対島、壱岐、平戸、唐津、鹿児島、長崎、
宗像大社などの観光ドライブ9日間
JALのマイルポイント使用期限が近付いてきたので、ポイントを使用するため、成田ー福岡間の往復航空券を手に入れ、まだ行ったことのない対島、壱岐や、九州で最近世界遺産に選定された軍艦島や宗像大社にも行ってみました。また、大河ドラマ「せごどん」の地、鹿児島も訪ねてみました。 |
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再生速度は右下の三つの星を押すと早くしたり遅くしたりすることが出来ます。 |
1日目 成田空港から福岡空港近くのホテルへ
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飛行機は成田発18:55で、博多空港到着は 21:05 です。
羽田でなく成田にしたのは自宅が成田に近いためで、マイカーを利用すれば、door to door の感覚で福岡に行くことが出来るためです。 |
成田空港内のJALラウンジ
出発まで、JALのラウンジでビールやおつまみで過ごしましたが、国内線のラウンジのサービスは羽田の国内線ラウンジとほぼ同じで食事のサービスはありませんでした。
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ビジネスクラス
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今回は、機体の最前にあるビジネスシートをとることが出来ました。特典による無料の航空券なので家内が奮発したようです。
旅のルート、日程、ホテルの予約、フェリーやレンタカーの予約などはすべて妻の役割で、私は写真を撮るだけです。100%妻を信頼し任せているので、何も言うことはありませんが、宿やフェリーなどの予約を見ていると大変な労力のようです。
機種はB-737-800でした。 |
博多到着前です。素晴らしい夜景でした。
宿泊ホテル
今夜の宿は夜が遅く朝も早くただ単に泊まるだけの利用なので、今話題のマンション民泊で利用されるようなホテルを試してみました。
ただし、ホテルは民泊ではなく365日開業している完全無人のホテルでした。初めての経験でした。
空港からホテルまではタクシーを利用しました。約千円でした。 |
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ビルの入り口は閉じられていて、電話番号が書かれた張り紙がしてありました。
すでに部屋代はインターネットで支払っています。
電話をして氏名を告げると暗証番号を教えてくれました。それに従いキーボックスのボタンを押すとキーボックスが開き、自分の部屋番号が記された鍵の上の小さなランプが点滅しており、その鍵だけを取り出すことが出来るようになっていました。
鍵を取り出すと玄関が自動的に開きました。
利用者には外人が多いのでしょうか、英語、韓国語、北京語が使用されています。
部屋には冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、セーフティボックスなどがあり、長期滞在者にも向いているようです。
その上、無料の携帯電話も置かれていました。
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もう、夜の10時で、周りのお店はすべて閉まっていました。
成田のラウンジで夕食をとったので、すぐに床につきました。 |
2日目 博多空港から対島に飛び、その後、レンタカーで島中の観光
対馬は長崎県にあります。人口は3万1千人で、1960年の6万9千6百人をピークに減少を続けています。
島には大学がなく、高校を卒業すると福岡県内などの大学に入り、その後、就職の関係で島に戻る人は少ないためだそうです。経済的には長崎県よりも福岡県との結びつきが強くなっています。
対島は本土から132㎞、朝鮮半島へは50㎞の距離にあり、南北に82㎞、東西に18kmと細長く面積は約700㎢あります。
空港でレンタカーを借り、島の北端まで行ってみました。ホテルは対馬市の繁華街中心部です。
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ホテルから福岡空港へ
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福岡空港と対島やまねこ空港はANA便が1日4往復で結んでいます。
私たちの便は福岡空港発 7:50、対馬到着 8:25 で飛行時間はわずか35分です。
ホテルの近くにJR笹原駅があり、そこまで歩いて行き、タクシーを拾い、福岡空港に向かいました。
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飛行機は片側3列並びでほとんどガラガラでした。飛行機よりもフェリーを利用する人が多いのでしょうか。
島は総じて切り立った山で出来ており、平地は少なく、農作には適していないようです。
空港内には幾つかのレンタカー会社が窓口を持っており、あらかじめ予約しておいた会社の受付に行くと、近くの車置き場まで送ってくれました。 |
日産キューブ
借りた車は日産キューブでした。小さいためもあるのでしょうか、レンタカー料金は約6千円程度とかなり格安でした。
なお、車を借りるとき、島の観光客のほとんどは韓国から来た人たちで、日本の風習に慣れていない人が多いので注意してくださいと言われました。
確かに、途中会った観光客のほとんどは韓国からの人たちでした。
なお、今回の旅行での運転は家内がほぼ100%行いました。私も運転は大好きなのですが、長距離ドライブには何か不安を感じる年になってしまいました。
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9時少し前に車を借り、返却は午後4時にしました。実際には12時間借りているので、それより遅く返してもよいのですが、体力を考えて、4時ごろにしました。
返した後、ホテルのある対馬最大の市街地まで送ってくれる約束になっています。返却が遅くなるような場合は連絡してくださいと言われました。私たちを宿まで送るため、運転手を用意しておく必要があるようです。
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とにかく、島の北端まで行ってみようと思っていましたが、途中にある和多都美神社に行ってみました。 |
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対馬は日本の島の面積ランキングでは4位になります。
試みに1位は沖縄島、2位は佐渡島、3位は奄美大島と続きます。
ただし、対馬はよく見ると中央で分断されており、空港から北の島に行くには、2つの橋を渡り、三角形の島を通って行くことになります。
ただし、それら二つの水路は人工的に作られたものです。
なお、対馬は100以上の島で形成されています。
左の地図の白線は島を分断している海を示しています。
二つの橋を渡ったあと、左の地図の和多都美神社や神話の里自然公園や烏帽子岳展望台を訪ねました。
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二つの橋の位置を拡大してみました。対島は一つの大きな島ではないことが分かります。
もともと対馬本島は南北に連なる一つの島でしたが、江戸時代(1672年)に大船越の瀬戸を掘り切り、東西に往復できるようになりました。工事の期間は半年、労働力は延べ3万5000人でした。
明治時代になり、ロシアの南下政策に対抗するため、この地に海岸要港部が置かれ、軍艦も配置されました。しかし、江戸時代に作られた大船越の瀬戸は水深が浅く戦艦を通すことが出来ないため、久須保水道を掘削し新たに万関橋が作られました。
これにより東西の海がつながりました。
なお、ここの軍艦は日露戦争でバルチック艦隊の撃墜に参加しています。
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いよいよ出発です。途中、赤く塗られた2つの橋を渡り、和多都美神社に向かうと道路をまたいで大きな鳥居が現れました。
最初に見えた橋は大船越(おおふなこし)瀬戸で、天井が平らな箱形の橋で、次に渡った橋は万関橋(まんぜきばし)で天井が丸い吊橋になっています。 |
和多都美(わたづみ)神社
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いろいろと書かれていますが、詳しいことは不明で、平安時代、清和天皇から従五位上の神階を賜っています。
5つある鳥居の2つは海中にあり、大潮の時期、満潮をむかえた境内では社殿の近くまで海水が到達することもあり、竜宮を思わせるそうです。 |
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神話の里自然公園
和多都美神社から歩いても行けるほどの距離にあります。
烏帽子岳展望台
神話の里自然公園から車で展望台まで登ってゆきます。
ここからは先ほど訪れた和多都美神社の反対側(東側)の湾を見下ろすことが出来ます。
島北端の韓国展望所へ
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和多都美神社を後にし、一路、島の北端にある韓国展望所に向かいました。
韓国展望所で見学している間に、韓国からの観光客を乗せた観光バスが時間をおいて2台も来ました。韓国からの観光客はかなり多そうです。
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対馬と韓国間の距離は50Kmで、秀吉の朝鮮出兵のルートにもなっています。この地図では対島が大きな二つの島であるかのように書かれています。 |
朝鮮國譯官並従者殉難霊位
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1703年、朝鮮からの使節団が対島の顎浦港に入港直前、嵐に襲われ、乗船していた108名全員が遭難死してしまいました。
江戸時代の鎖国体制の中、朝鮮と幕府、また朝鮮と対馬藩との交流は強く結ばれていました。 |
西部航空警戒管制団 海栗島分屯基地
北端のこのような離島になぜビル群があるのかと思い地図を見ると、西部航空警戒管制団 海栗島分屯基地でした。
近くに漁港もあります。
レンタル自転車
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たくさんの韓国人がレンタル自転車を楽しんでいました。 |
午後のドライブ、黒潮神納堂へ
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昼食を蕎麦屋で取り、その後まっすぐ、黒潮神納堂に向かいました。 |
昼食 蕎麦屋(そば道場あがたの里)
戻る途中、蕎麦屋があったので寄ってみました。水車でゴマを引く機械が動いていました。
この食堂のメニューなどはすべて日本語のみでした。それがかえって珍しく感じました。
町の役場
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祝 朝鮮通信使 ユネスコ記憶遺産登録 と書かれていました。
2017年10月31日、日韓友好の歴史的な象徴である「朝鮮通信使に関する記録」の重要性が認められ、ユネスコ「世界記憶遺産」に登録されました。
朝鮮通信使は,李王朝と江戸幕府の友好の証として両国を往来した使節団。二代将軍秀忠から11代家斉までのおよそ200年間、将軍家の代替わりのたびに12回の使節団が訪れています。この国家的イベントのコーディネーターとして交渉から滞在中のもてなしに至るまでいっさいを取り仕切ったのが対馬藩です。厳原迎え、数週間滞在ののち藩主が江戸まで随行、往復に6~8ヵ月を要したといいます。 |
万関橋
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北と南の島を結ぶ万関橋です。天井が丸いつり橋になっています。
観光バスを降りた韓国の人たちが歩いて橋を渡っていました。
軍艦が通れるように海が深く削られています。 |
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まだ、レンタカーを返す時間には余裕があったのでパンフレットを参考に黒潮神納堂に入ってみましたが鍵が閉まっていてお堂内部を見ることはできませんでした。
このようなことは田舎の観光地ではよくあることです。
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ホテルにチェックイン
レンタカーを返した後、係の女性が私たちを島中心にある厳原町のホテルまで送ってくれました。ホテルは島最大の繁華街のど真ん中にあります。
彼女の話によると、市内のホテルの宿泊料金はこのところかなり高くなったそうです。ホテルの数が少ないのに韓国の観光客が押し寄せることになったためだそうです。そのため、ホテルを取れないこともあるそうです。ただし、最近、ビジネスホテル東横INNが作られたため、ホテルの混雑はだいぶ緩和されたそうです。
このホテルは夕食を出さず、朝食のみでした。いわゆるビジネスホテルと同じでした。 |
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ホテルは川に面しています。
このホテルは夕食を提供しませんが近くにはたくさんの料理屋があり、問題はありませんでした。 |
ホテル前の川の風景です。
池神社
まだ、夕食には早いので宿の周りを散策しました。
まずは宿に一番近い神社に行ってみました。
市の中心部の風景です。
観光案内所に入ってみました。
金石城跡
かってお城があった所ですが、今は学校などになっており、残っているのは下の写真の櫓門と庭園のみになっています。
下の写真の櫓門は文化年間(1810年頃)に火災で焼失し再建されましたが大正時代に再び解体され現在の櫓門は平成2年に記録に基づいて復元された3代目です。 |
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庭園に着いたときはすでに閉門の5時を過ぎ、門が閉められようとしていましたが、係の人が私たちを庭園内に案内してくれました。
宗家の居城であった金石城の庭園です。長年、土砂に埋もれた状態でしたが、発掘調査・復元工事の結果、近世庭園としては希少な意匠・構造をもち、また、遺構の状態も良好であることが判明し、国の名勝に指定され、2008年5月から一般公開されています。
係の人と、夕食の話になり、宿の近くにある魚専門の食堂が特別良いと推薦され、そこに行くことにしました。
来た時通った門を通り戻りました。 |
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厳原八幡宮
厳原町の中心部に位置しており、古くから対島藩主や島民の崇敬を集めてきた古社です。
九州を旅していると、神社やお城には土俵が作られていました。
夕食 魚料理
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旧金石城庭園に行った時に推薦された魚専門の料理屋に行ってみました。
現地の常連客で大変にぎわっていました。韓国からの観光客は全くいないようでした。
銚子の料理屋で食べた魚の美味しさを思い出しました。 |
3日目 壱岐の島観光
今日は対馬の厳原(いづはら)港から壱岐の島の芦辺港までフェリーで行き、壱岐の島観光です。宿泊は壱岐の島です。
壱岐市の面積は対馬市のわずか20%とかなり小さいのですが、人口は2万7000人と対馬市の85%に達しますから、人口密度で比較するとかなり高くなっています。平地が広がっているのと福岡市に近いためかもしれません。しかし、この島の人口も毎年、かなり減りつつあります。
なお、韓国人の観光客は津島市には来るものの、壱岐市にはほとんど来ないそうです。どちらかといういと、中国人の観光客が多いそうです。
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ホテルの朝食
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朝食はバイキングで朝の7時からですが、韓国からの観光客でいっぱいでした。
フェリーの出発時間は8時50分ですから十分間に合います。 |
私たちは厳原港を8時50分に立ち壱岐の芦辺に11時05分到着にフェリーに乗ります。フェリーの予約は出来ないのですが、家内が電話でフェリー会社に聞いたところ、1時間前に来れば確実に乗れるとのこと、宿の人に再確認したところ、そんなに早くゆかなくても大丈夫だとのことでした。
宿の隣がタクシー会社なので、タクシーでフェリー港まで、すく近くなので初乗り料金で到着でした。
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フェリーはガラガラでした。フェリーから、昨日泊まった宿が見えます。また新しく建てられた東横INNも見えます。
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見送り |
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女子高の生徒たちでしょうか、赴任していた20代の男性の先生がこの島を去るようです。先生も手を振っていました。 |
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出港してしばらくすると女生徒たちはこの岬まで移動してきて、盛んに手を振っていました。
先生も、一生懸命手を振っていました。
島の風習なのでしょうか、それとも大変好かれていた先生なのでしょうか。映画のシーンを見ているようでした。 |
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芦辺港に到着です。
路線バスで芦辺から郷ノ浦へ
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芦辺から郷ノ浦にバスで行き、そこで観光バスに乗ることにしています。
観光バスは午前が島の北部、午後が島の南部となっています。残念ながら、午後の部にしか乗れません。
午後の部のバスの発車時間は12時25分ですが、私たちのバスが郷ノ浦に到着するのは12時23分で、2分しか余裕がありません。
家内が観光バス会社に電話をしたところ、数分の差なので、私たちが到着するのを待っていてくれるとのことでした。
バスは島の中央部を通り、ほぼ直線的に郷ノ浦に向かいます。
ただ、芦辺港と芦辺の町は湾を挟んで位置しており、湾をぐるりと回り芦辺を通ります。
壱岐の島では米を島外に出荷するほどの収穫があり、また、たばこの栽培も盛んだそうです。
私の郷里も私が子供のころはたばこの栽培が盛んでよく葉を積んでは縄に挟んで干す作業の手伝いをしたのを思い出します。
ただし現在は外国産の影響で、郷里ではたばこの栽培が中止されてしまいました。 |
観光バス
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定期バスが郷ノ浦本町に予定より早く着いたので、窓口で観光バスの乗車券を買うことが出来ました。
観光バスは12時25分発で再びこの郷ノ浦本町に戻るのは16時35分と観光時間は4時間05分となります。
ただし私たちの宿は仙石荘で郷ノ浦からはかなり離れています。 |
最初の観光地は岳の辻展望台です。
砲台跡
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岳の辻から砲台跡に向かいました。砲台跡は猿岩の近くにあります。 |
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太平洋戦争前、対馬と壱岐島間を通る敵の船を打つために2つの大きな砲台が作られました。
敗戦後、進駐軍により撤去を命ぜられ、解体されましたが、かなり困難だったらしく、造船所の技術者により解体されたそうです。 |
猿岩
偶然なのでしょうが、岩は猿によく似ています。角度を変えてみると、猿の顔が消えてしまいます。
猿岩から一支国(いきこく)博物館へ
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猿岩から島の中心部を通り一支国博物館に向かいます。
途中、島の中央で壱岐の古墳群を見学します。 |
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島の中心部にはたくさんの遺跡が残されています。
たくさんある古墳の中で見学したのは鬼の屈古墳のみでした。 |
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内部は明かりで外から見えるようになっていました。本来なら真っ暗のはずです。 |
史跡 へそ石
壱岐古墳群の近くにあり、バスの中からの見学でした。
博物館に向かう途中、海岸べりを通りますが、美しい海岸が続きます。
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壱岐の名産、黒牛だそうです。 |
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バスは海岸線を進みますが、上の写真の橋や、下の写真の神社位置がわかります。
引き潮のときは歩いて島に渡れますが、満ち潮になると道がなくなるそうです。 |
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一支国(いきこく)博物館
壱岐島には縄文時代、弥生時代や古墳時代の遺跡が480カ所以上もあり、その数は長崎島県全体の13%を占めています。
ここには元寇・鯨組に関する中近世の遺跡まで、壱岐の歴史を見ることが出来ます。また、各時代の「海を介した交流と交易の歴史」も詳しく紹介されています。
なお、壱岐島はむかし、一支国と言われていました。 |
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朝鮮通信使も壱岐島を通り、江戸へと向かっています。
出土品の収蔵庫には驚くほどたくさんの品が展示されています。 |
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一支国博物館からあまごころ壱場へ
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あまごころ壱場は壱岐で作られているいろいろな名品を打っている大きなお店です。
前もってお店に電話をして、今夜の宿、仙石荘まで送っていただくようお願いしておきました。その代わり、なにかお土産を買う必要がありそうです。
バスのガイドさんにはここで降りると告げておきました。
壱岐の名物はうにだそうです。ただし、日持ちが悪く今夜中に食べる必要があるそうです。
なお、うにの加工品なら日持ちに問題はありません。 |
今夜のホテル、仙石荘へ
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今夜の宿は湯の本温泉千石荘です。この宿は地図にも大きく乗っているのですが、驚いたことに部屋数は10室にもみたない昔ながらの田舎の旅館でした。
おもてなしは最高でしたが、夕食は別の個室で取り、その間に布団を敷くシステムでした。
今回の旅行でベットでない旅館に泊まったのはこの宿だけでした。
畳の部屋からベットの部屋へと作り直すのが最近の流れらしく、それにより人件費をかなり減らすことが出来るはずです。泊まる方も煩わしくなく、ベットの方が好ましく感じます。
温泉は鉄分を含み赤みがかっており、近隣の人の日帰り入浴としても好まれているようです。
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4日目 壱岐の島から九州平戸を観光後唐津で宿泊
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壱岐島を後にし、博多でレンタカーを借り、平戸を見学し、唐津に泊まります。 |
朝食前、昨夜の宿、仙石荘の周りを歩いてみました。質素な玄関には驚きます。昨日来た時、これが宿屋かと不思議に思いました。
WiFiも高速でつながり、パスワードも不要でした。
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仙石荘から郷ノ浦フェリー乗り場へ
昨日、宿に頼み、今朝はフェリー乗り場まで送って貰うことにしてあります。フェリーの出発時刻は9時25分です.
少し早めですが、8時に宿を出ました。
フェリーターミナルはかなり立派です。博多行きの便はガラガラでした。博多港に到着すると、大型の観光船が来ていました。
博多から平戸へ
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フェリー到着港でタクシーを拾い、予約しておいたレンタカー会社で車を借り、いざ、平戸に向けて出発です。
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平戸は島で平戸大橋により九州本土と結ばれています。
まず、平戸大橋の麓にある平戸公園に行ってみました。
今回は時間的制限のため、亀岡公園内にある平戸城を見学しました。
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松浦家二十六代鎮信(しげのぶ)は慶長四年亀岡に「日の岳城」を築きました。
しかし徳川家康は豊臣秀吉と親交が深かった松浦家に疑いのまなざしを向けます。
鎮信はその疑いを払うため「日の岳城」を焼却し、平戸6万1700石と民を守りました。
依頼、松浦家は約90年間を御舘(おたち)で過ごしますが、松浦家の30代になって、1704年、平戸城の再築を開始し、1718年に完成します。
明治6年廃城となり、昭和37年平戸市により復元されました。
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亀岡神社
明治13年に建立された平戸松浦藩主を祀る神社で、10月の「平戸おくんち」では国指定無形民俗文化財の平戸神楽二十四番が奉納されます。 |
亀岡神社や亀岡城は亀岡公園の中にあります。
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遣唐使は、この平戸から中国に向かいました。いわば、遣唐使の玄関口でもありました。
江戸時代になり、鎖国政策が取られるようになると、貿易はオランダのみに制限されましたが、その最初の場所がこの平戸でした。その後、長崎にもオランダとの貿易港が作られました。
その後、島原の乱が起こると幕府は、平戸でも起こるのではないかと心配し、平戸を閉じでしまい、貿易港は長崎の出島のみになりました。
なお、1570年ごろの日本におけるキリスト教徒は合計26,000名程度でしたが、平戸には約5,000名おり、当時としては日本最大でした。
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平戸城天守閣からの眺めです。
見奏櫓や相撲場が見えます。
田平天主堂
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平戸城を見学後、平戸大橋の近くにある田平天主堂に向かいました。
平田天主堂は1917年(大正6年)に作られています。 |
天主堂の見学者はいったん受付に寄り、説明者により 天主堂の歴史や見学での注意事項などの説明を受けます。
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田平天主堂を見学後、唐津の宿に向かいました。
部屋は広く、夕焼けも部屋から直接見ることが出来ました。
夕食は魚中心の懐石料理でした。
ロビーには茶碗や人形が飾られていました。かなり高価です。
5日目 唐津から鹿児島へ移動
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今日は唐津を見学後鹿児島に向かいました。 |
部屋からの眺めです。
部屋の反対側からの眺めです。反対側は海に面していました。
大阪に震度6弱の地震があったようです。
虹の松原を見学後、唐津城を見学しました。
虹の松原は日本三大松原の一つで、幅約500m、長さ約4.5kmにわたって約100万本のクロマツの林が続いています。
元は二里松原と呼ばれていましたが、明治時代になって虹の松原と呼ばれるようになったそうです。
唐津城
唐津城にはエレベーターで昇ることが出来ます。
帰りは歩いて戻りました。
エレベーターで昇ると、昨夜のホテルとホテル前の橋、また虹の松原を一望することが出来ます。
唐津城
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唐津城に入ってみました。 |
天守閣を一巡し唐津市全体を写真に収めました。
城の中は博物館になっていました。
当時の唐津の主な産業が示されています。
また、秀吉による文禄・慶長の役ではこの唐津の北の岬に名護屋城を築き、そこから壱岐、対馬にわたり朝鮮に攻め入っています。 |
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1590年、秀吉は長い長い戦国時代を戦い抜き、天下平定を成し遂げ日本に戦争の無い平和の世をもたらしましたが、その2年後の1592年、文禄の役で朝鮮に兵を送り、さらにその5年後の1597年の慶長の役で再度朝鮮に兵を送り出しています。しかし、1598年に秀吉がこの世を去り朝鮮に出兵していた兵は引き上げ戦いは終わりました。
なぜ秀吉はこのような無謀な戦いを起こしたのでしょうか。
これらの戦いで多大な痛手を被ったのは朝鮮の人たちです。また、出兵を命ぜられた日本の兵隊も大きな痛手を負っています。
戦いに明け暮れ、それを生業として生きて来た大将は、死ぬまで戦うことに生き甲斐を持っていたようです。 |
鹿児島市に到着したので、まずは城山の展望台に行きました。
残念ながら天気が悪くなってきて、桜島はよく見えませんでした。
西郷自決の洞窟見学後ホテルへ
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城山から宿に行く途中、西郷隆盛の洞窟があったので立ち寄ってみました。
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西郷隆盛洞窟
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かって西郷は新政府軍の大将として倒幕に成功しその後も抵抗を続ける東北地方の幕府軍と戦い日本全体を平定します。数々の功績をあげ、また大江戸を火災から守った西郷ですが、その後征韓論を唱え朝鮮への出兵を主張します。しかし、大久保らに反対され、役を辞し鹿児島に戻ります。南下するロシアの勢力に対抗するためにも朝鮮出兵が必要だというのが理由でした。
昭和になり、日本がアジア諸国に出兵した時も、アジアを西洋の侵略から解放するためという理由を作りました。
しかし、いかなる理由を付けても戦争を始めたことに対する正当な理由はありえないというのが長い歴史の教訓です。
明治になり、侍の身分がなくなり、戦争を生業として生きていた侍たちは、鍬を持ち畑を耕したり、商品を売り買いしたりすることが出来ず、政府に不満をぶち上げ西南戦争を起こしてしまいます。秀吉がそうであったように、軍人になると常に戦いを続けようとするようです。
太平洋戦争を起こしたのも戦争を生業とする日本の軍人たちでした。
日本を降伏させたマッカーサーは1950年朝鮮戦争が勃発すると国連軍の司令官となりますが、本国アメリカの意向を確認せず、どんどんと戦線を拡大したため、1951年、アメリカ大統領トルーマンによって日本を含む全ての軍の地位から解任されています。
ジンギスカーンは領土を途方もなく広げましたが、死ぬまで馬の上で戦いを続けたそうです。
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右側の高層のビルが今日のホテルです。桜島をまじかに見ることが出来ると書いてありました。
部屋からの眺めです。曇っていて頂上が見えません。
温泉を出ると桜島が見えるラウンジがあり、そこでビールで乾杯です。
大阪でのこのような大地震は過去100年以上も無かったそうです。
6日目 鹿児島市内観光
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残念ながら九州は全般的に雨のようです。
午後になると強くなるそうなので、午前中に見学を済まし、今夜の宿、出水に向かいました。
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桜島は全く見えませんでした。
鹿児島市内観光
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午前は何とか雨が降らないようなので、あまり立ち止まらず、早く歩いての見学にしました。
まず、照國神社から城山公園をぐるっと一周し、その後、南洲公園を見学し、鹿児島最大の見所、仙巌園を観光し、雨が激しくなってきたので今夜の宿、出水に向かいました。
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駐車場に車を停め、照國神社、島津斉彬公像、島津久光公像、島津忠義公像などを見学し、その後、左下の公園を散策しました。 |
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その周辺には美術館などたくさんの見所がありますが、出来るだけ早く回らないと雨が降ってきそうなのでぐるっと一周し、西郷隆盛の像を見学後駐車場に戻りました。 |
照国神社
島津家28代当主 11代藩主 島津齊彬を祀った神社です。
御祭神の島津齊彬公は文化6年(1809)御出生、嘉永4年(1861)43歳で薩摩藩・藩主を襲封され、安政5年(1859)薨去されるまで僅か7ヶ年間の治世であったが、その間の御事績は藩内のみならず日本国にとっても広く大きく数々のものを残されています。生前の御遺徳を慕い崇敬の念を寄せる万民の願いにより神社設立の運動が起り、文久2年(1862)鶴丸城の西域である南泉院の郭内に社地を選定し、仝3年(1863)5月11日勅命によって照國大明神の神号を授けられ一社を創建した。
翌元治元年(1864)社殿竣工、照國神社と称し、明治6年(1873)県社に、仝15年(1882)別格官幣社に列格し、仝34年(1901)正一位を賜り、今日では、鹿児島の総氏神様として、多くの人々に崇敬されています。
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島津斉彬公像
島津久光公像
島津忠義公像
太平洋戦争戦士之墓
城山公園
薩摩義士碑
黎明館や美術館通りを通り駐車場に戻りました。
西郷隆盛像
南洲公園
高台にあるため、市内を見下ろせます。いかにも雨が降ってきそうです。
仙巌園
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名勝 仙巌園は、江戸時代初期の万治元年(1658)19代島津久光によって築かれた薩摩藩主島津家の別邸です。目前の桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた壮大な庭園は、数ある大名庭園の中でも他に類を見ないスケールの大きさです。また、海外とつながる「南の玄関口」といわれた薩摩の歴史にふさわしく、中国・琉球文化の影響が園内随所に見られます。歴代当主に愛されたこの庭には、徳川将軍家に嫁いだ篤姫や海外の要人も足を運びました。
美しい景色、歴史や文化を今に伝える大名庭園です。 |
世界文化遺産 「明治日本の産業革命遺産」
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2017年7月「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界文化遺産に登録されました。鹿児島の構成資産「旧集成館」は仙巌園や尚古集成館一帯を含むエリアです。ここでは、28代島津斉彬差に先駆けて近代化・工業化に取り組み、日本最初の様式工場群「集成館」を設置しました。斉彬亡き後も彼の意志を引き継ぐ人々が集成館を舞台に強く豊かな国づくりを目指します。そして彼らが培った技術が、近代日本の中核となり、工業国・技術大国の原点となりました。現在、この地は「日本の近代化・工業化発祥の地」として世界から注目されています。
なお、これらの建物は1863年の薩英戦争により破壊されてしまい、その後に再建背れています。 |
朝早い仙巌園の見学のためか、まだほとんど人はおりませんでした。ただし、しばらくすると団体客がぞくぞくと入ってきました。
錫門
殿様専用だった朱塗りの門です。この門の特徴は屋根が瓦ではなく鹿児島特産の錫で葺かれていることで、錫門(すずもん)とよばれます。
朱色の門は非常に高い身分の人しか使うことを許されていませんでした。そのため、江戸時代にこの門を通ることができたのは、藩主とお世継ぎだけだったそうです。なお有名な東大の赤門は、加賀百万石前田家の門だそうです。
NHK大河ドラマ「篤姫」で使われた正門は、明治になってから造られた別の門だそうです。
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しばらく歩くと御殿の前に出ました。
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御殿
ここに入ると殿様の暮らしぶりを体感することが出来ます。
仙巌園の中にある御殿は殿様の別邸として建てられましたが、明治になって鶴丸城を明け渡した29代当主忠義がここに引っ越したため本邸となります。
当時は、当主の部屋、跡取り(30代忠重)の部屋、その他の子供たちの部屋、女性の部屋などはっきりと区別されていました。風呂場やお手洗いなども当主専用のものがつくられています。
後程見学しました。 |
御殿前庭
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御殿の前庭でせごどんの撮影にも使用されています。 |
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鶴灯籠
庭の中央にある灯篭です。
仙巌園にはたくさんの灯籠がありますが、なかでもいちばん有名なものがこれ。鶴が羽をのばしたような姿に見えることから、鶴灯籠とよばれています。 なぜ有名なのかというと、28代島津斉彬が安政4(1857)年にガス灯の火をともしたのがこの灯籠だったからです。
日本初のガス灯は明治5(1872)年に横浜の馬車道に設置されたものといわれていますが、鹿児島ではその15年も前に点灯されていました。もし斉彬公が長生きしていれば、鹿児島の街に最初のガス灯の街並みができていた・・・かもしれません。
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大池
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ここも大河ドラマ「せごどん」の舞台として使われました。 |
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千尋巌
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3つの文字が刻まれた一枚岩です。
御殿裏山の山腹には巨大な岩があり、そこに「千尋巌(せんじんがん)」という白い3文字がきざまれています。3文字の大きさは、上下で11メートル。文化11(1814)年に、27代斉興がのべ3,900人の人夫をつかい、3カ月かけて作らせました。白い色は胡粉(ごふん)という、貝がらをこまかく砕いた粉をぬりかためたものです。
このように岩に文字をきざんでそれに着色するのは、中国ではよく見られるものですが、日本の庭園ではほかに例を見ません。薩摩が中国文化の影響をつよく受けていたのがよく分かります。 |
高枡
石階段
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石階段で、曲水の庭に続いています。
下の庭には曲がった水路が作られています。 |
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猫神
水槌
ブランドショップ店
島津薩摩切子など地元の名産が売られていました。
御殿
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ヤクタネゴヨウ
御殿の前庭にある大きな松の木はヤクタネゴヨウ(屋久種子五葉)といって、屋久島と種子島にだけ自生するめずらしい品種です。屋久島に1,000~1,500本、種子島では100本程度しか残っていないといわれ、環境省のレッドデータブックでも絶滅危惧種(1B類)にあげられています。
仙巌園のヤクタネゴヨウは樹齢およそ350年以上といわれ、高さ約30mの堂々とした大木で、庭園のシンボルツリーとして親しまれています。昭和47年に昭和天皇が仙巌園に行幸された際には、お土産としてこの松の苗木を持ち帰られ、伊豆下田の須崎御用邸に植えて育てられたそうです。 |
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案内係の女性にどうぞお座りくださいといわれ、記念写真を撮ることになりました。 |
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入り口近くにある反射炉跡に戻ってきました。
下の写真は反射炉の近くにある山神・水神です。
反射炉遺構
2015年に世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」。その重要な構成資産のひとつが、仙巌園内にある反射炉遺構です。もともとは上に炉や煙突があったのですが、それらは1863年の薩英戦争でイギリス海軍の大砲により破壊されてしまいました。いま残っているのは基礎部分だけです。
幕末の名君、島津斉彬が日本を守る大砲を鋳造するためにつくらせたこの反射炉、もともとはヨーロッパで開発されたものです。しかし当時は鎖国中ですから西洋人に造ってもらうことも教えてもらうこともできません。オランダの書物のみを手がかりに、日本人だけで造るしかありませんでした。基礎部分は石垣を造る技術、燃焼室などの耐火レンガは薩摩焼の技術を応用したものです。
西洋人にたよらず自分たちだけで努力する姿勢がその後の日本の近代化につながったのであり、この反射炉は日本の「ものづくり」の底力をしめす貴重な遺産といえましょう。
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尚古集成館本館と別館の前庭
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尚古集成館本館と別館も見学しましたが写真は禁止でした。
雨が強く降ってきました。尚古集成館の写真は撮れませんでした。
これれの施設も1863年の薩英戦争により破壊されてしまいましたが、その後に再建されています。 |
出水のホテルへ
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今夜の宿は出水駅前のビジネスホテルです。 |
雨が止んだので出水駅の周辺を歩いてみました。在来線の駅は昔の駅を思わせますがその後ろには新幹線の駅が作られていました。
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7日目 長崎の浦上天主堂、グラバー邸、長崎孔子廟などの見学
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今日は長崎に向かい、長崎の名所の見学です。
天気予報によると、鹿児島は終日雨だが長崎は午後になると雨が止むとのことです。 |
長崎に向けて出発です。時々強い雨になります。
長崎市内に到着です。これから大浦天主堂とその隣にあるグラバー邸を訪問する予定です。
大浦天主堂
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正式名称は「日本二十六聖殉教者天主堂」、長崎大浦地区にあるので通称「大浦天主堂」と言われています。
日本26聖人の殉教地である聖地、西坂の丘(長崎駅近く)に向かって建てられています。別名をフランス寺ともいい、世界宗教史上名高い“長崎の信徒復活”の舞台でもあります。
1933年(昭和8)1月23日、日本洋風建築の代表的な構造物として、文部省により国宝に指定され、さらに1953年(昭和28)3月31日、文化保護委員会によって、再指定されました。この天主堂は、現存する日本最古の木造ゴシック様式教会でしたが、1879年(明治12)外壁を煉瓦構造に改築されています。
構造・様式
江戸時代末期の1864年(元治元)12月29日にフランス人宣教師プチジャン神父の協力を得て、ジラール、フューレ神父の設計図をもとに、熊本県天草出身の棟梁小山秀之進が建設し完成。翌年1865年(元治2)2月19日、ジラール教区長により天主堂は「日本26聖人殉教者天主堂」と命名、献堂されました。
建築当初は三塔三廊式のゴシック風の造りながら、正面中央の壁面はバロック風で、外壁はナマコ壁という和風建築の混合様式でした。正面は信徒発掘を意識し、きらびやかな飾りを施しています。
1879年(明治12)に改築され、外壁をレンガ構造にするとともに、間口を左右に一間ずつ広げ、奥行きも長くして当初の2倍の大きさに拡張し、五廊式でゴシック風建築様式の建物になっています。
日米修好通商条約が1858年、アメリカ総領事ハリスと江戸幕府大老井伊直弼の間で締結されました。内容は、神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、江戸・大坂の開市、外国人居留地の設置、領事裁判権、自由貿易の原則などでした。それ以来、たくさんの教会が作られるようになりました。
名称の由来「日本二十六聖人殉教者」とは
豊臣秀吉のキリスト禁教令によって、1596年(慶長元)12月京都・大阪で捕らえられた外国人宣教師と修道士6人、日本人修道士と信者18人が1597年1月9日堺を出発、途中2人が捕われ、26人が1597年(慶長元)2月5日長崎に到着。即日、西坂の丘で処刑されています。
なかには12歳のルドビコ茨木・13歳のアントニオ・14歳のトマス小崎の3名の少年も処刑されています。1862年(文久2)6月8日、ピオ9世教皇により聖人の尊称を献上され、カトリック全教会信者の尊崇をうけることになっています。
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内部は写真禁止でした。
頂いたパンフレットからコピーしました。 |
グラバー邸
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浦上天主堂やグラバー邸の観光地点を赤丸で示しました。 |
動く歩道を1段上がると見晴らしがよくなりました。ここからさらに長い動く歩道を上ると一番高いところにある旧三菱第2ドックハウスが現れます。
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旧三菱第2ドックハウス
一番高いところから長崎港を見下ろした風景です。
坂を下ると旧長崎地方裁判所長官舎が現れます。
順路に沿って坂を下りてゆくと旧ウォーカー住宅があります。
旧リンガー住宅です。内部を見学することが出来ます。
旧オルト住宅
旧スチイル記念学校
明治20年、東山手9番に建てられたミッション系の学校。居留地時代に造られた典型的な木造洋風建築。3階は鐘楼になっており、学校名は学校建築に資金を寄付した宣教師
W・H・スチールの名前に由来しています。
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旧グラバー住宅
長崎伝統芸能館
長崎の秋の大祭「長崎くんち」に奉納される飾りなどが展示されています。
長崎孔子廟
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長崎孔子廟は、1893年(明治26年)に、清国政府と在日華僑が協力して建立したもので、その後いくどかの改修を経て現在に至っています。
中国山東省曲阜にある総本山なみに、建物の随所に壮麗な伝統美を凝らした、日本で唯一の本格的中国様式の霊廟です。 |
オランダ坂通り
昔造られた石畳の道路が今もそのまま使用されています。
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観光後ホテルに向かいました。
雨はすっかり止んでいました。 |
ホテルへ
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ホテルは長崎市街を見下ろせる高台にあります。 |
夕食は懐石料理でした。
素晴らしい夜景です。
8日目 軍艦島、宗像大社などの観光
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午前中、世界遺産の軍艦島を見学後、世界遺産の宗像大社に参拝し、その後博多に戻りレンタカーを返しました。 |
長崎港
ホテルの部屋から眺めた長崎港です。港にへばりつくようにたくさんの家が建てられています。
長崎新地中華街
横浜中華街、神戸南京町とともに日本三大中華街といわれています。
中国から取り寄せた建築資材や、中国からの職人により、町が作られました。
有名なので立ち寄ってみましたが、まだ朝が早いので、人はほとんどいませんでした。 |
駐車場
軍艦島に行く船乗り場の近くの有料駐車場ですが、大型バスがたくさん停まっていたのには驚きました。
豪華クルーズ船からたくさんの中国人が下りてきて、ガイドに案内され、バスに乗っていました。
私たちが借りた車はトヨタカローラで、下の写真のわ59-62のナンバープレートを付けたものです。
世界遺産 明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業 2015年登録
幕末から明治時代に急速な発展を遂げ、日本の近代化に貢献した重工業に関する産業遺産。8県(山口県・鹿児島県・静岡県・岩手県・佐賀県・長崎県・福岡県・熊本県)に点在する23の資産から構成され、そのうち8資産が現在も稼働中という珍しい世界遺産です。この世界遺産を象徴する場所として人気があるのが軍艦島の名で知られる長崎県の端島炭鉱。最盛期には世界一の人口密度を誇り、日本初の鉄筋コンクリート造の集合住宅も造られました。閉山後は一気に無人化し、まさに廃墟。現在は、その稀有な姿をガイド付きで楽しむ観光ツアーが人気になっています。 |
軍艦島観光
観光船のオフィスで乗船券を購入しました。乗船のためもうすでに何人も並んでいました。
軍艦島観光
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軍艦島まで、片道約45分かかります。途中、二つの大きな橋の下を通ります。
昨日は雨や風のため欠航したようです。今日は晴天ですが多少風があります。
ただし、沖に出るとかなりの波で、立ち上がって写真を撮ることが出来ません。常に何かにつかまっている必要があり、また、写真を撮るために立ち上がると係員に注意されます。 |
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途中、トイレのため1階に行くと、1階はガラガラでした。
乗客が多いときは、ここもいっぱいになるそうです。
船の揺れがひどく、立ち上がる時は何かにつかまる必要がありました。
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軍艦島に到着
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軍艦島に到着しました。
ここからは立ち上がりフェンスにつかまり写真を撮ることが出来ます。
船は島を一周したのではなく、左のような軌跡を描き走っていました。
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ここからの眺めが一番軍艦らしく見えるようです。
かなり波が強そうです。
観光船は着岸を試みますが、上下2mもの浮き沈みがあり、何度か試みた後上陸は中止となりました。
上陸すると長島市に300円を納める必要があるそうですが、利用券と交換に300円を戻してくれました。
山肌にへばりつく住宅街を見ると、イタリアのアマルフィ海岸を思い出しました。
上陸できなかったため、通常は1,800円もする軍艦島ミュージアムに無料で入場することが出来ました。
道を歩いていると3名の銅像があったので写真に収めました。日中友好を記念して、中国科学院から贈られた像です。
朝は、百台ぐらいあったバスが合計3台しか残っていませんでした。
中国からの観光客はバスに乗り、中国人の経営する施設によるため、長崎にはお金が落ちないとのことです。
もう、午後1時を過ぎているので、すぐに世界遺産に登録された宗像大社に向かいました。
借りた車は、構造上の制限のためか、日光がカーナビに直接あたり、よく見えないことがりました。まあ、やむを得ないのでしょう。
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宗像(むなかた)大社 祈願殿
宗像大社の前に大きな祈願殿と駐車場が作られていました。
世界遺産・宗像大社
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、2017年7月、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群が日本の世界遺産の中では21番目に登録されました。
左の地図は登録された5か所の地点です。
沖ノ島は上陸が禁止されています。 |
宗像大社参拝
神宝館
神宝館を訪ねてみました。内部は写真禁止でした。参観者は私たち以外に誰もいませんでした。
国宝が八万点も収容されているとは驚きです。
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八万点もの国宝を収蔵している神宝館ですが、それらの多くは5円玉ぐらいのいろいろな出土品で、米粒のような小さなものもたくさんありました。この点数は日本最大です。
なお、国宝は一般に件数で数え現在1108件で、ここの国宝は1件と数えるそうです。 |
福岡空港近くのビジネスホテルに戻り、近くの料理屋に出かけました。
長い旅も今夜で終わりです。
9日目 博多から自宅へ
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JAL3052便で福岡から成田に戻りました。
福岡発 07:20、成田着 09:05 で飛行時間は 1時間45分でした。 |
6時ごろ、前もって予約をしておいたタクシーを利用し空港へ向かいました。約10分で到着でした。ラウンジで一休みし、成田に向かいました。
いつも思うのですが、千葉県でのゴルフ場の多さには驚きます。空港近くの駐車場に預けておいた車を利用し、自宅に戻りました。 |
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