IEEE LMAG Tour パリ、ジュネーブ、ミュンヘン

              19日間 前半

2015年5月1日~8日

IEEE LMAG Tour

 IEEE とは Institute of Electrical and Electronics Engineers の略で、米国公益法人に指定されていますが、世界最大の電気に関する学会組織です。
 LMAG とは Life Members Affinity Group の略で、自分の年齢が65歳以上で、かつ、学会加入期間と自分の年齢の合計が100を超えた人たちからなっています。生涯、会費を納めなくても、会員の資格を維持することができます。
 IEEEの会員は世界160カ国以上におり、約40万人以上が活動しています。日本には約14,300名おり、東京支部を始め全部で9つの支部がありますが、東京支部には全体の半数以上の7,900名が所属しています。またLMAG会員は約530名以上おります。
 電気系のノーベル賞受賞者などは、大概、この学会に所属しています。 
 私はもう74歳なので、LMAGAの会員になっていますが、昨年、東京支部の理事会から、今年1月からLMAGの会長を務めて頂きたいと頼まれ、引き受けることに致しました。
 完全なポランティア活動で、交通費や懇親会費などもすべて自分持ちです。会長は会員の選挙で選ばれるのですが、私が東京支部の理事会からの推薦という事なので、対抗馬がおらずに、自動的に会長に就任いたしました。
 就任してみると、その仕事量の大きさにも驚きますが、世界中のLMAG会員の希望者による観光旅行が毎年開催されていることを知り、今年、参加してみました。
 今回のLMAGツアーは、5月6日の午後3時ごろまでに、パリの指定されたホテルに、参加者全員が集合して開始されました。

 

大画面スライドショー5月1日~4日(文章なし) はここをクリック
  
大画面スライドショー5月5日~8日(文章なし) はここをクリック
   
  再生速度は右下の三つの星を押すと早くしたり遅くしたりすることが出来ます。

日付 観光内容 宿泊地 歩数
1日目 5月1日 成田からパリへ パリ 3,090
2日目 5月2日 オルセー美術館見学 パリ 18,952
3日目 5月3日 モネの庭、ジヴェルニーとピカソ美術館見学 パリ 17,025
4日目 5月4日 ロワール渓谷の3つの城の観光 パリ 22,090
5日目 5月5日 モンマルトル近郊散策、ケ・ブランリー美術館、市立近代美術館、マルモッタンン美術館 パリ 20,261
6日目 5月6日 ホテルを移動。植物園散策、LMAG メンバーが集合し、夕食 パリ 13,044
7日目 5月7日 午前、Edouard Branly Musium、午後、国立電波法人、国際電波監視センター見学 パリ 6,794
8日目 5月8日 ルーブル美術館見学 パリ 16,350
9日目 5月9日 セーヌ川クルーズ、ギメ美術館、リュクサンブール公園、サン・シェルビス教会 パリ 12,974
10日目 5月10日 パリからジュネーブに移動 途中、ホスピス・ド・ボーヌ (ボーヌ施療院)見学 ジュネーブ 7,433
11日目 5月11日 午前中、CERN 訪問、午後、ジュネーブ市内観光、その後、全員でディナー ジュネーブ 11,429
12日目 5月12日 スイスマイクロテクノロジー研究センター訪問と、国際時計博物館の見学 ジュネーブ 5,078
13日目 5月13日 ジュネーブからミュンヘンへ移動。途中、シヨン城観光 ミュンヘン 6,523
14日目 5月14日 午前はアルテ・ピナコテーク、午後はBMW博物館見学。 ミュンヘン 14,427
15日目 5月15日 午前、ミュンヘン工科大学、午後、ドイツ博物館見学 ミュンヘン 10,590
16日目 5月16日 午前、ドイツアルプス Oberammergau 観光 夕食はさよならパーティ ミュンヘン 8,005
17日目 5月17日 オーストリア、ザルツブルグ観光 ミュンヘン 19,009
18日目 5月18日 ミュンヘン発、ヘルシンキ経由、成田へ 機中泊 6,048
19日目 5月19日 成田到着 3,305


     

1日目 5月1日(金) 成田からパリへ

 今日は大型連休の始まりです。パリへの出発を今日にしたのは、明日からの航空便が急激に値上がりするためでした。しかし、いつも使用する成田のJALラウンジはなぜかガラガラでした。
 出発便はパリへの直行便 JL415便で出発は 14:10 でした。昼食をここで食べ、ビール、ワイン、お酒を楽しみました。


 エコノミークラスを予約したのですが、団体客で満席になり、無料でアップグレードしてくれました。この便のエコノミークラスの座席数は非常に少ないのには驚きました。 


 パリ到着は 19:45でしたが、この時期のパリは暗くなるのが9時過ぎになります。空港からホテルまでタクシーを使用しました。黒人女性の運転手でしたが、カーナビを使用して運転していました。まあ、日本と同じです。
 ホテルは Clichy 地区にあります。空港からパリの中心に行く途中にあります。パリの中心が、東京の東京駅とすれば、距離的に新宿あたりに相当します。



ibis Paris Porte de Clicy Centre

 いわゆるビジネスホテルです。パリには ibis Hotel がたくさんあります。
 二人で1泊1万円弱で、インターネットは無料です。
 朝食は約1,000円で日本と同じでした。
 安くても、特になんら問題はありませんでした。
 ただし、最初の日に夕食をここで食べたのですが、ウエーターは英語を全く理解できず、苦労しました。
 すぐ近くにホテルのフロント嬢がいたので、通訳してもらいました。
 ここで夕食を取ったのは今夜だけでした。英語が通じないのは不便です。


    

2日目(土曜日)  オルセー美術館 終日


ホテル前の貸自転車

 ホテルの前は貸自転車置き場になっていました。乗り捨て自由のようです。
 パリの日常的な風景なのでしょうか。
 ホテルから一番近い地下鉄です。約10分ぐらい歩く必要がありました。



オルセー美術館

 今日は時差調整を兼ね、終日、オルセー美術館で過ごすことにしました。もう、何度も訪ねていますが、何時来てもうれしい美術館です。
 オルセー美術館は以前、鉄道駅であった建屋の建築空間をそのまま利用した美術館で、印象派の絵をルーブル美術館や、すでに閉鎖された印象派美術館から移され展示されています。
 セーヌ川の湖畔に立つ重厚な建物で、かっての駅舎は 1986年、美術館に改築されました。
 とりあえず、地下鉄オペラで降りて、ルーブル美術館の中を通り抜け、橋を渡り、オルセー美術館に向かいました。
 すでにかなりの列が出来ており、入るまでに約30分ぐらい並びました。
 なお、途中、観光バス会社で明日と明後日のバスツアーの予約をすましました。


 絵に関して素人の私には、絵の解釈を書くほどの知識はありません。図書館に行って本を借りたり、過去に撮り溜めた映像を再現しては書き入れてみました。
 これもまた、私にとっては至福の時でした。ただし、凝りだすと切りがありませんし、素人なので間違って分類したり書き入れてしまったりしている可能性があります。


 何度も見たオルセーの中の風景です。大きな時計は当時、駅で使用されていたものだそうです。



Reception Room

 特に目的もなく歩いていると、最初に入ったのはこの部屋でした。

 

 とりあえず、昼食を取り、今日は一日かけて館内を回る予定です。
 以前来た時よりはかなり改修され、印象派の絵画の多くは一番上の5階に展示されていました。天井からの自然の光を取り入れ、かつ、その光の量を最適に調整する設備を入れたそうです。
 太陽に光が木漏れ日のように柔らかくなり、また、下の写真のように壁が青黒く改善されています。それにより、絵が引き立てられ、鮮明に見えるように改善されていました。




オーギュスト・ルノアール Pierre Auguste Renoir  (1841-1919)
 フランスの印象派の画家ですが、人物画を得意とし、晩年は豊富な裸婦像などの人物画に独自の境地を拓きました。
 撮った写真を年代別に並べてみました。
ダラス夫人 

1868年
猫と男の子

1868年
セーヌ川のバージ

 1869年
ベールを付けた若い女性 

 1870年
ジョルジュ・ハルトマンの肖像画  

 1874年
モネの肖像

1875年
背の高い草の中のシュマン

 1877年
シャンパンティ夫人

1876年-1877年

社交界の花形であった夫人はルノアールに
肖像画を依頼します。
さりげない一瞬を描いた描写が評判を呼びました。
今までの硬い表情の肖像画とは全く違っていました。
マダム・アルフォンス・ドーデ

1876年
ぶらんこ 

1876年

中庭で遊ぶ男女の姿が描かれています。
印象派の特徴は光の表現です。
それまでの光の表現が画家が意図的に
作り出したのに対し
屋外の自然の光を描いた印象派は
まさに絵画の革命でした。
この絵は第3回の印象派展に出品されました。

モントルグイユ通り

1878年6月30日の祝日


万国博覧会を祝福するにぎやかな風景です。
無数の国旗の中、大道りには
太陽の光が注いでいます。
この絵は印象派の素晴らしさを
広める名画となりました。

ラ・クルヌイエールにて   

1879年
バナナ畑 

 1881年
アルジェリアの風景 

 1881年
マリン、ガーンジー島

 1883年
母と子

1885年
ジュリー・マネ

 1887年
ピアノを弾く娘たち

1892年

暖かな色調で描かれています。
この年の展覧会でルノアールは
大きな成功を収めました。
そして印象派としての地位を獲得しました。

マダムジョセとその息子ヘンリー

1910年

バラをもつガブリエル  

1911年

 晩年、ルノアールは南フランスで過ごしましたが、
官能美溢れる女性たちを書き上げて行きました。
バラはルノアールが最も好きな花でした。
彼はしばしば女性の美を引き立てるために
バラの花を用いました。
晩年のルノアールはひたすら裸婦を描き続けました。

 なお、ルノアールの絵は、オランジェリー美術館にもたくさん飾られています。




クロード・モネ  Claude Monet   (1840~1926)

 モネは1874年の第一回印象派展に「印象、日の出」を発表します。当時、その評判は散々でしたが、後に歴史的傑作と評価されるようになりました。
 モネと言えば睡蓮ですが、睡蓮の絵の多くはオランジェリー美術館に飾られています
 モネは1859年、19歳の時、画家を目指し故郷ルアーブルを離れパリにやってきました。しかし、肝心の絵は全く評価されず、貧しい日が続いたのです。そんな時、モネを支えたのは7歳年下の恋人カミーユでした。
 カミーユはいわゆるプチブルジョワの家庭で育ちで性格は明るく、モネはカミーユに首ったけでした。
 のちに二人は結婚し、男子を出産し、ジャンと名付けました。貧しい中、モネは制作に励み、ささやかな幸福にも浸っていました。

静物画、肉の塊

(Nature morte, le quartier de viande)

1862-63年
「草上の昼食」 

1866年

モネはマネに刺激され、新たな挑戦の意味を込めて
同じ題名で描きましたが、未完成に終わった大作です。
森の中で男女がピクニックを楽しんでいます。
モネがこの絵で示したのは光への探求でした。
モネによって、光を追及する印象派が誕生しました。

「かささぎ」  

1868-1869年頃

 モネ、28歳の時の作品です。まだ絵は売れず、人生のどん底のような暮らしをしていた頃でした。しかし、このころ、エルネスト・オシュデという百貨店の経営者がパトロンにつき、モネ一家は貧しい暮らしから抜け出すことができました。
 そしてパトロン・オシュデは、モネとその家族がエトルタで暮らせるように援助をしてくれました。
 この絵は冬のエトルタの風景です。木々や建物の屋根、置き去りにされた樽、それらすべてに真新しい雪が積もっています。
 中央を横切る生垣の隙間からは柔らかな光が漏れ出しています。真っ白に見える雪もモネは赤や青、黄色を加えて輝きを増しています。そしてふっくらとした雪景色を描き出しました。
 誰もいない雪景色ですが、かささぎの影が雪の上に描かれ、さらにその先には消えかかった人の足跡が描かれています。時の移ろいをそれとなく描いています。
 モネはこの絵を描いた5年後、「日の出の印象」を発表し、世間を驚かしました。以来、このような光と色彩の技法の絵を印象派と呼ぶようになりました。
エトルタの荒波

Grosse mer à Etretat

1868-69年
アルジャントゥイユの船着場

1872年

ひなげし

1873年

 日の光の中を行く母と息子、モネは明るい
色彩で屋外の風景を描きました。
 この絵は1874年に開催された第一回印象派展に
出品されています。
 サロンでは受け入れられなかった
若い画家たちが集まり、
審査も賞もない自分たちで開いた
自由な展覧会でした。
その時出品したモネの印象、
日の出の絵をちなんで、
印象派展と言われるようになりました。
印象派展は以後8回行われました。
 参加者は、モネ、ルノアール、ドガ、セザンヌなど
30人の画家たちでした。
 この絵を出品した時のモネはまだ貧困の状態でした。
アパルトマンの一隅

1875年



長男ジャンはだいぶ大きくなったようです。
テュイルリー(勉強)

1876年
七面鳥

1876年
 
 しかし、妻カミーユが突然病に侵され、次男ミシェルを出産すると、産後の容態はかなり悪化してゆきました。癌だったとも肺結核であったともいわれています。
モネはパトロンのオシュデ一家に身を寄せていましたが、そのオシュデが破産して、オシュデは妻や子供を残し、一人出走してしまいます。
 モネは突然、妻と子供二人、またオシュデの妻アリスとその子供6人を背負うことになりました。
 そのため、モネ一家とアリスの一家はパリから少し離れたところに引っ越します。
 そこでさらに災難が襲います。1879年、妻カミーユが32歳の若さでこの世を去ったのです。
その後、オシュデの妻アリスはモネの生活を支えてゆきます。
サン・ラザール駅 

1877年

駅もまた、着飾った人たちが集まる人気スポットでした。
19世紀、産業革命によって誕生した鉄道は近代という
新しい時代の象徴でした。駅には乗客だけではなく、
当時珍しかった汽車を一目見ようと、
見物人が押し寄せていました。
サン・ラザール駅はパリで最初に造られた駅です。


1878年
霧氷 (Le Givre)

1879年
ヴェトゥイユの教会、雪

(L'Eglise de Vétheuil, neige)

1879年
池に浮かぶ氷

Floating Ice on the Seine

1880



日傘の女  1886年

 2枚の絵が並んで飾られています。草原に立つ女性が白いドレスを着て日傘をさしています。また、おしゃれな帽子をかぶっています。右側が「左向きの日傘の女」で人物の影が草に描かれています。モネは視点を変え、移り行く光の変化を描こうとしています。この2枚の絵の女性の顔はほとんど描かれていません。
 妻カミーユを失って7年後の1886年、モネは家族でピクニックに出かけました。そこには再婚したアリスの3女シュザンヌも一緒でした。そこでモネは突然、シュザンヌの上に草原に亡き妻の面影を見たのでした。
 かって、モネが描いた大半の人物画は妻カミーユでした。カミーユもモネのモデルを務めることが最大の楽しみでした。
 モネはカミューユが日傘をさし、子供と一緒に遊ぶ日傘の女の絵を11年前に描いています。その絵はワシントンのナショナルギャラリーに飾られています。
 しかし、いま、カミーユは追憶の中でこの絵の中で生きています。もうあの日は帰ってこないのです。だからこの絵には顔が描かれていないのです。風景画の中に面影が描かれています。
 深い悲しみの果てにモネは自らの進む道を決めたのでしょう。この絵はモネが人物を描いた最後の絵となりました。 
 この絵は、19世紀の後半、パリで生まれた印象派の名画と言われています。
 印象派の画家たちは日常の風景や屋外の自然の光を明るい色彩と独特の筆遣いで描きました。
ベルイル島の海岸の嵐

1886年


ルーアン大聖堂  1893年

 日傘の女を描いた後、光と大気の動きを、時間を変えて描いています。モネは2年間に渡り、30枚のルーアン大聖堂の絵(連作)を描いています。

睡蓮の池、バラ色の調和

 1900年

晩年、モネはジヴェルニーに自分の庭を造り、
たくさんの日本庭園の絵を描いています。
睡蓮の絵を描き始めたのは
50歳を過ぎたころからでした。
モネは70歳ごろから目が不自由になり、
大好きな睡蓮も
良く見えなくなったそうです。
しかし、モネの光と色彩への追及は
生涯終わることはありませんでした。





ポール セザンヌ  Paul Cezanne  (1839-1906)
 
 フランスの画家。元は印象派画家であったが、独自の絵画様式を探求し、彼独特の絵を生み出した。


楽園

Pastoral or Idyll

1870年

村の道

Village Road, Auvers

1872-73年
「首吊りの家」

1873年


セザンヌが印象派の技法を学び始めた頃の絵です。
「近代のオランピア」 

 1873-1874年

自分自身を中央に描いています。
「自画像」  1875年


暗い色相で描かれた35歳当時の自画像です。
華族との口論の末、22歳でパリに出たセザンヌは、
毎年、サロンに応募していましたが
落選を繰り返していました。
40歳のころになると、田舎に帰り他人との
関係をほとんど絶ってしまっていました。
しかし、絵を描くことは決してあきらめませんでした。
印象派に影響を受けながら、
さらに新たな絵画表現を得たのがポスト印象派
その筆頭がセザンヌでした。

「レスタックの海」  

1878年頃

セザンヌは地中海に近い故郷の絵を
繰り返して描きました。
海や山などひたすら描きました。
セザンヌ39歳の時でした。
そこで、自然を見る目を開花させました。
自然をそのまま描くのではなく、
自分で表現したい形で描くことでした。
ここには従来の遠近法はありません。
色調を微妙に変化させながら規則的な筆のタッチを
重ねることで奥行感やボリューム感を
表そうとしています。
農家の庭

Farmyard

1879年

「台所のテーブル」 (篭のある静物)

 1888-1890年


描かれているのはどこにでもありふれたもの
ばかりですが、それらは様々な視点から
描かれています。
例えば篭は正面から、その中の果物は斜め上から、
花瓶は高い所から眺めて描かれています。
テーブルの左右の端も異なる視点から描かれています。
それぞれは最も美しく見える所から描かれています。
色の組み合わせも、全体が美しく見えるように
配置されています。
立体感も影を付けず、色の変化で表しています。
なにか、画面に吸い込まれてしまいそうです。
水着

Bagnanti

1890-92年
「コーヒー沸かしと女」  

1890-1895年

セザンヌは長い制作活動の中で初期と晩年に
肖像画を描いています。
そして、「絵画のいきつくところは、人物画だ」と
画商に語ったと伝えられています。
 セザンヌは生前、ほとんど評価さることなく
亡くなりましたが、自然を見つめる独特の技法により、
絵画の革命児ともいわれるようになりました。
「たまねぎのある静物」

  1895年頃

セザンヌはリンゴを愛し、
ある時は腐るまで見つめていたそうです。






ファンタン・ラトゥール Henri Fantin-Latour  (1836-1904) フランスの画家、リトグラフの版画家

ドラクロア礼賛 

 1864年
パティニョールール街のアトリエ  

1870年

 マネのアトリエに集まった前衛的な画家や音楽家、
革新的な評論家などを描いています。
彼らはモンマルトルの馴染みのカフェに集まり、
芸術論を戦わせては、新しい美を模索しました。
この絵の中にはモネやルノワールが描かれているそうです。
テーブルのひとすみで 

 1872年

マネは若い芸術家たちの英雄でした。
画家たちが集まっては絵について
議論しました。






エドゥアール・マネ Édouard Manet  (1832-1883)

 マネは印象派の先駆けとも言わていますが、印象派展には全く出品せず、違った画風の道を進みました。

草上の昼食

1863年

 森の中で談笑する裸の女性と着衣の男性。
何とも不思議な情景です。
発表当時不道徳だと激しい非難を浴びましたが、
斬新な表現はマネの名を一躍有名にしました。
果物とテーブル

 1864年
バルコニー  

1868-69年頃


当時は着飾ってバルコニーから通りを眺めるのが
おしゃれでした。
画家たちは当時のファッションに興じる女性たちを
たくさん描きました。
 描かれた三人の人物はそれぞれ違った方向を見ています。
それぞれ、自分の世界に浸っているその姿は
都市の孤独の人間像を予感させます。
 マネは技法だけではなく、そのテーマにおいても
新しい美の開拓者でした。
スミレの花束をつけたベルト・モリゾ  

1872年

彼女はこの時31歳、
マネは黒を大胆に使い、美しさを見事に
引き立てています。
裕福な家庭に生まれたモリゾはモデルを経て、
その後画家になりました。
女性が仕事を持つこと自体、まだ難しかった頃です。

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 私の父は教師でしたが絵が大好きで
よく上野の絵画展に出品していました。
それだけ評価もされていたようです。
 父はよく私に、黒い絵具を使ってはいけない。
黒く書きたかったら、いろいろな色を混ぜて
黒を作って書きなさいと教えられたのを
覚えています。
胸をはだけたブロンド娘 

 1878年


給仕する女

1878-1879年

当時の都会の姿が描かれています。






ベルト・モリゾ Berthe Morisot  (1841-1895)

 マネの絵画のモデルとしても知られる、19世紀印象派の女性画家。印象派。

 ゆりかご

1873年

マネが描いた
スミレの花束をつけたベルト・モリゾ」の
絵の人物がこの絵を描きました。
モデルだったモリゾは後に画家になったのです。
モリゾの姉が子供を見つめています。
家庭の中の穏やかな日常です。
ボールドレスの若い女

1879年






エヴァ ゴンザレス  Eva Gonzalès  (1849-1883) フランスの女性画家、印象派

イタリア劇団の桟敷席


ゴンザレスはベルト・モリゾと同じくモネの
女性モデルでしたが
後に画家となりこの絵を描いています。






カミーユ ピサロ  Camille Pissarro  (1830-1903)  フランス印象派

棒をもつ娘

仕事の合間に一息つく農家の娘を
さりげなく描いています。
ピサロの作品の中では最も愛されている絵です。
大地に生きる娘への温かい眼差しです。
ピサロはひたすら大地の広がりを描いてきました。
赤い屋根

1877年






アルフレッド・シスレー  Alfred Sisley  (1839-1899)

 絵はあまり売れず、困窮した生活でしたが、59歳で癌で亡くなっています。

雪のルーヴシェンヌ

1878年


雪に閉ざされた町の静寂が、
きらめくような雪の中に描き出されている。
シスレーが描きたかったのは光に微妙に反映する
白い雪だったのかも知れない。
モレのロワンの河岸

1892年

シスレーはこの地に住み、
四季折々の風景を描いています。
さわやかに晴れた夏の日の風景です。





ギュスターヴ カイユボット Gustave Caillebotte  (1848-1894)  印象派絵画の収集家 

床に鉋をかける人々


カイユボットは画商で、印象派の絵を
たくさん買い上げて、
印象派画家を経済的に支援してきましたが
自分でも絵を描きました。
カイユボットは日常生活のありふれた
風景を描いてきました。
彼が最も得意としたのは光の当たった
窓辺や室内の風景です。
屋根

1878年





エドガー・ドガ Edger Degas  (1834-1917)

 ドガは裕福な銀行家に生まれました。印象派の画家、彫刻家です。


14才の踊り子


ドガは晩年、彫刻の世界にも没頭しました。
この像は、ドガが生前公表したただ一つの作品です。
ドガが83歳で亡くなった時、
アトリエには150体の彫刻が残されていたそうです。
いずれも踊り子たちでした。
この彫刻は本物の布のスカートを付けています。
ダンス教室  

1873-1876年

 ステッキを持った踊りの先生。
 ドガは足しげくバレエ教室に通い、
踊り子の様子を見事に書き上げています。
そして、生涯、踊り子の風景を描き続けました。
 彼女たちの多くは貧しい家に生まれました。
まだ、女性が仕事を持つのが少なかった時代、
バレエは習い事ではなく、お金を得ることが出来る
数少ない職業でした。
 踊り子は女性が社会に出る先駆けになりました。
ドガは気に入った踊り子をアトリエに呼び、
そのポーズを描き、後でそれらを合成して、
このような絵を作り出しました。
花瓶と女

1872年
アプサン酒

1875-1876年

当時のパリの風俗の一つです。
人物が中央ではなく右側に描かれた斬新な構図です。
放心したような女性の表情、
それにまったく無関心な男性。
都市の生活に疲れた男女の姿が
見事に描かれています。
アプサン酒は当時パリで流行した
70度にも達する強いお酒で、
彼女はアルコール中毒の娼婦で、
右の男はそのヒモのようにも見えます。
鏡に向かうジャントー夫人

 1875年ごろ

青いドレスの踊り子  
1890年
この絵は20世紀を先取りした絵とも言われています。
鮮やかなブルーとはっきり書かれた
輪郭線が一体となり、
新しい画法を生み出しました。
踊り子の顔は判然としません。
この時、すでにドガは目を患い、
ほとんど目が見えなくなっていました。
40歳代で目を患い、だんだんと
悪くなっていったのです。
この絵の踊り子は四人いますが、
一人の踊り子の動きを
描き出したものだと言われています。
右前の踊り子は肩を気にし、
中央の女性は足を気にし、
左の女性は髪を直し、
右奥の女性は胸に手をやっています。
目がほとんど見えなくなったドガは、
踊り子の姿を思い出しながら描いたのです。





ウジェーヌ・ブータン  Eugene Boudin  (1824-1898)

 印象派 フランス ロジオン・ドヌール勲章を受け、ナイトの称号を得ています。




フレドリック・バジール Frédéric Bazille  (1841-1870)  フランス印象派画家

ルノアールの肖像

 1867年


Frits Thaulow  (1847-1906) ノルウェーの印象派画家

「Hiver en Norvège」 

  1886年



ウォルター・クレイン Walter Crane  (1845-1915) イギリス人の画家 イラストレーターとしても活躍しました。

Mrs Walter Crrane 

 1882年



フォード・マドックス・ブラウン Ford Madox Brown (1821-1893) イギリス人画家

ハイデによるドンファンの体の発見 

Haydée découvrant le corps de Don Juan



Gustav Wentzel  (1859-1927)  ノルウェーの画家

 



ギュスターヴ・クールベ Gustave Courbet (1819-1877) フランスの写実主義の画家

革のベルトをした男、自画像

ドラクロアやアングルが活躍していたころ、
クールベが絵画展にいくら出品しても
断られてしまいました。
そのため、万国博の時は、自分で博覧会の近くに
小屋を建て
一人だけの展覧会を開きました。
クールベは後にリアリズム(写実主義)の巨匠と
呼ばれるようになりました。
オルナンの埋葬

1849年

縦約3.1m 横6.6mの巨大な画面です。

ある田舎の名もない人の埋葬をこのような
巨大の絵にしたのは
当時としては定石はずれでした。
犬といる裸婦

1861-1862年
フォンテーヌブローの森

1866年

 

アルバート・バルトロメ
 Albert Bartholome

 1848-1928

 フランスの画家






フランツ・ヴィンターハールター Franz Xaver Winterhalter    (1805-1873) 
 
 ドイツの画家、宮廷肖像画の代表的存在です。

リムスキー・コルサコフ夫人

1864年



ギュスターヴ・ギヨメ Gustare Guillaumet  (1840-1887) フランスのビジュアルアーテスト



ウジェーヌ・フロマンタン Eugene Fromentin  (1820-1876)  フランスのロマン主義小説家、画家

 

ユーグ メルル Hugues Merle

 1823-1881

 フランスの画家
Theodule Ribot
Alphonse Legros
フランソワ・ボンヴァン
 
Francois Bonvin

 1817-1887

 フランスの写実主義の画家
Osman Hamdy Bey
Charies Emile de Tournemine
Paul Bouchard
Etienne Dinet

1861-1929
フランスの画家

1895年

Jules laurens

1825-1901

 フランスの画家



ルイ・イポリット Louis Hippolyte Mouchot  

 

Daubigny



ロサ ボヌール  Rosa Bonheur (1822-1899) 
 フランスの写実主義画家、彫刻家。フェミニズム初期を代表する一人

「ニヴォルネ地方の耕作」




コンスタン・トロワイロン Constant Troyon 1810-1865 フランスのビジュアルアーテスト



Ernest Hebert (1817-1908) フランスの画家

 

オズワルド アッヘンバッハ  
Oswald Achenbach

 1827-1905

 ドイツの風景画家





ジャン フランソワ ミレ Jean-Francois Millet (1814-1875) 

 フランスの画家。農民画に専念し多くの名作を残した。

蓑をふるう人

1848年

ミレーは農村の様々な暮らしに目を向けて行きました。
パリに出てきてから亡くなるまでの27年間、貧しい
農民の姿を描き続けました。

落穂拾い

1857年
 ミレーは印象派のちょっと前に活躍した画家でした。
 農村の風景をテーマに描くのは、当時、とても斬新で
、印象派にも影響を与えました。
 この時代、農村の暮らしはまだまだ大変でいた。
でも、女性たちのたくましい姿を描いています。
 なお、この風景は今までにも多くの人たちに
描かれて来ました。
しかし、その描き方は今までと全く違っていました。
 この絵は展覧会に出品後、激しく非難されます
。絵の遠方に、当時の支配階級の人たちが描かれ、
革命を求めた絵だと言われたためでした。 
晩鐘  

1858-1859年

 教会の見える農地で祈りを捧げる夫婦、そして、
静かな祈りのポーズ、夕方の柔らかな光を受けて、
大地への感謝の気持ち、
信仰の熱い気持が伝わってきます。
羊飼いの少女 

 1863年

羊の番をしながらお祈りをするあどけない少女
糸紡ぎの女 

 1869年

両手で糸を紡いでいます
 

1873年


この絵はミレーの最晩年に描かれました。
病に侵されたミレーが最後の力を絞って描いた
大作です。
風が舞い不思議な光を浴びて輝く木、
遠くの中央の木の下には人間が
小さく描かれています。
ミレーは今や大地そのものと向き合っているようです。





ウジェーヌ・ドラクロワ Eugene Delacroix (1798-1863) フランスの19世紀ロマン主義を代表する画家

ライオン狩り

ライオンの狩人の命がけの姿を描いています。
この作品は完成作ではありませんが、
赤や緑の鮮やかな色彩が激しい闘争の
ドラマを彷彿とさせます。
 この巧みな色彩表現によって、ドラクロアは、
アングルと共にロマン派の巨匠として
画壇に君臨したのです。



ドミニク・アングル  Jean-Auguste-Dominique Ingres  (1780-1867)

 フランスの画家、19世紀前半台頭してきたロマン主義絵画に対抗し、新古典主義を継承しました。
 アングルの名画「泉」は飾られていませんでした。どこかへ貸し出されたのでしょうか。

パフォスのヴィーナス

 1852年

 


シャンセリオー

Theodore Chasserian

ルニョー

Henri Regnault

ムーア人の王の殺害

アレクサンドル=ガブリエル・ドゥカン
 Alexandre Gabrlet Decamps 

1808-1860 

フランスの画家。アカデミック美術、ロマン主義

パール ユエ

Paul Huet


深淵



ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル Jules Lefebvre (1836-1911) フランスの人物画家




ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ  Pierre Puvis de Chavannes  (1824-1898) フランスの画家


貧しい農夫 

 1881年

陰影や盛り上げの無い淡い色彩による
平塗りの技法で描かれています。
妻を亡くした男が静かにお祈りをしている姿です。
この人物はまるで夢を見ているように見えます。
背後に広がる光景も夢幻的です。
象徴主義は写実性よりも観念や思想を視覚化することに
重きを持ちます。
色数も色相も抑えた、そぎ落としたような表現によって、
悲しみという人間の本質を表そうとしました。
子供たちの無邪気な様子が一層悲しみを誘います。
この新鮮な画法でシャパンヌは象徴主義の
先駆者となりました。
海辺の女たち 

 1879年
トイレ

 
1883年



グスターブ モロー  Gustave Moreau (1826-1898) 

 フランス 象徴主義画家 創造と幻想の世界を描いた画家





アンリ・ド・トゥ-ルーズ・ロートレック  Toulouse Lautrec (1864-1901)

 ロートレックは、幼くして足のけがのため、成長が止まり、身長は短いままでした。そして37歳の若さで世を去りました。

ジュスティーヌ・デュール 

 1891年
 
ロートレックにとっては珍しい屋外の作品ですが、
外の光を追及することなく、あくまでもモデルに
集中してえがかれています。

踊るジャンヌ・アヴリル

 1892年頃

 彼女は特に人気のあった女性でした。
しかし、何かやるせない表情です。
その場の雰囲気をそのまま描いています。
 彼女はまずしく育ち、その後人気になった女性でした。
 踊っているのはフレンチ・カンカンのようです。
 ロートレックはパリの夜の世界を描くのを
得意としていました。

 
 
寝台 

 1892年ごろ
ストッキングをはく女 

 1894年

ロートレックは、娼婦たちの住処を
自分のアトリエにしていたそうです。
新しいサーカス 

 1894年
女道化師 シャ・ユ・カオ  

 1895年

彼女たちの一瞬の動きを描いています。
化粧する女 

 1896年

モデルは背中を見せており、顔は分かりません。
下着が無造作に椅子に置かれているが
画面からは散漫な感は受けない。
痩せた背中と腕から何か無言の気持ちを伝えてる。
エジプトの舞姫

右奥にロートレック自身も描きこまれています。

ムーラン・ルージュの踊り





モーリス・ドニ Maurice Denis  (1870-1943) フランスの画家、著述家

モーセの発見 

1900年





ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ Vincent van Gogh 1853-1890 オランダ出身でポスト印象派の画家。

Hôpital Saint-Paul à Saint-Rémy-de-Provence

  1889年




ポール ゴーギャン Paul Gauguin (1848-1903) フランスのポスト印象派の画家
 
ブルトン農民

1894年


 帰りもまた、地下鉄オペラまで歩いて行きました。


      

3日目(日曜日) モネの庭、ジヴェルニーとピカソ美術館見学


モネの庭、ジヴェルニー

 観光バスを利用して行ってみました。一人81ユーロでした。電車を利用したほうが、時間的には余裕があり、良かったかも知れません。
 モネの庭園はパリからおよそ70㎞の所にあります。
 モネは1840年に生まれ、1926年、86歳で逝去しました。
 モネがここに住み始めたのは43歳の時でした。絵が売れるようになり、生活に余裕が出て来たので、ここに居を構えました。
 以来、ここに死ぬまで住みつき、ほぼ半生をここで過ごしました。
 ここに来る前、モネが39歳の時、妻カミーユがガンでなくなり、その後、かってモネのパトロンであったエルネスト・オシュデの妻アリスと再婚します。自分の子供2人とアリスの子供6人が同居し合計10名も居て、ここでは大変にぎやかだったそうです。
 モネは晩年白内障を患い、70歳ごろからは目が良く見えなくなりました。今ならだれでも手術で治る病気ですが、当時は、大方の人が年を取ると白内障になり、人間としての活動に終止符を打つしかない時代でした。
 モネの庭は花の庭と水の庭の2つが道路で隔てられて作られています。
 当時はこのような立派な道路はなかったと思いますが、今は、道路の下のトンネルで水の庭と結ばれています。
 庭の広さはおよそ1ヘクタール、すなわち、100m四方で個人の庭としては非常に広い庭です。
 1890年、モネが50歳の時、借地だった土地を購入し、庭師6人を雇い入れました。そして1893年、モネ53歳の時、隣接していた湿地を購入しました。
 水の庭を作るためでした。
 湿地帯を購入すると、モネはすぐに詳細な池の設計図を描き、県に池を作る許可願いを出しました。しかし、村の住民たちは池を作り植物を植えると水が汚れ、家畜や農作物に害をもらたすという理由で反対し、県から拒絶されてしまいます。困ったモネはその後首相となるクレマンソーに手紙を書き訴えました。その結果、彼の力で県の上層部に圧力をかけ、水を引き込む許可を出させました。許可が下りるとモネは日本式の太鼓橋と池のある日本庭園を作り始めました。
 モネは庭ずくリにも、絵を描くと同じぐらい情熱をささげました。
 
 モネの庭園はセーヌ川の近くにあります。
 観光船の乗場もあり、パリから船でも来ることが出来るようです。



モネの庭

 開館は4月から10月末まででの花の期間に限られています。世界中から観光客が訪れ、その数は年間約50万人だそうです。



 入り口のすぐそばにあるトンネルをぐぐると、水の庭に出ます。
 池に行く道路は池にそそぐ水路に沿って作られています。


 なんという美しい風景でしょうか。訪れた時期もちょうど藤が満開の時で幸いでした。
 ただし、睡蓮の花はまだ咲いていませんでした。睡蓮の見ごろは7月初めから9月初めごろだそうです。花の寿命は約3日ですが、次から次へと咲いてゆくので、その期間は何時も花が咲いているそうです。
 池の周りには背の高い柳などが植えられています。池との調和を保つためでした。
 モネは日の出前に起き、池を一周するのを日課にしていました。一周は約200mです。
 モネは水面の輝きを大切にし、水面を清掃する専任の庭師を雇っていました。庭師はボートに乗り、水面に落ちた花や葉を網ですくって、モネがここに来る前にきれいに掃除したそうです。
 モネは池を作って完成しても、絵を描こうとはしませんでした。多くの人から素晴らしい池だと褒められても満足せず、完全な池の姿を求めていたのです。
 最初に描いたのは庭が作られた6年後の1899年でした。およそ50歳の頃でした。
 以来、睡蓮の絵を描き続け、亡くなるまでの30年間に約200点もの睡蓮の絵を描きました。
 
 この藤もモネが植えたものです。藤の寿命は数百年あるそうです。
 モネは日本の浮世絵を好み、それを見てこの太鼓橋を作ったそうです。



花の庭 

 モネが無くなってからおよそ90年経った今でも、その姿はそのまま保たれています。花の種類や配置もそのままです。正に夢の聖地です。奇跡ともいうべき美しさです。
 植えられている花の種類は数百種類にもおよび、整然とした姿の中でいろいろな花が混じり合い組み合わされて植えられています。
 モネは園芸図鑑や植物図鑑を開き、世界中からいろいろな花を集めました。
 現在は10名の庭師がこの庭を管理しています。枯れた花を見つけるとそれを取り除き、次に咲く花を温室から運び、植え込みます。庭師は開園前と閉園後に庭を整備します。昼間は次に咲く花を育てる仕事が待っています。
 桜やチューリップも満開でした。一番良い時期に訪れたようです。



モネの家

 かなり広い家で、アトリエをはじめ、応接室、食堂、寝室など多くの部屋があり、たくさんの浮世絵が飾られていました。


 売店もあり、いろいろは絵が売られていました。


 村全体がきれいな公園のようです。帰りはクロード・モネ通りを歩いてみました。途中に印象派美術館があり、ドガ展が開かれていました。
 残念ながら、観光バスで来たため、入館する時間がありませんでした。


 帰る途中、セーヌ川湖畔を通りました。高層建築が並んでいます。この当たりはビジネス街になります。

 戻って来たのは午後2時頃でした。



国立ピカソ美術館

パブロ・ピカソ Paburo Picasso 1881-1973年

 ピカソはスペインの南部、マラガで生まれ、フランスで制作活動をしています。

 近くにピカソ美術館があるので行ってみました。
 毎月、最初の日曜日は入場料が無料になるそうです。
 それとは知らずに行ったのですが、そのためもあったのでしょうか、大変な混雑でした。
 ピカソは1973年に死去しましたが、その遺族が相続税とした物納画が中心となっており、1985年に開館しています。
 美術館には絵画251点をはじめ彫刻、陶器160点や版画、書簡、写真など約3000点が収められ、収蔵数は約5,000点にも及んでいます。
 誰にも売らずに保存していた自分の好きな絵や、ピカソ自身が収集した幾つもの名画も展示されています。
 91年の生涯でピカソが残した作品は油絵だけでも約1万点以上、日記のように描いたそうです。デッサンなどを含めると8万点以上ににのぼると言われています。
 ピカソは何人もの愛人を持ち、共に暮らした女性は7名でした。それらの愛人の多くは後に心を患ったり自殺したりしましたが、ピカソの作品は多くの人に感動を与え、何か引きつけるものを残しました。



 列はUターンするようになって並んでしました。


 4階建ての美術館で、地下1階から4階まで各々の階には5つから8つまでのたくさんの部屋があります。
 ピカソは20世紀の絵の先覚者でした。戦争に明け暮れた20世紀、その姿をキャンバスに描き続けたのもピカソでした。


 驚くほどたくさんの絵が飾られていました。
  たくさん撮った写真を一応年代順に並べてみましたが、間違っているのもたくさんありそうです。何分、1万点以上の油絵を描いたのですから、探してもわからないものも多いのです。

1900年10月、二十歳になろうとしていたピカソは
バルセロナの町を飛び出し、
芸術の都パリにやってきました。
そしてモンマルトルで暮らしていました。
そこで夜の世界の洗礼を受け、セックスと
芸術に対しての自由で奔放な生き方を身に付けます。

1901年、ピカソの親友カサジマスがピストル
自殺を図りました。
ピカソは心を痛め、いわゆる、
青の時代の始まりでした。
当時、ピカソの暗い絵はほとんど売れず、
食べ物にも困る時代でした。
この青の時代は3年続きました。

セント・ルーレットのモリエール劇場

1904年

このころはポスターも書いていました。
「座る裸婦」 1905年

  沈鬱の時代からピカソを開放したのは、マドレーヌでした。
ピカソがモンマルトルのバーで出会ったモデルでした。
マドレーヌと付き合い始めたピカソはロマンチックな
明るい絵を描くようになります。
しかし、まもなくマドレーヌはモンマルトルの町へと
姿を消してしまいます。
ピカソはすぐに新たな女性と恋に落ちます。
1904年のこと、ピカソ、23歳でした。
ピカソはモンマルトルで、フェルナンド・オリビエと
同棲します。ピカソが本当に愛した
一人目の女性でした。
 ピカソはオリビエと暮らすようになると、
絵も次第に変わり出し、
旅芸人やピエロなど明るい絵を描くようになり、
色彩は次第に「青の時代」から「バラ色の時代」へと
移って行きました。
 そのため、絵も次第に売れるようになり、
オリビエとの生活も豊かになってゆきました。
ピカソはフェルナンドと7年間、一緒に暮らしました。

「アヴィニョンの娘たちの習作」  1907年


ピカソはフェルナンド・オリビエをモデルにして、
裸婦の像をたくさん描いていましたが、
1906年頃から裸婦の像は極端に変わりだしました。
 ピカソはアフリカの彫刻像に夢中になり、
その形を絵の中に入れ始めました。
アヴィニョンの娘たちの始まりでした。

 

「樹木」  1907年


西洋美術史上、これが最初の
抽象画と言えるのだそうです。
「眠る裸婦と人物たち」 1908年
頭の切断

Le coupeur de têtes


1908年
「籐椅子のある静物」 1912年


ピカソ最初のコラージュ作品です。

 

「ギターを持つ男」 1911-1913年


 ピカソの名が不滅になったのは「アビニョンの娘たち」に続くキュビスムという様式をうち立てたことにあります。
 様々の角度から見た物の形を幾何学的図形に還元し一つの画面に収めています。
 フェルナンドと暮らし始めてから5年、28歳のピカソは現代美術の革命児として名をはせるようになっていました。
 この絵により20世紀美術の扉を開いたのです。
 この絵を描いたころから、ピカソの絵は売れるようになり、有り余るほどのお金を手にしたピカソはモンマルトルのアパートを引き払い、もっと広くて快適なクリシー通りのアパートに引っ越しました。
 しかし、その豊かさが、二人の仲を引き裂いてしまいました。出会ってから8年目、二人は別れることになりました。
1912年のことでした。
 その時、すでにピカソには新しい恋人が居たのです。
女性の名は、エヴァ・グエルでした。
 そのような中、第一次世界大戦が勃発します。スペイン生まれのピカソは兵役をまぬかれますが、その間、病弱であったエヴァは結核で倒れます。1915年、エヴァはこの世を去ります。
ピカソは一人取り残されました。
 エヴァの死と戦争の悲惨が加わり、ピカソの絵はまた変わってゆきました。
「マンドリンを持つ男」  1911年
「ギター」 1913年頃
「パイプを持つ男」  1914年頃

 

「肘掛椅子に座るオルガ」 1917年


 ピカソの最初の結婚は36歳の時でした。
 数多くの女性遍歴の末にロシアの貴族出身で
バレリーナであったオルガ・コクローヴァを妻にします。
 ピカソは一時ローマに招かれ、ロシアバレー団の
舞台デザインを手掛けることになったのです。
 その時、出会ったのが29歳のバレリーナ、オルガでした。
 オルガはロシア出身でしたが、戦争のため、
祖国に戻れなくなり、イタリアで過ごしていたのでした。
 37歳のピカソはすでに天才の名で呼ばれており、
その勢いで彼女に言い寄り、妻にします。
 シャンパンとキャビアを好んだというブルジュア趣味の妻を、
ピカソは古典的な手法で描きました。
ピカソの前衛的な表現はここには現れていません。
 ピカソは誰が見ても美しい絵を描いて、
オルガの願いを叶えました。
また、オルガの強い望みで、
ピカソはパリの上流階級との交際も始まりました。
この時代は「侯爵夫人の時代」と言われています。
 ピカソは社交界の花形となり、ピカソの絵は
訳の分からないものから少し変わり始めました
「水浴する女たち」 1918年


オルガと結婚した直後の夏、
海岸に遊びに行った時の絵です。
二人の水浴

1920年
1921年、長男が生まれます。これはそのころの作品です。
家族を得たピカソの満ち足りた気持ちがうかがえます
「浜辺を走る二人の女」 1922年


 オルガとの結婚以来、1920年代のピカソの絵はそれ以前と大きく変わりました。古代の女神を思わせる堂々とした体の女性像、古典主義と言われるこの時代のピカソの作品です。

女性の顔

1921年


ピカソはオルガを現実離れした顔で描き始めます。
そして二人の関係は悪化して行きます。
「村人のダンス」  1921-1922年頃
「接吻」  1925年


男女の体が完全に一体となって描かれています。
呼吸が出来ないほどの息苦しさで男と女が
絡み合っています。
軟体動物のようにくれくねとよじれています。
毒々しいまでの原色の色彩は
グロテスクを突き抜けて
ユーモアさえも醸し出しています。
ピカソには愛し合う男女の姿がこのように
見えていたようです。
「人物」 1927年


この時、オルガとの不和は決定的でした。


 1927年1月、パリ市内を歩いていたピカソは一人の若い娘に心を奪われます。
 マドマワゼル、あなたはとても美しい顔をしている。あなたの絵を描かせて下さい。素晴らしい作品になるはずです。ピカソ45歳、マリー=テレーズ・ワルテル 17歳でした。マリー=テレーズ・ワルテルはその誘いに応じました。ピカソの新しい時代が始まったのです。
 私の人生はピカソのために幸せであり、そして、ピカソのために涙にあふれるものでした。彼はとても素晴らしい人であり、また、とてもひどい人だったのです。
 ピカソはマレー=テレーズとの関係を秘密にしていましたが、やがてその姿は作品の中に現れてきます。
 ピカソは何時も仕事に取り掛かる前に私と愛し合いました。余りにも変わった愛を求めてくるので、可笑しかった。私が笑うとピカソは本気になって怒りました。まじめにやってくれって。
 ピカソはマレー=テレーズと二人の間に生まれた子を連れてオルガの元から離れます。

図とプロファイル

1928年.


「赤い肘掛椅子の女」 1929年


ピカソは美しい妻オルガをを軟体動物のような
姿に変えてしまいました。
 結婚から10年、気位が高く、自分とは性格も
趣味も違う妻との間に修復できない
亀裂が生じていたのです。
ピカソは後に犬のような生活だったと述べています。
この絵は振り向いてくれないピカソを呪い、
牙をむく生物のようです。
 オルガは63歳で亡くなるまで、
けっして離婚には応ぜず、
生涯ピカソを悩ませ続けました。
ピカソはこの絵を売らずにずっと持っていたようです。
「キリストの磔刑(たっけい)」  1930年


 十字架に磔けられた無表情のキリスト。
その下に凶暴なマリアの顔を持った
聖母マリアが居ます。
 オルガとの破局を契機にピカソの
創造のエネルギーが爆発したのです。
 次々とこのような絵を発表し、ピカソは再び
前衛芸術家たちから受け入れられるようになりました。

 

1931年頃

 

「オレンジを持つ女」 1934年 正面から


石膏像を作り、それに鋳造しブロンズ像を作りました。
頭は箱の蓋、襟はお菓子の形、胴体は溝のある円柱状の波型のボール紙を、スカートは鳥かごの金網を使って、石膏像を作りました。
「オレンジを持つ女」 1934年 斜め前から

 

「円テーブルのある大きな生物」  1931年


入り組んだ黒い曲線が渦巻くようなうねりを
繰り返して描かれています。
まるでエロスのような静物画です。
後年、これはマリー=テレーズの隠された
肖像画だと述べています。
「庭の中の裸婦」 1934年


実際名はあり得ない姿で横たわるマリー=テレーズは
歓喜をもたらす肉体のすべてを
ピカソの前にさらけ出しています。
ピカソは今までにない官能の世界を
表そうとしていたのです。
妻オルガの目を盗んで、30歳も年の違
うマリーテレーズと愛にふけったピカソは、
その後、自分の姿をミノタウロスの形に変え、
たくさんの絵を描いています。
「マリー=テレーズ・ヴァルテルの肖像」

  1937年


 何時までも少女的であると言っても、
女児マヤを生んだ後の
マリー=テレーズは急速に女性味をまし、
この年、26歳になりました。


マリー=テレーズはピカソが死んだ4年後に
自ら命を絶ちました
ピカソの居ない人生に耐えられなかったのです。
「ドラ・マールの肖像」 1937年


 1935年、妻オルガとの関係が破綻し、
恋人マリー=テレーズとの間に
女児マヤが生まれたばかりの時、
ピカソは29歳の画家・写真家のドラ・マールと出会います。
その後、彼女はもう一人の愛人となり、
ピカソに様々な刺激を与えることになります。
 何時までも少女的なマリー=テレーズとは
全く対照的な、成熟しきった妖婦のような
女性を感じさせています。
しかし、それは悲劇的な将来を予想させます。
パリにはドラ、田舎にはマリー=テレーズとマイ。
ピカソは同時に二人を愛しました。

「洞窟の前のミノタウロスと死んだ牡馬」 1939年

 しかし、ピカソとマリー=テレーズとの間には
まもなく変化が起きます。
 神話のミノタウロスは洞窟から死んだ馬を連れ出しています。
愛人に溺れ身を滅ぼしたミノタウロスを
自分の姿にして描いています。
 洞窟から延びる手は妻、オルガ。そして、マリー=テレーズは死んだ馬として描かれています。
 母となったマリー=テレーズは、すでにピカソにとって愛の対象ではなくなっていたのです。
 そして行き先には謎の女が描かれています。この女とはピカソが愛した第5番目の女、ドラ・マールでした。
 これだけ私的な絵では、
ピカソも手元に置いて置くことにしたのでしょう。
「子供とエビ」  1941年


 

 

「女の顔」  1939年

 


「鳥をくわえる猫」 1939年


スペイン内戦に続き、人類史上最悪の戦争、
第二次世界大戦がはじまりました。
1941年、フランスはナチスドイツに占領されました。
多くの芸術家がフランスを離れる中、
ピカソはパリに留まりました。
しかしナチスから作品の発表を禁じられ、
アトリエにこもる生活を余儀なくされます。
この時代、ピカソが描く絵は暗い色彩をおびています。
鳥をもてあそぶように食いちぎる猫。
「叫ぶ女」  1939年


 ゲルニカの空爆の後、喪の黒い衣装を着て
悲しみ叫ぶスペイン女の姿です。
乳房はなぜか一つだけです。
泣く女の連作の一つです。
悲しみと怒り表情を描いています
泣く女のもっとも有名な絵は、ニューヨーク、
ナショナルギャラリーに飾られています。

 

「牡牛の頭のある静物」

1958年

 

「子供と鳩」 1943年


ゲルニカの戦争後の暗い家の中を描いています。

  

「牛を抱える男」 1943年


肉付けもプロポーションもかなり写実的な等身大の彫刻で、
パリがナチに占領されていた時代に作られました。
ピカソの死後、アトリエの地下室で発見されました。
ピカソの彫刻技術は絵画並みに優れています。。




 1946年、ピカソはそれまでの愛人との関係を断ち切り、
6番目の愛人とフランソワーズと新しい生活を始め、
南フランスに移住します。
 ピカソは性的魅力あふれた若い女性に、
それまでとは違う何かを見出したのです。
 二人の間には40歳もの違いがありました。
まもなく、二人の間には子供クロードが生まれました。
1949年には娘も生まれています。
 自立心の高いフランソワーズは、オルガとの間に生まれた
子供たちを呼び寄せ、一緒に暮らし始めます。
また、オルガまでもが近所に引っ越してきました。
 フランソワーズはピカソの愛人やその子供たちの
訪問も受け入れていました。
 しかし、ピカソは気位の高いフランソワーズにだんだんと嫌気がさし、1951年、7番目の愛人を作ってしまいます。
 それに怒ったフランソワーズは自分からピカソのもとを
離れると言い出します。
今までの愛人の中で初めての出来事でした。
ピカソにとっては思ってもいなかった
屈辱的な出来事でした。

 

「朝鮮の虐殺」  1951年


 1950年、朝鮮戦争が勃発し、ピカソは、当時、
共産党員でレーニン賞も受けており、
その戦争への抗議表明を余儀なくされたようです。
ピカソにとって遠い極東での戦争は非現実的に
映ったのかもしれません。そのため、
この絵からは何か本気さが感じられませんが、
逆にそれが戦争のむなしさを訴えています。

ヤギの頭蓋骨とボトルとキャンドル

Goat Skull, Bottle and Candle

1952

 

「手を組んで座るジャクリーヌ」  1954年


この肖像画は出会って間もないころに描かれました。
異様に長い首はピカソが惹かれた
ジャクリーヌ・ロックの特徴でした。
ジャクリーヌはピカソが愛した7番目の女性で、
生涯同棲した最後の女性になりました。
ジャクリーヌは最初の夫と別れたばかりでした。
 70歳を超えていたピカソは身の回りのことをすべて
彼女に任せ、ひたすら創作に没頭していました。
ジャクリーヌはピカソのために自分のすべてを捧げ、
ピカソの仕事を支え続けました。
 この時、彼女は20台の終わり、ピカソは73歳でした。
 その7年後、二人は正式に結婚します。
すでにオルガは亡くなっていたのです。
ピカソの亡くなった後、13年たった1986年、
ピカソ展を企画しましたが、
それは亡き夫にささげた最後の回顧展でした。
回顧展の最初の夜、ジャクリーヌは
ベッドの上で自殺しました。

 

「マネの草上の昼食より」


1960年
マネ 草上の昼食 より

 1961年

 

「枕にもたれる女」  1969年


晩年、体力が衰えたが、すべてを手にしたピカソの
煉獄の絵のようです
「接吻」 1969年


85歳を超えピカソの創作は加速します。
そして最晩年まで自らを奮い立たせるかのように
男女の愛を描き続けました。
ピカソは述べています 
「この世で最も重要なのは愛である。たとえそれが
どのような愛であろうとも。」
「横たわる裸婦とギターを弾く男」  1970年

 

「帽子をかぶった座る老人」  1970年


 当時、90歳の老境にあったピカソは、
キャンバスに向かいながら、
ゴッホやセザンヌ、ルノワール、マティスなどが
懐かしく思い出されたのかもしれません。
この絵にはそれらの
画家の思い出が偲ばれているそうです。
「母と子」 1971年


90歳を目前にしたときの作品ですが、
乳児を抱くこの若々しい母親の姿は、
ピカソにとっての回想だったのでしょうか。
「若い画家」 1972年


最晩年、ピカソは象徴的な自画像をあたかも
遺言のごとくたくさん描いています。
この絵は年老いたピカソの理想の姿のようです。
ピカソ90歳です。書いた絵の名を
「若い画家」と名付けました。
ピカソはその翌年、91歳で亡くなりました。


 ピカソ自身が収集した名画も飾られていました。


ポール・セザンヌ  Paul Cezanne

 


モデリアーニ

Amedeo Modigliani

マチス Henri Matisse



ルノアール Pierre-Augste Renoir



 絵画館を出るときは、入るときよりもたくさん並んでいました。

 ホテル内のモニター画面です。カードを使用すると、ユーロで決済するか、日本円で決算するかを聞かれます。このレートでの支払いになるそうです。



      

4日目(月曜日) ロワール渓谷の3つの城の観光

 ロワール渓谷の古城群(世界遺産)

 フランス中部を流れるロワール川はフランス第一の大河で260kmに渡って作られたロワール渓谷の古城群は世界遺産に指定されています。
 温暖で風光明媚なこの地には16世紀、王侯貴族が競い合うように豪華な城を築きました。その数60以上、多くは戦いを目的とした中世の城塞とは異なり、ステータスシンボルとしてのお城でした。すなわち、立身出世した貴族たちが自分の力を誇示するがように作ったのです。
 16世紀、お城では頻繁に舞踏会が開かれました。女性たちのドレスは4kgもあったそうです。
 華やかな舞踏会の裏では、陰謀と愛憎劇が繰り広げられていたと言われています。王侯貴族間では宗教対立などもあり、毒殺事件がたくさん発生していました。
 王侯貴族のドラマであった多くの城はフランス革命で壊されました。その後修復され、現在は当時の王侯貴族の姿を伝える遺産となっています。


 城の観光は観光バスを利用しました。朝、6時45分が集合時間で、それに間に合うように行くには、安全を見てホテルを5時半ごろには出発する必要がありました。
 朝早いので、地下鉄はガラガラでした。時間に余裕があったので、地下鉄オペラで降り、バスの集合場所まで歩いて行きました。


 今日のツアーは3つの城、アンボワース王城、シュノンソー城、シャンボール城 を訪ねます。一人159ユーロでした。
 言葉はフランス語、英語、中国語の3カ国で、日本語はありませんでした。なお、明日のバスだと日本語ガイドが乗るそうです。
 今は、円安で1ユーロが140円ぐらいですから、コーラ1本が2ユーロ、すなわち280円程度しました。日本の約2倍もします。ただし、ニュージーランドの400円よりは安くなります。昨年の12月にニュージーランドでみたエニシアがここでも今がちょうど満開でした。また、菜の花もちょうど満開の時期で、畑一面を黄色に染めていました。



3つの城

 これから尋ねる3つの城の位置関係です。いずれもそれほど離れてはおりません。


アンボワース王城 Amboise Chateau Royal

 パリからおよそ2時間走ると、アンボワーズ王城に到着しました。

 ロワール川岸辺の駐車場にバスを停め、お城まで数百mです。各自、適当に昼食を取り、集合場所はこのバス停でした。



フランソワ1世の誕生

 この地に城塞が作られたのはローマ時代ですが、15世紀にはシャルル8世の居城として使われ、以来、フランス国王の居る王城となりました。
 16世紀初頭のヨーロッパはフランス王国、神聖ローマ帝国、スペイン王国、イギリス王国など、大さっぱな枠組みが作られていました。
 14世紀からイギリスとフランスの間には王位継承を争い、いわゆる100年戦争が続いており、イギリスは一時、パリの占拠にも成功しましたが、その後、よく知られたジャンヌダルクの出現によりイギリス軍を大陸から追い出し、大まかな領土が確定しつつありました。
 そして、フランスの王位継承者は男系のカペー朝の子孫のみが許されることに決められました。それにより、フランス王はヴァオワ家、ブルボン家へと受け継がれ、フランス革命によって王家が打倒されるまで続きました。
 15世紀末、シャルル8世はイタリアへの勢力拡大を図ってイタリア戦争を引き起こします。それに対し、ハプスブルグ家も対抗して出兵し、長く続く戦争となりました。
 その後、フランスでは、国王が次々と亡くなり、王位継承順位が低く、国王になるとは予想もしていなかったフランソワがルイ12世の死により国王となり、フランソワ1世が誕生しました。



フランソワ1世 (1494-1547)

 1515年、ルイ12世の死によりフランス国王になります。若干20歳の時でした。
 当時のフランスアはイギリスとの100年戦争で国土は荒廃し、その上、ペストの流行で多数の死者が発生していました。
 国王となったフランソワ1世がなすべきことはフランスを立て直すことでした。若い国王は大いなる野望を抱き、シャルル8世が始めたイタリアとの戦争を継承し、それに力を入れ、自ら先頭に立ち戦い、王位に付いた年に、ミラノ公国を占領し、スフォルツァ家を追放します。
 ミラノに入ったフランソワ1世が驚いたのはルネサンス文化の素晴らしさでした。
 スフォルツァ家に使えていた巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチに、フランスへ来てくれるよう懇願し、ダ・ヴィンチは翌年フランスのアンボワーズに移り、ルネサンス文化を伝えることになりました。もうすでに老齢で64歳でした。
 レオナルド・ダ・ヴィンチの名声はヨーロッパ中に知れ渡っていたのです。
 その時、ダ・ヴィンチは、モナ・リザをはじめ、聖アンナと聖母子、洗礼者ヨハネなどの絵を持ってきました。ダ・ヴィンチはそれらの絵を手元に置き、死ぬまで手放すことはありませんでした。
 25歳の時、立派なお城の建設に興味を抱いた王は、広大な森の中にシャンボール城を作ることを思いつき、実行します。
 当時の神聖ローマ帝国はいろいろな国の集合体でしたが、実態はオーストリアのハプスブルグ家が権力を握っていました。
 1519年、神聖ローマ帝国の皇帝マクシミリアン1世が死去するとその後継者を選ぶことになり、フランソワ1世も立候補しますが、当選したのはスペインの王、カルロス1世でした。彼はカール5世として神聖ローマ帝国の皇帝として即位しました。すなわち、フランス王国はスペイン王国と神聖ローマ帝国に挟まれてしまったのです。 二つの帝国の権力を握ったカール5世はミラノを奪還します。それに怒ったフランソワ1世はただちに先頭に立ち、兵を挙げますが、14,000名の兵を失う大敗北をきっし、その上、落馬して逃げ帰れずに捕虜になってしまいす。
 結局、多大な賠償金支払いとイタリアの領土を割譲により、祖国に戻ります。戻った国王はパリに住居を構えます。パリに戻った理由は、賠償金のためのお金を住民から徴収するためでした。今も流行している宝くじ、Loto もこの時考案されたものだそうです。
 1538年、フランソワ1世はカール5世と休戦条約を結び、完成したシャンボール城に招待しています。
 1546年、荒れ果てたルーブルをルネサンス様式の宮殿に全面的に改築するよう命じます。その改築はアンリ2世に引き継がれ、さらにルイ14世まで続きました。
 そしてまた、パリの郊外にフォンテーヌブロー宮殿を築きます。そこで、彼は、手に入れたモナ・リザを見ては心を癒したそうです。
 1547年、病に侵された王は、53歳で生涯を閉じました。
 
フランソワ1世 (1494-1547)
 アンボワーズ王城は、若きフランソワ1世の居城でしたが、そこから600mほど離れたところに、ダ・ヴィンチのための住居を作り、なんと、そこへは秘密の地下道も作り、フランソワ1世はその地下道を通り、よく、ダ・ヴィンチの所へ訪れていました。訪問の目的は、ペストが発生しないような衛生的な都市の建設やたくさんの人が住める館の建築などを相談するためでした。
 しかし、ダ・ヴィンチはここにきてから3年後、死去してしまいます。
 フランソワ1世は遺族から、ダ・ヴィンチが決して放さなかったモナ・リザの絵などを買い上げます。モナ・リザに支払ったお金は 4,000エキューで、現在の価値に直すと約4,000万円になるそうです。それらは今ルーブル美術館の宝となっています。
 この城の中には、ロオナルド・ダ・ヴィンチのお墓が作られ、祀られています。


 アンボワーズ城城はロワール川に面し、少し高い所にあります。城への階段を上り、狭い入口をくぐると、芝生や庭園に囲まれた建屋が現れます。



 お城の中を一通り見学しました。



 屋上からの眺めです。



 庭園の散策です。

 

 



サン・チュペール礼拝堂

 レオナルド・ダ・ヴィンチが眠っています。


 昼食をここで取りました。ビールとサンドイッチにしました。



シュノンソー城 (貴婦人たちの城) (Château de Chenonceau)

 シャルル8世の住徒、トマ・ボイエは1515年から1521年にかけて、ロワール川の支流に作られていた城と水車を再建し、新しい邸宅を建設しました。
 その後、この城は負債を支払うため、ボイエの息子によって、フランソワ1世に献上されました。
 その後、この城は多くの人の手に渡っています。特に、6名の貴婦人の手に渡ったこともあり、貴婦人たちの城ともよばれています。



 お城へは農園や引馬のギャラリーの脇を通って行きました。



お城は何種類もの庭園に囲まれています。



城は川を横切って建てられていました。

 

  



シャンボール城  Château de Chambord

 フランス文化の父とも呼ばれるフランソワ1世は、1519年、広大な森の中にシャンボール城の膨大な建設工事に着工しました。弱冠24歳の時でした。
 アンボワーズ城に住んでいたフランソワ1世はダ・ヴィンチの描いた設計図を参考に、城の建設に情熱を燃やしたのです。
 この頃は、すでに、城は戦いのためのものではなく、自分の権威を象徴するステータスシンボルとして作られていました。ここはパリからはかなり離れており、パリは儀礼的な用途にのみ使用されていました。
 この城は、もともと、狩猟用の離宮としても考えられていましたが、幅156m、高さ56m、77の階段、282の暖炉 426の部屋、365の煙突など当時としてはけた外れの規模でした。
 当時、日本では足利将軍による室町幕府の時代で、天皇と戦国大名との争いが絶えず続いていた頃でした。



 駐車場から歩いてゆくと、驚くほどたくさんの塔のあるお城が出現しました。


 お城の正面です。
 王冠をかぶっているようなお城です。向かって右側の建物は王の居室、左側は教会になっています。王と神が対をなしている城です。
 中央の搭の頂上には王家の象徴であるシンボルのユリの花の紋章が飾られています。
 これらすべての塔は煙突で、暖炉につながっています。
 搭にはいろいろな彫刻がなされています。



中央の二重らせん階段

 城の中央には2重らせん階段が作られ、登りと下りを別々にして、誰にも出会うことなく、上り下り出来るのだそうです。

 屋上に上がると装飾された数多くの塔を間近に見ることが出来ます。

 

 城の周りには広大な庭園やロワール川から引き込まれた小川が作られていました。



 内庭を囲む四隅にはらせん階段が作られていました。



 屋上の塔の周りに回廊が作られていました。



 お城の中はとても質素でした。博物館も作られていました。


 城の内庭から見た姿です



 シャンボール城に隣接して教会が建てられていました。

 予定よりもだいぶ遅くなり、パリに帰ったのは9時頃でした。


 パス発着場の近くの風景です。今日も夕食はラーメンにしました。レジ係の女性は日本人でしたが、働いている人たちは中国人で日本語は通じませんでした。



      

5日目 (火曜日) モンマルトル近郊散策、

   ケ・ブランリー美術館、市立近代美術館、マルモッタンン美術館

 ホテルを出るとすぐ近くに洗車場があります。毎朝、その前を通るのですが、何時も満車です。日本なら今はほとんどが自動洗車ですが、こちらは自分で洗っていました。



モンマルトル界隈散策

 7年前、パリで7泊した思い出のある場所です。そのホテルも含めて、周辺を散策してみました。
 地下鉄を降り、テルトル広場の方へ歩いてゆきました。
 まだ、朝も早くひっそりとしていましたが、一人の女性が迷いながら歩いている私たちを見つけると、結構の坂道にも関わらず、テルトル広場の近くまで案内してくれました。



 普段ならかなり賑わい、似顔絵書き屋さんなどがたくさんいる所ですが、まだひっそりとしていました。



サン・ピエール・ド・モンマルトル教会

 サクレ・クール聖堂に隣接して建てられている教会です。ちょっと覗いてみました。朝早いためか、誰もいませんでした。


サクレ・クール大聖堂

 聖堂に入ると、かなりの人がすでにお祈りをしていました。写真は禁止でした。
 小雨のため、パリの市内を見渡せる前庭からは残念ながら、良く見えませんでした。



 丘を降り、7年前に7泊したホテルの近くを通って地下鉄に向かいました。



ケ・ブランリー美術館

 エッフェル塔の近くに、2006年6月に開館した美術館で、美術館そのものがちょっと変わった形をしています。
 入場料を支払い中に入ると、長い廊下が続きます。



 アフリカ、アジア、アメリカ、オセアニアなどの各地から集められた美術品が飾られていました。
 ピカソの絵によく表れる人体や顔の原型を見ることも出来ました。ピカソがアフリカ美術に夢中になったのもうなずけます。



日本の入れ墨

 ここでは日本の入れ墨が、美の対象として飾られていました。



 メキシコへ行った時に見た埴輪に似ています。



 さほど遠くない市立近代美術館まで歩いてゆきました。



市立近代美術館 Musée d'art moderne de la Ville de Paris

 前回来た時も入ってみましたが、特別展以外は無料で見学することが出来ます。



 この絵のために作られたような部屋です。

 

ジャン・メッツァンジェ

 Jean Metzinger
 1883-1956

 フランスのキュビスムの画家。

青い鳥

 
 1912-1913年
フアン・グリス  Juan Gris

 1887-1927 

スペインで生まれパリで活躍した
キュビズムの画家




 1913年
アンドレ・ドラン Andre Derain

 
1880-1954
 
フランスの画家。
フォーヴィスムの運動において
指導的役割を果たした。

テーブルの上の静物

 1910年
ロベール・ドローネー
  Robert Delaunay 

1885-1941 

フランス画家で抽象画家の先駆者


パリの街

 1910-1912
フランティセック・クプカ
 Frantisek Kupka

1871-1957

 チェコ生まれの抽象画家 

平面と斜め

  1925年
Colloque ethnographique,  

1956
ハンス・アルトゥング  Hans Hantung

1904-1989 
ドイツで生まれフランスで活躍した抽象画家


T 1946-16

 1946年
Bernard Requichot

 1929-1961

フランスの画家

無題

 1957年
Zao Wou-Ki

1921-2013


1968年1月6日



ジャン・フォートリエ Jean Fautrier 1898-1964 フランスの画家、彫刻家、抽象芸術の先駆的な存在
栗の森  1943年 ユダヤ人
かわいい女の子 1927年
生物  1925年



ジョルジョ・デ・キリコ 

Giorgio de Chirico 1888-1978 イタリアの画家、形而上絵画派を興し、後のシュルレアリスムに大きな影響を与えた。
マラソンの戦士  1971年 秘的な動物の種皮  1975年



ラウル・デュフィ Raoul Dufy 1877-1953 フランスの画家。野獣派に分類される。フランス近代画家

ピンク色の部屋  1931年
裸婦  1930年
エプソンレース  1934年
民族と旗  1935年
家庭菜園  1915年


 

アメデオ・モディリアーニ  Amedeo Modigliani

1884-1920

 イタリアの画家、彫刻家。
主にパリで制作活動を行った。

青い目の女

 1819年
Marcel Gromaire

 1892-1971

フランスの画家

戦争

1925年
藤田嗣治 1886-1968


寝室の裸婦キキ

 1922年
Marie Toyon

 1902-1980

プラハ生まれの画家。
パリにも住んだが、プラハで活躍した

スクリーン

1966年

パブロ・ピカソ Pablo Picasso

1881-1973
 

招魂 カサヘマスの埋葬


 1901年

 カサヘマスはピカソの大の親友の画家でした。
カサヘマスは自分のモデルの女生との恋に破れ
ピストル自殺を図ったのです。
大きな衝撃を受けたピカソは、
死というテーマに取りつかれます。
 埋葬されるカサヘマスは白馬に乗り多くの女たちに
見送られ天国に上ります。
 この頃からピカソの絵は青一色になってゆきました。
ピカソ、青の時代の始まりです。
ただし、この暗い青の時代の絵はほとんど
売れませんでした。
アンリ・マティス  Henri Matisse

1869-1954

フランスの画家
20世紀を代表する芸術家の一人

モデル

1901年



エドゥアール・ヴュイヤール
 Edouard Vuillard 1868-1940 フランスの画家。平面的、装飾的を特徴とする

再洗礼派 1930-1935年
ピエール・ボナールの肖像 1930-1935年




 ギメ美術館の前を通ると、何やら日本の特集をしているようです。
 今日はここはパスして、モネの日の出で有名なマルモッタン美術館へ向かいました。



マルモッタンン美術館

 ここは残念ながら、カメラ禁止でした。
 美術史家ポール・マルモッタンの邸宅がそのまま美術館になっています。マルモッタン夫妻が収集した絵に加えて、後年、数々の印象派の作品が寄贈され、現在の姿になりました。とりわけ、モネの息子、ミシェルが遺贈した父親の作品群のおかげで、印象派の美術館として見逃せない美術館となっています。
 モネやマネ、ルノワール、シスレー、シニャック、モリゾなど印象派の絵が並んでいます。

 カメラは使えませんが、マルモッタン美術館のホームページから、小さな画像ではありますが、ダウンロードして楽しむことが出来ます。
 http://www.marmottan.fr/uk/ です。

 パリは至る所、マロニエの花が満開でした。

 

 フランスの美術館は一般にカメラ可能ですが、ここは禁止でした。それで面白いことを発見しました。
 日本の美術館は一般にカメラ禁止ですが、それは混雑防止のためだと思っていたのですが、まったく逆であることを発見しました。
 すなわち、写真可の美術館ではたくさんの人が写真を撮っています。したがって皆さんも慣れたもので、写真を撮ると、次の人のために、さっと絵の前から去ります。 
 しかし、この美術館は写真禁止ですので、しっかり見て覚えようと思い、なかなか絵の前から動かないのです。そのため、かえって渋滞が起こっていました。
 日本でも、写真可能にすれば、美術館の流れは良くなると思います。そして、もう一度、自宅で楽しめます。 
 以下は美術館からのダウンロードした写真です。絵の詳しい説明は、美術館のホームページ  http://www.marmottan.fr/uk/ に出ています。
 より大きな高画質が欲しい場合は、インターネット検索で簡単に入手することも出来ます。



古典的絵画



マルモッタン氏が収集した主な絵



印象派の主な絵



クロード・モネ  Claude Monet  (1840~1926)

「印象、日の出」

1872年制作

1874年の第一回印象派展に出品されました。
朝もやの中に太陽が姿を現し、水面にはオレンジと白で光の揺らぎが描かれています。
 発表当時の批評家たちの評判は散々なものでした。ある新聞には「書きかけの壁紙だってこの海の絵に比べたらまだましである」とかかれています。
モネは刻々と移り行く大気と光を描こうとしたのです。その一瞬をキャンバスに描いたのですが、当時はその画法がほとんど理解されませんでした。
後のこの絵は印象派の象徴となる歴史的傑作と評価されるようになりました。
また、この絵によって、印象派という言葉がうまれました。



ベルト・モリゾ Berthe Morisot  
 (1841-1895) マネの絵画のモデルとしても知られる、19世紀印象派の女性画家。印象派。



ブローニュの森

 モルマッタン美術館のすぐそばは、ブローにの森です。
 名前はよく聞きますが、まだ行ったことはありません。
 長辺が約3km、短辺が1kmぐらいの広さです。



 すぐ近くなので、森の中にちょっと入ってみました。人がほとんどいないので、危険を感じて戻りました。



 近くの公園では芝の上で歓談したり、食事をしたり、穏やかな風景です。


     


6日目(水曜日) ホテルを移動。植物園散策、

         LMAG メンバーが全員集合し、ディナーパーティ

 いよいよ今日からLMAG ツアーが開始され、5月17日の朝まで団体行動になります。
 私が知っているのは、ホテル名と夕方集合という事だけです。
 とりあえず、今まで5泊したビジネスホテルからパリの四つ星ホテル、Pullman Hotel Paris Bercy に向かいました。
 まだ、午前10時ごろだったので、チェックインは無理で、とりあえず荷物を預け、近くの植物園に行ってみました。
 ホテルはパリの中心を挟んで、昨日までとは全く反対側の Bercy 地区で、ここは、かってはワイン倉庫のあったところで、それを再開発したそうです。
 確かに地下鉄を出ると、おしゃれな商店街が並んでいます。
 ただし、コンビニに行くには15分程度歩く必要があり、少し不便でした。

 

 ホテルの周りの風景です。

 

 ホテルから歩いてもさほど遠くはないのですが、地下鉄でリヨン駅まで行き、そこから植物園まで歩いてゆきました。

 



オステルリッツ駅

 鉄道駅ですが、昔ながらのかなり凝ったビルが駅になっていました。



パリ植物園

 かなり細長い植物園です。入場は無料でした。



進化大陳列館 Grande Galerie de l’Evolution

 植物園の中にあります。美しい風景ですが、陳列館には入りませんでした。



温室

 ここは有料でしたが中に入ってみました。オーストラリの近くにあるニューカレドニアの地図が書かれていました。



進化大陳列館 Grande Galerie de l’Evolution

 この陳列館には入らず、その脇から外に出ました。



アラブ世界研究所

 面白そうな名前の建物があったので入ってみました。
 この研究所はアラブ世界との文化交流を目的として建てられました。地上10階、地下3階、総ガラス張りの建物で、図書館、シネマテーク、ギャラリーなどがあります。ギャラリーは有料で写真禁止と書かれたので入りませんでした。
屋上に上ると、ノートルダム寺院をはじめ、周辺が一望できました。誰でも無料で屋上まで上がることが出来ます。



 適当に散策しながら地下鉄を利用し、ホテルに戻りました。
 ホテル到着は3時ごろで、チェックインはもう可能になっていました。預けた荷物はポーターが部屋へ運んでくれました。
 部屋に荷物を入れるとすぐに出て行きました。最近はチップを要求しなくなったようです。 


 今回のツアー参加者は、各自、自分でこのホテルまで来ることになっています。ロビーの掲示板に、これからの予定が貼ってありました。


 全員がロビーに集合し、各自、名札を貰い、胸に付け、観光バスでレストランに向かいました。
 適当に周りにいる人たちと紹介しあいましたが、ただちに名前と顔を覚えるには不可能です。
 参加者は合計35名で、男性の単独参加が3名おりました。それ以外はすべてご夫婦での出席でしたから、16組のご夫婦が参加したことになります。
 なお、前もって全員に、名前とメールアドレスの公開の有無を聞かれており、ほとんどの方はOKの返事をしたようです。
 それによると、日本からは私たち夫婦とお一人参加の合計3名、カナダご夫婦1組、ウルグアイご夫婦1組、南アフリカご夫婦1組、その他はすべてアメリカでした。特にテキサスからが多く、テキサスのLMAG会長が熱心に参加者を誘ったとのことでした。


     

7日目(木曜日) 午前、Edouard Branly Musium、

         午後、国立電波法人、国際電波監視センター見学

 朝食の風景です。さすがに、昨日までのホテルよりは立派でした。


 これから16日の夕刻まで、このバスにお世話になります。ヨーロッパの WiFi 環境は進んでいます。バスの中でもインターネットが無料で使用できます。
 WiFi のアンテナが車の中央に置かれていました。



 これから、午前の訪問地、 Edouard Branly Musium に向かいます。



Edouard Branly Musium

 2010年に IEEE Milestone を貰っています。



 博物館の見学です。大学の中にあります。



 講師の方は、ボランティアだそうですが、 Edouard BRANLY の説明がありました。

 中央のお婆さんは、Branly のお孫さんだそうです。今日の日を楽しみにしていたそうです。


 Edouard BRANLY はフランスの無線通信の父と言われています。彼女の話によると、「イタリアのマルコニーは有名だが、ブランりーも同じような仕事をしたのに、あまり知られていなくて残念だ。」と話していました。
 フランスでは、ブランリー賞でもよく知られた人だそうです。



 昼食はフランスの IEEE による招待でした。 ワインもたっぷり頂きました。


 

午後は、フランスの無線監視所の見学でした。
当初は、パリ郊外の Villejuif による無線研究所の訪問でしたが、急きょ、パリから40kmほど離れた Rambouillet の無線監視所になりました。
菜の花畑に囲まれた素晴らしい所にあり、畑の中には無数のアンテナが建てられていました。



国立電波法人、国際電波監視センター

 海に囲まれた日本とは異なり、陸続きに国境があるヨーロッパ大国では、電波の監視が重要なのだそうです。このような設備はフランスの中に7~8か所あるそうです。違法な電波を発射する設備と発見し、他国に迷惑を掛けないようにするとともに、周辺国からの違法な電波も監視しているのだそうです。
 見学終了後、全員そろって記念写真です。全員で撮ったのは今回だけでした。



 パリに帰る途中、昨年、ニュージーランドでみたエニシダがここでも満開でした。


      

8日目(金曜日) 終日、ルーブル美術館

 今日は第二次世界大戦勝戦記念日でフランスの祝日です。毎年、5月8日が終戦記念日となり、日本の終戦日8月15日より3ヶ月以上早く、戦争が終わっています。
 コンコルド広場に来ると凱旋門まで車や人が遮断されています。いつもは車で一杯になっている通りです。今日はここで、オランド大統領はじめ多くの要人のパレードがあるそうです。
 これらの写真は車窓から撮ったものです。



アンヴァリッドとエッフェル塔

 バスは各々5分ほど停車し、写真撮影でした。



ルーブル美術館

 若い頃の見学を含めると、もう、何回来たでしょうか。でも、今日は1日中、この美術館で過ごすことにしました。
 ただ、そうなると、体力勝負のようにもなってきます。

 今回は思い出しながら、少し詳しく書いてみました。

 ルーブル美術館は極めて広く、詳細に歩くと数か月もかかるとも言われています。その貯蔵品は37万点もあるそうです。
 とにかく、3つの翼の名前を覚える必要があります。また、展示室は4階もありますから、今、何階にいるかも注意していないといけません。
 入り口のナポレオンホールは地下にあり、そこからエスカレーターに乗り半地下階から見学開始になります。

 我々を載せた観光バスは地下の駐車場に入りました。もうかなりの台数が停まっています。
 建物は大きく分けて三つに分かれています。
 セーヌ川に面するのがドゥノン翼、ルーブルの初代館長、ドゥノンの名を取って付けられました。モナリザを始めとしたルネサンス絵画などが展示されています。
 図の右側の正方形はシュリー翼、建物に囲まれた中庭はクール・カレと呼ばれています。古代ギリシャやエジプト美術などが展示されています。
 リシュリュー翼は1993年、新たにルーブル美術館に加えられた翼です。
 オランダなどのフランドル絵画、フランスの彫刻や工芸品などが展示されています。それまではここに大蔵省が入っていたのですが、時の大統領、ミッテランが美術館の拡大を進めました。
 建物全体の周囲の長さは1.5kmにもなります。
 観光バスの駐車場は、一般車の駐車場とは異なり、シェリー翼の右にあるようでした。


 バスを降りて入り口に歩いてゆく道は、ルーブルの大リニューアルの時に発見された12世紀の要塞の跡です。
 この城壁は、1983~1985年のルーブル大改造計画に伴う発掘で発見されました。

 この建物を作ったのはフランス国王フィリップ2世(1165~1223)で、この砦は1190年に作られました。
 12世紀、イギリスの攻撃からパリを守るためにセーヌ川沿いに築いた砦です。それがルーブルの始まりでした。国王はこの城が最も安全だと思い、この城に住み始めました。以来、ここはフランス王室の住処となりました。
 1546年、フランソワ1世は、中世の砦を取り壊し、そこにルネサンス様式の宮殿を建てました。以来、数々の王がここに住み、ルイ14世は、数多くの美需品を集め、ルーブル美術館の基礎を作りました。
 



美術館入口

 団体客は並ばなくても入ることが出来ました。ただし、切符を持たないので、間違って出てしまわないようにとの注意がありました。


 ルーブルの見学は、学芸員のガイドが付き、約1時間半のツアーでした。35人は二班に分かれ、別々に見学します。ツアーの人員は約15名位に制限されているそうです。
 とにかく、ガイドさんに付いて見学して回りました。一応有名な所だけを案内してくれました。
 
 例えばこれは半地下の配置図です。
 中世のルーブルの堀跡やギリシャ美術、エジプト美術、イスラム美術、イタリア彫刻、スペイン彫刻、等があります。
 非常に広いので、例えばリシュリュー翼からドゥノン翼へ行こうと思うと、歩くだけでも数10分は掛かります。とにかく自分が目的の方向に歩いているのか、ところどころにいる係員に聞きながら進みますが、館内は迷路の様で、元の所に戻ってしまいかねません。

 

Jacopo della QUERCIA

 1374-1438

イタリアの彫刻家

聖母子 La Vierge et I'Enfant



 ガイドさんは1階を飛ばし、2階へと案内しました。

 2階の配置図です。この階にはダ・ヴィンチのモナ・リザがあります。



大作の間

 ドゥノン翼の内側(リシュリュー翼)の廊下の画廊です。
 赤い壁に大きな大作が並んでいます。いわゆる、大作の間です。
 ここにはフランス絵画の巨匠たちの絵が並んでいます。特にドラクロワとアングルの二人の巨匠が有名です。
 ルイ14世は1648年、王立絵画彫刻アカデミーを創立し、フランス革 命期までの150年間、芸術家の教育に尽力しました。ルーブル内にサロンを開いて画家たちに出品させ、競争させてフランスの画家を育てて来ました。

アリー・シェフール

1795-1858
オランダ出身のフランスの画家

ダンテとウェルギリウスの前に現れる
フランチェスカ・ダ・リミニと
パオロ・マラテスタの亡霊

 1855年

ドミニク・アングル
 
1780-1867
 フランスの画家
19世紀前半台頭してきた
ロマン主義絵画に対抗し、
新古典主義を継承した


戴冠式のジャンヌ・ダルク
 1854年

オルレアンでのジャンヌ・ダルク記念祭で
初めて公開されました。



グランドギャラリー

 ドゥノン翼のセーヌ川側の廊下にはイタリア絵画が両側にびっしりと並んでいます。この廊下はグランドギャラリーと言われており、その長さは450mもあります。
 この長いグランドギャラリーはアンリ4世(1553-1610)によって作られました。アンリ4世は、16世紀末、宗教対立を押さえて見事フランスを統一した名君です。
 アンリ4世が即位してすぐに取り掛かったのがルーブル大計画でした。内戦で荒れ果てたルーブル宮殿を王宮にふさわしい宮殿にしたいというのが王の願いでした。
 アンリ4世は統一されたフランスの威光を示すような壮麗な建設を進めたのです。先ずはバラバラに建てられていた二つの宮殿をこの長い建物で一つに繫ぎました。それがグランドギャラリーでした。
 なお、王は生涯で56人の女性を持ったそうです。

 

ポール・ドラローシュ

アルプスを越えるナポレオン・ボナパルト 

 1848年



ジャック=ルイ・ダヴィッド Louis David

 1748-1825 フランスの新古典主義の画家 ナポレオンの画を数多く描いています。


サビニの女たち

Les Sabines

古代ローマの伝説をもとに描かれた作品です。

セリザット氏の肖像

Portrait of Monsieur Serizat



テオドール・ジェリコー

メヂュース号の筏
 
1819年


史実をもとに想像で描いたそうです。





ジュゼッペ・アルチンボルド  Giuseppe Arcimboldo 1527-1593

四季 冬(左上) 秋(右上) 夏(左下) 春(右下)



モナ・リザの間

レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452-1519 イタリアのルネサンス期を代表する芸術家。

 2005年に作られたルーブルでは一番新しい部屋です。モナリザの間という名前が付けられています。
 人気作品モナ・リザを多くの人がスムーズに見られるように特別に作られました。また、盗まれたり、傷つけられたりしたモナ・リザを守るため、防弾ガラスで厳重に守られています。ここは何時来ても混んでいます。
 いうまでもなく、レオナルド・ダ・ヴィンチ  Leonardo da Vinci  1452-1519 の作品です。

  

パリス ボルドン 
 Paris BORDONE 1500 - 1571 イタリアの画家

神話のカップル
(Couple mythologique )

1540年
フローラ
Flore
1540年

フローラとは古代ローマの女神で
女性美の象徴です。


ティツィアーノ・ヴェチェッリオ

 1477-1576
 盛期ルネサンスのイタリア人画家

結婚の寓意
 Allegorie conjugale

結婚の神が結婚の心得を説いています。
後ろの男性は軍神マルスです。
ヘラルト・ダヴィト

Gerard David
 1460-1523 
オランダ生まれ
初期フランドル派の画家。
初期オランダ・ルネサンス期に活躍しました。


ジュリエット ド ヴィルヌーブの肖像

グランドハープを引いています。

ピエール=ナルシス・ゲラン
Baron Pierre-Narcisse GUERIN

1774-1833
フランス人の画家

アンドロマケとピュロス
Andromaque et Pyrrhus
(1810年)
セバスティアーノ・デル・ピオンボ
1485-1547
イタリアの画家


聖家族、聖カタリナ、聖セバスティアヌスと寄進者
1511年

ドミニク・アングル
 1780-1867
 フランスの画家
19世紀前半台頭してきたロマン主義絵画に対抗し、
新古典主義を継承した。

ムッシュリビエールの肖像
「Portrait of Monsieur Rivière」
アントワーヌ=ジャン・グロ

(Antoine-Jean Gros)
1771-1835
フランスの画家
ロマン主義を代表する画家
歴史画や肖像画を得意とした。

クリスティーヌ・ボワイエ像
1800年頃
ピエール・ナルシス・ゲラン

アウロラとケファロス
1810年


暁の女神アウロラが描かれています。

アウロラは美青年が好きで、
妻子ある男の上に花を散らし
誘惑しようとしています。


エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン
Elisabeth Vigee-Lebrun
1755-1842
フランス人の画家

ルブラン夫人とその娘
 Self Portrait with Daughter
1789

画家本人と、その子供のかわいらしい作品です。

肖像画家として成功した彼女は
女王マリー・アントワネットに気に入られ
多くの肖像を描いていますが
フランス革命の後はフランスを離れ、
多くの国で肖像画を描いています。


 




ジャック=ルイ・ダヴィッド Louis David

ナポレオン1世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠式 1806-1807年

 18世紀、ルイ14世がベルサイユに宮殿を移してしまったあと、ルーブルは浮浪者が住みつくきわめてガラの悪い場所になってしまいました。そして、およそ100年の間、ルーブルは無法地帯となっていました。グランドギャラリーの中で、浮浪者たちは、寝焚きをする始末でした。壁には穴をあけ、煮炊きのための煙突まで取り付けられていました。
 長いルーブルの悲惨な歴史を変えたのはナポレオン・ボナパルト(1769-1821)でした。
 ナポレオンは1789年に勃発したフランス革命で頭角を現し、その10年後にはフランスの指導者にのし上がります。革命が広がり王室が倒されることを恐れたヨーロッパ各国はフランスに対抗して同盟 を結びました。しかしそれを打破するための戦いが始まりました。
 ナポレオンは司令官として各地に赴き連戦連勝、まさに「わが辞書 に不可能の文字はない」といった言葉は有名です。ナポレオンはヨーロッパ各国から戦利品として5000点もの美術作品をフランスへ持ち帰りました。しかし、これら膨大な美術品の収集場所が必要でした。そのため、ナポレオンは浮浪者たちを追い出し、ルーブルを美術館や政府の機関、また、自らの住所にするなどの一大建造物に変身させたのです。また、ナポレオンはルーブル宮殿にあった王室の美術コレクションを1793年から中央美術博物館として市民に公開を始めました。1803年には、ナポレオンは自らの名を冠してナポレオン美術館と名前まで変えてしまいました。
 この絵は、縦6m21cm、横9m79cmという大作で、フランス革命に勝利し、皇帝になったナポレオン一世がノートルダム大聖堂で行われた戴冠式で妻のジョゼフィーヌに王冠を被せるという栄光の一瞬を描いています。登場する200名の顔が肖像画のように鮮明に描かれています。
 本来の戴冠式とはローマ教皇がナポレオンに冠を授けるはずですが、この絵ではローマ教皇がナポレオンに呼ばれその後ろに座っていて、ナポレオンは、妻に王冠をかぶせようとしています。
 実際は、自分の頭に王冠をかぶせたそうです。しかし、それではあまりにも傲慢すぎると反感を買うのを恐れてこのようい書かせたそうです。
 妻はすでに41歳ですが、20歳代のように描かれています。また、妻とナポレオンの母は仲が悪く、この戴冠式に母は出席しなかったそうですが、中央上部の椅子に座っています。
 ダヴィッドはこの絵を描くのに3年もかかりました。この時着ていた衣装などは後で借りてきて、それを参考にして描いたそうです。
 1808年、この絵が展示されると大勢の民衆が詰めかけ、館内はこの話題作を見る人で大混雑したと言われています。
 このようにして、ルーブルは王や貴族だけではなく、一般大衆も見ることが出来る美術館となりました。
 ナポレオンは1814年、冬のロシアの戦いで敗れます。軍から見放さ れた彼にもはや力はありませんでした。失脚し、島流しになります。しかし美術館は民衆のものとなり、ルーブル美術館はフランスの宝となっています。

   



サモトラケのニケ

 フランスの考古学者がギリシャの神々の島、サモトラケ島で発掘調査を行っていたところ、1863年、女神の像を発見しました。バラバラの破片を集めると、美しい女神の像が現れたのです。
 この女神はサモトラケ島の教会前に飾られ、海の安全を守る神としても崇められていました。勝利の女神、ニケが船の上に舞い降りた時の姿を躍動感あふれる姿で現しています。
 しかし、西暦に入ると世界的にキリスト教が広がり、ギリシャの神々は次々と破壊されてしまいました。そしてサモトラケのニケも壊され、海の中で2000年も眠ることになったのです。
  ニケがルーブルに飾られたのは発見から15年後でした。その時は胸も羽も無く、おなかの部分まででした。
 収集した部品があまりにもばらばらだったのでどのように組み立てるのか分からなかったからでした。
 当時、すでに顔と羽のある女神がいろいろな所でたくさん発見されていました。ルーブルの学芸員で修復専門家たちが、それらを参考に、復元してゆきました。胸の大部分と左の羽の一部、右の羽はほとんどが想像で石膏により復元しました。
 その時は腕の根元までも復元しましたが、それはでっち上げに近づくので、腕は取り外したそうです。
 ニケとはギリシャ神話に出てくる勝利の女神で、紀元前約190年頃に作られ、天から舞い降りる女神の姿をしています。ギリシャ彫刻の最高傑作と言われています。船の上に飾られているのは、海での戦いに勝利した記念に作られたからです。古代ギリシャは海を舞台に交易により発展しました。
 ニケの高さは台座も含めると5m57㎝もあり、ニケの高さだけでも2m75cmもあります。重量は約32トンにもなる大作です。



 階段を下り、1階に戻りました。

 この階にはエジプトやギリシャの彫刻がたくさんあります。
 ミロのヴィーナスもこの階の目玉です。



 ギリシャ彫刻の傑作がたくさん並んでいます。当時、彫刻家は人間の裸体の美しさを表現しようと競い合いました。



ミロのヴィーナス

 1820年、エーゲ海の小さな島、ミロス島で大きな二つの塊といくつかの破片が偶然発見されました。たまたまそこにいたフランスの大使が交渉の末、手に入れることが出来たそうです。作者不明 紀元前130-100年頃の作品です。
 この像は、人間が考えうる最高の美しさを持ち、大理石で作くられています。そこには人体の美しさがすべて入り込まれていると言われています。
 見つかった時、すでに腕が無かったそうです。復元案がいろいろ提案されましたが、どのように腕を付け加えてもうまく付けられないので、そのままにしてあるそうです。
 均整の取れた8等身の美人です。体を少しひねって独特の美しさを作り出しています。オリジナルのギリシャ彫刻で頭まで残っているのは世界でもこのミロのビーナスだけだそうです。

 



 エジプト芸術の間に入りました。

タニスの大スフィンクス

このスフィンクスは紀元前2,600年ごろ、
今から4600年前に作られ、
エジプトの都市、タニスで発見されました。
横4.8m、高さ1.8m、堅い花崗岩を彫って作られています。
スフィンクスとはライオンの胴体に人間の顔。
エジプトの王の姿です。かぶっているのが王様の
頭巾と言われる「オメス頭巾」です。
ライオンは太陽神ラーの象徴です。エジプトの王は
ラーと密接な関係があることを示そうとしました。
スフィンクスは王の権力と力の象徴でした。
均整の取れた素晴らしい像です。


 再び、全員が地下に戻り、ここで、ルーブル美術館に留まる人、コンコルド広場に行き、戦勝セレモニーを見る人、また、オプショナルツアーでヴェルサイユ宮殿へ行く人に分かれました。
 私たちは、ルーブルに留まる事にしました。
 これからは案内者がおりません。
 



古代エジプト美術展示室

 ここには5万5000点もの展示物があり、世界屈指のコレクションです。

 そのまま階段を上り、2階のエジプト、ラファオ時代の年代順見学コースへ行ってみました。



書記座像

 エジプト美術史上、最も優れた作品の一つと言われています。紀元前2,500年ごろに作られました。
 当時の書記はとても地位の高い仕事で、学問を司る神トトの力を宿していると言われていました。
 膝にはパピルスの紙が置かれています。目には水晶がはめ込まれています。黒目と白目がはっきりと分けて作られ芸術性の高さを示しています。腰巻をピンと張って机の代わりにしています。運動不足でしょうか、おなかが少したるんでいます。当時、腹のたるみは富を表していました。
 この像は墓の副葬品として作られました。石灰岩を削り出し、色を付けています。色は当時のままです。
 同じような書記坐像は、ほかの美術館でも見たことがあります。



フランス王室の工芸の間

 16世紀から19世紀の初めに至るバロワ家・ブルボン家・皇帝ナポレオンなど、様々な家具調度の類が展示されています。
 これら豪華な家具を作らせ始めたのはルイ14世でした。国王は専属の工芸士や芸術家を抱えていました。



 2階のレストランで昼食です。リシュリュー翼にあり、右側はコンコルド広場へと続いています。
 ルーブル美術館が3階建てであることが良く分かります。



ナポレオン三世のアパルトマン

 ナポレオン三世の当時の居室をそのまま保存し、展示しています。豪華な部屋に驚かされます。19世紀の様子をそのまま伝えるタイムカプセルとなっています。
ナポレオン三世の肖像

 ナポレオン1世は1815年、
セントヘレナ島へ島流しになりましたが、
ナポレオン1世の弟と、
ナポレオン1世の妃のジョゼフィーヌの連れ子オルタンス
との間に生まれた第3子のナポレオン3世は、
1世の失脚後、亡命生活を送っていました。
1848年、転機が訪れ、フランスに戻り、
大統領を選ぶ国民選挙で大勝し、
現在のパリの街並みの骨格を作りました。
 ナポレオン3世は1870年、プロイセン・フランス戦争に敗れ、
イギリスに亡命し、死亡しています。
この肖像画は実像よりだいぶ美男子に
描かれているそうです。。



 ナポレオン三世の部屋の真上は、オランダ絵画などがあるので、階段を上り、行ってみました。

 3階には、オランダ、ドイツ、フランスなど、主に18世紀までの絵が飾られています。
 それより新しいルノワール、モネ、マネなどの絵はオルセー美術館に移されています。
 この階にはオランダの画家、フェルメールの「レースを編む女」などが飾られています。



ルーベンス
 ピーテル・パウル・ルーベンス Peter Paul Rubens 1577-1640 バロックのフランドルの画家。外交官でもあった

エレーヌ・フールマンの肖像
1640年
エレーヌ25歳の時の肖像

  ルーベンスが49歳の時、彼の最初の妻、
イサベラ・ブラントが死んでしまいました。
4年後の1630年、53歳の彼が
16歳というほとんどまだ少女のような
エレーヌ・フールマン(1614‐1673年)と
再婚しています
数千点にも及ぶルーベンスの作品の
中に、エレーヌの肖像画が
たくさん描かれています。
結婚して10年後、彼は亡くなりました。

神々の評議会/マリーの統治
ローマ、パラティーノの丘の遺跡の風景
Paysage avec les ruines du mont Palatin à Rome



アンソニー・ヴァン・ダイク
Anthony van DYCK 1599-1641 イギリス人のフランドル画家


パラティンの王子シャルル・ルイ1世と
その弟ルパート


ジェームズ・スチュアートの肖像

レノックス公ジェームズ・スチュアートの肖像画。
チャールズ一世の親戚であり、友人であった。

手にしているのは「黄金のりんご」で、
ギリシャ神話のトロイアの王子パリスに扮しています。




ダニエル・セーヘルス と ドメニコ・ザンピエーリ

Daniel SEGHERS & Domenico Zampieri


愛の勝利と花飾り

Le Tromphe de I’ Amour avec entourage de fleurs

中央に天使たちが描かれています。
ヤン・ダヴィス・デ・へーム

1606年‐1683/84年
オランダ人の画家


卓上の果物と豪華な食器
1640年頃
Joos Van Craesbeeck

1606-1660
17世紀の南オランダの画家

画家ファイサンの肖像
PEINTRE FAISANT UN PORTRAIT
Frans HALS

 1596-1650

哲学者のポートレート

  1649年

 


ヘラルト・ファン・ホントホルスト

1592-1656
オランダの画家


Pieter Claesz. Soutman

1593/1601–1657


Painting of Beresteyn-van der Eem family
1635年


ヤン・フランス・ファン・ダール

花、ブドウや桃の花瓶
Vase de fleurs, raisins et pêches



ピーター・ガブリエルウィッケンバーグ
Peter Gabriel WICKENBERG
1812- 1846


冬の風景
Effet d'hiver
1841
フランソワ=ジョゼフ・ナヴェズ
Francois-Joseph NAVEZ
1787-1869


キリストの受難に祈りを捧げる聖女た
Saintes femmes meditant aupres
des instruments de la Passion
(1819-1821年)



レンブラント・ファン・レイン 1606-1669

 オランダの画家。バロック期を代表する画家の1人。大画面と、光と影の明暗を明確にする技法を得意とした。

1633金の鎖をつけた自画像

縁なし帽を被り、金の鎖を付けた自画像

1633年
画架の前の自画像

1660年
レンブラントの肖像画


レンブラントの弟子の絵(33歳)

1639年


ヤン・バプティスト・ウェーニクス
1621-1660

東方の一団の出発

 1958-1960年頃



ヤン・フェルメール Jan Vermeer

レースを編む女 1669-1670年頃

 前回来た時は大変こんでいましたが、今日はガラガラでした。
 この絵は、縦24㎝、横21㎝と小さな絵の中に何気ない日常の姿を描き出しています。
 女性が柔らかな光を浴びながらレースを編むことに没頭しています。フェルメール38歳ぐらいの時の作品です。見ていてホッとする絵です。
 この絵は、赤、青、黄の色の三原色がお互いに絡み合い、引き立て合っています。また、背景は白というシンプルな構成です。顔は少しぼんやりと描かれ、指先の2本の糸ははっきりと描かれています。これは近代絵画の遠近法に近く、すでにその技法の表れだそうです。

 



ピーテル・パウル・ルーベンス Peter Paul Rubens 1577-1640 
バロックのフランドルの画家。外交官でもあった。

マリー・ド・メディシスの生涯

 3階のリシュリュー翼の中央にあるひときわ大きな部屋でギャラリー・メディシスの間と呼ばれています。
 高さ4mの巨大なキャンバスが 24枚並んでいます。それら全てが17世紀のバロック芸術の巨匠ルーベンスの連作です。  
 絵の題材、マリー・ド・メディシス(1573-1642)とはアンリ4世のお妃の名前で、メディチ家のマリーという意味です。
 1600年、花嫁マリーがフランスへ嫁いできた時からの一生が描かれています。
 まず、初めに、マリーは、マルセイユに上陸します。花嫁はこの時27歳、イタリアの大銀行家、メディチ家の令嬢でした。二人はリヨンで対面します。パリに向かう一行を新郎アンリ4世がリヨンまで出迎えに来たのです。実際はほかの女性と一緒にいてマリーを1週間も待たせたそうです。
 王様の目的はマリーの高額な持参金でした。この結婚はフランス経済を救う政略結婚でした。
 新婚時代のマリーはフランス語を話せず宮殿では孤立していました。王は、同じ宮殿の中に愛人も住まわせていました。すなわち、ルーブル宮殿は二人の愛憎の宮殿となっていったのです。そんな夫婦にも幸せな時が訪れす。王子ルイ13世の誕生でした。50歳近くになってフランス王家に正式な後継ぎが誕生したのです。 
 1610年、夫アンリはハプスブルグ家との戦争に向かうため、フランスを留守にすることになりました。出発に際し、妻マリーに全権を委任します。下の絵の横長の巨大な絵「マリーの戴冠」はこの時の様子を描いています。この戴冠式はそれを正式に宣言するためでした。
 しかし、その翌日、馬車で出かけたアンリ4世は突然暴漢に襲われたのです。短刀で心臓を一刺しにされ、あっけない最後でした。
 それにより、マリーは摂政の宣言をします。王子、ルイ13世はその時、まだ8歳、フランスの命運はマリーに委ねられました。しかし、その7年後、マリーはブロワ城に幽閉されてしまいます。
 権力を持った彼女は宝石を買いあさる贅沢三昧、さらに家臣はイタリア人ばかりを取り立て、国家を混乱に陥れていたのです。マリーをブロワ城に閉じ込めたのは息子のルイ13世でした。家臣たちはルイ13世を担ぎ上げ、マリーを追放させてしまったのです。
 2年がたち、マリーはブロワ城からの脱出に成功します。マリーに味方する貴族たちが馳せ参じ、決死の覚悟でマリーを城から救い出し、逃避行の末、マリーは息子に許しを乞うてようやくパリに戻りました。
 このとき、マリーはルーベンスにお願いして、自分の一生を描かせました。そのため、ルーベンスの絵はマリーとルイ13世の和解で終わっています。
 しかし、その後二人は家臣たちの対立に巻き込まれ、負けたのはマリーの方でした。マリーは再び追放され、亡命先で亡くなります。一国の王妃がお墓も残らないという最後を遂げたのです。
 フランス王室上、きっての愛憎劇が、この名作を生み出したのです。悲しくも華麗な一室です。
 枚数があまりにも多いので、残念ながら一枚ごとの写真は撮りませんでした。

マリーの戴冠

幅7mの巨大なキャンパスです。



ヤーコブ・ヨルダーンス Jacob Jordaens

  1593-1678 フランドルのバロック期の画家 ルーベンスやダイクと同時期の画家で共に活躍しています。

神殿から商人を追い払うキリスト

1650年  
酒を飲む王様

1638-40年



ハンス・メムリンク

Hans Memling
1430/1440-1494
フランドル画家

ヤコブ・フロレインスの聖母

1488~1490年



作者不詳 フォンテーヌブロー派

ガブリエル・デストレとその妹 

フランソワ1世がフォンテーヌブロー城を作りましたが、
そこで、たくさんの画家が育ちました。
この1人はアンリ4世の愛人であったそうです。
右側の女性がその人です。
この乳首をもつ形は、王の子を宿した印だそうです。
作者不詳 フォンテーヌブロー派

愛の寓話
Charles Mellin

1597-1649
イタリアの画家


ローマのチャリティ
Roman Charity
別名、Cimon and Pero
1628 年


娘ペロが牢獄の父親シモンに乳を与えています。
古代ローマ時代の神話で、
いろいろな画家が描いています。
ウスターシュ・ル・シュウール

Eustache Le Sueur
1617-1655
フランス古典主義の画家


ある男の肖像
Portrait d'homme
1640-1645
ジョス・リーフェリンクス

フランス、アヴィニョン派の画家


カルヴァリオの丘
キリストの磔刑
1500-1505年頃

このキリスト受難図は、多くの画家によって
描かれています。
アンゲラン・カルトン

Enguerrand Quarton
プロヴァンス派


ヴィルヌーヴ=レ=ザヴィニョンのピエタ

1455年頃

この絵はヴィルヌーヴ=レ=ザヴィニョン教会で
発見されています。

聖母ピエタが息子の遺骸を抱いています。

 

フランス・ボルビュス(息子)

1569~1622
オランダの画家

最後の晩餐
Vincent Sellaer

1490 – 1564
フランドル、ルネサンスの画家
神話や宗教画を得意とした


慈善
Charity
作者不詳
ただし、D’après Rubens とある

オーストリアのアンの肖像
1620-1625頃


アンはルイ13世の王妃でルイ14世の生母です

ルーカス・ファン・ファルケンボルヒ

Lucas van VALCKENBORCH
1535-1597
南オランダの画家

バベルの塔
La Tour de Babel
1594年

ハベルの塔は数多くの画家により描かれており、
ブリューゲルは特に有名です。

Jan Massys

1509-1575
南オランダ(ベルギー・アントワープ)の画家

David and Bathsheba

聖書に書かれてる物語に出ています。



マルリーの中庭(フランス彫刻の庭)

 リシュリュー翼にある巨大な空間です。四方の部屋はすべて美術館です。
 1993年、リシュリュー翼のオープンと共に作られました。
 ここに並んでいるのはルイ14世の彫刻コレクションで、王の別荘マルリー城にあった大理石の彫刻の庭を再現しています。



アポロンの間

 ルーブルで最も豪華な部屋です。修復を終えて2004年にオープンしています。天井画にはルイ14世の思いがドラクロワによって描かれています。
 この部屋が完成するまでにはルイ14世が命じてから200年もかかっています。
 16世紀に作られたギャラリーは、次の世紀に宮廷画家であった ル・ブラン が装飾した部屋です。太陽王と呼ばれたルイ14世のために「太陽の神」であるアポロンにちなんだ天井画が描かれています。
 ルイ15世の王冠もこの部屋の目玉です。
ルイ15世の王冠

あらん限りの宝石をちりばめている
歴代の王が戴冠式の時に被った王冠です。


 再び、ドゥノン翼の二階に戻って来ました。この廊下はグランドギャラリーと呼ばれ、両側にはぎっしりと絵画が飾られています。460mもある世界一長いギャラリーです。
レオナルド・ダ・ヴィンチ

1483-1486年頃

岩窟の聖母

 聖母マリアが幼いイエスを連れて岩窟に
身を隠すという作品です。
母の顔は微笑んでいるのか悲しんでいるのか神秘的です。
 これはダ・ヴィンチがイタリアミラノの教会から依頼されて
書いたものです。しかし、完成した絵を見て
教会は受け取りを拒否してしまいます。
聖母マリアの頭に光の輪が無かったのが理由でした。
天使にも羽を描きませんでした。
 書き直して光の環と天使の羽を付けた絵は
ロンドンのナショナルギャラリーに飾られています。
右には聖ガブリエルと幼子イエス、左側には洗礼者
ヨハネと呼ばれる聖人の幼いころの姿です。
イエスは右手に二本の指をかざし、
人々を祝福する時の印を示しています。
ルーブルにはダ・ヴィンチの絵が5枚もあり、
この絵はレオナルド35歳の時に描かれています。
ラファエロ

 ラファエロ・サンティ
 1483-1520 
盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家、建築家

フランソワ1世の聖家族
1518年


ラファエロ晩年の作品です



ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ

 Giovanni Battista Tiepolo 1696-1770
 ルネサンス最後のイタリアの画家。ルネサンス期の美術絵画の伝統を締めくくる最後の巨匠です。

Rebecca at the Well

聖書の物語に出てきます。
水がめを持つレベッカです。
ヴェネツィア共和国の終焉

18世紀半はのヴェネツィアの
カーニバルを描いています。
アポロとダフネ
アポローンとダプネー



ダプネーは、ギリシア神話に
登場する河の神の娘で
アポローンに求愛され
自らの身を月桂樹に変える話です。


フランチェスコ・グアルディ

Francesco Guardi
1712-1793
イタリアの画家

サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂への行進

    1630年のペスト終結を記念して
礼砲を放つヴェネツィア総督が描かれています。
ピエロ デッラ フランチェスコ

イタリア初期ルネサンスを代表する画家。


シジスモンド パンドルフォ マラテスタの肖像
ヘンリー・レイバーン

Henry Raeburn
1756-1823
スコットランドの画家


花をもつ少女
または、ナンシー・グレアムの肖像
Little Girl Holding Flowers
1798-1800年頃
Giovanni Antonio Pellegrini

1675-1741
ベネチア歴史画家


Modesty Presenting Painting to the Academy

1717年
アントニオ・カナル、通称カナレット

Giovanni Antonio Canal、  Canaletto
1697-1768
ヴェネツィアの画家

サン・マルコ湾から見た埠頭
1730-1731年頃

当時、ヴェネツィアの画家らは
この町を正確な描写で表現することを好みました。
ジョバンニ・パオロ・パンニーニ

Pannini,Giovanni Paolo
1691-1764
イタリア出身の画家

ローマの遺跡

1745-1750年頃
Francesco Trevisani

1656-1746
イタリア出身の画家


幼児イエスの寝顔

Schlaf des Jesuskindes,

1706年
スタニスワフ・シュチェンスヌィ・ポトツキ

Stanisaw Szczęsny Potocki
1752-1805

ポトツキと息子たち

自分と息子たちを描いています
Carlo Maratta

1625-1713
イタリアの画家


madonna del velo
1697年

Giovanni Battista Pittoni

1687-1767
イタリア、ベネチア出身の画家

聖ペテロに天国へのカギを与えるキリスト
Christ Giving the Keys of Paradise to St. Peter


 そろそろ疲れたので、帰ることにしました。とにかく、切りがありません。名画はまだまだ山ほどあるのですが、一日歩いているとかなり疲れます。
 ホテルまで地下鉄で帰りました。

 以下、9日目から19日までは、次の日記に移ります。絵の数が多くて、ファイルが重くなったので、2分割しました。