京都、四国、松江、隠岐の島など9日間の旅

2018年4月11日~19日

 一度大塚国際美術館を訪ねてみたいと思っており、また、隠岐の島にも行ってみたいと思い、9日間のドライブになりました。
 日数が長くなったのは、家内も私も年齢的に見てそれほど長距離の運転は好ましくないので、1日のドライブ距離を5時間以下程度に設定したためです。
 いまだ行っていなかった京都のお寺も幾つか訪ねて見ました。



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大画面スライドショー4月15日~19日(文章なし) はここをクリック
   

 全画面にしてご覧ください。1枚目から2枚目に移る際、時間のかかることがあります。
 ただし、2枚目からは軽快に動きます。

観光内容 宿泊地 歩数
1日目 法多山尊永寺龍潭寺 愛知県半田市 7,306
2日目 京都高台寺、相国寺美術館 兵庫県淡路市 7,694
3日目 大塚国際美術館 岡山県倉敷市 9,320
4日目 足立美術館、出雲大社 島根県松江市 8,654
5日目 隠岐の島、後島 島根県壱岐市 5,879
6日目 隠岐の島・西ノ島、松江城 島根県松江市 9,199
7日目 松江城、白兎神社、砂の美術館 京都府宮津市 7,857
8日目 天橋立、清涼寺、二尊院、野宮神社 三重郡?野町 14,220
9日目 徳川美術館 5,095



     
1日目 自宅から浜名湖周辺観光後半田市で宿泊



法多山尊永寺

 厄除けのお寺として親しまれています。非常に広い駐車場が幾つもあり、大勢の参拝者で賑わうときもあると思われますが、私たちが訪れたときは、ほとんど誰も居ませんでした。本堂ではお坊さんがお経を唱えていました。 



 ここから長い階段が続きます。



本堂

 本堂とその前の広場です。
 まずは手を清めて参拝です。



諸尊堂、北谷寺



本堂

 本堂に入ってみました。内部は写真禁止でしたが、立派なお堂で、お坊さんがお経をあげていました。誰もいませんでした。



大師堂

 登って来た時とは違う道を通って階段を下りてゆきました。



縁結の帯結び場所

 この先にお堂があり、いろいろな色の帯が売られていました。



二葉神社

 働く女性の守り神だそうです。

 さらに差を下ると氷室神社に出ます。



氷室神社

 氷を貯蔵する「氷室」が神格化した我が国では珍し氷の神様だそうです。



 蛸薬師堂が見えてきました。こちらの黒い建物が弁財天堂でその間にある赤い炎の前にいる像が不動明王像です。
 蛸薬師堂は平成27年に作られたと書かれていますから、かなり新しいお堂のようです。



 参道には本坊や持仏堂など美しい建物が続きます。



 二王門(重文) 駐車場からは離れますが、美しい二王門が見えたので行ってみました。

 



龍潭寺

 古くは奈良時代に開創されたと伝えられています。
 平安時代、井伊家の元祖が生まれ、多くの歴史を経たのち、二十四代井伊直政は徳川家康に仕え、井伊の赤鬼と恐れられる活躍をしています。
 この直政を後見人として養育したのが二十二代井伊直盛の一人娘、井伊直虎です。
 幕末井伊大老直弼が開国の偉業を成し遂げます。
 龍潭寺にはその千年余り、40代の祖霊を祀る井伊家の菩提寺です。
 昨年の大河ドラマ、「おんな城主、直虎」が放送されていたときは見学者で大変混雑したそうです。
・宗派 禅宗 臨済宗妙心寺派
・本尊 虚空蔵大菩薩
・宗良親王 井伊家菩提寺
静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1989
TEL 053-542-0480(代) FAX 053-542-0901



 東門から入りました。

鐘楼堂

 現在の鐘楼堂は、昭和46年(1971)に再建されたものです。
 正月1日から5日までの間、「いのりの鐘」を撞くことができます。



本堂と龍潭寺庭園

本堂

 入り口は隣の庫裡(配管受付所)にあります。
 小堀遠州作の龍潭寺庭園は、中央に守護石、左右に仁王石、手前正面に礼拝石が配され、さらに池の形が心字池となっていて典型的な寺院庭園として貴重なものとされています。
 書院からの眺めは、井伊家のお殿様が御霊屋のご先祖様に対してご挨拶をされた「遥拝(ようはい)のお庭」です。
 岩は、地元で産するチャート(通称山石)を使い、明るくすんだ庭になっています。
 春のさつき、秋の満天星(どうだん)と四季折々の変化にも富み、昭和11年国指定名勝となっており、まさに東海一の名に恥じない名園です。



庭園

山門

 通常はこの門から入ります。



井伊氏歴代墓所



宗長親王 御墓



井伊谷宮



      
2日目 京都高台寺、相国寺美術館を見学後、淡路島へ
 

 今日は京都のお寺見学です。
 高台寺と相国寺を見て回りました。



霊山観音

 高台寺jに参拝するため、高台寺駐車場に車を停めたところ、その目の前に大きな仏像が作られていました。
 京都にしては珍しい大仏なのでついでに参拝してみました。

 霊山観音(りょうぜんかんのん)は、京都市東山区にある観音像で、第二次世界大戦の戦没者および戦争の犠牲者を追悼するため、1955年、帝産グループ創設者、石川博資によって建立されました。
 高さ24m、重さは約500t、鉄骨コンクリート造。運営は宗教法人霊山観音教会が行っています。
 観音像の下には内陣があり本尊の十一面観音が祀られています。メモリアルホールには世界無名戦士の碑があり日に4回の法要が営まれています。
 駐車場にはたくさんの観光バスが停まっていて、大勢の外国人観光客が高台寺観光に出かけていました。



 最近の京都の風物詩です。

 




高台寺

 開山は1606年、ねねが夫を見送って8年の後です。その後、亡くなるまでの20年近くをこの寺とともに過ごしています。地元ではねねの寺と呼ばれ、人々に親しまれてきました。創建当初は伏見城から移築されたといわれる方丈、15万の兵を朝鮮に派遣した文禄の役の時、祝宴を開いた建物だと言われています。
 この方丈には秀吉とねねの位牌が祀られています。
 かくして、ねねと秀吉が伏見城で過ごした思い出が高台寺には多く移築されました。
 ねねは77歳でここで没し、その亡骸が霊屋に土葬されているそうです。
 




観月台(重文)

 月見をする観月台ですが、当時の姿をそのまま伝えています。後ろには東山連峰の華頂山が見えます。

 方丈庭園です
 庭園の一角に建つ開山堂(重文)。かつてはねねの養父母が祀られていました。
 この先の臥龍廊を登るとねねの眠る霊屋(おたまや)があります。
 この先は残念ながら通行禁止になっていました。一般公開はしていないそうです。


 坂を上ると2つの茶室、時雨亭と傘亭がありました。



 竹林を通って戻ります。



 高台寺の入り口に戻ってきました。


高台寺掌美術館

 

 激動の時代に生きた北政所は、その人柄を慕う多くの人々に囲まれながら、当地で後半生をおくりました。
 高台寺にはその北政所の生活を彩った様々な蒔絵の調度品や絵画、その他の美術工芸品が残されています。
 写真禁止なので高台寺掌美術館のホームページから主な展示品を複写しました。






高台寺方丈・北書院 高台寺春の特別展

 バロン吉元/寺田克也 バッテラ が北書院入り口からたくさん飾られていました。面白い絵なので写真に収めました。高台寺とは対照的な絵です。

 

 



相国寺

 臨済宗万年山相国寺です。また相国寺大本山です。
 相国寺は京都五山の第2位です。

 京都五山とは
 五山の上 南禅寺
 第一位 天龍寺
 第二位 相国寺
 第三位 建仁寺
 第四位 東福寺
 第五位 万寿寺 
です。
 相国寺は鳴き龍と天才画家・若冲で特に有名です。
 騒乱の南浦区長時代が終わるころ、京都に豊かな文化が花開きました。強大な権力が築き上げた禅寺もまた芸術のゆりかごとなったのです。
 度重なる火災で何度も全焼し、今は5代目だそうです。
 現在の法堂は1605年、豊臣秀頼による再建です。

 

庫裏「香積院」

 禅院の庫裏(くり)に多い切妻妻入で、大きい破風や壁面が特に印象的です。
 方丈と接続しており、香積院と号し、文化四年(1807)の建立と伝わっています。正面向かって左側にある大玄関は、明治十六年(1883)に二世国師の五百年遠忌に際して設けられたもので、それまでは韋駄天(いだてん)を祀る室であったと考えられています。バランスの良い立面を持つ相国寺の庫裏は、五山の大型庫裏の遺構として、歴史にも貴重なものです。
平成十九年(2007)に京都府指定有形文化財となりました。


法堂(重要文化財)


 法堂は、慶長10年(1605)、豊臣秀頼の寄進により、5回目の再建になり、我が国法堂建築の最古のものです。正面28.72m、側面22.80mにして堂々たるもので、その大きさも日本最大級です。
 重要文化財で 釈迦如来像 鳴き龍などがあります。
 この法堂はまたの名を無畏堂です。無畏とは恐れを持たずに仏が法を説く姿勢をさします。
 天井の龍は加納光則が描いたもの。龍は仏法を守るという空想上の生き物です。このような龍の図は蟠龍図と呼ばれています。また、八方睨みの龍とも言われています。
 手をたたいた時の残響から鳴き龍としても知られてきました。私も手を叩いてみましたが、鳴き龍が起こる位置は決まっていて少しでもずれると、残響は起こりません。
 相国寺は足利義満の菩提寺であるとともに、日本における臨済宗の本山です。
法堂

 天井には狩野光信によって描かれた蟠龍図が広がり、泣き龍として有名です。



方丈

禅宗の伽藍の配置は南北に山門、仏殿、法堂、方丈が同一軸線上に並んで建てられているのが特徴です。相国寺も例外でなく、法堂の北側に方丈が建てられています。相国寺方丈は、初建以来幾度も焼失して現在の建物は、天明の大火を経て文化四年(1807)に開山堂、庫裏と共に再建されたものです。造りは一重、入り母屋造り、桟瓦葺き、切妻造りとなっています。桁行25m、梁間16mで、方丈としては大規模な建築で、平成十九年(2007)に京都府指定有形文化財となっています。 



開山堂

開山堂はその名のように開山夢窓国師の木像を安置している堂で、法堂の東にあり、境内で最も大切なところです。応仁元年(1467)応仁の乱の兵火で焼失し、寛文六年(1666)後水尾天皇が、皇子桂宮第三世穏仁親王のために再建されましたが、又天明八年(1788)天明の大火で焼失します。現在の建物は江戸時代末期に桃園天皇の皇后、恭礼門院の黒御殿を賜って文化四年(1807)に移築、仏堂として用いられるように増築や一部改造を行なったものです。現在は前方の礼堂と、この奥に続く中央の祠堂とから成り、開山堂としての一般的平面をもっています。
正面奥には相国寺開山夢窓国師を安置し、西の壇には仏光国師像、仏国国師像、普明国師像、足利義満像を安置し、東の壇には相国寺有縁の宮家の位牌や像を安置しています。
堂内の杉戸及び襖の絵は円山応挙とその一派の筆です。
 



浴室

 相国寺の浴室は宣明(せんみょう)と呼ばれ、1400年頃創建されたとみられます。現在のものは、慶長初年(1596)に再建されたもので、平成14年(2002)6月に復元修復されました。    宣明とは、宋の禅宗建築を描いた巻物「大唐五山諸堂図」の中で風呂を描いた「天童山宣明様」という図にあるように、浴室の別名です。首楞厳経のなかに、16人の菩薩が風呂の供養を受けた際、跋陀婆羅菩薩を始め菩薩達が忽然として自己と水が一如であることを悟ったことが記されています。そのときの跋陀婆羅菩薩の言葉に「妙觸宣明、成仏子住」とあり、宣明とは明らかであり、はっきりとしている言う意味です。この故事にならい禅宗寺院の浴室は宣明と呼ばれ、跋陀婆羅菩薩をお祀りしています。禅宗では「威儀即仏法」といい、日常の立ち居振る舞いすべてが修行の場であり、浴室は寺院の伝統的な伽藍配置の建物の一つと言うだけでなく、修行の上で「心」と「体」の垢を落とすという意味で、重要な役割を果たしています。  この宣明を称せられるのは、皇室、及び将軍家に限られ、足利義満が創建した相国寺の浴室も宣明と称せられました。 平成19(2007)に京都府指定有形文化財となりました。
 相国寺はあまりにも広く、何度も来ていないとわからなくなります。
 浴室を見てさらに歩いて行くと、大光明寺がありました。



大光明寺

 大光明寺は相国寺が建立される以前、暦応二年(1339)に後伏見天皇(1288~1336)の皇后、広義門院西園寺寧子が天皇の菩提を弔うため、伏見離宮の傍らに一寺を建立したのが始まりであり、皇后の法号大光明院を寺号としました。
  皇后は玽子内親王、光厳天皇、景仁親王、光明天皇の母として北朝を良く支えられましたが、正平十二年(1357)、六十五歳をもって薨ぜられました。詠まれた歌も多く、「玉葉集」「新千載集」などに載っています。
  皇后の孫にあたる伏見宮祖栄仁(よしひと)親王が薨じ、寺内に葬り安置されて以来、伏見宮家歴代の御位牌をまつる菩提寺となっていました。その後一時疲弊し、慶長年間に火災にあうも、元和元年(1615)に徳川家康により相国寺塔頭として再興されました。
  明治三十六年(1903)、塔頭の心華院と当時天明の大火で焼失していた大光明寺、及びすでに廃絶していた常徳院の3ヶ寺が合併され、心華院の寺域伽藍を改めて、寺号も大光明寺として再興されます。常徳院の開祖空谷明応禅師木像は当寺に安置されています。また足利9代将軍義尚(常徳院殿贈大相国一品悦山道治大居士)の塔所でもあります。
  歴代住職には西笑承兌(相国寺92世)や、明治の禅匠萩野獨園禅師(相国寺126世・特住1世)、近年では大津櫪堂禅師(相国寺130世・特住5世)がおられます。
 



 相国寺承天閣美術館を訪ねてみました。



承天閣美術館



 美術館内部は写真禁止なので、頂いたパンフレットや美術館のホームページから忘れないように複写しました。



相伝の作品



伊藤若冲の作品

 伊藤若冲(1716-1800)は京都の町の青物問屋に生まれ相国寺の第百十三住持、大典禅師(1719-1801I)に導かれ、このお寺で絵を学び多くの絵を残しました。若冲は絵以外には全く興味を持たず、芸事もせず、酒も飲まず、生涯、妻も娶りませんでした。
 1788年、天明の大火で自宅を焼失し、窮乏したため、相国寺以外のお寺の障壁画を手掛け、相国寺との永代供養の契約を解除し、晩年は伏見の石峯寺に隠居しています。そのため、位牌は相国寺と石峯寺の両方にあります。
 



  ついでなので、伊藤若冲の絵をインターネットから集めてみました。
 かなり以前、承天閣美術館が開館した時、記念に伊藤若冲展が開催され、その時は、わざわざ見に行って思い出がありますが、これらの絵が、部屋全体に飾られていました。
 今はインターネットで画像を集め、大画面のテレビで見ることができて幸せです。
 



 再び、北道を通り戻りました。牛に似せた石が庭に10個置かれていました。



 広い境内の中を散策してみました。


 一路、今夜の宿、淡路島に向かいました。



      
3日目 大塚国際美術館訪問



 淡路島から徳島県へ向かいます。


 大鳴門橋を渡り徳島県に入りました。駐車場に車を停め、渦潮見学に行ってみました。



大塚国際美術館

 大塚国際美術館を見たいと思ったのは、放送大学の西洋美術に関する講義に何度かこの美術館が使用されているためです。美術を志す学生にとってはぜひとも訪問してみたい美術館のようです。
 この大塚美術館は今から20年前の1998年に開館しています。館内には世界25か国にある190余りの美術館の名画、約1000点余りが原寸大で再現されています。
 各々の絵は著作権者・所有者から許諾を取得した後、原画を正確に撮影し、転写紙に印刷し、それを大塚製薬が発明・考案した薄い陶板(陶器でできた薄い板)に転写し、それを1000~1350℃で焼き付け、再度、職人の手によって作品が正確に出来上がっているかどうかをチェックし、必要があれば手直しをして再度焼成して完成します。
 陶板であるがゆえに、数千年たっても色のあせることがないそうです。また、この種の美術館は世界でも唯一だそうです。
 入場料は3,240円と一般の美術館に比べれば高いですが、音楽会などと比べれははるかに安い感じがします。
 写真は、三脚やフラッシュを使用しなければ自由に撮影可能とパンフレットに書かれています。私もたくさんの絵を写真に収めましたが、現在は世界の名画がWEB上で簡単にかつ正確に見ることが出来るので、写真は思い出程度に撮り、美術館に入りゆっくりと眺めるのが至福の時間です。
 本物の美術館は一般に混雑していて、場合によっては立ち止まって見ることが出来ないこともありますが、ここでは椅子に座ってゆっくりといつまでも見ていることが出来るのも大きな特徴です。驚くことに作品に触ってみることもできます。また、通常の美術館には監視員がおりますが、この広い美術館には一人もおりませんでした。


 広い駐車場があり、シャトルバスが美術館を結んでいます。

 ここは地下3階よりもさらに下にあります。美術館は地上2階までありますから、7階建てのビルに相当します。



 長いエスカレーターに乗り地下3階の入り口に進みます。


 入るとすぐに大きさもそっくりに再現されたシステーナ礼拝堂へと続きます。ローマ市内にあるバチカン市国の礼拝堂です。30年以上も前になりますが訪問した時はたくさんの見学客で立ち止まること出来ず、また写真は禁止でした。ここでは椅子に座ってゆっくりと眺めることが出来ます。
 システーナ礼拝堂は教皇シクストゥス4世によって1477年から1480年にかけてバチカン宮殿内に建造されました。1506年教皇ユリウス2世はミケランジェロに天井画を描くことを命じ、1508年から1512年にかけて制作されています。40mもあるこの天井画をミケランジェロは一人で書いたそうです。そこにはこの世の始まりを意味する「
天地創造」が描かれています。約300人の人物像が描かれていますが「父なる神の指とアダムの指とが触れ合おうとする場面」は誰もが知る名作です。また、神によって楽園に最初の人間が創られる「アダムの創造」が全裸で描かれています。しかし禁断の果実を口にし楽園を追放され、全裸でいることが禁止されてしった様子も描かれています。
 正面の「
最後の審判」はローマ教皇クレメンス7世がミケランジェロに注文しローマ教皇パウルス3世が完成を命じ、1535から1541にかけて描いています。
 


館内の写真撮影
 
 有名なフェルメールの真珠の耳飾りの少女です。
 以前、オランダのマウリッツハイス美術館で見たことがありますが、そこでは写真禁止でした。
 ここではゆっくりと間近に、その上、触って見ることが出来ます。
 写真もフラッシュや三脚を使用ない限り自由です。
 ただし、写真を撮る必要はありません。
 WEBから自由にきれいな写真をダウンロードすることが出来ます。

 

 例えば、名画の見られる日本の美術館の中の大塚国際美術館編を開けば自分のカメラで撮るより正確な画質の絵をダウンロードすることが出来ます。
 下はフェルメールの真珠の耳飾りの少女をダウンロードした例です。また、詳細な作品解説も付属しています。
 ただし、絵そのものは大塚美術館から撮ったものではなく、別なWEBからの掲載のように思われます。
 なお、スシテーナ礼拝堂の天井画を見てもわかるように、陶板の大きさには限度があるため、数百枚の陶板がつなぎ合わせて作られています。ダ・ビンチの「最後の晩餐」の絵も、約30枚の陶板がつなぎ合わされており、気を付けて見るとつなぎ目が分かります。



 地下3階から見学開始ですが、部屋がたくさんあるので、注意していないと見逃してしまいます。

   

 
 イタリア・ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院の壁画、レオナルド・ダ・ヴィンチ作、最後の晩餐です。
 現在は修復作業が終わり、下の右側のようになっています。
 下の左の絵は修復前の絵です。現在、修復前の絵を実在の大きさで見られるのはここだけだそうです。
  椅子に座っていると、時々団体客がガイドさんに付き添われて廻ってきます。ガイドさんが絵に触りながら説明しています。
 椅子に座ってじっくりと見ていると、次のガイドさんがお客を連れて来ました。ガイドさんによって話す内容は結構違っていました。旅行会社が違うのでしょう。

  

 階段を一つ登るとB2に出ます。そこにはモネの「大睡蓮」が池の中に作られていました。
 パリのオランジェリー美術館で見たことがあります。その時はとても広い部屋だと思いましたが、ここで見ると意外と狭いのには驚きました。
 絵が日光に直接当たっても変色しないのにも驚きです。
 



昼食

 すでに12時です。9時半に入ったので、もう2時間半も経っています。
 昼食を「大睡蓮」の近くにあるレストランで取りました。



 B1に上り見学開始です。

 このパネルの右下に小さな字で、言葉だけでは伝わりづらい絵画の特徴を、是非触れて感じてみてください。と書かれています。
 実際に触ってみると、かなりざらざらしています。極端に言うと紙やすりのような感じです。表面がつるつるでは見る角度によってよく見えないのでしょう。

 
 ルーブル美術館を代表する大画面の絵画です。ルーブルでは常に何人もの人が絵の前で間近に絵を見ており、見学者を入れずに絵全体を1枚の写真におさめるのは困難です。



 時々、特別テーマの部屋が作られるそうです。現在は7つのヒマワリでした。ゴッホは生涯7枚のヒマワリを描いています。
 ここではそのすべてを見ることができます。なおその一枚は損保ジャパン日本興亜美術館に展示されています。


 



 地上1階に出ました。



 地上1階と2階には、シャガール、ピカソ、レンブラントなどの部屋がありました。
 もう午後4時ぐらいになっていました。

 


 約5時間以上も滞在しましたが、絵画の勉強のためには本当に素晴らしい美術館です。徳島や淡路島の人は幸せです。
 
 大塚国際美術館の前には大塚製薬の迎賓館が作られていました。



 今日の宿は倉敷です。瀬戸大橋を通って宿に向かいました。



       
4日目 足立美術館と出雲大社見学

 せっかく倉敷に来たので、大原美術館を見てから松江に行こうと思ったのですが、過去何度か見ているので、直接、足立美術館に向かいました。
 足立美術館を見た後、出雲大社にお参りし、その後松江の宿に向かいました。


 途中、標高の高いところを通ります。そのためでしょうか、まだ、桜が咲いていました。約2時間のドライブでしたが、足立美術館に到着したのは午前10時ごろでした。



足立美術館

 広い駐車場にはミュージアムショップがあり、お土産や、簡単な足立美術館が作られた歴をなどを上映する映画館が作られています。
 その先の道路を渡ると美術館に入ります。
 この美術館は地元出身の実業家、足立全康(明治32年-平成2年)によって作られました。
 約5万坪を超える日本庭園には枯山水庭、白砂青松庭、苔庭、池庭などいろいろな庭が美術館かのように作られています。
 また、約120点を超える横山大観のコレクションをはじめ日本画壇の名画が約1,500点も保存しており、庭園の四季の変化に合わせて、年に4回ほど展示内容を変えているそうです。



 美術館に入るとすぐに庭が現れます。



 お茶室があり、自宅で茶道を教えている家内は興味を持ったらしく、勉強のため見学してみました。



 庭には葉が一枚も落ちていません。たくさんの庭師が開館前に毎日丁寧に手入れをするそうです。



 苔も見事でした。



 滝も作られていました。池も現れました。



 生の額絵と掛け軸と言われています。



 池庭です。


 足利美術館は庭園で有名ですが、大観をはじめ、多くの名画を保存、展示しています。
 本館は大観室、大展示室、小展示室などがあり、大観室には部屋全体に大観の絵が飾られています。足立美術館は大観の絵を120点余りも所蔵しており、常時、20点を展示しいます。時折、展示品を変えているそうです。
 下の写真は、足利美術館のホームページからダウンロードしたもので、作者など詳しくは足立美術館のホームページから見ることが出来ます。
 個人でこれだけの美術品を収集したのには驚きです。
 
 


出雲大社

 足立美術館を見学後、宿に行くにはまだ早いので出雲大社に行ってみました。午後4時ごろに到着しましたが、駐車場は4時に閉鎖すると書かれていました。
 誰もいないのでまさか閉めることはないだろうと思い、駐車し、大社に向かいました。



 以前来たときは日本国歌に詠まれているさざれ石が置かれていましたが、現在は改修中のようでした。


幸魂(さきみたま) 奇魂(くしみたま)



 出雲大社のウサギたち

 古事記に現れる神話の世界の話です。



     
5日目 隠岐の島、後島観光

 松江市の七類フェリーターミナルを午前9時に出発し、隠岐の島の島後、西郷港には11時25分に到着です。約50㎞離れています。
 その後、前もって予約しておいた観光タクシーで12時から3時半まで、島めぐりをして、その後は歩いての観光です。宿はフェリーターミナルから歩いて10分程度のところにあります。
 隠岐の島は左の地図かわかるように大きく2つの島に分かれています。
 本土に近い方を島前、遠い方を道後として区別しており、島前には3つの島があります。
 隠岐の島全体の人口は約2万人で、道後に1万4千人、島前に6千人となっています。
 七類のターミナルは松江から意外と遠い所にあります。
 9時発のフェリーに乗るため、ホテルを7時半ごろ出発しました。
 カーナビ通りに進むとかなり狭い道路を通ります。たぶん、もっと広い道路があるはずです。
 七類港にはかなり広い駐車場があり、そこに車を停め、必要な手荷物だけを持って乗船しました。
 七類から隠岐の島へのフェリーは一日2便しかなく、9時発の便は道後から島前に行き夕方帰ってくる便で、9時半七類発の便は島前から道後を回り夕方帰ってくるものです。
 それ以外にもレインボージェットが島と七類を結んでいますが、七類出発は午後4時過ぎの便があるだけでした。



 前もって電話で予約しておいたところ、私の名前を書いた予約席が天井からぶら下がっていました。
 いずれにせよ、船はガラガラでした。



 たまにフェリーに乗る時のだいご味は、出港するときのドラムと汽笛です。



島後観光

 観光地点は

 玉若酢命神社
 那久岬
 壇鏡の滝
 小野篁の三尊像
 ローソク岩展望デッキ
 水若酢神社本殿

 などでした。
 フェリーを降り、とりあえずレストランを探し昼食です。
 そこから電話で予約してあるタクシー会社に電話をして、私たちのレストランを伝えました。
 12時少し前にタクシーが迎えに来てくれました。
 観光タクシーに乗ると、どこが希望ですかと聞かれましたが、全くの不勉強で、歴史的な所を中心にお願いしました。
 約3時間半の観光でした。



玉若酢命神社

  




壇鏡の滝

 



那久岬

 強い風のためか松の木がみんな傾いています。

 


小野篁(おののたかむら) 802-852作の3仏
 
 遣唐使に命じられた小野篁はそれを拒否したため、嵯峨上皇が激怒し、838年、隠岐の島に島流しにします。その時、小野篁は三尊像を作りました。
 2年後、罪を許され、京に戻り、文人として名を成し、百人一首に選ばれています。
 この部屋にはカギがかけられ、通常は見ることが出来ないそうです。



 遠くに滝が見えます

 


ローソク岩展望デッキ

 



水若酢神社本殿

 五月の連休の時、お祭りが行われ馬に乗りながら弓で的を射止めるショーを行うのだそうです。
 もう、練習を始めていました。



 宿は港が見える素敵なホテルでした。



 食事をしていると、イカ釣りの漁船がたくさん出てゆきました。
 隠岐の島の名物は海産料理だそうです。



     
6日目 隠岐の島・西ノ島、松江城などの見学

 今日は西郷港から西ノ島に行き、観光後、ジェットフェリーで松江に戻りました。


 ホテルのマイクロバスで西郷港まで送ってもらいました。
 「フェリーしましま」で西郷港を8時30分に立ち菱浦港で9時40分から9時50分までの10分間ほど停泊し、別府港には10時05分の到着でした。
 



 途中、海士町の菱浦フェリーターミナルに寄りました。



 菱浦から西ノ島の別府港に向かいます。空気がかすんでおり遠くが良く見えません。



西ノ島観光

 西ノ島で島のほぼ西端にある摩天崖をタクシーで見学し、その後、黒木神社を見学しました。
 松江に帰るフェリーは14時12分で、七類には丁度1時間後の15時12分の到着です。
 頼んでおいた観光タクシーで摩天崖まで約20分です。
 島には数台のタクシーがあるそうです。



摩天崖

 風が強いためか木が育たないのだそうです。
 観光客は誰も居ませんでした。

 タクシーが私たちを待っています。
 



西ノ島の運河

 途中、運河の上を通りました。西ノ島の中心にはわずかな幅の大地で繋がっていますが、漁業にとっては大変都合が悪いそうで、運河を作ることにしたそうです。
 村人が集まり、わずか20日ほどで運河が完成したそうです。その後、現在は立派に補強されています。
 



黒木御所

 隠岐の島と言えば後醍醐天皇です。
 黒木とは木の皮を剥がさずに木そのままの姿であり一時的であることを意味しています。


 家内が一句作りました。 宇浪(うなみ)寄す隠岐の潮路や黒木御所  (稲田ひとみ)

 


西ノ島ふるさと館

 フェリー乗り場の近くに作られていました。内部を見学してみました。
 係員が来て、いろいろと説明をしてくれました。
 後醍醐天皇が島前に流されたのは、道後よりも本土に近いためだそうです。

 


レインボージェット 

 レインボージェットは隠岐の島を中心に回っており、一日1回ほど松江の七郷に行きます。
 従って、それに合わせて観光スケジュールを作る必要があります。



 乗り場で船を待っていると、レインボージェットがやって来てたくさんの乗客が降りてきました。
 半分以上は仕事中の人で、ネクタイをし、仕事用のカバンを持っていました。



 室内はガラガラでした。



 七類港に到着です。停めておいた車に乗り、松江のホテルに向かいました。



松江城

 ホテルのチェックインにはまだ早いので、松江城を見学してみました。
 一度国宝を取り消された松江城ですが、2015年、天守が再度国宝に指定されています。国宝指定は松江の人たちにとって長年の念願でした。
 これで、国宝のお城は5つになりました。なお、前回来た時に天守に登っているので今回は上りませんでした。



      
7日目 松江城、白兎神社、砂の美術館などの見学

 今日は松江城周辺を見学後、白兎神社、砂野美術館を見学後、天橋立近くのホテルへとドライブです。



松江城周辺



松江歴史観

 お濠を歩いていると歴史観があったので入ってみました。



 昨日は松江城に南から入り見学しましたが、今日は西の橋を渡り、北側から見学を開始しました。



松江神社

 松江城に隣接して作られています。



興雲閣


 城から駐車場に戻る途中、地元の小学生と思われる子供たちが絵の授業なのでしょうか、大きなキャンパスを持って城に上って来ました。
 



白兎神社

 前回来たときは海岸しか見ませんでしたが、今回は奥まで入ってみました。
 


砂の美術館

 制作中は閉鎖されますが、今年は4月14日からの開館でラッキーでした。すなわち、開館は三日前でした。
 今年は北欧の国々がテーマで、世界各国の芸術者が集まり、この美術館を作り上げています。



 2階から見学を開始しました。



 今度は1階での見学です。



鳥取砂丘展望台

 何度か行ったことのある鳥取砂丘ですが、歩いている人はあまりいなそうです。今回はここから眺めただけで、今夜の宿に向かいました。



ホテル

 高台にある大きなホテルでした。湾の眺めは最高でしたが、天橋立の松林は見えませんでした。
 外国からのお客さんが、ホテルの売店でまさに爆買いをしていました。



     
8日目 天橋立を見学後、京都清涼寺、二尊院、野宮神社の観光

 天橋立の観光後、京都のお寺を訪ねて、三重県の湯の山温泉に向かいました。



 どうも天気が悪そうです。



 朝食は7時からですが、行ってみるとすでに列を作っていました。



 ホテルから天橋立まで、まだ山桜が咲いていました。



天橋立

 知恩寺や天橋立の松林、ケーブルカーでビューランドへも行ってみました。



智恩寺

 足掛け七年に及ぶ工事を経て、明和四年(1767)九月に上棟されました。大工は延べ8780人を要したことが、職人の出勤簿である出面板により知 られます。棟梁は宮津の名工冨田庄次郎でした。再建にあたって後桜町天皇から黄金を下賜されたことによって「黄金閣」と称されています。
 三間三戸の二重門で、上層には釈迦如来や十六羅漢を安置しています。下層の柱間に建具は無く、開放的です。細部に至るまで本格的な唐様(禅宗様)になる山門として丹後地方最大のものです。



文殊堂

雪舟筆の「天橋立図」(国宝)には天橋立南端の本寺も描かれ、現存する多宝塔のほかに、裳階(もこし)付で宝形造とおもわれる建物が描かれています。現在の 文殊堂は裳階(もこし)付ではありませんが、屋根は宝形造であり、桁行柱間は裳階と同じ五間です。この建物が現在の文殊堂と同じものであるかどうかの確徴 はありませんが、内陣の四天柱には十三世紀初めに遡るものがあり、その形姿は中世のたたづまいを継承していると思われます。

文殊堂が現状のように改められたのは、明暦元年(1655)から始められた、宮津藩主京極高国による修理によるものです。

屋根はわずかに照り起(むく)りを帯びた優美な宝形造で、正面に三間の向拝を葺き降ろしています。現在は銅版葺ですが、宝珠の銘文によって明暦三年(1657)に屋根の葺き替えが行われたことが、今回の修理で判明しました。旧状は檜皮葺であったとみられます。

向拝(ごはい)以外の柱はすべて円柱で、前面から側面にかけて擬宝珠高欄付の落縁を巡らしていま す。前寄り二間通りの外陣(げじん)は柱を省略した広い空間として、周囲を吹き放して多数の参拝者を迎えています。正面中央の二本の柱の木鼻の唐獅子は、 それぞれ少し外側に顔を向けています。

桁行三間の身舎(もや)を内陣とし、三方の庇(入側)は吹き放しの化粧屋根裏としています。内陣 は天井が折上小組格(おりあげこぐみごう)天井という丁寧な造りになっています。中央に四天柱を立て、来迎壁をつくって唐様須弥壇(しゅみだん)を設けて います。 装飾的な細部のつくりは全体に上質で、四天柱の木鼻は近世初期の調子をよく示しています。

明暦修理の棟札には、内陣の四天柱は腐っておらず「草創之本柱」であると記されています。今回の 修理中、正和三年(1314)や文永七年(1270)という鎌倉時代除の年号を示す墨書が見つかりました。来迎壁の背面に両界曼荼羅や仏画が描かれていた ことも判明しました。四天柱のなかの一本、すなはち須弥壇に向かって左の柱には、貞和三年(1347)二月から三月にかけた七日間の参籠を記念した次の釘 書が見とめられます。



多宝塔 

  円形の塔身の上重に相輪をあげ、下重には方形の裳階(もこし)を付けた形式の塔婆を多宝塔といいます。丹後国守護代で府中城主延永修理進春信によって建立さ れたこの多宝塔は、室町時代のものとして丹後地方唯一の遺構です。明応九年(1500年)三月に釿(ちょうな)初めが行われ、翌十年四月に落成したこと が、上重連子(れんじ)窓の裏板や来迎壁の背面、上重の柱(八角形)に記された墨書きにより知られます。

 下重には来迎柱が立ち、前方に須弥壇をつくって中央に大日如来が安置されています。籠神社別当大聖院の智海が、来迎壁の背面に片足を上げた不動明王を描いており、「八十余歳書之 智海」の署名があります。

 下重の軒廻りは拳鼻(こぶしばな)付の出組(一手先斗きょう)とし、中備として中央は二つ斗(双斗)、両脇間には間斗束(けんとつか)を置いています。和様を基調としたなかで、この二つ斗と拳鼻は天竺様(大仏様)、唐様(禅宗様)の手法として採用されています。

 左右に大きく広がる上重の屋根は柿葺で、これを四手先の斗きょうが支持しています。上重と下重をつなぐ漆喰の亀腹が小さいのは古風であるといえます。
 



小天橋(廻旋橋)
 

 橋を渡って松並木に入ってみました。



天橋立ビューランド

 ロープウェイで展望台に上がってみました。


 股のぞきで有名な展望台です。股からのぞくと遠くのものでも近くに見える原理を発見し、イグノーベル賞を貰った話を思い出しました。
 松並木の向こう側にも同じような展望台が作られています。



かわら投げ

 せんべいの様に平たい石なので、成功する人はほとんどいませんでした。



飛龍観回廊

 眺めが良さそうなので登ってみました。



 しばらく見学した後、駐車場に戻りました。

 



京都観光 

 清凉寺の駐車場に車を停め、清凉寺と二尊院を見学後、京都で有名な竹林を通り、清凉寺に戻ってきました。



清涼寺

 清凉寺の広い駐車場に車を停め、京都観光開始です。

本堂(釈迦堂)

 「釈迦堂」は、清凉寺本尊三国伝来生身釈迦如来像(国宝)を安置する本堂です。寛永14年の嵯峨大火により諸堂宇が消失しましたが、徳川五代将軍綱吉・生母桂昌院の発願、住友吉左衛門の援助により元禄7年(1694)から修理に取りかかり、同14年(1701)年に上棟。同16年に鎮壇、遷仏供養を行いました。桁行・梁間7間、一重入母屋造、本瓦葺で、和様と禅宗様を折衷、本山級の風格を備えます。内内陣の宮殿厨子は、五代将軍徳川綱吉と生母桂昌院の寄進による豪華なものです。宮殿裏には、古カン(石ヘンに間)筆による「釈迦堂縁起」の一部を拡大した大壁画があります。また本堂正面楣上には黄檗隠元禅師筆による「栴檀瑞像(せんだんずいぞう)」の大額が掛っています。
二王門

 天明3年(1783)に再建に取りかかり、翌年(天明4年、1784)上棟。寛政8年(1796)年に瓦葺工事を行いました。全体的に和様と禅宗様を折衷したものです。初層には室町時代の仁王像、上層には十六羅漢像を祀ります。ケヤキ造りの二階二重門です。
 嵐山渡月橋からまっすぐ北にさかのぼり、左手に大本山天龍寺を見、JR嵯峨野線を越え、しばらく行くと清凉寺の仁王門に至ります。嵯峨野のちょうど真ん中に位置し、すくっと立つ姿は「嵯峨野の顔」とも称されます。
多宝塔

 元禄13年(1700)江戸護国寺での出開帳の際、江戸の老若貴賊の寄進によりなったもので、後、元禄16年、廻漕建立されています。
阿弥陀堂

 本堂東に位置する阿弥陀堂です。嵯峨天皇の皇子左大臣源融が山荘・棲 霞観(せいかかん)を建て、後に棲霞寺と改めましたが、これが阿弥陀堂の始まりです。
 清凉寺は、嵯峨天皇の皇子で光源氏のモデルともされる左大臣源融の別荘・栖霞観(せいかかん)があった場所に、融の死後、遺族が阿弥陀三尊像を造立し、阿弥陀堂に安置したことに始まります。
 阿弥陀堂は棲霞寺と称されました。
 安置された阿弥陀三尊像は、融が生前に発願したものだといわれています。
 現在の建物は、1863年(文久3年)に再建されたものです。
釈迦三尊

 嵯峨天皇第十二皇子源融公(みなもとのとおる)の供養のため、その子息が造立した尊像です。
 源融は光源氏のモデルに目される風流貴公子であり、この尊像も源氏物語の光源氏のおもかげを伝えるともいわれています。



 渡り廊下を通ると、大方丈と庭園に出ます。

弁天堂

 弁天堂は本堂のうしろの池に面して建っています。
 弁天堂は、正面柱間三間、屋根宝形造で、正面に軒唐破風が付いています。建築年代は江戸末期ごろと推定されます。弁天堂のまわりは、池遊式庭園になっています。



大方丈と庭園


 旧大方丈は、寛永14年(1637)に消失し、現在のものは享保年間(1716-1735)の造営と伝えられます。寛永14年の類焼以前のものは六つで早世した徳川家康の息女一照院の位牌所として、家康および実母のおちかの方の寄進になるものです。方丈前の庭は、ところどころに石を置いた枯山水の平庭で、小堀遠州作と伝えます。



本堂から西門へ

鐘楼



秀頼公の首塚



 西門から歩いて二尊院に向かいました。

 



二尊院

 阿弥陀如来と釈迦如来の非常によく似た二体の仏が祀られています。 現世から来世に、心の平安を願う人々の願いを瓜二つの如来像が聞き届けてきました。
 ここはまた一人の歌人によって小倉百人一首が生まれた地でもあります。
 この寺は嵯峨天皇(809-823)の勅願により、慈覚大師が834-847年に開山したと言われています。
 応仁の乱(1467-1477)により諸堂が消失しましたが、本堂は約30年後に再建されました。



 総門を入るとまっすぐな道が続きます。
 



本堂

 唐門をくぐると本堂が現れました。
 
 小倉山の裾野にある二尊院は小倉百人一首でも良く知られています。

 小倉山 峯のもみじ葉 心あらば いまひとたびの みゆき 待たらむ

 現代語訳では、、 小倉山の峰の紅葉よ。お前に人間の情がわかる心があるなら、もう一度天皇がおいでになる(行幸される)まで、散らずに待っていてくれないか。
 二尊像が祀られている本堂です。
 まだ、八重桜が咲いていました。



本堂

 本堂に入るとお寺の名前の由来となった瓜二つの二尊像が祀られています。



庭園

 本堂を一廻りです。

 鬼瓦も片隅に置かれていました。



九頭竜弁財天堂

 



 見学後、嵯峨野の竹林へ行ってみました。何度行っても素晴らしいところです。



御髪神社



 嵯峨野ならではの竹林です。竹の間から日が差して輝いています。
 この竹は真竹と言われ、膨張係数が極めて小さいため、私の子供の頃は、この竹尺が何時もカバンに入っていました。

 海外からのお客で大変混雑していました。


    
野宮神社

 源氏物語に現れる黒門で有名なお寺です。大変混雑しているので今回は中に入らず黒木鳥居だけを写真に収めました。



 嵯峨野トロッコ鉄道を横切ると、また竹林が続きます。



 だいぶ歩いたのち、清凉寺の駐車場に戻ってきました。下の写真は清凉寺の二王門です。

 京都を観光後、今夜の宿、三重県の湯の山温泉に向かいました。

    

9日目 名古屋市内の徳川美術館を見学後自宅へ

 宿を出て、名古屋市内の徳川美術館を見学後、自宅に戻りました。



湯の山温泉

 さすが名前だけあって、山の中にたくさんの温泉宿があります。山頂へのケーブルカーも見えます。



露天風呂

 風呂の入る前、この道を通りますが、昨夜通った時の景色を思い出し、写真を撮るためにもう一度来てみました。
 新緑が見事でした。紅葉の時期も良さそうです。



徳川美術館

 徳川美術館のあゆみを徳川美術館のホームページからコピーしたものです。
 美術館内は写真禁止でした。



徳川園

 美術館から坂を下るとこの日本庭園に出ます。



第二東名

 帰りは第二東名を通りました。雪をかぶった美しい富士が見えました。


 自宅到着は午後6時前でした。たくさんの美に接し満足した旅になりました。





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