ウクライナ・ベラルーシ・モルドバ浪漫紀行9日間
ウクライナといえばチェルノブエリや横綱大鵬でもよく知られていますが、2014年2月ヤヌコーヴィチ大統領がロシア寄りの政策を進め、また政権の汚職のひどさなどに対し欧州統合を支持する市民が大規模反政府デモを行い首都キエフで死者100名以上を出す大規模衝突が発生し、また東部では親ロシア派がロシア軍の支援を受け独立運動を行い内戦が発生したり、クルミア半島でも住民投票によりロシアが併合することを発表したりと、大変危険な状態になっていましたが、現在、首都キエフは平穏を取り戻し、旅行社もツアーを再現し始めました。
クラブツーリズムも4年ぶりにツアーを再開したとの知らせを貰い早速申し込んでみました。
もうかなり前になりますが、映画「ドクトル・ジバゴ」でみた風景が忘れられず、ぜひ行ってみたいとも思っていました。
下の地図は今回訪問した場所です。成田からモスクワ空港を経由し、モルドバのキシニョフ(キシナウ)へ飛び、ウクライナからベラルーシを観光し、再びモスクワ空港経由で日本に戻るものでした。 |
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1日目 成田からモスクワ経由、モルドバの首都キシニョフへ
久しぶりのヨーロッパなので今回はJALのエコノミープラスを利用しました。
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JL0421便で10時45分に成田を発ち、所要約10時間15分かけてモスクワには15時に到着します。時差は6時間です。
モスクワで乗り換え、モスクワ発20時、所要約3時間15分でキシニョフに到着します。モスクワとモルドバの時差はありません。
ちょうど今FIFAワールドカップがロシアで行われています。
日本からの応援団も同乗していました。 |
モスクワのラウンジで一休みです。機内ですでにお酒をたくさん飲んでいたのですが、ここでもまたビールです。
ホテル到着はすでに午前0時15分ごろでした。
2日目 キシニョフ市内観光後、ワイナリー見学へ。
ワイナリーで昼食後ウクライナへ移動。途中、ドニエストル共和国を通過
モルドバ
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国旗は1990年に制定され、基本的には青・黄・赤の三色旗で、中央に国章が描かれています。国章を除けばルーマニアの国旗と同じであり、ルーマニアとのつながりを強く意識していることがわかります。
地形は丘陵地帯で、山が存在せず、ほぼ平野で、小高い丘や森林が点在しています。
民族はモルドバ人(ルーマニア)が約78%、ウクライナ人約8%、ロシア人6%などです。
公用語はルーマニア語のみとなっていますが各民族はそれぞれの言葉で話しており、共通語としては旧ソ連時代の影響でロシア語が使用されることが多いようです。
宗教はロシア教正教会が主であり(98%)、他に、ルーマニア正教会、モルドバ正教会などがあります。
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モルドバは東にウクライナ、西はルーマニアと接しています。ウクライナとの国境は人工的に作られ、ルーマニアとの国境は川により隔てられています。
以前、ルーマニアを旅行した時、モルドバと接する地域がモルドバ地方と名付けられており、ルーマニアとモルドバの強いつながりを実感したことがあります。
第二次世界大戦後は旧ソビエト連邦を構成する国家でしたが、1990年、最初の国家議員選挙が行われ、1991年8月、「モルドバ共和国」が成立しました。
モルドバの東にあるドニエストル川とウクライナの間に、沿ドニエストル共和国があります。国際社会はモルドバの一部であるとしていますが、政治的、経済的にモルドバから独立しており、経済と軍事はロシアに依存しています。 |
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モルドバは基本的には農業国で、工業製品はソ連時代からの名残で沿ドニエストル共和国で生産されており、ヨーロッパでもっとも貧しい国として知られています。一人当たりのGDPはインドネシアやフィリピンとほぼ同じです。
面積は九州の91%で、人口は360万人と、日本の静岡県とほぼ同じで、人口としては小国です。
人民はEU入りを果たしたルーマニアを見習い、親欧州路線を望む人と、ロシア側に付こうとする人がほぼ半分に分かれていますが、現在の政権はEU寄りの政策を進めているため、ロシアはそれに対する制裁としてモルドバからの農産品の輸入を禁止しています。またガスなどのエネルギーをロシアに依存していましたが、ロシアはそれをも禁止したり、かなり値上げをしたりしモルドバを苦しめています。そのため、農産物の物価が下がり、冬は暖房もままならず、生活のためEUへの出稼ぎ労働者が3割にも達しています。
現在、ブドー酒が外貨獲得の最大製品となっています。 |
キシナウ市内観光
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キシナウ大聖堂、聖ティロン大聖堂などの見学後、ワイナリー見学へ。
ワイナリーで昼食後ウクライナへ移動。途中、ドニエストル共和国を通過、
黒海の真珠オデッサへ。
キシニョフ~オデッサ間 所要約3時間、距離195km。
夕食はホテル。
左の地図に書き入れた細い赤線は沿ドニエストル共和国の国境です。
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今回の参加者は合計24名なのでバスには全員が片側の2席を利用できました。ただし、毎日、前から2列目と3列目は添乗員さんが指定し、片側に1名づつ、合計4名が指定された席に座りますが、それ以外の人は、自由に自分で席を決めます。かなり余裕があるので、問題は全くありませんでした。
なお、今回の参加者24名の内訳は女性が17名、男性が7名でご夫婦の参加は5組でした。
まずは、ホテルから数百メートル離れた青空市場へバスで行き、そこからホテルに戻る方向で歩いて戻りました。 |
青空市場
絵画がたくさん売られていたのには驚きました。
凱旋門
19世紀、東方教会が整備した凱旋門です。その向こうには国会議事堂が見えます。反対側はこれから行くキシナウ大聖堂です。
キシナウ大聖堂(ロシア正教会)
1836年に建築されましたが第二次世界大戦で破壊され再建されています。教会内では、結婚式がよく行われるそうです。 |
市立公園
一辺が200メートルほどの正方形の公園が2つあり、市民の憩いの場所となっています。
噴水とモルドバの歴史的有名人の像があります。また、ロシアの詩人、プーキシンの銅像もあります。
シュテファン大公の像
15世紀のモルドヴァ公国の公でシュテファン大公と呼ばれています。正教会で聖人です。
聖ティロン大聖堂
この大聖堂は市立公園の東、2kmぐらいのところにあります。
ルーマニア正教会の大聖堂です。19世紀半ばに建造されています。青い玉ねぎ型のドームと外壁をもち、堂内にはフレスコ画が残っています。 |
ワイナリー見学
キシナウ市内から南へ10kmぐらい行ったところにあります。
貯蔵庫は全長250kmとギネスにも乗る世界一で、貯蔵されているワインボトルの本数は200万本と膨大な量を誇っています。
道内の湿度は96%で温度は12℃と自然に保たれ通年の温度差はほとんどないそうです。この貯蔵庫は元々炭鉱だったそうで迷路のように入り組んでいます。
観光後、このワイナリー内で昼食をとりましたが、色々な種類のワイン飲み比べがあり、また、一人当たり1本のシャンパンと1本のワインのお土産があり、合計4本もの荷物が増えてしまいました。
ただし、シャンパンは毎晩1本ずつ飲んでしまったので、日本に持ち帰ったのは合計2本のワインでした。 |
ウクライナのオデッサに向けて出発です。ひまわり畑が続きます。所要約3時間、距離は約195kmです。
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ソフィア・ローレン主役の映画「ひまわり」にはこの辺りの風景が使用されたそうです。戦争の無常さを描いた名作です。 |
時々、トイレ休憩があり、一般にはガソリンスタンドかスーパーなどを利用します。今回の旅行では3カ国ともトイレは無料でした。
沿ドニエストル共和国
ガイドさんが沿ドニエストル共和国の説明をしてくれました。英語での説明です。
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上の川の写真はドニエル川でその橋を渡ると沿ドニエストル共和国になります。
モルドバはこの国を認めていないので、税関や検問所などはありません。
この国の境界線は一般の地図には書かれていないので左の地図には赤線でドニエル川を書き入れてあります。
面積はモルドバ全体の約1割で人口は48万人であり、人口密度はモルドバ全体よりも大きくなっています。
軍事、経済をロシアに頼っており、欧米寄りのモルドバに対してロシア寄りの政策を採っており、ロシア軍が常駐しています。
旧ソ連時代の遺産で工業が発達しており、モルドバ全体の工業製品の約3割はここで作られています。
公用語はロシア語となっています。
1991年の独立後、沿ドニエストル共和国とモルドバの間で多くの紛争が起こり多数の死者も出しています。そのような内戦が貧困の一つの原因にもなっています。
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レーニンの像です。沿ドニエストル共和国が如何にロシア寄りであるかがわかります。国旗は下の写真の左側の旗です。右側の白、青、赤の旗はロシアの国旗です。 |
国境通過
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これからモルドバの出国手続きをして、国境の橋を渡り、次にウクライナの入国手続きをします。
各々1時間ぐらいかかりましたので、合計2時間、出入国手続きに掛かることになります。
なお、空港の税関付近も写真禁止であるように、この近辺も写真禁止で、見つかると大変だそうです。 |
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モルドバとウクライナはクチャーハン川で隔てられています。 |
ウクライナに入っても、ひまわり畑が続きます。まだ花が咲いていないひまわり畑もあります。小麦もたわわに実っていました。
ホテルに到着
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ホテル、モーツアルトは港近くのオペラ・バレエ劇場の前でした。 |
夕食はホテルのレストランでした。いったん外に出ます。
今回のツアーは女性が男性よりも10名も多く、いずれもそれなりのお年でしたが大変元気でした。
夕食後、オデッサ・オペラ・バレエ劇場前を散策してみました。
3日目 ウクライナのオデッサ観光後、飛行機で首都キエフへ
ウクライナについて
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面積は日本のほぼ1.6倍で、ヨーロッパでは最大です。人口は4,500万人、民族はウクライナ人78%、ロシア人17%、その他となっています。ただし、一般の家庭で話される言語は、ソ連時代の影響もあり、ウクライナ語38%、ロシア語41%、その両方16%などとなっています。
宗教は多くの人がキリスト教徒としていますが、旧ソ連の影響もあり特定の宗教団体には属しておりません。
現在、ロシアの支配下にある東部のドネツィク市はの人口は96万人でウクライナでは5番目の大都市です。
現在の大統領は2014年5月よりEU寄りのペトロ・ポロシェンコです。
ウクライナは美女でも有名です。確かに多いと感じました。 |
私たちがウクライナについて誰もが知っているのは1984年4月に起こした原子力発電所での大事故でしょう。
ただし、当時はソ連時代だったので、ロシアにあると思っている人が多いかもしれません。チェルノブエリはキエフの北約90kmの所にあり、キエフと東京とすれば熱海あたりに相当します。
ウクライナの歴史は相当に複雑ですが、第二次世界大戦ではドイツ軍がモスクワを攻撃する一つのルートであったため、大都市のほとんどは廃墟と化しています。
戦争終了後、ウクライナはソ連邦に編入されます。
ソ連が崩壊した後も、ウクライナ西部の親欧州と東部の親ロシアとの政治的対立が絶えず続いてきました。
2013年、欧州連合との経済協力を深めようとする協定を親ロシアのヤヌコビッチ大統領が拒否したところ、親欧州派の人たちが首都キエフなどで大規模なデモを展開し、政府庁舎などを占拠。政府側と衝突も起き、特に2014年2月18日から20日にかけては100名以上の死者を出す大規模衝突に発展し、ヤヌコビッチ氏はロシアに逃れました。これに対し、親ロシア派の人たちの巻き返しが東部を中心に起き、その上、クリミア半島ではロシア軍の介入もあってウクライナ政府庁舎などを占拠。住民投票の結果、ロシアが併合を宣言しています。国際的には住民投票の有効性も、併合も認められてはいません。 |
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一方、ドネツック州とルハーンシクからなるドンバスでは親ロシア派勢力がウクライナからの分離独立を主張し、2014年4月から政府軍と衝突するようになってしまいました。分離独立派に対し、ロシアが軍事支援をしていると言われています。
5月にはドネツク、ルガンスク両州の一部地域で分離独立派が勝手に独立を宣言しますが、国際的な承認はされておらず、今も政府軍との間で武力衝突が続いています。そこの人口はウクライナ全体のほぼ7%に当たります。
現在、ウクライナはモルドバと同様、ロシアから天然ガスの制限を受けたり、ウクライナ農産物の輸入禁止政策などを取っています。
このような状態もあり、ヨーロッパではモルドバと同様、最貧国と言われています。ちなみに、一人当たりのGDPは、西隣にあるポーランドの約30%、ベラルーシの約半分となっています。ただし、現在においても輸出先、輸入先としてロシアが最大となっています(外務省のホームページより2017年現在)。 |
オデッサ観光後、空路で首都キエフへ
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オデッサの市内観光後、空路でウクライナの首都、キエフに向かいます。飛行機はオデッサ発16:55、キエフ着17:55と飛行時間はちょうど1時間でした。
夕食はホテルです。 |
昨夜のホテル、モーツアルト
室内も綺麗に飾られていましたが、外観も独特な飾りです。
オデッサ観光
オデッサの人口は約100万人とウクライナで3番目に大きな都市で、また最大の港湾を備え、ウクライナを代表する工業都市です。
バスで約500mほど離れたところまで行き、そこから海岸通りを歩いてホテルに戻って来ました。
リシュリュー公の像
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階段の頂上には、リシュリュー公アルマン・エマニュエル・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシのモニュメントが立っています。彼はフランスの貴族であり、1803年にオデッサ初代知事になっています。ロシアの彫刻家イワン・ペトロヴィチ・モルトス(1754–1835年)は古代ローマのトーガとクラッドをまとった姿でデザインし、彫像はイェフィモフによってブロンズに鋳造され、1826年に発表されました。オデッサに最初に建立されたモニュメントです。 |
ポチョムキンの階段
映画「戦艦ポチョムキン」で一躍有名になった巨大な階段です。オデッサの市街地は高台にあり、黒海から市街地に向かうためには、かって、曲がりくねった道が使用されていました。
この巨大な階段は落差27mで距離は142mもあります。最下段のステップの幅は21.7m、最上段の幅は12.5mです。
この階段は1837年から1841年にわたって建設されました。 |
さらに歩いてホテルに戻ります。
再び、昨夜のホテル前のバレー・オペラ劇場の前に戻ってきました。
昨夜のホテルでトイレ休憩し、バスで市の繁華街に出かけ約1時間、フリーの散策です。その後、昼食をとり空港へ向かいました。 |
市街地の中央です。ここでバスを待ち、空港へ向かいます。
オフィス街や高層ビル群を通り空港へ向かいました。たしかに大都市です。
午後6時にキエフ空港に到着し、ホテルで夕食でした。
ホテルプレジデントエフスキー
かなり豪華なホテルです。
ちょうどサッカーのワールドカップの最中です。日本は決勝戦に進めましたが、初戦でベルギーに負けてしまい、上位8位以内には入れませんでした。
でも、西野監督の元、よく戦ったと讃えられています。 |
4日目 終日キエフ観光
首都キエフ
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キエフは1500年余りの歴史を持つ東スラブ随一の古都でたくさんの教会などがあます。
人口は300万近い大都市です。
988年にノヴゴロドのイーゴリを擁する一派がキエフを征服し、スカンジナビアとビザンチンを結ぶ大水路の支配権を握り、東スラブ最初の統一国家となっています。しかし、1240年のモンゴル来襲で徹底的な破壊を受けてしまい、町は寂れてしまいました。
また、第二次世界大戦でも大きな被害を受けています。
しかしその都度再建されています。
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キエフは黒海に注ぐ大河ドニエプル川の流域にあります。まずは1時間ほど、遊覧船でドニエプル川添の観光です。
その後、一日かけてキエフ市内の観光です。
たくさんの教会や修道院、洞窟内の聖人のミイラなどとにかく複雑です。
以下は今日見学する教会などです。
ペチェルスカヤ修道院「世界遺産」「入場」
・ウスペンスキー大聖堂「入場」
・聖三位一体教会「入場」
・トラペズナ教会「入場
ソフィア大聖堂「世界遺産」「入場」
聖ミハイルの黄金ドーム修道院「入場」
アンドレイ教会「下車」
などです。
一般に建物内部は写真禁止でした。 |
ドニエプル川の遊覧船
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ウラジミール聖公像
ウラジーミル聖公は10世紀末に今の地を中心にウラジミル公国を建国しました。その時に国教をギリシャ正教に改めました。それにより、ビザンチン帝国とのつながりが強くなり東スラブの世界を大きく変えることになりました。文字をはじめビザンチィン文化をこのスラブの地に取り入れた東スラブの先駆者です。 |
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水上ホテルだそうです。 |
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下船後、正教会の前を通り、ケーブルカーで高台の市街地に向かいます。
聖ミハイルの黄金ドーム修道院
黄金ドームの美しい修道院です。
12世紀に建設されましたが、1936年のソ連時代、宗教弾圧の一環として政府庁舎建設計画の候補地として修道院全体が取り壊されてしまいました。
現在の建物はウクライナ独立後の1997年から2000年の間に再建されています。 |
聖ソフィア大聖堂の大鐘楼
聖ソフィア大聖堂「世界遺産」
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11世紀に建てられた現存するキエフ最古の教会です。
現在の姿は17世紀後半にウクライナ・バロックと呼ばれる様式で再建されましたが、内装には11世紀のものが残されています。
町の中心に立つのはロシア聖堂の母といわれる聖ソフィア大聖堂。ロシア人による最初の統一国家、キエフ・ルーシ(公国)が11世紀に建てたものです。
現在の建物は18世紀に改築されています。創建当初はキリストを表す黄金のドームと弟子を表す12のドームがありました。キリスト教世界の最前線には布教のためにも華やかな聖堂が必要だったのです。
外観は改築されても、内部の装飾は再建当時のままです。祭壇の周りにはフレスコ画で囲まれています。
モザイク画は今のイスタンブールで栄えたギリシャ正教の元で高い技術に達しました。
同じギリシャ正教の聖ソフィア大聖堂もその影響を受けています。モザイク画は様々な色の石を細かく砕き下絵に合わせて埋め込みます。中でも傑作がこの祈る聖母です。177種類の石が300万個以上使われています。フレスコ画もたくさん使用されています。
写真は禁止でした。
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ソフィア広場
ポフタン・フメリネツキーの像が建てられています。
アンドレイ教会
アンドレイ坂を見下ろすと教会が現れます。
ロシアのバロック様式の優雅な教会で、ロシアの女帝エリアヴェータのキエフ来訪を記念して、1749年から建設が始められました。建築家ラストレリのよるもので、彼はサンクトペテルブルクの冬館なども手掛けています。
女帝の死後、かなり荒れた状態になっていましたが現在は修復され博物館になっています。 |
黄金の門
11世紀後半、ヤロスラフ賢公によってキエフ市街を取り囲む城壁が築かれました。そしてこの門が町の公式の入り口として作られています。
1240年、モンゴル軍によって破壊され、バトゥ・ハーン自身、この門を通ってキエフ城に入ったと言われています。
現在の建物は1982年に再建されたもので、内部にはオリジナルの門の廃墟が包まれるように保存されています。 |
ウラジーミル聖堂
1882年に完成したもので、キエフでは比較的新しい教会です。外装は地味なビザンチン様式ですが内装はかなり豪華です。
ここは一般の教会として使用されています。
市内のレストランで昼食です。一般客でたいへん賑わっていました。
昼食後はペチェルスカヤ大修道院「世界遺産」の観光です。
ペチェルスカヤ大修道院「世界遺産」
こちらは11世紀の中ごろに建てられたキエフ・ルーシ最盛期の大聖堂です。第二次世界大戦で一部が破壊されましたが、元通りに復元されています。ぺチェルトは洞窟という意味です。このドニエプル川に洞窟があり、そこで修道士たちが修行していたのが修道院の起こりです。ペチェルスカヤ大修道院には付属した修道院や建物の下に洞窟への入り口があります。地下通路は複雑に絡まり、1.5kmに及びます。
19世紀には1千人を超す修道士が居たと言われ、ここで生涯を終えると洞窟がそのまま墓地となりました。洞窟の中は温度も湿度も一定しているため遺体は棺の中でそのままミイラになっています。棺を覆う布には美しい刺繍が施されています。巨大で華麗な聖堂や修道院を誇ったキエフ・ルーシは13世紀半ばモンゴルに滅ぼされます。その後、支配者は目まぐるしく変わりましたが大聖堂と修道院はキエフ・ルーシの存在と歴史を語り続けています。 |
トラペズナ教会
ペチェルスカヤ大修道院の内部にある教会です。
見事な大鐘楼もあります。
ここから坂を下り、地下墓地に向かいます。落差が大きいので希望者だけでしたが、ほぼ全員参加したようです。
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この門から洞窟に入ります。内部にはここで修業した修道士たのミイラの棺がたくさん安置されています。 |
見学を終わり、こんどは坂を上って来た道を戻ります。
大鐘楼のある聖三位一体教会の所に戻ってきました。
昨夜と同じホテルに戻りました。
5日目 首都キエフからリブネへ移動。到着後、愛のトンネルの見学
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今日は、移動日でキエフからウクライナ第7位の大都市リヴネに向かいます。観光はリブネの先にある愛のトンネルだけです。
キエフ~クレーヴェン 所要 約4時間30分、約350km
クレーベン~リブネ 所要 約20分、距離20km |
朝食後、さっそくリヴネに向けて出発です。今日はバスの最前列に座るよう指定されました。
時々、ガソリンスタンドでトイレ休憩です。ガイドさんはスマホを見ながら説明していました。
途中、検問所があり、30分ぐらい停められました。何か問題があるようです。どうも所持した書類に不備があったとのことでした。
なお、ウクライナではさほど長距離でもないのに運転手が2人も付いています。これも法律だそうです。
2015年5月、パリからスイスを経由し、ドイツにバスで旅行した時は、イタリアから来たという女性が一人で1週間以上も運転していたことを思い出しました。 |
再び、平原地帯や丘陵地帯を走ってゆきます。
リヴネ
リブネに到着です。ここで昼食とちょっとした散策です。
リブネはポーランドに近く、ウクライナで最もウクライナらしい町ともいわれています。ロシア語はほとんど通じないそうです。
第二次世界大戦後、ここもロシアの政権下にありましたが、独立後は元に戻っています。
市内には多くの観光名所があるそうですがそこは見学せず、一般の案内書には書かれてもいない愛のトンネルへと向かいました。
ふたたち今夜の宿泊地、リヴネのさらに20kmほど先にある愛のトンネルへと向かいます。
藪蚊が多いとのこと、厳重な装備をしている人もいました。
この緑のトンネルは3kmもあるそうです。
1日、3往復の貨物列車が通るそうです。運がよかったのでしょう。ちょうど、貨物列車がやってきました。ここには停車せず、そのまま通り過ぎてゆきました。 |
再びリブネの町に戻り、夕食はホテルでした。
6日目 リブネからベラルーシのブレストに移動。
到着後、ブレスト要塞、市内の観光
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今日はリブネからベラルーシの英雄都市ブレストに移動します。
リブネ~ブレスト間は約4時間、約280kmです。
今日は国境を越えるので、そこでも約2時間ぐらい手続きに掛かりました。
ブレストではブレスト要塞の見学です。
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朝食後、ホテルの前を散歩してみました
東部ドネツクで戦争がはじまると、ウクライナ全土から兵士が集められ東部へ送られたそうです。生まれて初めて銃を取り、殺し合いを経験した人たちですが、帰還したのち5人にひとりの割合で精神異常になってしまったそうです。 |
こらからベラルーシの西にある国境の町ブレストに向かいます。
途中はほとんどが平地で、ひまわり畑や森林地帯が続きます。時々、ガソリンスタンドでトイレ休憩です。
国境の検問所
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ウクライナとベラルーシの間の国境は、この航空写真で見ると、簡単な溝があるだけのように見えます。
ここでもパスポートを出し出国処理と入国手続きをします。
ベラルーシの入国にはビザを前もって取得しておく必要がありました。
なお、モルドバとウクライナ入国にはビザの必要はありませんでした。
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国境の近くに両替所がありました。 |
ベラルーシ共和国
ベラルーシに入ったので、少しベラルーシについて書いておきます。
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国旗の左側の模様はベラルーシの伝統的な織物の模様で、赤はベッラルーシの栄光ある過去を青は明るい未来を意味しています。1991年の独立時に制定されています。
ベラルーシの面積は日本の本州よりも少し小さく、人口はわずか950万人。首都はミンスクです。
民族はベラルーシ人が84%、ロシア人が8%、その他となっています。
言語はソ連支配下の歴史により、多くの人がロシア語を使用しており、1995年の国民投票により、公用語はベラルーシ語とロシア語の二つになっています。
宗教は80%が東方正教会で、その他ローマ・カトリック、プロテスタントなどになっています。
首都ミンスクには巨大なレーニン像が建てられていることから分かるように、支配されていたロシアに対する抵抗感はないそうです。 |
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ベラルーシは海に面しておらず、世界最北の内陸国です。
歴史的には非常に複雑で、9世紀にはバルト海と黒海を結ぶ通商路として繁栄しました。それには海賊バイキングがこの地の経済発展に大きく貢献したそうです。バスのガイドさんが地図を使用し説明してくれましたが、地図にはバイキングが黒海に行ったルートが書き入れられていました。
12世紀、一時、モンゴルに征服されます。12世紀から13世紀にかけては10前後の公国が存在し、13世紀にはリトアニア公国に併合されます。その後、ポーランドとの交流が深まりますが、1795年、ロシア帝国に併合されてしまいます。
その後、独立を志しますが、ロシアに徹底的に迫害され、1918年には再度独立を果たすもののすぐに鎮圧され第二次世界大戦後はソ連圏に編入されます。ソ連崩壊後、1991年に独立を果たしています。
現在もヨーロッパでは最大の人権抑圧国家の一つであり、ヨーロッパ最後の独裁国家との批判を受けています。
経済的にもロシアとの関係が強く、軍事的にもロシアを中心とした集団安全保障条約に加盟しており、NATOには逆の立場をとっています。 |
ブレストに到着
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まず、遅い昼食をとり、ブレスト要塞を見学後、ランプのある遊歩道を散策し、ホテルに到着後、そこで夕食でした。 |
少し遅い昼食でした。
ブレスト
ブレストはポーランドとの国境にあり、町の中心部は国境からわずか2km程度の所にあります。人口は約33万人で、ベラルーシで約6番目ぐらいの大きさです。 |
ブレスト要塞
1941年6月22日、ドイツ軍が3手に分かれてソ連に侵入してきたとき、ブレストの町の90%があっという間に破壊されてしまいました。国境近くのブーク川に張り出したブレスト要塞はそれでも1ヵ月間依然として組織的な抵抗を続けて来ました。しかし、8月ついに全滅してしまいました。
戦後、ソ連により、英雄都市の称号が与えられています。 |
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要塞の周りは日本と同じように堀で守られています。 |
バスの駐車場からブレスト要塞の入り口まで約400mぐらいあります。歩いて入り口に向かいます。
ほとんどドイツ軍により破壊されたしまいましたが、城の入り口には巨大なコンクリート製の門が作られています。
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昔のドイツ兵による攻撃の跡がそのまま残されています。 |
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バスは町中を通り、古いランプのある遊歩道の前に停車しました。
そこで約1時間、自由散策でした。
ランプのある遊歩道です。約500m続いています。
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ランプに火を入れる時間が示されています。
今日は午後9時45分のようです。 |
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このようなランプが通路に並んで建っています。
当時に服装をした人が、一本一本、火をつけてゆくそうです。。 |
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ホテルに到着です。夕食はホテルでした。
7日目 ブレストからミンスクへ移動。途中2つの世界遺産を観光
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今日はブレストとミンスクのほぼ中間にある二つの世界遺産 ネスヴィジ城とミール城の観光です。
ミンスク到着後、市内の観光をしホテルで夕食です。 |
昨夜泊まったホテル、エルミタージュの周辺を散策してみました。高台にあるホテルでした。
プレストからネスヴィジ城に向かいます。 所要は約3時間、260kmです。平原の大地を延々と走ります。
ネスヴィジ城「世界遺産」
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お城のあるネスヴィッジは16世紀、この一帯を支配していたリトアニア・ポーランドの最効率力者ラジヴィール家の領地でした。彼らはここにお城を築き、以来20世紀まで一族が暮らす場所となりました。大貴族だったラジヴィール家は代々政治家やカトリックの枢機卿などを歴任、婚姻関係により、ヨーロッパの半数以上の貴族や王族とつながりを持ちショパンをはじめ芸術家のパトロンを務めるなど、ヨーロッパ社会で絶材な影響力を誇ってきました。
世界中で忙しく活躍していた彼らはここに来て喜びや悲しみを分かち合い、一族の結束を強めていました。
しかし、20世紀、ソビエト連邦の一部となると共産党の名のもとに住居を没収、一族は各国に散らばり、住居は療養所として利用されました。ベラルーシ独立後、住居は国の保護区となり、博物館として再建されました。 |
ラジヴィール家の教会
池を挟んでラジヴィール家のキリスト聖体教会があります。一族が代々祈りを捧げてきたラジヴィール家専用の教会です。
この地下には今でも72人もの歴代ラジヴィール家のひとびたが眠りについています。遺体は質素な服装をまとったままで豪華な品物は身に着けていません。盗掘者に平穏を邪魔されないよう、一族で受け継がれてきた伝統です。 |
大きな池の中に造られた道を進むとネスヴィジ城が現れます。
下の写真はラジヴィール家の紋章です。
部屋の総数は100以上、それぞれ世界中から集められた調度品で飾られました。最盛期には使用人や兵士が300人以上居たそうです。 |
黄金の間
こちらは黄金の間、来賓があったときはまずこの部屋に案内し、権力を見せつけました。
世界中から集められた高価な飾り物が置かれています。
劇場で使用される擬音(風の音など)の装置です。
大広間があり入るとたくさんの観光客が椅子に座っていました。私たちもすわり何やら待っているとダンスが始まりました。
そのうち、観光客も輪に加わるように促され、家内も参加しました。
昼食
再び池の中の道を通りバスに戻りました。
再び平原を走り今度はミール城に向かいました。
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ネスヴィジ城とミール城はわずか30kmしか離れていません。 |
ミール城「世界遺産」
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ミール城は16世紀前半、町の有力者によって建てられ、以来、この地をおさめた領主たちが住居として使っていました。彼らは増改築を繰り返し、時代ごとの流行を城に取り入れて来ました。煉瓦と漆喰を積み重ねた5つの塔はすべたデザインが異なります。東塔と中央塔は豪華で凝った装飾が特徴のゴシック様式でシンプル形の西棟はルネサンス様式です。
戦乱の絶えなかった中世時代、城はなんどか放棄されていました。しかし、度重なる破壊と修復を繰り返しながら400年間も守られてきました。
その後19世紀になるとナポレオンのロシア遠征に巻き込まれて大きく損傷しましたが、それもまもなく修復されています。
ソビエト連邦の支配下にあった20世紀、第二次世界大戦が起こると、遠征してきたドイツ軍は町を徹底的に破壊します。そして城はユダヤ人やソ連人の捕虜を収容する場所として使用されるようになりました。戦後は忘れ去られ放棄されてしまいます。
1989年のソ連崩壊後、この一帯はベラルーシとして独立しました。そしてミール城の修復が国をあげた行われました。 |
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建物内部は跡形もなく破壊され資料もありませんでした。
それで国の歴史や文化を伝える博物館として利用することにしました。
昔の儘の地下室はレストランになり、ベラルーシの伝統料理が提供されています。 |
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金属でできた鎧はとても重いので、倒れると起き上がることがなかなか出来なかったそうです。 |
内部を見学後、中庭に出てそれからバスに戻ります。
再び平原を走り、ベラルーシの首都ミンスクに向かいます。ミンスクまで約100km、所要約1時間20分です。
ミンスク
首都ミンスクは人口170万人の大都市です。ソ連崩壊後に造られたCIS(独立国家共同体)の本部が置かれています。
ミンスクはモスクワとワルシャワを結ぶ線上にあり、戦乱の度に軍隊が往来し、たびたび焼け野原になっています。
第二次世界大戦では人口の半分以上が失われ、町は以前の面影を全く留めないまでに破壊されてしまいました。そのため、戦後、完全な計画に基づく復興が行われ、広い通りにソ連式のビルディングが立ち並ぶ整然とした街並みが続いています。
まずは レーニン像のある広場を散策です。 |
ホテル到着後ホテルで夕食です。今夜が今回の旅の最後となります。
8日目 ミンスク市内を見学後、ミンスク第二空港より、モスクワ空港へ。
そこでJALに乗り換え成田へ
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ミンスク市内を見学後、空路で日本に戻ります。到着は明日の朝です。
ミンスク発 12:30 B2951
モスクワ着 1350 所要 約1時間20分
モスクワ発 17:15 JL0422
成田着 08:35 所要 約9時間20分
です。
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朝食はホテルの最上階でした。
午前中はミンスク市内観光で、聖霊大聖堂と十月広場に向かいました。
聖霊大聖堂
白亜のバロック様式の教会です。
もともとは1642年にカトリック修道院の教会として建てられましたがミンスクが帝政ロシア領になった後の1852年、ロシア正教の教会となっています。
正面ファザードには34mの二つの塔を持ち、その間に「オラトン」スタイルの聖母のモザイク画が描かれています。 |
十月広場
聖霊大聖堂の隣にあります。メーデーのときなどに使用される広い広場です。
再びバスに乗り空港へと向かいます。
ミンスク~モスクワ間
前の座席との間隔の狭いのには驚きです。国際便なのに国内便感覚のようです。ソ連時代は国内便であった名残りでしょうか。
モスクワのラウンジで一休みです。来た時と同じラウンジです。
9日目 帰国
来た時と同じエコノミープラスの座席です。日本では瀬戸内海付近を暴風が通り大災害になっているようです。
成田には予定通り朝の8時30分ごろ到着でした。
今回の旅行は紛争地帯としても知られるウクライナなどですが、今回観光した場所ではその影響を全く感ずることは出来ませんでした。
それらの都市は第二次世界大戦で極めて大きく破壊されていますが、東京など日本の都市がそうであるように、また、応仁の乱のように大昔の出来事であっても、人々はいずれも立派に復興させています。人類の歴史は破壊と再生の歴史のようです。 |
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