ミャンマー大満喫6日間(JAL直行チャーター便)
黄金と微笑みのミャンマーらくらく6日間
私が小学6年生の時、担当の先生が出産のため休暇を取り、数か月間、代理の先生が私たちのクラスを担当することになりました。しかし、その先生は音楽を教えられないと言って、音楽の時間には、毎回、「ビルマの竪琴」を読んでくれました。当時、どれほど理解できたかは覚えていませんが、全員、静かになって先生の朗読を聞いていた記憶があります。もう、60年も前のことになります。
それから日本は発展の道を進みましたが、ビルマでは軍事政権が続き、長い間、鎖国政策を実施し、その上、度重なる軍事クーデターが発生し、世界の貧民国にランクされています。
ビルマが経済的に世界から注目浴びるようになったのはこの2年ほど前からです。 |
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ミャンマーの面積は日本の約1.8倍ですが、人口は5,800万人と日本の半分以下です。
人口の約70%をビルマ族が占め、残りの30%を主要な7つの民族が占めています。細かく分けると、135もの民族があるそうです。
公用語はビルマ語で丸い形の、視力検査で使用されるような文字が特徴です。
国民の90%を敬虔な仏教徒が占める仏教国です。
通貨はチャット(KYAT)ですが、現地での日本円との交換は不可能で、ドルからの変換となります。
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観光内容とそのスケジュール
ミャンマーの歴史と現在
ミャンマーは古来より多様な民族が流入し、複雑な歴史を繰り返してきました。10世紀以前には、南部にインドと交易を行ったモン族、北部にピュー人による国家があったとされています。その後、北方から南下してきたのがチベット・ビルマ語系のビルマ族でした。11世紀には最初の統一王朝がバガンに築かれ、今のミャンマーの基礎となりました。
以後、幾つかの王朝が諸民族との攻防、繁栄、そして滅亡を繰り返していきます。13世紀にはモンゴル族の侵入を受けてバガン朝が滅びますが、16世紀にはタウングー朝がバガンを復興し、タイやラオスの国家を制して大ビルマ国家を作ります。しかし、17世紀にはこれも滅亡し、18世紀中ごろにコンバウン朝が再びミャンマーを統一します。
しかし、イギリス領であったインドへの侵攻をきっかけに、1824年から3度にわたって英印軍との戦争をしています。その結果、王朝は滅亡に追い込まれ、イギリス領インドに併合されてしまいます。
第一次世界大戦中に始まったビルマ族による反植民地運動は、第二次世界大戦が始まるとアウンサンら30人の志士を中心とするビルマ独立義勇軍として活発化し、日本軍とともに一時ビルマ国を建設しますが、日本軍の敗色が強まると、ふたたびイギリス領になります。
そして1948年、ついにイギリス連邦を脱退して独立を果たしています。
日本軍が戦ったビルマ戦線では約13万7千人の軍人・軍属が死亡し、今も推定4万5千柱以上の遺骨が残っているとされています。
第二次世界大戦後の一次期、ビルマは繁栄しますが、1962年から1988年まで「ビルマ式社会主義」を掲げ、鎖国に近い状態が長く続きました。この1988年は、旧ソ連をはじめ、多くの社会主義国家が崩壊していった時です。
この社会主義時代、国内各地で独立や自治を求めるおよそ15の少数民族との戦闘が続き、自由や民主化を求める暴動も度々起こり、経済も低迷し、他のアジア諸国とは大きな差をつける結果となりました。
1988年、軍事クーデターにより軍政権が発足しますが、民主化の動きが活発化し、1990年複数政党制による総選挙が実施されました。その結果、アウン・サン・スーチーが率いる国民民主連盟(NLD)が圧倒的な勝利をおさめましたが、軍事政権がそれを無効とし、それに反対する多くの活動家を拘束しました。それに対し、欧米諸国は人権問題や政治の民主化をめぐる問題で不当とし、経済制裁を発令しました。
アウン・サン・スーチーが自宅軟禁を解かれたのは1995年でした。
なお、1989年、軍事政権が国名をビルマからミャンマーと改めています。しかし、NLDはじめ、多くの諸国はそれを認めませんでした。
西欧諸国の経済制裁に代わって支援国家になっていったのは、隣接する中国やインドと政治体制が似ているロシアなどでした。
日本は1988年の軍事クーデター後に成立した軍事政権をいち早く承認した他、軍事政権との要人往来や経済協力による援助を実施し続けてきています。しかし、貿易に関しては、アメリカの対応に協調し、極めて低調でした。
1997年7月には加盟各国の協力によりASEANに加盟しています。しかし、2003年7月には米国が正式に経済制裁開始し、経済はますます困窮してゆきました。
2010年、それまで首相であったテインセインは軍籍を離脱し、新たな党を結成し、2010年の総選挙で当選し、2011年、大統領に選出されています。
以来、次々と民主化の動きを鮮明にし、それまで冷え切っていた欧米との関係が改善さてれ来ました。
2012年4月には、テイン・セイン大統領がアウン・サン・スーチーさんに国会議員になるよう呼びかけ、その結果、選挙でアウン・サン・スーチーさんも当選し、NLD党の党首として37名の議員を抱えています。大統領もアウンサンスーチーさんの力が役に立つと判断したのです。
なお、軍事政権下での作られた憲法により、議員の4分の1は軍人議員であること、改正には4分の3の賛成が必要であること、などの制約があり、今後、憲法を民主国家になるように改正するためには、アウンサンスーチーさんも軍との良い関係が不可欠と判断しているようです。
テインセイン大統領は活発な外交活動を開始し、昨年の11月にはオバマ大統領がアメリカの大統領としては初めてミャンマーを訪問しています。
その結果、この2年で、国が全く変わったほどの大変革を果たしています。現在、アジア最後のフロンティアとも言われ、世界各国からの視察ブームが続き、多くの観光客も訪れています。
蜜月とも言われた中国との関係も、今は一定の距離を置いていると言われています。ただし、ミャンマーを横断し、港から中国の昆明までのガスや石油のパイプラインを建設していることや、ミャンマー中部での銅山開発を中国と共同で行い、公害発生による住民や僧侶の反対運動にも、警察が武力で鎮圧させ、100名以上の怪我人を出すなど、政府は国民に厳しい対応も行っています。
ミャンマーを訪れると日本車が町を埋め尽くすほどに走っていることに驚きますが、旧政権は中古車の輸入を規制し、それが利権を生む構造になっていました。今はそれが撤廃され、貿易が自由化されたため、価格が5分の1にまで下がったそうです。
なお、車の通行に関しミャンマーはイギリスの占領時代から日本やイギリスと同じ左側通行でしたが、不思議なことに、1970年、時の政権は右側通行に変更してしまいました。タイやインドとは陸続きですが、それらの国々は左側通行ですから、国境をまたがって運転する場合は危険が生ずるでしょう。
その右側通行の国で、日本の右ハンドルの中古車が殆んどを占めているのですから驚きます。
私が子供だった頃、海外から輸入された左ハンドル車は高級車の代名詞でした。ミャンマーでも、右ハンドルと日本の名前がそのまま書かれた車が高級車なのかも知れません。
国内的には、現在、大方の民族との停戦が進み、和平への展望も開けて来ていまが、現在も中国と国境を接する北部カチン州ではミャンマー国民軍とカチン独立軍の間で大砲を打ち合うほどの内戦が続いており、非常事態宣言がなされています。
ミャンマーは天然ガスを産出することや、世界のルビーの9割を産出しており、資源にも恵まれているなど、いろいろな資源も注目され始めています。
ミャンマー政府は、現在、貿易の自由化、為替レートの一本化、中央銀行の独立性確保、国有企業の改革などを進めています。
2012年2月、日本政府はヤンゴン郊外のティラワ港経済特別区の上下水道、道路、光ファイバーケーブル、次世代電力網といった最先端のインフラ整備を請け負っており、日本との関係はかなり深まっています。ただし、長い付き合いの続いてきている中国からの投資に比べ、日本からの投資はまだまだ微々たるものになっています。 |
1日目 成田からミャンマーのヤンゴンへ
沸騰国家といわれるミャンマーですが、日本からヤンゴンへはANAが週3回、昨年の10月より直行便を開設しています。
JALも何かと頑張っているのでしょうか。今回のツアーはJALのチャーター便での観光ツアーでした。
機種はB767で、座席数は合計214です。座席はエコノミーでも 2-3-2 の並びなので、トイレには便利な作りになっています。
ツアーの参加者は198名で、同行する添乗員の14名も入れると、完全満席でした。このような大団体が、どのように観光するのかと思っていましたが、ツアー会社のクラブツーリズムにとっては馴れたものなのでしょうか、極めてスムーズに観光することが出来ました。
成田での搭乗前、参加者全員が10の組に分けられ、各々、色で区別されます。私たちは青色組でした。だいたい1組20名ですが、私たちの組は24名でした。
飛行機に乗るときも色別で、降りるときも色別です。各々1名の添乗員が付き、残る4名は全体をコントロールする係りのようです。我々の添乗員も、そのコントロールする人たちとよく連絡を取っているようでした。
ヤンゴンに到着後は、色別に別々のバスに乗り、別々のホテルに泊まります。私たちは赤色組と同じホテルになりましたが、到着時間は少しずつずらしてあるようで、赤色組とめったに一緒になることはありませんでした。
なお、私たち青色組は関東地方が多く、赤色組は九州や北海道など遠くから来た人が多いようでした。その人たちは、千円の追加で、各地方から成田まで、往復の飛行機を利用出来るようになっているのだそうです。
なお、今回の旅行費用はわずか6日間なのに一人20万円強と、他のアジア諸国やヨーロッパなどの観光に比べ割高になっていましたが、現在、観光開発中なので、多少費用がかさむのかも知れません。
こちらの通貨はチャットで1$が1000チャットですから、1円が10チャットとなります。
今回の旅では、一度もチャットを使用する必要がなく、交換は全くしませんでした。
レストランでの飲み物代はドルで支払い、市内のマーケットでもドルが流通し、トイレは10円程度でしたが、すべてガイドさんが団体で支払ってくれました。従って、現地の通貨を目にする機会はありませんでした。
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成田発14時35分、ヤンゴン到着は20:00で、飛行時間は7時間55分でした。時差は2時間30分です。
飛行ルートは図のような直線ではなく、多少曲がって中国の上を飛び、ベトナムやラオス、タイの上空を通ります。
帰りは、ヤンゴン発22時00分、成田到着は朝の6時55分、飛行時間は6時間20分でした。
帰りは夕食と朝食が出たので、寝た時間は2時間程度でした。 |
到着すると、ミャンマーのガイドさんが待っていました。その方は私たちが帰るまで同行し、いろいろと面倒を見てくれました。
約30分ほどでホテルに到着です。ホテルの窓を開けると、ミャンマーで最大と言われるシェダゴォン・パゴダがライトアップされていました。
このホテルには今夜泊まるだけで、明日は5時10分にロビーに集合し、バガンに行くため、空港に向かいます。
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1989年、ビルマがミャンマーと改名されましたが、同時にヤンゴンはラングールから改名されています。ヤンゴンとは戦いの終わりを意味するそうです。
ヤンゴンはヒマラヤ山脈の南端からマルタバン湾へと注ぐエーヤワディー川(イラワジ川)が造ったデルタ地帯に広がるヤンマー最大の都市で2006年、首都がネイピードーに遷都されるでは首都として栄えてきました。
年々、人口が増えて現在は600万人と、ミャンマー全体の1割に当たります。ちょうどタイのバンコクと同じ程度になっています。 |
2日目 バガン観光
国内便でヤンゴンからバガンへ
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今日は、朝6時45分発の飛行機でヤンゴンからバガンへ向かいます。そのため、ホテルを5時15分に出発し、朝食は弁当となり空港のロビーで食べることになりました。
飛行時間は1時間20分で、到着は8時05分でした。 |
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ガイドさんはピューピューという名前で、これからずっと、私たちが日本に帰るまで面倒を見てくれます。
ほほに面白い化粧をしていたので写真に収めました。ミャンマーではこのような化粧が普通なようです。
コンピュータのような、アクセントの全くない日本語を話します。 90%ぐらいは理解できましたが、あまりうまくはありませんでした。
その代り、とても気の利く親切な方でした。
日本には日本政府の援助により、ろうあ者介護研修のお手伝いとして1ヶ月ほど来たことがあるそうです。
日本では使える冷蔵庫や洗濯機をお金を払って捨てているのを見て本当に驚いたそうです。
ガイドさんの家には洗濯機がまだないそうです。
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久しぶりのプロペラ機です。2席+2席の自由席でした。
機内でビルマ語を初めて見ましたが、面白い文字です。視力検査を思い出しました。 |
飛行機からみると、バガンは砂漠地帯で、ヤシの木がたくさん植えられています。
ミャンマー中部は乾燥地帯と言われ、11月から4月までは雨が殆んど降りません。5月から10月まではほぼ東京と同じ程度の雨量があります。最も暑くなるのは乾季の終わりの4月で、月間最高気温は38℃にもなります。
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タイでもそうでしたが、ミャンマーの空気の透明度はかなり悪そうです。 |
下の写真は、パソコン処理により、空気の透明度の悪さを消したものです。
ヤシの木が列を作って植えられています。
このヤシの木は貴重な財産で、これらの木から、いろいろな製品が作られます。 |
バガン市
バガンはミャンマー屈指の仏教聖地で、カンボジアのアンコールワット、インドネシアのボロブドゥールとともに、世界三大仏遺跡の一つと言われています。
バガンは、1044年、ビルマ族による最初の統一王朝によって築かれた古都で、ここに点在するパゴダや寺院の殆んどは11〜13世紀に建てられたものです。
この王朝は250年間続きましたが1289年、モンゴルのフビライ・ハーンに滅ぼされています。
この時、日本は鎌倉時代でしたが、1281年、モンゴル大軍団が船に乗って日本襲来を行いました。それに対し、幕府軍が勇敢に戦い、また、後に神風と言われる暴風雨により大軍団が敗北、撤退しています。 |
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バガンのパゴダや寺院は広大なエリアに点在しており、約4000基以上のパゴダと寺院があったと言われており、現在も、大小さまざまな寺院が2,800基ほど残っています。まさに、世界最大規模の仏教遺跡群です。 |
バガンの町の様子です。なにか、かなり、貧しそうです。ネパールを思い出しました。
個人で来た観光客は、このような馬車を借り切り、遺跡を見学するそうです。 |
簡易バス
人の運搬にはトラックが使用されていました。一般には、一番後ろに車掌のような人が立って乗っています。
ほとんどがトヨタハイエースです。 |
トイレの状況
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これからの5日間、トイレの汚さには我慢が必要でした。ほとんどが有料です。 日本人は誰も現地通貨を持っていないので、後でガイドさんがまとめて払っていました。
トイレ代は旅行代金に含まれているようです。ただし、1回10円程度でした。 |
ニャウン・ウー・マーケット
まずは、マーケットの見学から観光開始です。現地の人の現状を知るには一番良い方法かも知れません。このマーケットはバガン近郊にある最大の市場で、野菜や肉、魚、衣料品、日用雑貨などを売っており、地元の人々でいつも混雑しているそうです。
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シュエズィーゴォン・パヤー (Shwedagon Paya)
このパゴダはバガンを代表するパゴダの一つだそうです。
パヤー(Paya)はミャンマー語で、英語ではパゴダです。仏塔を意味しています。一般に遺骨を納めるために作られています。
どこの寺院でも、寺院に入る場合は、必ず裸足になります。従って、靴を入り口辺りに置いて入ります。当初、間違えられないかと心配しましたが、ここバガンでは、心配はありませんでした。
通路には小さな石などが落ちており、決して歩きやすいわけではありません。
大きな寺院の前には、日本の門前仲町のような土産屋さんが並んでいます。 |
いよいよ、イヤフォーンガイドを使用して、仏教遺跡の観光開始です。
ただし、聞いてもすぐに忘れてしまいます。日本人の名前でも覚えるのは大変ですから、こちらのお寺の名や、人物名を覚えるのは大変です。 |
中央の高い仏塔の高さは40mもあり、釈迦の遺骨と歯が納められているといわれています。
11世紀、ビルマの統一王朝の初代アノーヤター王が建立を開始し、チャンシッター王の代で完成しています。
台座の上に黄金の塔が建ち、ビルマ式仏塔の建築様式の基礎となったそうです。
中央のパゴダを中心にして、時計回りに回りました。 |
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再び、土産屋を通って、靴を脱いたところに戻りました。 |
グービャウジー寺院
11世紀、チャンスィッター王の息子ヤザクマラが父王の死後、追悼のために建てられたと言われるレンガ造りの寺院です。バガンにはこのようなレンガで作られた寺院がたくさんありました。
内部にはミャンマー最古とされる壁画がありましたが、撮影は禁止でした。
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車窓からです。たしかに、名前も付けられていないたくさんの仏塔があるようです。
ティーロー・ミンロー寺院 (Htilominlo Temple)
1215年、バガン王ナンダウンミャーがこの地の王位継承者に選ばれたことを記念して建てられました。
建物は2階建てとなり、2階にも4体の仏像があるそうです。現在見学できるのは1階だけになっています。 |
裸足になって一階の回廊を一回りしました。4体の仏像が、東西南北の入り口に鎮座していました。 |
庭の一角に首長族の人たちが座っていました。テレビで紹介されてから、世界的に有名になったそうです。
首長族とはミャンマーではカヤー州とシャン州に暮らし、半農半狩猟で生活する山地民だそうです。とりわけ、首を長く見せる風習を持っています。
ガイドさんがチップを払い、写真を一緒に撮りました。 |
付録
現地で買った絵はがきです。
子供たちが寄ってきて、買ってくれとせがむので、買ってみました。1袋10枚1ドルです。
良さそうなので3袋も買ってしまいました。幸い、すべて違ったバガンの写真でした。 |
マヌーハ寺院 (Nanuha Temple)
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1059年に建てられた2層構造の建物と高い塔が特徴です。
外観の写真を撮らなかったので、左の写真は絵はがきからです。 |
靴を脱いで中に入ります。
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よく見ると、英文もわずかにありますが、説明は殆んどがミャンマー語です。そのうち、観光客が押し寄せて、英語の詳しい説明も付けられるでしょう。 |
内部には3体の仏像が建物ぎりぎりに作られたいます。
涅槃像も建物ぎりぎりに作られています。
ビルマの釣鐘です。日本では紐で結わえ付けられた棒で鐘をつきますが、こちらの鐘は棒を手に持ち、3か所、叩きます。叩く場所により、異なった音が出ます。
私も試してみました。 |
こちらのレストランもタイと同様、窓ガラスがありません。
ミャンマービールは世界でも賞を取ったとか、確かに美味しいビールでした。
大びんが一般的で、場所によって違いますが1本3ドルから5ドルでした。今回はお酒を好きな方が多く、昼、夜とも一人で1本ないし2本ぐらい飲んでいました。そのため、ガイドさんもよく承知したもので、トイレの案内はしつこいほどあり、幾ら飲んでもトイレの心配はありませんでした。 |
レストランから見た風景です。
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バガンはミャンマーを貫く大河、エーヤワディー川のほとりに作られています。 |
漆工房見学
昼食後、漆工房の見学がありました。竹から作られた漆喰製品はバガンの特産品だそうです。
竹を薄く裂いて、それを馬のしっぽの毛を使って編み上げ、その上に漆喰を塗り、さらに絵具で絵柄を描いてゆきます。
作業中の女性にカメラを向けると笑顔を作ってくれました。
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隣に販売所がありましたが、店員には売ろうとする意思がなさそうでした。
誰も買わなかったようでした。WiFi無料と書かれていました。 |
今朝は4時にモーニングコールで起こされ、長い一日になので、ホテルで一休みです。
部屋には、無料のデザートが置かれていました。
なかなか立派なホテルです。
なお、今回の旅行では、ヤンゴン、バガン、マンダレーと3つの都市に泊まりましたが、いずれも、インターネットが完備されており、無料でした。
日本の温泉では、かなり大きなホテルでもインターネット接続が出来ませんが、その点、ミャンマーの方が進んでいるようです。
日本の温泉旅館は多少、慢心しているのでしょうか。 |
再び、観光開始です。
タビニュ寺院 (Thatbyunnyu Temple)
12世紀半ば、アラウンスィイードゥー王によって建てられた寺院で、バガンでは一番高い65mの塔を持っています。タビィニュとは全知者を指し、仏陀を意味しています。 |
内部を一周しました。
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布で隠された場所をそっと開けてみると、漆喰で黒く塗られた仏像が置いてありました。この上に金箔を貼り付けると仏像が作られるのだそうです。 |
各入り口に鎮座した仏像です。表情が少しずつ違っています。
日本人戦没者慰霊碑
タビィニュ寺院のそばに日本人戦没慰霊碑が建てられていました。この一角は下の写真のお坊さんのお寺の敷地の中に作られて居るそうです。
第2次世界大戦中、日本軍はインパール作戦を立て、多くの戦死者を出しています。 |
アーナンダー寺院
バガンで最も美しいと言われる寺院で、ミャンマーの最高傑作と言われています。
1091年、第三代チャンシッター王によって建立されました。本堂は正方形で、入り口が4つあり、東西南北それぞれに4体の黄金仏の立像が納められています。南北の仏像は創建時のもので、東西の仏像は再建されたものです。
中央にある高さ51mの尖塔は均整がとれた華麗な美しさを作り出しています。
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靴を脱ぎ、土産屋さんの通路を抜けると、本堂に仏像が見えて来ました。
その後、内部を一周しました。壁に作られた小さな仏像はかなり暗く、懐中電灯がないと見ることが出来ません。フラッシュを焚いて写真を撮りました。
この回廊には、およそ、1600体の仏像が置かれ、お釈迦様の一生を表しているそうです。 |
広い庭があり、外に出て歩いてみました。境内は広く美しい風景です。
釣鐘
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ガイドさんに教わったようにして、鐘をたたいてみました。
叩く場所によって、音色が変わります。
西洋から来た女性も鐘をたたきましたが、まるで、火事の時の半鐘のように激しくたたいていました。叩き方を知らないようです。文化の違いでしょうか。 |
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先ほどとは90°違った場所から見た風景です。
夕日に当たり、塔が輝いていました。
裸足でこんなに歩いたのは久しぶりです。足の裏が痛くなりました。 |
シュエサンドー・パゴダ
1057年にアノーヤター王が建立しています。バガン王朝初期のパゴダと言われています。
レンガを積み上げた造りで5層のテラスがあり、その上に仏塔が建っています。夕日鑑賞の名所で、 階段で上に登ることが出来ます。私たちも、最上階まで登ってみました。 |
ただただ、その素晴らしい景色に唖然とします。まさに人類が作り上げた壮大な仏教遺跡です。 |
まさに言葉もありません。素晴らしいの一言です。
名前も付けられず、訪れる人もいないようなたくさんの仏塔があるようです。
一応、360°回って写真を撮りました。 |
望遠レンズで、少し拡大して見ました。
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王宮のようです。 |
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先ほど見たアーナンダー寺院のようです。 |
皆さん、夕日を見ようと陣取っています。
日はゆっくりと暮れて行きます。
そろそろ日没です。暗くなる前に、降り始めました。
長い一日の観光が終わりました。
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素晴らしい古都でした。感激の一日でした。
これから晩餐会に向かいます。 |
クラブツーリズム主催の晩餐会
チャーター便で来た私たちは、ヤンゴン空港で10台のバスに分かれ、各々異なったルートで観光をして来ました。
今夜、再び、6台のグループが集まり、クラブツーリズム主催の晩餐会がレストランを借り切って開かれました。
残りの4台は全く違った場所へ行ったようです。
主催者からの挨拶と、日本から来た各添乗員と、現地の添乗員からの挨拶がありました。 |
その後、民族舞踏が披露されました。
南国情緒を味わえる素敵な朝食会場でした。映画で見たビルマの竪琴での実演奏がされていました。 |
出発まで時間があったので、ホテル周辺の散策をしてみました。
ホテルにはゴルフ場が付随していました。土地はかなり痩せていて、芝の状態もあまり良くありません。特に今は乾季なので大変なのでしょう。
ビルマ語でなにか書かれたいました。プレーヤーはミャンマー人が多いのでしょうか。以前行ったグアムやタイのゴルフ場では、日本語でも書かれていましたが、将来、そのようなことが起こるのはいつ頃かなと思います。
何人もの人が一緒になり芝刈りをしていました。エンジンの音がしていましたから、人力だけの芝刈りではなさそうです。それにしても、一日、どれぐらい歩くのでしょうか。かなりの早足で芝を刈っていました。 |
ココヤシ村
ホテルからホッパ山に向かって約30分も行ったところにココヤシ村があり、そこでは、ココヤシからの砂糖や蒸留酒の作り方の展示がされていました。
最近の観光ブームで、このような施設が、道路沿いに幾つも作られつつあるそうです。
ココヤシに登り、芽蕪を取ってきて、牛に引かせて搾り、黄色い液体を取り出します。
なお、この牛はラクダのようなこぶを持っています。乾燥地帯に住む牛には、水を溜めて置くようにこぶが発達したようです。 |
搾りだした液体を煮詰めると砂糖に、蒸留すると蒸留酒になるそうです。
こんな原始的な蒸留酒の作り方を見たのは初めてでした。試飲もしましたが、アルコール度が強く美味しいお酒でした。 |
作業者がツボを芽の傍に付けて、蜜を集めたり、芽蕪を取ったりしていました。
このような作業者は通常単独労働者で、ヤシの木を持っている人たちを訪ねては、木に登り賃金を得ているのだそうです。 |
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遠くにヤシの木に登るため、はしごを動かしている人を見つけました。 |
ココヤシからは、その他いろいろな製品が作られます。この小屋の柱や屋根もすべてヤシの木から作られていました。 |
ホッパ山とタウン・カラッ
バガンの南東約50qのところに、今は死火山となった標高1518mの緑豊かなホッパ山があります。その山裾にはなだらかな山林が広がっていますが、一つぽつんと隆起した岩山があり、その頂上にお寺が作られています。
私たちは、歩いてこの頂上まで登ることになります。
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この寺院は、ミャンマーの土着宗教「ナッ神」信仰の聖地で、登り口はタウン・カラッという地名の門前町があります。
登る前に、安全を祈願して、このお寺にお参りです。子供が喜びそうなたくさんの人形が飾られていました。 |
頂上の寺院は標高737mで、そこに登るには777段以上の階段を上って行きます。
日本にもこの程度のお寺はたくさんあり、体力的には特に問題はなさそうです。
2体の象に迎えられ、いよいよ登山開始です。
土産屋さんが続きます。
素敵な匂いを放つ白檀の木も売られていました。 |
途中から靴を預け裸足になり、再び登山開始です。たくさんのサルがおり、サルの餌も売っていました。
靴は鍵のかかるロッカーに入れることが出来ます。頂上まで行けない人は途中で戻り、ここに集合ですが、全員登ったようです。 |
眼下にはたくさんの寺院が見えます。
再び登ります
いよいよ頂上近くです。
以前尋ねた奈良県の吉野山を思い出しました。なにか、似ています。
頂上に到着です。
着飾ったたくさんの仏像が置かれていました。仏像の後ろにはパチンコ台で見るようなネオンサインがピカピカ光っています。
ミャンマーの人たちはこのような仏様が好きなようです。文化の違いなのでしょうか、日本にある、わびさびの感覚はあまり無いようです。 |
ホッパ山が遠くに見えます。
頂上で記念写真を撮りました
おサルさんは結構知能が高そうです。
来た道を降りて戻ります。
今日のレストランは、ホッパ山の山麓のかなり標高の高いところにあり、タウン・カラッを見下しながら昼食をとることが出来ました。 |
レストランの近くに自然公園があり、その中に博物館もあり、見学しました。
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白檀(ビャクダン)の木だそうです。
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蟻塚が点々と作られていました。
博物館には、この付近に住む動物や野鳥など、いろいろと飾られていました。
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左端がホッパ山で、中央の隆起した岩石がタウン・カラッです。 |
再び、バガンに戻り、遺跡の観光です。
タラバー門 (Tharabha Gate)
9世紀、ピンビャー王がバガンの防御を固めようと築いた城壁の名残です。門の両側にはバガンの守護神が祀られています。
旧バガンに入るために唯一残されている門です。
この旧バガン内には、約5000名の人が居住していましたが、1990年、王宮を発掘するため、すべての居住者が強制的に移動させられています。 |
王宮 (Golen Palace)
バガン朝の建物を再現した黄金に輝く宮殿で、5年の歳月をかけ、2008年1月に完成しています。
これらの建物は外国の大使のレセプションなどさまざまな儀式に使用されるそうです。
入場料は5ドルだそうです。外観のみの見学でした。
この王宮はタラバー門の近くにあり、昔のお堀も保存されていました。 |
ブーパヤー・パゴダ (Buphaya Paya)
昨日、昼食をとったエーヤワディー川の岸辺に立つ小さな円筒形の仏塔ですが、ビュー族によって7〜8世紀ごろとに建てられたと言われています。
この仏塔は1975年の地震で大きな被害を受け、完全に破壊され、川に流されてしまったそうです。
現在の仏塔は新しく作られた物です。 |
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寺院の中の仏像です。ここも点滅するネオンサインが後ろに付けられていました。 |
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プーパヤー・パゴダの広い庭を隔てて、ペビィンヂァゥン・パヤーが造られています。
細長い鐘のような形をした2層の円筒仏塔で、このような仏塔はスリランカ流だそうです。12世紀に作られたと言われています。 |
スラマニ寺院 (Sulamani Temple)
1183年、ナラパディスィードゥー王によって建てられました。2層構造になっており、1階にはそれぞれ、東西南北を向いた4体の仏像があります。
内部の壁面には仏像など、フレスコ画が描かれており、当時の暮らしの様子が分かるそうです。
バガンの中では最もよく保存されている寺院の一つだそうです。
レンガ積みで作られていますが、力学的にも地震などに耐えられるよう、通路の上部は鋭角に作られています。 |
道路工事
至る所で舗装のための道路工事がなされていました。マャンマーでは土木作業は女性がするようです。男性は運転手になり、力仕事はしないようです。 |
ダマヤンジー寺院 (Dhammayangyi temple)
12世紀に第5代ナラトゥー王によって建立されました。ナラトゥーは自分が国王になるために父と兄を殺してしまい、罪の意識にさいなまれ、その罪ぼろしのために細工を施した変わった形の寺院を建てはじめたが、自分も何者かに暗殺されてしまい、未完のまま、現在に至った寺院だそうです。
バガンでは一番大きい寺院で、前の大戦中は病院としても使用されていたそうです。 |
エヤーワディー川のサンセットクルーズ
一隻の定員は15名程度で、我々は2隻に分乗してクルーズに出発しました。
しばらくして、2隻はドッキングし、紐で結わえつけて、ガイドさんによる説明がありました。
エヤーワディー川の水量は季節によって大幅に変わるそうです。水量がさらに少なくなると、座礁しないように川の中に旗が立てられるそうですが、雨期になると水曜が増え、クルーズ船は中止になるそうです。
ただし、お客がミャンマー人の場合は船を出すそうです。ミャンマー人は事故が起こってっもそれは運命だとして受けとめ、問題は発生しないそうです。ただし、外国人の場合は大変な事態に発展するので政府は禁止しているそうです。
いったん上流に向かい、その後、エンジンを止め、川の流れに任せて夕日を見ながら下って来ました。静かに夕日を鑑賞することが出来ました。
太陽の前を船が横切って行ったので、何枚もの写真を撮りました。 |
夕食時の人形劇
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人形劇はバガンの古典的な民族芸だそうです。
今夜は人形劇を見ながらの食事でした。 |
4日目 バガンからマンダレーに移動後、マンダレーの観光
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今日は、飛行機でバガンからマンダレーに移動し、マンダレーの観光です。
バガンーマンダレー間の距離はわずか100km程度ですが、道路の事情が悪いようです。
マンダレーもエーヤワディー川の東岸に作られており、ミャンマー第二の都市になっています。
人口は周辺も含めると約250万で、ミャンマー全体の約5%程度になります。
マンダレーは国土のほぼ中央に位置し、ヤンゴンから716q北の乾燥地帯の中央にあります。 |
バルーンでの遺跡観光
朝起きて窓を開けると、幾つものバルーンが見えます。つい最近、エジプトで死亡事故を起こしていますが、ここの遺跡を見るバルーンも迫力がありそうです。 |
ホテルのロビーの作りを改めて見ると、昨日見たスラマニ寺院の天井と似せて作られたようです。 |
バガンからマンダレーへ国内線で移動
私たちと同様、バガンからマンダレーに向かう西洋からの観光客です。ノルウェーから来たと言っていました。
マンダレーの空港は、王宮のような屋根が作られていました。タイの王宮の屋根も同じようなデザインでした。 |
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マンダレー市内に向かう道路わきに、パゴダが見えました。 |
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現在、マンダレーに残っている主な仏塔や寺院は殆んどがミンドン王時代(1860年〜1885年)のものです。 |
マハーガンダーヨン僧院
ミャンマー最大規模の僧院で、1000名以上の修行僧が集団で生活しています。
托鉢姿は町の風物詩となっているそうです。たくさんの観光客が訪れていました。
ガイドさんの話によると、僧侶になるのは次男坊か三男坊で、職に就けずに困った人がなるのだそうです。
なお、ミャンマーでは、すべての男性が一生に2回ほど、計2週間ぐらい僧侶になり修行をするそうです。
タイでは一生に一度だそうです。 |
托鉢を持った僧侶が列を作って、食堂に向かいます。途中で托鉢の中にご飯やおかずを入れてもらいます。この列は20分ぐらい続きました。
食事は一日2回だそうです。お腹が空いてもおねだりは出来ません。修行とは辛いものだと思います。
よく見ると、デジカメをもって自分たちの行列の写真を撮っている中年の太ったお坊さんもいました。地方から修行に来たのでしょうか。修行も時には観光の一環なのでしょうか。 |
食事中の様子です。どのような思いで、毎日を過ごしているのでしょうか。
ウー・ベイン橋
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この橋は、1849年に都をインワからアマラプラに移す際に、バガン王の命令により造られた世界最長の木造の歩道橋と言われています。
この橋は、不要になった旧王宮を作っていた固く腐りにくいチーク材で作られています。
このタウンタマン湖に架かる橋の長さは1.2qもあり、歩くと20分ぐらい掛かるそうです。
アマラプラはこの橋のすぐ西にあります。
この地方の湖は、季節によって水量が大幅に変わるそうです。 |
たくさんの観光客が押し寄せる観光地になっています。
橋の上を実際に歩いてみました。
橋から見下ろすと、民家なのでしょうか、粗末な小屋が見えます。ただしそこにはオートバイもありました。
マンダレーの住人にとって、自転車かバイクは必須だそうです。確かに、バガンでもたくさんのバイクが市民の足になっていました。 |
マハムニパゴダ (Maha Muni Paya)
このパゴダはマンダレー最大にして最も重要な仏塔です。
このパゴダの中央には、金箔で覆われた高さ4mのマハムニと呼ばれる仏像が置かれています。
この仏様は、カンボジア→タイ→モンヤカンと戦争の勝利品として移動してきたそうです。
この仏像にはブッダ信者の魂があるとされ、女性は近づくことが出来ず、男性信者のみ金箔を貼ることが出来るそうです。私たちもその仏様に触り、信者が貼り付けた金箔を手に貼り付けて戻ってきました。そうするのが習わしだそうです。 |
男性は仏像に近づき、触ることもできます。この仏像を中心に時計回りに回って歩きました。
日本でも昔は女人禁制の寺院がありましたが、今はあまり聞かないようです。 |
マンダレー旧王宮 (Old Palace)
ミャンマー最後の王朝であるコンバウン朝の王宮です。正方形の敷地の一辺は約3qもあります。
第二次世界大戦で王宮は焼失し、城壁のみが残されましたが、旧王宮の建物は1990年に再建されています。
現在は軍の施設となっていますが、一部が一般に公開されています。
確かに、門を入るととても広く、王宮に着くまで、バスはかなり走りました。 |
旧王宮が美しい姿で再現されていました。
王と王妃の像などは、当時の様子の想像でしょうか。
美しい王宮が続きます。
シュエナンドー僧院 (Shwenandaw Kyaung)
19世紀の王、ミンドン王が住んでいた場所で、現在は僧院となっています。
建物はチーク材で作られており、外壁や屋根には丁寧かつ見事な彫刻が施されています。
貫録のある美しい僧院です。 |
内部には仏様が飾られていました。
クドードォ・パゴダ (Kuthodaw Paya)
1857年、ミンドン王によって建立されました。
大理石に刻まれた仏教経典を祀った730個の塔が並んでおり、その壮観さに驚きます。 |
サンダムニパゴダ (Sanda Muni Paya)
クドードォ・パゴダに隣接しています。
ミンドン王の弟の王子で1866年に暗殺されたカナウンの遺体がここに埋葬されており、その上に、マンダレーヒルの長であった ウ・ケンティ師が仏塔を建設しました。
この境内にも1774の小仏塔が林立し、仏典を刻んだ石板が納められています。驚くべき姿です。
タイやミャンマーを旅していると、犬や猫が警戒心なく道路で眠っているのをよく見かけます。この違いはどこから来ているのでしょうか。 |
パノラマ写真を撮ってみました。3列目は寺院の角から撮ったので270°です。
マンダレーヒル
旧王宮の東北にある高さ約235mの小高い丘です。
山全体が聖地となっています。山頂部にはマンダレー最古の仏塔があり丘全体が仏教寺院となっています。 |
バスで丘の途中まで行き、そこからはトラックに分乗して頂上まで登りました。
トラックは、まさにジェットコースターのようで、しっかりと屋根などに掴まっていました。 |
バスを降りると今度はエスカレーターで登ります。
このお寺にも、ネオンサインのついた仏像が置かれていました。
町を見下ろすと、寺院やゴルフ場が見えます。
帰りはエスカレーターでなく歩いて戻りました。
再び、トラックで下ります。上り下りとも一方通行ですが、今度の運転手は慎重でした。
5日目 マンダレーからヤンゴンへ。その後ヤンゴン市内観光
マンダレーの朝
ホテルの出発前に町を少し歩いてみました。清掃係がもう働いていました。
ガイドさんが町を歩いても安全上問題はないが、穴ぼこには十分注意してくださいと言っていましたが、確かに危険です。
カバーをした車がありました。昔の日本の風景に似ています。
歩道にはハリアーが停められていました。これでは歩けません。 |
交差点には一般に信号がありません。一時停止もせず、どちらかからも入ってきて、巧妙にすれ違って行きます。面白いのでしばらく見ていました。 |
昨日観光した旧王宮の近くまで歩いてみました。
ホテルの近くは電気街のようです。日本や韓国の製品が多いようでした。
朝食をとった後、再び、先ほどの信号機のない交差点に行ってみました。
今度は交通整理のお巡りさんがおり、手信号により車をサバいていました。
バイクを見ていると、女性の方が多いように感じました。 |
国内線でマンダレーからヤンゴンへ移動
マンダレー空港での風景です。お坊さんの席が用意され、係りの女性に誘導され、バスに乗るときも一番先に乗り、飛行機に乗るときも一番先でした。
飛行機に乗れるお坊さんはほんの一握りの人なのでしょう。
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ヤンゴン市内の風景
ヤンゴン市内の風景です。古い家の窓には金網が付けられています。暑いので何時も窓を開けているため、盗難防止に必要なのでしょうか。
ござを持った人がいました。こちらは畳でなく、床にござを敷くのが一般的だそうです。 |
すごい渋滞です。信号機は殆んどありません。
まず、昼食です。公園の中にありました。
チャウット・ジー・パゴダ
1966年に建設された比較的新しい仏塔で、巨大な涅槃像が祀られています。
70mx17mと巨大な涅槃像です。その迫力とは裏腹に、口紅をつけ穏やかで優しげな表情をしています。
東南アジアにある数々の涅槃像は、入滅、すなわち死ぬときのブッダの姿を表しています。頭を北にして、顔を西に向け、右脇を下にして、両足を重ねて横になっています。
ここのブッダはなぜ女性のような顔立ちをしているのでしょうか。 |
大きな足裏には仏教の108個の宇宙感を表す図が細かく描かれています。
その他、幾つもの小さな仏像が置かれていました。
疲れたのでしょうか、女性が横になって眠っていました。
独立記念塔
マハバンドゥーラ公園の中に独立記念塔が建てられています。この塔は、1948年イギリスから独立したのを記念として建てられました。
イギリスの植民地下に置かれたヤンゴンにはたくさんの英国風の建築物が残されています。ビクトリア様式の最高裁判所、教会、中央郵便局などが見えます。
最近はインターネットカフェも増えつつあるようです。 |
芝貼り
公園で芝貼りをしている人たちがいました。この炎天下、大変な労働だと思いますが、働いている人たちはすべて女性でした。 |
ボージョー・アウンサン・マーケット
英国植民地時代の1926年に建築されたボージョーアウンサンマーケットはヤンゴンの中心地に位置し、ヤンゴンで最も大きなマーケットです。日常生活に欠かせない食品、薬、衣類、雑貨などから御土産物、小数民族の伝統工芸品、宝石などの高価なものまで売られています。
同一ジャンルの店がかたまっているわけではないので、一番安い店はどこかを見つけるのは大変です。
昔、電気製品を買うため、秋葉原で安い店を捜し歩いたのを思い出しました。今はすべて価格.comですから便利になったものです。 |
通路は食堂で人がいっぱいでした。
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これだけ広いマーケットですが、トイレは2ヵ所しかありません。ガイドさんの案内が無ければとても見つけられません。 |
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鉄道駅の風景
バスに戻るため、たまたま鉄道のホームを通りました。ちょうど列車が入って来ました。
列車の前にはなぜか、人が座っていました。改札のないヨーロッパ様式なので、無賃乗車のようにも見えます。
お蔭で、ヤンゴンの生活の一端を見ることが出来ました。
この駅はヤンゴン中央駅から500mほど離れた駅です。特急は止まらない駅かも知れません。
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日本名のバス
殆んどの乗用車やトラック、バスは日本製の中古車で、バスには日本の名前がそのまま書かれていました。
私たちにとっては自分のバスを見分けるのに非常に便利でした。
写真が数枚あったので、思い出のため、ここに掲載してみました。
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シュエダゴンパゴダ (Shwedagon Paya)
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ミャンマー仏教の総本山であり、ミャンマーで一番有名なパゴダです。
中央のパゴダの高さは99.4mで、その周囲は443mもあります。
左の写真はグーグルアースからみたパゴダです。
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境内には南入口にあるエレベーターで昇りました。歩いても登れるそうです。
上ると、パゴダ全体が見えます。中央のパゴダが、他の周りのパゴダに比べて、圧倒的に高いのが分かります。 |
菩提樹
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南入口の近くに釈迦が悟りを開いたと言われる菩提樹が植えられていました。集合場所の目安として最適です。ここから観光開始です。
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インドへ行った時も、釈迦が悟りを開いたと言われる菩提樹があり、家内が落ちていた葉っぱを拾って来ましたが、今回も、葉っぱを一枚、拾って来ました。 |
観光開始
建物全体に金箔が施され、そのスケールの大きさには、ただただ驚きです。
何時ものようにパゴダを中心に右回りでの見学です。所どころに合計7つのお釈迦様が置かれており、自分が生まれて曜日のところで、水を年齢の回数だけ掛けるそうです。ただし、10歳を1回に数えて、72歳だと合計9回掛けることになります。
生まれた日の曜日が分かるように、簡単な換算表が旅行社から配られていました。ここにきて初めて何のために配られたのかが分かりました。。 |
あまりにも広いので、自分が何処にいるのか分からなくなります。
尖塔の頂上にはダイヤモンドやルビーが飾られており、その数は 6,000を超えると書かれた写真が飾られていました。
カメラを望遠にして撮ってみましたが、どれが宝石かはなかなかわかりません。 |
私もお釈迦様にお水を掛けてきました。
再び、菩提樹の所に戻ってきました。
見学には約1時間を費やしましたが、詳しく見れば1日居ても足りないでしょう。 |
晩餐会
夕食はレストランを借り切っての晩餐会です。JALチャーター便の全乗客が再び集まりました。
屋根や内部はパゴダや仏像と同じように、金色に塗られていました。当然、金色の塗料によるものだと思いますが、以前、本社の金属材料研究所で、本物の金と、金色の塗料で塗られたサンプルを見たことがありますが、私の眼では、識別困難でした。
今夜も民族舞踊を見ながらの夕食でした。 |
夕食後、午後10:00発のJALチャーター便にて成田へ向かいました。
正味、わずか4日でしたが、驚きと思い出の多い旅となりました。
バガンなどは世界遺産への登録申請中だそうですが、登録されれば、テレビなどの世界遺産番組としても詳しく放映されるでしょうから、ますます、観光客が押し寄せるようになると思われます。 |
6日目 夜行便にて早朝、成田に到着
ヤンゴンから成田までの飛行時間は約6時間20分ですが、昨夜の夜10時に出発した夜行便は、出発後、お酒や軽食が出て、また、到着の2時間前には朝食が出たので、眠った時間は2時間程度でした。
ミャンマーはまだまだ最貧国ですが、民主化により発展の道を歩み始めました。
仏教国としての誇りを持ちながら、格差の少ない豊かな国に発展することを願いました。 |
付録
高校のOB会が年に2度ほど機関誌を発行していますが、幹事から何でもよいから寄稿して欲しいと依頼され、昨年訪れたポーランドとバルト三国の旅とタイ、ミャンマーの旅をまとめてみました。
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ポーランドとバルト三国、および、タイとミャンマー(ビルマ)を旅して。
昨年の9月にポーランドとバルト三国に、また、今年の2月と3月にタイとミャンマーを旅して来ました。
ポーランドはショパンの生まれた国ということと、第二次世界大戦中ドイツと旧ソビエトに挟まれ徹底的に破壊された悲劇の国ということ、また、バルト3国も小さな国として大国の狭間で厳しい歴史を経てきたことも学んでいましたが、これらの国々は日本との関係が薄く、ニュースで取り上げられることはめったにないので、一度訪問してみたいと思っていました。
ポーランドの首都ワルシャワをはじめバルト三国の首都は第二次世界大戦で徹底的に破壊されてしまいましたが、いずれの首都もその中心市街地は昔と全く同じ姿で復元されていました。70年前、これらの国々の都はこんなにも美しかったのかと驚きます。そして、また、たくさんの観光客を集めていました。
一方、ポーランドのアウシュヴィッツを訪れると、反省してもしきれない人類の愚かさと残酷さを学びます。
これらの国々を旅すると、至るところに第2次世界大戦の悲劇が、すなわちドイツとソ連による迫害の悲劇が描かれたり遺跡として残されていました。
迫害を受けた民族がその悲劇を正確に末永く子孫に伝えるのは、その悲劇を味わった人たちの義務でもありましょう。
案内するガイドさんの話によると、過去の長い歴史の中で、現在が一番平和な時だと説明していました。そして、現在これらの国々はEU圏に所属し、国境の問題が解決され、パスポートの検査無しで旅行することが出来るようになっています。
ちょうどこの時、インターネットで日本のニュースを見ていると、中国では、日本の百貨店が暴徒により壊され、商品が奪われ、また、自動車工場では、機械が破壊されていました。想像を絶する事態でした。また、お隣の韓国でも竹島問題で暴動が起こり、慰安婦問題の再燃や、日本製品不売運動、お互いの国間の観光客の激減などが続いています。
日本は大戦中、朝鮮を併合し、名前を日本名に変えさせたり、また、中国でもいろいろと残酷なことをしたのは間違いのない事実であり、両国にとって、私たち日本人にはなかなか理解できない感情があることを、今回の旅で感じざるを得ませんでした。
今年の2月はタイに、3月はミャンマーに行ってみました。タイには仕事でかなり行っていますがミャンマーは初めてでした。
以前、映画「ビルマの竪琴」を見たことがありますが、これらの国々は極めて敬虔な仏教国であり、また、親日国家です。
ミャンマーはこの2年で民主化が進み、世界各国からの投資を引き付け、まさに沸騰状態です。いずれの国も、町中が日本車で埋まり、日本製品で溢れていました。
このような反日的国家と、親日的国家はどこから来るのでしょうか。
戦後の1951年、日本と世界各国の間で平和条約を結ぶ会議がサンフランシスコで行われました。そこでは領土や賠償に関して日本に厳しい条件を付ける国も少なくありませんでした。しかし、セイロン(現スリランカ)の代表として出席したジャヤワルデネは、戦争中に受けた日本による甚大な被害を指摘したうえで、こう述べています。
「我が国は日本に対して賠償を求めようとは思いません。なぜなら、我々はブッダの言葉を信じているからです。憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止むのです。」
また、サンデル教授による白熱教室では「親の起こした過ちに、子供は責任があるのかどうか」を論じていました。いくら議論しても、立場により意見が異なり、結論の得ない議論が続きますが、議論により、お互いの意見の違いを知るのは大切だと結論付けています。
我々は過去の歴史からたくさんのことを学んだはずです。
将来、機会が来たら復讐しようと思っている人々、過去は過去として、明るい将来を目指してゆこうとしている人々、いろいろな考えのあるのは確かですが、時の指導者によって大きく変化するのも事実です。
日本人は、会議の場などで、ともすると自己主張が少なく発言が少ないと非難され、時にはさげすみの眼で見られてきましたが、東日本大震災の時の日本人の行動を見ていると、他人への思いやりに溢れており、その素晴らしさが世界的に見直されているようです。
日本の仏教界は、現在、葬儀儀式に偏っていると言われていますが、大震災におけるこれらの行動は、日本における古来からの仏教の教えから自然に学んできたのだと思われます。
これらの旅は、結果的に平和の大切さを実感する旅になりましたが、隣国との問題を解決する英知が、今ほど大切なときは無いようです。
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