IEEE LMAG Tour パリ、ジュネーブ、ミュンヘン

               19日間 後半

 9日目~19日目まで
 
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 全画面にしてご覧ください。1枚目から2枚目に移る際、時間のかかることがあります。
 ただし、2枚目からは軽快に動きます。


日付 観光内容 宿泊地 歩数
1日目 5月1日 成田からパリへ パリ 3,090
2日目 5月2日 オルセー美術館見学 パリ 18,952
3日目 5月3日 モネの庭、ジヴェルニーとピカソ美術館見学 パリ 17,025
4日目 5月4日 ロワール渓谷の3つの城の観光 パリ 22,090
5日目 5月5日 モンマルトル近郊散策、ケ・ブランリー美術館、市立近代美術館、マルモッタンン美術館 パリ 20,261
6日目 5月6日 ホテルを移動。植物園散策、LMAG メンバーが集合し、夕食 パリ 13,044
7日目 5月7日 午前、Edouard Branly Musium、午後、国立電波法人、国際電波監視センター見学 パリ 6,794
8日目 5月8日 ルーブル美術館見学 パリ 16,350
9日目 5月9日 セーヌ川クルーズ、ギメ美術館、リュクサンブール公園、サン・シェルビス教会 パリ 12,974
10日目 5月10日 パリからジュネーブに移動 途中、ホスピス・ド・ボーヌ (ボーヌ施療院)見学 ジュネーブ 7,433
11日目 5月11日 午前中、CERN 訪問、午後、ジュネーブ市内観光、その後、全員でディナー ジュネーブ 11,429
12日目 5月12日 スイスマイクロテクノロジー研究センター訪問と、国際時計博物館の見学 ジュネーブ 5,078
13日目 5月13日 ジュネーブからミュンヘンへ移動。途中、シヨン城観光 ミュンヘン 6,523
14日目 5月14日 午前はアルテ・ピナコテーク、午後はBMW博物館見学 ミュンヘン 14,427
15日目 5月15日 午前、ミュンヘン工科大学、午後、ドイツ博物館見学 ミュンヘン 10,590
16日目 5月16日 午前、ドイツアルプス Oberammergau 観光 夕食はさよならパーティ ミュンヘン 8,005
17日目 5月17日 オーストリア、ザルツブルグ観光 ミュンヘン 19,009
18日目 5月18日 ミュンヘン発、ヘルシンキ経由、成田へ 機中泊 6,048
19日目 5月19日 成田到着 3,305


     


9日目(土曜日) セーヌ川クルーズ、ギメ美術館、         
        
      リュクサンブール公園、サン・シェルビス教会、         
         

       サン・ジェルマン・デ・ブレ教会、その後、全員でディナー

 

 ホテルを8時半ごろ出発し、エッフェル塔近くの船乗り場を9時半に出発し、緑色の通路や屋根のあるカルチャーセンターを過ぎ、ホテル近くでUターンして戻って来ました。約1時間半のクルーズでした。
 途中、鍵のたくさん付けられた橋の下を通りましたが、日本に帰ったすぐあと、鍵の重さに橋が危険となり、この鍵は処分されたと放送されていました。従って、この写真は貴重なものとなります。

 



 再び、エッフェル塔近くの船乗場に戻り、その後、バスはコンコルド広場に行き自由行動とのことでした。
 私たちはこの近くの美術館に行きたかったので、歩いて次の目的地に向かいました。
 紫色のリラ(フランス語でリラ、英語でライラック)の花が見事でした。

 家内が一句、作りました。「
鈍色(にびいろ)のエッフェル搭にリラ咲けり」。



ギメ美術館

 リヨンの実業家エミール・ギメ(1836-1918)のコレクションを飾るために作られた東洋美術館です。
 ギメはフランス文部省から世界一周の宗教の研究を依頼され、日本に立ち寄った1867年、宗教画300点、宗教彫刻600点を持ち帰り、これらを1887年の万国博に出品しました。1888年、リヨンに作られていた美術館はパリに移転され、東洋美術研究の中心になっています。
 この美術館は、カンボジアのコレクションが充実しており、また、内戦で多くの美術品を失ってしまったアフガニスタンの展示もされています。
 地下の階は、アジアパシフィック近郊の特別展示でした。別料金でしたが面白そうなので入ってみました。
 アジア各国の服装の歴史のようなものが飾られていました。
 日本の富士山をデザインした着物特集は見事でした。



常設展示館



カンボジアの美術品



インドの美術品



ベトナムの美術品



ミャンマーの美術品



タイの美術品



中国の陶器



日本の美術品

 円形の部屋の壁には日本の江戸時代の絵が飾られていました。




 中央の台には絵巻物が飾られていました。



 日本ではなかなか写真に撮れない仏像などもたくさん置かれていました。

「毘沙門天」 鎌倉時代 13世紀初頭
「阿弥陀如来坐像」 室町時代
「善導座像」 南北朝時代
「禅宗祖師像」 室町時代後期
「仏陀座像」 平安時代 11世紀前半
「如来坐像半身」 藤原時代 11世紀後期
「菩薩立像」 平安時代の貞観時代(859-879)
左は、縄文時代、

下は、弥生時代



朝鮮の美術品


中国の美術品



 地下鉄で、リュクサンブール公園へ行ってみました。



リュクサンブール公園

 近くで買ったバンとビールで昼食です。 
 たくさんの人が、昼食を持参し、公園のなかで食事をしていました。
 この公園の前にはリュクサンブール宮がありますが、フランス元老院の議事堂として使用されています。 



サン・シェルビス教会

 パリでも屈指の教会です。奥行120m、幅57mの規模を誇ります。
 1799年、ナポレオン・ボナパルトの栄誉を祝う宴が、700名を集めてこの教会で行われています。
 また、映画「ダ・ヴィンチのコード」で一躍有名にもなった教会です。



サン・ジェルマン・デ・ブレ教会

 パリの非常に歴史のある教会の一つで、フランス合理主義者デカルトが眠っています。教会の起源は6世紀で、8世紀以降、ベネディクト会の修道院として隆盛を極め、「黄金のサン・シェルマン」と呼ばれました。フランス革命でかなりの部分が焼失してしまいましたが、その後修復されています。



ディナー

 午後5時半、めいめいが自由に過ごした後、ホテルのロビーに集合しました。ここで約30分間、シャンパン飲み放題です。
 その後、バスに乗り、パリの有名なレストランに出かけました。
 レストランは非常に混雑していました。有名なレストランなのでしょう。


      

10日目(日曜日) パリからジュネーブに移動
      
         途中、ホスピス・ド・ボーヌ (ボーヌ施療院)見学


 バスの座席は毎日右回りに2席ずつ移動します。したがって一度は誰でも最前列に行くこともあるし、最後列に行くこともあります。
 バスはゆったりとしており、時々は一人で2つの座席を使用することも出来ました。
 今日は最後列なので、時々、後ろの写真を撮ってみました。
 ホテルを9時ごろ出発しました。



 時々、トイレ休憩でガソリンスタンドなどに泊まります。
 運転手の休養も法律で決められていて、必ず1時間半ぐらい運転すると休憩になります。
 1ユーロは約140円ですから、コーラ1本280円と日本の約2倍もします。一般に物価は日本よりだいぶ高く感じました。

さすが、IEEE LMAG のツアーです。
どなたかが、全員に次のような問題を配りました。
一見、簡単な問題のようですが、
連立方程式を解く必要があります。
答えは必ずありそうです。そして単数です。



ホスピス・ド・ボーヌ (ボーヌ施療院)

 パリからジュネーブに行く途中の Beaune にあります。


 1443年、貧しい人たちのために作られた病院で、教会も付属しています。Hotel-Dieu (オテル・デュー)とも言われます。
 Hotel-Dieuとは「神の館」という意味です。
 当時、ここはブルゴーニュ公国で、宰相ニコラ・ロランとその妻によって設立された病院です。
 当時のブルゴーニュ公国はフランス東部からベルギーやドイツ東部も含む広大な公国でした。
 この病院は病気になった貧しい人たちを無料で助けました。財源はこの地で生産されるワインでした。何か、今のお金持ちの人たちの病院よりも良さそうです。
 病院の屋根はカラフルなフランドル様式で飾られています。フランドル様式とは、15~16世紀、オランダ南部からフランス北部を統治していたフランドル伯爵の領地で発達した美術様式です。
 病院内部の祭壇画もフランドル画家によって描かれています。
 。
フランドル画家 ロジェ・ヴァイデンの「最後の審判の
絵が飾られていました。
天国と地獄の対比がはっきりと描かれています。



 この街は観光の街のようです。葡萄酒祭りも行われるそうです。

 何だろうなと思ってよく見ると、犬の糞を入れるポリ袋のようです。
 必要な人は誰でも無料で取り出して使用できるようです。



 バスは高度を上げ、ジュネーブへと向かって行きます。



 明るいうちにジュネーブのレマン湖に到着しました。



Hotel Warwick Geneve

 ホテルは駅前の Hotel Warwick Geneva でした。さすが、時計のスイスです。フロントの上にはニューヨークとジュネーブと東京の三か所の時刻を示す機械式?の時計が付けられていました。
 夕食は近くのレストランで歩いて行きました。



 夕食後、レマン湖に行ってみました。美しい風景でした。


      

11日目(月曜日) 午前中、CERN 訪問、
      
      午後、ジュネーブ市内観光、その後、全員でディナー


 ホテルの風景です。朝食はかなり豪華でした。遠くにノートルダムが見えます。



CERN 欧州原子核研究機構 (Conseil Europeen pour la Recherche Nucleaire)

 CERN は、スイスのジュネーヴ郊外でフランスと国境地帯にある、世界最大規模の素粒子物理学の研究所です。
 昔、ヨーロッパで学会があった時、ついでに耐放射線性の光ファイバの紹介に行ったことがあります。ジュネーブの国際空港の近くにあります。
 地下には 全周 27km の円形加速器・大型ハドロン衝突型加速器 (LHC) が、国境を横断して設置されている。
 設立は1954年で、今年で61年の歴史を誇ります。当時、アメリカに対抗し、ヨーロッパでも素粒子の研究をするために作られました。
 メンバーは欧州が主体で、日本や米国はオブザーバーとしての位置にあります。ただし、オブザーバーといっても、政治的運営に携わる理事を出せないだけで、純粋な研究活動は、どの国にも分け隔てなく解放されています。
 最近のヒックス粒子の発見では、日本のグループの活動も高く評価されています。



施設見学

 たくさんの見学者が常時訪れているようです。
 その見学ルートに沿って私たちも見学です。



 「You can only make as well as you can measure」 という言葉が掲げられていました。まさにその通りです。



 昼食はスイスIEEEの招待でした。
 昼食後、屋外の見学施設を案内してくれました。



 CERNからジュネーブに戻る途中の風景です。

国際連合ジュネーブ事務局


 国際連合は4つの主要事務局があり、ニューヨーク国際本部が最大ですが、この事務局はニューヨークに次いで2番目に大きな事務局です。
 国際連合欧州本部とも呼ばれています。

 



市内散策

 バスはバスチョン公園で停まり、希望者は市内観光をしながら、ホテルに戻ることになります。
 私たちは、以前、ジュネーブに来てすでに歩いており、土地勘もあるので、二人で観光することにしました。



バスチョン公園

 ここでもマロニエの花が満開でした。
 公園には宗教改革、すなわち、プロテスタント派を作り出した改革ですが、宗教改革の父と言われるのはジュネーブを本拠地として活躍したカルヴァンでした。4人の像はカルヴァンの生誕400年を記念して1917年に作られました。
 ジャン・カルヴァンはひだりから二人目です。
公園から坂を上る教会に向かいました。
ここにはかって兵器庫入口でした。
今は大砲が飾られています。



サン・ピエール大聖堂

 この大聖堂は12~13世紀にまたがり建設されました。宗教改革の中心人物、カルヴァンは1536年から25年間、この殿堂でプロテスタンティズムの説教を行っています。



 市内を散策してホテルに戻りました。
 ジュネーブには地下鉄が無く、地上には市電が走っています。ヨーロッパによくある風景です。



ノートルダム寺院

 駅の近くにあるノートルダム寺院です。ちょっと覗いてみました。



ジュネーブ駅

 ホテル前のジュネーブ駅に寄ってみました。
 お土産を買おうと思い、2006年に来た時の使い残したスイスフランを出したら、この種のお札はもう使用できないと言われました。
 すぐ近くに銀行があったので、新しいスイスフランと交換してもらいました。手数料は無料でした。
 良く知れれているようにスイスはユーロを使用しておらず、スイスフランを使用しています。しかし、経済規模がユーロ全体に比べれば圧倒的に小さいので、1ユーロ=1.2スイスフランに固定しています。
 9年前の記憶がどの程度残っているのかと思い駅のホームに行ってみました。どこも似ているので良くわかりませんでした。



 宿泊しているホテルです。1階には日本料理レストランがありました。


 昼食と夕食はスイスIEEE の接待でした。IEEE 会長による簡単な挨拶がありました。



 食後、もう一度、レマン湖まで歩いてみました。


     

12日目(火曜日) スイスマイクロテクノロジー研究センター訪問と、


                     国際時計博物館の見学

 ホテルを8時に出発し、Neuchatel に向かいました。約1時間半の乗車でした。
 この付近は時計の町としても有名です。




CSEM (Swiss Research Center of Microtechnology)

 半官半民のマイクロテクノロジー研究所です。日本も昔このような研究機関がたくさん作られました。



 昼食は立食によるものでしたがワインも出ました。
 午後は近くの原子時計研究所の見学です。
 時計産業の発展にとって、正確な時間を知るのは極めて重要なことで、そのために作られたそうです。



国際時計博物館   Musée international d'horlogerie (MIH)

 時計の町として有名な ラ・ショードフォン (La Chaux-de-Fonds) はフランス国境の近くの町で、山間にあり、標高も高く、農作物には適さず、畜産業が主体の村でした。
 16世紀、宗教改革を逃れ、フランスやドイツの時計職人がこの街にやってきました。
 そして、この街が、世界最大の時計の生産地となりました。
 しかし、18世紀の末、この街が大火災に覆われてしまいます。
 人々はこの町全体を時計の生産に適するよう設計し直して、町全体を再構築しました。
 今、この街は、世界遺産に指定されています。
 国際時計博物館は、ラ・ショードフォンにあるスイス最大の時計博物館で、1974年、現在の形として開館されました。
 16世紀の懐中時計から最新の原子時計まで、約4000点のコレクションを誇り、併設の修復室では、常にこれらの製品の手入れをしており、全てが使える状態で保存されています。
 この町は、直線の道路がたくさん作られ、家はいずれも南向きに作られています。家は一般に6~7階建てのビルになっています。いずれの部屋も、太陽の光線を受け入れられるようになっています。


 スイスには約600の時計メーカーがありその多くが、この町に集中しています。入り口にいろいろなメーカーの製品が展示されていました。
 全部、異なる会社のPRブーツです。1000名以上の従業員のいる時計メーカーは、ローレックス、パテックフィリップ、リシュモン、スウォッチなどがあります。
 1970年の時代、日本は水晶振動子を使用し、安価で正確な時を刻む時計を発明し、スイスは一時破壊的な打撃を受けました。
 しかし、その後、スイスは大規模化と機械式時計への資源集中により、完全に持ち返します。
 現在、日本ではシチズンやセイコー、カシオなどが有名ですが、スイスのスウォッチグループ、リシュモングループ、ロレックスなど上位3社の売り上げは日本の上位3社の売り上げの約4倍以上にもなっています。
 スイスのこのような成功は中国への輸出が大きく寄与しています。中国人はスイスの高級時計を好むようです。
 世界最大の時計生産国は中国ですが、その単価は約 3ドルで、スイスの時計の平均単価は約 750ドルもします。時計は今や、時間を知るためのものではなく、装飾品として生き残っているようです。
 


 展示室は非常に広く、時計の歴史などいくつものコーナーがありますが、その一部を掲載してみました。面白そうなのですが、幾ら時間があっても足りません。



スイスの展望台

 戻る途中、展望台からの眺めです。ここの標高は1165mでした
 遠くに、モンブラン、アイガー、マッターホルンなどが一望できます。
 ただし、区別をつけて見るのは、私たちには無理でした。、



 夕食はスイスIEEE による接待でした。



     

13日(水曜日) ジュネーブからミュンヘンへ移動

 ジュネーブを立ちレマン湖の南側を通ります。ここはフランスです。その後再びスイスに入り、途中、オーストリアに入ったり出たりして、ドイツミュンヘンに到着しました。
 途中、大渋滞があったりして、到着はかなり遅れました。
 東名高速道路も時に大渋滞しますが、こちらもやはり大渋滞があるようです。



 出発から約1時間半後、トイレ休憩です。そこで、ドロンを飛ばしている人がおりました。ドロンを見たのは初めてでした。

 

 途中、シヨン城が見えてきました。5分程度の停車の予定でしたが、内部の見学を希望した人が多く、約1時間程度、停まりました。私たちはすでに内部の見学を2006年にしているので、今回は外をゆっくりと散策しました。



シヨン城 



モントルー湖畔

 2006年に来た時もここで停まり、昼食をレストランで食べた記憶があります。美しい眺めです。



 途中、 Wanten という町でトイレ休憩です。

 途中、牧草地帯が続いています。
 ホテルに到着したのは午後9時40分でした。予定では、早めに着いて市内見学をする予定でしたが、シヨン城に寄ったり、途中の大渋滞に巻き込まれたりして数時間、予冷より遅れました。

 夕食はホテルの食堂でした。


     

14日(木曜日) 午前はアルテ・ピナコテーク、午後はBMW博物館見学

 ホテルは The Westin Grand Arabellapark Munich で、市内から少し離れたところにある高級ホテルです。
 ただし、日本でもそうですが、高級ホテルの難点は時々インターネット料金が有料になることです。
 このホテルの場合、部屋でインターネットに接続しようとすると2時間5ユーロとかなりの料金が掛かります。ただし、ロビーだと無料なので、パソコンを持っている人は、皆さん、ロビーに来てパソコンを開いていました。



アルテ・ピナコテーク 

 アルテは「古い」を意味し、ビナコテークは絵画館を意味しています。この博物館は3年前にも見ています
 少し離れて、ノイエ・ピナコテークもあり、そちらには印象派の絵などの美術館となっています。今回はアルテ・ピナコテークの見学のみでした。




イタリア絵画

 ルートヴィヒ1世が執念をかけて集めたイタリア絵画がたくさん飾られていました。


レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452-1519 イタリアのルネサンス期を代表する芸術家

聖母子

1473年頃

 かってこの絵は作者が不明のまま、
バイエルンの民家の倉庫に眠っていました。
 19世紀後半にダ・ヴィンチの作品であることがわかり、
バイエルン王家が買い取りました。

上と同じ絵です。



ラファエロ・サンティ 1483-1520 盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家、建築家

垂幕の聖母

 1513-1514年

 当時、すでにラファエロの名声は高く、
ラファエロの絵を手に入れるのは
不可能と思われていました。
 しかし、ルートヴィヒはナポレオンに
一時支配されたバイエルン市民の士気を
再び高めるためにも、芸術都市としての名声を
高めたいと思っていました。
 この絵は、もともと、スペイン王家が
所有していましたが、ナポレオンの
スペイン侵略の中、イギリス王室のものとなります。
 ルートヴィヒは側近をイギリスに送り込み、
何度もの交渉の末、手に入れることに成功したのです。
 しかしこの絵を手に入れてもルートヴィヒの思いは
終わりませんでした。
どうしても手に入れたかったのは「テンピの聖母」でした。
テンピの聖母

 1507-1508年

 溢れんばかりの愛情で、子を慈しむ母親の姿が
描かれています。ラファエロ20代前半の作品です。
慈愛に満ちた聖母マリアと幼子イエス。
 このラファエロの傑作はフィレンツェの貴族、
テンピ家に伝わって来ました。
それがアルテピナコテークに入ったのは
ルートヴィヒ1世(1786-1868)執念によるものでした。

 王は20年もの歳月をかけてこの絵を手に入れたのです。
 彼はこのアルテ・ピナコテークを作った本人です。
 彼は真にイタリア絵画に惚れ込んでいました。
 「テンピの聖母」が飾られることでアルコピナコテークは
名実ともに芸術文化国家バイエルンの
シンボルとなったのです。
カニジャーニ家の聖家族

1505年



フィリッポ・リッピ

 1408-1469 
イタリアルネサンスの中期の画家。
ポッティチェリの師でもある

受胎告知

1450年頃

 天使とマリアを包む透明な光と色彩、
それは北国には無い明るい太陽が生み出す世界です。
ルートヴィヒはイタリアに家臣を送り込み、
絵を模写した銅版画や、詳細な情報を送らせて、
作品を選びました。
ヤーニャ・ディ・ブオナヴェントゥーラ

香油壷を持つマグダラのマリア
 
 1310年頃
ジェンティーレ・ベリーニ

1429-1507

若い男のポートレート

 
イタリアルネサンス期ヴェネツィア派の画家。
 ヴェネツィアのルネサンス美術は、
フィレンツェより遅れて15世紀後半から始まり、
16世紀に黄金時代を迎えました。
アントネルロ・ダ・メシーナ 
Antonello da Messina

1430-1479

15世紀ルネサンス期に活躍したイタリアの画家

お告げの聖母

 
1473年
ジョバンニ・バッティスタ・チーマ・ダ・コネリアーノ

聖女マグダラのマリアと
聖ヒエロニムスをともなう聖母子


 1496年頃
アンドレア・デル・サルト

 1486-1531

聖家族 

ルネッサンス期のイタリアの画家
Francesco Salviati (Rossi)

 1510-1563

マリエリスム時代のイタリアの画家
フランチェスコ・フランチア

1450-1517

イタリア人の画家、金細工師

薔薇園の聖母

 
 1500年
ルーカ・シニョレリ

1445-1523
ルネサンス期のイタリアの画家


聖母子


 1495年頃
ロレンツォ・ディ・クレーディ

1459-1537
イタリアの画家、彫刻家

幼い洗礼者ヨハネを伴う聖家族

1510年頃
マゾリーノ

1383-1447
イタリアルネサンス期の画家

聖母子

1435-1440年
パオロ・ヴェロネーゼ

1528-1588
ルネサンス期にヴェネツィアで活躍したイタリアの画家

聖母子と寄進者
ロレット・ロット

「聖女カタリナの神秘の結婚」


 1505年頃

幼児キリストを連れた聖母マリアが後に
キリストの妻となるカタリナの夢を見たという。


Francesco Bissolo

1470-1554
イタリアの画家

Salvator Mundi
イル・フランチア

聖母子
アンドレア・デル・サルト
Andrea del Sarto
1486-1530
ルネサンス期のイタリアの画家

ジョンと聖家族バプテスト、エリザベスと2天使
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ
Tiziano Vecellio

1488-1576
盛期ルネッサンスのイタリア人が画家


不敬な愛、鏡
1515年

ジョヴァンニ・デ・ブシ
ジョヴァンニ・カリアーニ
としても知られる

1490-1547


Giovanni de Busi
Giovanni Cariani
としても知られる

イタリアの画家


聖母子、聖アンソニーとセントジョンザバプティスト
ドメニコ・ティントレット
Domenico Tintoretto

1560-1635
イタリアの画家

彫刻家ゲーゲンの肖像画
Portrat eines bildhauers Gegen

1590年
パルミジャニーノ

1503-1540
ローマで活躍したイタリアの画家

カルトゥジオと聖母子
アンドレア・デル・カスターニョ
Andrea del Castagno
1423-1457
15世紀のイタリアの画家


フィレンツェの画家、若い男.の肖像
1460年
フラ・アンジェリコ
FRA' ANGELICO

1438-1443
イタリアの画家

キリストの埋葬
Entombment of Christ
Fra Carnevale

1420-1425 – 1484
イタリアの画家

受胎告知

オラツィオ・ジェンティレスキ
Orazio Gentileschi

1563年 - 1639年 
バロック期に活躍したイタリアの画家

Twee vrouwen met een spiegel



初期ネーデルランド絵画

ヤン・ホッサールト

1478-1532
ルネサンス期のフランドル人画家

ダナエ 
1527年

ギリシャ神話を題材にして描いています。
ダナエが産んだ子供がダナエを生んだ王(祖父)
を殺してしまいました。王である夫はそれを怒り、
ダナエを高い塔に閉じ込めてしまいます。
閉じ込めておけば子供を産めないので、
自分が殺されることはないと思ったからでした。
 高い塔は天に近く、神々の王、ゼウスは美女が
閉じ込められているのを見つけ、ダナエに恋をして、
自分が黄金の雨に変身し、ダナエの股の間に
入り込んで来ています。
 後にダナエはベルセウスを身ごもることになります。
 ギリシャ神話は色っぽい内容が多いようです。
(放送大学、西洋芸術の歴史と理論 2016より)
ヒエロニムス・ボス

1450-1516
ルネサンス期のネーデルランドの画家
初期フランドル派に分類される

最後の審判

16世紀初期

断片の絵です。
大規模な最後の裁判の右下の一部です。
ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデン

1400-1464
初期フランドル派の画家

聖母を描く聖ルカ

 1450年頃
アンソニー・ヴァン・ダイク

1599-1641
バロック期のフランドル出身の画家

ヨーゼフスフォルゲ

ヨセフとポティファの尻軽女


1500年頃
アドリアン・イーゼンブラント
Adriaen Isenbrant

1480-1551


    聖カタリナの神秘の結婚
Walter Pater

ルネサンス

The Renaissance
アルブレヒト・ブーツ

受胎告知



ディルク・ボウツ Dieric Bouts d. Ä.  1410/1420-1475 初期フランドル派の画家

イースター

イエスの逮捕
Ecce agnus dei&quot

1462/64




オランダ絵画



レンブラント・ファン・レイン 1606-1669 
 オランダの画家。バロック期を代表する画家の1人。大画面と、光と影の明暗を明確にする技法を得意とした。

自画像

 1629年

弱冠23歳の時の自画像で、
その後たくさんの自画像が書かれています。
十字架降下

キリストの生涯を描いた連作の一つ
キリストを支えているのは画家自身です。
キリスト昇架

1633年頃。
キリスト

Bust of a man in oriental dress

1633



フェルディナント・ボル  Ferdinand Bol  1616-1680  オランダの画家、銅版画工。

 現存する作品は少ないが、彼の作品には師であるレンブラントの影響が見られます。ボルの作品の多くは近年までレンブラント作だと考えられていました。歴史的な題材や肖像画等を好んで手掛けました。

自画像
女性の肖像画


カレル・ファブリティウス

1622-1654
オランダの画家
レンブラントの弟子で、
最も才能のある弟子の1人

自画像

1650年頃


バルトロメ・エステバン・ムリーリョ 1617-1682
 バロック期のスペインの画家 17世紀を代表する画家の1人で、ローマ・カトリック宗教作品制作者として知られる

パイを食べる子供
子供の果物行商人


ヘンドリック・ホルツィウス

1558-1617

オランダの画家

人類の堕落

1616年
Paulus Moreelse

 1571-1638

オランダの肖像画家と歴史家


金髪の羊飼い

Die blonde Schäferin

1624年
アブラハム・ファン・ベイエレン
Abraham van Beyeren

1620-1690

オランダバロック期の画家


カニと静物
Grossen Stilleben mit Hummer,

1653年



フランス・ハルス 1580-1666 オランダで活躍した大画家 レンブラントほぼ同時期の人物
ウィレム・ファン・ヘイテイセン

 1625-1630年頃

オランダの上流社会を扱った肖像画です。
男の肖像
 (ウィレム・クロースの肖像) 

 1660年頃 



クロード・ロラン
Claude Lorrain

1600-1682
フランス出身の画家
生涯を主にローマで送った

Hagar and Ishmael in the desert
ジャン=バティスト・ペイター
Jean-Baptiste Pater

1695-1736

8世紀のフランスの画家


田舎の風景
Country Scene


とにかく、空いていました。
Cornelis Engebrechtsz
1460-1527

嘆き
Beweinung Christi



Luis Melendez

メロン、マルメロと梅

Melonen, Quitten und Pflaumen

ヤン・ファン・ホーイェン
Jan van Goyen

1596-1656
オランダの画家


Jan Van Huysum
1682-1749

オランダの画家

花カゴ



ピーテル・パウル・ルーベンス Peter Paul Rubens 1577-1640 バロックのフランドルの画家。外交官でもあった。

ライオン狩り 
疫病
水浴のスザンナ

スイカズラの木陰のルーベンスとイザベラ・ブラント

1610年頃

イザベラはルーベンスの最初の妻



アンソニー・ヴァン・ダイク 1599-1641 バロック期のフランドル出身の画家

自画像

1621年頃

ジョージ ペーテルの肖像

Portrait of Georg Petel



VAN DYCK Anton (Anthorny)

1599-1641

フランドル出身の画家


画家ヤン・デワエルと彼の妻ゲルトルート・デ・ヨデ
Poster Jan de Wael and wife wife Gertrude de Jode



ドイツ絵画

アルブレヒト・アルトドルファー

1480-1538
ドイツの画家
純粋な風景画を描いた最初期の画家


イッソスの戦い
アレクサンドロス大王の戦い
 

1529年
マティーアス・グリューネヴァルト

1470-1528
ドイツの画家


翻弄されるキリスト

16世紀初頭
聖顔布を持つ聖女ヴェロニカ

1420年頃

15世紀に生きた無名画家の作品です。
抑えた表現の中に、深い精神性を称えています。
文豪ゲーテが一目見て、これこそ、
ドイツの魂だと叫んだと言われています。
ヨース・ファン・クレーフェ
1487-1541
ドイツの画家

ある婦人の肖像



アルブレヒト・デューラー Albrecht Dürer 1471-1528 ドイツのルネッサンスの画家

四人の使徒

ドイツルネサンスを代表する作品です。

この作品は今からおよそ400年前、
バイエルン大公が
神聖ローマ帝国皇帝と競い合った末に
ようやく手に入れました。
門外不出とされる名品です。
キリスト哀悼

1500年頃

統一要素をピラミッド形構図に求めた例である
悲しみのマリア



マリーエン レーベンス


教会へ行くマリア

受胎告知
マリアの誕生


Hans von Melem

1480-1620
ドイツ人の画家

Meister des Aachener Altares
ドイツ、ケルン派の画家

戴冠したマリアと幼子、
若い聖女と楽奏する天使たち


1440年頃



シュテファン・ロッホナー  Stefan Lochner ゴシック後期のドイツの画家

芝生のベンチの前のマリアと幼子

ロッホナーはドイツ・ケルン派の中心画家
幼児礼拝/合掌する聖母

1445年


ヨハン・リス

1597-1631 
ドイツ バロック期
ローマで活動したドイツ人画家。


クレオパトラの死

1622-24


ハンス・バルドゥング
Hans Baldung Grien
1480-1545

ルネサンス期のドイツの画家

女性の姿

Derick Baegert
1440-1515
ドイツ人の画家

キリストの埋葬
MASTER of the St. Bartholomew Altar Virgin
and Child with St Anne c.


1480年
ジッペの画家

聖アントニウスの伝説
アーヘンの祭壇画家


マドンナとその子供


バルトロメウス・スプランヘル

1546-1611

ベルギーの画家

アンジェリカとメドロ
Angelica e Medoro


 



 美術館見学後、市の中央広場に行き、そこで各自、昼食でした。

 ルートヴィヒ1世の像の前です。
 像の後ろは「レジデンツ」でヴィッテルスバッハ家の宮殿であり、ルートヴィヒ1世はここで生まれ育ちバイエルンの王に君臨しました。
 歴代の王は豊かな富で多くの美術品を集めました。
 1848年、ルートヴィヒ1世はヨーロッパに吹き荒れた市民革命の嵐のなか、王座を退きます。その後、バイエルン王国はプロイセンが統一したドイツ帝国の一部となり、第一次世界大戦後に王国としての幕を閉じました。



 昼食は各自で取りました。私たちは、3年前にも食べた広場で、ソーセージ、パン、ビールでした。



BMW博物館

 かなり広い博物館です。
 自動車会社の博物館でしたが有料のようでした。
 ドイツの経済を支えている自動車産業ですが、ドイツの良く知られた会社の販売台数シェアを調べてみました。2014年の資料です。
 それによると

 フォルクスワーゲン  22%
 メルセデスベンツ   9%
 アウディ       8%
 BMW         8%
 オペル       7%
 などとなっています。



 再び、市の広場に戻りました。


 夕食はミュンヘンで最も有名なビアホールでっす。
 昔、ヒットラーはよくここに来て、民衆に演説をしたそうです。当時、政治を志す者は、いろいろな場所に行き、演説をすることが必須でした。ヒットラーは、後に、このビアホールで、ナチ党の設立宣言をしています。
 ヒットラーが本拠地としていたのは、ベルリンよりも、このミュンヘンでした。



 ドイツIEEE による御接待でした。


      

15日目(金曜日) 午前、ミュンヘン工科大学、午後、ドイツ博物館見学

 このホテルの朝食も立派でした。



 今日は雨ですが、行き先は大学なので問題はありませんでした。



ミュンヘン工科大学

 午前中は、ミュンヘン工科大学での講義でした。
 この年齢で、家内と席を並べ、大学で講義を受けるとは予想だにしておりませんでした。

 ドイツではIEEE の Milestone 賞は2014年に2つ貰ったのが初めてでした。
 本来、ドイツでは貰う権利のある人たちが今まで述べてきたようにたくさんあるのですが、この賞は、もらっても賞金は貰えず、その上、かかった経費等の寄付をこちらからする必要があり、その上、パーティを自前で開く必要があるので、申請しなかったそうです。
 確かに、普通の賞は、頂いたとき、何か頂き物をしますが、この賞は、いろいろな経費の持ち出しがある賞だと述べていました。



 昼食は、ドイツIEEEによる接待でした。 ここでもワインを頂きました。



 午後はドイツ博物館見学です。



 最近はやり出した6~8名乗りの自転車だそうです。見たのは初めてでした。


 前回来た時は1日かけての見学でしたが、今回は約2時間半程度でした。全部見ると1日でも足りません。
 ドイツ博物館です。前回、丹念に見たので、今回は写真をほとんど取らずに、館内を散歩しました。
 高電圧の放電を実演していました。私が勤めていた会社の実験室にはこれよりはるかに大きな高電圧試験装置がありました。


     

16日目 (土曜日) 午前、ドイツアルプス Oberammergau 観光 
       
                 夕食は、さよならパーティ



 今日は今回のLMAG Tour 最終日です。午前中はドイツアルプスの観光でした。

 ドイツ南端のオーストリア国境近くにある美しい観光の町です。
 今年の6月7日~8日、G7ウルマウ・サミットはこの近くのお城で開催されました。
 夏は観光客で相当賑わうそうです。冬は雪に閉ざされますが、その景色はとても美しいそうです。
 



 ホテル近くに大きなモニュメントが作られていました。

昨日見学したBMWビルの近くを通りました。



オーバーアマーガウ  Oberammergau

 約2時間、ガイドさんなしですが適当に散策しました。小さな田舎村なので、迷うことはありません。標高は720mとあまり高地ではありません。



 まだ、桜が咲いていました。これが今年見た最後の桜でした。



 川辺や教会などを見て歩きました。



 教会と墓地を見学してみました。



 ここも、マロニエが満開でした。


 ミュンヘンに戻るときの風景です。お花畑が一面に広がっていました。
 こちらの牛は、寝転がって食事をしています。一般に食べ物がたくさんあると寝て食べるようです。モンゴルのように牧草が少ない場所では、一生懸命、草を探しながら食事をしていますから、寝ている暇はないようです。



ドイツのダッハウ強制収容所見学

 帰り、オプショナルツアーがあり、希望者は30ユーロで見学することが出来ます。私たちは3年前、すでに来ているので参加しませんでした。約、半数が参加したようです。


 参加しない人はそのままホテルに向かいました。
 バスのガイドさんは7日の朝から、今日の夜まで、丸10日間、一日も休まず、私たちを運んでくれました。イタリア人だそうです。胸には入れ墨をしていました。入れ墨はおしゃれの一つのようです。






さよならパーティ

 今日のディナーもミュンヘン市内の高級レストランです。家内は持ってきた着物に着替えて出席です。
 参加したほとんどの人が、寄って来て一緒に写真を撮ってくれました。



 食後、皆さんと記念写真を取り合いました。
 その後、ルートヴィヒ1世の像の下を歩いていると若者たちが寄って来て、家内を入れてポーズを作ってくれました。
 着物が面白かったのでしょうか。

      

17日目 (日曜日) オーストリア、ザルツブルグ観光

 今日からは参加した人たちが直接帰国したり、適当に観光して帰ることになります。
 昨日と同じ朝食バイキングですが、朝食にもワインが付いていました。さすがに飲みませんでしたが、お酒が付いている朝食バイキングは初めてでした。
 朝食後、9時半ごろチェックアウトし、駅の近くの ibis Hotel にタクシーで向かいました。
 タクシーの運転手さんは、女性でしたが、日本の尺八が大好きで、客待ちの時は尺八の練習をしているのだそうです。
 運転中は尺八のCDを聞かせてくれました。


 ミュンヘン駅から300m程度の所にあるホテルです。
 Clicyのibis Hotel より少し値段は高くなりますが、二人で1万円程度でした。
 とりあえず荷物を預け、オーストリアのザルツブルグの観光に出かけました。ザルツブルグへ行こうと思いついたのは、つい数日前なので、何の知識もありませんでしたが、何とかなるだろうと、とりあえず、駅に行ってみました。
 時刻表を見ると、1時間に1本程度の列車があり、乗車時間は約1時間50分でした。

 3年前に何度も利用したミュンヘン駅です
 切符は銀行のように番号札を取って、自分の番を待ちます。
 途中、ローゼンハイムを通りました。
 次の出発は10時55分です。ザルツブルグ到着は12時41分で乗車時間は1時間46分です。
 出発まで40分ぐらいあります。
 出発まで、時間があるので、ミュンヘン市街を歩いてみまいた。



ザルツブルグ
 
 ザルツブルグのザルツは塩を意味し、ブルグは砦を意味します。電車の中でいろいろ話したスペイン人は Salzburgをはサルツブルグと発音していました。
 ザルツブルグはモーツアルトを生んだ音楽の都として有名で7月下旬から8月いっぱいにかけて行われる「ザルツブルグ音楽祭」は各国から一流の音楽家が参加して開かれる世界でも有数の音楽フェスティバルです。

 川の西が旧市街、駅のある東が新市街となっています。
 駅から旧市街までは歩いても20分程度なので、新市街を散策しながら旧市街に向かいました。



ザルツブルグに到着
 
 インフォメーションを探し、市内の地図を頂き、お城の方へ歩いてゆきました。



ザンクト・アンドレ―教会
 
 旧市街に向けて歩いてゆくと、たくさんの教会があります。
 これは最初に通りかかった教会です。入ってみました。中には誰もいませんでした。




モーツアルトの住家
 
 川を渡る前にオーツアルトの住家があり、覗いてみました。
 2階は博物館になっていますが、写真禁止なので見学は中止しました。
 モーツアルトはここに1773年から1787年まで15年間住んでいました。
 なお、モーツアルトの生家は、橋を渡った旧市街にあります。

 



 橋を渡って旧市街に入ります。ザルツァッハ川には歩行者専用の橋が数本掛かっていました。



 旧市街です。 細い路地が複雑に絡み合い、迷いそうです。



 モーツアルト広場からレジデンツ広場へ出ました。



大聖堂

 中に入ってみました。祭壇がたくさんあります。


 地下には歴代の司教のお墓がありました。
 この教会は774年に聖ヴィルギルが建設し、1181-1200年に後期ロマネスク様式に改築されました。その後、16世紀に火災で焼失、第二次大戦でも被災したが、1956年に改築されました。



レジデンツ広場
 
 旧市街の中では最も大きい広場です。おおきな黄金のボールの上に人形が立っています。



水車

 ホーエンザルツブルグ城塞にのぼるときにケーブルカーを動かすために作られた水車です。電気の無かった昔は水力でケーブルカーを動かしました。



ザンクト・ペーター教会と墓地

 美しい墓地で有名な教会です。その中を散策してみました。



 オーエンザルツブルグ要塞へはケーブルカーで結ばれています。


 この要塞が完成したのは17世紀でした。
 当時の大砲や武器庫など戦闘に備えた城の様子が良く保たれています。
 内部には歴代司教の居室や音楽堂など、博物館となっています。第一次世界大戦の様子も良く展示されています。


 高台の城塞の中にはかなり大きな広場や教会などが作られていました。



 城の後ろ側です。



 再び、ケーブルカーで下り、駅まで歩いて帰りました。



 ザルツブルグからミュンヘンに戻りました。長かった旅も今日で終わりです。

  ザルツブルグ 17:13発、 ミュンヘン 19:06到着でした。
  乗車時間は、1時間53分でした。


      

18日目(月曜日) 帰国

 帰りの帰国便はミュンヘン 10:20発 ヘルシンキ到着 13:45 JL6826
 ヘルシンキ発 17:25発 成田到着 09:00  JL414 でした。
 ミュンヘンと成田は ANA 便が直行便を飛ばしています。しかし、JAL便はヘルシンキ経由になります。
 ミュンヘンのラウンジで一休みです。ここには HBのビールがあったので、飲んでみました。



 ヘルシンキでの待ち時間はかなりありましたが、立派なラウンジで、その上、がらがらでした。ここでもお酒を楽しみました。


 無事、成田に予定通り朝9時に到着しました。
 今回は IEEE LMAG Tour への参加でしたが、このようなツアーは初めての経験でした。今までの日本のトラピクスなどのツアーとの違いは、多少、デラックスであること以外は、ほとんど一般のツアーと同じでした。
 家内も外人との会話を下手な英語ですが、まあまあ、楽しんでいました。
 LMAG Tour は毎年開催される予定のようですが、また、行こうと思っています。
 なお、参考までに、費用を書いておきます。二人合計の費用ですが、旅行社への支払い、74万円、航空運賃、27万円。その他、ビジネスホテル代、タクシー代、現地ツアー料金、もろもろの費用が、合計40万円ぐらい。合計140万円ぐらいでした。19日間の旅行ですから、一人70万円は特に高くもなく安くもない感じでした。

 

付録 IEEE LMAG 活動

 LMAG (Life Members Affinitey Group) の主な目的は、会員同士の親睦をはかり、今までの豊富な経験を活かし、若い会員とも積極的に交流し、社会貢献、そして、人類の幸福・繁栄に寄与することを目的とするボランタリー活動団体で、懇親会、講演会、見学会、ニュースレターの発行などを行っております。
 詳しくは、
  
 http://www.ieee-jp.org/section/tokyo/lmag/index.htm
 http://www.ieee-jp.org/section/tokyo/lmag/newsletter/2015/14.pdf
 http://www.ieee-jp.org/section/tokyo/lmag/newsletter/2015/15.pdf
 

 をご覧ください。






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