ドイツ、フランクフルトとミュンヘンの
観光15日間(個人旅行)
個人旅行で最もお金の掛かるのは飛行機代なので、時間が許せば出来るだけ長く滞在した方が旅を楽しむことができます。そのため今回は15日間と長い旅になりました。
また個人旅行の問題は重い荷物の運搬なので駅の近くの宿を取り出来るだけ同じ宿に泊まり、そこからいろいろ足を延ばすことにしました。そのため宿はフランクフルトとミュンヘンの2ヵ所にしました。しかし駅前のホテルは総じて高いのが問題です。
円が安くなり、1ドルが101円になり、成田での交換レートは1ユーロ 137.8円でした。
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ドイツの国土面積は日本の94%程度と少しばかり小さく、人口は8200万人と、日本の65%程度に当たります。
GDPは、アメリカ、中国、日本に次いで世界の4番目に位置しています。
経常収支は世界一で、経済的には世界で一番安定していると言われています。
首都はベルリンですが、イギリスやフランスに比べ大都市が分散しているのが特徴です。 |
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再生速度は右下の三つの星を押すと早くしたり遅くしたりすることが出来ます。 |
ドイツの都市の人口を下に示します。
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都市 |
万人 |
% |
1位 |
ベルリン |
323 |
3.9 |
2位 |
ハンブルク |
165 |
2.0 |
3位 |
ミュンヘン |
123 |
1.5 |
4位 |
ケルン |
95 |
1.2 |
5位 |
フランクフルト |
64 |
0.8 |
例えばロンドンの人口は817万人で、イギリス全体の13%に相当します。
都市の人口の定義は難しいのですが、世界的にみて断トツに大きいのは東京首都圏で、車で走れば実感できますが、大宮、千葉、横浜、八王子など、東京を囲む大都市の中は、人家が切れ目なく続いています。上海やムンバイの人口も多いのですが、グーグルの衛星写真を見ていると人家が切れ目なく続く領域は東京首都圏がダントツに大きいようです。
今度訪問したフランクフルトやミュンヘンの人家が続く市街地はそれほど大きくはありませんでした。
ドイツというと、いろいろな言葉が思いつきます。
思いつくままに、ランダムに書いてみました。
ゲルマン民族、第一次世界大戦、第二次世界大戦、アドルフ・ヒトラー、印刷の発明、マルチン・ルター、バッハ、ベートーヴェン、ブラームス、ベルリンフィルハーモニー、カラヤン、ベンツ、BMW、シーメンス、アインシュタイン、ビール、ソーセージ、経済の優等生、旅行好き、などなどです。 |
以下に観光内容を示します。
1日目 成田からフランクフルトへ
今回は個人旅行なので、JALのビジネスクラスを利用しました。行きはJAL407、帰りはJAL408です。出発は 12時15分、到着は 17時20分です。時差が7時間なので、約12時間の飛行になります。
飛行中、1時間のWiFi無料券が配られました。家内の分も頂いたので、合計2時間、使用できました。
使用してみたら、非常に遅いので、通信速度を測ってみました。衛星を使った通信なので、やむを得ないのでしょう。その結果、下り190Kbps、上り
98Kbps と出ました。
この通信速度は、パソコン通信をしている人数でシェアしていると思われるので、みんなが寝ているときは早くなるのかも知れません。
試みに自宅の光ファイバを使った回線では 下り 60Mbps、上り 33Mbps ですから、 自宅と比べると、約320倍ぐらい遅いようです。それでも、インターネットを使用し、囲碁を楽しむことは可能でした。
なお、2時間を過ぎると有料になり、JALカードを使用すると、1時間10.75$、24時間19.75$と書かれていました。
このスピードはPHSやNTTDocomoの低速度常時接続無線回線の 32Kbpsや 128Kbps よりは早いのですから、大量のデータを送受信しない限り、十分実用的です。
なお、どのような経路で通信がなされているかを調べるため、自分自身にメールを送って、家に帰ってから、経路を調べたのですが、私の技術力では、あまり解析出来ませんでした。どの衛星を経由したかは、履歴として残らないようです。 |
個人旅行の難点は、重い手荷物の運搬にありますが、入国手続きを済ませ、手荷物を受け取ったあと、そのままタクシーに乗れば、簡単にホテルまで行くことが出来ます。
しかし、特に疲れてもいないし、フランクフルトの宿は、駅のすぐ前にしたので、電車で行くことにしました。
電車なら11分で、フランクフルトの中央駅まで行くことが出来ます。
JALは第2ターミナルに到着するので、地下鉄のある第1ターミナルまでスカイウェーを利用して移動します。 |
切符を買おうと思い、自販機を操作しようとするとドイツ語です。これからの2週間、これらのドイツ語を覚えないと列車に乗れないと思い、写真を取って後で覚えようと思ったのですが、よく見ると、ドイツ語以外にも、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語、トルコ語も表示するようです。結果的にドイツ語を覚える必要はありませんでした。(大学時代、第二外国語としてドイツ語を学びました。また、学位を取る時もドイツ語の試験を受けましたが、今は殆んど忘れてしまいました。ただ、なんとなく分かります。)
なお、日本語が出ていなかったのはこの駅だけで、市内の自販機にはすべて日本語のボタンがありました。
切符に印字された時刻を見ると 切符を買ったのは 17:49でした。飛行機到着から結構スムーズにここまで来られました。
電車が来たのは17:58で、フランクフルト中央駅到着は18:09でした。
電車はかなり混んでいて苦労しましたが、空港駅では私たちと同じような大きな荷物を持った人がたくさん乗り込んで来ました。 |
無事にフランクフルト中央駅に到着です。
昔、仕事でフランクフルトに来たとき、同僚たちと駅内で名物ソーセージを買って食べたのを思い出し、ここで再びチャレンジしてみました。
これが今夜の夕食です。パンの固さが心地よく、こんなにも美味しいのかと驚きました。結果的には、ドイツでの最高の食事はソーセージでした。
なんとなく、ハイネケンを買ってしまいましたが、ここはドイツです。明日からはドイツビールにすることにしました。 |
ホテルは駅前の地下道を上がった所にありました。駅舎の正面は工事中で、名物の正面の駅舎の姿は、板に描かれていました。
ホテルは高級の部類ではありませんが4つ星で、日本人もよく利用しているようでした。
WiFiは無料でした。
ヨーロッパの夏の日の入りは遅く、午後10時ごろまでは暗くなりませんでした。
長い一日でしたが、疲れはありませんでした。 |
2日目 フランクフルト市内観光
今日は市内を約2時間で回る2階建ての観光バスに乗った後、市内の主な見どころを歩いて観光しました。 |
朝食
ホテルの朝食はバイキングですが、嬉しいことに、薄く切られた生ハムやメロン、スモークサーモンが食べ放題でした。 |
市内の地図
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市内には市電や地下鉄が走っていますが、中央駅からレーマー広場までは歩いても20分程度です。
結果的にはそれらを一度も利用しませんでした。
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観光バス2時間乗車
とりあえず、駅前から出ている市内観光バスに乗ってみました。英語専門のバスです。
なにやら、今日は建築関連のお祭りが行われているそうで、ガイドさんはぜひ、もう一度市街を歩いてみてください、ただし、ここに来るには絶対に車やタクシーを利用してはいけません。地下鉄を利用してくださいと言っていました。 確かに、中心部の道路は歩行者天国になっていてバスは入れませんでした。
高層建築が目立ちますが、新宿並みのようです。街自身の大きさは、新宿の方が大きいかも知れません。 |
観光バスは中央駅に到着し、そこが終点です。
こんどは、そこから歩いて、マイン川に架けられた歩道専用橋を通り、シュテーデル美術館に向かいました。
途中、2006年8月の旅行の時に泊まった Intercontinental Hotel の横を通ったので、その時と同じ場所で写真を撮って見ました。
歩道橋を渡るとすぐに美術館でした。
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シュテーデル美術館
ドイツの美術館は、総じて何処も空いていますが、この絵画館もかなり空いていました。そのため、ゆっくりと鑑賞することができました。
有名なフェルメールの絵画のある部屋にもだれも居ませんでした。 |
良く知られた幾つもの作品があったので、並べてみました。
Alfred Sisly |
Arnold Bocklin |
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Auguste Renoir |
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Barent Fabritius |
Claude Monet |
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Edgar Degas |
Jacob Feppens Van Es |
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Jan Weenix |
Johannes Vermeer |
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Lucas van Valckendborch |
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Marc Chagall |
Sandro Botticelli |
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Rembrandt Harmensz, van Rijn |
Raphael |
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Sandro Botticelli |
Meister Von Flemalle |
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その他、感動した絵画の一部を載せてみました。
博物館通り
美術館のある通りは、博物館通りとも言われ、ドイツ情報通信、ドイツ建築、ドイツ映画、世界文化、応用工芸、インコ、ユダヤ、歴史など、たくさんの博物館が軒を連ねています。見ているとキリがないので、美術館以外はスキップしました。
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アイゼルナー橋
マイン川には2本の歩道専用橋が架けられています。今度は別の橋を渡って旧市街地の方に向かいました。
こちらの階段には自転車を押してあげる平らな通路が設けられて居ました。 |
後ろを振り向くと、高い尖塔をもつ教会が見えます。案内書を見ても、何も書かれていません。この程度の教会は、地図に書き入れて貰えないようです。確かに無数の教会があるようです。 |
橋の両側の欄干にたくさんの鍵が括り付けられています。このような風景はヨーロッパを歩いていると、時々見かけることがあります。
誰かが付けると、だんだんと増えて行くのでしょうか。 |
レーマー広場
橋を渡ると、旧市街の中心であるレーマー広場に出ます。
広場の周りには、大聖堂、ニコライ教会、旧市庁舎などあります。市庁舎と教会はヨーロッパの旧市街の特徴のようです。
下の写真は、大聖堂が見える方向から右回りに写真を並べてみた物です。
大聖堂が遠くに見え、その90°右側には高い鐘塔をもつニコライ教会が見えます。
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さらにその右側には、旧市庁舎があります。この市庁舎は、サッカーの優勝など、大きなお祝い事があった時に使用されるそうです。
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広場では、パフォーマンスも行われていました。
大聖堂
フランクフルトを代表するゴシック様式の大聖堂です。塔の高さは95mで、1415年に建設が始まり、1877年に完成しています。
神聖ローマ帝国皇帝の選挙や戴冠式の行われた歴史ある教会で、皇帝の大聖堂(カイザードーム)とも呼ばれているそうです。 |
丁度礼拝中でした。ただし、よく見ると、礼拝している人もデジカメで神父さんの写真を撮っていたので、私も写真を撮って見ました。
内部には、戦後の破壊状態と、その後の復興の様子が年代順に掲げられていました。 |
ここからホテルまで、歩いて帰ることにしました。街中はお祭りのため、大変の人だかりです。
広場の向うにカテリーナ教会が見えます。
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なにやら超高層ビルフェルティバルと書かれています。面白フェスティバルがあるものです。
たしかに、ビルを作るための高所作業の訓練や掘削機などのデモンストレーションが行われていました。
また、円球の中で数台のオートバイが走り回るサーカスの催しもなされていました。
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しかし、参加者にとって最大の目的はビールとソーセージという感じでした。
私たちもポップコーンを買いましたが、その袋の大きさには驚きました。
数日かけても、とても食べきれませんでした。
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歩いているとタイ料理店を見かけました。今年の2月にタイに行った時の料理を思い出し、夕食をここで食べることにしました。ただし、お酒類は売っていないので、近くのパブでビールを買い、タイ料理店の前の道路に置かれた机で食べることにしました。スープの味は、確かにタイ料理そのものでした。
今日はドイツビールです。 |
3日目 ケルン(世界遺産)とリンブルク観光
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ケルンは人口95万とドイツ第4位の大都市です。
ライン川沿いにあり、中世時代はドイツ最大の都市でした。
フランクフルトから特急電車で約1時間半弱です。
車の場合、A3号線を使用すると185q、2時間弱のドライブとなります。
フランクフルトを9時に出発し、到着後、ケルンを観光し、帰りに、リンブルクを観光しました。
ホテルに帰り着いたのは午後7時を過ぎていました。 |
ケルン大聖堂の歴史
建設が始まったのは13世紀、完成したのは19世紀、中世の面影をそのまま残す大聖堂ですが、作るのになんと632年も掛かっています。
その高さは157mで、完成時には世界一の高さを誇った大聖堂です。
着工当時の13世紀、ヨーロッパでは大聖堂の壮麗さを競うはげしい建設競争が巻き起ころうとしていました。パリではノートルダム寺院が造られ、多くの大都市がその力を誇示し始めたのです。
もともとケルンには古い時代の聖堂がありました。そこには、イタリアから手に入れた貴重な聖遺物があり、それは黄金の柩に納められ、1000個にも及ぶダイヤ、ルビー、真珠で飾られています。それはケルンの聖堂の中核となっていました。その聖遺物とは新約聖書に登場する東方の三博士の遺骨でした。
東方の三博士はイエスが誕生した時、不思議な星に導かれ、ベツレヘムに向かい、幼子イエスに祈りを捧げたと言われます。
当時、キリストや聖人たちの遺品、いわゆる聖遺物には奇跡を生む力があると堅く信じられていました。そのためケルンはヨーロッパで最も重要な巡礼地の一つになりました。
ところがその聖堂は1248年、火災で焼失するという大災難に見舞われます。
この大切な聖遺物には立派な聖堂が必要でした。それまでにない規模と美しさが求められたのです。
そうした巡礼地にふさわしい大聖堂を求める声に答え、ケルン大司教は自分の権力を示すためにもより立派な聖堂の建設に着手します。
13世紀の頃、ケルンはライン川の交易で栄え、商人たちの力によりドイツ最大の都市になっていました。
建設資金は信者からの寄進により集められましたが、その規模があまりにも大き過ぎ、しばらくして資金難に陥り、16世紀になると、マルチィン・ルター(1483-1546)による宗教革命(1517)が起こりました。
ルターは、人が救われるのは教会や聖遺物への寄金ではなく、心の中の信仰を深めることだと説きました。
さらにそれを困難にしたのが、ペストの流行やコロンブスの新大陸到達による貿易構造の激変でした。ヨーロッパの中心はスペイン、ポルトガルへと移って行ったのです。
ドイツ国内ではカトリックとプロテスタント間でのいわゆる30年戦争(1618-1648)が起こり、ドイツ国内は破壊と疲弊へと進み、ケルンは衰退への道を歩み始めます。
この戦争により、ドイツの人口は半減したと言われています。その後、中小国が林立した状態となり、イギリスやフランスに大きな後れを取ったと言われています。
そのような中、大聖堂の建設は16世紀に完全に停止し、未完成の塔には工事用のクレーンが載せたまま放置されました。
建設が再開されたのはそれから300年も後の事でした。
そのきっかけとなったのはナポレオン(1769-1821)によるヨーロッパの征服でした。ナポレオンはヨーロッパの殆んどを征服しますが、その後、ロシアへも遠征し敗退してしまいます。それを期にドイツでは民族意識が盛り上がり、小国のままでは大国に対抗できないことを悟り、団結して、1815年、ついにナポレオンから領土を取り返します。
小国に分裂していたドイツが統一に向かい、35の君主国と4つの自治都市によるドイツ連邦が成立します。そういう統一へのうねりの中、中世の面影を持つケルン大聖堂を完成させようとする機運が一気に盛り上がります。
折もおり、1814年には、失われていたケルン大聖堂の設計図がケルンから200q離れたとある宿屋の屋根裏から偶然発見され、大きな話題になりました。
連邦成立後、ゲーテをはじめ文化人の呼びかけにより大聖堂の建築が再開されました。そして、40年もの工事の末、1880年、ついにそれは完成し、中世の信仰の象徴はドイツ民族の象徴ともなりました。なお、ドイツ帝国が誕生したのは1871年でした。
1996年、ケルン大聖堂は人類の創造的傑作として世界遺産に登録されました。しかしその8年後、ユネスコは危機遺産リストとして掲載しました。大聖堂の周辺に複数の高速道路の建築の計画が持ち上がったのです。都市開発か、景観の保護か、ケルン市は高速道路建設計画の縮小を決定しました。さらにその周辺の建物の高さの制限を付けたのです。
2006年、大聖堂は危機遺産リストから外されました。 |
ケルンへ
自分の足で歩くのもそれなりに面白さがありますが、今日はケルンとリンブルクの観光を前もって、日本から頼んで置きました。4名以上集まれば催行すると書かれていました。
今日は朝からすごい雨です。とりあえず、駅前の旅行社まで行ってみましたが、参加希望者は私たち2名だけのようでした。
どうなるのかと思っていたら、2名でも出発するそうです。
車はベンツの少し大きなバンタイプの車で、非常に静かな高級車でした。どうも、ドライバー個人の車のようで、乗客が2名でもペイするようになっているのでしょうか。しばらくすると、大雨が小雨に変ってきました。
約2時間半ぐらいでケルンに到着です。ライン川からケルン大聖堂が見えます。
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ケルン大聖堂と旧市街
大聖堂を上から見ると十字架がはっきりと見えます。(Google Mapより)
大聖堂正面
その高さは157mもあり、大聖堂前の広場から、全体の写真を撮るのは困難です。
塔の先端部と同じサイズの模型が広場に飾られていました。
大聖堂全体が、多様に施された彫刻で飾られています。、
大聖堂側面
側面からの写真です。ここからだと全体の写真が撮れました。
現在、この大聖堂には、補修をになう技術者が60名も従事しているそうです。建設当時から、大聖堂にはいろいろの所から産出された石が使用されており、その補修にも、その地方の石が使用されています。
高い天井はステンドグラスを含む薄い壁で支えられていますが、その壁が受ける圧力を建物の外に突き出したアーチと柱で受け止めています。 |
大聖堂内部
荘厳なゴシック様式の聖堂の内部でその高さは43mもあります。
大聖堂の中には、このような礼拝堂が7つもあります。
十字架礼拝室(ゲロ大司教の十字架) 970年頃製作
この木の十字架はゲロ大司教が寄進したもので、等身大の彫刻としては現存するヨーロッパ最古の十字架です。後の時代の磔け像のモデルになったそうです。キリストが、いま亡くなったばかりの、人類を開放する救世主として表現されているそうです。現在は、大聖堂の聖遺物の一つになっています。 |
この柩の中には東方の三博士の遺骨が納められています。聖遺物を納めた黄金の柩としては世界最大だそうです。
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聖母マリアの礼拝室
市守護者の祭壇です。1442年頃シュテファン・ロッホナーの作品です。元市庁舎礼拝堂から移されました。
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左は、「ケルン市の守護者たち」
シュテファン・ロホナー作。(1445年)
聖母マリアの両脇に礼拝する
三博士が描かれています。
三博士の礼拝はキリスト教画家
や彫刻家が好んで取り上げるテ
ーマだそうです。
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ステンドグラス
大聖堂の壁一面には、ステンドグラスが埋め込まれています。そして、今も中世のステンドグラスの輝きをそのまま映し出しています。
それまで、聖堂の壁は壁画で覆われた薄暗いものでした。ゴシックはそれを大きな窓とステンドグラスに置き換えました。それにより、壁自体が発光し、自分の力で輝いているような光の壁が実現したのです。
中世のステンドグラスは透明度が低く表面には凹凸があり、さらにガラスには気泡や不純物が多く含まれていました。それが大聖堂の美しさを増しているのです。
戦争による大破壊後の修復には昔ながらの技術がそのまま使用されています。
今も常時、多くの技術者によりステンドグラスの修復が続けられています。
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バイエルンの窓
1846年〜48年制作に製作され、バイエルン王ルードビヒ1世が奉納したものです。
美しいステンドグラスには驚きです。
大聖堂の南のステンドグラスは戦争で完璧に破壊され、2007年、ドレスデン生まれのゲルハルト・リヒターの格子型の作品が飾られています。 |
地下の博物館
地下は大聖堂の博物館となっています。時間がなかったので入場は割愛しました。
ここにはエレベーターがあり、大聖堂の上に登ることもできます。
旧市街の散策です。中世の面影をそのまま残しています。
ケルンとデュッセルドルフを結ぶ観光船が出ているようです。
ライン川の水量は、今日の雨のためでしょうか、だいぶ多くなっているようです。
昼食後、少し時間があったので、博物館に入ってみました。
2世紀ごろに作られたと思われるローマ時代の住居の1部が地下で発見され、それがそのまま博物館になっています。
そのほか、1世紀から5世紀にかけてのローマ時代の遺跡の出土品や美術品が展示されています。
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前の大戦での被害が少なく、中部ドイツ独特の木組みの家が数多く残っています。
曲がりくねった道を登って行くと大聖堂が現れます。
大聖堂
この大聖堂は13世紀前半のロマネスク様式からゴシック様式に変る過渡期に作られました。
外観はライン川流域に多くあるロマネスク様式の教会の特徴を備えています。
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4日目 ヴュルツブルク観光(レジデンツが世界遺産)
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ヴュルツブルクはロマンチック街道の北の起点にもなっています。
ICE特急を利用するとフランクフルトから約1時間で到着します。
この街の歴史は古く、8世紀にさかのぼります。街にはバロック様式をはじめいろいろな様式の建築物がたくさん残されています。
1796年にここで生まれ、医学を学んだシーボルトは、鎖国中の日本で、長らく医師として働いていました。 |
ドイツで鉄道の切符を買う場合、日本の郵便局や銀行と同じような番号札を取り、自分の番が来るのを待ちます。
順番が来て窓口に行き、二日後に行くミュンヘンへの往復切符と今日のヴュルツブルクの往復切符を買いたいと言ったところ、パスポートの提示を求められ、25ユーロを払うと、25%割引優待を受けられ、その権利は2か月間使えるとのこと、その方が有利なので、割引優待券を購入しました。この券は列車に乗るとき、常時持っている必要があるとも言われました。
フランクフルトの駅舎の天井は非常に高く丸い形をしており、ドイツ鉄道の雰囲気を醸し出しています。いよいよ今日からドイツ鉄道の旅を楽しみます。 |
中央駅からマルクト広場まで歩いてゆきました。時々、雨が降ってきます。
マリエンカペレ(聖マリア礼拝堂)
マルクト広場の北に建つ後期ゴシック様式の教会です。
入り口にはリーメンシュナイダーの傑作、アダムとイブの彫像が飾られています。
マリエンベルグ城に向かって歩いてゆくとマイン川に出ます。このマイン川はかなり湾曲を繰り返しながらフランクフルトへと続いています。このところの大雨で、だいぶ水量が増えているようです。
アルテ・マイン橋からはマリエンベルグ城が丘の上に見えて来ます。
この街を一望できるマリエンベルグ城は代々の領主でもあった司教の住まいでした。
16世紀ごろ、ドイツでは幾つもの都市の間で地域の覇権を巡る戦争が繰り広げられていました。そのため、要塞は高台に作られ、街を統治する司教はそこで暮らしていました。
それらの戦争により、ドイツの都市は荒れ果て、衰退し、また、民衆にとっては苦難の時代が続いていました。
戦乱の嵐は、18世紀になるまで吹き荒れました。しかし、その嵐が静まると、司教は丘を下り、街中に宮殿(レジデンツ)を作りました。 |
マリエンブルク城
橋の麓にお城までの地図が描かれていました。一応、それをカメラに収め、それを時々見ながらお城に向かったのですが、どうも道を間違え、だいぶ遠回りしてしまったようです。
時々、雨が強くなります。とにかく、城に向かって登ることにしました。
何度も石垣の中のトンネルをくぐります。
ここのお城の石垣は日本のお城と異なり直線形状で組まれています。美しさも求めた日本の城とは違うようです。 |
お城からはマイン川とその向こうの市街地を一望できます。
素晴らしい街の景色です。
まだ、入り口が何処なのか分かりません。城を一周すればどこかにあるのだろうと判断し、ぐるっと回ってみました。
少し歩くと、入り口が現れ、城の中に入ってみました。観光客がだれも居ないのが不思議です。
城の博物館もあるようですが、鍵がかかっていて入れませんでした。
遠くにケベレ巡礼教会が見えます。この教会は1748年、レジデンツを設計した宮殿建築家バルタザール・ノイマンによって設計によって建設されています。
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城の一角から遠くにブドウ畑が見えます。
マイン川に沿って開かれたビュルツブルクとその周辺の地域は、ワインの生産地としても知られています。
日当たりのよい斜面はブドウの栽培として適しているのです。
ビュルツブルクの人たちは今でもワインを薬として飲んでいるそうです。 |
城を出てだいぶ降りると今朝来た入り口の門に出ました。今度は道を間違えずにマイン川の方に歩いて行けました。
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アルテ・マイン橋
雨がやみ日がさしてきました。
この橋の欄干には12体の聖人像が立っています。天気が良くなってきたので、もう一度写真を撮りました。
橋からは今見てきたマリエンブルク城が見えます。
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橋を渡ると向うに大聖堂が見えます。
今日の昼食はソーセージです。ベンチに座って食べました。
大聖堂
11〜12世紀に建てられた、ドイツのロマネスク教会を代表する大聖堂です。第二次世界大戦で破壊され、その様子が写真で示されていました。
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リーメンシュナイダーの手になるシェーレンベルグ大司教の像です。
大司教の姿が精密に刻まれています。 |
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レジデンツ 司教館(世界遺産)
内部を見学しようとしたら、なかなか入口が分かりません。どうやら正面が入り口のようです。ただし観光客は全くいません。近づいてみると、入り口と書かれた小さなドアがあります。どうも締っているようです。家内が力いっぱい押したところ、ようやく開きました。
中に入るとかなり暗くひっそりとしています。しかし、チケット売り場という看板を見つけました。どうやら開いているようです。
しかし、中に入ると絢爛豪華なバロック建築の広間が広がっていました。
残念ながら写真は禁止でした。ドイツで写真禁止は珍しい事です。
バロックとはポルトガルの真珠職人がゆがんだ真珠に名づけた言葉でした。後に、うねるようにくねった曲線を持つ室内の空間と、溢れるばかりの装飾をほどこした建築や芸術の様式をバロックと呼ぶようになったそうです。
内戦の嵐が過ぎ去ったあと、このレジデンツは1720〜44年に大司教の宮殿として建てられました。
もはや、丘の上の堅固な要塞は必要とされなくなったためです。
この時の司教はヨハン・フリップ・フランツでした。司教はこの地方の領主でもあり、また、伯爵でもありました。
司教は豪華で華麗な宮殿を作るべく、ボヘミアからやってきた若干32歳の、まだ無名の建築家バルタザール・ノイマン(1687-1753)を建築の責任者に抜擢し、イタリアやフランスに留学させ、当時の最先端の建築技術や芸術を学ばせました。
建築がはじまって20年、ノイマンはその能力をいかんなく発揮し、素晴らしい宮殿を完成させます。
このレジデンツを見たナポレオンはヨーロッパで最も美しいレジデンツだと言い、ハクスブルク家の女帝マリア・テレジアは、これこそ宮殿中の宮殿だと言ったそうです。
特にこのレジデンツを有名にしたのはとてつもなく広い階段の間で、天井の幅は18m、長さは33mもあり、そこに描かれたフレスコ画はベネチアのフレスコ画化ティエポロの作で世界最大級だそうです。
当時、この支柱の無い広い天井画は崩壊してしまうと、当時の建築学会の重鎮たちは激しく攻撃しました。しかし、司教はこの部屋で大砲を打っても大丈夫だと言ったそうです。
第二次世界大戦でビュルツブルクの市内の建物は崩壊してしまいましたが、この階段室はイギリス軍の空爆によっても壊れなかったそうです。
室内は戦争で大破してしまいましたが、現在はきれいに修復されています。 |
階段の間
内部は写真禁止ですので、下の写真はチケット買ったとき頂いた英文のパンフレットからの転載です。
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庭園
裏の庭園側から見たレジデンツも美しい姿をしています。
ビュルツブルクの駅の後ろにはブドウ畑が広がっていました。
5日目 マインツとコブレンツの観光 (ライン川の中部流域が世界遺産)
今日はマインツとコブレンツへ行ってみました。いずれの都市もライン川沿いにあり、ライン下りの町としても有名です。
なお、2006年8月、ライン川の船下りをした経験があります。 |
ライン川
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全長は 1,233qで、ドイツを流れるのは698kmです。
源流はスイスアルプスのトーマ湖で、この川はスイスとオーストリア、ドイツとフランスの国境を作り、オランダへと流れて行きます。
ドイツでは、マインツ、コブレンツ、ボン、ケルン、デュッセルドルフ、クレーヴェなどを通ります。
ドイツでは、古来からヨーロッパを貫く大動脈として、人と物と文化が行き交いました。
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今日訪れる地域は世界遺産として登録されています。
世界遺産 ライン渓谷中流上部
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世界遺産に登録されているのはリューデスハイムとコブレンツ間の65qです。
中世時代、ある領主が川を行き来する船から通行税を取っていました。
この通行税に目をつけ、近隣の諸侯は競ってライン川沿いに進出しました。
14世紀の末には税関の数が60にも達しました。
通行税を払った船には安全な運行を保証しました。払わないものには武力を行使し、船員を牢獄に閉じ込めたりもしました。
川沿いの古城はそういった税関としての役割を負っていたのです。
現在、世界遺産としての景観を保つため、この流域には橋が一つもありません。 そのため、渡し船が活躍しているそうです。なお、遺産登録は2002年でした。 |
マインツ観光
コブレンツに行く途中にあり、途中下車して足早に観光してみました。
マインツはライン川とマイン川の合流点であり、古くから交易上重要な場所に位置し、8世紀からはドイツで最も重要な宗教都市として栄え、「黄金のマインツ」と称えられました。近代印刷技術の発明者であるグーテンベルグの生地でもあります。 |
幸い今日は晴天です。中央駅からザンクト・シュテファン教会の方へ歩いてゆきました。
ザンクト・シュテファン教会
大聖堂も手がけたヴィリゲス大司教が990年に起工しました。しかし、第二次世界大戦で破壊され、現在の建物は戦後に再建されました。
この教会のステンドグラスはマルク・シャガールによるものです。ブルーを基調にして聖書を題材に作られています。1978年〜1985年に製作、設置されました。 |
ゲーテンブルク広場
印刷技術を発明したゲーテンブルクの名前を付けた広場です。
ここから大聖堂が見えます。
大聖堂
この大聖堂は大司教ヴィリゲスによって975年に起工されています。ロマネスク様式とゴシック様式の併せ持ち、ケルン、トリアーと並ぶ、ドイツで3本の指に入る大聖堂だそうです。
ここのステンドグラスの美しさには、ただただ、言葉もありませんでした。 |
マインツからコブレンツへ
ライン川の両側に鉄道が走っています。こちら側がDBで、向こう側を走るのは私鉄だそうです。
案内書を見ると、ライン川を見るには列車の右側に座るのが良いと書かれていました。
もっとも、列車はかなり空いていたので、席の移動は自由でした。 |
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左はブファルツグラーフェンシュタイン城です。ルートヴィヒ四世が14世紀に作りました。
この城もライン川を通行する船から通行税を徴収する目的で作られました。
以来、洪水や冬季の流氷により幾度となく破壊されては改修されています。
19世紀、通行税が廃止された後は信号灯として使用されていました。
中州に作られた城としては唯一で、一般には両岸の少し高いところに作られています。 |
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コブレンツ観光
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コブレンツはライン川とモーゼル川が合流する地点に位置し、ヨーロッパの水上交通の要所として古くから発展しました。
コブレンツとはローマ人が合流点(コンフルエンテス)と呼んだことから来ているそうです。
合流点はドイチェス・エッグと呼ばれ、中央駅から歩くと40分以上掛かるようです。
バスを探すのが面倒なので、タクシーを利用しました。 |
ドイチェス・エッグ
タクシーを降りると遠くに合流地点らしいところが見えます。ドイチェス・エッグとはドイツの角を意味しています。ドイツ人はライン川を父なるライン川、モーゼル川を母なるモーゼル川とよぶそうです。
ここには23mの高さの台座の上に、高さ14mのドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の巨大な騎馬像が立っています。 |
ラインロープウエイ
ドイチェス・エックスの近くに乗り場があり、ライン川の上を渡って、エーレンブライトシュタイン城塞まで行くことが出来ます。私たちも乗ってみました。
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小高い山にそびえる城で、入ってみると、その広さには驚きます。
この城は11世紀にトリーア大司教の所有になり、改築や拡張を繰り返し、16世紀には堅固な装備も備え、立派な城塞になりました。 |
再びロープウエイで降りました。私たち以外に乗客はいませんでした。
帰りもタクシーを拾おうと思ったのですが、流しのタクシーはありません。
タクシースタンドという看板も見かけましたが、タクシーは全くありません。
仕方がないので駅に向かって歩いてゆきました。
結構疲れていましたが、結果的には駅まで歩くことになりました。
ゴルフプレーに比べれば、大したことはありません。
お蔭でコブレンツの旧市街を堪能できました。 |
再びコブレンツからマインツへ戻りました。
今度は列車の左側に座りました。帰りの列車も空いていました。
ローレライ
歌で知られたローレライですが、水面から130mほど突き出した岩山です。 この岩山はライン川の中で一番狭いところにあるため、流れが速く、また、水面下には多くの岩が潜んでいたため、航行中の多くの船が事故を起こしました。今は、幾度にも亘る工事によって、大型船も航行できる川幅まで拡げられています。
列車の速度は速いので、うっかりしていると見落としてしまいそうです。
2,006年8月、ライン川の舟下りをした時見たこの光景を思い出し、写真に収めました。 |
再び、ブファルツグラーフェンシュタイン城を見ることが出来ました。
船ならともかく、列車なのであっという間に過ぎてしまいました。
マインツからフランクフルトへはたくさんの電車が出ていました。
まだまだ、明るいうちにホテルに戻りました。
6日目 フランクフルトとからミュンヘンへ移動
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フランクフルトからミュンヘンへは1時間に1本、それも、同じ時刻に出ているので覚えるのが簡単です。
ただ、いろいろなルートがあるようです。
私たちの電車のルートは時刻表を見ると左の図のようでした。
乗車時間は3時間18分です。 |
駅には列車の時刻表とプラットホームの番号が示されています。
ドイツでは、日本と同様、かなり前からプラットホームと出発時刻が決まっているようです。フランスを旅した時は、出発10分ぐらい前にならないと場所が分からないので困ったことがあります。
フランクフルト出発は 9:54 でミュンヘン到着は 13:12 です。
今日でしばらくフランクフルトとはお別れです。
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ICE特急
座席指定の列車ですが、出入り口に一番近い席のため、荷物を手元に置くことが出来ました。
列車での移動で一番心配は手荷物です。もし無くなったらかなりのトラブルになります。 |
ミュンヘン旧市街散策
無事、ホテルにチェックインしましたが、まだ、十分時間があります。とりあえず、市内見学に出かけました。
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ミヒャエル教会
1540年のイエズス会設立後、ヴィルヘルム5世が反宗教改革の一環として建立させたイエズス会の教会です。中には大天使ミヒャエルを讃えて「悪魔と戦う聖ミヒャエル」の祭壇画が飾られています。
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フラウエン教会
二つのネギ坊主の様な頭の塔は遠くからも見ることが出来て、ミュンヘンのシンボルになっています。
北塔は99mで、南塔は100mの高さがあります。
第二次世界大戦の破壊のためでしょうか、ここのステンドグラスも現代的でした。
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旧市庁舎
一度見たら忘れられない特徴のある市庁舎です。
市庁舎広場からレジデンツの方へ歩いてゆきました。
バイエルン州立歌劇場やレジデンツがある広場に出ました。
帰りも歩きましたが、ホテルまで歩いても20分ほどでした。
7日目 ミュンヘン市内観光
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ホテルはミュンヘン中央駅から歩いて2分程度の所にあります。
古都ミュンヘンはドイツで第三番目の大都市ですが、町の発展は12世紀の頃から始まりました。ザルツブルクなど塩の産地とドイツ北部を結ぶ交通の要衝にあります。
ヴィッテルスバッハ家の居城レジデンツがおかれ、華やかな宮廷文化が花開きました。
ローマの古典芸術を愛したバイエルン王ルートヴィヒ1世(在位1825-1848)は幾つもの博物館や大学を設立し発展させています。 |
まずはレジデンツから観光開始です。
ホテルからレジデンツまで、昨日歩いたところを再び歩いてゆきました。朝の8時半ごろですが、昨夜の賑わいは嘘のようにひっそりとしています。
市庁舎前に来ると何やらお祭りがあるようで、人だかりが出来ていました。 |
レジデンツの観光です。まさに一番乗りでまだ誰もおりません。
レジデンツは、バイエルン王家のヴィッテルスバッハ家の本宮殿です。14世紀後半から建設が始まって以来、度重なる拡張により内部は大変複雑な構造になっています。
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中に入るとこの凸凹が特徴的な装飾が置いてありました。このような芸術をグロテスク様式というそうです。
現在使用されているグロテスクとは少し意味が異なっています。
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華麗な丸天井が印象的なアンティクヴァリウムというホールはレジデンツの一つの目玉だそうです。
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レジデンツの中には博物館が設置され、数々の豪華な部屋や広間、宝物の展示室などが続きます。
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歴代のヴィッテルスバッハ家の人々の肖像画が飾られていました。
当時、宮殿の壁には絨毯が飾られていました。絵画よりもはるかに高価だったそうです。
絨毯は、王が旅をする時には、一緒に持って行ったそうです。当時の旅はかなりの日数だったそうです。
また、絨毯は断熱材としても働き、部屋の温度を快適に保つのに役立つのだそうです。
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たくさんの宝物の陳列が続きます。
レジデンツにも礼拝堂が作られていました。二階から礼拝堂を覗くことが出来ます。
通常、ここでコンサートが開催されているとのこと。明後日の夜、私たちもここでのコンサートを聴く予定になっています。
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素晴らしい部屋が続きます。
隣の部屋に行くには、前の部屋を通らないと行けません。ヨーロッパの宮殿では一般にこれと同じように、幾つもの部屋が繋がっています。でも、すべての部屋は一人のための部屋になっているから問題ないのだそうです。
子供が増えると宮殿を建て増して、幾つものつながった部屋を作るのだそうです。そのため、宮殿の改築は頻繁に行われたそうです。
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数々の宝物にも驚きます。
レジデンツを出ると、黄色いテアティーナー教会と、2匹のライオンと二人の将軍が立つ将軍堂が見えます。
その後、市庁舎の方に歩いてゆくと、有名なビアホールがあり覗いて見ました。まだ昼前ですが、ビールを飲む人で一杯でした。 |
再び、市庁舎の前に出ました。何やら民族衣装を着た人たちで賑わっていました。
どこの民族衣装かは分かりませんが記念写真を撮りました。
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天気があまり良くありません。そのため、午後は美術館を見学することにし、ミュンヘンで有名なアルテ・ピナコテークとノイエ・ピナコテークへ行ってみました。
なお、アルテは古いを意味し、ノイエは新しいを意味しています。 |
アルテ・ピナコテーク
ヴィッテルスバッハ家が集めた15〜18世紀の名画が並んでいます。
1836年に創立され、以来、ルートヴィヒ1世の命により一般に公開されて来たそうです。
ドイツの美術館は総じていつも空いています。幾つもの良く知られた名画があったので写真に収めました。写真に撮っておかないとすぐに忘れてしまいます。 |
主な写真を下に載せました。
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アルフレッド・ジューラー
四人の使徒
1526年
左には、聖ヨハネと聖ペテロ、右には、
聖パウロと聖マルコが描かれています。 |
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アルブレヒド・アルトドルファー
イッソスの戦い、アレクサンドロス大王の戦い
1529年 |
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聖バルトロマイ祭壇画家
左から福音書記者聖ヨハネと聖女マルガリタ、
聖女アグネスと寄進者、聖バルトロマイ、
聖女チェチリア、聖ヤコブ(小)と聖女クリスティナ
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エル・グレコ 「聖衣剥奪」 |
Hubert Robert |
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レオナルド・ダ・ヴィンチ 「聖母子」 |
Louis-Rolland Trinquesse |
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ラファエロ・サンティ 1483-1520 盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家、建築家 |
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垂幕の聖母
1513年〜14年頃
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カニジャーニ家の聖家族
1505年〜06年頃 |
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テンビ家の聖母
1507年頃 |
フェルディナント・ボル Ferdinand Bol 1616-1680 オランダの画家、銅版画工。 |
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自画像 |
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ワイン商会のギルドの長老たち |
ノイエ・ピナコテール
ここには19世紀から20世紀にかけての作品が展示されています。
よく知られて名画がたくさん続きます。まさに驚きでした。
フィンセント・ファン・ゴッホ 1853-1890 オランダ出身でポスト印象派の画家。
パブロ・ピカソ 1881-1973
スペインで生まれフランスで制作活動をした画家。キュビスムの創始者として知られる。
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Madame Soler
1903年 |
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母と子供
1921年
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フルーツボールとマンドリン
1924年 |
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椅子に座った婦人
1941年
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Carl Rottmann 1797-1850 ドイツ人の画家
Claude Monet |
Cart Blechen |
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Edgar Degas |
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Alfred Sisley |
Camille Pissarno |
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Auguste Renoir |
Edouard Manet |
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Henri Matisse |
Jean-Francois Millet |
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Paul Cezanne |
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Johann Christian Reinhart
Joseph Wenglein 一枚の写真を部分的に拡大してみました。
Paul Gauguin |
Auguste Rodin |
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Fritz von Uhde |
Casper David Friedrich |
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Peter von Hess |
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Withelm von Kaulbach |
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その他
外に出ると雨が強くなっていたので、美術館前に停まっていたタクシーでホテルまで戻りました。 |
8日目 ベルヒテスガーデンと岩塩坑観光
今日は観光バスによるオーストリア国境近くのベルヒデスガーデンと岩塩鉱の観光です。
ベルヒデスガーデンはかってヒットラーが別荘を建てたドイツが誇る景勝地です。
町はドイツ・アルプスの高い山々に囲まれています。
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本来は、ナチスの夏の避暑地、イーグルネスト観光でしたが、異常気象で、イーグルネストは雪に覆われ通行不可能とのことで、急きょ、岩塩坑観光に変更されてしまいました。
ツアーの契約書にもそう書かれていたので、やむを得ません。 |
観光バスは2階建てで、2階の一番前に座れました。しかし、残念ながら雨です。
ただ、ドイツ・アルプスの素晴らしさを少し感じることは出来ました。
機会があったら、もう一度来てみたいところです。
ヒトラーお気に入りのベルヒデスガーデンは、ナチス政権時代、ベルリンに次ぐ第二の政府所在地とも言われました。
この資料館には第二次世界大戦下のナチスの残虐行為、ナチスに対する抵抗運動の歴史などや当時の防空壕などが展示、再現されていました。
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ベルヒデスガーデンのすぐ近くにある岩塩抗後の見学です。
入り口で、全員が鉱夫のユニホームをすっぽりとかぶり、連結された幾つものトロッコに乗り、トンネルの中を600mほど進みます。
写真は禁止でした。たしかに、ものすごく長い滑り台で一挙に地底の降りて行ったり、地底湖を船で渡ったりして、カメラの操作は危険なのでしょう。滑り台ではお尻が一挙に熱くなり、このままで大丈夫だろうかと心配していると、滑り台の終点に到着します。鉱夫のユニホームが必要な理由も理解できました。
坑内は年間を通じて気温が12℃だそうです。今日は外気温が低いので、問題はありませんでした。
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9日目 ダッハウ強制収容所跡見学、
夜、レジデンツで管弦楽鑑賞
朝から強い雨です。強制収容所見学を半日で済ませ、もう一カ所行ってみようと思っていたのですが、雨の上、寒いので、観光はダッハウ強制重要所跡の見学だけにしました。
今回は面倒なので、駅舎内にある観光会社のツアーに参加しました。英語専門のツアーです。
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ミュンヘン中央駅からダッハウまで、行くときはIC特急で約20分、帰りは普通列車で35分でした。 |
ダッハウで路線バスに乗り換えます。
この収容所は、1933年、ナチス支配下で最初に作られたものです。
ユダヤ人や、ナチスに反対するドイツ人、ポーランド人などが収容され、3万人以上の人々の命が奪われました。
ガイドさんが長々と説明しますが、この分野の英語は苦手です。
時々、雨が強くなり、聞くのも大変です。
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建物の中に博物館が作られています。まず、その中の映画館で30分程度のビデオ上映がありました。
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多少、当時の様子が再現されています。
収容所は厳重な鉄条網で囲まれています。
ここには登れば銃殺ですが、自殺を目的として登った人がたくさんいたそうです。
焼却所の跡です。
以前、ポーランドのアウシュヴィッツを見学しましたが、それに比べると、ここの収容所跡の展示スケールはだいぶ省略されています。収容所の保存運動が起こる前に、かなり潰されてしまったそうです。 |
ホテルにいったん戻り、夜はレジデンツでの音楽会です。
天気が悪いので地下鉄を利用しましたが、ミュンヘンの地下鉄は東京並みに深くなっていました。 |
レジデンツ礼拝堂での音楽会です。小さい部屋なので、聴衆で満員でした。
出し物はビバルディの四季などでしたが、四季は夏から始まり、演奏者は2名のみでした。
かなり手抜きした演奏ですが、1時間強の演奏で4曲ですから、やむを得ないようです。 |
今夜はドイツの典型的な料理にしました。4種類のビールが出てきました。二人で8杯飲んだことになります。
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雨が止んだので、歩いて帰りました。
10日目 ドイツ博物館見学
今日も強い雨です。そのため、ドイツ博物館で1日過ごすことにしました。
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1952年に開館しており、科学技術を若い人たちに学ばせるように作られたそうです。
展示フロアは地下1階から地上7階まであり、総面積は5万平方mもあります。
展示品目は約1万7千点以上で、世界でも最高クラスにランクされる博物館です。
順路に沿って歩くだけでも1日は掛かると言われています。
博物館は川の中州に作られています。
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博物館の近くを市電も走っており、地下鉄の駅も近くにあり、交通は便利でした。
とりあえず、7階までエレベーターで昇り、その後、階段を使って降りて行きました。あまりに広いので、自分が何処にいるのか分からなくなります。
以下の写真は順不同です
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人類の発達
宇宙の成り立ち
顕微鏡
昔の顕微鏡から電子顕微鏡まで展示されていました。
カメラ
ここには日本のカメラがオンパレードの感じでした。
確かに、世界中を旅していても、皆さんが持っているカメラはほとんどが日本製です。
こどもの国
たくさんのおもちゃが飾られていました。こんなにも複雑なプラモデルもあるのかと感心します。
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迷路
比較的簡単な迷路が展示されていました。子供用です。
ここでは和紙も紹介されていました。
楽器
ここにも日本の太鼓やツツミが展示されていました。
ガラス技術
織物技術
電気を起こす原理が分かりやすく示されていました。
印刷技術
なんといってもグーテンベルグを生んだ国です。
数名の物理学者の写真が飾られていましたが、その中に湯川秀樹博士も入っていました。
私の一生の仕事分野が幾つも展示されていました。
むかし、いろいろとお世話になったノーベル賞受賞のカオー博士の写真も飾られていました。
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機械式や真空管による計算機も飾られていました。
たまたま、係員のような人が近づいてきて、お前はアマチュア無線のライセンスを持っているのかと聞かれました。
子供の頃、夢中になった記憶があります。
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ここでも、日本の製品が幾つも飾られていました。
発展の歴史が分かる様に非常にたくさん展示されていました。
ヘリコプター
ヘリコプターをこれほど間近に見たのは初めてでした。
昔、興味を持っていろいろと勉強しましたが、もう、だいぶ忘れています。
宇宙航空学
日本のロケットは展示されていませんでした。
マイクロフォトグラフ
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このような分野があるのを知りませんでした。
狭い通路の壁に飾ってあったので、写真に収めてみました。 |
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一枚の写真の大きさは、縦が約 1m ぐらいでした。
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ミュンヘン駅のど真ん中で寿司が売られていました。
のり巻き寿司1本が 2.2ユーロ、約300円でした。こんなに高くても売れるようです。
こちらでは立ったまま食べる人が多いようです。
NHKの関口知宏、ヨーロッパ鉄道の旅でもこのような風景が良く出てきます。
11日目 レーゲンスブルク観光(世界遺産)
今日は雨が弱くなってきたので、レーゲンスブルクに行くことにしました。
この町からはドナウ川遊覧船が出ているようなので、それにも乗ってみようと思っていました。
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レーゲンスブルクはミュンヘンの北140qにあるドナウ川沿いに発展した古都です。
ローマ時代、ローマ軍が宿営地としてこの地に城を築いています。この頃、ドナウ川流域はローマ軍の最前基地でした。
中世になると神聖ローマ帝国の支配下に入ります。町はドナウ川で運搬される塩の交易により栄えてきました。
ミュンヘンからRE快速で約1時間30分ほどの所です。 |
昨日の雨のためでしょうか、水害が発生しているようです。
レーゲンスブルク駅に着くと、まず驚くのが駅全体が大きなマーケットになっていて、どこが駅なのか、出口はどこなのか、なかなかわかりませんでした。
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世界遺産レーゲンスブルク市街
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神聖ローマ帝国の支配下のもと、商人たちは交易で富を蓄え、皇帝から自治権が与えられ、1245年、自由都市の宣言がなされました。
市民たちは自分で法律を決めたり、通貨を作る権利などを得たのです。
歩行者専用の広い石橋がドナウ川を跨いで作られています。 |
残念ながら、また、雨が強くなってきました。
旧市街まで歩いても15分程度のようですが、雨で歩きにくいので、タクシーで行くことにしました。
大聖堂の前には何台もの観光バスが停まっていました。旧市街の中まで大きなバスが入れるのは珍しいことです。 |
13世紀から14世紀に建てられたバイエルンで最も重要なゴシック建築です。
ステンドグラスの美しさがこの大聖堂の特徴だそうです。
ドナウ川大氾濫
ドナウ川には歩行者専用の石橋が作られています。行ってみると大洪水です。
これでは遊覧船をあきらめるしかありません。
しばらく洪水の様子を眺めていました。
橋を渡った向こう側の市街も世界遺産になっていますが、雨が強いので行くのを中止しました。 |
ドナウ川
ドナウ川について調べてみました。
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ヨーロッパ第二の大河で、全長は2,850 km。ドイツ南部の森林地帯に端を発し、ウィーン、ブダペスト、ベオグラードと、3国の首都を貫流し、ルーマニアとブルガリアの境を東進して黒海に注いでいます。 |
ドナウ川源流からオーストリアへ
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ドナウ川源流は明日観光するウルムの東側の広い大地にあり、そこからミュンヘンの北100q付近を通り、今日訪問したレーゲンスブルクを通り、オーストリアへと流れて行きます。
したがって、この大氾濫はミュンヘンとフランクフルトの間に降った雨が集まったことになります。 |
旧市街
帰りは歩いて戻りました。
確かに幾つもの高い塔がありました。
夜、テレビを見ると、ドナウ川やライン川の大氾濫が大きなニュースになっていました。
日本でも、ヨーロッパ大陸の大洪水がだいぶ話題になったそうです。 |
12日目 ウルム、アウクスブルク観光
ヨーロッパ大陸に異常気象が発生し、大雨を起こしていますが、天気予報を見ていると、その雨は東への進んでいるようです。
本来、今日は、オーストリアのザルツブルク観光の予定で、すでに前もって観光業者に申し込んでいたのですが、業者から、ザルツブルクへ行く道路は洪水で寸断され、観光中止との連絡がありました。
そのため、今日は西の方へ行くことにして、ウルムと、アウクスブルクの観光にしました。
幸い、今日は、晴天に恵まれました。 |
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ミュンヘン〜アウグスブルク間は15分おきぐらいに列車が走っており、普通列車でも1時間弱で到着します。そこで列車を乗り換え、ウルムまで約1時間強でした。 |
今朝もミュンヘン中央駅から出発です。今日は普通列車に乗ってみました。
かなり空いていて、たくさんの人が自転車を持ち込んでいました。
ウルム
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この大聖堂の高さは161.53mと世界一です。
ウルムは中世以来、ドナウ川の水運で繁栄して来ました。
アインシュタイン(1879-1955)はここで生まれています。 |
駅前から大聖堂の方へ歩いてゆきました。まっすぐに歩いてゆくと大聖堂が見えて来ました。
なにぶん、世界一高いのですから遠くからも見えるはずです。
ただし、世界一と言っても、ケルン大聖堂より、約5mほど高い程度ですから、誤差の範囲かも知れません。
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なんといっても世界一というのは素晴らしいことです。
私たちがこの町に来たのも、世界一を見て見たいというのが理由でした。
入ってみるとミサを行っており、12時半になれば入場できるとのこと、その前に街の見学をすることにしました。
このゴシック様式の大聖堂は1377年に建設が始まり、500年以上の年月を経て、1890年に完成しています。
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市庁舎と広場
市庁舎は鮮やかな壁画で覆われていました。
その前の広場を通り、ドナウ川の方へ歩いてゆきました。
この辺りは漁師の一角と言われ、中世そのままの姿を保っています。
上の階に行くほど大きくなり屋根が飛び出しています。
斜めの家もあります。中は平らになっているそうです。
狭い路地を進むとドナウ川に出ます。
数日前からの大雨のため、氾濫の跡が見えます。通路も水に浸かったようです。
大聖堂まで戻り、昼食をとり、12時半になるのを待ちました。
大聖堂の内部です。
アウクスブルク
人口20万人を超えるロマンチック街道最大の都市です。
紀元前15年、ローマ人によって建設されたドイツ最古の都市で、中世の時代はヨーロッパにおける金融と商業のネットワークの中心地でもありました。
かつて、アウクスブルクには世界で指折りの裕福な人たちが住んでいました。特に金融業を営んでいたフッカー家やヴェルザー家は有名でした。ドイツで司教や枢機卿、そして神聖ローマ帝国の皇帝になろうとするには特にフッカー家と深いつながりを持つことが重要でした。
ヤコブ・フッカーは、皇帝へも貸し付けを行っおり、返済に追われた皇帝はフッカー家に数々の利権を与えるようになり、ヤコブ・フッカーは銀山の採掘権を手に入れ、コイン鋳造の特権をも得ました。
銀の生産管理体制や独占的販売網を築きフッカー財閥はゆるぎないものとなっていったのです。
彼らは芸術を保護し、多くの壮麗な建築物を築き、アウクスブルクにはルネッサンス文化が開花しました。
当時のアウクスブルクは商人はもちろん、政治家、宗教家などさまざまな人々が訪れ、時には町の人口を超える人の訪問者で賑わうことがあったと言われています。
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ロマンチック街道とは、北端のヴュルツブルクから南端のフッセンまで続いていますが、フランクフルトとミュンヘンの間を通り、スイスに向かって南下しています。
ロマンチック街道の名前は、ドイツのロマン時代の、どちらかと言うと、近代化に遅れをとり、寂れかかった町まちに、観光客を呼び寄せたいと願ったドイツ観光局がつけた名前で、現在の男女間のロマンチックとは全く異なるそうですが、その名前をつけた後、アメリカ人を初め、日本人など多くの人が訪れるようになったそうです。 |
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今日は天気が良いので、すべて歩いて回りました。
まさに、中世の宝物が集まったような町でした。 |
駅を降り、その前の通りをまっすぐに進んでゆ来ましたが、中世の街並みが続いています。
シェッツラー宮殿 (州立絵画館、およびドイツ・バロック美術館)
1770年に建てられたロココ風の宮殿です。絵画館と美術館が繋がっています。
見学者は私たち以外に若い女性が2名居ただけでした。とにかく空いていました。
たくさんの宝物も飾られていました。
これらの宝石類はインドから手に入れたようです。
聖ウルリヒ&アフラ教会
新教と旧教が同居する珍しい教会です。
手前に見えるのがプロテスタント(ルター派)の聖アフラ教会で、その奥の高い鐘塔を持つのがカトリックの聖ウルリヒ教会です。名前の由来は、304年に殉教した聖アフラと、10世紀の聖人ウルリヒの墓場になっているので、そう呼ばれているそうです。
1474年、この地に聖ウルリヒ教会が作られました。まだ、ルターが生まれる前のことです。
ドイツにルターによる宗教改革が起こると、1555年、アウクスブルクの宗教界はルター派を容認する決定をします。この和議を記念して、聖ウルリヒ教会の一角に、規模は小さいものの、聖アフラ教会が作られました。
新教徒と旧教徒が仲良く暮らせれば、ドイツはますます発展していったと思われますが、17世紀半ば、ボヘミアでのプロテスタントの反乱を引き金に、周辺諸国を巻き込んだ三十年戦争が勃発し、ドイツは衰退への道を歩み始めました。 |
聖アフラ教会
たしかに、質素な教会です。ルター派にとって、豪華な教会は意味を持たなかったのでしょう。 |
聖ウルリヒ教会
入り口が何処かわからず、見つけるまでだいぶ時間が掛かりました。
入ってみると、ここにも、訪問者は誰も居ませんでした。
2つの教会
二つの教会は完全にくっついています。
聖ウルリヒ教会の一角に、後からアフラ教会が作られたと知れば納得します。
市庁舎とペルラッハ塔
市庁舎はドイツ・ルネッサンスの最高傑作と言われています。
4階には贅を尽くした黄金のホールがあるそうです。
高さ70mのペルラッハ塔は1182年に作られました。今も、塔に登り市内を見晴らすことが出来るそうです。 |
市庁舎前広場
若者たちが地面にべたっと座っていました。最近、日本でもこのような座り方をよく見かけますが、こちらも同じようです。 |
大聖堂
アウクスブルクを代表する大聖堂です。
建物の左側には10〜11世紀のロマネスク様式が残り、右の入り口付近は14世紀にゴシック様式で増築されています。 |
大聖堂内部
聖堂の預言者を描いたステンドグラスは11世紀後半に作られたもので、完全な形で現存する世界最古のステンドグラスと言われています。
隣接して司教区博物館がありますが、入ろうとすると、時間だと言われ、閉められてしまいました。 |
セント・アンナ教会
マルティン・ルターが、かってこの教会を訪れ、滞在したそうです。
教会の入り口がなかなかわかりません。地元の人に聞いたところ、入り口まで案内してくれました。
小さな標識が掲げられているだけで、これでは地元の人でないと分かりません。
中に入ると、まさに博物館のようです。廊下を一周すると、教会の入り口があり、入ってみました。
掃除をしている人が一人いただけでした。
この教会は、かって、カルメン派の修道院とその付属教会でした。1509年、フッガー家の墓所礼拝堂がこの中に作られています。 |
駅まで歩いて戻りました。
まだ、けっこう寒いのですが、半そでの女性が犬を連れて歩いていました。
かっこいいので、写真に収めました。
13日目 ニンフェンブルク城観光後、フランクフルトへ移動
7泊したミュンヘンとも今日でお別れです。
ミュンヘン出発は午後2時半なので、午前中、近くのニンフェンブルク城に行ってみました。
路面電車で行くことが出来ます。 |
近づいてみると同じような建物が並び、どこが入り口か分からないほど広い宮殿です。
宮殿はほぼ左右対称に作られており、その前には白鳥が浮かぶ運河が作られています。 |
馬車博物館
観光バスがたくさん停まっている所があり、そこが入り口かと思い歩いて行ったところ、そこは馬車博物館でした。
チケットを買って入ってみました。チケットは本城にも入れるものにしました。
観光客はなぜかだれも居ませんでした。
ルートヴィヒ2世の金細工を施した豪華な馬車やそりが展示されていました。
当時の王家が蓄えた富の豊かさには驚ろかされます。 |
なんとも素晴らしい飾り物です。世の中には、素晴らしいものがあるものです。
絵画館も併設されていました。
馬車館を出て、本城の方へ向かいました。
豪華な宮殿です。
このお城はヴィッテルスバッハ家の夏の離宮として17世紀から19世紀の半ばまで造営されて来ました。
戦争による破壊も免れ、「妖精の城」とも呼ばれています。 |
このお城の圧巻はルートヴィヒ1世が愛した美女36名の肖像画だそうです。
部屋の一面に12名の美人画が飾られ、それが3面あるので、合計36名になります。
面白そうなので写真に収めました。
この中には、スキャンダルを越し、ルートヴィヒ1世を退位に追い込む原因になったと言われる、踊り子、ローラ・モンテスの肖像もあります。
ルートヴィヒ1世は、ローラ・モンテスに大金を使いすぎ、領民が反乱を起こしたためでした。
ローラ・モンテスはルートヴィヒ1世をはじめ、著名で資産家の男性を渡り歩いたと言われ、その生涯は多くの小説や映画に登場しています。彼女はのちにアメリカにわたり、39歳の若さで亡くなっています。
下の写真の最後の絵がローラ・モンテスです。 |
いろいろな部屋がさらに続きます。
目隠しされた場所があり、覗いてみると壁の修復中のようでした。
常時、たくさんの人がこのお城の保守、管理、修復をしているのでしょう。
後ろの庭園に回ってみました。
ミュンヘンのレジデンツもそうでしたが、庭園には誰でも無料で入ることが出来ます。
仮に日本でこのような庭園が無料ならと羨ましくなります。
最後のお別れにもう一度、市庁舎に行ってみました。
ちょうど12時、市庁舎の人形が回り始めました。
ヨーロッパの市庁舎には、このような仕掛け時計で回る人形をたくさん見かけます。
市庁舎の中も覗いてみました。壁に姉妹都市の紋章が飾られていました。
サッポロが姉妹都市になっているようです。
こちらの人は、広場でビールを飲みながら昼食をとるのが多いと聞き、私たちも広場に行き、ビールで昼食をとりました。
食事代は日本と同じ感じですが、ビールはこちらのほうがだいぶ安くなっています。 |
いよいよフランクフルトに戻ります。列車での心配は荷物ですが、この列車には荷物置き場がありませんでした。仕方がないので、列車に入り口の両側に置いておきました。フランクフルトに到着するまで3回ほど停車し、乗客が乗り降りしましたが、車掌もそこに置く様にと言っていたので、問題はありませんでした。
座席指定列車なので、それほどの混雑はありませんでした。
車内にインターネット使用可能と書かれていたので、開いてみました。
この列車に乗っている限り 4.95 ユーロと書かれていました。 |
前に泊まったと同じホテルに戻りました。受付嬢が歓迎してくれました。
もう一度、旧市街まで歩いてみました。途中、シェラーの像の前を通り、旧市街に着くと、韓国のお祭りが行われていました。フランクフルトは何時も何かのお祭りがあるようです。
ドクトは韓国の島と書かれた幕が掛かっていました。 |
カタリーナ教会に入ってみました。小さいながらステンドグラスの美しい教会です。
再び、レーマー広場です。最後の晩なので、思い出にここでもビールでした。
このようなツアーもあるようです。旅行会社の企画だそうです。
少し遠回りして、駅前を通ってホテルに戻りました。
14日目 ヴィースバーデン、ハート・ホンブルク観光後、成田へ
成田行きの飛行機の出発時間は午後9時5分で、出発までたっぷりと時間があります。
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ホテルに荷物を預け、まだ行っていない、比較的近いところに行くことにしました。
案内書を見ていると、普通列車でも1時間弱の所に国際会議や温泉保養地で有名なヴィースバーデンがあるようです。
とりあえず、行ってみることにしました。
午後は、世界遺産に指定されたハートホンブルクのローマの遺跡リーメスへ行ってみました。
なお、バーデンが付く地名は温泉地を意味しています。
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ヴィースバーデンは国際会議や温泉保養の町として知られ、ヘッセン州の州都となっています。
この町には、かって、ゲーテ、ワーグナー、ドストエフスキーも訪れたそうです。
町の中央にあるクーアハウスには、国際会議場のほかにカジノも併設されているそうです。
ネロベルク登山鉄道は水力で動く登山鉄道だそうで、現存する水力による鉄道はここだけだそうです。
折角ヴィースバーデンに来たので、行ってみることにしました。 |
列車は驚くほど空いていました。
ヴィースバーデンからネロベルク登山鉄道へは歩くには遠すぎるので、バスを利用しました。
バスも市電と同様、乗車するとき、運転手にお金を支払います。 |
ネロベルク登山鉄道
登山鉄道と言っても、ほんの少し高い丘のようなところに登るための鉄道です。当時、この丘の上にはホテルがあり、1888年、宿泊客を運ぶために作られました。
頂上にある車両と、出発点にある二つの車両はロープで輪になる様な形で結ばれています。車両の床の下には大きな水槽があり、頂上にいる車両の水槽は、そこから出る湧水で満たされ重くなります。一方、出発地の水槽は空にし、軽くします。従って、ブレーキを緩めると、頂上の車両は、出発地の車両を引き揚げながら降りてきます。
車両の重さは乗客の人数でも決まるので、登る人と降りる人の人数により、水槽の水量は決められるとのことです。まさに、究極のエコ運転です。
ただし、冬季は水槽が凍ってしまうので、運転は中止されるそうです。
登山列車のレールは写真のように3本からなり、それらの中間に歯車で車両としっかり結びつけ、ブレーキがかかる様になっています。
登山列車にはよく付いている構造です。
幼稚園生でしょうか。バスからたくさん下りてきて、列車に乗り込みました。
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展望台が作られており、市街地を一望できます。丘の斜面はブドウ畑になっています。
高い塔がそびえ、典型的なヨーロッパの風情を映し出しています。
下りるときも子供たちがたくさん乗っていました。来る時とは違う子供たちでした。
クーアハウス
この町のシンボル、クーアハウスに行ってみました。
クーアハウスとは温泉のある館を意味し、一般にはカジノが付いています。
裏側には大きな池、噴水、芝生が広がっていました。誰でも無料で楽しむことが出来ます。一回りして、また、正面に戻ってきました。
正面前にも池と噴水が作られています。
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正面からの写真です。
再びフランクフルトに戻り、列車を乗り換え、ハートホンブルクに向かいました。
まだ、洪水の跡が残っていました。普通列車で約20分でした。
ハートホンブルクの頭に着く Bad は温泉を意味し、温泉地ホンブルクという意味です。この町は温泉地としても有名です。
ハートホンブルク駅からは、たくさんのバスが出ていますが、時刻表を見るとザールブルク城砦行きのバスは2時間に1本しかありません。
案内書にはバスの本数は少ないと書いてありましたが、まさか、2時間に1本とは驚きです。
次のバスまでは1時間以上も待つ必要があります。歩ける距離ではないので、タクシーを利用することにしました。地元の人に聞いたら、タクシーは少なくポリスステーションまで行けばあるとのことでした。ただし、幸い、近くにタクシーを発見したので拾うことが出来ました。
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図中のAがザールブルクで、Bが中央駅です。
運転手は英語をほとんど話せませんでした。パキスタンから働きに来ているのだそうです。
帰りが心配なので、運転手にチップをあげ、1時間で戻ってくるから、待っていれば乗ってあげるよというと、OKとのこと、私たちが帰ってくるまで待っていてくれました。 町に戻ってもそう乗客がいる訳でもないので、1時間待ってもその方が良いのでしょう。
効率よく帰ることが出来ました。
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ザールブルク城砦リーメス
リーメスとは境界を意味し、ドイツ版万里の長城です。
建設はローマ帝国がその領域をゲルマン民族の侵入からライン川、マイン川の肥沃な土地と水運を守るために作られました。
ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスは、ゲルマニア地方を制圧すべき、軍隊を送りましたが、惨敗、退却し、ゲルマン民族がそれ以上ローマ帝国に侵入しないような防衛ラインの建設に着手しました。
2代皇帝ティベリウスはさらに退却し、ライン川を最終防衛ラインに定めます。
ハドリアヌス皇帝時代、ドイツに築かれたリーメスの全長はライン川からマイン川に至り580kmを越えるようになりました。現在、この長城にそって、60以上の大きな砦跡が発見されています。1つの砦あたり、約100名から1000名の守備隊がいたようです。また、物見櫓も頂上に沿ってたくさん作られ現在、約900個、発見されています。
3世紀になると、ゲルマン民族はこの城砦を越えローマ帝国に侵入し、ローマ帝国は徐々に衰退の道を歩んでゆきました。
なお、侵入したゲルマン民族は現在のフランス、ドイツ全域に広がり、フランス語を話す人たちとドイツ語を話す人たちが、徐々にフランスとドイツの国境を作って行きました。 |
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ザールブルク城砦は紀元前90年ごろに建設されたと推定されています。135年頃、さらに拡張され、長さ221m、幅147mになり、4つの城門、石壁、二重の堀を持っていました。
1897年、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、ザールブルク城砦の再建を命じ、第一次世界大戦前に完成しています。
現在は博物館となっていますが、2005年、世界遺産に登録されました。世界遺産に指定されているのはここだけでなく、550kmにわたる広い領域になっています。 |
この左側にある建物でチケットを買い、そこを通り、ここに出ます。
立派な城砦ですが、常時手直しされているようです。
歴代のローマ皇帝の像が立っています。もちろん、再現されたものです。
壁には当時の城砦跡やローマ帝国の領土なども描かれています。
現存する城砦が書かれていました。ここの城砦や、有名なイングランド、スコットランドの城砦、また、 シリア、アラビア間の城砦などがあるようです。
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まさに博物館です。当時の姿が再現されていました。
城砦跡が整備されていました。炭焼き釜も再現されています。
鉄道がフランクフルトに近づくと、高いビル群が見えて来ました。
ヨーロッパ随一の交通の要所ですが、上海に比べればはるかに小さな規模です。
ホテルで荷物を受け取り、また、鉄道で空港に向かいました。
タクシーを使用すると、なにか怖い思いをすることがあるので、鉄道の方が安心です。 |
世界一危険な空港、フランクフルトの手荷物検査
出国手続きを済ましたあと、手荷物検査があります。
その検査中ですが、金属探知ゲートをくぐるとピーピーとなり、再検査をするように言われました。良くある風景です。
検査官の手にしている感知器は感度を最大にあげているのか、金属の無いところでも、ピーピーと反応します。
その後、ポケットに入っているものを出すように求められたので、財布とカード入れを出したところ、それを皿に乗せて、どこかへ持って行きかけました。
普通なら、見ただけでOKといわれ、何もないのですが、持ち去る行為に不安を感じ、検査官に大きな声で、ノーと言ってそれを取り戻そうとしました。かなり大きな声だったのでしょう、周りの人も沢山私の方を振り向きました。そして、こんどはそれを女性の検査官に渡しました。
女性の検査官は何の検査もせず、その財布に頬ずりをして返してくれました。如何にも人を馬鹿にした行為です。家内もそれを見ていたので、とんでもない検査官だと怒っていました。財布の中に危険物などないのは誰が見ても分かります。
実は、昨年の9月にツアーでポーランドに行ったのですが、帰りにこの空港を利用しています。その時、同行した人が、手荷物検査中に検査官だと思うがカードを抜かれたと言っていたのを思い出したのです。
黙っていたら、検査官は私の財布をどこかに持って行って、カードやお金を盗んだかもしれません。
とんでもない空港です。幸い、被害はなかったので、被害届は出しませんでした。 |
JALのラウンヂで時間をつぶし、無事機内に乗り込み、今回の旅も無事終わりに近づきました。
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15日目 帰国
帰国途中もインターネットを開き、やはりその速度を測ってみました。下りのスピードはわずか45Kbpsです。上りは30Kbps です。
行くときよりもはるかに遅いスピードですが、通常の利用には十分です。
井山本因坊と挑戦者高尾九段による本因坊戦が行われており、それを観戦して楽しみました。
また、かなり古い映画ですが、フォレスト・ガンプ、一期一会を見て見ました。1994年のアカデミー作品賞受賞作品です。
「人は皆、生まれたときから運命を持っているのか、それとも、偶然な、気まぐれな風に吹かれて、鳥の羽のように空中を漂っているようなものなのか、僕は、でも、その両方だと思う。たぶん、その両方が同時に起こっているのだと思う。」という言葉が印象に残りました。感動的な作品です。
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無事、成田に到着しました。
三角屋根とカラフルな壁、木組で浮き出したような旧市街の家並み、個性あふれる市庁舎、また、すいていて十分に楽しめる美術館、それに、昼、夜のんだビールなど、ドイツの旅を十分に楽しむことが出来ました。ただ、異常気象に見舞われたりして、少し残念さも残りました。次にドイツに来ることが出来たら、ドイツアルプス、スイスアルプス辺りでゆっくり過ごすのも良いかなと思います。 |
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