フィリピン・マニラ観光6日間

2018年 11月 12日 ~ 17日

 

 フィリッピンは日本からわずか4~5時間のところにありますが、まだ行ったことがありませんでした。
 観光に適する時期を探したところ、マニラの気温は年間ほとんど変わらず、27℃~30℃程度ですが、11月から4月までは乾期になり、台風の影響もなくなるので、この時期を選んでみました。
 マニラというとセブ島が有名ですが、今回は首都であるマニラにしました。幸い、天気に恵まれ、毎日晴天でそれ程暑いとも思いませんでした。



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 ただし、2枚目からは軽快に動きます。


フィリッピンの国旗と民族など
 
 フィリピンの国旗は青、赤、白、黄の4つの色からなっています。青は平和、真実と正義を、赤は勇気と愛国心を象徴し、白は平等と友愛を、黄色い太陽は自由を意味しており、3つの星は主な島であるルソン島・ミンダナオ島・ヴィサヤ諸島を象徴しています。
 フィリッピンには7109もの島があり名前があるのは4,600で、人が住んでいる島は100以上もあり、タガログ族やビサヤ族をはじめ100以上の民族がいて、170もの言語が使用されていいます。そのため公用語はフィリピン語と英語になっています。
 国土面積は日本の約8割、人口はほぼ1億人であり、GDPは日本の6%強、一人当たりのGDPは日本の約8%程度と、世界的に見ても貧民国の部類に入っています。




1日目 成田からマニラのホテルへ

 成田発午前9時20分、マニラ島着13時25分のJAL便で、何時ものように成田のラウンジで朝食です。
 飛行時間は5時間の予定ですが、時差が1時間あり、到着は13時25分となります。
 実際は追い風だったようで予定よりもだいぶ早く到着しました。
 成田-マニラ間はわずか5時間ですが、エコノミープラスを利用しました。
 飛行機は完全満室でした。
 途中、最近賞を取り話題になった万引き家族が放映されていたので見てみました。家族とは何かを考えさせられる名作です。
 今回の飛行では追い風のためか約4時間強で到着でした。


 空港からホテルへはあらかじめホテルに頼んでおいたので、担当者が迎えに来ており、私たちの荷物を運んで、車に乗せてくれました。
 飛行機が予定よりだいぶ早く到着したため、空港でその分待たされてしまいました。
 ホテルは中華街の中にあるラマダマニラセントラルホテルで空港から約14kmのところにあります。
 マニラの中央部には大きなバシグ川が流れています。
 空いていれば約30分で到着しますが、約1時間かかりました。
 マニラのオフィス街はマカティで、空港と我々のホテルのほぼ中間に位置していますが、ホテル代はかなり高くなります。
 今回は人口の密集した中華街に泊ったのでいろいろな勉強にもなりました。
 


 車に乗ってホテルに向かいましたが、まず驚くのが日本車とジプニーで大混雑した街並みです。乗用車の約7割ぐらいがトヨタ車で、その他もほとんどが日本車です。



 5泊するホテルはラマダマニラセントラルホテルで中華街の中にあります。マニラにはラマダホテルが3か所あるそうです。
 チェックインするとき、係の女性と英語でのやり取りになりますが、なかなか聞き取りにくい英語でした。


 チェックインの後、まだ明るいので街を歩いてみました。ものすごい混雑です。信号機はほとんど無いので道を横断するのも困難です。川の水はかなり汚れていました。




2日目 午後から半日マニラ観光

 朝食付きのホテルです。食堂の向こうはキアボ教会です。このキアボ教会は1582年、スペイン人により建設されています。何時も多くの信者で賑っているそうです。


 朝食後、ホテルの周辺や教会の中にも入ってみました。たくさんのバイクタクシーや自転車タクシーなどでにぎわっています。信号もありますが、歩行者も車も信号を全く無視しています。
 馬車も走っています。糞を落とさないよう、馬のお尻には袋が取り付けられています。
 教会の入り口には物もらいが陣取っていました。
 



マニラ半日観光
 午後は、マニラ半日市内観光です。ガイドさんは日本語を話すフィリッピン女性でした。旅行会社の車による案内です。ツアー参加者は私たち二人だけでした。 
 ガイドさんによるとフィリッピンは左の図のように3つに分けられるそうです。
 すなわち、北部のマニラ島地区、中央部のビザヤ諸島地区、南のミンダナオ島地区だそうです。
 現在の大統領、 ロドリゴ・ドゥテルテはミンダナオ島のダバオ市長を合計6期、18年も務め、その後、2016年6月から大統領になっています。
 ミンダナオ島地区にはイスラム教徒も住んでおり、独立を求め政府と武力的に戦った頃もあり、何かと物騒な地域だそうです。
 まずはサンチャゴ要塞の見学です。車の中でそれらの概要の案内がありました。



イントラムロス

 1521年3月17日、フィリピンの海岸に一人の探検家が降り立ちました。世界一周の公開で知られるマゼラン(1480~1521)です。彼はフィリピンをスペインの植民地と宣言、以来、数多くの宣教師たちが訪れ、カトリックを布教しました。そしてフィリピン各地に教会が建てられてゆきました。
 その後、1565年に、スペイン領メキシコ総督府の高官であったミゲル・ロペス・デ・レガスピ率いるスペイン船団がセブに到着。レガスピは北へと向かい、1571年にはマニラに市政がひかれます。
 イントラムロス(Intramuros、イントラムーロス)は16世紀にスペイン人たちによって建てられました。フィリピンの首都マニラの最古の地区であり、パシブ川南岸に位置しています。
 その名称は直訳するとスペイン語で「壁の内側で」となり、壁で囲まれた都市または要塞を意味するほか、その厚く高い壁と堀とで囲まれた構造を言い表しています。
 スペイン時代には、イントラムロスはマニラそのものだと考えられていました。



見学場所

 今回の見学地はほとんどがイントラムロスの中にあります。
 まずは左図の見学開始入場場所の赤○からサンチャゴ要塞の見学です。
 その後、マニラ大聖堂、サン・アグスティン教会と続きます。




塀の中に作られた映画館

 中に入ると、私たちのために、第二次世界大戦時のマニラの様子が約10分ぐらい放映されました。



 分厚い城壁を見ることが出来ます。




サンチャゴ要塞

 当時のマニラはサンチャゴ要塞を中心とした城塞都市で、現在のイントラムロス歴史地区一帯でした。
 サンティアゴ要塞はマニラの最も古い要塞の一つで、1571年にロハ・ソリマンの原住民居留地に建てられました。最初の要塞は、丸太と土の尖塔構造でした。その砦は1574年のLimahong攻撃で破壊されました。
 その後、1589年から1592年の間に建てられた石造りの砦は1645年の震災で壊れましたが再建されています。
 当時ここには、スペイン人とスペイン系の住民だけが住む事を許され、夜になると7つあった門の全てが閉ざされたそうです。
 1762年から1764年までの12年間、ここは英軍占領軍の本部になりました。その後再びスペイン人が統治します。
 1778年には再び修復、改装されています。
 1904年、アメリカ軍がここを占領し軍の司令部をここに置きました。
 しかし、1942年に日本軍によって占領され、何百人もの市民とゲリラが投獄され、拷問され、ここで処刑されました。
 その後、1945年、日本軍とアメリカ軍によるマニラの戦いで破壊されてしまいました。
 日本敗戦後、1946年にフィリピン政府に引き渡される前に米国輸送隊の倉庫として使われました。
 1950年に自由の神社とすると宣言されました。
 1951年に国立公園開発委員会の下で砦の修復と維持が始まりました。
 1992年から運営はインストラムス管理部門が行っています。
 
 
   


ホセ・リサール記念館

 要塞内部はホセ・リサールの記念館となっています。彼はフィリッピン人でスペインからの独立運動の英雄として現在も多くの国民から尊敬されています。ここはホセ・リサールが1896年、スペイン軍による処刑前まで暮らしていた所で、館内には彼が使っていた机や服、当時描かれた絵画などがあり、1階の奥には恋人であった日本人女性「おせいさん」の肖像画がかけられています。処刑されたときはまだ36歳でした。

 施設内には、彼が拘置されていた場所から、処刑される場所までの歩いた足跡が残されており、その歩幅は、通常の歩幅より狭くなっています。これは足枷を付けたまま歩いた為です。
 フィリピンでは、学校の社会科見学で訪れる学校も多く、親しまれています。
 硬貨にもリサールの肖像が描かれています。




日本軍によって殺されたフィリピン人犠牲者の墓と牢獄


    サンティアゴ要塞の犠牲者を記念して


 ここには約600名のフィリピン人が埋まっています。彼らの遺体は戦後この牢獄の中で発見されました。
 1945年2月、ここに投獄されていたフィリピン人が日本帝国軍による残虐行為により殺害されました。
 ここに眠る無名の犠牲者への日本人の残虐行為はフィリピン人の心の中で永遠に記憶され生き続けるでしょう。



 要塞の上は通路になっており歩くことが出来ます。バシブ川の向こうは高層ビルが林立しています。



マニラ大聖堂

 マニラでもっとも重要な教会だそうです。通常は内部の見学が出来るそうですが、なぜか今日は門が閉まっていました。
 最初の大聖堂は1581年に作られましたが、以来、地震や火事などにより破壊され、第6回に作られた大聖堂は第二次世界大戦で破壊されましたが、1954~1958年年に再建されています。
 建設に当たっては銘板に記されているように、スペイン、フィリピン、日本、アメリカなどが援助しています。日本は建設用のセメントなどを寄付したそうです。




 教会の前で結婚式が行われていました。




サン・オーガスティン(アウグスティン)教会(世界遺産)

 1599~1606年に作られた石造建築で、フィリピンの中でも、最も古い教会の一つです。
 重厚な建物であったため、過去の7回にわたる地震や火災に耐え第二次世界大戦の爆撃にも耐え、建設当時の姿を伝えています。
 長方形のサン・オーガスティン教会と四角形のサン・オーガスティン博物館が接しており、中に入ると自分がどこにいるか分からなくなります。
 1614年、加賀で暮らしていた高山右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、マニラへ移住します。すでにキリスト教布教で有名となっていた右近はマニラでスペインの総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けています。しかし老齢の右近はすぐに病にかかり、翌年の1月6日に死亡してしまいます。享年63才でした。葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会にて、10日間という長期間で盛大に行わています。
   
   1993年12月に世界遺産に登録されています。 
                  歓迎

 サン・オーグスティン博物館、教会、そして修道院へようこそ。
 フィリピンに数百以上もある教会や修道院の中でもここは特にユニークな施設でもあります。ここにはフィリッピンの中で最も古い芸術的建築群、彫刻、絵画、家具、コーラス本などがあります。そして、とりわけ、ここに住むオーガスティンの修道士たちが、ここで祈り、学び、そしてここから極東に住む人たちに愛の伝言を広げていったことです。

 オーガスティンの修道士は、あなたたちの訪問が楽しいものであることを願っています。マニラ市が誕生した1571年にこの修道院が造られて以来、ずっとその姿を変えずに保たれていることを誇りにしています。ここで3000名もの修道士たちが住み、祈り、学び、そして数多くあるフィリピンの島々や、中国、日本、インド、アメリカ、アフリカなどの人たちへ福音書の良さを広げてゆきました。

 あなた方と450年にわたる愛を分かち合い、450年にわたる信仰と愛情、歴史と遺産、文化と芸術を分かち合いたいと願っています。
   
 フィリピンにはメキシコからも船に乗って来たそうです。
 人類は勇敢で、全ての人々、民族、言語、文化を乗り越えて交流して行きます。
 
 障子のような透明の板は貝殻を薄く磨いて作られています。
 博物館は四角形で中庭があります。とにかく広い博物館です。
 博物館の4辺はこのような廊下で作られています。
   



 

 第二次世界大戦の末期、日本軍によって殺された140名のスペイン人の遺骨などが納められている部屋です。
 銘板には、日本軍がスペイン人を生きたまま埋めたり、鉄砲で撃ち殺したり、手りゅう弾を投げ入れたりして殺したと書かれていました。ただし、日本語ガイドさんからは納骨堂であるとしか説明はありませんでした。遠慮したのでしょう。
 





 サン・アグスティン教会の前庭の道路は石畳で出来ています。帰りにこの道を車で通りましたが、車がものすごく揺れました。




 竹で作られた自転車も実用化されていました。ブレーキが見当たりません。どこかにあるのでしょう。


日本軍の大砲

 道路の曲がり角に入り口があり、そこに入ると大砲が設置されていました。周りには説明盤がまったくありません。ガイドさんによると日本兵が使った大砲だそうです。 




リサール・モニュメント

 英雄ホセ・リサールが埋葬されている高さ15mのモニュメントです。花崗岩の台座に立ち上がるリサールの銅像は、マニラ湾を見つめ威厳にあふれています。フィリピン各地への距離の起点となるゼロポイントにもなっています。
 フィリピンを訪れる外国政府の国賓は献花に訪れます。衛兵が2名24時間体制で英雄の像を守っています。


 観光終了後、ホテルに戻る途中です。子供が必死になってバイクタクシーにしがみついています。無賃乗車のようです。日本では全く考えられない恐ろしい風景です。
 




3日目 コレヒドール島ツアー(昼食付)

 朝、6時にガイドさんがロビーに待機しており、私たち二人を車でフェリー乗り場まで送ってくれました。日本語を話すガイドさんです。ただしガイドさんとはフェリー乗り場でお別れです。
なお、コレヒドール島観光後フェリーで戻ると朝ここまで送ってくれたガイドさんが待っていて、ホテルまで送ってくれました。
 道中みた大きなビルは、一般の住宅(マンション)だそうです。
 コレヒドール島はマニラの南西約45㎞、バターン半島から6㎞程離れたマニラ湾に浮かぶ広さ約9㎢の小さな島ですが、マニラ湾の入り口に位置することから、スペイン統治時代にはここに外国船の入国管理が行われるなど、戦略上も非常に重要な位置にあり、1902年にはマニラ防衛軍の軍用地ともなっていました。
   



 マニラのフェリー乗り場からコレヒドール島まで約1時間15分でした。
 船の乗船率は約30%ぐらいと大変空いていました。




 マニラ湾にはこのような魚を捕るためと思われる網の台場が幾つも造られていました。



 船着き場に到着すると4台のバスが待っていて、私たちはNO4のバスでした。
 ガイドさんは名物ガイドと言われる日本語を話すフィリピン人です。従って乗客は日本人のみです。名前はえどさんです。。
 人数は合計12名で、4人組と6人組と私たち二人です。
 最初は観光しながら島の左側の一番高い所に行き昼食バイキングです。
 その後、島の右の日本人墓地を見て最後は長さ250mもあるマリンストンネルを観光でした。ほかのバスとは見学場所が同時にならないよう配慮されていましたが、他のバスは日本人墓地には来ないようでした。



 島にはこのように廃墟となったビルが無数にあるようです。この島には電車も走っていたそうです。その線路も残されていました。
 戦後、この島は放棄され荒廃が進んだとは思われますが、これらの建築物はすべてが日本軍の爆撃による破壊です。
 これらのビルの建設に当たって、アメリカ軍は日本からセメントを輸入して作ったそうです。そのため、ビルの強度は非常に強かったそうです。




 バスは坂を上り島の最高地点まで登って行きます。


 島の最高地点に作られた食堂です。昼食付の観光ですが、他のバスの人たちもここでバイキングです。



 

 その後、海抜188mと島の一番高いところに作られた灯台に登ってみました。この灯台は1836年、スペイン人によって作られましたが、1897年に新しくされました。
 しかし、第二次世界大戦中に日本軍により破壊され、戦後再建されています。
 この灯台には階段を使用し登れるようになっているのでチャレンジしてみました。上に行くほど狭くなり、最後はかなり急でした。




太平洋戦争記念館

 1968年にアメリカ政府が建設した記念館です。

 この記念館は島の一番高いあたりに作られています。
 千人針が飾られていました。
 武運長久 という文字が針糸で書かれています。
 長さ1メートルほどの白布に、赤い糸で千人の女性に一人一針ずつ縫って結び目をつくってもらうのが正式だったようですが、数名の女性で作ったのもあったそうです。




 ガイドさんがバスの中で説明しています。当時の兵隊さんは誰もがやせ細っていたようです。




 日本軍が最後に立てこもった部屋があり、ガイドさんが線香をあげてくれました。




マイル・ロング旧兵舎

 極めて長い兵舎です。ここには防湾司令部や病院のほかスペイン統治時代の灯台もあったそうです。


  丘を下り湾の北側に向かいました。マッカーサーの像が湾の入り口に作られています。その台には I shall return  と書かれていました。
 島の北側に下りて来る途中に大きな木がありました。
 以前、ハワイでもこのような大きな木を見たことがあります。
 丘から海水浴場が見えます。マニラ湾にはたくさんのサメがおり、ヘンスがないと泳げないそうです。
 向こうに見えるのはバターン半島です。
 
 
 台座には I shall return と書かれています。




 日本軍の墓地が造られていました。最近作られたものもありました。




マリンタ・トンネル

 ここは別料金になり希望者だけの入場でした。
 トンネルの壁面に当時の様子を再現した模型が造られ、ガイドさんが説明している間だけ照明が灯されます。また、スクリーンに映像が流されるところもありました。説明はすべて英語でした。
 このトンネルは1922~1932年に作られ、長さ250m、幅7mで出来ています。当初は兵器庫と地下病院を作る予定でしたが、マリンタの丘の下にあり、爆撃があった場合に逃げるのに都合がよかったので、米軍は司令部をここに置きました。
 戦争末期、この島にいた約6000名の日本兵はアメリカ軍の攻撃にあい、このトンネルに逃げ込みましたが、最後は自決などして生き残ったのは26名だけだったと伝えられています。 
 1942年、日本軍がこの島を攻め落としたときは、アメリカ軍は白旗を上げ降伏して出てきましたが、日本軍には降伏することが許されていませんでした。


日本軍によるコレヒドール要塞陥落

  マニラ湾の入り口に浮かぶおたまじゃくしのようなこの島はスペイン統治時代からフィリピンの守りの要でした。
 その後アメリカがフィリピンを支配し、この島の軍備を増強してゆきました。
 島には30cmカノン砲18門をはじめ大砲60門、高射砲、機関銃などが配備され、岩山を利用して地下壕を造り、コンクリートで固めた指令室、通信室、弾薬庫をはじめ病院を完備し、難攻不落という言葉がふさわしい要塞でした。
 1941年12月8日、日本軍は真珠湾攻撃をすると同時に、マニラにも攻撃を開始しし、瞬く間にマニラを占領します。それに対し、アメリカ軍は1942年1月、マニラを放棄し、バターン半島とコレヒドール島に撤退しアメリカ軍の援軍を待ちました。
 バターン半島に撤退したマッカーサーは日本軍に追い詰められ、3月、トルーマン大統領の命令で、I shall return という言葉を残しオーストラリアに退避します。マッカーサー将軍の後を引き継いだのはウィーンライト中将でした。
 1942年4月、日本軍は苦戦の上バターン半島を陥落し、その後、2km南にあるコレヒドール島に対し一斉攻撃をかけました。
 島に残った1万5千人のアメリカ・フィリピン軍は日本軍の猛攻に耐えながら援軍を待つことになったのです。日本軍は激しい空襲を浴びせたましたが、東西6kmの島全体が要塞でした。
 1942年5月5日、日本軍は南から大砲で猛攻した後コレヒドール島上陸開始し成功させました。しかし、その間、19隻中9隻が撃沈されるという犠牲を払っています。
 翌5月6日、アメリカ・フィリピン軍は白旗を掲げ降参しました。アメリが軍が降伏した理由は病人が多く発生し、その上、飢餓状態に陥っていたからでした。
 日本のニュースカメラ隊が日本軍と一緒にコレヒドールに行き、その時の様子を収めています。それによると島には近代的な大要塞が広がり、水道管が島全体に引かれ、電車も走っていたようです。コンクリートで固められたテニスコートの下には立派な貯水池が造られ、そこから水道管が島を縦横に走っていました。
 日本軍の第14軍司令官の本間雅晴中将はマッカーサーに代わるウェーンライト中将に降伏するよう呼びかけますが、中将は、コレヒドール島の軍隊は降伏したものの、フィリピン全土に対する降伏は拒否し、交渉はいったん物別れに終わりました。
 その後、東海岸軍司令官キングス少将が降伏を申し込んできました。そのため7万6千人もの捕虜が発生します。日本軍はそれ程の捕虜を予測しておらず、収容所もなく、輸送車もなかったため、それが「バターン死の行進」と言われる悲劇につながります。
 灼熱の中、食料も少なく、サンフェルナンドまでの60kmから100kmの道を1週間かけて徒歩で移動させマラリアや赤痢にかかり1万7千人もの死者を出したのです。それにより、のちに日本軍は国際的に批判を受けることになります。その責任者は陸軍第14軍司令官本間雅晴中将でした。
 戦後、退役していた本間雅晴中将は逮捕され1946年4月マニラで銃殺刑になっています。

  

 来た時と同じ船で戻りました。マニラに到着したときはちょうど日が沈むときでした。ホテルに着いたときはすっかり暗くなっていました。 




4日目 ヴィラ・エスクデロ・プランテーション・ツアー(ランチ付き)


 朝食の風景です。ごく普通のバイキングです。


 ホテルの食堂から隣の教会を見ていると、クレーン車で寝ている人がいます。よく見ると二人で寝ており夫婦のようです。


 今日のツアーは9時からなので、ホテルの周りを散歩してみました。


ビリアエスクデロ

 ビリアエスクデロはフィリピンの避暑地として有名だそうです。マニラの南、約90㎞のところにあります。
 テーマパークのような感じで、湖や滝の中で昼食をとるなど、観光客に人気があるそうです。
 朝、9時、日本語を話すフィリピン人のガイドがロビーで待っていました。
 ツアーの参加者は私たち二人だけですが、座席が3列ある少し大きめのライトバンで、ゆっくりと座ることが出来ました。
 ガイドさんは30歳代で子供もいるそうです。マニラ郊外の農家に住んでいるそうです。
 以前、奈良県の天理市で3年ほど働いたことがあるそうで、流ちょうな日本語を話します。日本ではかなり一生懸命働いたのでしょう。京都へは1日、奈良観光も1日しかしなかったそうです。
 マニラの業者に頼んで日本に働きに行ったのですが、給料の半分はその業者にとられてしまったそうです。業者は日本人だそうです。なんともつらい話です。
 礼儀正しい好青年でした。




切符売り

 料金所の前に切符を売る人が二人いて運転手さんはそこでお金を支払い切符を手にして、ゲートでその切符を係員に渡します。
そのためもあってか、車はかなりスムーズにゲートを通ることが出来ます。ただし、本来なら一人でする仕事を合計3名ですることになります。
人件費が安くないと出来ないシステムです。

 片道3車線の高速道路ですが、時間によりこのように反対車線を進めるようになっています。


 途中、トイレ休憩です。たこやき店がありました。


ビリアエスクデロに到着

 森林の中を走るとテーマパークに到着です。なぜか昔のゼロ戦のような飛行機が置かれていました。マニラから約2時間30分ぐらいかかりました。




 水牛の車に乗りゆっくりと田園の中を進みます。


 美しい風景の中を散策です。ガイドさんは家内のリックを背負ってくれています。



 昼食です。川の中でも食事をすることが出来ますが、靴を脱ぐ必要があります。私たちは滝を見ながら食べることにしました。

 かなりの量の昼食です。とにかくおいしい料理でした。



 再び水牛の車に乗り入り口に戻ります。



 ピンク色の博物館です。内部は写真禁止でした。筒抜け構造の2階建てで、美術品などが1階と2階に飾られていました。



 再びホテルへと向かいます。



 こちらの人はカーナビの代わりにスマホを使用するようです。市内は相変わらず渋滞ですが、見ていても飽きが来ません。

 市内には鉄道もありますが、幹線路があるだけです。




5日目 タガイタイ観光

 今日のガイドはフィリピン人で日本語は話せず英語でのガイドです。英語ガイドの方が日本語ガイドより安いので英語ガイドにしたそうです。
 午前8時、ガイドさんがロビーで待っていてくれました。車は昨日とほぼ同じようなバンタイプで、参加者は私と家内の二人だけです。
 ルートは左の写真の時計回りで、最初は展望台です。
 タガイタイはマニラの避暑地として有名で、前大統領マルコスの別荘があったそうです。



ピープルズ・パーク・イン・ザ・スカイ

 2時間以上かかってここに到着です。タガイタイはマニラから南へ約64km行ったところにあります。
 標高は700もあり、マニラに比べるとかなり涼しくなり、避暑地として利用されています。
 ここからはこの地域専用のジープニーに乗り換えて展望台へ進みます。




タアル湖

 ここからタアル湖が見えます。タアル火山のカルデラ湖で、20㎞X25㎢の大きさで周囲は約83㎞、水面の標高はわずか2mですが淡水です。
 中心には高さ300mほどの火山島があり、活火山で最近の噴火は1977だそうです。なお、1965年のマグマ水蒸気噴火では200名が死亡しています。


 再びジープニーに乗り、次の展望台、タガイタイへ向かいます。




 ここで昼食です。



 さきほどよりタアル湖が近くに見えます。養殖場らしいものが造られています。


 再び坂を下りホテルへと戻ります。途中、ジープニー工場と竹のパイプオルガン教会に立ち寄ります。




ジプニー工場

 戦後、アメリが軍がたくさんのジープを残し帰国しました。フィリピン人はそれを改良し、幅を広げ、長さを長くしてたくさんの人が乗れるようにしたのが今のジープニーです。
 最近はエンジンを日本車の中古品から取り出して使用しているようです。
 車の飾りも独特で、との独特の飾りを争う展覧会も催されるそうです。




竹のパイプオルガン教会

 ジプニー工場から5分ぐらいは知ったところにある教会です。見学者は私たちだけで、係の女性が案内してくれて実際に演奏をしてくれました。
 世界で多々一つの竹のパイプオルガンとのこと、年に一度、世界中から愛好家が集まり、演奏会を開くそうです。




 これからホテルに帰ります。車の中から写真を撮り続けました。驚くような光景が続きます。

 夫婦と思われる二人が道路で熟睡しています。その脇をたくさんの人が通り過ぎますが誰も気にしません。
 この二人には家がないのでしょう。
 戸籍とか婚姻届けとかそういうものがあるのかどうかも気になります。
 このふたりが何かの原因でお互いの居場所が分からなくなれば、この夫婦はどのようにして探しあうのでしょうか。そのまま分かれてしまうのでしょうか。いろいろと想像してしまいます。
 なお、彼女はかなりの美人ですが、個人を識別できないように顔の部分をぼかしています。



6日目 帰国

 ホテルを出て空港へ向かいますが、一昨日のガイドさんが今日は仕事が無いのでアルバイトをしたい、ホテルが用意する車代を呉れれば、私が安全に空港まで送ると申し出たので頼むことにしました。そのガイドさんが約束した時間にロビーで待っていてくれて、その後タクシーを探し私たちを乗せ空港まで送ってくれました。ホテルに車を頼むと約850ペソ取られます。タクシーのメーターを見ていると約450ペソぐらいでした。したがってその差額,約400ペソがガイドさんの取り分になります。ガイドさんがどのようにして空港から自宅へ戻るのかわかりませんが、半日つぶしても約500円以下の手取りにしかなりません。
 かわいそうなので手持ちの残りのペソをすべてチップとしてあげました。.大変喜んでいました。




 帰りのJAL便は出発が午後2時35分なので十分な時間があり、JALのラウンジでビールをんで過ごしました。
 帰りの飛行時間は約4時間ですが、時差があるので成田到着は午後7時半ごろでした。帰りの便でももう一度、映画、万引き家族を見て過ごしました。
 国際便のラウンジですが、日本の国内便のラウンジとほぼ同じ程度でした。


 フィリピンとは仕事上あまり付き合いがなかったため、今まで行ったことがなかったのですが、何といっても驚きは渋滞で動きが取れない市内の現状と日本車の多さでした。そしてたくさんの路上生活者の存在です。
 1991年、フィリピンは議会でアメリカの軍事基地の撤退を決定し、それに従いアメリカは軍事基地を撤廃しています。調べてみると、現在、東アジアでのアメリカ軍の基地は日本と韓国のみで、日本での規模は韓国の2倍あり、日本での基地の規模は沖縄が日本全体の約半分を担っています。すなわち、韓国にあるアメリカ軍基地の規模と沖縄の規模が同じとなっており、如何に沖縄での基地の割合が多いのが分かります。
 現在、日本政府は普天間基地を撤退させ辺野古への移設を進めています。沖縄の中心地にある普天間基地を撤退させる重要さに異論はありませんが、さりとて辺野古移転以外に解決策が現在ないのも実情です。しかし、何とかして沖縄のアメリカ軍の基地の規模を縮小せよという気持ちも良くわかります。
 2016年、ドゥテルテが大統領になると麻薬撲滅のため多くの麻薬業者や中毒者を牢獄の閉じ込め、多数の死刑も実行しました。それに対し、時のオバマアメリカ大統領は非難声明を行いました。それに対し、毎日のようにフィリピン民衆はアメリカ大使館に怒りのデモを行っていたそうです。年間1万5千名もの銃による殺人が自国で起こっており、それを解決できない大統領がドゥテルテ大統領を非難するのは筋違いとも思います。
 現在、フィリピンでは富裕層はますます富を増やし、貧乏人には仕事がなく貧富の差がますます広がっているようです。
 フィリピン人の約1割が海外へ出稼ぎに行き、その仕送りが国の大きな収入源にもなっていますが、出稼ぎ先の約40%がサウジアラビアなど中東のオイル国だそうです。
 東アジアで唯一のキリスト教国家であり、英語が共通語になっている国でもあり、国民はかなりたくましそうです。今後の発展を期待したいものです。





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