善光寺参拝と松代城下町散策、
馬篭宿と妻籠宿の観光 |
このところ雨が多く、なかなかドライブにも行けませんでした。天気予報を見ていると、今度の3連休は初日の午前中を除き、後は快晴のようです。
早速どこかへ出かけようと思ったのですが、まだ紅葉には早いので、昔行ったことのある善光寺や中山道の宿場町、妻籠宿などへ行ってみました。 |
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再生速度は右下の三つの星を押すと早くしたり遅くしたりすることが出来ます。 |
1日目 自宅から妙義グリーンホテルへ
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急に決めた旅行なので、なかなかホテルが見つかりません。
とりあえず、空いているホテルを見つけ午後になってから出かけました。
今夜のホテルはゴルフ場付属のホテルでした。 |
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ゴルフ場付属のホテルに泊まり、プレーをしないのは初めてでした。
プレー代を入れた宿泊料金とプレーをしない場合の料金差はわずか 1,500円程度です。
大変残念ですが、今回は善光寺の観光をしたかったのでやむを得ません。 |
2日目 善光寺、松代城などの見学
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今日は久しぶりに善光寺にお参りし、その後、善光寺から7kmほどの所にある松代町の観光です。途中、川中島古戦場に立ち寄りました。 |
妙義山
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朝起きると、妙義山が朝日で輝いていました。
まだ、月が残っていて、中秋の満月を数日過ぎてはいるものの、このところ、雨や曇りが多く、お月見を出来ませんでしたが、ようやくここで見ることが出来ました。
今日は天気が良さそうです。 |
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ホテルはゴルフ場に隣接しており、一般にはゴルフをする人のためのホテルの様です。
部屋からはゴルフ場のクラブハウスが見えます。 |
妙義グリーンホテル
3連休のためか、子供連れなど家族での宿泊者もかなり居りました。今日は完全満室だそうです。
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朝食のバイキングにはこの地の名物、刺身コンニャクが置かれていました。 |
近くにはたくさんのコンニャク畑がありました。
善光寺
創建は642年で本堂は国宝になっています。
江戸時代の終わりごろから、「一生に一度は善光寺詣りを」と言われるようになり、「牛に引かれて善光寺参り」 という言葉も有名です。久しぶりに参拝しました。 |
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何時もは善光寺の北側の駐車場を利用しますが、今回は門前町を通りたいと思い、仁王門より南側の駐車場を利用しました。 |
門前町を歩いて善光寺に向かいました。
宿坊
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宿坊のようです。たくさんの団体客の名前が書かれていました。 |
大本願
善光寺大本願は、善光寺の本尊 「善光寺如来」 が遷座された642年から続く尼僧寺院です。明照殿にも入ってみました。。
仁王門
仁王門をくぐりしばらく進むと山門が現れます。
山門をくぐると牛を飾った建物がありました。
誰もが知る「牛に引かれて善光寺参り」の牛です。
振り向くと山門が見えます
大勧進
善光寺大勧進は、天台宗の大本山で、武田信玄と上杉謙信の位牌が納められています。
本堂が現れてきました。内部は写真禁止でした。
経蔵・重要文化財
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宝暦九年(1759年)に建立された宝形造りのお堂です。内部中央には八角の輪蔵があり、その中には仏教経典を網羅した『一切経』が収められています。
輪蔵に付属している腕木を押し回すことでこの『一切経』を全て読んだことと同じ功徳が得られるといわれています。また、経蔵内には輪蔵を考案した傅大士、並びに伝教・慈覚の両大師像が祀られています。 |
親鸞聖人像
善光寺本堂の前に飾られています。
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善光寺から見た西側の風景です。そろそろ、紅葉の季節です。 |
神風特攻隊碑
善光寺の後ろに回ると幾つかの碑が作られていました。
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自分の臓器を提供した人たちの慰霊碑ですが、よく見ると白い×印のいたずら書きが3ヶ所、書かれています。
中年の女性が善光寺周辺の文化財に白いペンを持ち×印を書き入れている防犯カメラの映像がテレビで流れていました。
この写真を撮ったときは気が付きませんでした。 |
日本忠霊殿・善光寺史料館
戊辰戦争から第二次世界大戦に至るまでに亡くなられた240万余柱の英霊を祀る、我が国唯一の仏式による霊廟です。御本尊は秘仏の善光寺如来様の分身仏です。(高村光雲門下
関野聖雲作)
1階には善光寺所蔵の什物を展示する「善光寺史料館」が併設され、絵馬などを通して全国に根付く善光寺信仰の歴史を垣間見ることができます。 |
鐘楼・梵鐘 重要美術品
嘉永六年(1853年)に再建された檜皮葺の建物で、南無阿弥陀仏の六字にちなんで6本の柱で建てられています。
梵鐘は寛文七年(1667年)鋳造の名鐘であり、重要美術品に指定されています。
毎日午前10時から午後4時の毎正時に時を知らせる鐘として、更に長野オリンピックの開会を告げた鐘として親しまれています。 |
善光寺の名の付いたお寺はたくさんあるようです。.
参拝を終え、来た道を戻りました。
釈迦堂
戻る途中、左を見るときらびやかなお堂があり、その中に入ってみると、人物大の釈迦涅槃像が横たわっていました。
写真は禁止でした。 |
川中島古戦場史跡公園
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善光寺から長野市松代町の松代城まではわずか7kmしか離れていません。その中間に川中島古戦場史跡公園があり、立ち寄ってみました。 |
そこには第4次川中島の戦いでの有名な場面、上杉謙信が馬に乗り、刀を振りかざし、対する武田信玄は鉄の軍配でそれを受け払います。
このような大きな戦いで、大将同士が直接面と向かって戦うのは不自然で、これは後での作り話と言われていますが、ドラマや映画ではこの場面がよく現れます。
上杉謙信は自らを毘沙門天の生まれ変わりと称し、毘の旗を持ち、信玄は風林火山の旗を持っています。 |
この公園には当時をしのび、神社なども造られています。
公園の一角に大きな合戦図が飾られていました。この図はここの地形に合わせ、南が上に、北が下に描かれています。わかりにくいので、google map
にそれらを書き入れてみました。
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川中島の戦い
昔から何度ともなく大河ドラマや歴史番組で放映されていますが、その理解度はいまいちなので、NHKで放送された番組などを幾つか見直してみました。書いていて面白くなり、かなり長い文章になってしまいました。 |
16世紀に入り、室町幕府の権威が衰え各地の武将は領土拡大を目指していました。
そのような中、戦国大名、甲斐の虎と言われる武田信玄と越後の竜と言われる上杉謙信は川中島で5回も戦い、いずれも引き分けで終わっています。
最初の戦いは1553年年、第5次の戦いは1564年、その間、戦いは12年も続きました。
最初の戦いは信玄は31才、謙信は23歳の時でした。信玄にとっては33歳から44歳までで人生の最も充実した時に消耗戦を続けていたのでした。
謙信は信玄を坂東の弓矢柱と称え、信玄は謙信を日本無双の名大将と称えました。お互いの好敵手でもありました。
しかし、川中島の戦いは相手の裏を読みその裏を読む頭脳戦でもありました。
この合戦は甲陽軍艦(江戸時代初期に編纂された武田氏の戦略・戦術が記された軍学書)や甲越信戦録に詳しく書かれています。しかし、いまだ詳細はわからず戦国史上最も謎に満ちた戦いであったとも言われています。
それに遡ること約30年前の1521年、甲斐の国、武田家に男の子が生まれました。信玄の誕生です。父の武田信虎は二十もの領主がひしめいていた甲斐の国を一代で平定した勇猛な武将でした。しかし、なにかと強引な信虎に家臣たちは不満を募らせていました。
1541年、武田信玄21歳の時、甲府は台風などの災害で農業が深刻な被害を受け飢餓に苦しんでいました。しかし、隣国との戦いを続ける景虎に家臣たちは反乱を起こし、景虎を追放し信玄を当主に引き立てます。まさに下剋上の時代でした。
しかし、信玄はあまりにも若く、実績もなかったため、家臣に軽んぜられ、嫌気をさした信玄は当主を放棄したこともありましたが、信頼する家臣の説得もあり、その後、家臣たちの意見を尊重し、こまめに評価し、いわゆる成果主義を取り入れるとともに、人の和を大切にして行きました。いわゆる鉄の結束を持つ家臣団が誕生したのです。その中には軍師、山本勘助もおりました。
その後、信玄は隣国信濃に攻め入り、次々と豪族を倒し、領土を拡大して行きました。信濃には穀倉地帯もあり、特に川中島は土地が豊かであり、その先、越後を越えれば海に達し、塩や魚にも魅力を感じていました。
1548年、信玄28歳の時、北信濃最大の有力武将村上義清との戦いに挑みます。北信濃の義清を倒せば次は越後が見えてきます。しかし、この戦いで思わぬ反撃にあい信玄自身も大きな傷を負い、武田軍はまさかの惨敗をします。不慣れな土地で準備もせずに戦を始めたのが原因でした。この敗戦を機に服従していた信濃の武将たちが反旗を翻します。連戦連勝だった信玄は一転、窮地に陥ります。これを支えたのが山本勘助でした。その結果、信玄はまた力を盛り返し、反撃を始め、信濃の武将たちの反乱も次々と制圧されてゆきます。その後、村上義清を討取ります。勘助をはじめとする家臣の働きによるものでした。
しかし、さらに北に進軍するためには越後と信濃の国境線となっている川中島を突破する必要がありました。
1530年、上杉謙信が上越市の春日山城で上杉家の4男として誕生します。しかし、父親から疎まれ7歳の時、地元の林泉寺に預けられました。謙信はそこで住職の天室光育から学問や戦国武将としての教えを受けます。
謙信13歳の時、父為景が病死し、謙信は寺から呼び戻されます。葬儀に出席していた人たちは全員、鎧兜を身に着けていました。越後では有力武将が争い続けていたのです。家督を継いだ兄・晴景は病弱で戦いに出るのは無理でした。そこで謙信は兄の代わりに指揮を執ることになったのです。わずか14歳での初陣でした。
その後、謙信は次々と勝利を挙げ、家来たちは謙信こそ家督にふさわしいと願い、兄も家督を譲るのを承諾します。
19歳で後を継いだ謙信は内乱の続く越後をわずか3年で統一、初陣以来負け知らず、稀代の戦い上手として名をとどろかせていました。そして、21歳の時、正式に当主となります。
関東地方はかって鎌倉幕府が置かれた場所でしたが、鎌倉幕府を倒した室町幕府は関東管領を置き、関東を統治していました。しかし北条氏が徐々にその支配領域を広げ、関東の半分近くを征服していました。
1552年、関東官僚は信越を訪れ、上杉に関東を守るように頼み込みます。また、武田に敗れた村上軍も越後に逃げて謙信に信玄を打つよう懇願します。義を重んじる謙信はそれに答え数千の兵で関東に遠征します。
この頃、信濃に攻め入り領地を拡大していた信玄にとって、まだ領地のなっていないのは北信濃の千曲川と犀川に挟まれた広大な三角州である川中島周辺だけとなっていました。
1553年、信玄はこの川中島の獲得に向かいました。このとき謙信は24歳、若くして越後を統一したばかりでした。川中島に入ってくる信玄軍に対し、大軍勢で信玄と戦いますが信玄が優勢で、信玄は謙信の山城を次々と落として行きます。20日間の戦いの後、謙信は越後へと引き上げます。これが第一次川中島の戦いでした。どちらが勝ったという訳ではありませんでした。
この年、謙信は初の上洛を果たし、後奈良天皇および室町幕府第13代将軍・足利義輝に拝謁し、正式に北条氏の討伐の勅命をうけます。しかし、家臣たちは戦っても褒章のない戦いに嫌気を差し、謙信の権威は落ちて行きます。
1554年、謙信の命令に従わない家臣に嫌気を感じ、突然、謙信は書状を城に残し、大名の地位を投げ出し、放浪の旅に出ます。しかし、当主が居ないままでは、南から迫る武田軍に越後を取られてしまいます。困った家臣たちは謙信に戻るよう懇願します。謙信は家臣に誓約書を書かせ、綱紀粛正を行います。謙信はこの事件で大きな勉強をし、家臣に義を説くとともに、次第に家臣の信頼を得てゆきます。
1554年、信玄は北の謙信との戦いに備え、その背後に位置する、駿河の今川、相模の北条に働きかけ互いに婚姻関係を結んで軍事同盟を成立させます。また、戦いを有利にするため、善光寺の僧、栗田鶴寿を味方に付けます。
1555年4月 準備を整えた武田軍は川中島に進軍し、第二次川中島合戦が始まります。両軍は犀川を挟んでにらみ合います。上杉軍は前に信玄、後には善光寺があり、お互い手を出せずにらみ合いが続きました。信玄は善光寺の西1.5㎞のところにある旭山城を武田側に寝返えらせ、旭山城にも援軍3000人を派遣します。そればかりか弓800張、鉄砲300挺を投入して万全の構えでした。この頃の戦いは山城の取り合いが中心でした。信玄は川中島の周りにたくさんの城を作って国境の守りに備えていました。しかし、謙信もたくさんの城を作っており、お互い容易に手出しが出来ず、膠着状態になっていました。その状態は200日も続き、お互い、限界に達していました。
甲府から遠く離れたこの地での膠着状態は食料運搬が容易でない武田に不利でした。武田は今川氏に頼み、旭山城を捨てて、かつ川中島から撤退するという和議を結び、兵を引きこの戦いは終わりました。しかしそれは信玄の策略でした。
この第二次川中島の戦いから2年後の1556年、謙信が雪で出兵できないのを見計らって信玄は協定を破り再び川中島に侵攻します。約束を破った信玄に謙信は激怒します。
信玄の信濃侵略によって信濃の豪族たちは滅亡に追いやられ神社仏閣は破壊され民衆の悲しみの声は絶えない。隣国の主としてこれを黙認することは出来ない。謙信の義の精神が戦いに駆り立てます。
謙信は1557年4月正義の戦いを旗印に三度川中島に出陣します。第三次川中島合戦の始まりです。謙信は川中島を越え、さらに奥へと進撃します。しかしこの時信玄は出陣せず、兵にも謙信と直接戦わないように命じます。武田軍は決戦を避け、謙信が攻めてくると退却し遠くから相手陣を見守る作戦を取りました。謙信はその戦法に対し、大変いらだっていました。しかし謙信は信玄の強さを身に染みて知っているため深追いはしませんでした。そのうち、越後国内で一向一揆が発生し、謙信は引き上げざるを得ませんでした。この戦いも引き分けに終わりました。
この頃、信玄の領国、甲斐では飢饉が深刻な一途をたどっており、さらなる領土拡大が必須でした。しかし、同盟を組んでいる今川や北条に攻め入るのは不可能です。西は山岳地帯で攻め入っても食料は手に入りません。そのため、なんとしても越後に攻め入らねばなりませんでした。川中島は長野盆地で平坦で豊かな穀倉地帯でした。そのため、信玄は次の第四次川中島の戦いに備え、戦略を練り続けていました。
1559年4月 上杉謙信は再び京都を訪ね、将軍足利義輝と面会し関東を統治する「関東管領」の地位就任の内諾を得ました。そして、関東の秩序回復という大義名分を得たのです。
1560年5月、桶狭間の戦いで、今川義元が信長に打ち取られます。これは、武田、今川、北条の三国同盟にとって大きな痛手でした。
関東平定を狙う謙信はこの動揺を見逃しませんでした。
1960年8月北条氏の支配する関東平野に侵攻を開始します。謙信軍は怒涛の勢いで関東に入り、北条氏を小田原城まで追い詰めます。この事態は信玄にとって脅威でした。もし小田原城が落城すれば武田の領地は周辺国から攻め込まれます。唯一の頼み、今川軍も義元の死によって混乱状態でした。信玄の領地は謙信の大躍進によって一気に脅かされることになったのです。
1961年3月、上杉の姿は鎌倉にありました。室町幕府の要職である関東管領の一大式典を挙行するためでした。
信玄は前回の戦いでの欠点、すなわち食料補給の重要性を強く感じていました。それを解消するため、川中島に城を築き、食料を蓄える城を必要としていました。
信玄はこの機を見逃せんでした。謙信が越後を留守にしたのを見て、千曲川のすぐ前に海津城をわずか80日で築いたのです。その城造りには山本勘助が深くかかわっていました。そして、海津城には武田の一部隊としては最大兵数を要する450騎、2000以上の軍勢が集められました。当時、海津城のすぐそばには千曲川が流れていました。そのが徐々に流れを変え今の姿になっています。
1561年8月、海津城の築城を知った謙信は急きょ鎌倉から戻り、本拠地春日山城に留守部隊2万を残し1万8千の大軍勢を動かし、わずか1日で善光寺に達しています。ただしこれは信玄のもくろみでもあり、信玄にとって謙信を倒す絶好のチャンスでもありました。
いわゆる第四次川中島の戦いの始まりでした。
謙信がこの地に現れたことを知った海津城の武田軍は本国甲斐に向けてのろしを上げます。前もって作られていた沢山ののろし台のリレーによりその日のうちに信玄に伝えられました。
援軍の居ない海津城は風前の灯でした。ところが謙信は海津城のすぐ近くを通りながら、それを横目に海津城からわずか2kmしか離れていない妻女山に布陣します。当時、山の上に陣を構えることは戦いの定石でした。ただし、この時なぜ謙信は海津城に戦いを仕掛けなかったのかは謎ともされています。謙信もまた信玄との決戦を挑むべき、信玄の到着を待っていたのかもしれません。また、謙信は決死の覚悟を信玄に見せつけたとも言われています。
信玄は甲府で急きょ軍隊を招集し北に向かい、妻女山に陣取った上杉軍を警戒しつつ、茶臼城の武田本陣に到着後、海津城に無事入城を果たします。海津城に到着したのは上杉軍に遅れること10日目でした。
信玄は、気の短い謙信がすぐに戦いを仕掛けてくると予想していました。しかし、何時まで待っても謙信は動こうとしません。
この戦いは相手の裏を読み、さらにその裏をも読む神経戦でもありました。
ここで信玄は軍議を開きます。そして採用したのが、武田軍の軍師と言われる山本勘助の案、啄木鳥(きつつき)の戦法でした。
待つこと15日、9月10日午前1時、先に動いたのは信玄でした。武田軍別動隊1万2千が闇に乗じて上杉軍の立てこもる妻女山の背後に進撃させます。
兵を2つに分け、別動隊が上杉軍を背後から奇襲し、山から謙信軍を追い落とした後、川中島で待ち伏せしていた武田軍で挟み撃ちにしようとするものでした。
しかし、信玄のこの作戦はすでに謙信に見抜かれていました。前日の夕刻、武田軍の動きを察知した謙信は全軍に指令を発しすぐさま下山の準備をさせます。
深夜、上杉軍は武田軍に先んじて行動を開始します。1万3千の上杉の軍勢が静かに千曲川を渡ります。すべての馬にはいななきを出さないよう馬具をかませていました。
「鞭声(べんせい)粛々、夜河を渡る」。後に儒学者、頼山陽が詩に歌い、詩吟にも唄われています。沈黙の行軍は一糸乱れぬ見事なものであったと言われています。上杉軍は闇の中、千曲川の北に布陣します。
一方信玄は、別動隊が妻女山から追い落としてくる軍を向い打つため、本体を率いて海津城を出発しました。
1561年9月10日、早朝、記録によればこの日の朝、川中島には濃い霧が立ち込めていたと言われています。
信玄は千曲川の北、八幡原に到着、布陣します。そして別動隊が妻女山で戦いを起こし、上杉軍が慌てて下山してくるのを待つだけでした。やがて夜が明けると同時に霧が晴れ渡って行きました。その時、信玄は信じられない光景を目にします。目の前に居るはずのない上杉の軍勢が隊列を整え、攻撃態勢で武田軍の前に立ちはだかっていたのです。
謙信の号令一下、上杉軍は一斉に怒涛の攻撃を開始しし、武田の本陣を襲ったと伝えられています。一方、予期せぬ事態に動揺した武田軍は本陣近くに密集、混乱の中、劣勢となります。
いずれ妻女山の武田別動隊が上杉隊の背後の到着する。それまでは何としても持ちこたえよ、信玄は敵の迫る本陣で武将たちを叱咤します。この頃、妻女山がもぬけの殻であったことを知った武田別動隊は本隊の待つ八幡原に急行します。しかし、千曲川の対岸には上杉軍が待ち構えていました。河を渡ろうとする武田軍は狙い撃ちされ、次々に戦死、千曲川は鮮血で赤く染まったと言われています。上杉軍の火のような猛攻に武田軍の守りは次々に破られ、上杉軍は信玄の本陣に迫ります。
上杉側には次のような記録が残されています。武田軍の守りを破った上杉の家臣荒川伊豆の守は信玄に迫る。馬上から一気に信玄に切りかかった。信玄はその瞬間、軍配で太刀を振り払った。その危機を見た武田の兵が伊豆の守の馬を槍で突き、伊豆の守は敗走、信玄はようやく窮地を脱した。
信玄は決断を迫られます。それは「動かざること山のごとし」でした。耐え忍ぶことおよそ4時間、再び上杉軍が武田本陣に殺到しようとしていたその時、武田の別動隊がようやく千曲川を渡り、八幡原に到着します。この知らせを聞くや否や、信玄の手が高々と上がります。突撃を開始せよ。
午前10時過ぎ、武田軍の怒涛の反撃が始まりました。「侵略すること火のごとし」、朝からの戦いで疲れ果て、さらに挟み撃ちにあった上杉軍は浮足立ちます。戦況は一転、武田軍が優勢のまま夕刻まで続きました。やがて上杉軍は撤退を開始、午後4時、合計4万人もの兵がぶつかり死傷者2万7千を出し、戦いは終わりました。生き残った武田軍は勝鬨(かちどき)の声を上げました。「上杉敗れたり、川中島は我が武田の手中にあり」。
わずか1日で両軍合わせて戦死者は8千にも達し、これは戦国史上、最大の数とも言われています。(関ヶ原の戦いでも戦死者は約8千人と言われています)
この戦いで信玄は実弟等多くの有能な武士を失っています。激戦の中、山本勘助も討ち死にしてしまいます。しかし信玄はこの戦いで信濃全域を実質的に手に入れています。
一方謙信は、帰国後、共に戦った武将たちの書状を渡しています。ご苦労のおかげで兇徒を多数討取り年来の本望を達した。謙信も武田軍に大打撃を与えた戦いを勝利としたのです。
この戦いは痛み分けで終わりましたが川中島は武田の領土として残りました。上杉謙信の関東平定の夢は終わり、一方、信玄はその後越後への侵攻を控え、攻撃目標を南へと向けます。こうして、東国は統一されることなく、新たな時代を待つこととなったのです。
この戦いの様子は、詳しく記録に残され、その後の戦い方に大きな影響を与えました。時代が大きく変わっていった時代の象徴でした。
その後、1564年第5次川中島合戦が起こりますが両軍とも刃を交えることなく撤退します。これ以後、両者が戦場で相見えることはありませんでした。
越後への侵攻を断念した信玄は領土拡大の矛先を駿河の今川氏に向けます。越後を敵にしたまま、南の今川氏を敵にした武田は塩が全く手に入らなくなりました。民は苦しみます。そんなある日のこと、信玄のもとに大量の塩が届けられました。それは上杉謙信からのものでした。
たとえ宿敵と言えどもその窮地には手を差しのべる。「敵に塩を送る」という言葉はこの故事に由来します。
その後信玄は西へと領土拡大を続け、その領土は美濃に至る大大名と成長して行きました。
しかし、信玄と謙信が争っている間に西では信長が台頭しつつありました。信玄は西に兵を進め、その途中、徳川家康と三方が原の戦いで圧倒的な勝利をおさめ、信長と天下をかけて戦おうとしていました。
その矢先、旅先で病に倒れこの世を去ります。享年53でした。死に際し信玄は息子に言い残しています。「上杉謙信とは和議を結ぶように、謙信は男らしい武将であるから頼っていけば若いお前を苦しめるようなことはしないだろう。私は大人げないことに、最後まで謙信に頼ると言い出さなかった。お前は必ず謙信を頼りとするが良い。上杉謙信はそのような男である」。信玄が死に際し最後に思ったのは謙信に対する敬慕の思いでした。
信玄が亡くなったという知らせを受けた謙信は、「我、好敵手を失えり、世にまたこれほどの英雄男子あらんや」、と号泣したと言われています。
一方、謙信は再び関東に遠征します。上杉謙信37歳、6度目の出兵でした。その遠征で千葉県佐倉市の臼井城を攻めたてます。(注:この臼井城址公園は我が家のすぐ近くにあり、何度か散歩したことがあります。確かに1方は崖になっていますが、現在はすぐ近くまで民家が迫っています)。
ここは宿敵北条氏の一大拠点で三方を崖や沼に囲まれ本丸の守りは固く、そこに至る道は一つしかありません。しかしこの道は危険な罠でした。上杉軍は1月掛かっても攻め落とせません。無謀な総攻撃をかけ、数千人の死者を出してしまいます。謙信、人生最大の敗北です。この負けを機に家臣の中に敵に寝返るものが相次ぎます。人助けの遠征で、自分たちのなんの得があるのか。義による人助けが家臣に犠牲を押し付けていたのです。
謙信は41歳で出家し不識院謙信と名乗りました。この時から謙信の方針は変わり、関東出兵を止め、西、現在の能登半島の方に向かい、能登の七尾城を攻め落とします。対する織田軍は重臣柴田勝家に3万の兵を預け城の救援を命じましたが、謙信は信長の援軍が来る前に七尾城を陥落させました。一方織田軍は進軍の途中でこの知らせを受け取り退却を決定します。撤退する織田軍に上杉軍が追撃し手取川で戦闘が開始されました。ここで織田軍は思わぬ大敗を喫します。「信長も存外弱いものだ」 と謙信は呟いたそうです。謙信はその領地を家臣たちに分け与え家臣たちは結束を高めて行きます。しかし、それから半年、謙信は脳出血でこの世を去ります。享年49、信玄の没後5年でした。
謙信は一生独身を通し、生涯70の戦いをして負けたのは2回だけだと言われています。
なお、1579年、信玄の子、武田勝頼と謙信の子、上杉景勝は同盟(甲越同盟)を結んでいますが、1582年、織田・徳川連合軍と北条軍による本格的な甲斐侵攻が開始され、武田家は滅亡してしまいました。 |
公園の中を散策してみました。長野市立博物館やプラネタニウムもありました。
松代城
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大坂夏の陣で徳川側に付いた真田家の長男、真田信之は、家康からこの海津城を与えられます。信之は海津城を手直し、松代城と名前を変え松代藩の藩庁となり、江戸時代のおよそ250年間、明治維新まで真田氏の居城となっていました。
なお、江戸時代、地震や火災により、真田の居城は城外に作られた真田邸に移っています。明治5年、廃城となり跡地は藩士に払い下げられ畑に変えられましたが、明治37年、真田幸正が買取り、本丸跡地を遊園地として開放しています。昭和26年、真田幸治により本丸が寄付され公用地となり、2004年、太鼓門、塀、石垣、土塁などが復元され、2006年、日本100名城に選定されています。
この城は善光寺からわずか7kmのところにあります。訪れた時、ちょうど、松代藩真田10万石祭りが行われていました。真田の子孫や公募で選ばれた人たちが大名行列を演じていました。 |
お城に到着すると大変な人だかりです。
馬に乗った侍がちょうど出てきたところでした。よく見ると、慶応大学教授の真田幸俊先生のようです。現在、大学では、ブロードバンド無線システムの研究をしており、何度かお目にかかったことがあります。真田家14代当主だそうで、子供のころから馬に乗るのは慣れているのでしょうか。それにしても何かとお忙しそうです。
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真田宝物館
松代を代表する宝物館です。
内部は写真禁止でした。下の文章は真田宝物館のホームページからのコピーです。
真田家十二代当主・幸治氏から1966(昭和41)年に譲られた武具、調度品、書画、文書などの大名道具を収蔵・展示する博物館として開館。松代藩真田家の歴史と、大名道具を紹介する常設展示室、テーマを定めた企画展、特別企画展が行われる企画展示室からなっています。
国の重要文化財「青江の大太刀」、真田昌幸(信之・幸村の父)所用の「昇梯子の具足」、武田信玄・豊臣秀吉・石田三成・徳川家康らの書状など、貴重な資料はおよそ5万点におよびます。
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真田邸
この真田邸は1864年、松代藩9代藩主、真田幸教によって建てられました。現在内部が解放されています。
真田邸から文武学校へ歩いて行きました。
文武学校・近代的な学校の先駆け
下の文章は文武学校のホームページからのコピーです。
文武を奨励した松代藩八代藩主・幸貫が水戸の弘道館にならって計画し、九代・幸教の時代に完成した松代藩の藩校です。藩士の子弟が学問と武道を学ぶ場として、1855(安政2)年に開校しました。
教室にあたる文学所、武術を学ぶ剣術所、柔術所、弓術所、槍術所などが配置されています。
当時の時間割には東洋・西洋の医学、小笠原流礼法、西洋の軍学なども組み込まれており、先進的な教育が行われていました。各地の藩校の多くが幕府の学問所にならって敷地内に孔子廟を設け、儒教を重んじる風習がありましたが、文武学校には設けていないことからも、近代的な学校の先駆けであったことがうかがえます。
建物は、創建時の姿を現在に伝る貴重な遺構で、1953(昭和28)年に国の史跡に指定されています。
武道の稽古や大会に使われている剣術所・槍術所をはじめ、江戸時代の面影をそのままに質実な空気漂う敷地内は、映画や時代劇のロケにもしばしば利用されています。
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松代城跡
先ほと来たときはお祭りで城に入れなかったので、もう一度訪ねてみました。
今日の宿は駒ヶ岳を望む、駒ヶ根温泉ホテルでした。登山のための山小屋ですが、この部屋だけは立派でした。
木曽駒ケ岳は中央アルプスの北側に位置しています。素泊まり客がほとんどで、たくさんの登山客が朝4時ごろに起きて、山に向かうのだそうです。外人客もたくさん来ていました。
ここに泊まった理由は急な思い付きの旅行のうえ、3連休の中日でもあり、空いているホテルがなかなか見つからなかったためでした。でも、なかなか良い部屋で、温泉は24時間利用可能で、WiFiも設置されていました。。
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3日目 中山道の馬篭宿、妻籠宿の散策ご自宅へ
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今日は3連休の最後日なのでかなりの渋滞が予想されます。そのため中山道の馬篭宿と妻籠宿を観光後、どこにも寄らずにまっすぐ自宅に向かいましたが、甲府付近から大渋滞が始まってしまいました。
自宅到着は午後8持ごろになりました。 |
今日も予定通りの晴天です。宿から駒ヶ岳が良く見えます。今朝も朝日に照らされ、お月様が良く見えていましたが、わずか1日で月の欠はだいぶ大きくなるものです。 |
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駒ヶ岳ロープウェイを使用するとかなり上まで登れるそうです。中山道に行くのを止めロープウェイを利用し、山岳の景色を楽しもうと思い宿の人に聞いたところ、今はマイカー規制でバスを利用しなければならず、かつ、ロープウェイをは何時も混雑しており、2時間待ちが普通だとのこと、行くのを中止し、予定通り中山道に向かいました。
左の写真をよく見るとロープウェイが写っており、すでに走っているようです。 |
中山道・馬篭宿、妻籠宿
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中山道とは江戸の日本橋と京都の三条大橋を結ぶ街道で、約508㎞もあり、東海道より40kmも長い街道でした。
その中にある木曽路は木曽川に沿って作られた街道で、この二つの宿は木曽郡南木曽町にあります。 |
馬篭宿
昔の町並みが600mに渡る狭い坂道を挟んで並んでいます。車を道路わきの無料駐車場に停め宿場町を散策しました。
途中に藤村記念館があります。 |
藤村記念館
中を見学してみました。写真は禁止でした。本などが沢山飾ってありましたが、読んでいる時間はないので、ざっと眺めるだけでした。 |
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島崎藤村の小説、夜明け前は 「木曽路はすべて山の中である」で始まります。 |
再び坂を上ると国道に出ます。宿場町はここまででした。ここから妻籠宿まで、ハイキングコースが作られており、歩いて妻籠宿まで行くことが出来ます。
その途中、馬篭峠を越えてゆきます。ハイキングコースを歩いているのは外人の方が多いようでした。
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妻籠宿
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中山道42番目の宿場で、昔の伝統的な街並みが良く保存され、1976年、国の重要伝統的建造物群保存地区の最初の選定地の一つに選ばれています。
中央駐車場に車を停め、川を渡ると妻籠宿に出ます。
この宿場町も馬篭宿とほぼ同じ600mほと続いています。ただしこちらは平地でした。 |
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このあたりがほぼ妻籠宿の最北端です。
下の写真は駐車場の戻るときに撮ったものです。 |
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自宅へ
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帰りは中山道を通り、途中から権兵衛峠を越え伊那ICで中央自動車道路に乗り自宅に向かいました。
左の写真は権兵衛峠から中央自動車道に向かう坂道です。 |
諏訪湖パーキングで一休みです。
3連休で大渋滞
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中央自動車で大月まで来るとこの先は大渋滞のようすです。 カーナビが富士吉田を通り御殿場経由で帰るように指示したのでその通りに行ってみましたが、東名道路も大渋滞でした。 |
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