びっくり北京 4日間
2014年10月23日~26日間
JTB 旅物語

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 ただし、2枚目からは軽快に動きます。


 新聞にびっくり北京4日間の広告が出ており、その内容は、往復とも日本の飛行機を利用し、四つ星ホテルに3泊し、3つの世界遺産、万里の長城、頤和園、故宮博物館等の案内と入場料金を含み、さらに毎日3食付きでその料金がなんと1万5千円というものでした。ただし燃料サーチャージと空港利用税は含んでおらず、全部入れると約3万円弱でした。それにしてもあまりにも安いのでちょっと行って見るかという感覚でJTB に申し込みました。我が家から大阪までの片道料金と同じ料金でこれだけのサービスがなぜ出来るのか最後まで理由は分かりませんでした。
 ただし、毎日お買いもの店に連れて行かれ1~2時間ほど時間をつぶす必要がありました。このことは前もってツアー内容に明記されていましたから文句も言えません。
 2010年1月、上海に行ったときは飛行機とホテル代だけで3万円弱でしたが、今回は観光代と食事代がついているのですから驚きです。 
 現在、日中関係系は戦後最悪と言われ、また中国の大都市でのPM2.5は最悪とのニュースが話題になっています。普通なら行く気にもなりませんがやはり安いのは魅力です。それに、以前会社で一緒に仕事をしていた部下たちが北京や上海、南京、武漢に駐在しておりどのような状況の中で仕事をしているのか気になっていました。
 会社時代、私の仕事は光ファイバの研究開発などでしたが、現在世界全体での光ファイバの約半分が中国で敷設されており、中国の景気が悪くなるほど会社の業績にも関係するほど、中国の力は強くなっています。
 来月の11月10日から11日までAPECが北京で開催されることもあり、中国政府はかなり環境にも力を入れているようです。
 現在、日本は海外からの観光客誘致に積極的に動いていますが、前月の9月の観光客数は100万人を超え最大のお客は中国からの24万人です。東日本大震災や尖閣諸島の国有化によって、一時極端に減少した中国からの旅行者がここに来て急増しつつあるのは円安もありますが日本に興味を感じている中国人が多くなっているのも事実の様です。今年は中国からの旅行者が過去最大の年になるのは間違いないようです。中国の旅行社が頑張っているのも一因です。
 また、中国の名目GDPは2009年に日本を抜いて世界第2位になりましたが、円安の影響もあり、今年の中国のGDPは日本の2倍にもなっています。
 中国が世界一になっている項目はたくさんあります。ちょっと書き出してみると、
 人口の多さ13億人、貿易収支の黒字額、輸出総額、外貨準備高、電力発電量、風力発電量、自動車生産台数、自動車販売台数、海外旅行先での支出額、鉄鋼業生産高、カラーテレビ生産高、インターネットユーザー数、などなど、取り上げれば切りがないほどたくさんあります。
 古いものでは、明の時代に作られた紫禁城の規模、万里の長城の長さ、北京と杭州を結ぶ大運河、敦煌の石窟寺院の規模なども世界一と言われています。
 なお、国土面積は、日本の約25倍もありまが、砂漠地帯が多いので人口密度はかなり高くなっています。
 北京は私にとって久しぶりでしたがいろいろと勉強になったツアーでした。

 
 4日間のスケージュールは次の様でた。

1日目 JALで成田から北京へ。到着後、北京オリンピックスタジアム見学。夕食後、北京雑技団鑑賞(オプション)
2日目 万里の長城と頤和園の観光
3日目 天安門広場、故宮博物館。パンダ館、胡同観光、夕食は餃子館でビール飲み放題(オプション)
4日目
天壇公園(オプション)観光後、午後、JAL便で成田へ


1日目 北京到着後、オリンピックスタジアム観光、北京雑技団鑑賞


成田空港JALラウンジ

 成田~北京間の飛行機は幸いJAL便でした。JALの場合、ラウンジを無料で使用できるので、朝食は成田のラウンジで取りました。
 機内でも、アルコール飲料が無料なので、北京到着まで、結構お酒を頂きました。
 ツアー料金とサービスは全く関係ないので助かります。

 JAL863便は成田発 10:45 で、北京到着は 13:50 でした。

 




北京空港(北京首都国際空港)

 今回のツアーは各自、北京の税関を出て、そこでツアーガイドさんと合流する方式でした。
 今回のツアーの特徴は一人部屋の追加料金がなんと2万8千円で一人で行くと非常に高くなってしまいます。その結果、ほとんどがご夫婦での参加でした。
 参加人数はバスの座席数38と同じでした。すなわち、バスは満席でした。たぶんすぐに募集人数に達したのかも知れません。
 一組のご夫婦が北京空港内で迷ってしまったらしく全員がそろうまで30分以上も待たされてしまいました。
 空港の外は予想していた通りスモッグで視界が極めて悪くなっていました。
 北京空港は現在世界第二の規模を誇っています。豊かになった中国で13億人の需要を賄うにはそれでもまだ狭いそうです。
 北京には左の図のように計3つの空港があります。
 なお、乗降客数世界一はアメリカのアトランタ国際空港だそうです。3位はロンドンヒースロー空港、4位は羽田空港と続きます。
 北京空港は北京の中央部から北東25㎞のところにあり、地下鉄で市内と結ばれています。

 


 

 全員がそろい、北京オリンピックスタジアムに向かいます。北京は何時も大渋滞で、どこへ行くにも1時間を見ておく必要があるとの事でした。
 なお、ガイドさんは約40歳で、子供の時、テレビで「おしん」を見て日本にあこがれ、日本語の大学に進んだそうです。
 「おしん」は1983年4月から1年間、日本で放送され、その翌年中国でも放送されました。この「おしん」の視聴率は非常に高く、この時間になるとかなりの人がテレビにかじりついたそうです。
 当時、中国は非常に貧しく、日本軍に攻められ痛められた歴史を持っていますが、過去は過去として、我々も日本を見習い、頑張ってゆこうと誓ったそうです。
 ガイドさんが大学で日本語を学ぶといったとき、両親と祖父母は大反対したそうですが説得して許してもらったのだそうです。
 いつもにこやかで非常に明るい感じを与えるガイドさんでした。



北京国家体育場(北京オリンピックスタジアム、別名、鳥の巣)

 2008年8月の北京オリンピックの為に作られた鳥の巣といわれるスタジアムで、開催2か月前の6月に開場しています。
 スモッグもすごいのですが、北京の降水量は10月から3月ごろまで冬場になると極端に少なくなり草花も土ぼこりに覆われるようです。
 冬季の暖房には石炭が使用され、それがスモッグの原因の一つの様で、来月の APEC の期間は石炭の暖房は禁止されるとのことです。


 


北京雑技団

 希望者のみのオプションですが、約半数が参加したようです。ひとり 3,900円でした。一番奥の安い席でしたが入場料金表を見ると個人で行くよりも安くなっていました。
 写真は禁止でしたので、下の写真は開催前とショーが終了した後に撮ったものです。
 感激したのは鳥かご状の円球内でのオートバイ乗りです。
 1台、2台、3台と増えて行き、最後は8台のオートバイが狭い籠の中で走り回った時には歓声が上がりました。以前、上海で見たときは、せいぜい6台ぐらいだっとような気がします。
 今、一人っ子政策もあり、都市部で雑技団に入る人はいないそうですが、貧しい田舎では、お金を稼ぐため子供を雑技団で働けるように育てる親がいるそうです。
 とにかく体を柔らかくする必要があり、4歳ぐらいから鍛錬を始めないと団員には成れないうえに、団員に成っても競争は極めて厳しく、舞台に上がれる回数で給金が決まるのだそうです。



ホテル

 ホテルは斯博瑞飯店(Spring Hotel) で四つ星でした。

ホテルの飲料水

 このホテルには、そのまま飲める飲料用の細い蛇口が付いていました。心配ならポットもあるのでそれで沸騰させれば安心です。
 日本では飲料水でお風呂に入ると聞いて驚いた中国人がいるそうです。




2日目 万里の長城と頤和園の観光

 今日もスモッグがひどいようです。
 朝食はバイキングでした。ごく普通の料理でした。



居民身份証

 ガイドさんが手にしているのは「居民身份証」で、18ケタの番号が付けられ、すべての中国人はその番号で管理されているそうです。
 何かにつけて使用する頻度が高いので、多くの人は18ケタの番号を覚えているそうです。
 中国では1979年から一人っ子政策が始まり、今年でその制度が終了します。ただし、一人っ子でなく兄弟姉妹がいる人は今までとおりで子供は一人しか産めないのだそうです。
 なお、双子が生まれた場合は、許されるようです。
 一人っ子政策により、現在の中国の人口は13億人ですが、もし実施していなかったら16億人になっていたはずで、今の北京の混雑ぶりを見れば、一人っ子政策は必要であったことが理解できるでしょうとガイドさんは言っていました。
 秘密裏に子供を産み育てた場合は、この身分証を持てないので、かなり不利な人生を送ることになるようです。
 もしどうしても二人必要なら日本円にして数百万円の税金を納める必要があり、3人目なら1億円を超えるそうです。
 住む場所で、その税金は違うようですが、自動車1台程度の税金なので、今は税金を払っても生みたい人が増え、また、地域も税収を上げるために歓迎しているようです。
 なお、中国にはたくさんの少数民族がいますが、この制度は漢民族同士の夫婦にのみ適応されていました。
 また、中国には、都市戸籍と農民戸籍があり、現在、農民戸籍は約2億人いるそうです。その、いわゆる農民工は、医療、住宅、教育、年金など多くの差別があり、問題になっているようです。



北京中華民族博物館
 
 オリンピックスタジアムの近くに位置しています。この近辺には、民や清の時代の古い建物がたくさんあるのだそうですが、オリンピックスタジアムの建設の為、約半分の面積にされてしまいました。
 中国は世界でも有数の多民族国家ですが、現在、中国政府が認定している民族の数は56になっています。
 この博物館の見学はなく、早々と隣接する宝石店に連れて行かれました。
 なお、ここにバスが停まった理由は、我々を宝石店に連れて行くためでした。
 それは、もともと、スケジュール表に書かれていていました。
 ただし、北京で宝石を買おうと思っている人はいないようで、皆さん、全く興味がなく、早々と椅子に座り、出されたお茶を飲んでいました。
 このようなお店のトイレは一般にきれいなので、その点は助かります。



万里の長城(世界遺産) 八達嶺

 高速道路に乗り、万里の長城に向かいましたが、すごい渋滞です。どうも、スモッグがあまりにもひどいので、通行止めになっている区間があるのだそうです。
 この高速道路は、中国で一番長く、なんと、チベットまで続いています。
 幸い、通行止めになっているのは万里の長城、八達嶺の先のようです。でも、北京からこれほど離れていてもスモッグがひどいのには驚きました。


 

 万里の長城は2000年の歳月をかけて築いた世界最大の建築物で、宇宙からも見える世界遺産です。
 長城の原点を築いたのは秦の始皇帝(前259~前210)で、紀元前3世紀の頃でした。現在も内モンゴル自治区の草原の中に残っています。当時は単に国境を示す目的で、単に石を組み上げたものでした。
 しかし、その後、各皇帝は長城を補強して行き、現在の本格的な城壁が作られたのは14世紀以降、明の時代でした。この八達嶺の城壁も明の時代に作られています。
 長城の目的は北方の遊牧騎馬民族の侵入を防ぐものでした。
 敵を見張る敵台は200mおきに作られ、敵の攻撃を想定して様々な対策がなされています。
 総延長は6万kmにもおよび、巨大国家中国の象徴ともなっています。
 八達嶺は北京の北60㎞と比較的北京から近いところにあります。



中国の歴史と万里の長城

 ここで少し、中国の歴史を万里の長城との関係を含め書いてみました。主にBBCが制作した北京1000年の歴史などを参考にしています。
 最初に長城を築いたのは、秦の始皇帝(前221年~前206年)でした。始皇帝はお互いに戦っていた7つの国を束ね、初めて中国の統一に成功したのです。
 しかし、それも長続きせず、すぐに崩壊してしまいます。その後、約1000年間もの長い間、戦国時代が続き中国が統一されることはありませんでした。私たちが良く知る三国時代や晋、隋、唐、などがこの時代に当たります。すなわち、中国には幾つもの国と皇帝が勢力争いをしていました。
 それらの中で勢力の強かったのは北方のモンゴル系遊牧民族の契丹族(きったんぞく)の遼王朝(916年~1125年)でした。遼王朝は万里の長城よりも北にありましたが、西暦936年、彼らの助けにより皇帝になった後晋(こうしん)帝からその見返りに北京やその周辺の土地を贈られたのです。
 1000年もの間、万里の長城に遮られ中国に進出できなかった北方民族にとってそらは願ってもない贈り物でした。契丹族は北京を都とし、中国制覇の野望を立てましたがまもなくして万里の長城を越えてやってきた北方の遊牧民族、女真族(じょしんぞく)に北京を奪われてしまいました。

 契丹族から北京を奪った女真族は金王朝(1115年~1234年)をうち立て北京に新しい都、中都を作りました。金王朝は勢力をどんどんと広げ、それまで中国に大きな勢力を築いていた宋王朝(960年~1279年)を南に追いやりました。宋王朝は漢民族の王朝で、1127年、より南の上海に近い杭州に都を移しました。これにより中国は金王朝と宋王朝の二つにほぼ二分されたのです。
 しかし、金王朝による北京支配もほどなく終焉を迎えます。
 13世紀になると北方にさらに強い民族、すなわち、モンゴル民族が頭角を現していました。
 1211年、彼らは北京に狙いを定めて、故郷の大平原を離れ、女真族の都、北京に定め攻め入ったのです。モンゴル民族を率いたのはチンギス・ハン(在位1206年~1227年)でした。彼らは9ヶ月もの長きにわたり北京を包囲し攻撃を繰り返しました。
 彼による凄まじいまでの攻撃により北京は完ぺきにまで崩壊されてしまいました。金王朝の兵士はことごとく捕えられ殺されました。捕虜になるのを恐れた6万人もの女性は自殺し、北京の都は死体で埋まったと言われたそうです。チンギス・ハンは自分の力を誇示するように、北京のすべてを焼き払ってしまいました。一度は中国の半分を支配した金王朝は跡形もなく姿を消したのです。
 チンギス・ハンの領土拡大の戦略は、モンゴル帝国に従えば許し、従わなければ皆殺しというものでした。

 チンギス・ハンはさらに領土拡大を目指し、北京を放置したまま、西方へ遠征し、ロシアや中東にまで勢力を拡大し、世界の5分の1を支配るうまでになったのです。モンゴル軍の残忍な攻撃方法を噂を聞いていた人たちは、降伏するよりなかったのです。
 それほどまでに広大な土地を征服したチンギス・ハンは、死ぬまで生活様式を変えることはありませんでした。すなわち、昼間は馬に乗り草原を駆け巡り夜はテントで眠りました。
 チンギス・ハンが北京を攻略したと同じ年に生まれた孫のフビライ・ハン(在位1260年~1294年)は、祖父が攻め落とした中都の跡地に新しい都を築くことを思いつきました。
 1259年、中国を遠征中のフビライのもとにフビライの兄モンケ(モンゴル帝国第4皇帝)が亡くなったという知らせを受け取ります。また、フビライの弟は自分こそが皇帝だと宣言します。怒ったフビライは自分こそが皇帝だと宣言し、弟との残忍な後継者争いを起こし、その争いは5年間も続きました。
 最終的にはフビライが勝利し弟は捕えられましたがフビライは弟を許しました。彼はモンゴル帝国を再統一し中国の統一を最重要と考えたのです。
 彼は後にモンゴル帝国第5代皇帝に就任し、また、北京に元王朝をうち立てて元王朝の初代皇帝となります。
 1271年、広大な領地を支配していた第5代モンゴル皇帝フビライは念願の中国に元王朝(1271年~1368年)を作り、皇帝となりました。そして彼には彼にふさわしい都が必要でした。
 フビライはすでにモンゴル高原南部に上都(じょうと)を築いていましたが、上都は北京から275㎞も離れた北にあり、また、征服した宋王朝の首都は杭州にありモンゴル民族にとっては遠すぎました。いざという時モンゴルに逃げ帰る必要もありました。
 その結果、浮かび上がったのは金王朝の都であった北京でした。そしてこれから作る都は世界一の帝国にふさわしい都にする必要がありました。
 しかし、征服した中国を治めるには、モンゴル民族だけでは不可能でした。人口の1%にもならないモンゴル民族では単純に数からいって少なすぎたのです。そのためフビライは政権をペルシャ人やトルコ人などイスラム教徒で構成しました。また王朝の名前を元と名付け、中国人の恐怖心を和らげました。また、中国人からも役人を採用するようにしました。
 素晴らしい都を作り上げるためフビライは建築技術などを持った技術者をモンゴル帝国の広範囲から集めました。
 元王朝の都はまず、完ぺきな正方形にし、格調高い都にするよう構想を練りました。そして、破壊された金王朝のすぐそばの東北部に建築しました。
 この都の建設には7年門という長い歳月が掛かりました。華麗な大都市の計画を聞きつけた人たちは帝国中から移住してきました。この都市はいろいろな名前で呼ばれましたが、中国人たちは偉大な都を意味する大都と呼びました。
 1274年に建設を終えた時、大都の人口は50万人にも膨らんでいました。その数は当時ヨーロッパ最大の都市であったパリの2倍以上で、ロンドンの6倍にも達していました。
 ベネチアから訪れたマルコポーロ(1254年~1324年)は東方見聞録で、この大都市の素晴らしさを伝え、また、フビライにも会ったと伝えています。その都は左右対称に作られ大通りには9頭の馬車が並んで走れるとも述べています。その都の一辺は10kmもあると伝えています。ただし現在はすべてが破壊されてしまい、当時の様子を見ることは出来ません。
 人口が急激に膨らんだ都で最初に問題になったのは水不足でした。一般に世界の大都市は水辺に作られていますが、北京は内陸で水源が無かったのです。そのため、幾つもの小さい水路から流れてきた水を貯める貯水システムが考え出されました。これが頤和園の昆明湖でした。
 もう一つは食料問題でした。各方面から穀物を集め、また、税を納めさせる必要がありました。そのため、杭州から北京にまで通ずる全長2000㎞ともいわれる大運河を作り上げました。なお、杭州は上海の西南約100㎞の所にある宋王朝の都でした。
 我々日本人にとって、1274年と1281年の2度にわたる蒙古襲来は元寇とも呼ばれよく知られていますが、その時、日本は鎌倉時代でした。  

 フビライが死ぬと元王朝には後継者争いが起こり、急速に衰えてゆきました。そして、モンゴル民族の支配に不満を持つ農民たちが各地で反乱を起こしたのです。
 モンゴル民族は中国の支配に見切りをつけて北へ逃げてゆきました。それはまた、北京の繁栄の終わりでもありました。
 新しい明王朝(1368年~1644年)は漢民族の王朝であり、都を南京に移し、北京は再び辺境の地になったのでした。
 明王朝が作られた時、北方でモンゴル軍の警備に当たっていたのは初代皇帝、洪武帝の子供、朱棣(しゅてい)でした。
 洪武帝が死ぬとその甥が南京で皇帝を宣言します。しかし、朱棣は甥に対し兵を挙げ、内乱が勃発し、それは4年間も続きました。
 最後に南京で皇帝の地位に就いたのは朱棣でした。1399年、明王朝第3皇帝、永楽帝の誕生でした。
 しかし、北京を拠点にしていた永楽帝にとって南京は遠く離れた不安な地でもありました。また、北京を疎かにすると、また、モンゴル民族の侵入を許すことにもなりかねませんでした。
 1406年、永楽帝は北京への遷都を決断します。しかし、多くの大臣たちはそれに反対します。北京の冬は厳しく、南京の役人にとって北京は住みにくい場所でした。
 永楽帝は反対するものを容赦なく切り捨て、北京遷都を決行しました。ただし、その都には、大臣たちが優雅に暮らせる大宮殿、紫禁城を建てることにしたのでした。
 また、永楽帝は、万里の長城の建設、修復を徹底的に行いました。そして、その長さは6000kmにも達しました。今ある多くの万里の長城はこの時代にに作られています。永楽帝はまた、宗教的行事を行うため、天壇も造っています。
 永楽帝は父とともに戦い、モンゴル民族を押い出しましたが、モンゴル民族の逆襲を非常に恐れていました。
 永楽帝は紫禁城を完成させた後も、ロシアやベトナムなどと様々な土地をめぐり、戦いに明け暮れる生活を続けていました。しかしついに1424年のモンゴル遠征を最後にこの世を去ったのです。
 永楽帝が亡くなってから220年経ったころ、北京は再び攻撃にさらされていました。それはモンゴル民族ではなく中国の農民たちでした。永楽帝の後の皇帝たちは、政治に関心を持たず、衰退の一途をたどっていましたが、それに自然災害が追い打ちをかけ、農民たちの爆発を招いたのでした。
 1644年春、武器を持った農民に追いつめられた明の軍隊は逃げ去り、残された明の最後の第17代皇帝、崇禎帝(すうていてい、在位1628年~1644年)は、自ら紫禁城の後ろの景山に登り命を閉じました。部下が誰も助けようとしなかった孤独の中の死でした。
 農民たちはその死骸を粗末に扱い、葬儀もしませんでした。このような北京の混乱を見ていたのは万里の長城の北の満州民族の清王朝でした。
 明王朝最後の皇帝の死からわずか6週間後、紫禁城にいたのは農民達の反乱軍ではなく、清王朝のドルゴンが率いる満州民族でした。
 清王朝は、不幸な死を遂げた明王朝、崇禎帝の葬儀を盛大に行いました。それは、征服した満州民族への恐怖心を和らげるためでした。
 清王朝の第3皇帝順治帝(在位1643年~1661年)は、国土の拡大に努め、台湾を除く中国全土を征服しました。
 そのあとの皇帝も領土の拡大を行い、台湾とシベリアも征服し、チベットを支配下に置きました。そして、順治帝のひ孫、乾隆帝(けんりゅうてい、在位1711年~1799年)の時代には、午後に見学する頤和園の所で詳しく書きますが、世界の富の4分の1が集まったと言われています。
 しかし、乾隆帝の時代が終わろうとしていたころ、清王朝は急激に崩壊に向かっていました。それは、諸外国からの侵入で、とりわけ、イギリスの侵入によるものでした。



 ここもスモッグがひどいのですが、今が観光には最適な時期で、冬になると黄砂でさらに悪くなるようです。
 宝石店で約1時間消費したので、ここでの観光時間は約1時間半でした。
 でも、長城には登らず、ビールを飲んでいた人たちもいたようです。何度も来ているのでしょうか。



 集合まで、約1時間10分あるので、ここから見える一番高いところまで歩くことにしました。登りは約30分弱でした。



 一応、目的地点に到着です。多くの人はここで引き返しますが、なにぶん、長城ですから切りがありません。
 前回来た時も、ここで引き返しています。



 午後は頤和園の観光で、途中、北京近くで昼食でした。

 昼食は毎日、中華料理でした。味も普通で、量も大体残すほどありました。
 なにぶん、1万5千円のツアーですから、誰も文句は言えません。



頤和園(世界遺産)

 頤和園は中国三大悪女の一人、西太后がこよなく愛した離宮であり、清時代の歴史を色濃く持った庭園です。
 この庭園には、アヘン戦争から、日清戦争、日露戦争、8か国連合軍の頤和園占拠、辛亥革命、満州事変と満州国誕生、ラストエンペラーといわれる溥儀など、多くの歴史にかかわってきました。
 中国の歴史を知る絶好の場所でもあります。
 頤和園は72ヘクタール、東京ドーム57個分もあり、宮殿、楼閣、寺、回廊、石橋など100を超える建造物からなり、観光には1日以上かかりますが、わずか1時間の見学時間では、そのほんの一部を見たに過ぎません。
 その上、地方から来た人たちで、ものすごく混雑しており、どこをどう見学したかも思い出せないほどでした。

 西太后(1835-1908)は中国の北の地方で生まれました。
 皇族ではなく17歳の時、紫禁城で行われた「選秀女」の面接試験に合格、18歳で清朝第9代皇帝、咸豊帝(かんぽうてい) (1831-1861)の側室になりました。21歳でもうけた子供がのちに清朝第10代皇帝、同治亭(どうちてい)(1856-1875)となり、皇帝の母親、皇太后として大きな権力を振いました。
 当時、西太后は船に乗り、水路をとおって紫禁城から頤和園に来ていました。船の方が陸を通るよりはるかに早く移動できたのです。
 北方で生まれた西太后は、北京の夏が苦手で、この頤和園で過ごすのが多かったのです。



文昌院と文昌閣

 入り口近くにあり、文昌閣は博物館になっています。内部の見学はありませんでした。



 中国各地からの観光客で大変混雑していました。

 昆明湖の向こうに仏香閣が見えます。
 この昆明湖は頤和園全体の4分の3を占めています。
 この地に庭園を開いたのは清朝第六代皇帝、乾隆帝(けんりゅうてい)(1711-1799) でした。その後、列強各国によって破壊されたものを西太后が修復しています。
 乾隆帝は湿地帯であるこの地に1000人もの人を集め、湖底の泥を掘り出し後ろに山を作りました。湖は徹底的に清掃され、その広さは2倍に拡張されました。
 山からの用水路も整備され、水路は北京市内につながっていて、堰も造られ、ダムの働きもしていました。
 乾隆帝の時代、清朝は全盛期を迎えており、当時、世界の富の4分の1が中国に集まっていたと言われています。
 この造園が公共工事の性格を持ち、当時の経済を少なからず活性化させたそうです。
 水路の両側には商店街が築かれ宦官や女官で賑わっていました。
 なお、宦官は睾丸を摘出されているため男性ホルモンが作られず、髭が生えないためすぐに分かったそうです。
 宦官は子孫を作れないので、たくさんの財産を築いても一代限りで、もめ事がなく、皇帝一家にとって便利な存在でしたし、当時、これと言って出世の手段がなかった男性にとって、皇帝に使える手段でもあり、宦官になりたいという希望者は多かったようです。
 当時の中国からたくさんの文化が日本に持ち込まれましたが、日本が受け入れなかった文化の一つは宦官制度だったそうです。



 清朝が太平の世を享受していたころ、イギリスでは科学技術が発達し、産業革命が起こりました。
 当時、イギリスは中国からたくさんの紅茶を輸入していました。その代金の支払いは当時通貨として使用されていた銀でしたが、銀の手持ちが少なくなると、思いついたのは、植民地だったインドでアヘンを作りそれを中国に輸出し、代金を回収することでした。
 アヘンの危険性をあまり知らなかった中国人は、だんだんとアヘンに溺れ、大量に輸入するようになります。その結果、中国では銀が枯渇して行きました。危険を察知した清朝は何度もアヘン輸入禁止令を出しますが効果がなかなか現れません。ついに、清朝はイギリス人からアヘンを没収するなどの対抗策を行いました。
 怒ったイギリスは1840年、軍艦16隻、輸送船27隻、陸軍兵士4000名を送り、北京に近い天津に攻め寄りました。科学技術で発展していたイギリスの優位は圧倒的でした。
 1842年、清朝の8代皇帝、道皇帝(1782-1850)は負けを認め南京条約を結び、多額の賠償金と香港の割譲を承認します。
 以来、中国の弱腰外交を目にした列強各国は、続々と中国に侵攻してゆくことになりました。
 広州に進出したイギリスに対し、1842年、大規模な広州英国商館焼き討ち事件が発生し、以降、数々の英国人迫害事件が起こりました。
 1856年、ついにアロー号事件が発生し、1857年、イギリスは遠征軍を派遣し、第二次アヘン戦争が勃発しました。
 フランスのナポレオン三世もそれに加担し、連合軍を結成し、1860年、大艦隊と約1万7千人の兵隊を送り、北京を制圧しました。
 この時、紫禁城や頤和園の多くの宝物が略奪の対象になりました。
 その後、26年間、頤和園は放置されたままになっていました。修復するお金がなかったのです。
 この頤和園をこよなく愛し、修復したのは後に中国三大悪女の一人と言われる西太后でした。
 西太后は、第9代皇帝、咸豊帝の側室になり、21歳でもうけた子供がのちに清朝第10代皇帝、同治亭と成りました。しかし19歳の若さで早世してしまいます。亡くなった同治亭は独身で子供がいなかったため、西太后は自分の妹の子供を第11代皇帝、光緒帝(こうしょてい)(1871-1908)として擁立します。まだ、6歳でした。西太后は光緒帝の父親を海軍の総責任者に任命します。
 父親は息子が西太后に嫌われるのを恐れ、海軍の費用を使って頤和園の修復をすることを認めてしまいます。そのため、海軍は戦費不足と成り、軍艦を購入できなくなっていました。頤和園の修復工事費用は12隻の軍艦に相当したそうです。
 この間、日本は清国にいろいろと圧力をかけ、琉球王国が日本に帰属することを認めさせています。
 頤和園の修復がようやく終わろうとしていたころ、すでに、清朝は国力を失い、1894年には朝鮮半島を巡り日清戦争が起こり、それに敗北してしまいます。日本は1000万kgもの銀を要求しますが、その結果、当時、日本が支配を強めていた朝鮮国を完全なる独立国と認めさせ、遼東半島や台湾などを日本に割与し、沙市、重慶、蘇州、杭州などを日本に解放させて講和条約を結びました。若い光緒帝にはどうすることもできませんでした。
 この事実を嘆き悲しんだ光緒帝は、1898年、清朝の大改革を実行します。光緒帝は半世紀にわたり西太后に使えていた大臣たちを政権から追放します。それにより、光緒帝はようやく自由に政治を行えるようになりました。
 光緒帝は、国会を開き憲法を制定して、立憲君主制を確立しようとしていました。また、学校教育に西洋の科学技術などを取り入れ、近代化を目指そうとしました。その上、西太后を監視し、幽閉してしまおうと計画します。しかし、西太后がそれを知るとクーデターを起こし、光緒帝を紫禁城の一部に監禁してしまいます。もし、光緒帝が実権を握っていたら中国はより早く近代国家になっていたと思われます。
  清朝内部での内紛が続いている間に、列強各国、すなわち、イギリス、ロシア帝国、大日本帝国、フランス、アメリカ合衆国、ドイツ帝国、イタリア王国、オーストリア=ハンガリー帝国の8か国は中国の色々なところに進出し自国の勢力を強めていきます。それに対し、中国内部ではたくさんの義和団が結成され、各所で争いが発生します。いわゆる義和団の乱です。
 西太后はこの義和団を支持し、1900年、列強各国に無謀な宣戦布告を行いました。西太后は義和団が厄介な外国人を追い出してくれると思ったのです。しかし、2か月も経たないうちに連合軍は紫禁城を制圧し、清朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされました。
 8ヶ国連合軍の総数は約2万人でしたが、最も多くの派兵を行ったのは日本とロシアでした。
 義和団の総数は、連合軍よりも圧倒的に多かったのですが、装備に関しては歴然とした差があったのです。
 連合軍はその後1年間、紫禁城にとどまり、その間、紫禁城や頤和園の宝物は各国によって略奪され国外に持ち出されてしまいました。
 西太后は光緒帝を伴い、庶民に扮して脱出し西方への逃げ延びました。
 清朝は戦争に負けると態度を180度転換し、義和団を反乱軍と認定し、多大な賠償金を支払い、列強各国と和議し、1901年、西太后は光緒帝を伴い紫禁城に戻りました。
 紫禁城に戻った西太后は、西欧諸国と積極的に外交を行い、友好を深めようと努力し、西洋の制度、立憲君主制を学ぶよう、政府要人を海外に派遣しています。
 なお、勝利した連合国軍内にも亀裂が生じつつありました。
 ロシアは満州を占領し、朝鮮の利権も主張するなど、日本とロシアの間に紛争の種が生じてきました。
 イギリスも中国内でロシアから利権を奪われかねらい状態になり、1902年、ロシアに対抗するため、日英同盟が結ばれています。
 1904年ごろ、日本の制度を学ぶため、日本への留学生は2万人を超えるようになっていました。
 この年、日露戦争が勃発していますが、中国は主戦場が満州であるにも関わらず、中立を宣言し、日本の満洲進出を妨害しませんでした。
 情勢不安の中、1908年10月21日、37歳の光緒帝が亡くなり、その翌日、後を追うように西太后は74才の生涯を閉じました。
 そして、その時、わずか2歳8か月であった愛新覚羅溥儀が清朝最後の皇帝となりました。
 多大な賠償金は結局のところ、庶民が負担するわけですが、庶民の不満は、徐々に列強各国への不満よりもむしろ清朝への不満と成り、辛亥革命へと続いてゆきます。
 西太后の死から3年後、1912年、辛亥革命により清王朝は幕を閉じ、紫禁城は王宮としての長い歴史を閉じ、中華民国が誕生しました。溥儀はわずか6歳にして皇帝の地位を失ったのです。
 そののち、日本とロシアは日露戦争に突入し、辛うじてその勝者となった日本は領土的野心をさらに募らせ、日中戦争へと進んで行きました。



 遠くに、スモッグで良く見えませんが十七孔橋が見えます。
 中国では最大の150mの石で造られた橋で、橋の下には船が通れるよう17個の大きな穴が作られています。
 中国独特の石作りの橋ですが、残念ながら今日はほとんど見えません。




長廊
 1750年に建てられましたが、1860年、英仏連合軍に焼き討ちされたてしまいました。1886年に再建されています。しかし、1900年、今度は8か国連合軍により、破壊され、たくさんの宝物が略奪されました。
 その後、西太后は多額の資金を投じ、頤和園の改修を行っています。そのお金は、海軍が予定していた軍事費から流用されたもので、それが清朝の軍事力を弱体化させ、日清戦争に負けた一因と言われています。
 全長は728mで、梁には8千もの人物、山水、花鳥など、様々の鮮やかな絵が描かれており、中国の古典的庭園の中で最も長い回廊です。この長廊は山に寄りかかり、水に面して、東西両方向に対称に広がり、万寿山の前にある建物と一つに連なっています。
 長廊の天井には、色々な絵が描かれていました。
 西太后は京劇が大好きで、その題材がたくさん絵に描かれています。

 とにかく、ものすごい混雑で、ゆっくり景色を楽しめません。
 長廊の説明が日本語で書かれていました。



青芝岫

青芝岫


 左のように、日本語でも解説されていました。


 俗称は「敗家石」。史料によると、明の官僚の米万鐘は、北京の房山でこのつやのある青くて霊芝に似た巨石を見つけたが、米氏の勺園へ運ぶ途中、経済上の問題で、郊外に捨てざるを得なくなった。その後、乾隆皇帝が、巨大な資金を注ぎ込んでここに移し「青芝岫」と名付けられた。中国最大の庭園石といわれる。



東宮門

 我々はここから出ましたが、一般の観光客はこの東宮門から入るようです。
 日本人かどうかはマスクをつけているかどうかで分かります。
 毎日3~5万人程度の観光客が入るようです。

 中国三大悪女といわれる西太后ですが、軍事費を流用して頤和園にお金を使い、結果的には、国を荒廃させてしまいましたがどうも、生きる時代が違っていたのかも知れません。


 この風景を見ると、やはりここは中国という感じがします。
 中国での消費税はかなり複雑で、ここで商売をしている人が消費税を国に納めているとは思われませんが、自動車などには消費税がかなりかかるようです。



北京の夜景

 今夜のオプションツアーは中国京劇団鑑賞でしたが、私たちは申し込みませんでした。少し疲れていたのと、前回見たとき、あまり面白くなく、途中で出てきてしまった思い出があります。
 参加した人たちはわずか6名でしたが、エアフォンもなく、字幕も日本語はないのでほとんど理解できず、全く面白くなかったと言っていました。



ホテルのテレビ

 このホテルでは、見られるチャンネル数が35もありました。でも、すべて中国語でした。
 以前、中国に来た時は、日本のNHKやCNN, BBC などを見ることが出来ましたが、日本が尖閣諸島を国有化して以来、海外の番組は放映しなくなってしまったそうです。
 ただし、五つ星ホテルで、ある限定された階のみ、海外の放送を見る事が出来るとのことでした。
 日本人はともかく、欧米からの人たちもそれらの放送を見ることが出来ないのですからかなり不便でしょう。
 今まで、数々の国を訪問していますが、このように厳しい制限は初めてでした。
 試しにテレビを見てみると、内容はすべて中国語でしたが、よく言われているように、日本人を悪者にした戦争ドラマが放映されていました。
 最近、このような映画がたくさん制作されているそうです。
 WiFiの接続はロビーなら可能で、無料との事でしたが、フロントに電話をしたところ、このようなアダプターを部屋まで持ってきてくれました。
 電話のモジュラージャックに接続すると、この機械から電波を出してくれます。
 機器代、通信代などすべて無料でした。
 中国では、検索サイトが常に政府により監視されていると聞いていたので、試しに グーグル検索を試みましたが、全く使用できませんでした。
 ただし、海外のヤフーサイトにはアクセスすることが出来ました。
 中国人のインターネットユーザー数は世界一ですが、国営テレビ以外見ることが出来ない人たちにとって、インターネットは必須の様です。
 スマホが爆発的に売れているのも理解できます。



3日目 天安門広場、故宮博物館、パンダ館、胡同、餃子館など

 今日もスモッグはだいぶひどいようです。



天安門広場

 まだ、朝早いのですが、まるで、夕方の様です。


 広場に入るには、飛行機に乗る時と同じように、手荷物や身体検査が必要です。ただし、我々、団体客には、全く検査がありませんでした。
 ガイドさんによると、日本人に対しては検査をしないのだと言っていました。
 周囲には色々な建物がありますが、スモッグで良く見えません。
 高い塔は、人民英雄記念碑で、警備員が隊列を組んで歩いているところが毛主席記念堂のようです。敷石は花崗岩で作られています。
 広場としては南北880m、東西500にわたる世界最大の広場でもあります。



国旗掲揚台

 国旗掲揚台の両側には、警備員が直立不動で立っています。
 国旗は日の出とともに上げられ、日没時に降ろされるそうです。



天安門

 いわゆる天安門で、この向うは故宮博物館です。
 この天安門と紫禁城は、まさに歴史を写す鏡のようです。
 第一次世界大戦が終わった約半年後の1919年5月4日、北京大学の学生たちが路上に繰り出し、終戦条約が中国にとって不利であると抗議を行っています。この運動は反日・反帝国主義運動でしたが、人々が政治や文化に目覚めた運動の初めでもあり、その日付にちなんで五四運動と呼ばれるようになりました。現在の中国共産党はこの運動をきっかけに誕生しました。
 1924年には、皇帝の地位を失ったとはいえ、物心ついたころから、外に出ることなくこの中で暮らしていた溥儀を、反帝国主義を旗印に軍人たちが紫禁城に攻め入り、溥儀を追放しました。
 1949年1月、溥儀が宮殿を去ってから25年後になりますが、共産党を掲げる人民解放軍が北京を制圧し入場してきました。そのリーダーは北京大学の図書館の秘書をしていた毛沢東でした。同年4月には、人民解放軍が国民政府の根拠地、南京も制圧しました。
 同年10月1日、毛沢東は天安門の壇上に立ち、中華人民共和国の建国を宣言しました。群衆はこの新しい指導者を盛大な喝采で迎えました。日本の敗戦から4年目のことでした。
 この年、蒋介石率いる国民党は、紫禁城の主な宝物を手に、船で台湾へ逃げ延びています。



北京市労働人民文化宮
 
 天安門の東側にあり、毛主席の命令により一般市民公開されています。沢山の人が体操をしていました。



 この一角の狭い道路を通ると、掛け軸店があり、書道の実演がありました。この書家は、愛新覚羅の末裔だそうです。
 愛新覚羅溥儀も書道が大変好きだったそうです。



紫禁城・故宮博物館(世界遺産)

 紫禁城の一辺は約1kmもあり、そこには900以上の建物があります。
 宮殿の建設には14年の歳月が掛かり、10万人の職人と100万人の労働者が関わりました。職人たちは帝国の至る所から集められました。宮殿の建設に必要な材料もまた帝国内から集められました。そして、1420年に完成しています。その後、明王朝は南京からこの北京に遷都しています。
 紫禁城には9999の部屋があると信じられているそうですが、実際にも8886もの部屋があります。
 明朝が1421年、南京から北京に都を移してから、およそ500年間、明と清の歴代の皇帝が住んだ紫禁城です。世界最大の宮殿でもあります。
 ラストエンペラー、愛新覚羅溥儀が生まれ育った宮殿でもあり、また、頤和園をこよなく愛した西太后の居城でもありました。
 紫禁城は、1860年の第二次アヘン戦争、1900年の8ヶ国連合軍により、2度ほど、外国人により支配されています。


A. 午門
B. 神武門
C. 西華門
D. 東華門
E. 角楼
F. 太和門
G. 太和殿
H. 武英殿
J. 文華殿
K. 南三所
L. 後三宮(乾清宫)
M. 御花園
N. 養心殿
O. 皇極殿



ラストエンペラー 愛新覚羅溥儀

 1908年、2歳8か月で皇帝となった愛新覚羅溥儀は、18歳になるまで、この城から出ることはありませんでした。
 1987年に製作された映画、「ラストエンペラー」は3時間40分もの大作ですが、当時の様子をありありと再現しています。
 西太后が中国北方の生まれであったように、清朝の実権は、北方から来た満州族が押さえていました。それに対し、孫文など、漢民族は清朝に反感を持ち、1905年、孫文は日本に来て、日本に留学していた多くの学生を取り込み、中国同盟会を組織し、清朝打倒の大衆運動を始めて行きます。
 中国内部でも、重税に苦しむ住民から、清朝打倒の武装蜂起が起こっていました。
 1911年10月,孫文の中国革命同盟会が湖北省で反乱を起こすと、16の省がつぎつぎと清朝からの独立を宣言し、各省の代表が南京に集まり,1912年、孫文を臨時大総統に選び、共和国、中華民国臨時政府を成立させましたた。いわゆる辛亥革命で、民主主義政治を目的としていました。
 それに対し、清朝は袁世凱(ユワンシーカイ)を討伐にむかわせました。かれは中華民国臨時政府と交渉し、溥儀を皇帝から退位させる代わりに、その後の政治を自分ですることに成功しました。
 革命軍も一枚岩ではなく、かつ、経済的にも弱く、孫文は袁世凱に民主政治を誓わせ、中華民国の大統領にしたのでしたが、後に完全に裏切られてしまいました。
 1912年に大統領となった袁世凱は、ふたたび独裁政治を行い、敵対するものには制裁を行い、孫文はやむを得ず亡命することになります。
 なお、愛新覚羅溥儀は、皇帝の位をはく奪されましたが、相変わらず、紫禁城にとどまり、また、紫禁城や頤和園の名義上の所有者でもありました。
 袁世凱は1915年、皇帝復活を宣言し大統領から皇帝に即位しましたが日本や各方面からの反対により退位し、1916年、失意のうちに56歳で病死ししています。その後、中華民国はさらに混乱の時代に入ります。
 その後も溥儀は紫禁城にとどまり、スコットランド人のジョンストンを家庭教師として迎え、英語と共に、ヨーロッパの政治形態なども学んでゆきます。
 1922年、婉容を妻に迎え、混とんとした情勢の中でも、妻やジョンストン、宦官らに囲まれ平穏な暮らしをしていました。
 溥儀は1923年、関東大震災に際しては、紫禁城内のたくさんの宝石を日本に送り、復興に多大の支援を行っています。
 1924年に、溥儀は紫禁城の経費削減を目的に約1,200名もいた宦官を一斉解雇し、女官も解雇するなどを行い、民衆から好評を得ています。
 しかし、同年、北京で軍閥によるクーデターが発生し、溥儀は紫禁城を追放されてしまいます。着の身着のままで脱出した溥儀に対し、家庭教師であったジョンストンは溥儀の受け入れ先を各国の大使館にお願いします。イギリスやオランダは断りましたが、大震災で恩義を受けた日本政府は即座に溥儀一行を北京の日本大使館に受け入れ、翌年には天津市の日本租界地に送り庇護しています。
 中国国内では、その後も不安定な情勢が続き、1927年蒋介石率いる中国国民党と中国共産党との内戦が勃発します。
 この内戦は、諸外国の租界地がある天津を避けたため、溥儀は天津でひっそりと過ごしていました。
 そのような中、1931年に満州事変が突発します。その後、関東軍は暴走し、わずか5か月で満州一帯を支配下にしてしまいました。なお、満州のこの地は関東州と呼ばれており、そこを占領していた日本軍を関東軍と呼んでいました。
 当時、中国には、アメリカやイギリス、フランスなど、多くの利権を持つ国々が租界地を持っており、関東軍はそれらの国々や国際社会からの批判をやわらげるため、満州族出身の溥儀を元首にした君主制国家の建国を画策します。
 1932年、満州国建国宣言が行われ、溥儀はその執政となりますが、1934年には満州国皇帝に即位しています。
 二つの帝国で二回皇帝になったのは世界史上溥儀のみでした。
 しかし、皇帝とはいえ、完全なる関東軍の傀儡皇帝で、関東軍の意向に逆らうことは出来ませんでした。
 その不満を少しでも和らげるため、日満友好促進を狙い、1935年、昭和天皇の招待により国賓として、日本に招待しています。
 1937年、盧溝橋事件を契機として日本軍と中華国民軍との間で日中戦争が勃発しました。それにより、中華民国内において内戦状態であった国民党と共産党は、日本軍に対抗するための抗日民族統一戦軍を構築しました。
 1941年、日本が太平洋戦争に突入すると満州国も日本に合わせて宣戦布告します。
 しかし、満州国内においては、それほどひどい戦闘は起こらず、日本からは食糧増産の為、155万人もの人たちが満州へ移住しました。
 1945年8月15日、日本は降伏しますが、現地の軍人は真っ先に逃げ、多くの日本人は、ソ連の捕虜となり、シベリアやモンゴルへ送られ、多くの中国残留孤児も発生しました。
 満州国皇帝であった溥儀は8月18日、満州国の消滅を自ら宣言するとともに、皇帝を退位しています。
 溥儀は満州軍の輸送機で日本に向けて飛び立ちますが、途中の奉天でソ連赤軍の空挺部隊に捕らえられ、ソ連極東部のハバロスク強制収容所に収監されてしまいました。
 1946年、東京裁判に溥儀は証人として連合国側から指名され、ソ連の監視下の下で東京に護送され、ソ連の有利な証言を行い、自分は無罪であることを、必死になって証言しています。
 1950年、溥儀は中華人民共和国へ身柄を移され、撫順の政治犯収容所で「再教育」を受けることになりました。この収容所には1000人を超える日本軍人の捕虜も収監されていました。
 この収容所は、かって日本の関東軍が、関東軍に従わなかった中国人を収容していた場所でもありました。
 それから9年後の1959年、劉少奇国家主席の特赦令により、溥儀は一般市民となり、北京植物園の庭師として勤務を行い、その後は文史資料研究を行っています。
 その後、周恩来のはからいで満州族と漢民族の調和を目指すよう、満州族の代表として中国人民政治協商会議全国委員に選出されています。
 
 1967年、文化大革命が吹き荒れる中、がんを患い、また、紅衛兵に追われ、病院を転々としながら亡くなりました。満61歳でした。 



午門

 紫禁城への入口ですが、門が3つあり、中央が皇帝専用、両側が貴族や官僚用でした。

 紫禁城建築の大きな特徴の一つに寄棟造の屋根にあります。
 雨水が四方に流れ落ちるように傾斜を付けた屋根の造りは古く新石器時代に始まりました。紫禁城には中国古来の技術が生かされています。
 中国の明清時代の建物(宮殿や寺院)の屋根には、屋根の四隅に「走獣」という魔除けの飾りがついています。この数で、建物の格が決まるのだそうです。
 この午門の走獣は7匹見えますが、大和殿には、一人の仙人と走獣が9匹いました。
 紫禁城は当時の最高の技術を駆使して作られました。
 人夫100万人が動員され、用いられた石材は重さ6トンを超える巨大な石が1万個、レンガは8000万個にのぼりました。
 紫禁城は14年の歳月をかけてつくられたのです。



入場

 我々が列を作っていると、そこに割り込んできたグループがありました。
 どうも、地方からやってきたグループの様です。
 ガイドさんが、マナーを守るように注意したところ、言葉が全く通じないのだそうです。同じ漢民族でも、地方によって発音が全く異なるようです。
 以前、上海人と北京人では言葉が通じないと聞いたことがありますが、その上、56もの民族が住んでいるのですから、中国全体をまとめるのには、相当な努力が必要なようです。
 今回の旅で、いわゆる「中国人」という言葉は意味がないことを認識しました。



太和門

 午門をくぐると、大きな広場があり、その先に大和門があります。

 午門と大和門との間には小川が流れていて、その川は金水河と呼ばれており、5つの橋がかかっています。小さな橋なので注意していないと見落としてしまいます。
 城内に川を配するのは、古の王朝、「周」以来の習わしだそうです。この川は天の川を表しています。紫禁城内には常に豊富な水が確保されていました。
 太和門は外朝の正門です。外朝とは皇帝が公式な儀礼をおこなう場所です。
 門の中央には皇帝専用に道、御路があります。
 この写真からは遠くてよくわかりませんが、御路には皇帝の象徴である竜が刻まれています。



太和殿

 太和門を抜けると、紫禁城内で最も大きな建物、太和殿が見えます。高さ35m、中国に現存する最大の木造建築です。
 紫禁城は、外朝と内廷に分かれており、太和殿は外朝の正殿です。
 外朝とは対外的な政治の場で、そこにある太和殿では皇帝の即位式などが行われ、また、明と清の24名の皇帝が座った玉座があります。
 式典の日、官僚たちは日の出前から午門の外で整列して待避し、太鼓の合図でこの広場に入りました。
 3万平方mを超える広大な広場に文武百官、馬百頭、その他およそ1000人が整列し、皇帝に謁見しました。あまりに広すぎて皇帝の姿さえ見ることが出来なかったと言われています。


 西太后は、第9代皇帝、咸豊帝の側室になり、21歳でもうけた子供がのちに清朝第10代皇帝、同治亭と成りました。しかし19歳の若さで早世してしまいます。
 同治亭は子供がいなかったため、西太后は妹の子供を第11代皇帝、光緒帝(こうしょてい)(1871-1908)として擁立します。まだ、6歳でした。
 王座の後ろに垂れ幕をたらし、その後ろに西太后が座り、西太后の言うなりに、光緒帝は命令を出したそうです。


 
 中を見ようとしたらものすごい混雑です。前の人は動こうとしないので、後ろに立っていても前に進めません。
 中の写真を撮るのをあきらめました。
 以前、上海で電車の切符を買った時も、このような大混雑でした。後ろの人の為に、列を作る概念がないようです。
 そうはいっても、この中には玉座をはじめ、きらびやかに装飾された天井や柱があるとのこと、次回来たときは粘っても見る価値がありそうです。
 西太后が清朝の政治を動かしていましたが、人民を苦しめる重税などから、民衆の間で武装蜂起などが起こり、清朝、最後の時が迫っていました。
 1909年、西太后が亡くなり、その死から3年後、清王朝は幕を閉じ、紫禁城は王宮としての長い歴史を閉じました。
 太和殿を支える石の基壇には龍の子と言われる螭(みずち)の彫刻が施されています。螭の口には細い管が通っていて、城内にたまった雨水がそこから流れ出るようになっており、排水溝の役割を果たしているそうです。

  

 広場には幾層ものレンガが敷き詰められています。近年の調査によると、その厚さは5mにも達するそうです。
 紫禁城は強固な基盤の上に作られているのです。



宝物館

 蒋介石が、主だった宝物を台湾にもっていってしまったので、残っているのは僅かだそうですが、確かに、台湾の故宮博物館に比べ、かなり少なくなっています。



 紫禁城はあまりにも広く、いま、どこを歩いているのか、何度も来ないと理解できません。



儲秀宮

 西太后が暮らしていた場所として有名です。西太后50歳を祝い大金を投じて修築しています。
 皇帝には何人もの側室がおり、各々、自分の部屋を持っていましたが、側室となった西太后は紫禁城の西に住んでいたため、西太后と呼ばれるようになりました。一般的には東に住んでいた側室の方が位が高かったそうです。
 



紫禁城内の庭園

 紫禁城内の内廷には4つの庭園が造られています。
 中国ではこのような石の庭園が好きなようです。上海の豫園や蘇州の留園でも見たことがあります。



 非常に古い木だそうです。



神武門

 私たちはこの門から出ました。
 この門は皇后たちが外出する際や、清朝皇帝の妃を選ぶ試験「選秀女」のためにお妃候補が入城する際などに使われました。
 中央は皇帝・皇后専用で、妃や官吏は両脇の門を使いました。
 1924年、溥儀が故宮を去る時、この門から出ています。
 城を囲むお濠の幅は50mもあり、敵の侵入を防いでいました。なお、大阪城の外堀の広いところは100mを超えています。
 この堀を作るときに出た土や町の瓦礫はこの後ろの人口の丘、景山(けいざん)を作るのに利用されました。下の写真の右側に景山が見えます。現在の北京の高層ビルはこれよりも高いそうです。

 



漢方薬 同仁堂

 漢方薬と云えば中国ですが、そのお店に連れて行かれました。私は興味がないので診てもらいませんでしたが、血圧などを測って、なにやら売りつけていました。
 夜は屋台が並ぶそうです。



昼食

 このレストランでは、なぜか全員が日本人でした。向うにいる人たちはクラブツーリズムで来た人たちでした



北京動物園大熊猫館

 北京動物園は非常に広く、その一角にジャイアントバンダ館があります。
 中国には幾つかのパンダ館がありますが、この動物園にいるパンダの数が世界最大だそうです。見学はパンダ館のみでした。



Nipponia nippon

 日本の名前が付けられていましたが、日本のトキのようです。



 北京市内の風景です。高速道路がかなり整備されています。
 北京の道路の多くは、オートバイや自転車の走行が禁止されています。



胡同(フートン)

 胡同とは北京市の旧城内に点在する細い路地のことで、昔懐かしい建物が胡同の両側に立っています。2008年の北京オリンピックに伴う都市整備や再開発で、保存地区とされる一部を除き、改築や取り壊しが行われています。
 この街の原型はフビライが支配した元の時代に作られ、以来、街の様式が現在まで受け継がれています。
 道路の両側には高い塀が続き、路地から家を見ることは出来ません。この壁が家々を守っています。中庭を囲んで家々が作られています。家の窓や戸は中庭に向かって作られ、外につながる道路はただ一つしかありません。
 家にトイレがなく、路地に面して共同トイレが作られています。覗いてみると、男子トイレの大便所には仕切りがなく、当然、トイレットペーパーもありませんでした。大便器も日本の昔と同じでした。一般には尿瓶を使用するそうです。
 現在、東京都内にもこのような狭い路地で、消防車が入れないような街並みがたくさんありますが、それでも下水道は完備していますから、北京とはだいぶ違うようです。
 現在、三輪車に乗り胡同をめぐる観光が盛んになっています。



スーパーマーケット

 ごく一般的なスーパーマーケットの見学です。
 どうどうと居眠りしていた店員もいました。


 取り壊しが盛んになされていました。ただし、これから行く所は保存区で、取り壊しは無いそうです。



保存地区の見学

 以前、北京に来た時は、ホテルからちょっと出ると、ビル街を除いて至る所がこのような感じでした。今回見た家々はその時よりはもっと良くなっていました。



お宅内部拝見

 ベット、台所、神棚など、狭いところに作られていましたが、この家は裕福な家の様です。ただし、トイレは無いとの事でした。
 この家の主婦は、尖閣諸島の国有化以降、日本人客がめっきりと減ってしまったと嘆いて居ました。
 また、政治家の子供喧嘩はいい加減にしてほしいとも言っていました。  
 ガイドさんの話によると、中国人で日本人を心から嫌っている人は約1割程度いるそうです。昔、両親や兄弟などが日本軍人に殺されたり痛めつけられた人がまだたくさん生きているのだそうです。



賭けマージャン

 中国では男性は55才、女性は50歳から年金がもらえるため、その年齢で退職する人が多いそうです。
 ただし、中国も年金問題に苦労しているようで、近々、男性は60才に、女性は55才に引き上げられるそうです。それでも、世界の趨勢に比べ年金支給年齢は低く設定されています。
 また、70歳になると、運転免許証は持てなくなるそうです。


 近くの広場では、老人が集まり、ゲームを楽しんでいました。
 室内でするよりも解放感がありそうです。



お茶屋

 沢山の種類のお茶を味わいました。中国独特のお茶の入れ方の実演もありました。お茶を売りつけるという雰囲気は全くありませんでした。



餃子館で夕食

 今夜のみ食事が付いていません。その代り、餃子館でのビール飲み放題、3000円のオプションがあり、参加してみました。以前、段ボールの紙が混ざった餃子が中国で問題になりましたが、ここに来てそれを疑う人は誰もいませんでした。
 8種類の餃子が2個ずつ、合計16個の餃子が出てきました。大体、皆さん、全部食べたようです。私はビールだけで、お腹がいっぱいになってしまいましたが。
 ガイドさんがウエイトレスに、日本から来たお客さんだよ、と自慢げに話をしていました。ウエイトレスさんによると、日本の客は初めてだと言っていました。




4日目 天壇公園観光後成田へ

 今日の北京は秋の青空が広がっていました。
 風が割かし強かったのでスモッグが吹き飛ばされたようです。



天壇公園(世界遺産)

 このツアーは希望者だけのオプションツアーでした。費用は2,500円でした。
 天壇公園の入口には、日本語による説明が書かれていました。
 明の第三代皇帝、永楽帝は紫禁城を作るとともにこの天壇も作っています。
 天壇とは、明、清時代の皇帝が、五穀豊穣を願って祭祀を行った場所で故宮の数倍の広さを有しています。
 この天壇は1420年、紫禁城の完成と同じ年に作られました。

 私たちは、南門から入り北門へ出てゆきました。
 非常に広いにもかかわらず、主な建物は3つしかありません。
 三層の屋根を持つ祈念殿は豊作を祈る場所、円形の圜丘壇(かんきゅうだん)は天を祈るものでした。
 皇穹宇(こうきゅうう)は歴代の皇帝の位牌を祀るものです。



圜丘壇(かんきゅうだん)
 
 皇帝は、毎年、冬至の日にここで豊作を祈る儀式を行い、雨の少ない年は雨乞いもここで行いました。




皇穹宇(こうきゅうう)
 
 ここには皇帝の位牌が祀られています。
 後ろに回ると、鉄砲の弾の跡が残されていました。
 日中戦争中、日本軍がここを占領し、宿舎として使用していたとの事でした。
 いろいろなガイドブックを調べても、そのようなことは書かれていませんでしたので、日本語ガイドさんがいなかったら見逃すところでした。
 イタリア・イギリス・中国の合同制作映画 「ラストエンペラー」では、日本軍が南京で中国人を20万人虐殺し、満州では現地人に対し人体実験をしていたことが描かれています。

 なお、中国の文化財は過去、色々な理由で持ち去られたり壊されたりしていますが、毛沢東による文化大革命での破壊が最悪で、90%の文化財が失われたとガイドさんは言っていました。




回音壁

 皇穹宇の建物をぐるりと取り囲む円形の壁で、回音壁と呼ばれています。ここで女性が囁いています。その声は中央の建物、皇穹宇を挟んだ反対側でも聞くことが出来ました。壁の長さは193mもあります。



 再び、門を出て、次の天壇に向かいました。とにかく広い公園です。



祈年殿(きねんでん) 

 数ある天壇の中で最も有名な天壇です。直径32m、高さ38m、25本の柱に支えられています。一見、金属風の感じを与えますが、すべて木造で、木の上に金属風の塗料が塗られています。一番上の宝頂は金メッキです。
 1889年、落雷により焼失しましたが、1896年に再建されています。
 よく見ると、各所に網が施され、野鳥から守っているようです。


 天壇公園のほとんどは無料で入ることが出来ます。ここでも、多くの人が体操をしていました。
 A4程度の紙に何やら文字を書き、座っている人たちがたくさん居ました。見てみると、結婚相手の募集です。子供の結婚相手を、両親や祖父母が探しているのだそうです。
 読んでみると名前は書かれていないので、気に入ったような人が居たら、名前や連絡先を聞くのでしょうか。



 都会に住む人にとって、公園は運動の場でもあるようです。



真珠店

 淡水で育つ真珠貝は、たくさんの真珠を作るそうです。この貝の中には、36個も入っていました。



王府井

 王府井(おうふい、ワンフーチン)とは、北京中心部東城区にある繁華街です。土産屋やデパート、飲食店が立ち並び一帯は歩行者天国になっていました。
 公衆トイレに入ってら、このトイレも仕切りが全くありません。たまたま、大便をしている人が居ましたが、便座はなく、日本の旧式のトイレと同じなので、お尻丸出しでした。結構近代的な街ですが、驚きました。
 大変立派なお土産屋でした。ここで土産にお菓子を二箱買ったのでしたが、完全にごまかされました。
 家に帰って開けてみると、上げ底でした。
 これが中国の実態かと思うと、何とも悲しくなりました。


 ガイドさんの話によると、最近、日本人の観光客がさっぱり来なくなり、今はもっぱら中国人を日本へ連れて行く仕事が増えたそうです。
 中国からの観光客は日本でたくさんの買い物をしますが、いずれの製品も中国で買うことが出来るそうです。ただし、日本で買った方がはるかに安く、特に円安の効果もあり、物によっては半値で買えるのだそうです。
 そういえば、最近売り出された iPhone6 をたくさん買ったのは中国人で、中国に持ち帰ると高く売れるようです。



北京空港へ

 北京から空港へ向かう時、バスから撮った風景です。上海ほどではないですが、高層ビルが並んでいます。



北京空港のラウンジ

 幾つもの航空会社の合同のラウンジですが、なかなか立派でした。



買ったお土産

 開けてみると、完全な上げ底でした。買ったのはデパートのように立派な商店だったのですが。
 自宅で開けたのでよかったのですが、誰かにあげていたら、もらった人も驚いたでしょう。
 昔、日本にも上げ底が存在し問題になりましたが、これが現在の中国の実態なのでしょうか。何とも悲しいことです。
 


 現在、戦後最悪の日中関係にあると言われますが、いくつかの問題に対し、私なりの感想を書いてみました。あくまでも私感であり、人によって考えが違うのは当然です。

1 尖閣諸島の国有化
  当時の石原東京都知事が漁民の安全をはかる為、尖閣諸島に船着き場を建設すると言いだし、驚いた当時の政権、民主党は、2012年9月11日所有者から島を買い上げ国有化を宣言しました。仮に船着き場を作れば日中間に大きな紛争が起こるかも知れなかったからでした。
  尖閣諸島は台湾や中国や沖縄に近い無人島ですが、沖縄がアメリカから日本に返還されて以来、戦前同様、尖閣諸島も日本が実効支配していました。アメリカ軍も監視下に置いていました。なお、同盟国であるアメリカは日本の実効支配を認めてはいるものの日本の国土であるとは明言していません。
 尖閣諸島は日中間の棘と言われ、1972年田中角栄による日中国交正常化以降、お互いに触れないよう十分注意しながら対応をしていました。
 日本の突然の国有化に中国は猛反発し現在の関係悪化を引き起こしました。
 これは、2012年8月、当時の韓国のイ・ミョンバク大統領が竹島を訪問しそれにより日韓関係が悪化して行ったこととよく似ています。あの時の日本政府の韓国に対する対応や韓国に対する週刊誌などのバッシング、新大久保でのヘイトスピーチなどを考えれば尖閣問題での中国の対応も分かるような気がします。
 尖閣諸島の国有化発表は、元々日本が実効支配していたのですから中国を怒らせないもっと良い対応があったはずであり政権を握っていた民主党の対応が悪かったと考えられます。
 
2 日本の国有化に対する中国暴徒の日本企業襲撃
 日本政府が国有化を発表すると中国各地で大規模なデモが発生し日系企業の工場や自動車販売店、スーパー、コンビニなどが徹底的に破壊され放火される暴動が発生しました。この暴動には中国政府も加担しデモ隊にお金も払ったと言われています。
 2012年以前にも日本に対して反日デモが度々起こっていましたがこのような大規模な反日デモは初めてでした。
 この行動は日本人に中国人への恐怖感を起こし、以来、日本人の中国人への感情悪化に拍車を掛けました。
 このデモで中国が得たものは何もなかったと思われます。これは中国政府の対応の誤りでした。

3 安部首相の靖国参拝
 尖閣問題や竹島問題が多少やわらいできた昨年の末、12月26日に安部首相は突然靖国神社を参拝し、中国や韓国を怒らせるとともに日中韓の関係悪化を心配していたアメリカはじめ多くの人々に失望を与えました。
 戦後とは違い国民が豊かになった中国や韓国は過去の戦争に対し堂々と日本を非難し始めてきました。日本の援助を必要しなくなったことも一因かも知れません。
 中国、韓国は、自国民の感情を考慮し安部首相にA級戦犯が合祀されている靖国神社を参拝をしないよう何度もお願いしていました。しかし安部首相は隣国のそれらの願を無視して参拝してしまいます。
 この参拝による隣国の失望と日本への恨みの増大は大きなものがあったと思われます。また反日運動の正当化を世界中に広める結果にもなってしまいました。現在、国の指導者は従来にもまして対外的な考慮が必要でしょう。
 なお、A級戦犯が合祀された以降、昭和天皇も現在の天皇も参拝していません。また、現在の天皇皇后両陛下は1992年10月、中国の北京、西安、上海を訪問し、上海では30万人を超える人の大歓迎を受け日中友好を深めています。
 私はほとんど忘れていましたが、ガイドさんは当時のことを良く知っていると言っていました。
 靖国参拝で日本は多くの国々の失望をかいました。

4 APECでの習近平主席の対応
 北京での APEC は 11月11日、幕を閉じましたが、日中首脳会談が2年半ぶりに開催されると聞き、多くの人は喜んだと思いますが両者の握手の様子を見ていると受け入れ先の習近平国家主席の様子にがっかりするとともに、たいへん失礼だと思った日本国民は多かったと思います。一般にお客を笑顔で迎えるのは日本人のおもてなしですが、これを見ていて中国を嫌いになった日本人が増えたような気がします。
 親日的な中国政府が誕生すれば日本人は喜び、親中的な日本政府が誕生すれば中国人は大歓迎のはずです。
 現在、中国は国内にある多くの不満を抑えるため反日をスローガンに国内統一を目指しいろいろな催しを実行しており、親日的態度をとると失脚する危険性もあるほどですから、習近平国家主席の振舞いは国内向けとの解説もありましたが、両国関係をより改善する絶好のチャンスを逃したような気がします。なお、胡同でのお宅拝見に訪れた家の夫人が言っていましたが、政治家たちは反日運動で子供遊びをしているが私たちはそれに惑わされてはおりませんと言っていたのを思い出しました。
 








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