四国、室戸岬と足摺岬ドライブ4日間
最近は、私も家内もボランティア活動などで忙しく、なかなか二人で一緒で行ける日にちが少なくなっていますが、たまたま4日間二人とも空いたので、まだ行っていない室戸岬と足摺岬に行ってみました。 |
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1日目 自宅から高知市までドライブ
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今日は家を4時に出発し、明石大橋に到着したのは12時半頃でした。
淡路島はそのまま通過し、最初の観光地、四国第23番霊場薬王寺に向かいました。
その後、室戸岬を観光し、今夜の宿泊地、高知ロイヤルホテルに向かいました。
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淡路島を通過し、徳島県に到着です。
四国第23番霊場薬王寺
徳島県にあり、四国八十八か所霊場の中でも比較的大きな霊場です。 815年、弘法大師42歳の時、平城上皇の勅命によって開基しました。
吉川英治や司馬遼太郎の小説の舞台にもなっています。 |
頂上の瑜祇塔は昭和39年に開創1150年を記念して造られました。そこからは日和佐の街並みを一望することが出来ます。
室戸岬
高知県を代表する観光地の一つで、国の名勝に指定されています。
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タービダイト層
約1600万年も前の頃、砂と泥が地震や台風などの土砂崩れで深海に運ばれ、荒い砂が先に深海に降り積もり、後で細かい泥などが降り積もりました。それが長年の間に何度も繰り返されました。
その後、海底がきわめてゆっくりと隆起し地上に現れました。隆起するとき、大きく傾き、現在の縦しわを持つ岩が現れました。 |
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アコウ・タコの木
紀伊半島、四国、九州、台湾など、東南アジアに広く分布しています。高知県内では海岸近くの岩の上に生息しています。このアコウを含む亜熱帯植物群は、国や県から天然記念物の指定を受けています。 |
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2週間後には孫が生まれる予定になっています。
安産を祈願して、石を供えて来ました。
付近には軽石がたくさん落ちていました。むかし、お風呂には足をこするため、軽石が利用されていました。
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中岡慎太郎像
土佐国安芸郡北川郷柏木村に生まれ、土佐勤皇党に加盟し活動していましたが、土佐藩内で尊攘攘夷運動に対する大弾圧が始まると、すぐに脱藩し、長州藩に亡命しています。その後、薩長同盟を結実させる働きをし、薩土盟約を締結させています。30歳で暗殺されてしまいましたが、土佐を代表する明治の志士です。
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ホテル到着は午後6時半ごろで、走行距離は880kmでした。
2日目 桂浜、高知城、はりまや橋、四万十川などの観光
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桂浜を見学後、高知城とはりまや橋を見学し、四万十川市の不破八幡宮と浮沈橋を見学しました。 |
土佐ロイヤルホテル
高台に建てられており、海岸を見下ろすことのできるホテルでした。
桂浜
月の名所は桂浜とよさこい節で詠われており、そこの高台には坂本龍馬の像が建てられています。
龍馬は高知の城下町で生まれ、土佐勤皇党に参加していましたが、その後脱藩し、勝海舟に師事した明治の代表的な志士ですが、33歳で暗殺されています。 |
早咲きの桜
関東地方でも早咲きの桜はちらほら咲き始めていましたが、こちらは満開でした。
高知城(重要文化財)
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国宝、高知城とありましたが、よく読んでみると、昭和9年に国宝に指定されたが、昭和25年に天守閣をはじめ15の建築物が国の重要文化財に指定し直されたと書かれていました。
なお、現在の国宝のお城は、姫路城、彦根城、犬山城、松本城の4つだけです。
関ヶ原の戦いの功績により徳川家康から土佐一国を拝領した山内一豊は、慶長6年(1601)高知に新城の築城工事を始め、慶長8年(1603)に本丸と二ノ丸が完成し入城しました。
享保12年(1727)城下町の大火で追手門以外の城郭のほとんどを焼失しましたが、宝暦3年(1753)までに創建当時の姿のまま再建されました。
その後は、自然災害や明治維新による全国的な廃城の嵐、太平洋戦争など幾度となく襲った危機を乗り越え、「南海道随一の名城」と呼ばれる優美な姿をした建物を今に残しています。(パンフレットより) |
内部はすべて写真撮影OKでした。珍しいことです。
はりまや橋
ペギー葉山の「南国土佐をあとにして」で唄われ有名になったはりまや橋ですが、車を停めて少し見学してみました。
昔、竹林寺のぼうさんがこの橋のたもとで、恋人のためにかんざしをかったそうです。その恋も悲恋に終わったそうです。
不破八幡宮
四万十市にある神社で、重要文化財に指定されています。
スケールは非常い小さいものの、室町時代中期に建てられた由緒ある神宮です。
四万十川
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日本三大清流の一つと言われ、他の二つは柿田川と長良川です。
ただ、実際の川の水はかなりよどんでおり、透明度も悪く、とても清流とは言えそうもありませんでした。
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四万十川には支流も含めて47の沈下橋があるそうです。今回は佐田沈下橋と三里沈下橋の二つを見てみました。 |
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四万十川には通常、立派な橋が架けられていますが、ところどころに沈下橋が作られています。 |
佐田沈下橋
沈下橋とは鉄筋コンクリート造りで、台風などで水量が増したとき、水流の中に沈下しますが、欄干を無くして、橋全体が破損、流出するのを防いでいます。
車は通れますが、人は車を避けるよう,端に寄らねばならず、怖い思いをします。運転を誤り落下することがありますが、その場合はほとんど助からないそうです。
生活道路となっているようで、老人施設の車が走っていました。 |
三里沈下橋
この橋はさらに狭くなっています。
平成17年9月の台風14号の時は下の赤い線まで水位が上がったそうです。
橋は毎年のように沈下するそうです。後片付けが大変だと行き逢った地元の人は言っていました。
3日目 金剛福寺、足摺岬、竜串海岸を観光し淡路島の宿へ
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四万十市にあるホテルから、足摺岬と金剛福寺を見学した後、竜串海岸を周遊し、その後、今日のホテルのある淡路島へ向かいました |
金剛福寺
四国八十八箇所霊場の第三十八番札所。足摺岬に隣接しています。
822年に、空海(弘法大師)が開基したと言われています。
仏像群
いろいろな仏像があるのでまとめてみました。私にはあまりその違いが判りませんが良く作られています。
足摺岬
中浜万次郎(ジョン万次郎)の像
幕末の政局に大きな役割を果たしたジョン万次郎(中浜万次郎)の銅像が立っています。
万次郎は1827年、土佐清水市で半農半漁の次男に生まれましたが、家が貧しく寺子屋へ行けなかったため読み書きはほとんどできませんでした。
1841年、手伝いで漁に出ましたが漁師仲間4名とともに遭難し、無人島鳥島に漂流し、そこで143日間生活しました後、アメリカの捕鯨船に救助されました。船長は万次郎の頭の良さを気に入り、仲間3人はハワイに残し、万次郎だけをアメリカに連れて行き、船長の養子としました。その後、オックスフォード学校で英語・数学・測量・航海術・造船技術を学び首席で卒業しています。
卒業後は捕鯨船員として働き、1850年、日本に帰る決意をします。 |
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1851年、薩摩藩に服属していた琉球に上陸を果たし、島津斉彬にその重要性を認められるましたが、幕府から長期間尋問を受け、故郷、土佐に帰ったのは漂流から11年目でした。
土佐藩は万次郎を士分に取り立て、藩校の教授に任命しています。この際、岩崎弥太郎などを教えています。
1853年、黒船来航への対抗のため江戸へ招集され、旗本の身分を与えられました。
明治維新後の明治2年、現・東京大学の英語教授に就任します。その後、視察団として欧州へ派遣されましたが、帰国途上、アメリカで恩人の船長と再会しています。また、ハワイにも立ち寄り、旧知の人々と再会を果たしました。
帰国後、政治家になるよう勧められましたが教育者としての道を選び、1898年、72歳で亡くなっています。まさに波乱万丈の人生でした。 |
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ジョン万次郎資料館
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万次郎は漂流後、アメリカ船に助けられアメリカにわたりますが、帰国後、欧州に派遣され、その帰国途上、アメリカにより、また、ハワイにも寄り、日本に帰ってきています。 |
竜串海岸(たつくしかいがん)
看板には一周約25分と書かれていたので廻ってみました。途中、藻の上に乗ってしまい、滑り落ちて海に落ちそうになりましたが、幸い途中で止まりました。
この串状の岩も、柔らかい部分が浸食されて現在の姿になっています。 |
淡路島へ
今夜の宿は淡路島にしました。橋を渡り、すくその近くでした。
海鮮料理旅館
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海鮮料理旅館なので、料理は最高でした。
旅館のつくりは昔の懐かしさを保ったままでしたが、また、それも一味ありました。 |
4日目 明石城などを見学して自宅へ
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宿の近くに、道の駅うずしお展望台があるので行ってから、あわじ花さじきと本福寺を見学し、まだ時間があったので、明石城を見てから自宅に戻りました。
今日は日曜日ということもあり、御殿場あたりからは大渋滞でした。
最近は、あまり休日には出かけないので、このような大渋滞は久しぶりでした。
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うずしお展望台
前回、四国に来た時には対岸の徳島県から鳴門の渦潮を見学していますが、こちら側の渦潮はそれほど強くはありませんでした。
時間帯にも関係するのでしょう。 |
あわじ花さじき
一面花で覆われるそうなので立ち寄ってみました。
まだ、咲いているのは菜の花程度でした。
本福寺
平安時代後期に創建された寺院ですが、1991年 コンクリート造りの「水御堂」(みずみどう)が作られ、円筒形の2枚のコンクリートにより、俗界と聖界とが仕切られています。
聖界には直径が40mもある大きな蓮池が造られています。
この蓮池には大賀ハスが浮かび、その見頃は6月から7月にかけてとのこと、今は何もありませんでした。 |
明石城
1920年、徳川第二代将軍秀忠が小笠原忠真に命じて築城させています。
築城後50年の間に城主が目まぐるしく変わっていますが、越前家の松平直明が6万石で入城して以後、明治維新までの10代、189年間、親藩として松平氏の居城となって来ました。
1874年(明治7年)、廃城令により廃城となり、築財などは小学校の建設に利用され、広場は公園になりました。
1995年の阪神・淡路大震災では多くの被害を受けましたが、4年後には完全復旧を果たし、同時に巽櫓と坤櫓を繋ぐ塀が復元されています。 |
見学後、ひたすら、自宅に戻りました。
到着は夜の9時頃でした。
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