エンジョイ! スリランカ7日間
2017年2月6日~2月12日
LOOK JTB |
この時期、日本は一番寒く、温かい国に行きたいと思い、まだ行ったことのないスリランカに行くことにしました。
スリランカに関する知識はほとんどありませんが、戦後賠償に関し、最初に請求を放棄したのがスリランカであることは一度習ったことがあります。なお、その後、インドも賠償請求を放棄しています。
スリランカツアーに関して調べてみると、いろいろな旅行社が企画していますが、今回の旅は2名から催行可能であるLOOK JTBを選んでみました。
成田のカウンターで、参加人数を聞いたところ、もう一組のご夫婦もご一緒なので合計4名との事でした。
ウズベキスタンの時は2名だったため一般の乗用車で窮屈な思いをしましたが、今回はゆったりした旅を楽しめそうです。
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スリランカ、コロンボの緯度はほぼ北緯7度で、赤道よりは少し北にあります。
成田からコロンボまでの飛行時間は10時間で、帰りのコロンボから成田間は約8時間10分です。時差は3時間半で、インドと同じ時刻になっています。
現在、成田-コロンボの直行便はスリランカ航空が運航しており、行きは、月、木、土、日の週4便となっています。
緯度から見るとフィリッピンのミンダナオ島とほぼ同じで、ほぼ赤道上にあるシンガポールよりは少し北に位置しています。
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スリランカの面積は九州のほぼ2倍、もしくは北海道の8割程度になります。
人口は2,100万人と人口密度でみると、九州よりわずか低くなっている程度です。
面積で見るとインドの約2%となっています。
スリランカとインドの間にはわずか30㎞程度の狭い海峡、アダムスブリッジがあります。
スリランカは地理的にもインドと深い関係にあります。
インドの空気の汚染度は世界最悪と言われていますが、その影響を受けることはなさそうです。
ただし、旅行で受けた感想では、島の中心部のキャンディや大都市のコロンボの空気汚染度はかなり悪そうでした。
歴史的に見ると、16世紀初め、ポルトガル人がセイロン島のシナモンを求めインドのゴアから侵入して来て、現地の王室との間で幾つもの戦いがあったものの、1658年にはセイロンをほぼ統治下に治めています。
その後もヨーロッパ人による支配が続き、オランダ(1658~1796)、イギリス(1796~1948)の統治下にありました。
第二次世界大戦後の1948年、イギリスから独立し、英連邦に属しています。
現在、スリランカの最大友好国は中国と言われています。
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スリランカの国旗
1948年にセイロンとして独立した時には、15世紀から19世紀にかけてセイロン島中央部に存在したキャンディ王国の旗を基にしたものを採用しました。その旗は、シンハラ族のシンボルである赤地に金のライオンと剣が中央にあるデザインでした。
1951年に緑と橙色の帯が、少数派であるイスラム教徒とヒンドゥー教のタミル人を意味するものとして左側に付加されました。
1972年に国名がセイロンからスリランカに変更された際、多数派の仏教徒を意味するものとして4枚の菩提樹の葉が付加され、1978年にそれが公式に採用されています。
現在の正式国名は「スリランカ民主社会主義共和国」です。 |
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今回訪問した宿泊地を赤丸で示しましたが、訪問地は、かって首都であり、現在も経済の中心地であるコロンボと、島の中心部などでした。
スリランカは多民族国家で、独立後は民族間の争いの歴史でもありました。民族別人口比と宗教別人口比を下に示しました。
(放送大学2012年の講座「現在南アジアの政治」より)
民族別人口比
シンハラ人 74%
スリランカタミル人 12.7% 古くから住んでいたタミル人
インド・タミル人 5.5% (イギリスの植民地時代にインドから渡って来たタミル人
ムーア人 7.1% (言語としてはタミル語、宗教としてはイスラム教)
宗教別人口比
仏教徒 69.3%
ヒンドゥー教徒 15.5%
ムスリム(イスラム教徒) 7.6%
ローマ・カトリック 6.9%
シンハラ人の居住地と仏教徒の居住地はほぼ重なっており、タミル人の居住地とヒンドゥー教徒の居住地はほぼ重なっています。
タミル人の多くは北部と東側の一部に住んでいます。 |
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上の図を拡大したものですが、宿泊地順に番号を付けています。
観光した地域は主にシンハラ人の移住地域ですが、それらの都市には、カトリック教会やイスラム教徒のモスク、ヒンドゥー教徒の神殿など、たくさん見ることが出来ました。
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スリランカの政治と外交
2012年の放送大学の講座の中に「現代南アジアの政治、第13回 スリランカの政治と外交」の講義があり、講師は客員准教授 三輪博樹先生でした。
以下はそれらを含め、スリランカの歴史をまとめたものです。
インドは世界最大の民主的国家と言われているが、スリランカもそれの劣らぬ民主的国家である。
政党政治も活発に行われている。現在、統一国民党とスリランカ自由党の2大政党があり、その他、タミル人によるタミル統一解放線、イーラム人民民主党、タミル国民連合などの少数政党がある。
統一民主党とスリランカ自由党はシンハラ人から支持されている。政党の差は経済問題をどのように運営するかの違いによるものでその違いは小さい。
2大政党はほぼ互角に政権を担当しており、独立後、政権の座にあった通算年数もほぼ同じで、ほぼ交互に政権を取り、政党政治の構造自体は比較的安定している。
独立後の政治は
1947年 憲法が制定され第一回総選挙を実地している
1948年 英連邦内のセイロン自治領として独立
1972年 新憲法を制定しスリランカ共和国と改称している
1978年 スリランカ民主社会主義共和国と改称、大統領制に移行し、ジャワナルデナがそのまま大統領となった。
1982年 第一回、大統領選挙が実施された。スリランカの大統領の権限は非常に強いのが特徴
なお、1951年のサンフランシスコ講和会議では日本の戦後賠償責任を放棄する演説をし、それが流れを大きく変え、現在の日本が存続出来ているとも言われています。もしも流れがソ連などに変わったら日本は幾つもの国の統治下に分割されていた可能性もありました。事実、当時、ドイツは4つの国の統治下に分割されています。
一方、1983年から2008年の間の26年間、シンハラ人とタミル人との間で深刻な内戦状態になったがその歴史を振り返ると
1956年、スリランカ自由党はシンハラ語を公用語にするなど、シンハラ人優遇政策や仏教重視政策を掲げ、選挙で圧勝する。その公約を実行すると国内のタミル人の不満が増大し、シンハラ人とタミル人の対立が激化してゆく。
1976年 政権が仏教徒優遇策を取り始めるとさらにタミル人の不満が増大し、「タミル・イーラム解放の虎」が結成される(タミル過激派とも言われる)
1983年 コロンボを中心に反タミル人大暴動が発生しタミル人に多くの犠牲者が出ると、それを憎んだタミル過激派が勢力を拡大し政府軍とタミル過激派の内戦が勃発する。タミル過激派の戦略は爆弾テロによりシンハラ人を苦しめることでした。
その後、インド軍の介入、ノルウェーの仲介、スリランカ復興開発東京会議など、和平への努力がつづけられるがいずれも失敗する。
1996年1月 中央銀行爆破事件、1000人以上の死傷者を出した。
1998年1月 仏歯寺の前で爆弾が破裂しお寺の破壊や何人もの死者を出した
2001年7月 10機以上の航空機爆破事件
2005年 第5回大統領選挙でスリランカ自由党のマヒンダ・ラージャパクサが当選。大統領はタミル過激派に対し極めて強硬な態度で臨み、これが成功を収め2009年にはタミル過激派の拠点であるスリランカの北部が制圧され、その最高指導者プラバーカラン議長の死亡が確認され内戦は終結した。
内戦を終結させることが出来た最大の理由は、中国が軍事物資を大量にスリランカ政府軍に与えたことによるといわれ、現在もスリランカの最大友好国は中国と言われてる。
ただし、戦闘は終わったものの、人種間の融和が進んだわけではない。
シンハラ人が多数を占めるスリランカでの選挙結果は多数派であるシンハラ人の意向を反映したものとなりやすい。民主的な選挙ではあるものの、その結果はシンハラ人に有利な結果になりやすく、今後とも政治運営には難しさがある。
中国がスリランカとの関係を強化する理由は真珠の首飾り戦略の一環であると思われる
インドは中国の真珠の首飾り戦略にほとんど興味を示していなかったが、最近は中国に対して警戒感を高めている。
などです。 |
以下に今回の旅行内容を示します。
1日目 成田からコロンボへ、その後、宿泊地ネコンボへ移動
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今回利用したスリランカ航空は OneWorld に属しており、そのため、JALのラウンジを使用することが出来ました。
ラウンジでの食事とお酒は楽しみの一つです。
飛行機はUL0455で 出発は11時20分で、コロンボのバンダラナイケ国際空港着は17時50分で、飛行時間は10時間です。 |
スリランカ航空
乗車率はほぼ8割程度でした。座席の間隔の狭いのには驚きました。
座席には シンハラ文字とタミル文字の両方が書かれていました。上がシンハラ文字、下がタミル文字です。
コンボ キャメロット・ビーチ・ホテル
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空港からホテルまでは約30分でした。ほぼ町中を通るので道の両側は商店街になっており、道路はかなり混雑していました。
キリスト教の教会が沿道にたくさん作られていたのには驚きました。
ネコンボはポルトガル人が伝道に力を入れた地点で、住民の多くはキリスト教徒だそうです。
ネコンボは漁業の町として発展し、スリランカ最大の漁港を持っています。
現在はリゾートホテルが次々と建てられスリランカの大きなリゾートエリアとなっています。 |
これから6日間、使用する車は下のような日産車でした。お客用の座席は3列で合計7名のお客が乗れます。
今回は2組のご夫婦なので、毎日、前列と中央の席に交互に利用しました。最後列は空いたままでした。
スリランカのホテルの特徴は、フロントが非常に狭く、対応するホテルマンも一人か二人です。安そうなホテルだと思って中に入ると、かなり豪華でした。 |
2日目 ダンブラの石窟(黄金)寺院観光後、シーギリアのホテルへ
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ホテルの朝食は7時からで出発は8時でした。
今日の観光はダンブラの石窟寺(黄金寺)です。
ネコンボ-ダンブラ間は約140kmで約4時間です。
途中、トイレ休憩のため何度か停まります。
石窟寺観光後、昼食をとりシーギリアのホテルに向かいます。
距離は25㎞、約30分でした。 |
名前の通り、ビーチホテルです。海辺のプールで水浴を楽しみ、ラウンジでゆっくりと食事を楽しむためのホテルのようです。
ブールの周りにはたくさんのカラスが住んでいました。
カラスというと野口雨情の「七つの子」を思い出しました。
烏 なぜ啼くの 烏は山に 可愛七つの 子があるからよ 可愛 可愛と 烏は啼くの 可愛 可愛と 啼くんだよ 山の古巣へ 行って見て御覧 丸い眼をした いい子だよ |
朝食バイキング
マンゴジュースとパパイヤが飲み食べ放題です。これから旅の間、バイキングでは必ずたっぷりとこれらを楽しめました。
食事をしながらプールサイドを見ていると、少年がゴムひもを持っています。周りにいるたくさんのカラスを驚かして近づかないようにしているようです。カラスを打つための玉は持っていないようでした。 |
ホテル前の通りの風景
三輪車がたくさん走っています。市民の足になっているようです。
車の9割ぐらいは古い日本車です。ただしその値段は日本の新車より高いそうです。税金が100%以上もするのだそうです。その代わり、大学まで教育費は無料だそうです.
インドでは道路の清掃状態の悪さに驚きましたが、スリランカでは、どこへ行っても清潔でした。 |
レンガ製造所
ダンブラに行く途中、バスから見た風景です。レンガを作っています。焼く場所がどこかにあるのでしょう。
途中、小さな町を通りました。道角に仏像が作られ、ガラスで覆われています。
さすが南国です。ヤシの木と水田が何処までも続いています。
タンブラへ行くちょうど中間地点に到着です。大きな池のほとりにお茶屋さんがあり、トイレ休憩でした。
マンゴが売られていました。
うれしいことに、朝や昼などのバイキングでは食べ放題なので、毎日おなか一杯食べることが出来ました。
水田が続きます。二毛作が可能だそうです。
岩窟寺院(世界遺産)
ダンブッラの黄金時に到着です。車を降りてから、かなり坂道が続きます。
お猿さんの出迎がありました。
名前の通り、寺は石の山の中に造られています。
入る時には靴を脱ぐ必要があります。靴下はOKです。地面は熱いので履いている必要があります。
寺院は巨大な岩山の中の自然に作られた洞窟の中にあります。また、新しく作れれた建物の中にもありました。
この石窟寺院が最初に造られたのは紀元前1世紀でシンハラ王朝によるものでした。その後、いくつもの王朝により拡大され、色あせた絵はその上に新しい絵が描かれて来ました。 |
合計5つの石窟があり、一番手舞の第一窟から見学です。
第一洞窟 デーワ・ラージャ・ヴィハーラ 神々の王
赤い足をした涅槃仏が部屋の大半を占めています。仏陀の身長は14mもあります。足裏近くには仏陀の弟子の像や立っており、壁にも弟子の絵が描かれています。
黄金時にある幾つもの涅槃仏の中では最大です。 |
第一窟のすぐ脇に、最近作られたと思われるヒンズー教の神を祀った部屋がありました。タミル人はここに来てお参りするのでしょう。 |
第二窟に向かいました。
第2窟 マハー・ラージャ・ヴィハーラ 偉大な王の寺
幅が52mで横長の洞くつで手前の天井が高く奥に行くほど低くなっているので、写真からも内部を想像することが出来ます。全体で56体の仏像があります。ストゥーパも置かれています。
天井からは水滴が常に落ちており、それを受けとめる金網の部屋が作られていました。 |
第2窟を出て第3窟へ向かいます。暑いので蓮の花は年中咲いているのでしょう。
第3窟 マハー・アルト・ヴィハーラ 偉大な新しい寺
18世紀の後半の王、キルティ・スリ・ラージャーハーによって造られた石窟です。
全長9mの涅槃仏をはじめ、合計62体の仏像があります。 |
第4窟 バッツィーマ・ヴィハーラ 西洋の寺
キャンディ王朝末期に造られています。ここにもストゥーパが置かれています。
第5窟 デワナ・アルト・ヴィハーラ
1915年に造られた最も新しいものです。涅槃仏の頭と足の近くにコブラの頭で守られた仏が見守っています。
再び来た道を引き返しました。
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遠くにこれから行くシーギリアロックが見えます。直線距離では約10m先にあります。ただ、空気の透明度が悪く、良く見えません。 |
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昼食はバイキングでした。 |
ホテルに向かう途中、写真撮影のため停車しました。隣には象も居ました。
シーギリアビレッジホテル
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かなり広いホテルでたくさんのロッジがあります。食事はこのロビーに接する食堂でとります。 |
3日目 シーギリアロック登山、仏歯寺観光
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シーギリアロックを登り、その後、スパイスガーデンにより、キャンディ市では仏歯寺や市場を見学します。
シーギリア~キャンディ間は 95㎞、約3時間です、 |
部屋を出て朝食バイキングに出かけました。プールサイドからは今日登るシーギリアの山頂が見えます。
シーギリア博物館
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二階建ての博物館でかなり立派な建物です。内部は写真禁止でした。
この博物館はシーギリアロックの入り口に造られています。
そこにはシーギリアと日本の国旗の銘板があり次のように書かれていました。
博物館展示機材
日本国とスリランカ国との友好と協力の証として日本の国民より贈与されました。
また、別の銘板には、
日本国民の皆様から、有効と親善の証として、スリランカ国民に贈られた壮大な贈り物である。
このシーギリア博物館は2009年7月28日、M.Y.アベイワルダナ文化国家通産大臣、及び P.ウィジェナカヤ文化大臣招待のもと、マヒンダ・ラージャバクサスリランカ民主社会共和国大統領、福田康夫日本国前総理大臣、J.B.デンカコーン地方政府・州評議会大臣、J.B.デンナコーン地方政府・州評議大臣によって開館が宣言された。 |
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博物館の二階にシーギリアロックの天女の像のコピーが作られていました。
シーギリアロックに上る途中で見ることが出来るそうですが、そこは写真禁止なので、ここで写真を撮るようにとガイドさんに言われ、写真に収めました。
優雅なしぐさの美女たち、シーギリア・レディと呼ばれスリランカ美術の最高峰とされます。雲の上に居ることから彼女たちはアプサラと呼ばれる天女だと言われます。 |
いよいよ、今回の旅行のハイライト、シーギリアロック登山です。
もうすでにたくさんの人が並んでいます。
この岩山の頂上に城を築いたのはこの地の王、カッサパ1世(在位477~495)です。カッサパは側室の子であったので王になる継承権がありませんでした。
ところが、今の王に不満を持つ将軍ミガーラがカッサパをそそのかします。軍の後ろ盾を得たカッサパはクーデターを起こし王の座を強引に奪ったのです。父親を捉えて監禁し、王の座を強引に奪い、そして父親を処刑してしまいました。王位継承権を持つ弟がインドに出かけている間の出来事でした。
王になったカッサパは都から離れたこの岩山に宮殿を構えました。岩山の宮殿はカッサパが父親殺しの罪から逃れるために建てたと言われています。その思いが現れている所があります。中腹にあるくぼみ、ここにカッサパが描かせた壁画が残っています。優雅なしぐさの美女たち、シーギリア・レディと呼ばれスリランカ美術の最高峰とされます。
王が最も気を配ったのは防備を固めることでした。インドに居る弟が攻めてくるのを恐れ24時間監視をさせていました。敵が攻めてきたら登道をふさぐ仕組みです。麓の堀が作られ堀の中には無数のワニが放たれ敵が渡れないようにしていました。
弟がインドから大軍を引き連れ襲ってきました。戦力の圧倒的な違いからあっけなく負け、一人敗走し自害します。その後、誰も住まなくなった宮殿は荒れ果て、麓の庭園も密林に埋もれて行きました。
19世紀後半、ここを訪れたイギリス人が偶然岩壁に天女の像を見つけました。さらに20世紀半ば、岩山の麓から水の庭園が発見されます。
1500年ぶりによみがえったシーギリアは一人の王の運命を語り掛けています。
現在、カッサパは大きな罪を犯した王として語り伝えられています。 |
お城を守るお堀です。この水路には無数のワニを飼っていました。
敵が攻めてきたとき、橋を壊し、堀に入ればワニの餌食になるようにしていました。
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今は平凡な池ですが、王にはかって500人の側室がおり、大勢の側室と一緒にここで水遊びをしていたそうです。
ここ水の庭園はアジア最古の庭園の一つです。
庭園には高度な灌漑施設が作られ雨水が高低差を利用し流れて、それにより噴水も作られていました。 |
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いよいよ登山開始です。天井までの段数は1250です。頂上の高さは200mです。
ところどころに見どころがあり、そこでガイドさんがいろいろと説明をするので、結局のところ、休み休み登ることになります。
登りが続きます。なかなか素晴らしい景色です。
ここまでくると険しい岩山が見えてきました。
今は観光者が容易に登れるよう鉄の階段が作られていますが、当時は別の険しい道だったそうです。
ここでまずは一休みです。大森林地帯の中に立つ岩山であることがわかります。
円柱の階段が作られていました。これを登ると天女の壁画があるところに行くことが出来ます。
天女の壁画を見終わると再び下り線用のらせん階段を下りてゆきます。
天女の像は写真禁止でした。博物館で見たコピーに比べ多少色は褪せていました。2つの横長の壁があり、それらに絵が描かれていました。 |
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らせん階段を下り終えると、再び、上り口と同じところに出ます。 |
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左側の人工の壁は、この宮殿が作られた当初からあるものです。
右の壁には無数の天女が描かれていました。左側の人工の壁には蜂蜜と卵白が塗りこまれ、鏡のようになっていました。、
王がこの道を通る時、壁には天女に囲まれた王の姿が写ります。まるで天の神のようでした。
王は自らが神になることで罪から逃れようとしたのでしょうか。カッサパは神になって天国と同じような生活をしようと思ったのです。
すなわち、高いところに住んで自分が天国の神であることを信じ込もうとしたのです。
しかしむくいは免れませんでした。弟の戦いに敗れたカッサパは自害、空中宮殿はわずか18年でその歴史を終えました。
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一休みしながら大森林を見晴らします。かなり平らです。岩山の頂上の標高はわずか200mですから、スリランカの中央付近にあるにもかかわらず、その標高は低いようです。
なお、私の腕時計についている高度測定によると、上り始めた所の標高は150mで、頂上の標高は250mでした。従って、1250の階段により、100m登ったことになります。 |
ここからは下りの階段も作られていました。帰りはそこを通ることになります。確かにここまでは一方通行で下りてくる人はおりませんでした。 |
とうとう中腹の広場に到着です。上に登る階段は鋭いライオンの足で挟まれています。昔はこの階段の上にライオンの顔があったそうです。スリランカの国旗にも描かれていますが、ライオンはシンハラ王朝のシンボルでした。ライオンの上に宮殿が立っていることで王の威厳が高くなると考えたようです。
ここでも一休みです。ここから登り始めると、頂上まで休むところがありません。狭い階段なので、休んでいると後ろから来る人に迷惑をかけてしまいます。
なお、この鉄の階段も観光客のために造られたもので、かっては別の道を使用していました。 |
さほど遠くないところにも同じ高さの山があります。大きな岩もあり、たくさんの人が登っているようです。
とうとう頂上に到着です。登り始めてからちょうど1時間でした。休まずに上ると30分と書かれていましたから、かなりゆっくりと登ったことになります。
なお、今日は天候も最高で、汗をかくこともありませんでしたが、雨や強風の時は大変だそうです。そのような天候の時でも折角来たのだからと登る人も多いのですが、途中で転び骨折し、今も入院している日本人がいるそうです。
かっては、この岩山の端から端まで木造の宮殿が作られていました。よくもこのようなところまで建築材料を運び上げたと思うと驚きです。
縄などを使って吊し上げたとも考えられますが、建設中の作業者は命懸けだったでしょう。 |
水浴場
大きな池は王が水浴びを楽しむ王の沐浴場でした。岩山の頂上にありますが常に水が満ちていたと言われたいます。
当時、岩山の麓から頂上のこの池まで水をくみ上げていたと思われています。ただし、どうやって汲み上げていかのかまだ解明されてはいないようです。 |
王の謁見椅子
池の脇に王の謁見の椅子が作られています。
帰りは再び同じ道を下ります。一方通行になっている階段もあれば、上り下り同じ階段を使うところもあります。
ここからは登って来た時とは違う道を通り下ります。一方通行です。名前を付けられたいろいろな岩があります。
昼食バイキング
ここでもパパイヤが食べ放題でした。
スパイスガーデン
香料の原料となる木がたくさん植えられていて、説明員による解説がありました。日本語でした。
キャンディに向かう時、車の中から撮った写真です。こちらでは朝夕の寒さを防ぐため、シンハラ人も上下とも真っ白なカーデガンを着るのが制服だそうです。 |
聖地キャンディに到着です。ここは世界遺産になっています。
人口11万のキャンディ市にはおよそ 5千500人のタミル人が住んでいます。仏歯寺が爆弾テロのより破壊されて以来、タミル人は冷たい目で見られるようになり、内戦以前はシンハラ人とタミル人の結婚は当たり前でしたが、その後はほとんどなくなったそうです。
また、ここに暮らすタミル人は、仕事ではシンハラ語を話せないと生活できないので、両方の言葉を話すことが出来るそうですが、家庭内ではタミル語を使うようです。 |
仏歯寺
この近くに車を停め、仏歯寺の見学です。ガイドさんがここでたくさんお供えのための花を買いました。私たちも備えるためです。
仏歯寺はかなり高い建物になっています。日本では寺と呼んでいますが、基本的には宮殿です。 |
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ここで靴を脱ぎ、男女別の部屋で金属探知機を通り、ボディチェックを受けて寺に入ります。 |
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仏歯寺へは小さなトンネルをくぐって入ってゆきます。
この梵鐘は日本から贈られたものだそうです。
いよいよ内部の見学です。
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爆破事件により壊された絵が飾られていました。
爆弾テロは1998年1月25日午前6時でした。 |
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仏歯堂
この建物の上階には仏歯が強化ガラスで覆われた黄金の宝石の容器(仏舎利容器)に保管されています。特別な日のみ見ることが可能だそうです。
紀元前543年、ブッダをインドで火葬した際、仏歯が取り出されました。その後4世紀にインドのカリンガの王子が頭髪の中に仏歯を隠してセイロンに持ち込み、アヌラーダプラに奉納されました。その後、都が移るたびに一緒に運ばれ、1590年、キャンディに落ち着きました。
お釈迦様は8万4千回もの説教を行い、その説教はこの歯に直接触れているので、極めて重要な宝だそうです。以来、歴代の王は国を治める権威としてこの容器を大切に保管してきました。また、仏歯を持つものが正当な王位継承者と言われ、その所有権を争って権力者たちが争っても来た歴史があります。
仏舎利容器はモニター画面に映し出されていました。
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この建物の上の階に仏歯があるそうです。
新しく仏像のための部屋が作られていました。
各国から贈られた仏像がここに飾られていました。日本からの仏像もありました。
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仏像の反対側には釈迦説法の様子の絵と仏像が飾られています。 |
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再び橋を渡り別な部屋の見学です。
ヒンズー教神殿
広い広場の中にストゥーパが作れていましたが、タミル人のためのヒンドゥー教神殿も作られていました。
再び靴を履き、仏歯寺の見学は終了です。
キャンディアン・ダンス
キャンディを中心にして広がる民族ダンスで、全体には物語があるのだそうです。
ファイアーダンス
キャンディアン・ダンスが終わると全員が外に出てファイアーショーの見学です。
宿泊ホテル
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ホテルの名前は Hotel Tree of Lifeです。
ホテルはかなり山の中にあります。
部屋の中でもWiFiが使用できました。
夕食に行くと、予約席には私の名前が書かれたお皿がありました。
ちょっとその字に触ってみると簡単に消えてしまいました。 |
4日目 ヌワラエリアの好茶畑や紅茶工場の見学
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キャンディからヌワラエリア間はわずか75㎞で車では約2時間30分です。
紅茶工場は左の地図の赤ピン印の場所にあります。
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泊まったホテルは山の中の静かな所でした。
キャンディ、レーク・ビュー・ポイント
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キャンディ市を見下ろすことが出来るビュー・ポイントです。
池の向こうに仏歯寺があり、池の中には四角の島が作られています。
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ヌワラエリアに向かう途中、道端にはいろいろな果物売り家があり、ドラゴンフルーツを売っていました。
自宅の前の木に、この実がなっており、それをもぎ取って売っているようです。4人で1個買い、分け合って食べました。
初めての味でした。
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紅茶畑が続き、紅茶工場に到着です。
紅茶工場はティールームやお茶の売店もあり、見学では案内者が居て英語で案内してくれました。昼食もここでとりました。
紅茶と言えば、日本ではセイロン茶が有名ですが、スリランカで生産される紅茶の90%以上が輸出されているそうです。
世界的に見ると生産量に関しては、中国(35%)、インド(20%)、ケニア(8%)、スリランカ(7%)、トルコ(5%)、ベトナム(5%)と続き世界第4位ですが、インドのわずか2%程度の面積にも関わらず、第4であり、まさに紅茶王国であることがわかります。
もともと緑茶も紅茶も同じお茶の木から作られますが、蒸してもみ乾燥させたのが緑茶で、蒸さずに発酵させると紅茶になります。
世界最高輸出国ケニアの紅茶の価格は100g 平均30円ですが、日本の緑茶は100g 2,000円以上の高値が付く場合もあるそうです。ただし、蒸す技術が鍵となり、緑茶の価格は製造技術に大きく左右されるそうです。 |
ベランダから見た風景です。今年は水不足で大変だとガイドさんが嘆いていました。
稲を育てる段々畑が広がっていました。たき火がこの辺一帯の空気を悪くしているようです。日本なら観光名所になりそうな大きな滝が見えます。 |
ヌワラ・エリア市 Nuwara Eliya
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ヌワラ・エリアはシンハラ語で、ヌワラは町を意味し、エリアは日差しを意味するそうです。
紅茶の産地としても有名ですが、イギリスの植民地時代には避暑地として栄え、当時のイギリス風の建物がたくさん残っています。
ゴルフ場も市内の中央部にあります。
平均気温は16℃で、夜は10℃以下になります。
周辺は一面、紅茶畑ですが、紅茶の品質、値段はおもに生産される標高によって決まり、高地になるほど高いそうです。
空気がきれいな為でしょうか。
近くにスリランカの最高峰のピドゥルタラーガラ山があり、比較的大きな湖もあります。 |
バザール見学
観光客も訪れますが、主にこの地に住む人のためのバザールです。果物の多さには驚きです。
湖があり、その周辺を少し歩いてみました。
ホテル Galway Forest Lodge
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町の中心から少し離れたところにあるロッジです。
今までのホテルの中では最も質素な造りでした。
ホテルの時計を見ると、現地以外はすべてヨーロッパでした。
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夕食まで時間があったので約1時間程度散歩してみました。
たくさんの農家が狭い面積の畑を分け合っています。その分、畑はかなり丁寧に作られ、日本のビニルハウスのようです。いずれの農家も野菜を栽培し町に出荷しているようです。
この周辺の住民は観光客に慣れているようです。家内が歩いている少女達が寄ってきて何か話をかけています。家内は日本の折り紙を教え始めました。少女たちはとても折り紙に興味を持ち、自分でも折り紙で鶴を作れるようになったようです。
さらに歩いていると、現地のおばさんが声をかけてきたので、一緒に写真を撮りました。
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だいぶ汚れていますが、看板が立っていました。読んでみると
ヌワラエリアの水道設備は2003年、日本の援助によって造られたと書かれていました。 |
夕食時にビールを注文したところ、コロナビールしか置いていないとの事、飲んでみましたが、ビールとはとても言えないような変わった味でした。 |
5日目 象の孤児院とコロンボ市内の見学
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今日はヌワラエリアから坂を下り、一昨日観光したキャンディ市を通り、コロンボまで行きます。途中、ビンナワラにある象の孤児院を見学します
ビンナワラは左の地図の赤ピンの所にあります。
ヌワラエリヤ~ビンナワラは110㎞で約3時間かかります。
ビンナワラ~コロンボは80㎞で約2時間30分です。
コロンボ到着後は市内の観光です。
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ホテルを出て坂を下り始めると、遠くに海のような青い景色が見えてきました。下界の空気はかなり悪そうです。
方向から見るとキャンディの方ですが、キャンディ市はここから20㎞も離れているのでその前から空気が悪くなるようです。確かに下界では焚火などによりかなりの煙が出ていたのを思い出しました。
日本で登山をした時、よく雲海を見下ろしたことがありますが、このような青い帯は見たことがありません。ただし、同じような青い帯をハワイのマウイ島で見たことがあります。ガイドさんに聞くと、風が吹けばこれらは無くなるそうです。
標高が低くなるほど紅茶の品質が悪くなるとのことですがこれら空気の悪さもその一因かも知れません。
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バスはヌワラエリアから昨日寄った紅茶工場まで徐々に標高を下げて行きます。これらの写真は車内から撮ったものですが、空気がだんだん悪くなってゆくのがわかります。標高が下がるとお茶畑が減り稲作のための段々畑が多くなるようです。
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アボカド売り
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アボカドが売られていました。
果物のバターとも言われ、我が家でも家内が良くスーバーで買ってきます。家の近くのスーパーで買ったアボカドは黒茶色でメキシコ産でした。 |
お茶畑の広さには本当に驚きです。日本ではお茶の葉を機械で切りますが、スリランカではすべて手摘みだそうです。高低差のある山肌のお茶の木に向かい一日8時間、立ちっぱなしで摘むのだそうですが、大変な重労働です
ここはまだ高地ですが、セイロン茶の6割は平地で作られているそうです。
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そろそろ、象の孤児院の近くまで来ました。バスが道端に停まりました。コウモリがいるのだそうです。
コウモリは通常洞窟などに住んでいるのですが、ここのコウモリは木にとまって眠っていました。かなり大きなコウモリです。 |
今度はヤシの実を売っているところに停まりました。一つ買って味を見てみました。ヤシの実の中には甘い水がたっぷりと入っていました。
島崎藤村の詩、「椰子の実」を思い出しました。 |
ハリネズミ
今度はハリネスミの近くに停車しました。チップを払って写真を撮りました。かなりの大きさですが、おとなしいようです。
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ハリネズミの針を売っています。1本10USドルだそうです。
飾りにするのでしょうか。 |
象の孤児院観光
水浴する象
レストラン
先ほど見た水浴する象の近くにあるレストランです。ここで昼食ですがバイキングでした。
町にはたくさんの象のお土産さんがあります。
象の糞を巧みに利用し、紙にしたり土産品に加工したりしています。
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シーギリアロックの王宮の建築風景だそうです。
宮殿を作るためにたくさんの人が働いています。
象もその建築に駆り出されています。 |
コロンボに到着
コロンボはスリランカ最大の都市で、経済の中心地です。都市圏の人口は約250万人です。
さすが市内には信号機があります。今までほとんど見たことがありませんでした。
遠くに建設中のテレビ塔が見えます。スモッグの酷さも相当のようです。これではテレビ塔の展望台に上っても見晴らしは悪そうです。しかし北京のスモッグよりはだいぶ良さそうです。
かって、東京の空もこのようでしたが、ディーゼル車の排煙規制などによりすっかりきれいになりました。経済発展中のコロンボにはたくさんのディーゼル車が走っており、今後ますますひどくなることが予想されます。
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バンダーラナーヤカ記念国際会議場
コロンビアではたくさんの国際会議が開かれているそうです。
この会議場は中国からの寄贈にによるものです。
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英国から自治領セイロンとして独立したのを記念として、1948年2月4日に建てられた独立記念ホールです。独立運動を先導した初代大統領ドンスティーブンセナナヤカの像が建てられています。原形はキャンディにある集会所だそうです。 |
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コロニアル建築の旧国会議事堂で今は市役所になっています。
市内の風景です。 スーパーに付属したファーストフード店に入ってみました。日本よりはだい安そうです。
海辺の散策
ホテルに行く前に海岸を散策しました。今日は満月の為、休日なのでたくさんの人が海岸で楽しんでいました。毎月満月の日は休日になるのだそうです。
凧揚げやクリケットなどなども見られました。 |
夕食
コロンボでも最高級のレストラン「パラダイス・ザ・ギャラリー・カフェ」です。確かに高級感のあるレストランです。ただし、食事するところはあまりにも暗く、虫が入ってきても分かりません。
今日は満月なのでコロンビアにとっては特別の日で休日です。満月の為お酒は飲めないのだそうです。そのため、このレストランでもお酒は出してくれませんでした。なお、ホテルにゆくと、冷蔵庫の中には各種のお酒が置かれていました。自宅で飲むのは自由だそうです。 |
6日目 コロンボ市内観光後空港へ、その後成田へ
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午前中は市内自由散策です。その後、昼食はシーフード店、紅茶喫茶店、市内観光などをして、空港に向かいます。
空港は工事中の為非常の混雑するので出発の5時間前には空港に来るようにとスリランカの空港に到着時にアナウンスがありましたが、ガイドさんはそのようなことはないので大丈夫だと言っており、出発の3時間半ぐらい前に空港に到着でした。
そこでガイドさんとはお別れし、後はすべて自分ですることになります。 |
食堂はホテルの5階です。ベランダで食べていたら、カラスが私たちの食事を狙っていました。
ホテルは Colombo City Hotel で、どちらかというとビジネスホテルに類しています。
中央は吹き抜けになっています。安倍首相とトランプ大統領がマイアミでゴルフを楽しんでいるのがニュースになっていました。 |
午前中は自由時間なので、市内を歩いてみました。ガイドさんによれば、昨日行った海岸付近は道路が簡単で迷わないが、町中に入ると迷路の用で迷いやすいですよと言われ、海岸の散歩をしてみました。
ビルやテレビ塔、港湾施設など建設中でしたがすべて中国企業がしているのだそうです。
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大統領府です。
首都は1985年にコロンボ近くのスリー・ジャヤワルダナブラに移動したが、そこに国会議事堂が作られ以外はほとんど前の状態だそうです。
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コロンボ鉄道駅
スリランカを代表する紅茶メーカー、ディルマのティーサロン「t-ラウンジ」での紅茶テーストです。
種類がたくさんあり、どれが好きかと言われましたが、全く分かりません。紅茶を急須に入れ、3分間待った後、紅茶を入れた網を取り出し、紅茶をコップに注いで飲みます。
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コロンボのバンダラナイケ国際空港は混雑していると言われていましたが、そのようなことは全くありませんでした。通常通りチェックインし、スリランカ航空のラウンジで一休みです。ここでもまた、ビール、ワインを楽しみました。
成田への飛行便はUL0454で、出発は19時50分、成田到着は翌日の午前7時30分で、飛行時間は8時間10分でした。
乗車率はほぼ100%でした。 |
ほとんど何も知らなかったスリランカに関し、今回の旅である程度知ることが出来ました。多数民族が少数民族に対して差別する行為は、民族間の憎しみを増やし、取り返せないほどの長期間の摩擦を生み出すことも学びましたが、何か現在のあの国の民族問題が心配になります。
しかし、今回に短い旅行では、民族間の問題に関して直接感じることはありませんでした。一般に内戦は終結したと言われていますが、そのしこりはこれからもなかなか消えないのでしょう。
1951年9月開催されたサンフランシスコ平和会議で、日本への賠償責任を放棄するジャヤワルデネ代表の演説、「憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む」と述べたのは有名です。ただし、現地の日本語ガイドさんは、案内した日本人でこのことを知っている人はほとんどいないのが残念だと話していました。
日本はこの恩に報いるため、多大な援助を行ってきましたが、最近は中国からの援助の方が多くなり、中国を最友好国だと多くの国民は思っているようです。
このところ、世界各国で民族問題が浮上し、いがみ合いが強くなって来ていますが、人類が英知を出し合い解決する必要があります。
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