悠久なる中国のシルクロード8日間
阪急交通社

2017年5月8日~5月15日

 

 1980年4月から毎月放送されたNHK日中共同制作シルクロード絲綢(しちゅう)之路を見た時の感動は今でも鮮明に覚えています。石坂浩二の語りと喜多朗の音楽、そして、風の強い砂漠にミイラとなって埋まった美しい女性の姿は今も瞼に残っています。
 今回の旅は西安から始まりましたが、絲綢の道によれば「シルクロードは長安に始まる。西に進めばペルシャ、ローマに至り、南に向かえばインド、東に辿れば朝鮮、日本に達する。そしてまたシルクロードは長安に終わる。」と語られています。
 昨年はウズベキスタンやイランなどシルクロードに関係する幾つもの都市を訪れましたが、中国のシルクロードは初めてでした。西安、敦煌、トルファンなどはビデオで何度も見ているのでぜひ訪れてみたいと思っていましたが念願が叶いました。
 夏は猛暑で大地は灼け、冬は厳しい寒波の続く砂漠地帯なので、一番旅行のしやすいこの時期を選んでみました。幸い、旅はすべて順調でした。


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 再生速度は右下の三つの星を押すと早くしたり遅くしたりすることが出来ます。


 今回の旅は成田から直行便で西安に行き2泊し、また空路でウルムチに飛び1泊し、バスでトルファンに向かい1泊、そこから高速鉄道で敦煌に行き2泊し、そこからバスで嘉峪関に行き、嘉峪関からは飛行機で西安に向かい、空港内のホテルで1泊し、次の日の朝、西安を発ち午後成田に到着するものでした。
 参加人員は合計21名で、ご夫婦は7組、単独参加の男性は4名、女性は3名でした。いずれも定年後の年齢の方々でした。
 成田で1万円ほど中国元に直しましたが、1元は18.1円でした。



 以下に観光内容を示します

観光内容 宿泊地 歩数
1日目 成田から西安へ 西安 6,474
2日目 西安観光(兵馬俑、青龍寺、大巌寺など) 西安 13,839
3日目 西安の漢陽陵を観光後空路でウルムチへ、その後、博物館、バザールの見学 ウルムチ 10,642
4日目 バスでウルムチからトルファンへ移動。その後、博物館、古墳群などの見学 トルファン 15,133
5日目 トルファンのカレーズを見学後、高速鉄道で敦煌へ。敦煌舞踏ショウ鑑賞 敦煌 8,334
6日目 莫高窟、月牙泉、西千仏洞、漢代長城、玉門漢、漢長城遺跡などの見学 敦煌 18,434
7日目 バスで嘉峪関に行き、観光後空路で西安へ 西安 12,605
8日目 西安から成田へ 3,739



中国の行政区分

  自治区に行くのは初めてなので中国の行政区分を調べてみました。下にそれらの地図を示します。

 中国の人口は世界一で13億7千万であり、22の省と5つの自治区、4つの直轄市があります。国土面積は世界で第4位ですが、世界最大の広さを有するロシアの56%で、2位のカナダ、3位のアメリカ合衆国に続きます。ただし、2位のカナダ、3位のアメリカ合衆国、4位の中国の3つの国の国土面積は、面白いことにほとんど差がありません。従って、中国が3位とも言われます。なお、中国の国土面積は日本の約25倍もあります。中国は広いけれども砂漠地帯が大半だともいわれますが、人口は日本の10倍ですから、中部や西部の砂漠地帯を除けば人口密度は日本とあまり変わらないのかも知れません。
 中国では中心的地位を占めている漢民族を始めとして、一時は中国全土を支配していたモンゴルなど、様々な民族による複数の王朝の出現、滅亡、戦乱を繰り返してきました。
 清代までの中国には「王朝」の概念はあれど「国家」の概念は無く、「天下あって国家無し」と言える状態だったため、王朝の名前が対外・対内的な呼称として用いられていました。19世紀半ば以降、中国が世界的な主権国家体制に組み込まれてゆく過程で、「中国」という用語が主権国家の自称として広く用いられるようになり、次第に固有名詞としての性格を濃くしてゆきました。


     

1日目 成田から西安へ

14:55 成田 HU-7982 飛行時間5時間 海南航空
18:55 西安 着後ホテルへご案内
20:40 ホテル着
ホテル 天城凱(カイ・カチドキ)菜大酒店


 3列+3列の飛行機ですが、座席の前列との狭さには驚きました。幸い、乗車率は7割程度で、お互い通路を挟んで通路側に座ることが出来ました。私や家内の隣の席は空席でした。
 ほとんどの乗客は中国人で、客室乗務員は日本語を話せませんでした。中国人の爆買いは少なくなったと言われていますが、皆さん、たくさんのお土産を持ち込んでいました。
 現在、成田-西安の直行便は中国の海南航空のみで、行き、帰りとも月、水、土の週3日間のみになります。今回の旅行では月曜日発、月曜日着で、西安を朝立った飛行機は成田で折り返し西安に戻ることになります。


 税関を出ると、日本語を話す中国人ガイドさんが待っていました。参加人数は21名ですか、バスは34名定員の中型バスですから全く問題はありません。
 ただし、空港の出口からバスの停留所まではかなりの距離があり、その間、自分でトランクを運ぶ必要がありました。
 日本から同行して来た添乗員さんは、「座席は自由に選んでください。ただし、出来るだけ、前列、中央、後ろなど毎日席を変えて下さい」と言っていました。
 旅慣れた人たちなのでお互いに譲り合い、席に関しては全く問題はありませんでした。
 ホテルは西安市のほぼ中央にあり空港からホテルまで約50km、1時間程度でした。



 今回の旅ではすべてかなり豪華なホテルでした。


       

2日目 西安観光

8:00 ホテル出発
 兵馬俑観光 博物館1,2,3号館 (2時間)
 秦の始皇帝陵 バスから
 青龍寺(1時間)
 玄装三蔵が天笠(インド)から持ち帰った経典や仏像などを保存するために作られた大雁(ガン)塔(50分)
 シルクロードの出発点 西の城門(20)分
 西安美術館(40分)
20:00 ホテル着



 ホテルでの朝食風景です。かなり豪華でした。
 



 ホテルの周辺を歩いてみました。食べながら歩いている人の多いのには驚きました。



観光開始

 昨日の空港から同行しているガイドさんで、明日の西安空港まで約2日間このガイドさんが案内してくれます。
 西安は陝西省(せんせいしょう)にあり、かって長安と呼ばれた古都で、西安の現在の人口は870万人です。
 古都西安には紀元前11世紀から10世紀初頭まで13もの王朝が都を置いた古都で、我々に良く知られた、秦、漢、隋、唐などの都でもありました。
 唐の第7代皇帝玄宗の愛人、楊貴妃の物語は映画などにも作られています。
 都が北京など東に移ると衰退し、現在の城壁は明の時代に作り替えられました。唐の時代の長安城は現在の8倍、東西10㎞、南北8㎞で西のバクダットと並び、世界最大の国際都市でした。その時の人口は100万を数え、空前の賑わいを迎えていました。
 歴代の王は権力を誇示するがごとく、自分の豪華な墓を作ったため、西安には非常に多くの古墳があり、すべてを見るのにはかなりに日数を有します。
 この地図は西暦660年頃の唐の支配図です。唐は戦乱の続く中国の再統一に成功したのです。そして、また、世界最大の領土を持つ国にもなりました。現在の新疆ウイグル自治区もこの時代、唐が支配していました。

 3千数百年前に誕生した絹は中国独自の文明であり、日本に絹が現れるおよそ1500年前、すでに中国には絹の存在を示す桑、絹という甲骨文字が見えます。以来、絹は、秦、漢、唐と経て長安を中心にまばゆいばかりの発達をしてゆきました。
 西安の西の市にはシルクを扱う商人が、ローマから、ペルシャから、そして中央アジアから集まっていました。シルクロードの商人たちは何よりを絹を求めました。絹はローマに運べば同じ重さの金と交換できる奇跡の布でした。古代ローマの人は長安をシルクと呼んでいました。絹の生産技術は長安から門外不出のものでした。
 西安を出て西に向かう旅人はどこかで黄河を渡らねばなりませんでした。昔の旅人は、筏に乗って渡ったといわれています。しかし今はダムの出現によって水の底に沈んでいて見ることは出来なくなってしまいました。しかし黄河流域の石窟寺院によりシルクロードであったことがわかるそうです。
 旅人は、その後さらにゴビ砂漠を渡り敦煌へと向かいました。
 西安から西に向かいウズベキスタンのサマルカンドまでは1年の歳月を要したといわれています。
 西安にはかって13の王朝が置かれたくさんの遺跡が見つかっています。また集団墓地が500以上も見つかっており、そのお墓の発掘が精力的に行われています。
 最も古いのは2700年前の墓だそうです。現在、長安考古隊が作られていますが、整理が追い付かないほどのおびただしい数の出土品が集められています。
   前漢の7代武帝(紀元前156年~紀元前87年)の墓・茂陵(もりょう)は高さ46m、底辺の長さ230mもあり、この底辺の長さは世界最大のピラミッドにも匹敵します。
 唐の二代皇帝太宗の墓、昭陵は高さ1240mの山すべてがお墓です。
 唐時代(西暦618~907年の約290年間)の王朝3代目の高宗と妻の墓・乾陵(けんりょう)はおそらく世界最大の墓だそうです。
  それらの古墳から当時の西安の暮らしが詳しく分かってきました。
 当時の西安には、アフリカ人、西洋人、西域の少数民族、ラクダのキャラバン隊、イランのソクド人などが集まっていた国際都市でした。また、東は朝鮮半島から、西はローマまで多くの商人が集まった世界最大のマーケットでした。
 そしていろいろな国の人たちの町が西安に作られていました。
 2003年6月 ソクド人の墓が発見されました。西安には沢山のソクド人が住んでいた証拠です。ソクド人はラクダで西洋からいろいろなものを運んできました。そしてゾロアスター教を信じていました。
 その他、イスラム教を信ずる漢民族のためのモスク、ゾロアスター教の寺院、キリスト教の協会など多くの宗教が信仰されていました。
 現在、中国政府は、東部との格差を小さくするため西部の大開発を行っており、西安はその拠点で高層ビルが連立しています。
 超学歴社会となった中国全土での2017年6月現在の入学希望者は940万人だそうで、その試験は熾烈を極めています。
 西安交通大学は中国のトップ20ぐらいに位置する有名大学で、西安では最難関の大学です。なお、中国には交通大学という名の大学が幾つもありますが、交通に関係があるわけではなく、日本の総合大学を意味しています。ただし、理系に重点が置かれているようです。
 中国のほぼ中央に位置する西安には、優秀な生徒が大学を目指し集まって来ており、現在、西安には百を越える大学があり60万人の学生が学んでいます。西安の大学は地方の学生の憧れであり、西部大開発の拠点です。
 競争の激しさは日本をはるかに超えると言われています。
 長安が西安に変わったのは明の時代の1928年のこと。西安に初めて市制が施行され省轄市としての西安市が成立しています。
 西安での賃金は上海や北京の半分と安いため、日本からはNEC、富士通など多くの通信機器会社が進出しています。安い賃金を武器に西のシリコンバレーを目指しています。



始皇帝陵と兵馬俑抗

 始皇帝陵と兵馬俑抗の2つ合わせて一つの世界遺産となっています。俑とは土を焼いて固めた副葬品で、兵士と馬の俑があることから兵馬俑抗と言われています。
 今回のツアーでは始皇帝陵の見学は含まれておらず兵馬俑抗のみでした。秦の始皇帝陵は西安市内に戻る途中、バスの中からかなり遠くでしたが見ることが出来ました。
 秦の始皇帝陵は現在公園となっており、その頂上へも登ることが出来るそうです。
 兵馬俑坑は始皇帝陵の東、約1.5mに作られています。 

 兵馬俑が発見されたのは始皇帝陵から1.5㎞離れたところでした。
 これらが作られたのは紀元前3世紀の頃、秦の時代で日本では弥生時代の中ごろに当たります。

 始皇帝陵の周りには兵馬俑抗以外にも、たくさんの遺跡、出土品が発見されています。
 それらは皇帝専用の馬車、水鳥が戯れる庭園、人々を楽しませる楽器など、始皇帝の生前からあったものばかりです。
 これらは墳丘の周りを取り巻くように作られていました。
 皇帝は死んだ後の「黄泉の国」にも宮廷生活を再現しようとしていたのです。



兵馬俑博物館 

 兵馬俑博物館は、この駐車場からはるかに離れたところにあります。

 紀元前3世紀の頃、中国では7つの国が争っていました。最も西にあったのが秦でした。
 秦では二人の王が続けてなくなり若干13歳の子供が王位を継ぎました。
 即位して10年、秦の皇帝は全国を駆け巡っていました。皇帝はそれまでの王と異なり自ら戦場に出陣して指揮をとりました。
 そのころ、各国はお互いに戦っていたためかなり疲弊していました。
 秦は趙に戦いを挑み1万人もの兵を捕虜にしました。当時の戦の習わしでは捕虜は保護されていました。しかし彼は秦の兵士の士気を高めるため捕虜全員を処刑したのです。
 秦の強さは軍事力でした。その強さは 最盛期100万を超えたと言われています。
 戦いで実力を上げた兵士は身分に拘わらず重用されました。そのような制度が秦の軍事力を強くしました。
 血で染められた20年以上の戦いの後、紀元前221年、皇帝は中国の統一に成功しました。中国を初めて統一したため、始皇帝と名乗りました。始皇帝(前259~前210)は、国家を統一後、万里の長城を築き、文字の統一、貨幣や計単量の統一、交通規制の制定、行政手法の改革なども行っています。

 異国の敵は簡単に倒しても 紀元前238年 宮殿の中には王を殺害しようとする敵が潜んでいました。王の母には愛人がおり、その間には二人の子が生まれひそかに育てていました。愛人は機が熟するのを待って自分の子を王にしようとしていました。
 その事実が王に漏れ、内紛が発生し、母の愛人を殺してしまいます。
 王には懐疑心がみなぎり、心は病んでゆき、妄想にさいなまれるようになりました。それは死んだあと、あの世で苦しめられることでした。
 当時の習わしでは、王は40歳ぐらいになると自分の墓を作ることでした。
 王は敵の霊から身を守るため、巨大な兵馬俑を作ったのです。
 始皇帝は統一された帝国を何度も視察に出かけていました。
 しかし、最後の視察の頃には、国はかなり疲弊していました。
 戦のなくなった兵士により国境には城壁が作られましたが最盛期には農民100万人が動員されました。
 次に行ったのは自分の墓の建設でした。
 しかし、農民の少なくなった地方では作物を作れず、国全体の経済状態が疲弊していったのです。
 始皇帝は朕を始皇帝となし、以降、2世、3世となし、千万年以降まで統治する夢を描いていました。そして死後の世界もまた自ら支配したと思い、死後の世界に君臨する地下宮殿を建設し、その四方には応急を守る近衛軍団を配置した。
 歴史家 司馬遷によって 始皇帝の死後100年後に書かれた「史記」は始皇帝やその戦いの様子などが細かく描かれています。それにより多くの伝説を作り上げています。
 駐車場から兵馬俑博物館までは、かなりの距離があります。
 私たちのグループは数名乗りのカートに分乗し、公園の中を通り、博物館に向かいました。



 博物館に到着しました。

 
 今回の見学ルートは左のようになっています。
 下の写真の左側は最初に見学する1号館、右側は最後に見学する陳列館です。



1号館


 1974年、畑で井戸を掘っていた農民が土の中から土で固められた像を発見しました。その事実が新聞で報道されると多くの人の注目を呼び起こし、発掘が始まりました。そして陶器で製造された多数の兵士が発見されたのです。
 これらの陳列館は兵馬俑が発見された位置にそのまま作られ、今は屋根で覆われています。見学は1号館から始まりました。

 東西230m、南北62mで、地下5mに掘られた空間におびただしいほどの兵士が整然と隊列を組んで並んでいます。地下軍団、兵馬俑の総数は8000体に及びます。
 全体の兵馬俑を発掘するにはあと100年も掛かるそうです。
 兵士や馬の俑は本物とほぼ同じ大きさで作られています。
 土を焼き固めて作った兵馬俑は、全員が東を向き、秦が征服した国々の方向を向き、始皇帝陵を守っています。
 戦争が終わり、武器を作る必要がなくたった沢山の武器製造職人がその制作に動員されたと言われています。
 俑の顔は同じでなく、一体一体すべて違っています。個性豊かです。
 征服した国々から屈強の軍人を集めそれを実際のモデルにして、職人たちはリアルで多彩の像を作ったのです。髪の毛1本1本まで精巧に作られています。
 兵馬俑はすべて色づけされていました。本物の人間とほとんど変わらなかったそうです。
 兵士の高さは平均180㎝、重量は200㎏以上でした。
 俑を作る最大の問題は、粘り気のある粘土の採集でした。幸い、この近くから、像を作るのに優れた粘土が見つかっています。
 像はすべて中空になっています。重いと制作中、自分の重さで崩れてしまいます。
 まず、粘土でひもを作り、それを体に合わせてぐるぐると巻きながら積み上げてゆきます。積み上げていく途中、下の粘土が十分に固まるのを待ってその上に粘土のひもで体を作り上げていきました。そのような造りのため、すべての像の寸法はすこしづつ違っています。
 なお、頭などは型を使って同じようなものを作った後にそれを変形させて、すべて異なる顔立ちにしています。、
 俑の足元には兵馬俑を作った職人の名がすべて刻まれています。そこにも競争があり、優れた兵馬俑を作る技術が争われていました。作り方が悪い職人は牢に入れられてしまったそうです。
 兵馬俑博物館の再現実験によると1体の兵馬俑を作るのに粘土の採取から焼き上げるまで2か月近くかかります。8000体もの兵馬俑を作るには80名の職人が休みなく働いたとして拾数年の歳月が必要だったと考えられています。

 秦の時代を伝える歴史書「史記」には、貨幣や文字の統一、万里の長城の建設など始皇帝が行った歴史の数々が伝えられています。しかし不思議なことに兵馬俑に関する記録は全くないそうです。
 一方始皇帝陵についてはかなり詳しく書かれています。
 兵馬俑は同じ方向、東を向いています。東は始皇帝が中国を統一するために滅ぼした国があった方角です。兵馬俑は始皇帝陵を守る黄泉の国の兵隊でした。
 後ろの方には土に埋もれ倒れたままの兵馬俑で、発見されたままの状態です。この崩れた前の俑も一体一体掘り起こし修復してきました。
 最前列の3列は弓を持った突撃部隊です。弓矢は200m先の兵隊の鎧も突き破ったそうです
 その後に馬、その後ろに重装備の歩兵隊が続きます。それらの後ろには戦車の列、ほかの場所では騎馬隊が並んでいました。
 兵士は極めて長い槍を使用し接近戦を有利に戦いました。



 いったん外に出ます。



 1号館の真後ろの扉が開いていたので覗いてみました。

 左の絵はここの博物館にあったものではなく、ウィキベテアからのコピーです。
 兵馬俑を掘り出して数分もすると、色彩が酸化のためすぐに消えてしまうそうです。
 世界各国の科学者が兵馬俑の表面色素物質を解析し、当時の色で再現されたものです。



3号館

 三号坑は500平方メートル、俑の数は58体に過ぎず、規模は一番小さいのですが、地下軍の司令部に当たる所だそうです。



2号館

 二号坑は6000平方メートル、俑の数は千体余りあるそうです。



陳列館

 実際に発掘された銅製の馬車が展示されています。この馬車は始皇帝陵の近くの土の中から発見され、ここに移設され展示されています。
 始皇帝は即位後5度にわたり自ら征服した帝国を見て歩きました。発掘された馬車は実際に使用された馬車の2分の1の大きさで精巧に作られています。約3000点以上の部品で作られた馬車は中国最高の芸術品と言われています。




駐車場へ戻る

 帰りはカートに乗らず、歩いての戻りでした。土産屋がたくさん軒を並べていました。
 バスに乗ろうとすると、売り子が兵馬俑を5個セットにし箱に入れた土産を売り付けて来ました。
 最初、千円と言っていましたが、その後50元でもよいと言い出し、家内がさらに値切ると10元(180円)となりました。
 現在、それらが我が家の玄関を飾っています。
 自宅の玄関です。
 かなり小さな人馬ですが、5個で180円ですから、やむを得ません。



始皇帝陵

 西安の東の郊外30㎞にある墳丘で、麦畑などが広がる平原にひときわ高く作られています。陵はおよそ350m四方で土を突き重ねて作られ、その高さはおよそ76mもあります。中国史上最大の規模を誇るといわれています。
 現在は公園となりその頂上に登ることが出来ます。真下の地下深くに眠る始皇帝の墓室はいまだ発掘が行われおらず、謎とされています。
 王が39歳の時、中国を統一し始皇帝になると、始皇帝は永遠に中国を支配することを夢見るようになり、不老不死の薬を求めましたが、寿命を延ばすと言われていた水銀を飲んだりしたため、腎臓病を発症し、49歳の時旅の途中で病死しました。死んだとき、秦は世界最大の帝国でした。
 遺言では長男に世を継がせるものでしたが、大がかりな始皇帝の弔いとともに、内部では次期政権の争いが始まっていました。
 争いのあと、次男が長男や弟など皇族一族を皆殺し、皇帝を継ごうとしますが、幾つもの反乱が起こり、死後わずか15年で秦は滅んでしまいました。
 以降、漢の時代、三国志で知られた三国時代、日本との関係の深かった隋、唐の時代を得て、都は時の王朝とともに中国を転々とし、北京に都が定められてのはモンゴルのジンギスカンの金王朝の時で大都と呼ばれました。
 明の時代の都は一時、南京が都ともなりましたが、その後再び北京が都となり現在に在に至っています。



昼食

 恐ろしく大きなレストランでしたが、お客はなぜか私たちだけでした。




シルクロードマップ

 絨毯屋さんの前にあった大きな看板を写真に収めました。日本の地図を見て書き入れてみました。少し中国語の勉強になりました。



お土産屋
 
 土産屋が見学介ルールに入っていました。絨毯やでした。誰も買いませんでした。



青龍寺

 弘法大師・空海など多くの日本人が学んだお寺として知られています。
 唐時代の終わりの頃、、戦乱によって廃寺となってしまいましたが、第二次世界大戦後の1963年、青龍寺遺跡の発掘調査が開始され、1973年、塔と殿堂の遺跡が発見されました。
 1982年以後、空海記念碑をはじめ、境内の殿堂も相次いで復元されました。


 お寺の少し高台から西安市内を見た写真です。遠くに密集したビルがあるので拡大してみました。驚くほどの建ぺい率です。香港を思わせますが、広い西安なのになぜこのように密集させるのか不思議です。

 

 青龍寺の前身は西暦582年隋の時代に作られた霊感寺で、唐の時代の西暦711年に青龍寺と改名されました。
 空海が学んだお寺として知られています。
 空海は弘法大師としても知られていますが、「弘法にも筆の誤り」として語られ、書の名人でもありました。

 上の空海記念碑や恵果・空海記念堂は日本からの寄贈によるもので、元四国霊場会会長により四国八十八か所の零番札所と名付けられています。
 遣唐使は618年の隋の滅亡後の620年に始まりました。以来、唐が滅亡するまでの約290年間に20回派遣されたとも12回であったという説もあります。
 空海は西暦804年第18回(数え方により異なる)遣唐使として西安に渡り、青龍寺で恵果大師に師事し2年後帰国してしまいました。当時の習わしではあまりに短かったため、京都に戻ることが出来ず、大宰府に数年間滞在しています。
 空海が唐から持ち帰ったものは多数の経典類(新訳の経論など216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものでした。その他、私的なものも別に数多くあったと考えられています。
 空海は後に高野山に金剛寺を立て真言宗を創立しています。

 西暦713年の第9次遣唐使は総勢559名でしたが、当時、遣唐使として選ばれることは大変な難関でした。
 百人一首に現れる阿倍仲麻呂も第9次遣唐使として唐に渡り、日本に戻ることはありませんでした。
 百人一首に選ばれた「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」は日本を懐かしみ詠んだと言われています。
 阿部は唐で役人としてと出世しベトナム地方を治める長官となりその地で骨をうずめています。




大雁塔(慈恩寺)

 大雁塔は652年シルクロードを旅した玄奘(げんじょう)三蔵がもたらした経典や仏像などを保存するために建てられた塔です。
 雁が菩薩の化身として飛んできましたがその1羽が落ちたため、塔と作って埋葬したことから、大雁塔と名付けられました。
 高さは7層64mで、慈恩寺の境内に建っています。
 629年、玄奘三蔵は禁を犯しに陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還しました。持ち帰った荷は馬の背に22頭分もあったと言われています。以後、漢語への翻訳作業に従事し従来の仏典の誤りを正し、法相宗の開祖となっています。
 また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝記小説『西遊記』の基ともなりました。
 長安を出て帰国するまで実に16年、25,000kmを踏破する空前の旅であったそうです。
 唐代の慈恩寺は現在の7倍以上の広さでしたが唐代末期の戦乱により大雁塔だけが残りました。
 その後、修復、拡張がなされています。
玄奘三蔵の歩いた道
 紀元前5世紀ごろに生まれた仏教は2世紀の頃に中国に伝わり、多くの仏教徒はその起源を求め、天竺(今のインド)に旅しています。
 玄奘三蔵も仏教の聖地インドを訪ねていますが、その歩いた道は、非常に遠回りしているようにも見えます。NHKのシルクロード第2部の「玄奘三蔵天竺への道」で詳しく述べられていますが、アフガニスタンからパキスタンを経て天竺へ渡っています。
 この地図は国立情報学研究所のホームページにある玄奘三蔵の歩いたルート図にバナーラスを書き入れたものです。
 仏教の聖地サルナートはバナーラス近郊にあります。
 仏教はネパールやチベットなどでも深く信仰されていますから、エベレストを越えても伝えられてもいるようです。
 仏陀はインドとパキスタンの国境の町ルンビニで生まれましたが、29歳の時、家族や財産を捨てて出家し、インドブッダガヤで悟りを開きます。
 しかし、玄奘三蔵がインドに渡ったときはすでにヒンズー教が信仰されており、仏教徒はわずかでした。
 それでも、佛教大学に入学し、仏教を深く学んでいます。
 玄奘三蔵が持ち帰った仏教の教えは後に日本の仏教に深く影響を与えています。 
 なお、中国とインドの間には世界一高いヒマラヤ山脈(エベレスト山脈)が横たわり、上の図のように遠まわりするしかなかったようです。

 大雁塔は、造られた当時、城壁の中、朱雀の大通りにあり、大通りの幅は実に150mもあったそうです。
 日本からは遣唐使が西安を訪問し、当時の技術や仏典を学んだように、世界各国から多くの留学生が長安を目指し集まっていました。
 ここはまさに世界の中心でした。長安とは「永遠に安らかなり」を意味していました。
 当時の唐の人口は100万人を超え バクダットと並ぶ世界最大の都市でした。そして8世紀、玄宗皇帝の時代に最も栄えたました。
 唐時代の都は今の8倍の面積の城壁で囲まれていました。
 東西10㎞、南北9㎞ 街は碁盤の目のように整然と区画されていました。
 635年には遠くローマからキリスト教が伝わり、その他イスラム教も伝わりモスクも作られ、唐の時代には約1000名のイスラム教徒が暮らしていました。


 お寺の中の土産屋さんです。



西安美術館

 2階に円柱状の画廊があり、水墨画が飾られていました。その見学のあと案内されたのが、翡翠などで作られた美術品展示館でそこは写真禁止でした。
 ただし、製品は売り物で、美術館の名を借りた美術品販売店でした。



西門

 現在の大雁塔は城壁の外にありますが、当時の城は非常に広く、大雁塔は城壁の中側にありました。
 当時、朱雀大通りの幅は実に150mもあったそうです。
 奈良平城宮は西安をモデルにしたと言われていますが、当時の奈良平城京の大きさは4分の1以下でした。
 現在の西安の城壁の地図です。中央に鐘楼があり、鐘楼はそれを取り巻き、丸く広い道路に囲まれています。



 夕食時のレストランの係の女性は流ちょうな日本語を話しました。大学で日本語を学んでおり、今はアルバイトでここに来ているそうです。
 食事のあと、漢方薬やお酒の購入を熱心に勧めていましたが、買う人は誰もおらず、あからさまに嫌な顔をしていました。


     

3日目 西安観光後ウルムチへ

7:30 ホテル出発
 西安観光 漢陽陵と考古文陳列館へご案内(1時間)
11:40 西安発 HU-7561 空路ウルムチへ
 所要時間 3時間50分
15:30 ウルムチ着
 新疆ウイグル自治区博物館(1時間)
 バザール(30分)
 ショッピング(40分)
 着後レストランへ
20:10 ホテル着 

ホテル 新疆海徳酒店
 午前中の見学場所、漢陽陵は西安空港に行く途中にあります。


 ホテルから漢陽陵に行く途中のバスからの眺めです。
 中国政府は西部の開発を積極的に推し進め、多大の資金を投入しているそうで、建築バブルの話はよく聞きますが、今だ建築中の建物がたくさんあるのには驚きです。
 日本の観光バスに乗ると、ガイドさんはよく歌を歌いますが、このガイドさんも歌が好きなようで、日本の演歌を数曲、披露してくれました。非常に上手いのには驚きました。



 
漢陽陵

 漢陽陵は前漢の第4代皇帝陽帝(在位:紀元前158-141)の陵です。
 一辺の長さ180m、高さ31mですが、陵全体は3.5kmに達し、皇帝陵園、皇后陵園、陪葬抗、陪葬墓などから構成されています。
 この陵は始皇帝陵を意識して作らていると言われています。

 



 漢陽陵全景です。
 陵慕を囲む方形四方は土壁が作られており、それぞれの中央には門がつくられていました。
 左の建物は、2001年、南門を復元した南闕門保護陳列庁です。



地下遺跡博物館

 この博物館は発見された遺跡をそのまま地下に保存し、陵の周辺の自然の景観を保つように設計されています。
 博物館に入ると全員、靴にビニールカバーを付けます。
 遺跡は透明なガラス板の下に作られており、陪葬抗の上を歩きながら覗くようになっています。従って靴をきれいに保つ必要があります。
 この博物館は2006年にオープンした比較的新しい施設です。
 この縦の板には歴代の皇帝の名が書かれています。


 陪葬抗は全体で80もあるそうですが、現在展示してあるのは13抗だけだそうです。 
 これら人形俑はいずれも細身で両手がない不思議な形をしています。
 身体は陶で作られていますが、両手は木で作られ、木製の両手は土の中で消えてしまったと考えられています。
 秦の始皇帝よりもだいぶ後に作られましたが、皇帝を守る俑はだいぶ小さく作られています。
 秦の時代、農民を徴用し多大の労力を費やし兵馬俑を作り、そのため国は疲弊してしまいましたが、漢の時代になると、民衆を大切にし、生活を豊かにするようになり、埋葬に使う費用は削減されたようです。そのため俑は小さく作られています。
 車馬抗です。馬車には色が付けられていますが、複製品だそうです。始皇帝の兵馬俑博物館にある銅車馬館の安車に似ています



漢陽陵考古陳列館

 地下博物館を出て陵の周りを歩いて行くとその先に考古陳列館があります。
 陽陵の周辺は1990年から発掘調査が始まり、陪葬抗や陪葬墓の調査で数多くの出土品が発見され、それを展示する目的で1999年にオープンしています。
 この周辺で発掘されたいろいろな大きさの陶俑の裸人形が陳列されています。



ウルムチへ向かう

 西安空港からウルムチ空港へ向かいます。途中、万年雪に覆われた天山山脈が左側に見えました。



ウルムチに到着

 ウルムチ空港に到着後、ウルムチ博物館とバザールを見学。その後、夕食を取りホテルへ向かいました。
 この地に来ると、実際の時差は北京と2時間もあり、ウイグル時間があるそうです。それは北京標準時間より2時間遅れています。
 しかし、仕事などでは漢民族が多いため標準時間が使用されています。
 ウイグル人も良い仕事に就こうとすると、どうしても中国語を話す必要があるそうです。 



新疆ウイグル自治区

 中国にある5つの自治区の中では最大の自治区です。
 面積は日本の4.4倍、人口は2,000万人で、主要民族はウイグル族45%、漢民族41%、カザフ族7%、回族5%、その他、キルギス族、モンゴル族、など様々な民族が住んでいます。
 1950年以降、漢民族が急速に流入し、現在は漢民族がウイグル族を上回っているとも言われています。
 広大な新疆ウイグル自治区には石油と天然ガスの埋蔵量が豊富で中国全体の3割はこの地区で生産されています。
 西部大開発の政策によりパイプライン施設や送電線建設などが活発化しています。
 国境はモンゴル、ロシア、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、アフガニスタン、インドなどに沢山の国と接しています。
 首府はウルムチにあり、その人口は250万人で、漢族、ウイグル族など42の民族が暮らしており、標高920mの高原にあり、内陸性乾燥気候のため、夏と冬の温度差は非常に大きくなります。
 1880年、清朝の光緒帝はこの地に新疆省を設置し、1955年、新疆ウイグル自治区が成立すると区庁となっています。




ボゴダ峰

 空港からウルムチ市内に向かうとバスからは目前に雄大な天山山脈の1つの峰ボゴダ(ボグダ)峰が見えてきました。標高は5445mです。
 天山山脈は、とてつもなく大きく、西はパミール高原から東はモンゴルに至る2500キロメートルもあり、中国内だけでも東西1600キロメートルに達します。その最大幅100キロメートルで日本列島に匹敵する超大な山系で、ボゴタ山脈は、その一山域です。
 明日は天山山脈を横切りトルファンへと向かいます。
 なお、トルファンの南側35㎞には海抜マイナス154mのアイディン湖があります。しかし、通常は完全に干上がっていて水があれば塩分濃度が非常に高くなるそうです。
 新疆ウイグル自治区の人口は約2200万人です。



新疆博物館


 いわゆる総合博物館で、1階には新疆歴史文物陳列館、新疆民族風情陳列館があり、数々の文化財が飾られ、新疆の歴史がわかるようになっています。
 また新疆に住む12の民族の衣装や装身具、住居などが展示されています。
 2階にはこの博物館の目玉、新疆古代ミイラ館があります。
 入り口を入るとすぐに新疆ウイグル自治区の地図とシルクロードのルート図が投影されていました。
  私たちが実際に部屋に入り見たのは全体の2割程度で、全体を見るにはかなりの時間が必要なようです。



 バスでバザールに向かいます。途中、バスから見た風景です。


 バスを駐車場に停め、スーパーマーケットの見学です。家内がアーモンドナッツを500買いました。大きな袋で、数百円でした。日本に比べはるかに安いようです。
 家まで持って帰りましたが、食べ終わるのに数週間掛かりました。ピーナツよりも高級感があります。



バザール

 今度はバザールの見学ですが、出入りには手荷物物検査場がありました。買い物するのに身体検査があるのには驚きです。



 個人経営なのかもしれませんが、スマホをいじっている店員の多さには驚きました。




新疆海徳酒店

 ホテルに入るときも手荷物の検査がありました。
 ただし、かなり豪華なホテルです。ロビーではピアノの生演奏がありました。


 昔の中国では、どのホテルでも日本のNHKをそのまま見ることが出来ましたが、尖閣諸島の国有化宣言後、中国ではホテルでの海外放送を中止してしまいました。しかし、ここでは終日、NHK総合チャンネルをそのまま流していました。時差は1時間ですから、午後8時からは日本の午後9時のニュースを見ることが出来ました。
 ただし、今回の旅行で日本語の放送をそっくり見ることが出来たのは、このホテルのみでした。
 他のホテルでは、すべて録画した後の放送を再生させる仕組みでしたが、日本の放送は全く見ることが出来ませんでした。



      

4日目 ウルムチ(新疆ウイグル自治区の区庁)観光後トルファンへ

9:00 ホテル出発  トルファンへ(約200km約3時間)
 途中、塩湖散策 (30分)

 トルファン着後

 ミイラの展示で有名なトルファン博物館(40分)
 ヘゼクリク千仏洞(40分)
 アスターナ古墳群(30分)
 玄宗三蔵が人々に説教した高昌故城(1時間)

21:30 ホテル着

ホテル 火洲大酒店



 部屋からの眺めです。部屋は31階でした。


 バスは天山山脈の中を越え、トルファンへと進みます。今日はバスの最後列に座りました。少し高い座席は結構見晴らしが良くなりました。



 バスは天山山脈を越えてゆきます。
 風力発電機の多さには驚きです。高地なので風も強いのでしょう。



塩湖

 地図を見ているとたくさんの塩湖があります。ここもその一つのようです。
 塩を作るにはいろいろな方法があるそうです。塩分があると思われるところに天山山脈からの水を注いで湖を作り、1年ほど日干しにすると、そこには塩田が広がり塩を取り出すことができるそうです。
 見学した塩湖です。
 google map からも、風力発電機の位置がわかります。
 非常にたくさん見えます。
 天山山脈の間にあるこの地帯には、非常に強い風が吹いており、時にはそれが風車を壊し、風車が道路をふさいでしまうこともあるそうです。



 再びトルファンに向けて出発です。
 高速道路は高速鉄道の下を横切りました。



トルファン博物館

 新疆ウイグル自治区では2番目に大きな博物館で2010年リニューアルオープンしています。
 国宝級の文物が飾られ収蔵品は5000点余りに達し、その8割はトルファンからの出土品です。
 ミイラでも良く知られています。



火焔山へ

 火焔山はトルファンの東、約40㎞を中心に横たわる長さ約100㎞の丘陵で高さは約500mです。
 トルファンは天山北路と天山南路の分岐点であり、シルクロードの重要な分岐点ですが、火焔山付近はシルクロードの難所でした。


 中国の西部にはまだまだ大きな油田があり、その総量はサウジアラビアの半分ぐらいあると言われ、最近、開発が加速しているそうです。



 火焔山地区

 火焔山の中央付近に到着です。これかは北に向かいベゼクリク千仏洞を観光後、アスターナ古墳群を観光し、もう一つの古墳、高昌故城を見学し、トルファンに戻ります。



火焔山中心部

 夏期になると地表から立ち上がる陽炎によって山肌は燃えているように見えることから火焔山と呼ばれるようになりました。
 この火焔山は孫悟空が活躍する西遊記にも登場しています。燃えさかる火焔山に行く手を遮られた玄奘一行がその火を消すことが出来るという芭蕉扇を手に入れるため、その持ち主である鉄扇公主と戦った話が伝えられています。



ベゼクリク千仏洞 

 火焔山山中のムルトゥク河の南岸に作られた仏教石窟です。
 石窟の開削は6世紀から始まり、最盛期は高昌ウイグル帝国がトルファンを支配していた9世紀中期と言われています。
 現在石窟は80室ほどあり、ほとんどの9世紀中期ごろに作られています。当時、この周辺の住民は仏教を信仰しており、ここはその王族の寺院でした。
 その後イスラム教徒がトルファンに入ってくると、イスラムの教えにより、それらの像の多くは破壊されてしまいました。
 また、ここにもロシア、イギリス、フランス、ドイツ、日本などの探検隊が訪れ、壁画を剥がして持ち帰っています。


 19世紀後半から20世紀前半にかけて、ヨーロッパ人や日本人の探検家が敦煌やトルファンなどを訪れ、ここベゼクリク千仏洞では、砂に埋まって居て完全な状態で保たれていた壁画を発見しました。それらの多くは探検隊によって持ち去られ、世界中に散乱ています。最もよく保存されていた壁画のいくつかはアルベルト・フォン・ル・コックによってドイツに送られました。
 それらの中でも誓願図のような大きな壁画もそっくりそのまま持ち去られベルリンの民族学博物館に飾られていましたが、第二次世界大戦の爆撃により破壊され失われてしまいました。下にその写真を掲載しました。
 日本からは大谷探検隊が訪れており、持ち帰った絵画は、東京国立博物館に所蔵されています。下に博物館からのコピーも掲載しました。



誓願図、第二十号窟第九寺院

 ウィキベテアからです。
 これと同じ図は、国立情報学研究所のホームページでも見ることが出来ます。



 東京国立博物館のホームページからです。



アスターナ古墳群

 この地の高昌国住民や唐代西州住民の墓石群で、墓室からは大量の絹製品、陶器、文書などが出土しています。
 この地の墓はすべて斜めの参道とその先の地中に墓室を持っています。
 最古のものは273年で最も新しいものは778年だそうです。墓室には壁画が作られ、夫婦のミイラを見ることもできます。
 内部の写真は禁止でした。



 それら壁画の一つが日本のMOAの所蔵されています。
 左の図はMOA美術館のホームページ、

 http://www.moaart.or.jp/?collections=001

 からのコピーです。



 坂を下ると平地に出てブドウ畑が広がっています。標高は10mでした。
 ここはすでにアンディン湖に近く、ゼロメートル地帯となります。



高昌故城

 故城は非常に広く、私たちはバス2台に分乗して見学でした。

 5世紀のころ、蘭州出身の漢人、麹氏一族によって麹氏高昌国が成立し、以後640年に唐の太宗によって滅ぼされるまで、高昌国は約140年間存続しました。
 9世紀末、唐が全面的に撤退した後、10世紀にはウイグル人の「高昌大王府」がおかれています
。高昌城はその後300年間ウイグル人の拠点として栄えましたが、13世紀にチンギス・ハンの遠征軍に襲撃され、廃墟となってしまいました。
 高昌故城は東西1600m、南北1500mにも及んでいます。王城・内城・外城と3部分に分かれており、居住区は北に、手工業区は南にありました。
 西南から東南にかけての一帯がとりわけ良く残っており、北部は破損が激しくなっています。
 建物は日乾レンガによって築かれており、出入り口はアーチ型で作られいます。ただし、日乾レンガは畑の容土や肥料として使われたため大部分は崩れてしまっています。
 漢代には高昌壁が築かれたという記録があります。
 現在もこの広い城の全体が高い城壁で囲まれています。

 ウイグル語はアラビア文字を使用しています。一般にアラビア文字、漢字、英語の順で説明されています。
 



夕食

 夕食はブドウ園でした。

 ブドウはトルファンの名産品です。トルファンのブドウの歴史は古く、高昌時代の遺跡から発掘された絹にもブドウが色鮮やかに描かれています。
 また唐の時代、トルファンのブドウは「葡萄の美酒 夜光の杯 飲まんと欲して琵琶馬上に催す」と、詩にうたわれ、長安の都人の宴を彩ったそうです。
 ブドウ畑のそばには日乾レンガ造りの建物が建ち並んでいます。そこでブドウを陰干しします。レンガを一つおきに組み、網模様の壁を造り、風通しを良くしています。
 風通しの良い小屋の中に吊るされたブドウは1ヶ月足らずで淡い緑色の干しブドウになり、その半分は海外に輸出されているそうです。
 食後、干しブドウ売り場に案内されました。家内も買いましたが、たくさんに人が土産に買っていました。
 日本で買うのに比べはるかに安いのも魅力です。
 なお、生のブドウより干しブドウの方が高値で売れるのだそうです。



 現地人による踊りが披露されました。さすがに上手いのもです。家内も踊りに加わりました。



 このホテルにも手荷物検査などがありました。ただし、団体客に対しては検査がありませんでした。


      

5日目 トルファンから敦煌へ

9:00 ホテル出発
 天山山脈から流れる清水がきれいなカレーズ(40分)
 観光後トルファン駅へ 約10㎞ 約20分
12:43 トルファン発 高速鉄道 800km 約3時間30分
16:17 敦煌柳園南駅着
 専用車で敦煌市内へ 約138㎞、約2時間
 夕食後ホテルへ
20:10 敦煌ホテル着
OP 敦煌舞踏ショー おひとり様 380元
20:00-21:20 送迎付き
ホテル 敦煌賓館
 トルファンとその近郊は昨日すでに見ているので、今日の出発は少し遅く、カレーズ(水路)を見学後、高速鉄道で敦煌に向かいます。



カレーズ見学

 天山の雪解け水はトルファンの人々にとって常に命の綱でした。ここのカレーズは、天山の麓からゴビ砂漠の中まで20〜30m間隔で竪井戸を掘り、その底を横につないで地下水をオアシスまで引いてくる地下水道です。 一般にはイスラム勢力がトルファン盆地に入って来た11世紀頃に現在のイランあたりから伝わって来たといわれています。
 このカレーズはイランでみたカナートと同じです。
 地表を流れる水は砂に吸い取られてしまうし、蒸発量も多くなります。その上、オアシスまで流れ着いたとしても、地表の塩分を含んでしまい、農業用水として役に立ちません。
 昔、地主は富を得るとカレーズを堀り、水主にもなったそうです。そして、カレーズを使う農民から高額の使用料を取り立てていました。

 ブドウの乾燥室です。風通しを良くしたレンガ積みの部屋の中にブドウを干しておくと、約1か月で干しブドウが出来るそうです。



 トルファンから高速鉄道駅に向かいます。途中、昼食でした。



 高速鉄道は高架橋を走るため、高いところにありますが、この駅にはエスカレーターがないため、荷物を引いて長い坂を登ります。


 プラットホームはさらに高いとこにあり、ここにもエスカレーターがありません。全員、高齢で重い荷物を持っていますので、この階段を手に提げて登ることは不可能です。幸い、ポーターさんがおり、荷物はポーターさんが持って行き、列車の中まで運び込んでくれました。


 列車は二等車で、日本の新幹線の普通席と全く同じ作りです。以前、川崎重工業が日本の新幹線と同じものを売り込んで大きな話題にもなりました。
 外を見ると、しばらくの間、暴風のためか塀が作られ、外は見えませんでした。時々、この様な暴風壁が作られていした。


 広大な広場は太陽電池で埋め尽くされています。
 中国の風力発電量と太陽電池発電量はともに世界最大であるそうですが、これらを見ると理解できます。



敦煌柳園南駅

16:17 敦煌着 専用車で敦煌市内へ 約138㎞、約2時間

 夕食後ホテルへ
20:10 敦煌ホテル着



 トルファンの日本語ガイドさんはここまで同行してくれました。
 この高速鉄道柳園南南駅から敦煌へは、今までとは別のバスで、日本語ガイドさんも変わりました。



敦煌市

 敦煌市に到着しました。今夜の宿は市の中心です。
 敦煌市の人口は現在、15万人と比較的小さい街ですが、唐の時代でも約4万も住んでいたと言われ、当時としては非常に大きな町でした。
 現在は観光業などにより著しく発展している途中です。
 莫高窟はここから東南25㎞の鳴沙山の東の断崖に南北1.6㎞にわたって掘られています。
 敦煌市に住んでいた王や豪族は、当時インドから渡って来た仏教の影響を受け、中国の歴代の王が墓を作ったように、自分の力を示すために、莫高窟に遺跡を残しました。それを作るため、洞窟を掘る職人、仏像を彫る職人、壁画を描く職人などが雇われ、莫高窟の北に住んでいました。
 当時、敦煌市から莫高窟には馬を使用しても1日掛の旅になりました。



 敦煌のホテルです。ここで2泊します。このホテルは海外の要人も宿泊する高級ホテルだそうです。



オプショナルツアー 敦煌舞踏ショーへ

 敦煌舞踏ショーはNHKのシルクロードシリーズでも紹介されている有名な踊りなので行くことにしました。ツアー参加者の半数以上が参加したようです。



 約1時間20分の舞踏ショーでした。大きな舞台の中を素早く走り動くダイナミックな演技に感動です。

 左の一枚の写真は同行した方がメールで送って下さったものです。
 敦煌莫高窟112窟の壁画に描かれている飛天像は敦煌のシンボルになっており、反弾琵琶伎楽天と呼ばれています。
 左の写真は琵琶師が片足で立ち、琵琶を後ろに持ちながら琵琶を奏でる決定的瞬間を良く捉えています。


                              「敦煌の飛天の琵琶や夏の星」 ひとみ



 舞踏ショーの行われた劇場の周りにもたくさんの建物が作られていました。


       

6日目 敦煌観光
 
 いよいよ今日はシルクロード観光の目玉、敦煌莫高窟の観光です。
 敦煌には莫高窟以外にもたくさんの見どころがあります。午前中は莫高窟を見学し、午後はその他のいくつもの名所の観光でした。

8:15 ホテル発
 世界遺産、敦煌莫高窟 (3時間)

 玉門閣 漢代長城、川倉城など 計40分

 西千仏洞(1時間)
 鳴沙山、月牙泉 計1時間20分

20:50 ホテル着

ホテルは連泊



 ホテルのロビーです。ガイドさんによれば外国の要人などが泊まるかなり高級なホテルだそうです。


 ホテルの周りを散歩してみました。
 今までのホテルでの朝食開始時間は6時半でしたが、ここでは8時と非常に遅くなります。ウイグル時間に合わせているのでしょう。明るくなるもの遅くなります。



敦煌博物館
 
 ここで映画を2本鑑賞です。各々別な部屋で行われ、2本目はプラネタリウムの様な天井全体に広がる映像でした。
 全員エアフォーンを借ります。日本人には日本語が流れるようになっています。

 この部屋は第一番目の部屋で、敦煌に関する説明がありました。



シャトルバス

 敦煌博物館と莫高窟の間には専用のシャトルバズが走っており、私たち団体には、日本語を話せる専門のガイドさんが付いて案内します。
 莫高窟に近づくと、鳴沙山の崖に洞窟が見えてきました。
 小さな洞窟がたくさん見えます。
 ここは見学できるようになっている南窟より北にあり、北窟と呼ばれています。莫高窟を作った職人たちが住んでいたのもこの辺りですが、現在、まだ調査はほとんど進んでいないそうです。
 洞窟の数は約700ぐらいあるそうです。



莫高窟

 バスを降りて歩いて行きます。GPSの記録によれば、莫高窟のほぼ端から端まで歩いたようです。莫高窟は南屈から北窟まで1,6㎞あるそうです。莫高窟の前を歩いた距離はこの図から測ってみると約800mでした。北窟は現在見ることが出来ません。
 この広い河を渡ると莫高窟の前に出ます。



莫高窟

 見る部屋はガイドさんによって決まるそうです。混雑防止のため、グループにより割り振るのだそうです。従ってどの部屋を見るかはその日の偶然によるそうです。
 写真は禁止でした。窟の部屋は狭く、かつ混雑していますから、写真は当然無理です。
 ただし、インターネットで検索すれば、莫大な数の写真を見ることが出来ます。
 この莫高窟で見られる最古のものは5世紀前半で、その後1000年にわたって窟が作られ、仏像や壁画が描かれました。時には古い窟を壊し、新しい窟にしたのもあるそうです。
 唐代に作られたものが最も多く225の窟があり、隋代には97窟、北宋や西夏の時代に入ると次第に少なくなり、西夏代のものは20、元代のものは7と推定されています。
 特に1372年、嘉峪関が作られると関の外に置かれた敦煌は忘れられた存在になります。
 この敦煌が再び注目を浴びるのは500年後の1900年のことでした。
 
紀元前5世紀、インドで生まれた仏教は様々なルートを通って、2世紀の頃にはこの地に伝わっています。
 なお、日本の奈良の大仏は天平時代に作られ、ここにある多くの大仏より昔に作られています。

 これらの時代、仏像が中国や日本で作られていった様子を考えてみるとロマンと興味を掻き立てられます。
 巨大な7階建ての建物の中には大きな大仏が鎮座していました。下から見上げるように作られているので、頭は全体に比較し、大きく作られています。
 中には階段があり、上まで登ることが出来ます。
1988年に公開された日本映画「敦煌」は井上靖の小説敦煌を映画化したもので、その内容は北宋や西夏の時代で、敦煌よりもはるかに発展していた西夏は敦煌を攻撃するが、主人公行徳が敦煌の貴重な文化遺産を戦乱から守るため、敦煌郊外の石窟寺院に運び出してゆくものです。
 主役は西田敦煌で、この映画は日本アカデミー賞を得ています。現在は U-Tube で画質は悪いものの誰でも見ることが出来ます。 
 その映画の最後の語りで「そして900年の時が流れた。19世紀最後の年、埋蔵された4万点を超す文献、経典、美術絵画が発見された。だが、埋蔵した人の心を横に、その多くはロシア、イギリス、フランス、日本などの探検隊に持ち去られ、中国には1万点足らずを残すのみとという運命に見舞われた。しかし、蘇ったその埋蔵品は、文化人類学上、今世紀最大の発見と称せられ、敦煌学という独立した分野を成立させたものの程であった。歴史はこの埋蔵に携わって死んでいった者たちのことを何も語らない。」で終わっています。
 15世紀半ばから大航海時代となり陸のシルクロードは次第に衰えてゆきました。
 内部には極彩色豊かな仏像や壁画が残っています。乾燥した環境に守られ、その色は褪せなかったようです。
 ただし、中は真っ暗です。ガイドさんや自分で持参した懐中電灯で照らしながらの鑑賞です。その上、目の高さまでは、ガラスで覆われ、はっきりとは見ることが出来ません。
 現在、NHKハイビジョンにより、ガラスを取り外し、内部を明るくして撮影された映像が放送され、見逃した人もNHKアーカイブスによって見ることが出来ます。
 以下の写真は歩いた順に並べたものです。二階に登ったり下に降りたり、ガイドさんが空いている部屋を探すように案内してくれました。



鳴沙山・月牙泉

 美しい形の大きな砂山です。地図で見ると鳴沙山は敦煌莫高窟まで広がっています。
 月牙泉まで行くのに、ラクダで行くか、カートで行くか、どちらでもよいとのこと、ラクダに乗っても別料金がかかるわけでもありません。
 21名中、ラクダを希望したのは8名で他の人はカートを希望しました。
 以前、ラクダに乗ったとき、かなり上下の運動が激しく、ラクダの鞍をしっかりと握っている必要があり、これなら歩いた方が楽だと思ったことがあり、今回はカートにしました。
 初めての人は乗ってみたいと思うのでしょう。



 ラクダで行く人とカートで行く人は別のルートになり、ラクダ隊はここから出発です。



 急に天候が崩れだし、砂山の方は晴れているのですが、後ろは雷が鳴り出し雨が降ってきました。日本でもゴルフ中によく遭遇する雷雨です。すぐに通り過ぎる感じでした。
 ラクダ隊も出発を見合わせ、雷雨が行きすぎるのを待っていました。結局、出発は20分ぐらい遅れました。



 残りの13名は数台のカートに分乗して月牙泉に向かいました。ラクダ隊も動き出したようです。

 一人乗りの車もあるようです。安定は悪そうです。



 終点まで数百mで、歩いても十分来られる距離でした。拍子抜けです。遠くからラクダ隊がやってきます。



 砂山の上まで階段が作られ登ることが出来るそうです。下りは滑って降りるのだそうです。沢山の人が登っていました。上まで登ってもさらにその先には砂丘がつながっています。



 ここで30分ほど、自由時間ですが、出発が遅れたため、あまりありません。それでも砂山を登った人が居たようです。
 私たちは歩道を通り月牙泉に向いました。



月牙泉

 鳴沙山の谷あいに湧く三角形の泉で、東西200m、幅は一番広いところで50mあり、深さは平均5mです。漢代から遊覧地として知られており、どんなときにも枯れたことがないそうです。
 立派な楼閣が復元されています。


 集合地点に向かいました。雷雨で出発が遅れ見学時間の少なかったのは残念ですがやむを得ません。


 カートで砂丘入り口まで戻り、そこから歩いて駐車場に向かいました。
 砂の彫刻像が幾つか作られていました。



西千仏洞に向かう



西千仏洞

 鳴沙山を挟んで敦煌の反対側にあります。莫高窟の西にあることから西千仏洞と言われています。
 敦煌鳴沙山の洞は千個もあると言われることから、西千仏洞と呼ばれています。現存する石窟は19か所ですが、多くは破損しているそうです。見学したのは2か所だけでした。



蜃気楼

 ガイドさんが「蜃気楼が見えます」と案内しました。
 急いでシャッターを切りました。
 蜃気楼を見たのは初めてでした。確かに湖があるように見えます。
 今は午後6時ごろ、バスは北西に向かっています。日はほぼ西に在ります。地面がかなり熱せられると蜃気楼が現れるようです。
 前方は広大な平地の砂漠です。湖のあるはずがありません。



漢代長城

 漢の時代に作られて漢代長城が敦煌近郊に作られています。
 その近くには兵士のための食糧倉庫や関所などが残っています。



大方盤城遺跡(河倉城遺跡とも言われる)

 1940年代に行われた調査で、多くの穀物の粒が発見されたことから、玉門関に駐留していた兵士たちの食糧倉庫ではないかと考えられています。壁に残る穴は保存のための通風孔のようです。
 かつて北方の匈奴との戦いに備えて国境の長城線には多くの兵士が配備されました。当初、彼らの食糧は内地からの輸送によって供給されていましたが、前漢時代後期には戦闘が頻繁にあり駐留兵士の数も激増したため、内地からの食糧補給だけでは間に合わなくなりました。そのため紀元前112年、武帝は河西四郡をはじめとする国境の駐留軍に、耕地を開拓し平時には農業に従事するよう命じました。漢の全盛時には河西回廊から現在の新疆ヤルカンドまで多くの軍事屯田がつくられました。



玉門関(小方盤城遺跡)

 この玉門関は小方盤城遺跡とも言われています。約25m四方、高さ10mの城壁が残っています。
 ここは漢時代の関所の後で、漢の国家権力が及ぶ西端でした。 



漢長城遺跡

 紀元前121年、酒泉郡が設けられた後に、漢武帝は令居(今の永登)の西に亭、障、塞を建てはじめました。「塞」は長城であり、「亭」と「障」は烽火台であり、大きいのは障と呼ばれ、小さいのは亭と呼ばれています。
 ここでは玉門関の西方から疎勒河の南岸に沿って延々と築かれた漢代の長城を見ることが出来ます。
 2000年にわたって風触されたため現在残された部分は少なく、この付近で見ることが出来る長城後は最も保存状態の良いものです。
 長城は砂と葦や紅柳、胡柳を層にして固めて作られ、間に烽火台がつくられています。
 万里の長城の最西端は明日に尋ねる嘉峪関ですから、この長城は万里の長城のさらに西に在ります。


 のろしを上げるための烽火台が遠くに見えます。


 観光が終わったころはかなり暗くなっていました。


      

7日目 嘉峪関観光

08:00 ホテル出発
 専用バスにて嘉峪関へ 約370㎞、約4時間30分
 昼食後、嘉峪関観光(約1時間)
19:00 嘉峪関空港発 MU-2323 所要約2時間05分
21:05 西安着。空港内のホテル 西安空港大飯店


 朝8時、ホテルを出発です。



 途中、サービスエリアに立ち寄りました。


 再びトイレ休憩です。



 嘉峪関市に到着しました。嘉峪関市の人口は約20万です。
 新中国が成立した1958年ごろ、この地には三十数軒の農家があるだけでしたが、現在は鉄鋼産業が盛んで、また、観光都市として生まれ変わっています。
 嘉峪関駐車場です。嘉峪関は市街地に接しています。



嘉峪関

 万里の長城の最西端は嘉峪関あたりにあります。この長城は明の時代に作られています。
 これより西にある敦煌には漢時代に作られた漢長城があります。 



 嘉峪関にある案内板には日本語も書かれていました。ここでは参考のため、それをそのまま掲載しました。
 これら折角ある日本語ですが、観光中はそれらをよく読んでいる時間はありません。

 行くときは図のように池のほとりを通りました。



馬道

 馬が2階に登るために作られた道ですが、今は観光客のために階段が作れれています。昔、敵が登ってくるとこのような歯車を上から転がし撃退したそうです。


市街地に沿って万里の長城が見えます。



万里の長城跡



一個のレンガ



 2階からみた城内です。なにやらデモンストレーションが行われていました。



 階段を下り、いったん城外に出ました。城の西端です。


 地図の一番左端の場所にあります。ラクダや砂漠走行用の車がありました。戻り用なのでしょうか。


 ここから再び城の中に入り、城の中央を通り抜けて戻りました。



四つ星トイレ

 入り口には立派なトイレがあり四つ星マークが付けられていました。テレビや休憩室もあります。



帰りはここから違う道を通ります。

 来た時見たのと同じ石ですが、ここから帰りの道が異なります。



嘉峪関空港から西安空港へ

 嘉峪関空港から西安に戻ります。
 飛行時間は約2時間です。


 嘉峪関空港に到着しました。ここでガイドさんとお別れです。


 西安空港には最初に会ったガイドさんが待っていて、ホテルへ案内してくれました。
 ただし、ホテルは完全に空港の中に作られていて、荷物は自分で部屋まで運びました。


      

8日目 西安から成田へ

06:00 ホテル発
08:15 HU7927  所要時間 4時間40分
13:55 成田着 

 

 無事、成田空港に到着です。自家用車を近くの駐車場に預けてあるので、連絡バスで駐車場に向かい、その後、自宅に戻りました。自宅到着は午後5時半ごろでした。


 このホームページを作るにあたり、今回の旅行で取りた貯めたたたくさんの写真を地図の上に張り付けてゆくと、広大な中国の地理が鮮明になってきました。今までに見たNHKの映像も、その位置関係が自分の頭の中では、それほどはっきりしていませんでしたが、今回の旅で、タクラマカン砂漠、ゴビ砂漠、天山山脈、西安、敦煌、トルファンなどの位置がすぐに頭に浮かぶようになってきました。また、中国の広さを実感することも出来ました。
 中国は現在一帯一路計画を掲げ名実ともの世界一を目指し昔の道を新しい道に作り替え経済の拡大を目指していますが、佐倉市立図書館からDVDを借りてきて、NHKのシルクロードシリーズ第2部や、新シルクロードの「激動の大地を行く」シリーズを見ていると、中国からヨーロッパに続くそれらの道の姿が良く描かれていました。
 昔、ヨーロッパではローマ帝国が地中海を中心にイギリスの半分を含むまで拡大しましたが、間もなく縮小し、数多くの国に分裂して行き、ソ連邦も分裂しています。しかし、分裂したことがそこに住む人にとって悪かったわけでもなさそうです。ただし、あまりに分裂が進むと摩擦が生じ、現在はEUが作られたりしています。
 広大な領土を有し、多民族が暮らす中国が今後の長い歴史でどのような道を通るか、私が生きているうちには知る由もありませんが、広大な国土を有するロシア、カナダ、アメリカ合衆国などを含め、いろいろと想像してみるのは楽しいものです。





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