子や孫とサイパン6日間(個人旅行)
娘の夫は勤続10年おきに強制的に10日間の旅行休暇を取る必要があり、旅行代金も支給されるそうです。
妻と娘がが相談し、サイパンで休暇を過そうということになり、5泊6日の海外旅行に出かけました。
|
大画面スライドショー(文章なし) はここをクリック
再生速度は右下の三つの星を押すと早くしたり遅くしたりすることが出来ます。 |
1日目 自宅からサイパンへ
|
サイパンへはグアム経由になります。
成田出発は UA827 便で、午前11時00分、グアム到着は午後3時40分ですが、時差が1時間あるため、飛行時間は3時間40分でした。
グアムからサイパンへは UA6397 出発は午後4時45分、サイパン島着は 午後5時35分でした。
サイパンの緯度はちょうどフィリッピンのマニラと同じです。 |
|
今回の旅は孫たち3名と合計7名です。
一家5名一緒にパスポートを取得したそうです。
|
UA(ユナイテッド航空)のモニター画面
最近の流行なのでしょうか、モニターパネルはなく、スマホを取り付けるようになっていました。UAのソフトをインストールすると、機内で映画や音楽を楽しめるそうです。
タブレットなら良いのですが、一般のスマホでは手に持って見た方が良いようで、実際に取り付けて使用している人はほとんどいないようでした。 |
出発して間もなく夕食が出てきましたが、アルコール類は有料でカードを使用して支払うようになっていました。かなり以前、UAを利用してアメリカへ行った時もアルコール類は有料でしたから、UAを利用するとアルコール類は有料になるようです。
そのため料金が安くなっているのですから、やむを得ないのでしょう。 |
グアム空港
グアムでサイパン行きに乗り換えますが、グアムとサイパンは行政が異なり、アメリカの管理下にはあるものの、まるで別々の国のようです。
グアムで入国手続きをした後、今度はサイパンに行くためにすぐにグアムから出国することになります。乗り換えは結構面倒でした。
荷物は成田からサイパンまでそのまま運ばれます。
|
グアムからサイパンへ
|
図の赤丸はアメリカの管理下にある自治領です。
北マリアナ諸島とグアムの住民はアメリカ国籍を保有しています。
ミッドウエー島は現在、無人島となり、自然保護区として人の立ち寄りが制限されています。ただし、この島には日本人慰霊碑などがあるため、慰霊には行けるそうです。
|
|
グアムは1898年からフィリッピンやプエルトリコとともにアメリカ領になっていました。
一方、ドイツ領であったサイパン島、テニアン島、ロタ島など北マリアナ諸島は第一次世界大戦でドイツが敗戦し、日本は勝利国であり、その大戦後に発足した国際連盟によって日本の実効支配がみとめられ日本の委任統治領となっていました。
以来、日本人が入植し、製糖業や酒造業で経済的に発展させ、学校、病院、神社、寺院などとともに、映画館、飲食店が立ち並ぶ繁華街も作られていました。
第二次世界大戦が始まると日本はグアムに侵攻、アメリカ軍を撤退させ、占領統治し、北マリアナ諸島にもたくさんの兵隊が常駐するようになりました。 |
空港は拡張工事中でした。
グアムからサイパンへの飛行機はプロペラ機で1時間弱の飛行でした。
サイパン空港
再び入国手続きをして手荷物を受け取り空港を出てタクシーを拾おうとしたら、タクシーは一台もいません。
TAXIという看板を手にした人がいたので聞いてみると、電話でタクシーを呼んでくれました。どうもサイパンでは空港でもホテルでもタクシーを利用するには電話で連絡して来てもらう必要があるようです。 |
グランヴィオリゾートホテル
|
ここで5泊します。かなり大きなホテルです。
私たちはC棟の16階の部屋で、子供たちは5名ということもあり、続き部屋のあるA棟2部屋にしました。 |
16階なので見晴らしは最高でした。なにかクルーズ船に乗っているような感じもします。ここで5泊します。
眼下に太平洋が見えます。その向こうは日本です。
前庭とB棟が見えます。海に何隻もの船が留っています。軍関係の船が常時停留しているそうです。
|
|
|
|
|
いったん、私たちの部屋に集まり、それから夕食に出かけました。 |
2日目 観光バスにてバンザイクリフなどを訪問
|
午前中は、日本人ガイドさんによるサイパン半日ツアーに参加しました。
北端のバンザイクリフやホテル近くの砂糖王公園などを見学します。
ガイドさんによると、サイパンに来る観光客の日本人の割合は約2割で残りは、中国と韓国だそうです。
10年ぐらい前は日本人が圧倒的に多かったのですが、最近は中国や韓国からの直行便があり、一方、日本はJALなどが経営不振により撤退してしまい、そのため、日本からの観光客が激減してしまったそうです。 |
朝起きると今日も雲一つない晴天です。
ホテルの玄関です。ここからツアーバスに乗ります。
約10名ほどの日本人を載せてバスは出発です。
ゴミの山
|
サイパン島にはごみ焼却場がないそうです。その代わりすべてのごみをこのように埋め立てるようです。
東京都の夢の島のようですが、ここは陸上にあります。
|
ケンジントンホテル
かってJALが所有していたホテルですが、今は韓国人が所有しているそうです。
ここで数名、日本人がこのツアーに加わりました。
観光はバンザイクリフから始まりました。
島の北端で観光したのはバンザイクリフ、ラスト・ジャパニース・コマンド・ポスト、スーサイドクリフの3か所でした。
サイパン北部はサイパン島で最も多くの犠牲者を出した地域で、2005年6月には、天皇皇后両陛下が訪れています。
バンザイクリフ
日本軍は玉砕攻撃によりほとんどが戦死し、残された婦女子や老人たちはアメリカ軍の制止の声を背に次々とこの断崖から身を投げたそうです。
ただし、それほど崖は高くなかったため即死でなく、骨折などに苦しみながら溺れ死んでいった人も多かったそうです。死者は1000名とも1300名とも言われています。
ここには、太平洋の塔や観世音菩薩像をはじめ、多くの慰霊碑が建てられています。 |
|
|
|
|
|
崖の高さは約80mだそうです
ここから身を投げた人はしたが海であったため助かった人も多かったそうです。
一方、後ろにそびえる崖のスーサイドクリフから飛び降りた人は、下が岩であったこともあり、全員即死だったそうです。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
サイパンは年中の気温がほとんど変化せず、ギネスにも載っているそうです。
私はジャンバーを着てちょうどでした。 |
ラスト・ジャパニース・コマンド・ポスト
バンザイクリフから約500mのところにあります。たくさんあった日本軍の司令部は次々と陥落し、最後の残ったのがこの指令部でした。
島内にあった日本軍の戦車や大砲、高射砲などがここに集められ展示されています。
2011年に公開された日本映画「太平洋の奇跡-フォックスと呼ばれた男」ではここでの戦いの様子が描かれており、この洞窟内の司令部も使われているようです。主役は竹野内豊です。
映画は史実に基づき作られたと書かれています。日本軍人は捕虜になるのは恥で、最後は死を選べと教えられていましたが、この映画はアメリカ軍に降伏して、より多くの民間人を守り抜き、仲間とともに生き延びた日本軍人大場栄大尉の物語です。
映画は次のナレーションで始まります。
1944年6月15日、アメリカ軍はサイパン上陸を決行、南方の沿岸から進行し着実に陣地を拡大した。当時サイパンは日本が統治、2万人の民間人が住み、3万人以上の日本兵に守られていた。
サイパンは日本の重要な軍事拠点だったが、7万人のアメリカ軍兵力と圧倒的な火力の前に簡単に上陸を許した。その一方的な攻撃で日本軍は壊滅し生き残った人々は島中央のタッポーチョ山へ逃れた。
日本軍は太平洋支配をかけたマリアナ沖海戦に大敗し大本営はアメリカ軍上陸の10日後の6月24日、サイパン島放棄を決定した。その事実を知らされないままタッポーチョの日本兵は祖国の勝利を信じ戦い続けた。・・・・以下略。
なお、この映画は主にタイ国で撮影されたそうです。 |
中部太平洋戦没者の碑
日本政府によって昭和49年に作られています。
遠くにこれから行くスーサイドクリフが見えます。
スーサイドクリフ
米軍に追われ、ここから飛び降りた日本の婦女子や老人も多かったそうです。崖の下は岩だったため、飛び降りた人は皆、即死だったそうです。
ここにはいくつもの碑が建てられていました。
崖の下には日本軍の旧飛行場が見えます。
島がアメリカ軍に占領されると、島には立派な空港が作られ、そこからはB29が飛び立ち、日本に爆弾を降り注ぎました。
1945年8月6日、サイパン島の少し南に位置するテニアン島を飛び立ったB-29爆撃機が広島に原子爆弾んを落とし、9日には長崎へと落としています。 |
サンゴ礁で作られた浅瀬が美しい海の色を作り出しています。
砂糖王公園
|
宿泊ホテルから約1㎞のところにある公園です。
砂糖産業に成功した南洋興発の初代社長、松江春次の像や、彩帆香取神社が作られいます。
米軍はこの地への攻撃を差し控えたため、当時のままの姿が保存されているそうです。 |
再びホテルに戻りました。
A,B.C 3棟はこのような廊下でつながっています。
|
プレトリアの花びらは5枚で、時々6枚あることもあるそうです。
|
午後はプールで水遊びです。
ホテルの裏側です。幹線道路とその向こうにはショッピングセンター、民家などが広がっています。
その後、部屋の窓からビールを飲みながらゆっくりです。
3日目 午前中はアメリカン記念公園、
夕方は食事付きのポリネシアンダンスショー見学
今日も晴天です。
アメリカン記念公園
|
ホテルから歩いて20分程度のところにアメリカン記念公園があり、その中に第二次世界大戦博物館が作られていました。入場料は無料でした。 |
アメリカ本土で何度も見た国立公園の標識です。
このアメリカン国立公園にはアメリカ軍の犠牲者慰霊碑やサイパン島民の犠牲者慰霊碑が建てられています。
第二次世界大戦博物館
第二次世界大戦の歴史がサイパンを中心に描かれています。
午後は部屋でトランプ
|
午後は孫たちとトランプ遊びです。 |
ポリネシアンダンスショー
食事付きのポリネシアンダンスショーツアーに参加してみました。
食事が終わるとダンスショーが始まりました。
カメラを忘れたので家内のスマホで撮りましたが、うまく撮れませんでした。
参加者は約200名程度でした。司会者は、英語、日本後、中国後、韓国語で話します。司会者が日本から来た人は手を挙げてと言われたのですが、手を挙げたのは私たちでした。かなりの人は中国からのようですが、彼らは中国から来たとは言わず上海から来たと言っていました。そうするとある団体が大きな声で「台湾」と言っていました。
とにかく、日本人は少ないようです。 |
4日目 無人島(マニャガハ島)で海水浴
今日も幸い晴天です。
無人島(マニャガハ島)で海水浴
|
ホテル近くの無人島へ行くツアーがあったので参加してみました。船はホテル前の砂浜から30分おきぐらいに出ています。昼食付きでした。 |
島に到着
|
多少楕円形の無人島ですが、長辺が200m程度の小さな島です。
無人島とはいっても、人でにぎわっていました。
食堂があり、昼食をここで取りました。バイキングでした。
その後、私も久しぶりに海に入ってみました。 |
島内を散歩してみました。
再びホテルに向かいます。
戻った後はまたトランプゲームです。
素晴らしい夕焼けです。
夕食はB棟のレストランにしました。孫二人と合計4名です。
ホテルの1階のロビーでダンスショーが開催されていました。ここでも、英語、日本語、中国語、韓国語でした。
観客の中で日本人は私たちだけでした。ここでも中国人が多そうでした。 |
ロビーでのダンスショーが終わると、ブール脇に移動し、そこでファイアショーが行われました。
5日目 無料バスで市内観光
朝、ホテルの周りを歩いてみました。
孫たちはさっそくプール遊びです。
部屋からの眺めです。今日も晴天です。
無料バスで島見学
|
市内のホテルやショッピングセンターを結び、無料バスが走っているので、試しに乗ってみました。
子供たちはプール遊びなので家内と二人だけです。
カノアリゾートサイパンまで行き、その近くに日本人墓地があるのでお参りし、そこのホテルでビールと昼食でした。 |
カノアリゾートサイパン
日本人慰霊碑
交差点の片隅に作られていました。その後、遠くに教会があったので行ってみました。
カノアリゾートサイパンに戻り、そこでビールと昼食です。
午後はホテルの部屋で子供たちとトランプ遊びです。
今日も素晴らしい夕焼けです。
|
全員同じホテルで夕食です。
|
6日目 帰国
毎日、同じような風景です。このようにゆっくりとした時間を過ごしたのは久しぶりです。
子供たちは早朝4時ごろの飛行機なので、夜中にホテルを出て行きました。5名での海外旅行なので少しでも安い便を選んだようです。 |
私たちの便はサイパン発13:30、グアム着15:10でした。途中、ロタ島に立ち寄ったので、その分飛行時間は長くなりました。
サイパン空港内にも立派な免税店がありました。
途中、ロタ島に立ち寄りました。ほんのわずかな時間、停まっただけでした。
グアム島に近づきました。海岸にはたくさんのホテルが建っているようです。
その後、グアム島で乗り換え、出発は17:10 で 成田到着は19:55 でした。
今回の旅は同じ部屋で5泊だったので、ゆったりとした時間を過すことが出来ました。
サイパンの気温はグアムに比べ涼しく、一年中、気温の変化はほとんどないそうです。ゆっくりと過ごすには非常に良さそうです。 |
次の旅日記に移る(海外編)
旅日記の表紙に戻る
|