京都今日庵訪問と、思い出のお寺散策
家内は現在、自宅でお花教室を開いていますが、お茶教室も開く予定にしており、それを記念し大徳寺の裏千家「今日庵訪問」という企画への参加を申し込んだところ、運よく抽選に当たり参加することになりました。
そろそろ紅葉の季節でもあり、清水寺、金閣寺、銀閣寺など、過去に何度か行ったお寺ですが思い切って今回はそれら有名どころを廻ることにしました。それらのお寺にもう一度と思ったのはたぶん、自分の年齢を考えて、これが最後かもしれないという思いもありました。それに京都にはまだまだ訪れていないお寺がたくさんあるので、今度来るときは電車を使用しようと思っています。
ホテルをいろいろ探したのですが、京都市内のホテルは取りにくく、大津市のJR瀬田駅前のビジネスホテルにしました。瀬田駅から京都駅まではわずか17分で京都観光には問題ありませんでした。ホテルの駐車場も隣接しており、駐車場の心配もありませんでした。 |
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1日目 午後4時ごろ自宅を出発し御殿場で一泊
午後3時ごろまで別用事があり、自宅出発は4時ごろで、御殿場のホテルに泊まりました。
2日目 御殿場から新東名を通り、京都伏見稲荷大社観光
朝早くホテルを出発し伏見稲荷大社に向かいました。
伏見稲荷大社
最近、外国人の京都観光での一番人気は伏見稲荷大社だそうです。まだ行ったことがないので訪ねてみました。
この大社は外国人のみならず、初詣の参拝者数では全国ベスト3に入るそうです。
奈良時代創建され、全国に3万もある稲荷神社の総本宮です。
稲荷とは稲が豊かに育つことを願って作られた神社で、稲荷神社には稲を食べてしまうスズメやネズミを駆除するキツネが飾られています。
この大社は1300年もの歴史を刻んできた神社ですが、室町時代の応仁の乱( 1467-1477年)で社殿など全てが灰になってしまいました。それから約20年後の1499年に本殿が再建され、現在の姿になりました。また、100年後の1589年、秀吉が病気平癒御礼の為、伏見稲荷大社に楼門の寄進を願い出ました。背後には稲荷山が控え、山全体にわたり稲荷信仰の聖地が無数に存在しています。
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伏見稲荷大社は京都府伏見区にあり、京都駅からJR線で2つ目、わずか5分の乗車で到着する場所にあります。
私たちは車なので駐車場を探したのですが、大社に所属する駐車場はありませんでした。そのため、大社から比較的近く、車が数台しか停められない小さな民間駐車場を利用しました。 |
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千本鳥居で有名な稲荷大社ですが、その鳥居は千本鳥居入り口から稲取山頂上まで続き、その上、登りと下りでは違う道があり、鳥居の数は数万に及ぶと言われています。
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近くの駐車場を探したところ、駐車場は無く、近くの民間駐車場に車を停めることになりました。そこから歩いて行くと神参道に出ました。予想通り大変な人出でした。
さすが稲荷神社です。油揚げやいなり寿司も売られています。 |
楼門
参道を出ると大きな楼門が現れます。この楼門は秀吉の寄進によって作られました。その高さは日本最大とも言われています。
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応仁の乱から100年後、戦国の世がおさまり豊臣時代となりました。その秀吉が伏見稲荷大社に病気平癒御礼のため楼門の寄進を願いでました。
この楼門(1589年、重要文化財)は高さが15mもあり、あでやかで天を衝く大きな楼門として人々を驚かせました。
この門は日本でも最大級です。例えば、清水寺14m、八坂神社 9.1m、日光陽明門 11.1m、下鴨神社 13m などと比べても異例の大きさと言えます。 |
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さらに階段を上ると右側に外拝殿が現れます。 |
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外拝殿
楼門をくぐると重厚な趣を見せる外拝殿(重要文化財)が現れます。
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稲荷大社の境内案内図ですが、鳥居はこの図の上部の熊鷹社から稲取山へと切れ目なく続いています。 |
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内拝殿
階段を昇ると内拝殿が現れます。
本殿のすぐ前に造られています。室町時代にはなかったものですが大規模な神事などを行うために造られました。流れるように優雅で美しい曲線美は平安時代に貴族が住んでいた様式で、現存する屋根では稀有なものです。
正面には白虎が2匹、彫刻されています。
いたる所に施された菊のご紋はかって最も格式の高かった官幣大社の証しです。 |
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本殿
内拝殿のすぐ後ろに造られた優美な屋根を持つ本殿です。
流れるように大きく屋根が付きだしており、片側が異様に長く、このような建築様式は流造(ながれづくり)と言われ参拝客の方に流れるように造られています。
本殿は奥行10m、間口11m と多少横長の作りです。
なお、上賀茂神社でも同じような流造りの神社を見たことがあります。 |
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さらに奥へと歩いて行きました。 |
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千本鳥居
千本鳥居の入り口に到着です。まさに異次元の朱色のトンネルの入り口です。
この鳥居の奉納は江戸時代後期に始まり明治以降商売繁盛の祈願のために増え始め、今も増え続けています。すなわち、庶民の祈りがこの素晴らしいトンネルをつくりあげました。庶民の願いを形にした鳥居です。
鳥居はもともと俗世間と神聖な場所との境界の役割を果していました。そして鳥居はご神木である杉の木が使われています。
この鳥居の色は特別な材料を使用し普通の朱色よりも明るい色をしています。そして製造する場所で3回塗られ、建てられてから2回塗られ、合計5回も塗られています。また、杉の木の腐食を防ぐ役割もしています。また、この色は悪魔が付かない魔除けの色だとも言われます。
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ここからは鳥居が2列あり、少しの間、一方通行になります。 |
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一方通行はここまででした。ここからは一列の鳥居が続きます。
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新池の近くに到着しました。池の周りには大小さまざまな鳥居が造られていました。
さらに登って行きます。ここで引き返す人はあまりなさそうでした。
振り返って下を見ると寄進者のその寄進日が書かれています。
大小無数の鳥居が続きますが、これら朽ちかけた鳥居、苔むした鳥居にも全て持ち主が居て、それぞれの祈りが込められています。まさに信仰が作り上げた小宇宙です。
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この先にも3の峰、2の峰、頂上の1の峰 へと続いています。
熊鷹社に着きました。まだまだ鳥居は続きます。1ノ峠まではさらに1時間程度かかるようです。
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疲れたので、このあたりで引き返しました。帰りは別の道で下ります。
来るとき通った外拝殿のある所に戻りました。同じ神参道を通り駐車場に向かいました。
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お土産屋には小さな鳥居やキツネが売られています。
外国人人気度三年連続第一位の幟がところどころに掲げられていました。 |
宿泊ホテル
JR瀬田駅前のビジネスホテルを取りました。3連泊の為、特別広い部屋を頼みました。
ちょうどミャンマーのスーチーさん京都に来ており、それが放映されていました。
3日目 清水寺、南禅寺、永観堂、銀閣寺、金閣寺などの観光
清水寺
最初に来たのは高校の卒業旅行でした。以来何度か来ています。ただ、前回は何時頃だったか思い出せません。かなり前になります。 |
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京都東山にある清水寺は国道1号線の近くにあり、ホテルから1号線を通り約40分で到着でした。
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午前9時前には到着したのでしたが、市営駐車場はすでに満杯でした。
そこから少し走るとかなり広い民間駐車場があり、そこに停めることが出来ました。 |
ホテルから清水寺へ行くには国道1号線を通ります。清水寺は京都東山にあり、途中、琵琶湖畔の橋を渡ります。
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清水寺(世界遺産、国宝)
音羽山から流れでる滝の元に、778年(奈良時代)に開創されました。
お寺の創建は平安時代初期で、嵯峨天皇から与えられた名は「北観音寺」でした。その後、何時しか清水寺と呼ばれるようになりました。その名は音羽の滝の清らかな水に由来します。
この寺は応仁の乱によりすべてが灰になってしまいましたが、乱の終了後わずか10年で再建が始まりました。最初に再建されたのが鐘楼で、その鐘の音は京都の人々にやすらぎを与えました。また、応仁の乱の100年後にはお寺が庶民の寄付、寄進により再建されました。
その後も大火・戦乱により消失と再建を幾度となく繰り返してきましたが、現在の清水寺が再建されのは江戸時代の1633年、今から380年前に建てられたものです。
その後、多くの困難にも遭遇し、明治の神仏分離令(廃仏毀釈)ではお堂が荒れ果て、雨の日は堂内でも傘が必要でした。そういった財政難のため多くの宝物をを売却したこともあったそうです。
金閣や銀閣、また、平等院など、当時、仏教は位の高い人たちのものでしたが、この清水寺は一般庶民に愛されていました。そして、流行、芸術、教育の場所でもありました。また、今でいう役所的な役割も果てしおり当時の人の生活の一部でもありました。また檀家を持たなく誰でもが参拝に来られるお寺でもあります。
昔からよく使う例えに、「清水の舞台から飛び降りる」という言葉がありますが、1633年再建以来 235件の飛び降り自殺がありました。
特に江戸時代に飛び降りた人がたくさんおりました。その理由は、仏に身を捧げるつもりなど、様々な理由がありました。 13mの高さですからビル4階建てに相当します。実際には、飛び降りた下は柔らかかったらしく、8割以上の人は命を落とさなかったそうです。明治5年に政府が飛び降り禁止令を出したことから飛び降りは次第に沈静化してゆきました。 |
門前町
早朝から大勢の観光客が押し寄せています。
仁王門
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清水寺の正門は仁王門、 幅10m、棟高14mの堂々たる大門です。
門の両側には口を広げた駒犬が両側から見張っています。そして、大きな声で仏教を教えているのだそうです。 |
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鐘楼(重要文化財)
江戸時代の初期に再建されています。
現在の梵鐘は2008年に寄進された5代目で「平成の新梵鐘」と呼ばれています。なお、4代目も厳重に保管されています。
この一代前の梵鐘は室町時代から530年もの間、鐘の音を響かせてきた「文明の梵鐘」です。
応仁の乱で寺は全焼しましたが、その翌年、最初に再建されたのがこの梵鐘でした。
清水寺の一日も早い再建を願い多くの庶民が寄付を願い出たと言われています。そして、この鐘の音が京都に住む庶民の心を癒して来ました。 |
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三重塔
高さ13mの三重塔は日本最大級です。創建された平安時代初期から京都東山を代表する塔です。 |
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本堂(国宝)
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本堂は国宝です。いわゆる清水の舞台です。切り立った斜面に建てられたおよそ13mの舞台は圧巻の建築技術によって作られています。
この舞台には400枚以上のヒノキの板が敷き詰められています。
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ここで舞を行い観音様に奉納しました。この舞台は京都の眺めを鑑賞するのではなく、観音様に舞を奉納する舞台でした。
この舞台は、ある程度の年月がたつと痛んでくるので、その都度ふき替えられています。それらの補修費用は庶民の寄付からでした。 |
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舞台そのものにも大きな工夫がされています。よく見ると雨水を流すために舞台は少し前に傾斜しています。 |
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本堂の外陣と言われ、ここで参拝します。
その奥には内陣があり、仏様はさらにその奥の内々陣です。
黄色の御前立仏の十一面千手観音像(秘仏)が安置されています。
御開帳は33年に一度だそうです。
またその後ろには国宝厨子が安置されておりまさに秘仏だそうです。
また、二十八武将も安置されています。
本堂が国宝に指定されたのは1952年、清水寺境内地も1993年に国宝に追加指定されています。
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子安塔
遠くに子安塔が見えます。高台にある少し小さな三重塔です。
子安塔内には子安観音が祀られ、安産を祈願する女性がたくさん訪れるそうです。 |
順路に沿って歩いて行きました。
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現在の本堂は380年前に建てられたもの、急な山の斜面に造られており、このような建築様式を懸け造り(かけづくり)と言われています。
太く立派な材木によって支えられている。日本最大の懸け造りです。
清水の舞台を支えるのは18本の欅の大柱でこの大柱を中心に継手という技法を使って横柱が格子状に組まれています。釘は一本の使われておらず、再建の度に同じ技術が継承されて来ました。木材でも密な格子状の造りのために地震にも強くなっています。むき出しの木材を雨水から守るため。雨水の滴るところには板状の子屋根を装着しています。 |
子安塔
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安産を願う子安塔です。多くの女性が訪れる場所です。 |
音羽の滝
後ろにある音羽山から滾々と流れ出る清らかな水が清水寺の由来になりました。流れ落ちる三本の水は、それぞれ 慈悲、利、知恵を意味するそうで、六根清浄・所願成就のご利益があるそうです。
古くはこの滝で身を清めた後、長い石段を登って本堂に参拝していたそうです。
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ここでもすでに紅葉が始まっていました。
門前町を通ってまた、駐車場に戻りました。
途中、茶具をを打っているお店がありました。お茶碗の値段は172万8千円と書かれていました。
東日本大震災での時、被害地の人が陸前高田の松の流木を大文字焼きの時に燃やし供養して欲しいと願い出たところ、放射能が怖いと言って京都市民が断ったという話は有名ですが、その木材で大日如来座像が造られ、沿道に飾られていました。
京都伝統工芸大学校仏像彫刻専攻科の学生たちにより作られ、高田市民と京都市民の手により清水寺本堂舞台に鎮魂と復興を祈願し奉納されたものです。 |
駐車場に戻り、次の訪問寺、南禅寺に向かいました。
臨済宗・南禅寺
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創建は今から720年前の1291年の鎌倉時代、亀山天皇の離宮として始まりました。
京都東山の静寂に包まれた禅宗寺院です。広大な敷地には塔頭(たっちゅう)と言われる小さなお寺が12もあります。
三門を過ぎると寺の中心である法堂(はっとう)、さらにその奥には国宝の方丈が続きます。
中国から日本に禅宗が伝わったのは鎌倉時代。なかでも南禅寺は格式ある禅宗寺院として京都五山(天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)の一番上の別格にランクされています。
更に室町時代には足利家第三代将軍義満によって京都五山、鎌倉五山の上に格上げされ臨済宗寺院最高峰となりました。
ただし、小説家、水上勉は、この本山ほど有為転変の地獄を見た寺はないかもしれぬ、と述べています。 |
亀山法皇(1249-1305)は皇位継承をめぐる戦いに心を痛め、この離宮で出家し法皇(ほうおう)となります。
ところがこの離宮に夜な夜な妖怪が法皇を困らせます。困った亀山法皇は無関普門に相談、普門は離宮に来て、規則正しい生活、座禅、写経に生を出すように指示します。そうすると妖怪と感じるものも一掃され元の清々しい生活に戻ったそうです。このことがきっかけとなり、禅に強い興味を持った法皇はその教えを実践する場として自らの離宮を寄進し、1291年南禅寺が開かれました。その後五山の上となった室町時代、南禅寺の境内には塔頭が60も並び、禅僧は何と1000人以上も在籍したとのことです。
ところが15世紀の応仁の乱で京都中が火の海となり、南禅寺のすべてのお寺が灰になってしまいました。
その160年後の徳川時代に写った1628年、家康の息のかかった崇伝の力により三門が再建されました。再建されたこの三門によって五山の上の格を再び手にました。再建では鎌倉時代の禅宗様式を確実に伝えています。
しかし、明治時代に入り廃仏毀釈運動が起こり、寺院や仏像は破壊され、南禅寺も江戸時代の半分になってしまいました。 |
普通車用の駐車場は数台しかありませんでしたが、運よく一台分空いていて停めることが出来ました。
ここも紅葉が始まっていました。門をくぐり中に歩いて行きます。
道を歩いて行くと左に三門が、右側には天寿庵の入り口があります。まずは天寿庵の見学から始めました。
天寿庵
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天寿庵には左の図のように正門と通用門の2つの入り口があります。正門の両側には、ちょうど楓が真っ赤になっていました。 天寿庵にはその少し右側の通用門から入ります。 |
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天寿庵の通用門を入ると立派なお寺が現れます。
1339年光厳源天皇の勅許により虎関師錬が南禅寺開山無関普門(大明国師)の塔所として建立しましたが応仁の乱で全焼してしました。
1602年、細川幽斎が再建しています。池泉を主にした庭と枯山水の庭があります。
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三門(重要文化財)
高さおよそ22m、入母屋造本瓦葺、二階建ての豪壮な門です。入場券を買うと二階に登ることが出来ます。かなり急な階段です。
三門とは、仏道修行で悟りに至る為に透過しなければならない三つの関門を表しています。すなわち、空、無相、無作の三解脱門を略した呼称です。 山門とも書き表され、寺院を代表する正門であり、禅宗七堂伽藍(山門、仏殿、法堂、僧堂、庫裏、東司、浴室)の中の一つです。南禅寺の三門は別名「天下竜門」とも呼ばれ、上層の楼を五鳳楼と呼び、日本三大門の一つに数えられています。
現在の三門は寛永5年(1628)藤堂高虎が大阪夏の陣に倒れた家来の菩提を弔うために再建したものであり、禅宗様式独特の圧倒的な量感と列柱群が力強さを示しています。
内部には立派な仏像が置かれており驚きました。山門楼上内陣の正面には仏師左京等の手になる宝冠釈迦座像を本尊とし、その脇士に月蓋長者、善財童士、左右に十六羅僕を配置し、本光国師、徳川家康、藤堂高虎の像と一門の重臣の位牌が安置されています。また天井の鳳凰、天人の極彩色の図は狩野探幽、土佐徳悦の筆とされています。
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法堂
法堂は、法式行事や公式の法要が行われる場所であり、南禅寺の中心となる建物です。
創建当時のものは、応仁、文明の乱で焼失しましたが、文明11年(1479)頃に復興されました。その後、慶長11年(1606)豊臣秀頼の寄進により大改築されましたが、明治26年(1893)の火災によって焼失しました。
現在の法堂は明治42年(1909)に再建されたもので、内部の須弥壇上中央に本尊釈迦如来、右側に獅子に騎る文殊菩薩、左側に象に騎る普賢菩薩の三尊像を安置し、床は一面の敷瓦となっております。屋根は林立する巨大な欅の円柱に支えられ、天井には今尾景年画伯畢生の大作と云われる幡龍が描かれています。
明治42年の創建以来80余年を経て、雨もりがするようになり、平成2年、開山大明国師700年大遠忌記念行事として、屋根茸替え工事及び敷瓦取り替え工事を行い、平成2年落慶法要が営まれました。
内部は非常に暗く良く見えませんが、天井の龍と書かれた板の左上にちょうど内部を覗くための小さな穴が開いていました。
皆さん、そこからカメラを入れ内部を撮っていたので私も撮ってみました。お陰で内部の様子が良く分かりました。
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水路閣
明治時代、京都の町の近代化や水不足を補うため、琵琶湖疏水の建設(明治18~45年)が始まりました。いくつものルートが作られましたが第一疏水は南禅寺を横切り、境内には赤レンガの巨大な建造物が作られました。廃仏毀釈の運動中ですら赤煉瓦づくりの水路が境内を横切り景観を損なってしまうことなど問題視はしていなかったようです。もっとも、地形的にみるとここを通る必要もあったようです。
ここに作られた水路閣は高さ9m、長さ93mのこのアーチ橋で作られており、水不足に苦しむ京都の町を潤しました。
それからおよそ130年、すっかり落ち着いた姿になっています。
平成19年、水路閣を含む琵琶湖疏水関連施設が近代化産業遺産に認定されています。
なお、この琵琶湖疏水を利用した蹴上発電所は日本初の事業用水力発電所で、その建設は、1980年に始まり1897年に出力1,760kWの発電所として完成し、水力発電所の先駆けとなりました。また第二疏水による取水増量や設備更新などにより蹴上発電所は1936年に出力
5,700kWとなり、日本の産業の近代化に貢献し、IEEE Milestone 賞を得ています。
この琵琶湖疏水は銀閣への続き、その水路に沿って歩道が造られ、哲学の道と呼ばれています。
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南禅院
ここは南禅寺発祥の地です。庭園は当時のおもかげを残し、鎌倉時代末の代表的池泉回遊式で、周囲を深い樹林で包まれています。
ここの庭は亀山法皇が作ったと言われ、京都の三名勝史跡庭園の一つに指定されています。
その後、南禅院方丈は、元禄16年(1703)徳川綱吉の母、桂昌院の寄進によって再建されました。
内陣中央には亀山法皇御木造(重文)が安置され、襖絵は狩野養朴とその子如川隋川の筆になる水墨画があります。庭園の東南隅には亀山法皇のご遺言により御分骨を埋葬した御廟があります。
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方丈(国宝1953年指定))
方丈とは寺の長が住む場所ですが、中に入ると細長い、いわゆる南禅寺方丈庭園が現れます。
この庭は江戸時代に活躍した天下一の造園家、小堀遠州(1579~1647)により作られました。遠州は幕府の茶道指南役として茶道会に新たな美学を打立てた人物としても知られています。
庭を真横から眺めると石が遠くに行くにしたがって小さくなっています。後ろの塀もそれに合わせて小さく作られています。遠州は細長い庭を広く見せるように工夫したのです。当時、すでに遠近法が外国からもたらされており、6つの石を配置し、横から見たときに奥行を感じるようにしています。塀も奥の方が微妙に低くなっています。正面から見た時も広く見せる工夫がなされています。塀や庭木を低く抑えてその向こうに見える景色を借景とし山をも庭の一部にしているのです。
残念ながら室内は写真禁止でしたが、きらびやかな120面もの加納永徳とその一門にによる襖絵が飾られています。これらの絵は家康の重鎮がその権力により、狩野派一門の名作や黄金の壁画など京都御所から持ってこさせたものです。ただし、本物は館内の国宝館に保管されているそうです。
狩野探幽(1602~1674)の襖絵もありそれは本物だそうです。それらの絵画などにより、五山の上に立つ寺としての面目を保ったとの事でした。 |
六道庭
昭和42年に作られた新しい庭で、苔の生い茂る枯山水庭園です。この庭には次のような解説がされていました。
「妙心庭」が心の庭であるのに対し、この「六道庭」は、六道輪廻の戒めの庭である。六道輪廻とは、天界、人間界、修羅の世界、畜生界、餓鬼界、地獄界の六つの世界を我々は生まれ変わり続ける、という仏教の世界観をいう。
一面の杉苔の中に配石された景石を眺めていると、煩悩に迷い、涅槃の境地に達することなく六道輪廻する我々凡夫のはかなさを思う。 |
さらに奥へと続きます。
ここにも小堀遠州の作庭があります。江戸時代初期の代表的な枯山水庭園として国の名勝に指定されています。
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本坊 大玄関
唐破風の大玄関で、特別な行事の時のみ使用されるそうです。この門を入ると左にて書院が配され方丈へと続いています。
永観堂
南禅寺のすぐそばなので、そこから歩いて来ました。遊心門をくぐるとそこは永観堂幼稚園でした。そこを通って永観堂に向かいました。歩いて行くと、永観堂
禅林寺の案内板が置かれていました。永観堂の見どころはみかえり阿弥陀如来ともみじのようです。
下の右の写真は頂いたパンフットの表紙です。もみじが素晴らしいのでコピーしました。
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永観堂 禅林寺
まだ2週間ほどもみじの盛りには早いようですが、それでも素晴らしい風景でした。
みかえり阿弥陀を拝むことが出来ましたが、写真禁止でした。 |
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山越阿弥陀図(国宝)とみかえり阿弥陀です。写真は禁止なのでホームページなどからの転記です。
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山越阿弥陀図(国宝)
死に行く者を浄土へと導くために現れた阿弥陀如来絵図で、鎌倉期の来迎図の傑作です。のちに応仁の乱で永観堂が全焼した時も寺の宝として守り継がれました。
阿弥陀如来が山を越えて現れるて来ます。そして、死に行く人が阿弥陀に行けるよう祈っています。 |
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みかえり阿弥陀
一躯像高 77cm
平安後期~鎌倉初期
永保2年(1082)、永観50歳のころである。2月15日払暁、永観は底冷えのするお堂で、ある時は正座し、ある時は阿弥陀像のまわりを念仏して行道していた。すると突然、須弥壇に安置してある阿弥陀像が壇を下りて永観を先導し行道をはじめられた。永観は驚き、呆然と立ちつくしたという。この時、阿弥陀は左肩越しに振り返り、「永観、おそし」と声をかけられた。永観はその尊く慈悲深いお姿を後世に伝えたいと阿弥陀に願われ、阿弥陀如来像は今にその尊容を伝えると言われている。
(永観堂ホームページより)
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池の方に向かいました。
再び、車を停めてある南禅寺の駐車場に向かいました。その時、三門の前を通りました。外国からの団体観光客がたくさん押し寄せていました。
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昼食は南禅寺のすぐ前になるおそば屋さんで、名物、にしんそばを頂きました。 |
哲学の道
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車を移動させ、銀閣寺の近くの民間駐車場に停めて歩いて行くと、哲学の道に出ました。南禅寺からこの銀閣寺をむすぶおよそ2kmの道が哲学に道を言われています。
以前、出張などで関西に来たときは京都に立ち寄り、南禅寺から銀閣寺までよく歩いたのを思い出します。
この道は先ほど南禅寺で見た琵琶湖疏水の流れ道に沿って作られた歩道で銀閣まで続いています。
京都大学の哲学者 西田幾太郎(1870~1945)がここを歩きながら思索にふけるのを好んだことから哲学の道と呼ばれるようになりました。
西田幾太郎は独特の哲学を提唱したことでもよく知られています。
哲学の道にはたくさんの桜が植えられ、春には大変賑わうそうです。 |
銀閣寺道
ここにも、にしんそば屋さんがありました。通りはかなり賑わっていました。
東山慈照寺(銀閣寺)
銀閣寺の正式名称は東山慈照寺で、地図などにはその名が記されています。
創建は、今から530年ほど前にさかのぼる室町時代の1482年です。
八代将軍、足利義政(1436~1490)は若くして13歳の時に将軍になりました。当初は良き将軍になろうと意欲的でしたが、すでに足利将軍の力は弱くなり、大名たちは義政の言葉に耳を持たず何一つ意のままにはなりませんでした。政治に嫌気をさした義政は子供が居なかったため将軍職を弟、義視(よしみ)に譲ろうと画策しましす。しかし、妻富子との間に息子義尚(よしひさ)が生まれます。
跡継ぎを決めるにあたって弟・義視と息子・義尚を将軍にしようと、日本国中の有力大名が跡目争いに参加し、1467年、「応仁の乱」が勃発しました。全国の大名が東西に分かれ、28万もの軍隊が京都で激突し、その戦いは10年も続き、京都の神社仏閣は次々と焼かれ、略奪が横行する地獄絵図状態になってしまいました。その光景を目の前にしながらも、なすすべのない義政は応仁の乱の終了後、情熱をかかげたのが自分だけの住処を作ることでした。そして造られたのが慈照寺でした。義政には政治の才脳がなかったのですが、芸術をこよなく愛し、和歌を詠み月を愛でるの好きでした。
義政は完成前からそこに住んでいましたが、1440年、銀閣(観音殿)の完成を待たずにこの世を去りました。享年55歳でした。その2年後の1482年、この銀閣が完成します。この銀閣は金閣を参考にして作ったと言われています。確かに金閣によく似ています。
室町時代、一番豊かだったのは3代将軍足利義満(1358~1408)の頃で、金閣寺が造られた頃でした。いわばバブルの絶頂期だったようです。それから数十年経つとバブルは崩壊し都は不景気に襲われ、足利義政の時代には大名たちの不満が高まり、将軍の権力は地に落ちて行きました。
義政の死後、戦国の世、すなわち下剋上の世になってきます。権力がほとんどなくなった12代将軍足利義春は都を追われ銀閣寺のだいぶ後ろに作られた中尾城へと移ります。しかし、その後、この城に籠った義春の子供13代将軍義輝を戦国大名三好長慶が2万人の兵力で攻め入ります。(1558年如意ヶ岳の戦い)、兵力には格段の差があり、銀閣寺一帯は戦火に囲まれ、三好軍は略奪の限りを尽くしたと言われます。そして銀閣寺も焼け落ちてしまいました。義政の死から68年後のことでした。また、大規模な土砂崩れなどもあり、池は土砂で埋まったと言われています。
1615年、徳川家康が銀閣寺の再建を命じ現在の銀閣寺が造られました。
江戸時代半ば、天下泰平の時代、旅行が大いに盛り多くの観光客が京都を訪れるようになりました。銀閣寺はそのころから住む場所から観光の場所へと変化して行きました。
なお、銀閣と呼ばれるようになったのは江戸時代からだそうです。
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銀閣寺は東山の五山送り火大文字で有名な山の麓にあります。
また、銀閣寺の後ろに13代将軍義輝が籠った中尾城があります。 |
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銀閣寺垣
銀閣寺垣といわれる清々しく背の高い常緑樹の垣根です。左側には竹の垣根が添えられています。
ここで俗世の塵を落とすのだそうです。
江戸時代になってから作られました。
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門を入るとすぐに見えるのが白砂の庭です。
更に門をくぐると突然現れるのが銀閣と呼ばれ親しまれている観音殿です。錦鏡池(きんきょうち)と言われる池のほとりに建てられた簡素な二層の建築です。銀は一切使われず、漆が塗られています。
一階は座禅を組むために造られています。また、心空殿と言われる広い縁台が見えます。ここに座って東から登る月を眺めたそうです。二階は潮音閣(ちょうおんかく)と呼ばれ、現在修理中ですが廊下には中国風の欄干が造られ、また、丸みをおびた花頭窓(かとうまど)を持ち天井と壁面には漆が施されており、中央には観音像が鎮座しているそうです。見学は出来ません。
また、向月台(こうげつだい)と言われる高く盛られた砂と銀沙灘(ぎんしゃだん)と言われる白い砂が現れますが、何時、誰によって作られたのかは分からないのだそうです。18世紀の後半に描からた絵図にはこのような図が描かれているそうです。
この大量の砂は、池に流れ込む自然の砂をすくって貯めて来たものだそうです。
銀閣の壁には、昔から銀は使用されておらず、白土という白い土が塗られたいたそうです。このような白土が用いられた例はかってないそうです。この白土は2008年の大修復による壁面の成分分析で分かったそうです。
この庭は専属の庭師によって月に2度ほど手入されます。向月台は砂と水だけで作られます。世界中歩いてもこのような形は無いそうです。
月を鑑賞するために造られたとか、わびさびの象徴、東山文化の象徴としてその姿を今に伝えています。
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この庭はまるで現代美術のようです。どのような形にも変えられる砂を使ってこのような庭を造った当時の芸術性の高さには驚きです。 |
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東求堂(とうぐどう・国宝)
下の写真は国宝・東求堂です。写真をよく見ると東求堂と書かれているのがわかります。
写真からも分かるように、東求堂は四角で一辺が三間半です。計算してみると24畳半になります。内部は見えませんが、4室に分かれ、床が板敷の8畳の仏間、他は畳敷きで4畳の間、6畳の間、同仁斎と呼ばれる4畳半の書斎があるそうです。これらの部屋は襖で仕切られており、その他、義政の死後作られた出家した姿の木像が置かれているそうです。また、床の間などもあります。それらを全て入れると24畳半になるのでしょう。
屋根は檜皮葺(ひわだぶき)です。優美な曲線と軒の深さが目を引きます。このような造りを入母屋造(いりもやづくり)と言うそうです。阿弥陀堂でありながら住宅のようです。
義政はその書斎を「同仁斎」と名付けました。同仁斎の名の由来は一視同仁という言葉でからで一視は同じように見ること、同仁は全てを同じように慈しむ事で善も悪も、そして政治も文化も同じだという願いからこのように付けたと言われています。
この義政の書斎は、書院造の源流になったと位置付けられています。
窓を開けると外の景色が掛け軸のように見えるそうです。窓辺には歴史ある文具が置かれているそうです。茶道具も置かれており、茶室の始まりだとも言われており、四畳半の作りもここから始まったと言われています。
このような座敷が出来たことにより、茶道、華道、お香など様々な文化が誕生して来ました。義政は同仁斎で至福の時を過ごしたのでしょう。
この間から日本人独特のわびさびの美意識も生まれてきたと言われています。
義政が創造した美の世界は後に「東山文化」と呼ばれるようになりました。日本人の美意識の源流でもあります。
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東求堂のすぐそばには清水が流れ出しています。
当時からお茶会の時はこの水を使用し、今もお茶会の時はこの水を使用するそうです。 |
錦鏡池(きんきょうち)
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この池は錦鏡池と言われ、銀閣から東を見ると登る月が池に写って幻想的な輝きをもたらすそうです。
義政は月をこよなく愛し、茶を愛でたそうです。
義政の歌った歌に
「わが庵は月待山のふもとにてかたむく月のかげをしぞ思ふ」
というのがあります。 |
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方丈(本堂)や、東求堂が見えます。ここの後ろは月待山です。 |
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銀閣を眺めるために作られた道を登ります。
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さらに歩いて行くと銀閣寺の近くに出ました。ちょうど修理中でした。たしかにだいぶ傷んでいます。
この白い独特な窓は花頭窓と呼ばれるようです。中国からもたらされた様式です。
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坂を下り駐車場に向かいました。 |
鹿苑寺(ろくおんじ)(金閣寺)
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金閣時は京都の北側にあり、北山殿と呼ばれていました。
明日訪れる大徳寺はこの近くにあります。
広い敷地全体を金閣寺(正確には鹿苑寺)と呼び、建物の名が金閣です。 |
武家政治を進める初代将軍足利尊氏と公家政治に戻そうとする後醍醐天皇らが戦い、約60余年に渡り朝廷が二つに分かれ戦ったいわゆる南北朝時代に幕を下ろし、その統一に成功したのが第三代将軍足利義満(1358~1408)でした。1392年、義満33歳の時でした。動乱が終わり、義満が京都室町に御所を造営しそこに住むようになってからは、足利将軍を室町殿と呼ぶようになり、後に室町時代と呼ばれるようになりました。この室町時代で最も力を持ったのはこの三代将軍足利義満でした。統一に成功し絶大な権力を手にした義満は、1397年、政治的機能を持った将軍の屋敷 北山殿(きたやまどの)を造営します。その広さは京都御所にも匹敵する広さでした。その中心が金閣でした。義満はこの金閣に天皇をはじめ、諸大名など重要な客を招き、何日も続く宴を催しました。当時、三階建は珍しく、上から見る庭園は最高の贅沢だったでしょう。
しかし、建設の目的は単なる贅沢趣味ではなく大きな野望を持っていました。義満が信念を持って取り組んだのが中国(明)との関係強化でした。この頃中国では「元」が滅び、「明」が建国され、国交を結んだ国には莫大な銅銭を与えていました。一方、支配を固めた義満は明の使者を招き、自分が日本の権力者であることを示そうとしました。
1402年皇帝の謹書を携えた明の使節団が義満のもとにやってきます。金閣を目の当たりにした使者はその華麗さにさ驚き、貿易相手と認め、莫大な銅銭を義満に与えました。義満は盤石な財政基盤を築きましたが金閣は義満の威信をかけた迎賓館でもあったのです。
義満は北山文化の発展に大きく寄与し、祭りなど華やかな文化が開花し、また、和の心など精神的文化も残しましたが51歳で亡くなり遺言で鹿苑寺を禅寺とするようにと残しています。
足利将軍は15代まで続きますが、12代将軍の頃から戦乱の世となり、15代将軍は信長に殺され、室町時代は幕を閉じました。
1950年7月2日未明、金閣寺は放火により焼失してしまい、今の金閣はその後建て直されました。そのため金閣自身は世界遺産にはされず、庭全体を含めた鹿苑寺が世界遺産に指定されています。 |
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私営の小さな駐車場を見つけ、そこから歩いて金閣寺に向かいました。 |
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とにかく大変な人出でした。池の前に立ちじっと金閣を眺めているわけにはゆきません。 |
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回遊式庭園とはいえ、観光客はここで行きどまりです。 |
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金閣を見ることが出来る場所は図の赤丸からで、見学順路はそこから左回りに回ります。従って、金閣寺を正面から見ることは出来ません。
図からわかるように池の中央には結構大きな島があります。
池は海を意味し、島は日本を意味するのだそうです。
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ちょうど西日があたり、金閣が輝いています。久しぶりに見る金閣ですが、見た瞬間、身震いを感じました。室町時代の美意識にただただ感動です。金閣と池との調和した美しさに言葉もありません。
金閣は舎利殿と呼ばれる釈迦の遺骨を祀るお堂で、上の階から三層、二層、一層と呼ばれます。現在、一層には2つの像が安置されています。金箔は三層と二層にだけ施されています。
屋根の上には金色の鳳凰が取り付けられています。この鳥は古来中国では権力のある支配者が現れた時に出現すると言われていた鳥です。
最上階の内部も金箔で覆われており、お釈迦様のお骨が祀られているそうです。
一層は貴族風の寝殿造、蔀度(しとみど)という平安貴族が好んだ戸が使われています。二層は引き戸で武士の家でよく使われている書院造、武家造で、三層は丸みを帯びた花頭窓(かとうまど)をもち、中国の禅宗風唐様造です。これら3つの建築様式が見事に調和しており、金閣は仏教文化、武家文化、公家文化の三つを併せ持つ建物だそうですが、寺全体がお釈迦様の教えを伝えるように出来ています。
池には大小いくつもの島や石が置かれています。池の名は鏡湖池(きょうこち)と名付けられていますがまさに鏡のようです。
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金閣の一層を拡大してみると、遠くてあまりよく見えませんが2つの像が安置されています。出家姿の足利義満の木像と釈迦如来像座像です。
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観光の順路に沿って池を左回りに回りながらお寺を眺めて行きました。
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金閣寺の舎利殿(金閣46坪)は1950年7月2日未明、同寺の見習い僧侶により放火され、足利義満の木像(当時国宝)などを含めすべて焼失してしまいました。私が小学生の時でしたが大きなニュースであったのを覚えています。その僧侶は牢獄の中で病死し、母親は自殺しています。これらから幾つもの小説が作られています。
幸い、明治の大修理でその構造などは良く調べられており、消失から5年後の1955年に国や京都府の支援および地元経済界からの浄財により再建されています。再建にあたっては、消失前の姿ではなく、建設された当時の姿に戻す方針がとられ、現在の金閣が作られました。消失前の金閣は金箔がほとんど剥げ落ちていたそうです。
その金閣も30年による雨風や日光によりかなり傷んできて金箔も色褪せがひどくなったため、1987年に再び修復されています。その時、下地の漆をすべて塗り替え、使われた漆の量は、その年の日本の総生産量の6割にも達したそうです。修復に使った金箔は普通の厚さの5倍にし、総量20㎏、20万枚にも達したと言われ、その修復費用は7億4千万円だったそうです。 |
4日目 大徳寺と東福寺観光
龍王山 大徳寺
今日は家内の京都訪問の目的、「今日庵訪問」企画の日で、集合場所は大徳寺でした。大徳寺の聚光院を見学し、その後、今日庵に行くのだそうです。 |
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大徳寺
京都市の北部に位置し、創建700年の臨済宗大徳寺派の総本山です。
広い寺域に別院二カ寺と21の塔頭(寺院)を有しています。
鎌倉末期に大燈国師により開創され、応仁の乱で建物は焼失したが、一休さん」として親しまれている、47世住持「一休宗純」が豪商の保護を受けて復興し、その後、豊臣秀吉ら諸大名から建物などの寄進を受け、江戸時代初期には、現在の建物のほとんどが整えられました。
三門、仏殿、法堂が一直線に並び、禅宗の典型的な伽藍配置をしています。
ここは織田信長、千利休、豊臣秀吉など、名だたる戦国の権力者たちが関わり壮絶な戦いの舞台になった寺でもあります。
よく知られた沢庵和尚(1573~1645)も第153世大徳寺住職となっています。沢庵の言葉「この世を夢と観じなされよ」は沢庵が徳川家光に安らかな心を持つように説いた言葉です。
大徳寺は、茶祖村田珠光、千利休など多くの茶人の帰依を受け、茶道とのかかわりが深く、この開山忌では、表千家、裏千家、武者小路千家の三千家が、毎年持ち回りで「献茶式」をおこなっています。
このお寺は1582年、秀吉が信長の葬儀を行った場所としても有名で、そのお墓も作られています。
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勅使門から参道を進むと山門、仏殿、法堂が並んでいます。
山門(金毛閣)
この門は私たちになじみのある一休禅師が応仁の乱で破壊されたのを修復したものですが、この二階部分を増築したのが千利休でした。その際、利休が「雪駄履きの自分の木像」を門の上に置いたのです。それが利休の切腹の一因ともなりました。「高貴な人も通る場所の上に雪駄を履いた像があるとは。わしがこの門をくぐる時は、お前の足の下を通ることになるのだな」、と秀吉が激怒したのです。これは大徳寺山門の彫像事件(1589年)と言われ利休への不信感が膨らんでいた時です
実際には、ここに利休像を置こうと主張したのは古渓宗陳(こけいそうちん)という大徳寺の名僧や利休を尊敬していたお弟子さんたちで、大徳寺の再建に多大の寄進をした利休にお礼をしたかったからでした。
しかし、利休が切腹に追い込まれた理由は、他にも、次第に利休の政治的影響力増大してきたこと、秀吉が利休の娘を側室にしようとするが断ったこと、価値のない茶道具を高値で売ったこと、朝鮮出兵に異を唱えたことなどいろいろあるようです。
秀吉は、利休の切腹後、その木像を引き下ろすや一条戻橋に磔にし、利休の首をその木像に踏ませる形でさらさせたと言われています。
なお「金毛閣」とは金毛の獅子となって、すなわち立派な禅師となって、人を救う側の人間になるようにという意味があるのだそうです。
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高桐院
家内も集合時間までにはたっぷりと時間があるので、このお寺だけですが、一緒に見学しました。
高桐院には戦国時代に智将として名を馳せ、茶人としては利休七哲の1人として知られる細川忠興(三斎)が父・細川藤孝(幽斎)のために慶長7年(1602年)建立した寺で、玉甫紹琮を開山としています。玉甫紹琮は幽斎の弟で、三斎の叔父にあたります。創建については慶長6年(1601年)とも言われます。
正保2年(1645年)に83歳で没した忠興は、遺言によりその遺歯が高桐院に埋葬され、以後細川家の菩提寺として庇護されています。
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通称「楓の庭」と呼ばれる簡素ながら趣のある庭で、一面の苔地の中に数株の楓のみ植わっています。庭中央に鎌倉時代の石灯籠が据えられていいます。
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墓所
細川忠興(三斎公)および奥方ガラシャ夫人の墓などがあります。
本堂
家内とはここから別行動です。
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家内は「今日庵訪問」企画に参加するため、ここから別行動となります。
家内はまず聚光院を見学し、今日庵でお茶の研修を行い、その後、一人で池坊の六角堂を訪ね、ホテルに戻る予定です。
私は、大徳寺の他のお寺を見学し、電車で東福寺に行き、そこを観光後ホテルに戻る予定です。 |
聚光院
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私も聚光院を見学しようと思ったのですが、案内者が付くグループ見学方式で、次の見学は午後との事、残念ながら中止しまし、黄梅院・興臨院・総見院の3ヶ寺共通拝観券を購入し、3つの院を見学することにしました。 |
この寺で戦国の世に寵愛されていた絵師が活躍していました。狩野派の天才絵師、加納永徳(1543~1590)です。三好家の依頼で狩野松栄・永徳親子が方丈の障壁画を製作し部屋全体の襖には花鳥図が描かれています。花鳥図と言えば四季が描かれるのですが、この絵には夏がありません。しかも季節の配置もバラバラです。この構図は利休の案が取り入れられていると言われています。また、我々が良く見る織田信長の像は加納永徳により織田信長の三回忌に描かれました(1584年)。秀吉は信長の三回忌を主催し、永徳に信長の肖像画を描かせたのは信長の後継者としての正当性を名だたる武将たちに認めさせることでした。
加納永徳は秀吉の威厳を最大限の表現するため大阪城や聚楽第などの障壁画を一手に引き受けます。一方、信長の茶頭であった利休も本能寺の変の後は秀吉に仕え3000石の禄をたまわります。聚光院の庭は千利休が永徳の下絵のもとに作成したそうです。
そこに、永徳のライバル長谷川等伯(1539~1610)が現れます。等伯は1590年、京都御所の障壁画を描く権利を獲得しますが、永徳はその政治力を利用し、障壁画の権利を等伯から奪い取ります。利休はそれを汚い行為だと等伯をなじり二人の仲は冷めて行きました。
絢爛豪華な絵を得意とする永徳に対し、わび茶を好む利休は、淡い絵を得意とする長谷川等伯を好んだようです。
永徳を好んでいた秀吉は次第に利休を疎ましくなってきたようです。心労と過労が原因と言われていますが永徳は48歳で急死(1590年)してしまいます。その翌年、秀吉は利休に切腹を命じました。永徳が亡くなって一年後のことでした。
以上のごとく、聚光院は大徳寺を代表するお寺なので、以下は、家内が見学した時、貰って来たパンフットのコピーです。
聚光院は千利休の菩提寺ですが、京都国立博物館に寄託していた狩野永徳とその父、松栄による本堂障壁画46面(全て国宝)が9年ぶりに里帰りし、ここ聚光院で一挙公開。また、2013年の書院落慶に合わせ奉納された、現代日本画のトップランナー、千住博画伯の障壁画『滝』が一般初公開されるほか、表千家7代如心斎が千利休150回忌に寄進したとされる茶室「閑隠席」(重文)などが公開されます。そのため、2016年に創建450年を迎えるこの聚光院が3月から1年間、特別公開されます。
ここ聚光院は三好家が信長に滅ぼされると千利休が自らの菩提所としたことから、表千家・裏千家・武者小路千家の三千家の代々の墓所ともなっています。また、信長に滅ぼされた三好長慶(1523~1561)の墓もここにあります。
下の写真は家内が見学した時に頂いたパンフレットのコピーです。院内は写真禁止だったそうです。
より詳しくは聚光院のホームページ、 http://kyotoshunju.com/?temple=daitokuji-jukoin に出ています。
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家内が聚光院の見学後訪れた場所です。ここでお茶の研修とお茶会が開催されました。
南禅寺から比較的近くにあります。
今日庵は千利休から家督を継いだ本家の表千家のに対し、通りから見てその裏にあるので、裏千家と言われる茶道流派の庵です。その茶室・今日庵は裏千家を意味しています。現在は日本最大の流派だそうです。
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六角堂
家内はその後、一人で六角堂を見てきたそうです。
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六角堂はお花、池坊の発祥地で、この付近には華道に関するお店屋さんがたくさんあるようです。 |
家内と別れた後、私は黄梅院・興臨院・総見院 三ヶ寺共通拝観券を購入し、3つの院を見学することにしました。
興臨院
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室町期の建築様式の特徴を見せる本堂(重要文化財)や唐門を持ちます 豊臣政権の五大老を務めた前田利家が本堂屋根を修復し、また菩提寺とするなど前田家とも非常に縁の深い寺院です。
優美で安定感のある姿が静寂と落ち着きを感じさせる本堂や、「昭和の小堀遠州」とも言われた作庭家、中根金作が復元した方丈庭園を持つこの寺院が特別公開されていました。 |
本堂
桃山時代以降、近世の方丈(本堂)建築様式を取り、、屋根が低いのが特徴です。これによって建物全体が安定感を持ち、優美さが感じられます。 |
方丈庭園
白砂に石組みを配して理想の蓬莱世界を表しています。本堂の解体修理時に、資料をもとに昭和の小堀遠州と言われる中根金作氏が復元しました。
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黄梅院
ちょうど秋の特別公開中でした。
千利休の作った庭で有名ですが、境内は写真禁止でした。下の写真はすべて門の外です。立派な苔には驚きです。
お寺には禅宗寺院において現存最古の庫裡や、桃山時代の絵師、雲谷等顔の障壁画(複製)などが公開されていました。
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総見院
ここも11月末まで特別公開中でした。聚光院のすぐ隣にあります。
豊臣秀吉が本能寺の変で倒れた織田信長の葬儀を1582年、大徳寺で行っていますが、この総見院はその追善菩提のために建立されました。信長亡き後の政権争いの中、秀吉がその主導権を握るための建立した、歴史的に大変重要な寺院がです。
本堂には秀吉が奉納した木造織田信長公坐像(重要文化財)が安置されていますが、その大きさは高さ三尺八寸(約115cm)の等身大で、慶派の仏師、康清によって作られました。2体彫られたうちの1体は、葬儀の際に荼毘にふされますが、香木によって作られたその木像の薫りは洛中一帯に広がったと言われます。
総見院には3つの茶室が並んでいます。総見院と茶の湯は関わりが深く、秀吉による「大徳寺大茶会」では、総見院方丈に秀吉が茶席を設けたとの記録が残っています。
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信長公のお墓所
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信長をはじめ、徳姫(信長の息女)、濃姫(正室)、おなべの方(側室)など、一族7基の五輪石や墓が並んでいます。
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東福寺
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大徳寺近くの北王子駅から京阪電車で東福寺に向かいました。
京都駅からJRでわずか1駅で、歩いても1km弱の位置にあります。 |
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かなり広い境内で、自分が何処にいるのか分からなくなります。
紅葉で有名な東福寺ですが、紅葉にはまだ2週間ほど早いようです。もっとも、その時期になると観光客で大混雑するようです。 |
摂政九條道家が,京都最大の伽藍を造営するにあたり、奈良最大の寺院、東大寺と奈良で隆盛を極めた興福寺からの二つの字をとり、東福寺と名付けました。
1236年より1255年まで実に19年を費やして完成しました。工事半ばの1243年は聖一(しょういち)国師を開山に仰ぎ,まず天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備しましたが,1319年、1334年、1336年と相次ぐ火災のために大部分を焼失しました。しかし、直ちに復興に着手し1346年仏殿の上棟が行われ,延元の火災以降実に20余年を経て,再び偉観を誇ることになりました。京都五山の一つで再建後の東福寺は完全な禅宗寺院としての寺観を整えることとなりました。
仏殿本尊の釈迦仏像は15m,左右の観音・弥勒両菩薩像は7.5mで,新大仏寺の名で喧伝され,足利義持・豊臣秀吉・徳川家康らによって保護修理も加えられ,東福寺は永く京都最大の禅苑としての面目を伝え,兵火を受けることなく明治に至りました。
明治14年12月に,惜しくも仏殿・法堂(はっとう),方丈,庫裡(くり)を焼失しました。その後,大正6年(1917年)より本堂(仏殿兼法堂)の再建に着工,昭和9年(1934年)に落成。明治23年(1890年)に方丈,同43(1910)年に庫裡も再建され,鎌倉・室町時代からの重要な古建築に伍して,現代木造建築物の精粋を遺憾なく発揮しています。また,開山国師の頂相,画聖兆殿司(ちょうでんす,明兆)筆の禅画など,鎌倉・室町期の国宝・重要文化財は夥しい数にのぼっています。(東福寺ホームページより) |
通天橋・開山堂
ここで入場券を買い、開山堂に向かいました。
愛染堂が見えてきました。このお堂は南北朝時代の建築物で、愛染明王を祀っています。もとは塔頭の万寿寺にありましたが、1934年(昭和9年)の室戸台風で倒壊し、その後現在の地に移されました。
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開山堂
開山堂(常楽庵)は、仏殿・方丈から渓谷に架けられた通天橋を渡った先にあります。
1819年に焼失した後、1823年、一条忠良によって再建されました。開山堂は2階建の楼閣で、開山円爾像を安置しています(重要文化財)。
上層は「伝衣閣」(でんねかく)と呼ばれ、金閣(鹿苑寺)、銀閣(慈照寺)、飛雲閣(西本願寺)、呑湖閣(大徳寺塔頭芳春院)と並ぶ「京の五閣」の一つで、中央に阿弥陀、右に薬師、左に布袋像を祀っています。
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経蔵にもどり、今度は方丈庭園の見学です。
東福寺本坊庭園 (方丈庭園)
方丈とは、禅宗寺院における僧侶の住居であり、後には相見(応接)の間の役割が強くなりました。当初は“東福寺方丈「八相の庭」”という名称でしたが、2014年に“国指定名勝”に登録され、改めて「国指定名勝
東福寺本坊庭園」となりました。東福寺本坊庭園は、明治十四年の火災により仏殿、法堂、庫裏とともに焼失しましたが、明治23年(1890年)に再建され、災禍を免れた三門、東司、禅堂、浴室などの中世禅宗建築とともに、現代木造建築の精粋を遺憾なく発揮しています。内部は、3室2列の6室とし、南面に広縁を設けています。中央の間を室中と呼び、正面は双折桟唐戸としています。
広大な方丈には東西南北に四庭が配され、「八相成道」に因んで「八相の庭」と称しておりました。
禅宗の方丈には、古くから多くの名園が残されてきましたが、方丈の四周に庭園を巡らせたものは、東福寺本坊庭園のみです。作庭家・重森三玲(1896-1975)によって昭和14年(1939年)に完成されたもので、当時の創建年代にふさわしい鎌倉時代庭園の質実剛健な風格を基調に、現代芸術の抽象的構成を取り入れた近代禅宗庭園の白眉として、広く世界各国に紹介されています。 |
南庭
本堂(仏殿)
東福寺は、平安時代の延長2年(924年)に公卿の藤原忠平(ふじわらのただひら)が建立した法性寺(ほっしょうじ)をルーツに持つ寺院です。その後、鎌倉時代の嘉禎2年(1236年)、四代将軍、藤原頼経(ふじわらのよりつね)の父である九条道家(くじょうみちいえ)が、法性寺の地に高さ5丈(約15メートル)の釈迦像を祀る新寺院の建立を発願。宋から帰国した聖一国師(しょういちこくし)こと円爾(えんに)を開山として、東福寺を開きました。伽藍が完成したのは、文永10年(1273年)でした。当時の東福寺は、天台仏教、真言仏教、そして禅を学ぶ兼学の道場であったと言われています。
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三門(山門)
東福寺の境内中枢には、三門、仏殿、法堂(はっとう)といった主要建造物が南北一直線に配された、典型的な禅宗寺院の伽藍が広がっており、その中でも室町時代の建造である三門は、禅宗寺院の巨大三門として現存最古のものです。それは室町時代における禅宗寺院の様相を伝える建造物としても稀有の価値があり、国宝に指定されています。
現存する東福寺三門は、元応元年の大火によってそれまでのものが失われた後、応永年間(1394年~1428年)に室町幕府四代将軍、足利義持(よしもち)によって再建されたものです。なお、三門とは三解脱門の略で、禅宗寺院の仏殿(本堂)前に建てられる中門の事です。それは、仏殿という涅槃に入る前に解脱を得る(悟りを開く)目的で設けられています。三門は、無空、無相、無願という三つの解脱を表す為に三つの出入口を開けた三戸形式であるのが普通で、東福寺の三門もまたその様式を守っており、五間三戸の二重門となっています。屋根は本瓦葺きの入母屋造で、その高さは22メートル。両脇には山廊が付属し、そこから上層内部へ上る事ができるようになっています。
なお、調べてみると、山門(三門)とは、空門(一切を空と悟ること)、無相門(一切の変化に惑わされないこと)、無作門(一切の願いや欲を捨てること)を意味するようです。 |
帰りはJR駅東福寺駅に向かいました。
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帰りはJR東福駅から京都に戻り、瀬田に戻りました。 |
5日目 三井寺(みいでら)観光後自宅へ
朝から家に帰るのには早すぎるので近くの三井寺を観光して帰ることにしました。
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三井寺は琵琶湖を見下ろす大寺で、正式には「長等山園城寺(おんじょうじ)」といい、天台寺門宗の総本山です。平安時代も天台別院として中興され、以来1,100余年にわたってその教法を今日に伝えてきました。
滋賀県大津市、琵琶湖南西の長等山中腹に広大な敷地を有しています。また、湖国近江の名勝、近江八景の一つ「三井の晩鐘」でも知られています。
平安時代の993年、円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入ります。 この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し天台宗は二分されました。
その後、両派の対立や源平の争乱、南北朝の争乱等による焼き討ちなど幾多の法難に遭遇しましたが、 智証大師への信仰に支えられた人々によって支えられ、その教法は今日に伝えられています。
巡礼の寺でもあり、西国三十三所観音霊場巡礼の第十四番目の礼所でもあります。 |
今まで幸い晴天でしたが、今日は天気が悪そうです。朝早かったので駐車場はガラガラでした。
門を入ると電子掲示板があり、いろいろな案内をしていますが国宝所蔵数、全国第9位と書かれていました。
大門(仁王門) 重要文化財 室町時代(1452年)
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三井寺中院の表門で、東面して建ち、両脇の仁王像が山内を守護しています。 秀吉によって伏見に移され、1601年に家康によって現在地に 建てられたとしています。
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釈迦堂(食堂) 重要文化財 室町時代 正面七間 側面四間
大門(仁王門)を入ってすぐ右手に、南面して建つ比較的に簡素な造りの堂です。 秀吉による破却の後、清涼殿を移築したものとの伝えもありますが、
室町時代に建立されたものと思われます。現在は清涼寺式釈迦如来像を本尊とする釈迦堂として信仰されています。
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金堂 国宝 桃山時代(1599年)
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現在の金堂は、豊臣秀吉の正室北政所によって再建されたもので、 三井寺境内でもひときわ大きく威容を誇っています。 また本尊弥勒菩薩もここに安置されています。
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鐘楼(三井の晩鐘) 重要文化財 桃山時代(1602年)
近江八景のひとつ三井の晩鐘で有名な巨大な梵鐘を吊る鐘楼で、 金堂の南東に建てられています。
近年まで屋根は瓦葺であったが、修理時における調査の結果、 建立当初は桧皮葺であったことが判明し、現在は桧皮葺に改められています。
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梵鐘(弁慶鐘) 重要文化財 奈良時代
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金堂西方の霊鐘堂に安置される古鐘で、園城寺では数少ない智証大師入山以前の遺品です。
この時代の現存遺品は全国で十数口確認されていますが、 それらの中でも東大寺鐘に次ぐ規模を誇ります。 しかし、鋳上がりは悪く、傷や欠損があり、俗に弁慶引摺鐘とよばれています。幾度となく焼き討ちに逢った当寺の苦難の歴史を象徴する遺品と言えます。 |
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一切経蔵、八角輪蔵 重要文化財 室町時代
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一切経蔵は一切経を安置するための堂で、 内部には一切経を納める回転式の巨大な八角輪蔵が備えられています。
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唐院潅頂堂 重要文化財 桃山時代
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大師堂と四脚門にはさまれて建ち、大師堂の拝殿としての役割を備えています。
内部は前室と後室に分けられ、伝法潅頂を行うプランを備えています。
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三重塔 重要文化財 室町時代
慶長二年(1597)、豊臣秀吉によって伏見城に移築された大和の比蘇寺の塔を 慶長五年に徳川家康が三井寺に寄進したものです。
一層目の須弥壇には、木造・釈迦三尊像が安置されています。
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園城寺別所 微妙寺
三井寺 文化財収蔵庫
2014年10月に、宗祖・智証大師生誕1200年慶讃記念事業として開館しました。
桃山絵画の最高傑作とされる国宝・勧学院客殿の狩野光信筆の襖絵39面をはじめ仏像、仏画、仏具など重要文化財13件53点(平成27年11月現在)を収蔵、展示しています。
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童子因縁之鐘
観音堂への石段を登りつめた右手、百体堂の反対側に建つ鐘楼は1814年の 建立です。残念なことにこの鐘は、第二次世界大戦で供出の憂き目にあい失われてしまいましたが再建されています。
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観音堂 県指定文化財 江戸時代(1689年)
西国三十三箇所観音霊場の第十四番礼所として、篤く信仰されています。本尊は如意輪観音。 貞享三年(1686)に火災にあい、元禄二年に再建された大きな堂です。
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百体堂 県指定文化財 江戸時代(1753年)
堂内の正面中央に三井寺観音堂(正法寺)本尊と同じ如意輪観音像を奉安し、その左右に西国礼所の三十三観音像を二段に祀っています。 右には坂東三十三箇所、左には秩父三十四箇所の本尊を安置し、合わせて百体の観音像を安置することから百体堂と呼ばれています。
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水観寺(すいかんじ) 西国薬師第四十八番札所 開基 1028年
本尊 薬師如来 一切浄土を病苦・災難から救済する仏として多くの人々の尊棠を集めています。現在の本堂は豊臣秀吉により再建され、民衆との交流を目的とし、五別所の本堂の内では最も古いものです。
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護法善神堂 市指定文化財 江戸時代 1727年
本尊は護法善神として鬼子母神を祀っています。鬼子母神は従来人間の児を奪い食する悪鬼でしたが、 釈尊がこれを聞き、母神の子を鉢で隠したところ、
狂髪・啼哭して悲しみました。 釈尊が慈愛を垂れたところ、仏教に帰依し、以後善女神になったといわれています。
毎年五月の中頃に開催している千団子祭の日には鬼子母神の千人の子供たちを供養するために千の団子を供え、堂前の放生池には諸衆の願いをこめた霊亀を放す放生会が行われます。
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ここから自宅まで約500㎞です。休まずに行けば午後5時の到着と出ましたが、実際は途中で休憩するので家に着いたのは午後7時でした。
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今回の旅行は日数が短かったものの旅日記を書くにあたって今まで録りためた放映ビデオを見直したりインターネットで検索したりし結構時間を取られました。そのため自分なりに歴史の勉強にもなりました。京都が応仁の乱で多くのお寺が焼失したことは聞いていましたが、銀閣寺が応仁の乱の後に造られたこと、また、再び消失してしまったこと、しかし多くの寺が、焼失後すぐに再建の気運が沸き起こり再建されていることなどです。
これらの文化財は江戸城が何度も燃えたぐらいですから、火災や地震、津波による被害は致し方ないものの、江戸時代にはしっかりと保存されてきましたが、明治時代の廃仏毀釈や昭和時代には戦争のために多くの釣鐘が鉄砲の弾に作り替えられました。ただし、失われてもすぐに再建の機運が起こっていることなどにも救いと感動も覚えました。
今回の観光では西日を浴びて輝く金閣寺の美しさに身震いを感じたのを思い出します。いずれは金閣寺も輝きを失い再度の修復が必要な時も来ると思いますが、日本人はそれら貴重な文化財を末永く修復、保存してゆくことでしょう。 |
付録
京都観光の2日後、中学時代のクラス会が栃木県鬼怒川温泉で開催され36名が集まりました。次の日は有志でロープウェイで山にも登って来ました。ここも紅葉が真っ盛りでした。 |
2日後にはイランへの旅行が待っています。このところ旅行が続いていますが行けるうちは幸せです。
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