ園を過ぎると19世紀に建てられたガージャール朝の代表傑作、エラム宮殿が現れます。この二階で王族が賓客をもてなしました。
 ペルシャで生まれた薔薇の香料は、あのクレオパトラも好んだそうです。



 再び、バラ園を通って戻りました。シラーズ大学が見えます。

 小高い丘の上にはシラーズ大学が見えます。
 イランでの大学進学率は日本よりも高いそうです。たくさんの学生で賑わっているのが想像できます。
 ただし、最近の若のもの就職率は多少悪くなっており、若者の不満が増えつつあるようです。


 街を歩いていると車の駐車には驚きます。パリの駐車もひどいですが、ここはそれ以上です。2重駐車もあれば、交差点の角に駐車している車もあります。
 女性ドライバーの多さにも驚きます。



 昼食ですが、毎回このような料理が出てきます。肉よりは野菜中心のようです。



アリー・エブネ・ハムゼ廟

 アリー・エブネ・ハムゼは、シャー・チェラーグ廟のセイイェド・アフマド・エブネ・ムーサーの甥で、建物もシャー・チェラーグ廟を小型にしたような感じの聖廟です。
 女性はヒジャブを借りて全身を覆う必要がありました。
 廟内に入ると、寄進者の名前が書かれた石の板が敷かれていました。
 その右側は、家族が集まって何かをする場所のようです。
 ある家族が食事をしていました。
 近づくと、ここに上がって一緒に食事をするようにと一生懸命、手招きで勧めてくれました。こちらの風習なのでしょうか。初めての経験なので驚きました。
 団体観光なので無理だと、丁寧に礼をして断りました。通じたかどうかはわかりませんが。


 庭一面に名前入りの石が敷かれていましたが、これがシーア派の特徴だそうです。すなわち、寄付をした人にはこのようにして礼をするのがシーア派の特徴だそうです。ただしお金持ちのためのモスクという意味も持っているようで、ガイドさんは多少批判的でした。


 内装は一面鏡モザイク張りです。

 

 隣の部屋では何人かが寝ていました。結構大きないびきをかいている人もいました。どうも、お参りするのではなく、休憩、睡眠をする場所のようです。



ハーフェズ廟 

 ハーフェズはイランで最も偉大で敬愛されている抒情詩人です。



キャリーム・ハーン城塞

 サンド朝時代、キャリーム・ハーンの居城として使われていた要塞です。四隅に円塔を持つ四角形で、中には大きな池を持つ庭があるそうです。中の見学はありませんでした。
 一隅の塔はだいぶ傾いていました。
 
 この城塞の衛星写真ですが、散歩したのはこの図の城塞の右下辺りでした。



ヴァキュールの市場

 まさに迷路です。内部の中央道路を見学した後は、自由時間でしたが、迷いそうで細かい道には入りませんでした。
 ザクロがいろいろな所で売られていました。ザクロという名はシーラーズが位置するザクロス山脈から来ているのだそうです。日本語でもザクロでなので、ザクロの名前はイランから来たようです。
 



 夕食はホテルでした。


     

4日目(月) ペルセポリス観光後、ヤズドへ

 朝食前、少しホテルの周りを散歩してみました。ゴミは全く落ちていません。夜中に掃除したのでしょうか。
 歩いて行くと、信号のない交差点を、車がぶつからないようにうまく通過してゆきます。片側の道路には、注意を示すわずかな段差が作られていました。



 朝食は毎日バイキングでした。ナツメヤシはこちらの名物のようです。


 シラーズの町の中央には大きな川がありますが今は水がありません。年間、2~3ヶ月ぐらいは水が流れるのだそうです。



コーラン門

 昔、シラーズの人々はこの門をくぐって旅に出ていました。
 旅の安全を祈願して門の上の小部屋にはキャリーム・ハーンによって造られたコーランが置かれています。そのためコーラン門と呼ばれるようになったそうです。
 門のそばに14世紀のイランの詩人 ハージュー・ケルマーニー像が立っています。


 コーラン門のすぐ近くにあるホテルです。シーラーズの町が一望できるそうです。面白そうなので写真に収めました。崖からは水が流れ落ちていました。
 ただし、勿体ないので流れ落ちた水をくみ上げて循環させているそうです。


 ペルセポリスへ向かいます。

 ペルセポリスはシラーズのホテルから約55㎞の距離です。途中、外を見ていると、すごい砂嵐に出会いました。
 左の地図を見るとペルセポリス周辺はシーラーズより緑が多いようです。


ペルセポリス

 イランを代表する観光地です。紀元前500年、これほど繁栄した都市があったのには驚きです。ペルシャ帝国の強大な力の象徴でもあります。 
 バスの駐車場から10分ぐらい歩きます。すると、ペルセポリスの入り口に着きます。
 ペルセポリス遺跡はイラン最大の観光名所のひとつで、中東の3遺跡、すなわち、ヨルダンのペトラ遺跡シリアのパルミラ遺跡とこの遺跡とです。
 ペルセポリスはペルシャ人の都というギリシャ語から来ています。
 宮殿の大きさは南北400m、東西300m、高さ12~14mの大きな基壇の上に広がっています。


ペルシャ帝国


 アケメネス朝ペルシャ帝国の図で、これはダレイオス1世(在位前521~前486)時代の帝国の領域です。オリエント全土を統一したのです。いかにのその勢力範囲が広かったかがわかります。
 当時、ここではゾロアスター教が信じられていました。一方、バビロンには多くのユダヤ人が住んでいましたが、ユダヤ教徒を迫害することはなかったそうです
 この帝国は23の州に分けられました。各州の長は情報を定期的にペルセポリスに送ることが義務付けられていました。
 ペルセポリスと各州との間には王の道と呼ばれる道路が築かれ、情報は素早く届けられました。
 帝国の経済を支えたのはカナートと呼ばれる灌漑施設です。当時のカナートは今も使われています。
 

  

 この宮殿群はダレイオス1世(紀元前550~486)をはじめ、アケメネス朝ペルシアの3代の王が60年かけて作り上げたものです。
 建設に着手したのは紀元前520年のことでした。これらの宮殿は背後の山裾の岩盤を利用して建設されました。
 古代ギリシャの軍人、クセノフォンの記録によれば、アケメネス朝の王は春3ヶ月間をスサ、夏2ヶ月間をエクバタナ、冬7ヶ月間をバビロンで過ごしたとあり、ペルセポリスは儀式用の都市であったのではないかと言われています。しかし、少なくとも創建当初にはペルセポリスで実際に行政活動が行われていたようです。
 都市の建設は、アルタクセルクセス1世(紀元前465~424)の治世前半まで継続して行われていました。この時期になると、王がこの都市に滞在することはほとんど無く、帝国の中心はスサに置かれていました。そして、ペルセポリスの主要な用途は帝国の新年祭を執り行う場であり、諸民族からの貢納を受け取り、アケメネス朝の王権が神から与えられたことを確認する聖域であったと言われています。また、天文観測所としての機能も持っていたといわれており、暦の制定に重要な役割を持ったと考えられています。時代を経るごとに、これらの儀式はスサやバビロンに移されて行きましたが、多くの財宝はここに保管されていました。
 アケメネス朝の政策は従わない属国には徹底的に攻撃を行い破壊する一方、命令に従い貢物を持ってくる属国に対しては友好的に対応し、生命、財産、宗教の自由などを認めることでした。そのため、領土は急速に拡大してゆきました。これはモンゴルのチンギス・ハーンの政策とよく似ています。
 ギリシャとペルシャという2つの文明が衝突し、この地は炎につつまれました。紀元前331年、アレクサンドロス大王の攻撃によってペルセポリスは破壊、炎上され、以後、この都市は今日に至るまで廃墟のままになっています。
 1979年ユネスコの世界遺産に登録されています。


 段差が約10cmとかなり緩やかな階段、左右どちらも111段あります。段差が低いのは、この宮殿に来る人は総じて高齢であったためと、馬に乗っても上り下りを容易にするためだそうです。
 現在は、階段の石を保護するためか、木の板で覆われていました。観光客の滑り止めにもなるのでしょう。
 今回の観光では下の写真の左側から登り、右側の階段を使って戻りました。



 砂漠の中の宮殿とはいえ、周りの平地にはたくさんの大木が茂っていました。



 階段を登ると、ペルセポリスの入り口にそびえるクセルクセス門が現れます。クスレクセス1世が建てたこの門は「万国の門」とも称され、控え間の役割も果たしていたそうです。万国の門とはあらゆる民族を受け入れるということを意味しています。高さは21mもありました。
 この柱の前には牝牛の像が、その後ろには人面有翼獣身像があります。
 こちらが人面有翼獣身像です。
 この通路は儀杖兵の通路と呼ばれています。



 さらに進むと、空を飛ぶ双頭鷲像が現れます。これはイラン航空のシンボルマークにもなっています。

 



百柱の間(王座の間)

 名前のとおり、かつては100本の柱を有したペルセポリス最大の広間です。クセルクセス1世が着工し、アルタクセルクセス1世が完成させています。当時は財宝を展示し、朝貢者に対して帝国の莫大な富を誇示していました。

 

 



アルタクセルクセス2世王墓

 王の墓が山の中腹に作られています。ゾロアスター教のモチーフが見えます。

 

 



アパターナ(謁見の間)

 ダレイオス1世の命によって建てられた豪華な宮殿です。属国からの使者との謁見や新年の祭儀のために使われました。高さ 2.6mある床には磨かれた石が敷き詰められ、水路の溝が当時の設備技術の高さを物語っています。
 アクメネス朝時代のペルシャのすべての属国から貢物を持ってくる絵が描かれています。いかに広大であったかがわかります。

 

 牝牛を襲うライオンのレリーフです。いろいろな解釈があるそうです。




 山の壁面に別の墓があるようです。すぐそばまで行けそうです。

 



ダレイオス1世の冬の宮殿「タチェラ」

 ダレイオス1世のプライベートの宮殿で、他の広間やクセルクセス1世の宮殿と比べるとかなりこじんまりとしています。

 


 謁見の間の別な方向に戻ってきました。 アバダーナの柱が並んでいます。



 入り口近くに戻ってきました。
 降りる階段は入る時の反対側を利用してみました。


 かなり緑豊かです。雨はほとんど降らず、川は干上がっていてもこのように木が茂っているのですから、灌漑設備がよほどしっかりしているのでしょう。衛星写真で見るとこの周辺には農地が広がっています。



ナグシェ・ロスタム

 ペルセポリスから約6㎞北東にある岩山に、アクメネス朝の王墓が並んでいます。
 墓の様式はペルスポリスのアルタクセルクセス2世と多少似ており、崖の壁面がギリシャ十字架型に彫り込まれています。
 入場券売り場です。



 衛星写真の方が良く分かりますが、この岩は広大な平地に面しています。この先、6kmの所にペルセポリスがあります。


 写真を左から順に並べてみました。同じような図形が並びますが、ほぼ同じ形をしたお墓が合計4つあることがわかります。
 十字架の形をしたお墓の中央に、入り口が作られています。


 お墓の上と下には彫刻が施されています。どのお墓もほぼ同じような図形です。
 上部には王の王座を臣民が支える「王座かつぎ」とゾロアスター教の最高神、アフラ・マズダのレリーフが刻まれています。
 墓の下部には馬上の騎士のレリーフが施されています。いろいろな歴史的物語から作られているそうです。



 墓の向かいにあるこの建物は、ゾロアスター教神殿として聖火を祀って来たと言われていますが、いまだ正確には謎だそうです。


 昼食はバイキングでした。食事は屋外で、池には大変勢いのある噴水が噴出していました。イランの典型的な料理です。



 バスに乗り次の目的地に向かうと、竜巻です。周りは砂嵐のようでした。



キュロス2世の墓

 場所はシーラーズの北東130㎞のバサルガダエにあり、かってそこはアケメネス朝の最初の首都でした。この墓は紀元前546年ごろにキュロス大王2世のもとで建設が開始されました。
 キュロス2世の死後はダレイオス1世に建設が引き継がれ、バサルガダエは都がシューシュに移動するまで栄えました。ここの標高は約1700mです。
 バサルガダエとはペルシャ人の本営という意味だそうです。お墓はピラミッド形式で作られています。



 今夜の宿泊地、ヤズドに向かいました。途中何度かトイレ休憩でした。途中、カナートらしきものが見えます。
 ヤズドに近づいたころ、夕焼けが見事でした。東からは満月の月が昇っていました。
 
 家内が一句作りました。「
テヘランの砂漠の民や冬の月」。



 ホテルに到着、食事はホテルでした。


      

5日目(火) ヤズド観光後イスファハーンへ

 イランのホテルでは総じてBBCなど、海外の英語放送を見ることが出来ました。中国では見られなかったのですが、そのような制限は無いようです。
 ホテルには、私が昔使っていたようなテープレコーダーやアンプなどが飾り物として置かれていました。我が家ではとうに捨ててしまったものですが、狭い我が家では致し方ありません。
 


ダフメイェ・ザルトシュティヤ (ゾロアスター教の墓場・沈黙の塔))

 高さ50mぐらいの円形の壁に囲まれた鳥葬のお墓です。1930年ごろまで、ゾロアスター教徒は、死ぬと鳥葬されるのが一般的でしたが、現在はイスラム教徒と同様、土葬されるそうです。
 丘を登るとヤズドの町が一望できます。



 死骸は中央のくぼんだ穴に置かれ、鳥がそれを食べる鳥葬の場所です。
 ゾロアスター教徒は火、水、土、風の4つを神聖なものとし、そのため、火葬や土葬を嫌って、鳥に食べさせた塔です。 



ゾロアスター教寺院(アーテシュキャデ)

 ゾロアスター教の創始者、紀元前600年ごろ、イラン東部で生まれたと言われていますが、はっきりはしていない様です。
 ゾロアスター教は拝火教とも呼ばれています。ゾロアスター教は火を神聖視するからです。
 イランで生まれた宗教ですが、イスラムの拡大により、住みにくくなったゾロアスター教徒は10世紀以降、インドのムンバイに移住し、イランでの信仰者は激減したそうです。 
 この寺院は、1934年、インドのゾロアスター教徒(パルシー)の手によって建設されています。
  正面上部にアフラ・マズダ像が飾られています。この像は、ゾロアスター教のシンボル的存在だそうです。手にする円盤は永遠の霊魂を象徴するもので、翼は霊魂が飛び上がり向上するのを助けるのだそうです。
 
 この寺院はヤズド市内のほぼ中心地にあります。
 ヤズドには約2万人のゾロアスター教徒がおり、ゾロアスター教寺院は18カ所もあり、イランの都市では最多の数だそうです。



 バスを降りてここから数百mですが小さい車に分乗し、マスジェデ・ジャーメに向かいました。



マスジェデ・ジャーメ(金曜日のモスク)

 14~15世紀にかけて建てられた寺院で、イランで最も高いと言われるメナーレは建造された当時のまま保存されています。イスラーム建築傑作のひとつです。
 



ヤズド旧市街

 このモスクに隣接し、旧市街が保存されています。
 ガイドさんによると、訪問者は右側のドアに付けられた丸い輪か、左側の棒のような金具を叩き、訪問を告げるのだそうです。女性は右側の円盤で、男性は左側の棒で叩きます。右と左では音が違うので、中の住人は訪問者が男性であるか、女性であるかを識別できるのだそうです。
 現在も、住民が住んでいるようですが、近代的アパートに比べ、生活環境はかなり悪そうです。
 屋上に作られた四角の大きな塔は、風穴だそうです。夏の暑い時には、空気の流通を良くして、室内を涼しくするのでしょう。
 この狭い道に車が入ってきました。運転していたのは女性でした。イランでの運転は、交差点に信号が無かったり、狭かったりと、とても運転する気にはなれませんが、スマホで話をしながら運転している女性をよく見かけました。イランの女性はたくましいようです。



 また、小さな車に乗ってバスに戻りました。



アミール・チャクマ-グ広場

 15世紀に建てられた寺院やバザールなどの複合施設です。ここはシーア派「十二イマーム」の3代目のイマーム、ホセインのゆかりの地でもあります。
 ホセインは預言者ムハンマドの孫で、ユーフラテス川近くのキャルバラーの野でウマイヤ軍と戦い戦死しました。
 戦死したホセインのシンボルともいえる高さ8.5mの巨大な木造のナフルです。彼が戦死したイスラーム暦1月にはホセインの死を悼む人々が集まり黒い布などで、これを覆い、祈るそうです。日本の神輿のような働きもするそうです。



 土産屋さんです。注文してから、別の窓口でお金を払い、また戻って買ったものを受け取ります。


 イスファハーンに向けて出発です。

 時々、緑の畑に出会います。どうやら、羊などの餌を育てているようです。
 イスファハーンに到着する少し前、トラックなどの車載物検査のため渋滞していると女性が寄ってきてお金をねだっています。
 ガイドさんによると、パキスタンから入って来た人だろうと言っていました。運転手さんとガイドさんが車から降りてお札を彼女に手渡しました。
 女性は当然のごとくお金を手に取り、お礼は全くしませんでした。風習の違いでしょうか。
 なお、イスラム教の教えでは、貧しい人が居れば施しをするのが習わしだそうです。
 運転手さんもガイドさんもその教えに従ったようです。
 もう少しでイスファハーンに入る前、トラックが横転していました。
 事故があっても不思議ではありません。とにかく乱暴な運転が多く見られます。


イスファハーンに到着

 本来なら明日見学すべき個所を今日のうちに見学するようにしたそうです。ガイドさんによると、明日は見学場所が多く、忙しいので今日のうちに観光をしておいた方が良いとの事でした。



ヴァンク教会

 町の中心から少し南西にあります。 
 1655~64年に建てられたアルメニア教会で、13あるアルメニア教会の中では最大だそうです。


 中に入ると、壁には「最後の審判」など旧約聖書の場面やアルメニア人にとっての聖人の画などが描かれています。



アルメニア博物館

 この博物館では、エスファハーンに移住してきたアルメニア人が如何にして進行と文化を守って来たかを伝えています。いくつものアルメニアン・バイブルや髪の毛に聖書の言葉がしっかりと書かれており、顕微鏡を使ってみることが出来るようになっていました。
 また、レンブラントが描いたアブラハムの鉛筆画が飾られていました。
 


アルメニア

 アルメニアについて調べてみました。
 1984年5月、NHK放送のシルクロード第二部、絹と十字架 〜コーカサスを越えて〜の中でも一部アルメニアについて描かれています。
 アルメニアは現在の人口が310万人の小国で、イランに接しています。
 アルメニアは紀元301年、キリスト教を国教と定めています。世界で一番早く国教と決めたことで知られています。
 コーカサスに位置するアルメニアは、小国であることもあり、幾たびもの戦乱に襲われています。
 ペルシャ、モンゴル、トルコなどの侵略により、350万人ものアルメニア人がエジプト、インド、ギリシャ、中国、アメリカなどに逃れてゆきました。現在のアルメニアの人口よりも多い人たちです。
 現在のイランにもたくさんのアルメニア人が住んでいます。


ハージュー橋

 イスファハンの中心部にはザーヤンデ川があり、幾つもの橋が造られており、人専用の橋が幾つかあります。
 この時期は水が少なく、川は干上がっていました。水が流れるのは年に2ヶ月程度だそうです。
 アッパース2世時代の1666年に完成しています。長さ133m、幅12mの橋で、2層構造になっており、橋の中央付近にテラスが設けられています。夏の夜に王がしばしば宴を催したそうです。
 橋の入り口に小さなライオンの像が置かれています。それにまたがるとたちどころに結婚が出来るそうです。



イマーム広場のライトアップ鑑賞

 明日、みっちりと見学するイマーム広場です。当時、イランの首都はここにあり、王はここに住んでいました。
 暗くてよく分かりませんが、とにかく広そうです。


バザール散策

 バザールは当時から経済の中心であり、品物を売る以外に、キャラバンサライと言われる隊商宿もあり、それが世界中との繋がりを保つ非常に重要な役割を果たしていました。
 すなわち、ここには王が住む宮殿と、宗教指導者がすむモスクと、経済の中心であるバザールがあり、政治、宗教、経済が一体となっていた場所でした。
 バザールはイマーム広場に隣接しています。30分ぐらい、各自、自由に散策でした。



ホテル

 ホテルは市のほぼ中央にあります。
 2連泊で、ホテルの名は 入り口には PARSIAN ALIQAPU HOTEL と書かれてありました。
 夕食はホテルでした。ホテルバーもありますが、お酒はもちろんありません。


      

6日目(水) イスファハーン終日観光

 いよいよイラン最大の名所、イスファハーンの観光です。  
 イスファハーンにはイラン高原最大の川、ザーヤンデ川の中流に位置し、「イランの真珠」とも例えられる古都で、たくさんの観光遺産があり、日本の京都を連想させます。標高は1,550m、人口は約160万人です。
 1597年、サファヴィー朝の王、アッバース大帝(一世)がこの地を首都と定めてから繁栄が始まりました。
 大帝は自らの基本設計のもとに都市計画を推進し、イマーム広場(旧シャーの広場)を中心に、宮殿や寺院、バザール、橋など壮大な街並みが作り出されました。なお、シャーは王を意味し、以前は「王の広場」と呼ばれていましたが、イスラム革命で最高指導者を意味するイマームが使用されるようになりました。
 絹の輸出を中心に経済も発展し、精密画やタイル美術、陶器など、ペルシャ芸術の開花を見せ、繁栄を極めました。そしてイスファハーンには世界の富の半分が集まったとも言われています。
 
 この図は16世紀のイスラムの世界で、いずれも強力な勢力を持っていました。
 イランのサファヴィー朝ペルシャは、西にはトルコを中心とするオスマン帝国が、東にはインドを中心とするムガル帝国に挟まれていました。
 この頃はすでにオスマン帝国とムガル帝国はスンニ派で、サファヴィー朝はシーア派になっていました。



 ホテルの近くを散策してみました。夜まくのでしょうか、芝や植木にはしっかりと水が浸み込まれていました。



マドラセイェ・チャハール・バーグ

 ホテルの近くに マドラセイェ・チャハール・バーグ というマドラセが見えます。
 神学校とマスジェドを兼ねた造りだそうです。ドームを修理中でしたが、如何にも美しい姿をしています。
 サファヴィー朝最後の王であるソルターン・ホセイン(在位1694~1722)の母によって建てられました。彼女は財源を得るため隣にカールヴァーン・サラーイを建て、その収益からマドラセの運営に充てていました。そのサラーイは現在アッバースィー・ホテルとなっているそうです。



メナーレ・マスジェデ・アリー


 イスファハーンで最も高いと言われるメナーレがあります。
 ここには行きませんでしたが、イマーム・アリ・広場からよく見えます。
 この塔はかって砂漠の中の道しるべとしての役割をしていたそうです。
 かって砂漠を旅する商隊にとって、この高いメナーレは命綱でした。


イマーム・アリ・広場



 有名なイマーム広場から東北部にあり、結構広い広場で、そのすぐ北には金曜日のモスクがあります。上の写真もこの広場です。

 


 建物の中を進むと、金曜日のモスクに出ます。
 下の右上の写真は、当時からある無料の飲料水飲み場だそうです。



金曜日のモスク  マスジェデ・ジャーメ(世界遺産) Masjed-e Jame

 金曜モスクとはその街でもっとも格式の高いモスクを呼ぶ名称です。
 このモスクや、それを前後する一連のモスクの建設によって、イラン型モスク、すなわち4つのイーワーンが中庭に向いて立つ様式が完成しました。
  私たちが到着するとまだ門が開いていません。本来なら開いている時間です。ガイドさんが係の人を探しに行きようやく開けてもらいました。イラン時間なのでしょうか。

 このモスクは、771年に創建され、その後火災で焼失しましたが、増改築が幾度となく繰り返されて来ました。
 イスファハーンでもっとも古いマスジェドです。そのためこのモスクの4面はさまざまな時代の様式で作られており、タイル様式などモスクの様式の変遷をまのあたりに見ることができるそうです。
 ドーム型天井には全部で484もの異なった建築様式が用いられています。
 
  

 


 ミナレットがあるのはこの門だけです。

  この衛星写真からも二本のミナレットが南西の方向にあります。
 



イマーム広場(世界遺産) 

 当時、ここにイランの都が作られ、王はここに住み、政治を行っていました。日本の徳川家康時代と同じ頃です。
 どこの国も同じですが、政権を維持するためには、経済の根源である収入が必要です。そして、その根源は農民による食物、綿花、絹など、農作物や製品でした。この砂漠地帯で豊かな農作物を作るためには水が必要でした。その為に造られたのが山裾から水を引くカナート(地下用水路)でした。バザールの商人たちは、自分で商品を作る工場を持ち、カナートも支配し、農民も支配していました。また、宗教家は、イスラム教徒からのお布施で潤い、王も商人らから税を徴収し、豊かな経済を作り上げて来ました。
 アッバース1世が1598年に建設に着手し、政治・経済・信仰のすべてが集約された最高の広場にしようと計画しました。完成するには、その後、数十年もかかったと言われます。
 左に見えるのが、アーリー・ガーブ宮殿です。これからその上に登ります。
 広場の西側のほぼ中央にあります。



アーリー・ガーブ宮殿

 1~2階はアッバース1世の時代に、バルコニーとその後ろの3~7階はアッバース2世の時代に造られました。イランで最初の高層建築です。
 王はこの館に住んでおり、式典やスポーツ、軍隊パレードなどをこのバルコニーから見下ろしました。
 真向いの黄色のモスクは著名な宗教学者のために造られたモスクです。
 すなわち、アッバース大王は、政治と宗教を融合させ、民衆を巧みに統治しようとしました。 
 きれいな模様を施された階段を登るとバルコニーに出ます。
 バルコニーは修理中でした。バルコニーの中央には池があるそうです。
 正面に見える黄色のモスクは、後に見学するマスジェデ・ジェイフ・ロトゥフォッラーで、すぐ上の青いモスクの写真は、後に見学しますがマスジェデ・イマームです。


 バルコニーにはペルシャ美人の絵が描かれていました。 



音楽堂

 音楽堂の壁面には楽器や陶器を置ける棚がたくさん作られています。天井の装飾的な穴は演奏時の音を吸収し、美しい音楽を聴けるように設計されたそうです。
 当時、この棚には楽器や中国から輸入された陶磁器が飾られていました。
 後にアッバース大王はそれらの品々をたくさんのモスクに寄進し、民衆からも大きな信頼を得ていました。 
  音楽堂に行くにはかなり狭い階段を登って行きます。3階から7階まで登るのですから、かなりきついです。


 途中、荒れ果てて居たころの写真が飾られていました。


 庭園の北の方向です。衛星写真からわかるように、この北の面と南の面の間にある池は、中央にあるのではなく、多少南側にあります。


 下の写真は池をぐるっと回ったときに撮ったもので、左上は先ほど見たアーリー・ガーブ宮殿で、右上の写真はこれから見学するマスジェデ・ジェイフ・ロトゥフォッラーです。
 黄色のドームが特徴で珍しい色のドームです。


 南側に青いモスクのマスジェデ・イマームが見えます。2本のミナレットが庭に面して立っています。その向こうにもさらに2本のミナレットとブルーモスクが見えます。



マスジェデ・ジェイフ・ロトゥフォッラー

 かっては、王族専用のマスジェド(モスク)で、アッバース1世の命によって建造されました。マスジェデ・イマームと並ぶサファヴィー朝建築の傑作です。
 建築の目的はレバノンの著名な宗教学者、シェイフ・ロトゥフォッラーを迎えるためでした。アッバース1世は後に彼の娘と結婚しています。アッバース大王の真の目的は宗教界との強い関係を作ることでした。
 王族だけが使用するマスジェドなので、こぢんまりとした造りになっています。中庭やメナーレがないのが大きな特徴です。
 シャーの妻たちは宮殿の背後にあったハラムから、他人に姿を見せることなく地下道を通ってこの寺院に通い、地下の間で礼拝をしたそうです。
 このマスジェドで特筆すべきはその美しいモザイク模様です。ドームの外部、内部ともに小さな彩色タイルをモザイク状に並べることでさまざまな柄を作り出しています。その精緻さからも、1601年の着工から完成まで17年かかったのでしょう。青を基調とする寺院が多い中で、ドームの外壁や礼拝堂内部には黄色を多用しており、あたたかな雰囲気を醸し出しています。内部から見たドーム天井の模様は、華麗な孔雀の羽を思わせます。寺全体がほぼ400年前のままなのには驚きです。

 
 
 光で天井が反射し、孔雀の羽を連想させます。


 見学して出てくるとたくさんの女生徒たちが見学に来ていました。修学旅行でしょうか。たくさんの生徒たちが、家内にサインを求めてきました。自分の名前を書いてあげると喜んでいました。なんとも子供らしいことです。
 何かはわかりませんがボランティア活動をしている人たちが写真を撮っていました。持っている布の反対側には英語でボランティア活動と書かれていました。
 



マスジェデ・イマーム

 アッバース大王が祈るために造られたモスクで、イスラーム芸術の集大成と言われます。シャーのモスクとも言われます。
 イスラム革命前は「王の寺院」と呼ばれていた壮大な寺院です。まさにイランのイスラーム芸術と寺院建築を極めたモスクです。
 アッバース1世の命を受けて1612年に着工し、完成したのは大帝の死後の1638年で、実に26年もの歳月を要しました。サファヴィー朝時代を代表する建築物と言えます。
 天井の鍾乳石飾りは実に見事。これは建造者のオスタード・アリー・アクバル・エスファハーニーが自費で建てたもので、完成に5年を有したそうです。
 入り口にはモザイク文字で、上段には大帝の名と完成年(1616年)が、下段には建造者の名が記されています。
 このエイヴァーンとメナーレは広場のための装飾的な門にすぎず、メッカの方を向いておりません。門をくぐり、短い回廊を抜けて中庭に出ると、45度斜め奥にメッカの方角を向いたエイヴァーンが現れます。この大胆かつ劇的な演出がこの寺院の名を世界的に高めているのです。
 この写真からも、マスジェデ・イマームがイマーム広場に対して45度傾いていることがわかります。
 
 振り向くとイマーム広場が見えます。


 ここから中庭に入って行きます。


 
 中庭に出ました。正面に2本のミナレットとブルーのモスクが現れます
 このモスクは現在修復中でした。17世紀以来、50年ごとにタイルの交換をしているそうです。また、イラン・イラク戦争ではイラクからのミサイルが当たり、ヒビも入っているそうです。モスクの直径は28m、高さは50mです。


 広場の中央から振り返ると、先ほど通って来たイマーム広場の2本のミナレットが見えます。ちょうど45度の方向にあります。



 いろいろな部屋があり、見学です。



中央礼拝堂

 エイヴァーンの奥には中央礼拝堂がある。7色の彩色タイルで覆われた天井ドームは息をのむほどの美しさです。このドームは外側のドームの高さが54m、内側は38mと二重構造になっており、そのため、かなり小さな音でもさまざまに反響し、建造物全体に反響します。
メンバル (階段状の説教台)で、位によって説教する場所が異なるのだそうです。



神学校

 マスジェデ・イマームの外に出ました。ここは17世紀に増築された神学校です。



 再び、マスジェデ・イマームに戻りました。

 本屋さんです。



 マスジェデ・イマーム広場に面して、職人街があり、いろいろなお店が並んでいます。一つのお店に入ってみました。


 団体で見学した後、40分ぐらいの自由時間があり、適当に歩いてみました。砂漠の中に造られた美しい庭園に感嘆せずにはいられません。



チェヘル・ソトン庭園博物館(世界遺産) 

 1647年、アッバース2世により建てられた豪華な宮殿です。チェヘル・ソトンとは40の柱という意味で、実際の柱は20本だが、正面の池に映る像を合わせて40本としています。柱には高価なレバノン杉が輸入され、使われています。
 宮殿内部は博物館となっており、壁に描かれているのは、戦いやおもてなしなどの絵だそうです。
 イマーム広場の少し西にあります。


 ここにも部屋の中に池が作られていましたが、水はありませんでした。


 ペルシャのお茶です。あめんぼうをお茶にいれかき回します。甘くておいしいお茶です。



ペルシャ絨毯

 ガイドさんが、希望者のみですが絨毯屋へ案内してくれました。時間があったので、私も行ってみました。行ったのは11名中、6名でした。ホテルから歩いて数分の所にあります。
 ガイドさんもいろいろと説明してくれます。ただし、10分もたたず、皆さん、説明中でも席を立って戻ってしまいました。私たちも、買う気持ちは全くないので、席を立ちホテルに戻りました。皆さん、旅慣れた人たちばかりで、もうあまり買い物はしないようです。


 ホテルの近くにライトアップされたスィー・オ・ス橋があると聞き、行ってみることにしました。

 歩行者専用のスィー・オ・ス橋が歩いて10分ぐらいのところにあり、行ってみました。
 途中、信号のない大きな交差点があり、渡るのに苦労しましたが、その交差点の中をローラースケートで悠々と走っている人や、5人連れの家族が悠々と横切っていました。
 


 川には水がありませんでした。観光客らしい女性の5人組がいたので、家内が適当に話を掛けたところ、一緒に写真を撮ることになりました。
 ウズベキスタンに行った時もそうですが、写真を一緒に撮るのが好きなようです。
 夕焼けが奇麗でした。


      

7日目(木) イスファハーンからバスでテヘラン空港へ、その後ドバイへ



 今日は最終日です。有料の高速道路に入りテヘランへ向かいます。



アブヤネ村

 イスファハンからテヘランへ向かう途中にあります。
 幹線道路から離れた川に沿って作られた村です。
 今回はアブヤネという村ですが、衛星写真を見ていると、これと同じような村が幾つもあることがわかります。
 赤いレンガで作られたきれいな村ですが、道路が狭く、住むには大変なようです。
 この村の主な産業は、絨毯、農作、牧畜だそうでう。
 


 猫が寄ってきてなにかおねだりをしています。たぶんペルシャ猫です。


 ロバにたくさんの荷物を載せています。狭い道での荷物の運搬には馬が必要なのでしょう。私の子供の頃も同じようにして荷物を運びました。


 バスはテヘランへ向けて再び出発です。

 時々、緑が現れます。



カシャーン フィーン庭園(世界遺産)

 カシャーンはテヘランとイスファハンのほぼ中央にあり、テヘランから220㎞ほど南にある都市です。
 イラン各地にあるペルシャ庭園は9か所も世界遺産に登録されており、この庭園もその一つです。
 フィーン庭園はアッパーズ1世(1571~1629)によって造られました。池と離宮と水路と糸杉がある典型的なペルシャ庭園です。ここにはヨーロッパに伝えた庭園の原点がたくさん残されています。
 ペルシャ庭園にはきまった形がありました。高い塀で囲まれた空間を十文字の水路で区切り、植物を植え分けました。これがペルシャ絨毯の原形になりました。そして、ペルシャ絨毯を見ていると、この世の楽園を想像するのだそうです。

 

 幾何学的に水路が作られ、自然の力で水が流れています。室内にも池が作られています。
 何人もの庭師がこの庭園を守っています。一番大切なことは早朝、芝生などへの水撒きです。大量に撒かないと芝生はすぐに枯れてしまいます。
 青々とした芝生は王侯貴族の最高の贅沢でした。
 この右側が博物館です。



博物館

 フィーン庭園の一部にあります。浴室や民族衣装、古い絨毯なども置かれています。縄で縛られた人も置かれていました。


 カシャーンの町並みの様子です。休憩所で、一人なんでも1杯の飲み物を飲めるとのこと、ノンアルコールビールを飲んでみました。

 休憩の時、ノンアルコールビールを飲んでみました。
 日本のノンアルコールビールに比べあまり美味しくありませんでした。



テペ・シアルク

 先ほど見学したフィーン庭園からカーシャーンの町に方に少し進んだところにある古代遺跡です。テペはペルシャ語で丘を意味しています。
 紀元前5~6世紀の貴重な遺跡です。人の骨などや陶器の破片が飾られていました。


 再び、テヘランに向かいます。


ショッピングモール

 最近、イランでもこのようなショッピングモールが数多く作られているそうです。トイレも立派でした。
 コムの町の近くにあり、テヘランから南に80㎞ぐらいで、郊外とは言えないほど離れています。旅行者のためのショッピングモールと書かれていました。
 



塩田
 
 バスの窓から白い線が見えます。塩田だそうです。直径が4kmぐらいあります。


イマームホメイニー国際空港

 空港はテヘランの南、20㎞ぐらいのところにあります。イランへの玄関口ですが、比較的小さな空港です。


 これからドバイに向かいます
 テヘラン発 20時05分、ドバイ着22:50のエミレーツ航空EK-0980便です。


     

8日目(金) ドバイから成田へ

 ドバイ発 午前2時55分、成田到着は午後5時20分、所要時間は9時間25分でした。
 
 今回の旅は参加人員がわずか11名と少なかったので、何かと便利でした。今年の7月、二人だけで参加したウズベキスタンの時は普通乗用車でしたが、大型バスにゆったりと乗れた今回のツアーの方が快適でした。
 今回の旅ではガイドさんからいろいろ教わりました。
 イランでのお祈りは1日3回であること、お酒を自宅で秘密に飲んでいる人がかなり多いこと、イラン人は心底、アメリカ、イギリス、イスラエルを嫌っていること。イスラム革命からすでに37年もたち、若い人たちには、服装に関する厳格な法律など、現在の制度に不満を持つ人が多くなってきていること、などです。
 今のイランは、他の中東諸国も同じですが、石油によって生きています。昔、地殻大変動により海底が徐々に隆起し、その時に分散していたオイルが一か所に集まって出来たのが今の油田です。そして、そこがたまたま中東でした。しかし、いずれそれが尽きることをそこの人たちはよく理解しています。そして、輸入している国も同じ問題に直面します。
 その時、私たちの子孫はどのような対応をして生き延びてゆくのか知る由もありませんが、人類の大きな課題であることは間違いありません。
 






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